28B
主キリストの記念は、キリスト教的生き方の中心的な神秘である。それは、会食の形態をとり、そこでキリストは食べ物において自己自身を献げる。子供の頃の初聖体のお勉強で我々はこれを教われた。説教や黙想会で、それは繰り返し教えられる。信仰についての出版物にも同じことを読むことができる。ところが、我々はこういう考えのすごさを本当にわかっているだろうか?
主イエスにとって、聴衆が分かっていることが重要なことであっただろうと思われる。なぜなら、ご聖体の制定を宣言なさったとき、その膨大な意義を、偶然と思えない形で強調したからである。カファルナウムでの言葉が、実際の制定の時の言葉とはかなり異なっている。後者の場合は、質素で落ち着いた言葉であった。聖木曜日で起こったものすごい行為においては、イエスはそのものすごい意義を強調しない。信仰の偉大な試みはすでにすぎて、決意がなされた。最後の晩餐でイエスと一緒にいた人たちはすでに試されていた。なぜなら、カファルナウムで、打撃を受けただけではなく倒されるほどに、イエスは聴衆を、激烈に神の超越性(otherness)に直面させたからである。福音書には次のように報告される。「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6・35)ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(ヨハネ6・41~42)
ユダヤ人の反論は、未だに制定されていないエウカリスティアの神秘にではなく、イエス自身の主張、自分は信仰のパン、永遠の真理であるという主張に向けられている。それに、主はどのように答えたかを注目しよう。主張を和らげることはない。聖書の預言書におけるご自分の位置付けを指摘して説明しようとすることもない。
彼はさらに進んで、あたかも刃物を押し付けるが如く、次のように言う。「わたしは命のパンである。 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 (ヨハネ6・48~51)これで、ユダヤ人たちは、ショックの激しさを最大に感じる。
常識的に考えれば、ここで言葉を変えるとか、少なくとも説明してみるとか、と言うことになるだろう。が、イエスは聞き手のショックを和らげる代わりに付け加える。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6・53~57)ここで、弟子たちの間では、最初の分裂が起こる。「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(ヨハネ6・61)
イエスの最も近い弟子たちは困ってしまうが、イエスは彼らを助けたりはしない。むしろ、生きるか死ぬかの意思決定を迫る。必然的にこの世の知恵を覆す啓示を、その完全性において受け入れる準備があるか。それとも、自分の視点にこだわるか、啓示の「可能性」に制限をつけて判断するか。
「あなたがたはこのことにつまずくのか。
それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」(ヨハネ6・61-64)最初に「つぶやいた」「やだや人たち」は、すでに離れていた。その次、「弟子たちの多くの者」は、離れていく。今度、残った中核となる者に向かって言う,「あなたがたも離れて行きたいか」。
助けとなる言葉は一つもない。ただ、大変な意思決定を迫るのみ。ペトロは答える、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 (ヨハネ6・68-69)ペトロとその仲間たちは分かっているわけではない。ただ、神秘の力から衝撃を受けて、それに自分たちをゆだねる。彼らは物を言えないほど驚いたが、信頼し続ける。少なくとも、大多数は。
イエスの答えから分かるように、全員ではない。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(ヨハネ6・70-71)
イエスは聖なるエウカリスティアという神秘を託したのは、以上のように厳しく試された人たちである。最後の晩餐で初めて、聖なる糧を受けたのはこの人たちである。
どうやら戦いのないところに本物の信仰もない。その名に値するすべての信仰者が、いつか躓きの危険や試練による裁判(trial by fire)を受けなければならない。
ーーーーー
訳注: 神明裁判(しんめいさいばん)とは、何らかの手段を用いて神意を得ることにより、物事の真偽、正邪を判断する裁判方法である。古代、中世(一部の地域では近世まで)において世界の各地で類似の行為が行われているが、その正確な性質は各々の神、宗教によって異なる。ヨーロッパでは試練による裁判(Trial by ordeal)、日本では盟神探湯(くがたち)が行われた。
盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。
ーーーーーー
試練を無事に通れるのは、神によって守られる純粋な神の子供たちであろう。大多数は無事に通れることはない。
我々も、カファルナウムで起こったことのすごさを感じるに違いない。ユダヤ人たちを激怒させたこと、多くの弟子にショックを与えたこと、イエスの言葉が我慢ならないこと、イエスを離れたことは、他人事ではない。おそらく、ユダの信仰を粉々にさせたのはこの時のショックだったかもしれない。他の十一人は救われたのは、分からないままに主の御許に信頼をおいたこと以外は何も考えられない。
カファルナウムで行われたやりとりのインパクトは、在り来たりの信心書が示唆するような、のどかな感傷的な印象を与えることは決してない。それは、前代未聞(ぜんだいみもん)のチャレンジであり、そのチャレンジは投げつけられるのは、知性だけではなく、カファルナウムの厳しい場面で見たように、心にもである。一方、キリストが立っておられ、我々の生活の中味と原動力になるためにご自身を与えることを望んでおられると宣言している。他方、いったいどうやって一人の人が別の人に自分を与えることが可能であろうか。自分の持ち物、知識、経験、助け、信頼、尊敬、愛、一緒に暮らすことであれば、よく分かる。だが、そいうことではなく、食べ物として、そして飲み物として、ご自分の体と魂を、という。しかも、それは「精神的に」ではなく、「現実に」という。ご聖体はシンボルであると主張する論客たちは根拠に取っている聖書の箇所は次の通りである。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。」(ヨハネ6・63)けれども、パンとぶどう酒が意味するのは、「私の霊はあなた方を満たす。私の力はあなた方を強める」であった、とこの箇所は示しているわけでは決してない。もし、イエスはそのようなことを言いたかったなら、そうすることができたわけだが、しかし、そうは言っていない。カファルナウムの話の肝心な点は、まさに実際の肉、実際の血、実際の食べ物と実際の飲み物へのこだわりである。もちろん、「霊」においてではあるが、それは「聖霊」を意味するのである。
主はいけにえについて語ったが、それは聞き手が馴染みのあった神殿のいけにえとは異なる意味であった。旧約の一般的、人間味の少ないいけにえの意味でもなかった。信仰の親密な神秘の意味であった。イエスのいけにえという輝かしい現実と、弟子たちのそれについてのぼやけた知識とは、聖霊の完全な力における主の復活した体と、弟子たちの前に立っている体とに匹敵する。
ここでくれぐれも注意する必要がある。ここに我々の信仰の最も高い、最もとがった尖峰(せんぽう)がある。言い換えると、これが最も狭い、最も急峻(きゅうしゅん)な峠であり、これを乗り越える努力をしないと、信仰の完全な、本質的な自由に達することができない。教会史を見ると、キリスト教のこの頂点の現実性を薄める(水増しする)人たちは、ずっと下の基礎まで、教会、受肉、キリストの神性、三位一体といった真理をも薄めてしまうことになる、と示されている。
カファルナウムの試練は、まことに信仰の最高の試練である。自分の考えが、自分と神の出会いを邪魔する場合、それを乗り越えようとしない人は、神の国にふさわしくない。偉大な回心、尺度の転換が起こるのはここである。決心の本気さと、躓きの危険が直面され克服されたこととを感じないまでは、この究極の神秘の奇跡が展開できない。この難点を乗り越えると、突然、自明であるかのように、至福の知識だけでなく、完全に満たされるあの愛が現れる。あの愛が持っているすべてを与えるだけではなく、「自己自身」のすべてを与えることができる。
この世のいかなる愛は完全に満たされることはない、いつまでも。この世の意味で愛することは、実は不可能なことを追求することを意味するのである。聖ヨハネは、神の愛の超越性(otherness)をほのめかしている。神は愛スルだけではなく、神が愛デアル、と。神だけが愛することを望むことができるだけではなく、「この上なく愛し抜く」(ヨハネ13:1)ができるのである。
人々はパンとワインをいただいて、その栄養分を完全にかつ親密に同化して生きる力を得ていると同じように、イエスはご自分のいのちの源、ご自分の人格そのものという賜物を、人々がいただいて同化することを望んでおられる。また、このような栄養分をいただかない人は、究極の命を持つことはできない、ということさえ付け加えておっしゃっている。
この世の愛の賜物何であれ、それが可能であるとみなしても、イエスの自己奉献ほど完全なものとなり得ない。愛に伴う不純物や毒素の全くないものになり得ない。イエスは全き純粋さであり、全き強さ、全きいのちなどなどである。イエスは、永遠を通じて神の前に立つことが唯一可能となるための、その不滅の、究極の生命の前提条件である。イエスは最後の晩餐でおっしゃったことは本気であった。トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14・5-6)。