2006-08-15 07:43:19
聖母の被昇天
ルカ1・39-56
【聖母マリア】
マリアは生涯をキリストと共に歩み、いつも、苦難の時も、絶えずもっとも近くあずかり、キリストの救いの業の始めから終わりまで、思いと行動を共にしていました。イエス様は死を克服し、復活し、天に挙げられたのですが、今度はこのキリストにマリアも似たものとなって、イエスと共にあるのが当然の報いということになります。マリアが死んだ後は、霊も体も共にイエス様から一時も離れず、共にいるのは当然のことだからです。
また原罪に、また生涯にわたってあらゆる罪に勝利したマリアは、罪の結果である肉体の死に対しても勝利し、栄光を受けるはずで、マリアの救いは確実だからです。
それで普通の人のように、世の終わり、最後の審判の日を待つまでもなく、マリア様の場合、この世の肉体における生を全うしたすぐ後に、どの他の人間よりも早く、時間的に先に、亡くなってすぐ体の復活、イエスと同じ栄光の体を身に帯びることができ、天にあげられた。そのことを祝っているのです。
【人間の代表】
但しこの被昇天は、すべての人間について起こり得ることです。と言うのは世の終わりに、すべての人間は霊魂と共に体も復活し、罪の浄めを受けた後、天にあげられ、天国に迎え入れられ、天の栄光に入ることになります。だから、被昇天はマリアのみの特権ではありません。
私たちも、死んですぐと言うわけではなくても、神から離れずに生活するなら、終わりの日に、同じように体ごと復活し、天に引き上げられることになるわけです。
(「無原罪」のように「神の母」になるものとして、マリアのみに与えられた特別の恵みとは意味が異なる)
【マリア・神の婢 はしため】
今日の福音で読まれたマリア、無原罪の特権を与えられ、神の母となったほどのマリアの生き方の特徴。それは徹底的に、神の僕として小さく生きたことにあります。
いわゆる世間で偉大な人は、時に不正な手段でよい席を奪って、隣人を踏み台にし、人や組織の富を奪って自分自身を肥やし、精神的に、時に物理的にも人を殺すことさえしかねないものです。だから時に権力をもっていることも犯罪と悪行の結果であることがあります。そのような人が最高権力の座にあるとき、自分の利益のため戦争さえ引き起こしかねないことになります。しかしまた自分の犯した悪が大きければ大きいほど、恐怖に囚われ、裏切りにおびえ、自分の家族や親族さえ信じられず、恐れと孤独の内に亡くなっていく。これもよくある歴史的な事実です。
マリア様はこれに対し、善良さ、正直、慈悲、愛の内に生きました。その生涯は外から見て、決して楽なものではありませんでした。神の子を宿した時には、婚約者ヨセフに疑われ、石打ちにされることも覚悟したでしょう。馬小屋で神の子を産まざるを得ず、幼い子供を抱え知らないエジプトで避難民として貧しく過ごしました。ヨセフとの早い死別や、わが子イエスのむごただしい死……。しかしそれでも神に従うことで、欲望の奴隷としての惨めな生活から解放され、もっと自由に、安心と信頼の心で、誇り高く生きることができたのです。そしてすべてを得て、永遠の冠・栄光を受けることができました。これこそ無原罪であり、被昇天の恵みを受けるにふさわしい生き方です。私たちキリスト信者もこのマリアに倣って、生きていくのです。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_040.htm
死者 (お盆、泉南91)
今日は終戦の記念日でもあります。戦争でたくさんの人々が死んだ。
不幸に亡くなった人のために、どのように供養してあげたらいいのか、教会にも死者のための供養がありますかと聞かれたことがあっります。「供養」ということばの意味もさまざまでしょうが、成仏(ジョウブツ)しきれずにさまよっている霊を慰めるということになると思います。
教会では、亡くなった方々は今どういう状態にあるのかを知るよしもありませんと言うことになっています。一人ひとりの生涯と、心に秘めた思いをご存じなのは、ただ神様おひとりですから、私たちはただ神の慈しみ深いみ手に、亡くなった人をお委ねするよりほかありません。でも、亡くなった先祖や家族の人々のことを大切にするのはとても美しい習慣だとおもいます。これはキリスト教的にもおおに奨励(ショウレイ)すべきことです。キリスト教では、すでにこの世を去った人も、まだ世に在る人も、神の一つの家族として時間と空間を越えて結ばれていること、神において互いに交わり、神のいのちをともにし、恵みを分かちあったり、助け合ったりすることを信じて、これを「生徒の交わり」と呼んでいます。とくにカトリック教会で、聖母マリアをはじめ諸聖人たちへの尊敬を大切にしているのは、その理由です。これは、お盆に行なわれるさまざまな習慣の心につながると思います。
実は、死者の冥福のために祈るという教会の伝統的な信心は、本当に深い意味を持っています。今私たちが生きていることと、明治や大正時代の人たちと、どう関係するのか考えてみたことがありますか。その時代の人たちの苦労や、つらい労働が、今の私たちを生かすことに、大きな働きがあったのです。ですから、明治・大正時代に生きてきた、まったくしらない人であっても、今の私たちと、深いかかわりがあるのです。その人たちのためにも、キリスト信者はお祈りします。それは、神様を通して、感謝するためです。そしてその人たちが、神様のもとで、安らかにやすめるように、報いられるようにと、お祈りするとともに、私たちもいつかその人たちと出会えるようにと希望をあらわすわけです。私たちは、未来のことを前向きにとらえ、死後の世界に対しても希望をもつことのできるオプティミストであるか、あるいは未来を否定して、すべては死によって無に帰すると考えるペシミストであるかによって、特に中年期からの人生は大きく左右されます。私たちはどちらのタイプといえば、やはり「ぜひ天国に行きたいな」というタイプでありたいですね!誰しも、いつかは、必ず死ななければならない、この大前提に立って、今まで大切だと思ってきた物事が、本当に価値あるものかどうかを考え直すきっかけが与えられます。もし死がすべての終わりで、もう愛する者と再び会うことがないということなら、人生のさまざまの苦労や犠牲は本当に慰めのないものだろう。(たとえすべては滅びるのだという諦観(テイカン)に達したとしても結果は同じです)キリスト教も死別についてこのようにしか考えられないでしょうか、そうではない、イエススは十字架上で死んでから、三日目に復活され、弟子たち会われたのです。これが復活の事実です。主イエスが復活したのだから、私たちも必ず復活すると言ったのはイエス様ご自身でした。私たちは人生において愛する人を失うときにも「また会う日まで」と歌うように、主イエスのうちに慰めと力を見いだすのではありませんか?
ルカ1・39-56
【聖母マリア】
マリアは生涯をキリストと共に歩み、いつも、苦難の時も、絶えずもっとも近くあずかり、キリストの救いの業の始めから終わりまで、思いと行動を共にしていました。イエス様は死を克服し、復活し、天に挙げられたのですが、今度はこのキリストにマリアも似たものとなって、イエスと共にあるのが当然の報いということになります。マリアが死んだ後は、霊も体も共にイエス様から一時も離れず、共にいるのは当然のことだからです。
また原罪に、また生涯にわたってあらゆる罪に勝利したマリアは、罪の結果である肉体の死に対しても勝利し、栄光を受けるはずで、マリアの救いは確実だからです。
それで普通の人のように、世の終わり、最後の審判の日を待つまでもなく、マリア様の場合、この世の肉体における生を全うしたすぐ後に、どの他の人間よりも早く、時間的に先に、亡くなってすぐ体の復活、イエスと同じ栄光の体を身に帯びることができ、天にあげられた。そのことを祝っているのです。
【人間の代表】
但しこの被昇天は、すべての人間について起こり得ることです。と言うのは世の終わりに、すべての人間は霊魂と共に体も復活し、罪の浄めを受けた後、天にあげられ、天国に迎え入れられ、天の栄光に入ることになります。だから、被昇天はマリアのみの特権ではありません。
私たちも、死んですぐと言うわけではなくても、神から離れずに生活するなら、終わりの日に、同じように体ごと復活し、天に引き上げられることになるわけです。
(「無原罪」のように「神の母」になるものとして、マリアのみに与えられた特別の恵みとは意味が異なる)
【マリア・神の婢 はしため】
今日の福音で読まれたマリア、無原罪の特権を与えられ、神の母となったほどのマリアの生き方の特徴。それは徹底的に、神の僕として小さく生きたことにあります。
いわゆる世間で偉大な人は、時に不正な手段でよい席を奪って、隣人を踏み台にし、人や組織の富を奪って自分自身を肥やし、精神的に、時に物理的にも人を殺すことさえしかねないものです。だから時に権力をもっていることも犯罪と悪行の結果であることがあります。そのような人が最高権力の座にあるとき、自分の利益のため戦争さえ引き起こしかねないことになります。しかしまた自分の犯した悪が大きければ大きいほど、恐怖に囚われ、裏切りにおびえ、自分の家族や親族さえ信じられず、恐れと孤独の内に亡くなっていく。これもよくある歴史的な事実です。
マリア様はこれに対し、善良さ、正直、慈悲、愛の内に生きました。その生涯は外から見て、決して楽なものではありませんでした。神の子を宿した時には、婚約者ヨセフに疑われ、石打ちにされることも覚悟したでしょう。馬小屋で神の子を産まざるを得ず、幼い子供を抱え知らないエジプトで避難民として貧しく過ごしました。ヨセフとの早い死別や、わが子イエスのむごただしい死……。しかしそれでも神に従うことで、欲望の奴隷としての惨めな生活から解放され、もっと自由に、安心と信頼の心で、誇り高く生きることができたのです。そしてすべてを得て、永遠の冠・栄光を受けることができました。これこそ無原罪であり、被昇天の恵みを受けるにふさわしい生き方です。私たちキリスト信者もこのマリアに倣って、生きていくのです。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_040.htm
死者 (お盆、泉南91)
今日は終戦の記念日でもあります。戦争でたくさんの人々が死んだ。
不幸に亡くなった人のために、どのように供養してあげたらいいのか、教会にも死者のための供養がありますかと聞かれたことがあっります。「供養」ということばの意味もさまざまでしょうが、成仏(ジョウブツ)しきれずにさまよっている霊を慰めるということになると思います。
教会では、亡くなった方々は今どういう状態にあるのかを知るよしもありませんと言うことになっています。一人ひとりの生涯と、心に秘めた思いをご存じなのは、ただ神様おひとりですから、私たちはただ神の慈しみ深いみ手に、亡くなった人をお委ねするよりほかありません。でも、亡くなった先祖や家族の人々のことを大切にするのはとても美しい習慣だとおもいます。これはキリスト教的にもおおに奨励(ショウレイ)すべきことです。キリスト教では、すでにこの世を去った人も、まだ世に在る人も、神の一つの家族として時間と空間を越えて結ばれていること、神において互いに交わり、神のいのちをともにし、恵みを分かちあったり、助け合ったりすることを信じて、これを「生徒の交わり」と呼んでいます。とくにカトリック教会で、聖母マリアをはじめ諸聖人たちへの尊敬を大切にしているのは、その理由です。これは、お盆に行なわれるさまざまな習慣の心につながると思います。
実は、死者の冥福のために祈るという教会の伝統的な信心は、本当に深い意味を持っています。今私たちが生きていることと、明治や大正時代の人たちと、どう関係するのか考えてみたことがありますか。その時代の人たちの苦労や、つらい労働が、今の私たちを生かすことに、大きな働きがあったのです。ですから、明治・大正時代に生きてきた、まったくしらない人であっても、今の私たちと、深いかかわりがあるのです。その人たちのためにも、キリスト信者はお祈りします。それは、神様を通して、感謝するためです。そしてその人たちが、神様のもとで、安らかにやすめるように、報いられるようにと、お祈りするとともに、私たちもいつかその人たちと出会えるようにと希望をあらわすわけです。私たちは、未来のことを前向きにとらえ、死後の世界に対しても希望をもつことのできるオプティミストであるか、あるいは未来を否定して、すべては死によって無に帰すると考えるペシミストであるかによって、特に中年期からの人生は大きく左右されます。私たちはどちらのタイプといえば、やはり「ぜひ天国に行きたいな」というタイプでありたいですね!誰しも、いつかは、必ず死ななければならない、この大前提に立って、今まで大切だと思ってきた物事が、本当に価値あるものかどうかを考え直すきっかけが与えられます。もし死がすべての終わりで、もう愛する者と再び会うことがないということなら、人生のさまざまの苦労や犠牲は本当に慰めのないものだろう。(たとえすべては滅びるのだという諦観(テイカン)に達したとしても結果は同じです)キリスト教も死別についてこのようにしか考えられないでしょうか、そうではない、イエススは十字架上で死んでから、三日目に復活され、弟子たち会われたのです。これが復活の事実です。主イエスが復活したのだから、私たちも必ず復活すると言ったのはイエス様ご自身でした。私たちは人生において愛する人を失うときにも「また会う日まで」と歌うように、主イエスのうちに慰めと力を見いだすのではありませんか?
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神の母の眠り
ロシア・イコン
個人蔵 16世紀
聖母の被昇天の祭日に、イコン伝統の「神の母の眠り」を観賞することはとても意味深い。なによりも、死の床に横たわるマリアのところにキリストが立ち、その魂と体を意味する白い小さなマリアを手に抱えているという描き方のうちに、マリアの生涯の完成のイメージが、厳かに、かつ愛らしく表現されているからである。以下、事典的な確認になるが、重要なことなので記しておこう(この日の『聖書と典礼』8ページでも簡単に紹介している)。「被昇天」と訳されるラテン語はアスンプシオで、文字どおりには「取り上げられること」を意味する。ここから、生涯を終えたマリアが神によって受け入れられ、神のもとに上げられたことをいうことになり、その意味で、天に上げられたこと、つまり被昇天と訳されている。
聖母の被昇天の祭日としての起源は東方にある。東方教会では8月15日に、マリアが死の眠りについたことを記念する祝日があった。御眠りはギリシア語で「コイメーシス」という。しかし、マリアが死の眠りに就くことは、すなわち、神に全面的に受け入れられたという理解のもと、神に「取り上げられること」を意味する「アナレープシス」というギリシア語で表されるようになった。この祝日が西方に入ってきたときに、当初は、死の眠り(就寝)を指すラテン語の「ドルミティオ」で呼ばれていた。やがて、天に上げられたことを指す「アナレープシス」との名称と理解が伝わってくると、そのラテン語として「アスンプシオ」と呼ばれるようになり、現代に至る。1950年にマリアの被昇天が信ずべき事柄つまり教理として宣言されたときに明確化されたのは、マリアが体も魂もともに天の栄光に上げられたという点にあった。「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、体も魂も、ともに天の栄光に上げられました」と、この日の集会祈願が告げる通りである。
このような経緯をもつ祭日であるので、やはり「神の母の眠り」のイコンは、重要である。このようなタイプの聖画像が登場したのは11世紀頃で、すでに、臨終の床に横たわるマリア、マリアの魂を取り上げるキリスト、周りの使徒たち、天使たちという基本型が定着する。後には、さらにキリストの頭上に天にあげられつつあるマリアの姿が描かれるものも出てくる。
きょうのイコンの場合は、全体が背景の色も含めて、神の栄光のイメージである金色で満ちているところが天上の次元、神の次元の趣として印象深い。キリストの姿の光背は、緑色の濃淡を伴って幾重にも深まっていく。そこにキリストの神秘が現されていると言えよう。キリストの頭上にいるのは、イザヤ6章などで「聖なるかな」と神を賛美するセラフィムであって、これもキリストのいる次元の聖性を強調している。
床にいて既に死んでいるマリアの姿は、白い布の上でくっきりと目立たされる。その同じ白がイエスに抱かれる小さなマリアの姿になっている。ここから、この白のうちにキリストとともに生きた母の死と復活、地上の命の終焉と、天上の命の始まりが含蓄されていることに気づかされる。眠りの床にいるマリアの頭のほうにいる使徒たちの一番手前にいるのがペトロ(献香をしている)、足元で身をかがめているのがパウロ(頭が特徴的)であろう。他の使徒たちも集う一群の背後には、十字架の模様が入ったオモフォリオン(肩衣)をまとった主教たちもおり、後ろには女性たちがいる。その姿勢と表情は、マリアへの深い敬愛の気持ちであふれている。われわれもそれを眺めているだけで、聖母への崇敬へと引き込まれる。
構図全体を通して、人間の次元が横(水平のライン)、神の次元が縦(垂直のライン)で交わっている。また背景には建物で示される地上の世界の真ん中に、神の次元(キリストの光背に包まれる姿)が、その中に突如、現出しているようでもある。ここにも、いつもともにいるキリストの神秘がある。このような神と人、天と地の交わる光景に、イコンのもつ深みがある。
奉献文の取り次ぎの祈りのところで常に筆頭に名を告げられるマリアは、今、天上の教会の中心にいる。そのマリアの天におけるいのちの始まりを祝う、被昇天の祭日は、聖母を自らの目指す姿として仰ぐ教会(『教会憲章』53参照)、すなわち我々の生き方を顧み、黙想する日となる。きょうの聖書朗読=第1朗読の黙示録(11・19a 、12・1-6、10ab) 、第2朗読の一コリント書(15・20-27a)、福音朗読のルカ(1・39-56)を通じて思いを巡らせよう。



