Wednesday, December 21, 2016

5 付録 神の遍在性

5 付録


聖書には、神の世界超越が説かれているとともに、また神の世界内在が説かれている。神の世界内在という思想は、聖書の見地からして、汎神論を許容することではない。汎神論におちいることなく、のみならず神の超越性をいささかもそこなうことなく、しかも神の遍在性が認められるためには、神はいかなる仕方で世界に内在し、またそのような世界内在の仕方は神のいかなる性格にもとづいて起こるかということが、厳密に考察する必要がある。


「神は或る意味においてすべての場所に在る。すなわち、至る所に存在する。まず第一に、神はすべての事物に存在と能力と活動を与えている者として、すべての事物のうちに在る。[]神はまたすべての場所を満たしている。しかし、物体のような仕方で満たすのではない。すなわち物体は、他の物体が自分とともに同じ場所を占めることは許さないという仕方で「場所を満たす」といわれるのであるが、神はこれに対し、或る場所に存在することによって他のものがそこに存在することを斥けることなく、却って反対に、すべての場所を満たしているところの「場所に置かれているもの」のすべてに、存在を与えることによってすべての場所を満たすのである。」

(トマス・アクイナス、『神学大全』第1部第8問第2項)


「神は何らかのもののうちに存在するということは、二様の意味で語られる。一つは、作用因の仕方によるものであり、この意味においては神は、神によって創造されたあらゆる事物のうちに存在する。一つは、働きの対象は働く者のうちに存在するという仕方によるものであり、これは認識されたものが認識者のうちに在り、欲求されたものが欲求者のうちに在るかぎりにおいて、魂の働きに固有なことである。そこで神は、この第二の仕方によっては、神を現実的に愛しあるいは習態的に愛している理性的被造物のうちに、特別な仕方で存在する。そしてこのこと理性的被造物が得るのは、後に明らかにされるように、恩恵によるから、このしかたによっては神は、聖なる者たちのうちに、恩恵によって存在するといわれるのである。

  ところで神によって創造された他の諸事物のうちに、いかなる仕方で神が存在するかということは、人間に関することがらのうちに存在するといわれるものをもとにして、そこから考察を進めることが適当である。たとえば、王は、全国土においてある、王自身がその至る所に現前しているわけではないが、その能力によって存在しているといわれる。また或る者は、その者の視界のもとに在るすべてのものがその人のうちに現前する、という仕方で存在するといわれる。たとえば、或る家のうちに存在するすべてのものは、或る人に現前しているといわれるのである。しかし、その人は、家のいずれの部分にも自分自身の実体によって存在しているわけではない。」

(トマス・アクイナス、『神学大全』第1部第8問第3項)


Monday, December 12, 2016

著者の序文

著者の序文


本書はミサ聖祭の準備のためにミサの前で開催された談話として始まった。談話は主の記念の本質を解釈したり、主の生涯を語るようなものではなかった。その目的は、単にミサに与る時、我々会衆に何が求められているかを明らかにし、それらの要求にどのように適切に答えればいいのかを示すことであった。

   多くの信者にとって、ミサは神聖な見ものや不可思議な手続きのような性格を持つようになった。信者は、その間に自分の祈りをささげることになってしまっている。結果的にミサの現実は埋められ、交換可能でないものは失われてしまった。この事情の理由は数多くあり、とっくの昔に遡るので、それらを正そうとしても無理がある。しかし、ミサが忠実な者たちのために再び本来の姿、制定された時の姿で現われる時が来ている。ミサは本来、使徒言行録(246)とコリントへの最初の手紙(1117-34)が指摘するように、キリストの共同体の神聖な行動、司祭職の世話のもとで、真のコミュニティとして生きた行動をすることを意味している。

  本書が役立つのは、まさにここのところである。それは、ミサをどのように祝うべきか、あるいは教会法の定められた限度内で(あるいはおそらく「祈りの法(Lex orandi)」[第20章の訳注参照]のより完全な達成を通じて)、神聖な儀式の有機的構造がより明確に引き出される方法を示すことを試みたり、信者の参加度合いがどれだけ達成され得るのかさえ述べたりすることではない。それは神学の教科書の役割である。

   ここで必要とされるのは、ミサのための個人的な準備である。これは、個々の信者が自分の信仰を強化し、心を浄化し、自分の意思を整理し、方向付けるという、通常の意味での「ミサへの準備」だけでなく、個々人の集まりを会衆に変え、不穏な群衆を神の目の前で「聖なる民」に変えるためにどうしても欠かせない態度を育てる、といった準備である。

   そのような核心的な準備からのみ、祭壇に集中する注目は内面的に静かになり、聖なるものを受け入れさせることにつながる。こうしてのみ、教会での聞き取りと会話は、道端、家庭、または事務所での言葉の遣り取りとは異なるものとなる。

  本論考の第一部は、もっぱら今述べた基本的な準備を取り上げる。地道な仕事だが、その重要性は大である。その仕事に取り組まないかぎり、ミサ典書を使ってみても、「共唱ミサ」を取り入れても、典礼についての議論は机上の空論か、審美的な物議にとどまる。

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1920年代にドイツでミサの共同体的執行が開始され、「共唱ミサ(ドイツ語でGemeinschaftsmesse ラテン語でMissa dialogata )」と呼ばれた。部分的に国語が導入され、次第に若い知識人の間で刺激となり、カトリック青年運動と結びついていった。

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典礼の行為を真剣に考えれば、知性と心の全体的な集中を前もって準備しなければならない。

     第二部では、ミサ自身について議論し、その本質とそれが我々にとって何を意味するのかを問うが、それが我々に「求めている」ことを常に心に留めておく。我々はそのような要求のくだんの解釈、神聖な儀式に熱心に参加し、聖体を支えるものに我々の態度を一致させるために真剣に努力し、自制と自己犠牲を実践する、といったことにとどまらない。すべてこれは非常に重要であるが、ここの問題の在り処は全く違うところにある。問題は次のとおりである、ミサは本質的に聖なる、典礼的な行為であるが、そうなるためには我々はミサの祭典にどのように協力していけばいいのか?

   信仰、愛、自己犠牲に備えることは、最大の理想であり、典礼と全く関係のない信心は、疑いもなく、真のキリスト教的奉仕を神の前にもたらすことができる。しかし、我々が本書で目指していることも重要であり、最大限の注意を払う必要がある。

   本書は気がかりとしているのは、ミサについて知ることではなく、ミサの実践であると、以前にも言ったことがあるが、訂正する必要がある。知識にはさまざまな道があり、通常は最初に頭に浮かんで来るのは、事柄を熟考、深め、比較し、結論づける道である。多くはこれらの手段で把握できるが、すべてではない。私は、例えば、すでに存在するものを知ることはできるが、実践してはじめて存在する無形のものを知ることはできない。

   後者の知識を得るために私はそれらを行わなければならない。研究を通して、私は木の種類を学ぶことができる、また私の周りのコミュニティ生活のパターンを確かめることができるが、研究は忠実さや愛が何を意味するかを教えてくれない、少なくともそれらの究極の意味、つまり「わたしにとって何をしている」のかを教えてくれない。

   私の観察や考察は、それだけでもある種の適性をもたらして、木や社会の現象について議論する準備をしてくれる。ところが、心の問題について同様の「観察」を試みると、今述べた言葉は薄く空になってしまう。本当に忠実を知りたいのなら、それを実践する必要がある。私は愛について権威をもって語ることができるのは、何らかの形で、私がその挑戦を受け入れた場合にのみであろう。

   同じことは我々のテーマについても言える。ある程度まで聖書とミサ典書を研究したり、典礼の歴史に関する本を読んだりすることで、ミサの本質を理解することができる。しかし、その本質、つまい最大の愛における救いの行為は主の記憶の中で行われることは、私が "やる"ときだけ私のものとなる。

   信者がそれを適切に行うことはめったにないので、おそらく公教要理、説教、そして多くの敬虔な文学にもかかわらず、ミサの本当の性質はキリスト者たちの意識の中に弱いものとなっている。本書がより良い実践に役立つならば、深い理解が続くであろう。


ロマーノ・グアルディーニ

Thursday, December 8, 2016

32 B

32B


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訳注C・H・ドッド(C.H.Dodd, 1884–1973)がとなえた「実現された終末論」(realized eschatology)を参照。それは、イエスと共にすでに、世の終りたる神の国がこの世界の中に入り込んできていると、イエス自身も信じ、また、それを教えたとするものである。ドッドは、世の終わりがこれから来たるものとして、イエスによって信じられていたことを勿論否定はしなかったが、強調点は他の終末論とはことなり、既にイエスと共に神の国、神の支配がこの世に到来している、というところにある。このように「実現された終末論」は、既に神の国の最も重要な要素たる神の支配が起こってしまっている以上、その要素がまだこれから完全に実現されるものであっても、いつそれが完全に実現されるかはそれ程に重要な問題ではなくなる。

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    このようになると、ミサ聖祭もその特徴の一つを失う。主ご自身が強調された特徴、そして初期のキリスト教徒がよく知っていた特徴を失う。ミサは堅実に確立された習慣となり、賛美と感謝をささげ、助けと贖いを求めるために、信仰生活を形作る、キリストから与えられた、一般的に受け入れられた形となる。そうすると、ミサは「すべての教会で毎日、一定の時限、とりわけ日曜日に祝われるもの」となる。もちろんこれも間違っているわけではないが、何か本質的なものが欠けている。

  願わくは、その欠けているものが我々の生活とミサに戻るだろう。神の言葉のさまざまな側面は​​、異なる季節を持っている。時には一側面は退色(たいしょく)し、背景に後退し、キリスト教徒の意識から消えてしまうことがある。それは聖書の中にまだあり、典礼で引き続き読まれているが、言葉はもはや "聞かれなくなってしまった"。それから、存在の方向が変わり、同じ言葉が突然雄弁に鳴り響いているように聞こえるようになる。今の時代はまさにそのような変化を経験している。今の時代は、その前の難攻不落の状態から逸脱し、革命の破壊と再建へと進んでいるからである。安定感と永続性の古い感覚はもはや存在の神秘に「答え」を提供するほど強くはない。我々は、人生の過渡期と疑問を深く意識している。したがって、自然の状況でさえ、聖パウロの言葉の理解を助けている。「この世の有様は過ぎ去るから」(1コリ731)である。何でも起こり得る。我々は神の可能性の大きさを認識し始め、キリストの来る現実を感じ始めている。時間の端から我々に向かって押し寄せるもの、 "言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい"(ルカ2218)。

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訳注: 「ぶどうの実から作ったもの」、つまりぶどう酒の作り方に大変似ているのがオリーブ油である。


世界は圧搾機(アウグスティヌス)


「この世はオリーブ(の実)を絞り込む圧搾機のようなものである。あなたが油かすであれば棄てられる、オリーブ油であれば集められる。とにかく機械にかけて絞り込まれることは避けられない。ただ注意して油かすとオリーブ油を見なさい。絞込みはこの世において行われる。それは、飢饉、戦争、貧困、食料不足、欠乏、死、強盗、強欲を通してである。これらは、貧しい人々にのしかかるもろもろの悩み事、また国々の災いである。我々はそれらを体験する。

ある人々はこれらの災いに悩まされて、愚痴を言う。『この時代が悪い』と。これは、圧搾機(絞る機械)から下水に流される油かすである。その色は黒い、(神)に対する冒涜だからである。全く輝きがない。オリーブ油には輝きがある。ここに別の人間がいる。同じ絞込む機械と圧力にかけられても、彼らはそれを通して清められるのである。絞込みは彼らを精製(純化)するのである。」(アウグスティヌス、Sermones, XXIV, 11 

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ご聖体の制定の直前にあるイエスのこの言葉は、偶然ではない。主の記念を祝うことは、現在の瞬間を永遠に結びつけるだけでなく、我々が容易に理解できる考えであり、未来にもつながる。しかし、その未来は時間のうちよこたわるものではなく、時間を超えてそれに近づき、最終的に時間を廃止する。キリストの約束は、我々に現在を再評価し、それに耐えてやり抜くように教えている。


初期のキリスト教の会衆で勝っていたと思われる気分を、我々がどれほど理解しているだろうか。それらの人々は知っていた:我々の周りのすべては不確実で、異質的で、危険にさらされている。明日は何をもたらすのか誰も知らない。しかし今、我々はここにおり、我々の主の記念を祝っている。彼は我々について知っており、我々は彼について知っている。彼は黙示録の手紙を書き送らせた方である:「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を、()あなたの苦難や貧しさ、()あなたの住んでいる所を、知っている。」(黙示録22,9,13)主はすべてを知っておられる。この知識は我々の逃れ場である。今や、神聖な記念の時である、主は我々の所にに来て、我々とともに留まり、我々を強めてくださるであろう。明日はどんなことであろうと、それは彼から送って来たものであろう、と。

   この束の間の不確実性の感覚を通して、もう一つのより深い感覚が打ち出される:すべての人間の存在の不確実性に対する認識。我々のこの一見して疑いのない世界は、実際にはそれにクエスティオンマークが付いて回っている。我々は今一度それに気付き始め、その兆候を理解し始めている。主は世界を終わらせるために戻ることが、いつでもあり得る。

   ミサの祭典は、常にこの世が「過ぎ去っていく」という感覚に染まるべきである。この世は最初から時間の制限のうちにあり、神の永遠の前に運行している。その運行は神の許す限りである。しかし、問題はこの世の本質的な時性だけではない。それは、「取得された」第二の制限、または死すべき運命にもさらされている。その極度の不秩序は、その不従順と不公正によってもたらされた。神の裁きの前に召喚されると、この世は「耐える」ことができなくなる。その召集が来る時について、我々は知らないので、「眠っている」(マルコ1440;マタイ2643)状態で発見されないように、目を覚まして祈る戒めは当然であろう。「すぐに」来ることだけは確かである。「すぐに」とは、時間の単純な測定(例えば、明日または一年後、あるいは30年後、数千年後)を意味するのではなく、すべての時間に適用可能な、それがどれくらい続くかに関係なく、本質的な「すぐ」を意味している。静かにキリストを待つことから生まれる聖なる「すぐ」である。それは、恐るべきことであると同時に幸せな「すぐ」であり、毎時の時間の制限から我々に押し寄せて来る。我々の信仰が本物であるために、頭のどこかになければならない「すぐ」である。

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訳注「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はスグニ網を捨てて従った。」(マタイ419-20、筆者強調)参照。

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   以上すべてが我々には奇妙に思えるかもしれない。我々は正直でなければならない。実感がないのにふりをしてはいけない。これは、我々の信仰教育の課題である。我々はこれらの考えへの道を手探りしなければならない。徐々にこの期待を我々のものにしなければならない。おそらく本書の数々の瞑想は、思考を表現するためによく使われる用語とは対照的に、我々の現代的な偏見を少なくとも取り除いてきたかもしれない。これから、我々はは本当にこの世の「過ぎ去り」の真実を身につけなければならない。目を覚ますこと、待つこと、「主が再び来られる」時まで耐えることを、練習しなければならない。これは、不自然ではなく、まぎれもない真実を表している。またこれは、生活の不安定、あるいは仕事の効率の低下を招くものではない。生活と仕事における単なるアクセントである。それがなければ、我々の生活と仕事は、物足りないものとなるのである。

  このアクセントを取り入れると、ミサ聖祭はまったく新しい意義を受ける。我々はそれがいかに本質的であるかを理解し、我々にとってミサは最も深い平安と安心の時間となるであろう。毎日の騒音と緊張の中で、ミサを思うことは我々を支えてくれるであろう。手が伸びていくように、心はミサの思いに手を伸ばすたびに、新しい力を手に入れるようになる。

Monday, December 5, 2016

32 付録



終末論の種類・近現代における終末論の展開

 A. A.リッチェル-歴史の中で発展する道徳的秩序としての神の国観-終末的視点の喪失
 B. ヨハネス・ヴァイス-『イエスの神の国の教え』(歴史に突入してくる神の国)
「破壊し再生するための歴史の中に噴きだす、そして人間が推進したり手を貸したりすることができない、圧倒的な神の嵐の突出」
 C. A.シュヴァイツァー『イエス伝研究史』(Consequent Eschatology 徹底的終末論)
「近づきつつある破局的な世界の終りに伴う超自然的な神の国の到来を待ち望んでいた」
 D. C.H.ドット『神の国のたとえ』『使徒的宣教とその展開』(Realized Eschatology 実現された終末論)「イエスの死と復活においてすでに来た」
 E. J.エレミヤス(Sich realisierende Eschatologie 実現途上にある終末論)「なお完成の時が来る」
 F. A.T.ロビンソン(Inaugurated Eschatology 開始された終末論)「連続性と未来性の調和」
 G. R.ブルトマン(Existential Eschatology 実存的終末論)
「そのときそのときの実存的決断の『生』において実現、歴史的というより実存的、無時間的性質」
 H. ディスペンセーション主義 Dispensationalism
「イスラエルと教会の分離・区別、文字どおりの解釈、教会時代は大挿入」
 I. モルトマン『希望の神学』(政治的神学)
「神の変革を待ち望みつつ変革する、歴史における主導性」
 J. ティリッヒ, R.ニーバー(Symbolic Eschatology 象徴的終末論)
「私たちの幸福は、超現世的、歴史的彼岸にある」

人類の最後の運命がどのようになるかについての教えや信仰が、いわゆる終末論と言われているものであるが、それは通常、主の日、裁きの日、死と不死、千年王国、イエスの再臨、主の永遠の支配などの教説を含む。このようなものとして終末論は、伝統的な教義学が書かれる場合に、その最後の部分に若干の頁が割かれて、ひっそりと存在するのが常であったが、十九世紀の終わり頃から情況はすっかり変わってしまった。その変化は、ヨハネス・ヴァイス(Johannes Weiß)やアルバート・シュヴァイツァー(Albert Schweizer)などの研究が原因となって起こった。
 ヴァイスやシュヴァイツァーは終末論をキリスト教理解の中心に据えた。彼らの新約聖書の歴史的研究の成果によると、イエスは自分が生きているうちに世の終わりが来たることを信じ期待していたのであった。これがシュヴァイツァーの言う徹底的終末論(die konsequente Eschatologie)であるが、もしもイエスがそういう期待をもっていたことが事実であるならば、それから二千年近く経過した今も、まだ終末が来ていない事実をどのように考えたらよいのか。否、事実に反した期待の中に生き、そして十字架上で死んで行ったイエスをどのように理解したらよいのか。また、そのように事実に反した世の終わりへの信仰が、キリスト教の中心であるイエスを駆り立てていたことを思う時に、原始キリスト教においてこのように中心的位置を占めていた間近な世の終わりへの期待を、今の我々はどのように理解し、信じたらよいのか。このような焦眉(しょうび)の急とも言うべき諸問題が現代神学に突き付けられたのである。
 徹底的終末論を一つの極と考えるならば、その対極として考えられる意見がC・H・ドッド(C.H.Dodd)からだされた。彼の立場は「実現された終末論」(realized eschatology)と呼ばれているが、それは、イエスと共にすでに、世の終りたる神の国がこの世界の中に入り込んできていると、イエス自身も信じ、また、それを教えたとするものであった。ドッドは、世の終わりがこれから来たるものとして、イエスによって信じられていたことを勿論否定はしなかったが、強調点は徹底的終末論とはことなり、既にイエスと共に神の国、神の支配がこの世に到来している、というところにあった。このように「実現された終末論」は、既に神の国の最も重要な要素たる神の支配が起こってしまっている以上、その要素がまだこれから完全に実現されるものであっても、いつそれが完全に実現されるかはそれ程に重要な問題ではなくなる。

 今日も終末論の問題は相変わらず神学議論の中心をなし、既に述べた両極のいずれかに近い立場の種々の意見が出されているのであるが、それにからんで、終末論の様々な局面が論じられている。
新約聖書の記者たちは、将来についてどのような希望をもっていたにしろ、何よりも大事な出来事は既に起こってしまっているとの前提に立って、使信を宣べ伝えている。「時の終わりに直面している」(1コリ10・11)のはまさに我々なのだ、「来るべき世の力を体験」(ヘブライ6・5)しつつあるのは我々なのだ、ということが前提とされている。この結論は既に教会や秘跡に関する神学的議論に新しい命を吹き込んでいるし、典礼や司牧活動にも影響を及ぼすべき時となっている。



Friday, December 2, 2016

32 ミサ聖祭とキリストの来臨

32 ミサ聖祭とキリストの来臨


「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(マタイ2629)前章で考察してきた契約の概念と同様に、このキリストの言葉もまた奇妙に無視されてきている。本書のミサについての瞑想を閉じる前に、我々はそれに注意を向けることにしたいと思う。聖ルカは、この聖句を、最後の過ぎ越しの杯の奉献の後で、実際に聖体を制定する言葉の前に置いている。この箇所で、イエスは最後の晩餐の時を越えて、その彼方にある王国の到来を睨(にら)んでいるようである。イエスは、将来の永遠の達成に言及している。それは、父の意志に従って、避けられない死に向かって今や一歩を踏み出さなければならないことの背後にある。この箇所は、ミサの記念全体に、特異な輝きを帯びさせている。その輝きは、クリスチャンたちの意識からぼやけているように見えるのであるが。

   ところで、この言葉は、個人的にはイエスにとっておそらく重要だったが、エウカリスティアの記念にはそれほど重要ではなかったと、反論されるかもしれない。死を前にして、その重大さを知っていた主の視点は、未来を通じて万象の終末に及んだと言われるかもしれない。また、この考えはその時点での主観的な体験を反映しているが、それ以降キリスト教の信仰生活の中核となる聖なる行為とは関係がないかもしれない。しかし、聖パウロはご聖体の制定について書いたことは、そのような見方すべてを覆す。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。 」(1コリ1123-26)これに対して、イエスの言葉は単に過ぎ去り気分の現れであると本気で主張できる人はいないだろう。聖パウロは、わざと終末と主の記念の祝いを結びつけている。使徒パウロの書簡は、その中のいくつかは諸福音書より早く成立しているし、全部は少なくとも福音書と同じ時期に出来上がっていることは忘れるべきではない。パウロの書簡は初期キリスト教共同体の力強い信仰意識を表しているからである。

  このすべてから明らかとなるのは、主がご聖体を制定した時点で、主が抱いていた見方は以下のようなものであったと思われる。あくる日、死ぬことになると知っていた。さらに、ある日戻ることになるということも知っていた。だが、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存知である。」(マタイ2436)主が贖いの死の記念を制定したのは、死と来臨の間の期間のためであった。これは抑圧された者(実際に彼の来ることを期待していたすべての人)の強さと慰めであり、彼の栄光の約束を絶え間なく思い出させるものであった。その達成に比べて、もったいぶった姿勢をとりながらも、過ぎ去る時間は、実は本質的なものが来るまでのマークにすぎない。従って、ミサ聖祭は際立って終末と関係がある。我々はこの事実を忘れがちであることに関してもっと懸念すべきである。ところが、最近文芸界を騒がせている「終末論」とは何であろうか?

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20世紀初頭は、神学界では終末論の発見の時期と言われている。その中で、カール・バルトとルドルフ・ブルとマンが一番大きな反響を呼んだ。カール・バルトは、名著『ローマ書』で「(終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという)再臨が「遅延する」ということについてその内容から言っても少しも「現れる」はずのないものが、どうして遅延などするだろうか。再臨が「遅延」しているのではなく、我々の覚醒(めざめ)が遅延しているのである」と言い、「終末は既に神によってもたらされている」と言っている。ルドルフ・ブルトマンは終末が実存的な出来事であるとし、未来に起こるとは考えない。

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それは、最後のものに関係するものであり、存在するものの基本的な不確実性を意識して「自然な」形で存在する。これは、我々の個人的な存在または一般的な存在と結びついた表面的な不確実性を意味するものではないが、もちろんそれもその一部だが、すべての存在の根底にある不確実性である。このことを全く知らない人もいる。実際、このことが社会全体から無視されてきた時期もある。最後のものを知らない人々にとっては、この世はは揺るぎない現実 - 本質的かつ自明的な現実 ""現実 である。この現実の中のすべては、物事の明確な順序によって規制されている。すべてが明白な原因と確かな結果を持っている。しかし、ある一定の時期に、これはすべて変化してしまう。使用法は有効性を失うかのようになる。人間社会全体の構造が揺れ動く。それから、常識となった仕事と妥当性の基準および嗜好(しこう)[趣味]の判断基準と行動のルールが徐々に不確実になる。すべてが流動的になったため、将来を計画することはもはや不可能となる。普遍的危険の感覚は人間の意識に浸透し、そこに巣食って、異常な感性の人に特有の経験の形態をもたらす。行動や財産にしっかりと植え付けられた人たちには自明であると思われるものは、これらの独特の知覚的な性質の持ち主に根本から疑問があるように見える。彼らには、現状の秩序は、生命そのものでさえも、存在の混乱とその制御不能な力の中で不安定に危ういバランスにあるように見えて来る。すべてのルールは一時的なものに見え、いつでも崩れそう。物事そのものが時には不透明、時には不気味になっているように見える。現実はそれが見えるほどしっかりとしたものでは決してない。すべての物事の存在のように個人的存在も、強力で危険そうな空白に囲まれて立ち往生しているように感じられる。そのような心理の持ち主には、革命、大災害、破滅は、遠い可能性ではなく、生き方の一部分となる。

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訳注例えば、大喪失、大失恋をしたら、この世の終わりではないか、という気分になる。うつ病も、ストレス社会が生んだ現代病のように思われがちであるが、実は、昔からある病気である(憂鬱)。そして、特定の人がかかる病気ではなく、誰でも、かかる病気だと言われる。もちろん、環境も関係するが、これは人間がもともとはかない、もろい存在であることの現れであろう。

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そのような気持ちは、歴史的転換期や個人的混乱の時代に伴う感情的な危機に典型的であると答えるのは簡単である。またはそれらが異常ではないにしても不健全な反応であることを指摘するのも簡単である。この捉え方は可能ですが、これらは完全に「正常」な真実を表現するという可能性もある。つまり、存在の不確実性の感覚は、正反対のもの、存在の確実性と同様に、両方は十分な根拠づけをもっている。人間経験のこの二つの形態が一緒になって初めて真実全体を把握したことになる。これらの漠然とした感覚は表現が難しく、解釈するのがさらに難しいという曖昧な感覚ではあるが、啓示(聖書)からはっきりと意義を受けている。聖書は、この世はそのまま大丈夫だと思わないように促している。それどころか、人間の本質そのものはひどく混乱している。一見して健康と安定とみえるものは、実はその障害を隠しているからこそ疑わしいものであると注意している。

   それは、創造主と世界の主が「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ111)ときに、公然と明らかになった。受け入れる代わりに、彼らは来られた方を極力破壊しようとした。なるほど、来られた方の死は世界を贖った。その方の愛のうちに、新しい本物の保護と、永遠に安定した秩序が確立された。しかし、神に背を向け、神を踏み潰したことで、世界に汚れが残る。

   世界が破壊しようとした方は再び来て、それを終わらせ、それを裁くことになっている。いつそうなるかは誰も知らないが、必ずそうなる。我々ははそのようなことを想像で描くことは難しいが、この世はは滅びることになっている。それは、この世の愚かさによって、または「自然な」原因からではない。キリストが「父が御自分の権威をもってお定めになった」(使徒17)時や時期にそれを終わらせることになっている。したがって、キリスト教的生活は、人生の一見した安全保障、秩序、約束にかかわらず、突然の終わりの絶え間ない可能性に直面しなければならない。今や、不確実性の感覚が本当に何を意味するのかを理解し始める。我々は信仰宣言で唱えているように、「主は生者と死者を裁くために再び来られる」、すなわち、キリストからの時間の周辺からの脅威を見るであろう。キリストが現世の存在の中心に置かれた苦しみと贖いの記念は、その来るべき方に向けられている。それは、この世の事情は本当はどうなっているのかを思い起こさせるものである。

    初期のキリスト教はこの状況を鋭く意識していた。はこれを使徒言行録や聖パウロの書簡の中で見てとることができる。世紀の変わり目に書かれたヨハネの黙示録はまさに、期待の言葉で終わっている。「“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。()
以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 」(黙示録2217-20)初代キリスト教の他の文章にも、大きな期待が見られる。主は来られる、すぐに来られる!

   その後、徐々に主の来臨が差し迫っているという感覚が消え、信仰者たちはより長い期間に期待をかけることになる。しかし、4世紀に入っても迫害が続き、生活は非常に不安定であり、地上の非現実感は非常に強かった。それから、キリスト教は公式の国家宗教となり、堅実で容認された生活様式となり、一般的な不安感はなくなった。我々が見てきたように、歴史的な混乱の時代や特別な気質の持ち主再び現れるが、もはやキリスト教の態度をそれ自体として決定的に支配するものとなることはなかった。

    こうして、キリスト教的生活はその終末論的な性質を失ってしまった。その損失でこの世に帰属する感覚は多かれ少なかれ自明になってしまった。キリスト教の本質的な注意深さと準備はなくなっていく。 「目を覚まして祈っていなさい」(マタイ2641;マルコ1438)という言葉は、”道徳的”に、神の意志に対する責任の重要な意味としてだけでなく、”本質的”に、生き方としての意味をも指していることを忘れられていく。キリスト教徒は決してこの世に定着することためにも、「自然と一致する」ためにも、あるいはビジネスや芸術にべったり従っていくためにも存在しているわけではない。

   これは、この世の否定や生命に対する敵意を意味するものではない。キリスト教徒は地球の壮大さと美しさを深く意識している。彼は地上で与えられた任務を他の人と同様に効率的かつ責任あるように果たすつもりでいる。それが意味することは、この世に対する一定の態度である。キリスト教徒の階級が何であれ、決して「ブルジョア」、自己満足、心配のない独りよがりになるはずがない。何と言っても戦士のように、彼は常に見張りをしているはずである。彼はより鋭い耳を持ち、他人が見逃すアンダートーンを聞きとる。彼の目は特に純粋な光で物事を見て、他の人が感知できないものでも、すなわち万物を通じて生きる現実の流れを感知するはずである。彼は決して生活におぼれることはない、むしろ頭と肩を浮かばせ、上を眺めるために目を自由にする。したがって、彼は他人よりも責任感が深い。この意識と注意深さがなくなると、キリスト教の生活は衰える。それは鈍くなり、重たく感じるものとなってしまう。

Sunday, November 27, 2016

31 付録 2

31 付録 2


「人間は良心の奥底に法を見いだす。この法は人間がみずからに課したものではなく、人間が従わなければならないものである。この法の声は、常に善を愛して行ない、悪を避けるよう勧め、必要に際しては『これを行なえ、あれを避けよ』と心の耳に告げる。人間は心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳であり、また人間はそれによって裁かれる(ローマ21416参照)。良心は人間の最奥であり聖所であって、そこでは人間はただひとり神とともにあり、神の声が人間の深奥で響く。良心は感嘆すべき方法で、神と隣人に対する愛の中に成就する法をわからせる(マタイ223740; ガラテヤ514参照)。良心に対する忠実によって、キリスト者は他の人々と結ばれて、ともに真理を追究し、個人生活と社会生活の中に生じる多くの道徳問題を真理に従って解決するよう努力しなければならない。正しい良心が力をもてば、それだけ個人と団体は盲目的選択から遠ざかり、客観的倫理基準に従うようになる。」


(第二ヴァティカン公会議、『現代世界憲章』、16項)

Tuesday, November 22, 2016

31B

 31B


以上のことすべてが、契約という言葉の重みを完全に理解するために、明白でなければならない。とりわけ、この世的な持ちつ持たれつ、神性と部族の同盟、神的力と地上の力の融合、ある人種の歴史の中の神の歴史の始まり、これらはすべて論外であること。これらの概念がすべて消え去るまでは、想像もできないことは明らかにならない。絶対的な自由の中で、宇宙の主は人々を選び出し、彼らに語り、彼らを対応できるよう処理すること。主は忠誠心を誓い、彼らから忠誠を要求する。主が地上で神的仕事を始め、それに奉仕するために一定の部族に命じる。もし、その部族は神の命令に従うために、自らの自然的歴史的あり方を放棄するならば、部族としての達成感を直接に神の主権から受けるであろう。

   ところが、ヘブライ人は神の呼びかけを拒んだ。彼らは自らの人種意識にしっかりとしがみついて、その中に頑なになった。何世紀にも渡って予告されていた神の御子が、契約を成就し終えるようになると、神と人々の関係は再び契約の形をとっている。最初の契約の人々は、メシアを引き渡して彼を殺し、その不従順に冠をかぶせた。信仰と愛によって結ばれていたはずの二番目の契約は、今やイエス・キリストの犠牲である血によって結ばれることになる。

   救い主は、第一契約の不従順な人々によって準備された運命を受け入れ、それを第二契約の犠牲の捧げ物に変える。第二契約は、世界の主である父を新しい民に結びつける。しかし、新しい民は、人種的集団ではなくなり、地球のすべての種族が含まれ、信仰によって統一された霊的集団となる。

  だれでもキリストのメッセージに心を開き、彼を信じるところでは、その人は聖ペテロが最初の書簡で述べたように、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(ペテロ29

  新しい契約は、それがまったく別の次元に存在するため、あらゆる国民から何も取らず、どの国家の歴史をも邪魔することなく、神の民を招集するのである。

   契約という思想がキリスト教徒の意識からいかに完全に消滅したかは、奇妙なことである。それについて言及したりしているが、我々にとってその意味は疎くなってしまった。

我々の信仰生活は、新しい生命、新しい世界、神の王国の概念によって決定付けられている。これらのすべては、この世のそれらに対応する概念と結びつき、自明なものとして偽装する傾向がある。しかし、脱皮の時は必ず来る。そのとき、キリスト教思想の見た目の自然性が落ち、キリスト教的存在が単なる自然の続きではなく、キリスト教の秩序は自然と人間世界の上に単純にとって付けたものではなく、神の自由から「下降する」ものであり、人間の自由によって捉えられ保持されるべきものである、とぎくっと実感するようになる。

神は人を彼の前に召喚する。神の戒めと呼びかけを聞くと、人は自分自身を浮き世のものに過ぎないものから自由になり、この世へのしがらみを解いて、神への忠誠を示すことになっている。

そのとき起こるのは、自然と歴史の過程に基づいたことではなく、意識と精神の発達ではなく、恵み、呼びかけ、自由、決意である。そのすべてが契約の考え方に含まれているものである。我々はクリスチャンとなっているのは、契約の所以(ゆえん)である。この考え方は、他のより親しみのある再生と新しい創造の概念を補完しなければならない。契約と再生、個々人の尊厳と責任、そして新しい命の豊かさ、この二つの偉大な概念は互いに属し、相互に支え合っているのである。

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訳注: 「自然と歴史の過程に基づいたことではなく、意識と精神の発達ではなく」という文言はヘーゲル哲学、とりわけ『精神現象学』を思わせるものである。人間の精神は「絶対精神」(=神)の精神を分有したものであり、これを歴史を通して実現していく、というのがヘーゲル哲学体系における骨格である。その「実現」は必然的なものであり、神と人間の自由のためにほとんど場がない。ヘーゲルの神に祈りをささげる必要はない。

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  聖なるミサは人間との神の新しい契約を記念するものである。これを認識することで、ミサのお祝いに最も有益な意味が与えられる。この考えを念頭に置くことは、キリストの犠牲の死によって新しい天と新しい地に我々のために開かれたことを思い起こさせることである。すなわち、自然と才能や宗教的能力に基づいているのではなく、恵みと自由に基づいた契約が、キリストと我々の間に存在すること。それは人から人への結びつき、忠誠心へ忠誠心で答えることを意味する。すべてのミサで、我々はその契約を再確認し、その中に意識的に我々の態度を決めるべきである。

Sunday, November 20, 2016

31 付録

31 付録

神に選ばれるということ

橋爪
一神教は、たった一人しかいない神(God)を規準(ものさし)にして、その神の視点から、この世界を視るということなんです。たった一人しかいない神を、人間の視点で見上げるだけじゃダメ。それだと一神教の半分にしかならない。残りの半分は、神から視たらどう視えるかを考えて、それを自分の視点にすることなんです。 多神教は、神から視るなんてことはどうでもいい。あくまでも人間中心なんです。人間中心か、神中心か。これが、一神教かどうかの決定的な分かれ目になります。 神が規準だから、ふつうの発想と違った奇妙なことも起こる。たとえば、ものの長さを例にすれば、ある棒の長さを、「これは何メートル?」と聞くことは、意味があるでしょう。ものさしで測ればいいんだから。では、メートル原器という一メートルの長さの金属の棒にむかって、誰かが「メートル原器さん、あなたはなんで一メートル?」と聞いたとすると、メートル原器はなんと答えるか。ちょっと不機嫌に、「おれが一メートルだ。文句あるか」ですね。ほかに答えようはない、そう決めたんだから。これが規準というものなのです。いまの質問は、ほかの質問とは違っていて、答えられない。一神教も、唯一の規準を定めたという点では、メートル法と似ている。一神教の神は、自分が正しさの規準なので、「あなたはなぜ正しいのですか」と聞いても、理由を教えてくれない。端的に正しい。そういうものなんです。人間のつとめは、神の言うとおりにすること。なかなかうまくいかなくてもへこたれないで、「この瞬間も神ほ私のことを考えてくれているんだ」と信じて、神と対話しながら、神に従い続ける。こういうコミュニケーションを絶やさないことが、神の最も望むところである。人間にとっては、人生のすべてのプロセスが、試練(神の与えた偶然)の連続なのであって、その試練の意味を、自分なりに受け止め乗り越えていくことが、神の期待に応えるということなんです。ユダヤ民族も、外国と戦って連戦連敗といった状態ですが、戦争に勝つか負けるかは実はあまり問題じゃない。試練なんですから。
 試練とは、神が人間を「試す」という意味ですね。神は人間を試していいんです。人間が神を試してはいけない。
大澤 
なるほど、一神教の神とのコミュニケーションというのは、端的にコミュニケーションの不可能性ですよね。人間の規準では、コミュニケーションできなかったということが、むしろ、神とコミュニケーションしたことになる。人間同士であれば、成功したコミュニケーションというのは、互いに理解し合うことです。しかし、一神教の神に対する場合はまったく異なり、不可解であるということをそのまま受け入れることが、神との正しい関係になる。たとえば、神はユダヤ人を選んだけれども、その意図はさっばりわからない。そのわからないということをそのまま受け入れることが、神との正しい関係だというわけですね。
(橋爪大三郎・大澤真幸、『ふしぎなキリスト教』、講談社現代新書、2012年、55-57頁)

Monday, November 14, 2016

31 ミサ聖祭と契約思想

31 ミサ聖祭と契約思想


ご自分の記念を定めるためにイエスが使った言葉の中で、ミサについて勉強する時でも、ほとんど注目されない言葉、契約(Covenant)という言葉がある。聖マタイの福音書は次にように記している。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ262728)聖マルコは、次のようになっている。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコ 1424)聖ルカによる福音書は、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ2220)となっている。聖パウロのコリント教会への第一手紙(1コリ1125)にも、契約について、ルカの記事と似たような言葉がある。

  こうして、契約という考え方が、それに重点を置く教会にとって、どれほど重要であるか、我々は理解できるであろう。ミサの典文でのぶどう酒の聖別の時に、次の言葉がある。「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい契約の血である。」これは、正確に言って、どういう意味であろうか。

  過越祭は記念の祝宴であった。記念された出来事についてすでに考察してきた。エジプトの支配者たちは、モーセのおどしと神の比較的に軽い災害にもかかわらず全く動かされず、捕虜となっていたヘブライ人の解放を頑固に拒否した。主なる神が恐ろしい疫病を送り、人間であれ動物であれ、すべての初生(しょせい)の死を起こした。誰が処罰されているのかを完全に明らかにするために、各ユダヤ人家庭のメンバーは、子羊を屠殺(とさつ)し、その血で家の扉を塗るよう命じられた。こうして、死の天使たちは彼らを通り過ぎ、彼らの迫害者たちだけが狙われたということを疑う余地はなかった。

   その晩、家庭のメンバーが一致団結して喜びのうちにこう羊を摂取(せっしゅ)し、エジプトでの捕囚の終わりを記念する厳粛な祝宴として、それ以後毎年繰り返されるべく運びとなった。イエスご自身が毎年弟子たちと一緒に過ぎ越しを祝っていた。しかし、イエスは、祝宴に続く出来事として、すなわち解放というより、シナイ山での契約の締結を強調することによって、祭典に別の向きを与えた。出エジプト記は次にように語っている。


「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。 

モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。 

彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。 

モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、 

契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、 

モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」(出エジプト243-8)


ミサの式文はこの箇所と平行していることは明らかである。シナイ山での媒介者(モーセ)は言う。「これは主があなたたちと結ばれた契約の血である()」、と。イエスは言う。。「これはわたしの血の杯、あなたがた()のために流されて、()新しい契約の血である。」

   シナイの契約の背後には、神とアブラハムの間に以前に結ばれた契約がある。それも血で結ばれていた。太陽が沈んで暗い霧が上がった後、屠殺された犠牲動物の "半分"の間を、松明のような火が通り過ぎた。 「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」(創世記1518)。さらに古く、人類史の始まりという薄暗い時、神とノアの間に結ばれた原始的契約が大きく不気味に見えてくる。それは、大洪水の後に、ノアが主にいけにえを捧げたときに締結された。「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥(なだ)めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも  寒さも暑さも、夏も冬も  昼も夜も、やむことはない。』」(創820-22

   「見よ、わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。() 更に神は言われた。『あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。』」(創99-13)

以上のテキストすべてが、血への言及を含んでいる。しばしば強調されることもある。これは我々に奇妙で非人道的な印象を与えるかもしれないが、時代錯覚で慌てて判断することを控えるべきである。すべての人種の意識の深いところに、血の力に対する認識が横たわっている。血は、その根本的かつ単純な形態での生命である。いけにえの血が、緊張を和らげ、怒りを鎮め、落ちる運命を避け、生命の流れを再開させる。どのようにそういうことができるかは、容易に言葉にならない。我々はできるのは、これの真実を感知することである。どういうわけか、血の流れることによって、新たな始まりが生まれ、その始まりが血の生命力によって神秘的に強化される。明らかに、血の原始的な意義はそのまま単純に、啓示(聖書)に適用できることではない。なぜなら、贖いを必要としているものがあれば、それはまさに血の暗黒な原始的力であるからである。ところが、被造物が変容されるとき、すべてのものが新たな光を浴びて、それらと共に血の力も明らかにされるであろう。

   契約において血が特別な意義を持っているのは、生命の栄えと恐ろしさのシンボルとしてではなく、すべての生命の主である神に特別な意味で属するからである。旧約聖書における犠牲の流血は、神の主権を認めることにつながっている。他の宗教における犠牲が示すものとは正反対の意味をもっている。それは血の神秘主義のようなものではなく、自然界における神性の流出ではなく、幻想神域の力への呼びかけでもない。これらとは何の関係もなく、単に、神のみが主である!ということのありがたい認識に基づいている。

  従って、究極の従順の表明としての流血という概念の上に、神がご自分の契約を立てた。ここでも、必要な区別を念頭に置くべきである。契約という言葉が、他の諸宗教のように、すなわち特定の部族との神の同盟を意味するものではない。そこには部族の秘密の活力があり、それ自体が神の現実を非媒介的に表現している。従って、部族と神の存在自体が相互依存しているほどである。部族が固有の神の力と保護を享受し、一方で、その神も部族の肥沃さと強さから生きている。両方の一致が犠牲のもとで行われる。供物を通して、人は自分の神の活力を強める。そして、供物を摂取することによって、人間は自分自身の神の力を得る。

    旧約聖書には、そのような概念の痕跡はない。旧約の神は、この世の諸条件の故に、一定の民族や部族の神性ではない。活力と強さの神秘的な源ではなく、神的命令の自由によって力を起こす一者である。

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訳注: 天命(てんめい)とは、天から与えられた命令のことである。

天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令のこと。また、人がこの世に生を授けられる因となった、天からの命令のことである。命数。

なお『論語』には孔子の言葉として「五十而知天命」(五十にして天命を知る)という表現があるが、天命は使命と運命の両方の意味で用いられているので、論語のこの表現を巡って、《運命》や《宿命》(自分にはこれだけしかできない)ということを意味しているのか、それとも《使命》(自分は人生でこれだけはしなければならない)を意味しているのかで解釈が分かれているという。(日原利国 「天命」『世界大百科事典』 平凡社、1988年。)

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ところが、一者がそうしたのは、自分の存在のために人間的表明やこの世の確固とした活力を必要としていたからではない、ということは確かである。一者がヘブライ人をも、いかなる民族をも必要としない。なぜなら、一者は森羅万象の主であるから。特定の集団を選んだのは、彼らは他の種族よりもよい人々、敬虔で忠実であったからではない。それどころか、何度も何度も不従順で、心が頑なで、意思の定まらない連中であった。

  神がヘブライ人と共に建てたものは、強力な神権国家でも、特定の人種を代表する宗教でもなかった。神は単に、彼らにご自分の言葉と法を託したのである。彼らは歴史を通じてそれらを担い、究極的には地球のすべての人に伝わるように託したのである。なぜこの仕事のためにヘブライ人を選んだのかは、神の命令の不可解なミステリーである。


Tuesday, November 8, 2016

30 付録

30 付録


ロゴス(logos)とは、古典ギリシア語の λόγος の音写で、概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味[広辞苑]がある。

キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。

言語、論理、真理の意味。転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。

ロゴスは、ミュトスと対比して用いられていた。ミュトスは、最近では“神話”とワンパターンに翻訳されることも多いが、原義としては、人が語る“ものがたり”や“お話”全般を指すのであり、ギリシャ悲劇や喜劇、アイソーポス(イソップ)の寓話の題材もミュトスである。このミュトスに対して、ロゴスはある。「空想」に対して「理性」があり、「物語る言葉」に対して「論証する言葉」があるのである。

Sunday, November 6, 2016

30 真理とエウカリスティア

30 真理とエウカリスティア


主の記念を行うことには、様々な不同不分の概念が含まれている。それらのうちの二つ、会食とキリストの到来またはキリストとの我々の出会いを、すでに取り上げてきた。おん父が信仰者にいのちをもたらすおん子の存在、「まことのパン」を差し出している。同じくおん父から出て、キリストが記念を行なっている会衆の中に入って行く。そして、愛をもって各自に近づいていく。これらが聖体拝領を規定する概念である。被造物としての我々は、「わたしはいのちである」とおっしゃった神・人の豊かな現実によって養われることを思いこがれている。人格としての我々は、来られる方を期待して待ち、急いで会いに行きたい。そして、彼と共にとどまりたい、愛と従順のうちに。以上両方の概念の背景に、それらに聖なる意義を与えるすさまじい事実、贖罪的いけにえがある。

    それにしても、我々はまだ底に触れていない。もう一つの考えが浮かんで来る、啓示と神的真理に対する敬虔な受けとめ方、という考えである。誰かと共同生活を営むには何が必要であろうか。中でも、本物の相互交流、相手に対する尊敬、信頼、忠誠心、友情か仲間意識か愛として知られる、あの同時に存在する一致と尊重であろう。このような連携は、単なる物理的側面と単なる精神面をはみ出ている。なぜなら、意志にかかっているからであり、そのために生き物が皆直面する逆境を乗り越えることができる。しかし、共同生活にはまだ別の要素がある。それは、お互いの能力、輝き、肝要な深さの共有である。言いかえれば、他者のいのちを、同情の即時性と愛でもって、共感する力量である。共同生活にはこれらの諸要素は不可欠であり、それらにとってかわるものはないが、それらだけでまだ十分ではない。それらだけに基づいた関わりは、盲点をもつことになると思われる。自分自身と相手の間に真実も存在しなけれならない。相手の本質が自分に伝わっていなければならない。自分が相手のユニークさ、生活態度、仕事と運命に感謝しなければならない。相手のために自分の生活の中で、あるがままに、場を譲らなければならない。そして、自分も相手によって承認され受け入れられている、ということを知る必要がある。その時点で関係は完成し得る。それ以前は、無理がある。

   主の記念の最も肝心なところは、以上描いてきたような交わりである。

   キリストとキリストを信じる人々との間に、キリスト自身が設けた交わりより完全な交わりはありえない。いうまでもなく、その交わりは一方的である。なぜなら、我々はエゴイズムに縛られているからである。

    信仰者とその主との関係は、純粋に我と汝の関係である。それは、贖われた者は神の子供たちの自由と関連しているのと同じである。

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訳注: 我と汝の関係については、マルティン・ブーバー著、『我と汝・対話』(田口義弘訳)、みすず書房、1995年参照。人間は有意義な相手(例えば、親、先生、配偶者)に対面することによって自らの人格を形成するように、神を相手にすることによって神の子供の自由を得るのである。J・エステライヤーが指摘するように、ブーバーは神を人間の汝にしているが、聖書的に考える場合、神の方が最も根源的な存在であるから、神をすべての「我」の源であり、最も根源的な「我」と考えるべきである。John M. Oesterreicher, The Unfinished Dialogue: Martin Buber and the Christian Way, Citadel Press, US, 1986参照。

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 贖い主は、人格と人格の出会いとその相互的満足のいかなる度合いをも抱擁する形で、「やって来る」のである。この考えは、肉と血という驚くべき概念ともつながる。自分は「いのちである」と思っていた方が、人々の栄養素としてささげられる、その肉と血。しかし、両方のこの概念は脅かされている。第一は、感傷性へと導く行き過ぎた擬人化によって、第二は、あまりにも人間味のない、あるいは非人道的でさえある魔法によって、脅かされている。教会史を見れば納得いくのだが、両方のこの危険はしばしば現実となってしまった。キリストは、ただ単に「いのち」ではなく、「真理」でもある。キリストは受肉した「ロゴス」(言)、つまり肉と血に書かれた神からのメッセージである。キリストの自己奉献は啓示であり、彼を受け入れるとは、真理を受け入れることである。

   もう一度、ご聖体の制定の「解説書」であるカファルナウムでのイエスの話を参照する必要がある。群衆がパンの奇跡を体験して、期待をもってイエスに押し寄せて来る。今や、間違いなく、メシアの王国の奇跡的恵みが注がれる時だ!しかし、イエスは彼らに答えて言われた「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(ヨハネ626-27)ところが、それで群衆は分からないので、もっとはっきり発言する。「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神にパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。そこで彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』というと、イエスは言われた「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ632-35)イエスは語っている「いのち」とは、自分自身のものである。そのいのちを養う「パン」とは、自分自身である。いったい、そのパンはどのように与えられ、どのように受け取られるのであろうか。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハネ637)言いかえれば、パンは与えられるのは、真理であるイエスとの生きたコンタクトを通してである。一方では、イエスの存在の輝き、彼の言動や苦しみの輝きを通して、他方では、イエスのもとに我々の来ること、イエスを信じ、イエスを見つめることを通してである。イエスを見つめたら何が見えるのだろうか?主の神的フィギュアであろう。それを通して見えざる世界が垣間見るのである。聖ヨハネが言うように、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ114)従って、期待されることは、神によって真理が示されることと、人間によって聖なる真理が受け入れられることである。そこから、考え方が切り変わる。再び次のように言われた、「わたしは命のパンである」。しかし、それに加えて言われた、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ651)これが、躓きとなるほど、誰も聞いたことがない突拍子もないことである。彼自身が、何回も何回も、「パン」とはご自分の生きた肉である、そしてそれはまことの食べ物である、と強調したではないか。ただ、食べ方と飲み方、「霊において」と言われるが、それだけは不可思議でヴェールに包まれたままである。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ663)キリストは聴衆にヒントを与えたが、彼らは拒否したのである。

   この話全体の一貫性は、計り知れないほど重要なものである。キリストの記念は、キリストの生きた存在の本物の共有の行為である。あまりにも精神面に還元されるべきものではない。揮発(きはつ)させるべきものでもない、なぜなら、本物の食べ物と飲み物であるから。

本物の食べ物と飲み物であるが、それは、くれぐれも真理の尊厳、幅、力と意義においてである。単刀直入言えば、栄養素としてご自分を提供するキリストは、一切れのパンのようにその本質を意識しないまま我々の体の一部分となるような食べ方で食べられるものではない、ということになる。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 」我々にご自分を提供する方が、げんじつのありきたりの一部分ではない。遍在するロゴスでおられる。彼の体の「栄養素」が永遠の、神聖な真理であり、従って、それへの参与は真理の承認を必要としている。そうでなければ、「何の役にも立たない」。

   ミサ聖祭に参加することは、キリストをロゴスとして、創造主、贖い主として承認することを意味している。「あなた方がこれを行うたびに、わたしの記念として行いなさい。」ここで言われる「記念」とは、「わたしを思い出しなさい」とばかりに意味するものではない。それに加えて、「これを行いながら、わたしについて、わたしの本性、メッセージ、運命について考えなさい。これら全てが真理である」ということを意味する。ミサの奉献の前に書簡と福音書の朗読があることには訳がある。聖書朗読すべてがキリストのアイデンティティーをつかむためのヒントであり、彼の人格または真理の一側面である。聖書に語られるイエスの生涯の出来事は我々に向かって、言わば聖書から出て来る。我々はそれらを理解し、受け入れるために。出来事の一つ一つが真理の光線であり、奉献の部となると、それらは言語ではなく、実際のものとして存在して来るにである。

  ミサと真理のこの関連を認めるのは、第一義的な重要性をもっている。信心業は真理を忘れるきらいがある。真理を避けるとか、遠慮するとか、ではないが、ファンタジーや感傷性、過言に滑り落ちる傾向は著しい。伝説や信心業的書物は、往往にしてこの傾向を圧倒的に示している。残念ながら、野放しの信心は、主観主義に陥り、カビ臭くなり、仰々しくも霊性の少ないものとなりがち。

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『レゲンダ・アウレア』または『黄金伝説』(羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230 – 98)によるキリスト教の聖人伝集。1267年頃に完成した。タイトルは著者自身によるものではなく、彼と同時代の読者たちによってつけられたものである。中世ヨーロッパにおいて聖書についで広く読まれ、文化・芸術に大きな影響を与えた。

日本においても芥川龍之介が同書所収の聖女マリナの物語(79章)をもとに『奉教人の死』を書いている。

イエス、マリア、天使ミカエルのほか、100名以上にものぼる聖人達の生涯が章ごとに紹介され、その分量は『旧約聖書』と『新約聖書』を足したのとほぼ同じである。最初の章ではキリストの降誕と再臨があてられており、本書は新約聖書の続編として読む人々もいたと思われる。

日本語訳書として、新泉社版(13人の聖人伝を訳した抄訳)と黄金伝説抄 ISBN 978-4787794246、及び人文書院版(全訳、ハードカバー)がある。また、平凡社ライブラリー版(内容は人文書院版と同じ)もある。

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神的現実は主観的でもなければ、カビ臭くなることもない。現実離れの霊性、事実を無視した霊性とつながらないはず。真理の別名である神的現実は、この地上を歩まれた血肉を持ったイエスのように、実質的なものでなければならない。ただ、霊によって、つまり聖霊によって照らされる必要があることは、いうまでもないことである。

  ミサの完全性には真理は欠かせない。ミサはクリスチャンの生活の中心と内容であるという事実をくどくど述べることは十分ではない。その中心に至る道、その内容を共有する方法も明確にしなければならない。これが、可能となるのは、真理とエウカリスティアとの本質的な関係が認められた時のみであり、真理がミサ聖祭全体に浸透した時である。

Thursday, November 3, 2016

29 付録

29 付録

「あの偉大な神秘は、このようなことを示します。神はわたしたちのために人間となり、貧しい者となることによって、このことを示してくださいます。神がそうなさったのは、倒れた人間を立ち上がらせ、人間のうちにある神の似姿を復興させ、人間を造り直すためです。このようにして、わたしたち皆がキリストにおいて一つになります。このキリストは、わたしたちすべてにおいてすべてとなられました(一コリ9・22参照)。しかも、ご自分のすべてをもってそうなられたのです。それは、わたしたちの肉体を特徴付ける「男と女」(ガラテヤ3・28)、「未開人とスキタイ人、奴隷と自由な身分の者の区別がない」(コロサイ3・11)ようにするためでした。そして、わたしたちの創造主であり目的である神の刻印(こくいん)だけを、わたしたちのうちにしるし、ただそれによってのみ知られるよう、完全に神の姿にわたしたちを形づくってくださるためでした。」
(ナジアンズの聖グレゴリオ司教の弟の死をしのぶ説教、PG 35, 785-788、毎日の読書、年間第31金曜日参照)

Monday, October 24, 2016

29 出会いと祝宴

29 出会いと祝宴


ミサ聖祭の参列者は食卓を囲む共同体のメンバーとなる。ミサの前半では、神のみ言葉を受け取り、それに答えて神の栄光を讃える祈りをささげ、また自分の心配事や関心事を摂理なる御父の御許におく。それから、席から見守りながら、自分自身の捧げ物を携えて聖なる会食の準備に参与する。献金に使われるお金はいかに人間的暖かみが少なくても、より重要である生活での自己贈与の認められた代替である。それから、参列者は司祭とともに御父に向かい、「私は、天から降って来た生きたパンである」(ヨハネ651)とおっしゃった方の臨在を信仰でもって受け入れる。聖体拝領となると、霊において、聖なる糧を差し出す御父の手を見るのである。「いのちを得る」ことができるために、その糧を敬虔に受け取る。しかし、主の晩餐、または祝宴という概念は一人立ちしない。もう一つの概念、キリストの「来臨」とペアになっている。

  霊性を語るために使われる言語には、後者の側面に関しては慣用語句がある。それは、大変シンプルな表現となっている。いたる所に次のような言い方に出くわすことがある。「キリストはミサに存在している」、「聖体拝領においてキリストは自己自身を信者に与える」、「キリストは信者の心に残る」など。このような霊的言語には問題があると主張する人々は、穏健に反省すべきであり、今一度カファルナウムでのキリストの話を読むべきである。約束されるエウカリスティアに関しては主ご自身が、「来る」と「会う」というイメージを使っておられる。実際の食糧、実際の食べ物と飲み物の強調と共に、次のような文言がある。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 (ヨハネ633)。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 わたしは命のパンである。(ヨハネ646-47) 」「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(ヨハネ651)」 「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ657)

   御父の手が差し出す「まことの肉」、「まことの飲み物」はものではなく、一人の方であり、「それ」ではなくて、「彼」である。この方が永遠に誉めたたえられる至上の人格である。したがって、敬虔な信仰者は、食べるとか飲むとか言う言い方は、キリストという聖なる方を少し卑しくするのではないかと、ごく自然に感じる傾向がある。

   聖ヨハネ福音記者は、彼が生きた時代でさえ出始めたたくさんの異端と果てしなく戦わなければならなかった。そのために、基本的な箇所で真理を語る言葉づかいは極めて鋭いものとなっている。福音書のプロローグとなる第1章では、ヨハネは神のひとり子が人となったと言わない。「言が肉となった」(ヨハネ114)という、より強い表現を使っている。エウカリスティアに関しては、共観福音書の表現、「取って食べなさい、これは私のからだ」ではなく、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 」(ヨハネ65456)という言葉を使っている。これは究極の解明であり、それに対して人々ははっきりと決定的な「イエス」か「ノー」を言わなければならない。

カファルナウムでの「ユダヤ人」、「多くの弟子」、またユダの頑固な強情とは全く異なる本物の難しさ、前に言及した難しさが明らかになるのはこの辺りである。ここでは、主の自己奉献は、我々に対する人格同士の関係という純粋さから、物や対象物のレベルに成り下がるという真摯な心配がある。というのは、人格を持った人、とりわけイエス、聖なる一者、主である方が物のように与えたりもらったり、いわゆる持つことができない。人は取り交わされ、交換できるものではない。人格は取り交わされるのではなく、我・汝という関係に入り、自由に人格として自らを与える。

   これが、ミサの固有の第二の概念である。第一は「会食」であり、第二は「出会い」である。両方は、キリスト自身によって幾度となく述べられ、またキリストの言葉からインスピレーションを受けた一般的な霊的表現にも見られる。前者は、「まことのパン」、「食べ物と飲み物」、「世にいのちを与える肉」、後者は、「天から降って来た」、「私のもとへ来る者」というイメージで支えられている。他にも、無数の表現があり、主は我々の間におり、我々とともに、我々の方へ愛をこめてかがめ、我々のうちに住まい、我々と一致するということが述べられている。

   ミサは主キリストの記念である。我々は、このことをできるだけ豊かに、深く理解しようとしてきた。今や、さらに一歩先に進む必要がある。

    「記念(メモリアル)」は、地震とか特に豊か収穫とかではなく、人格を持った人にだけ当てはまる。地震とか収穫は、記憶(remember)することはできよう。記念する場合は、災害の犠牲者とか、秋の豊かな実りを祝福し、それを喜ぶ愛する人たちとかは記念されるだろう。記念はいつも人と関連し、その人との生きた関係を前提としている。本来、記念はすでに存在している我・汝の関係の延長線にある。

  これは、まさにミサ聖祭に現れる。主が我々に残された記念は、あるイベントの単なる記憶でもなければ、偉人の肖像画でもない。キリストとの人格同士の関係、贖い主と信仰者の関係の遂行である。ミサにおいてキリストが自らの全人格の現実を携えて、その救済的運命を帯びてやって来る。彼がやって来るのは、誰であっても構わないと言うわけではなく、自分自身に属する人たちである。この辺りもまた聖ヨハネが、この神秘を特に鋭く捉えている。神のひとり子が天から、おん子のみが知っておられるおん父からやって来る。おん子がおん父のいのちをいきておられる。おん子が持っておられるものすべて、その存在の全てがおん父から、おん父を通してである。しかし、この親密な関係がそこでとどまる事はない。おん父がそのひとり子を人類に派遣し、受けた神的いのちを人々に伝えるために。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ657)

  イエスは人となったときに、天と地の間にある隔たり、おん父と我々の間にある隔たりの上に、一度限り永遠に、橋をかけた。従ってイエスは、我々の仲間であるという意味で、我々と共に「おられる」。隔たりの「こちら側」に「おられる」。「インマヌエル」、つまり来タリシ神である。

  ところが、神秘という特別なやり方で、主の記念が祝われるたびに、主が新たに隔たりを埋めるのである。まず、その日の朗読において、我々は主の言葉を受け取る。それから、奉納が準備され、一区切りとなる。聖変化を通して、理解しきれないほどダイナミックな「記念」の主体として、主が我々のところに来られ、我々のために恵みに満ちた世話をやく。聖体拝領においては、主は我々一人ひとりに近づき、次のようにおっしゃる。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」(黙示録320)「戸口」が、本物の信仰と愛において開けられる限りでは、主が入り、その個人の信仰者のために自らをお与えになる。

   ここまで来て、主が典礼において来られるということの一般的な意味に言及すべきかもしれない。「祝日(feast)」という言葉のキリスト教的意味合いはなんであろうか。立ち止まってこのようなことについて考えようとする場合、我々の時代は一定の究極の神秘性との接触を失ったことを念頭に置く必要がある。我々には皆合理主義、また実証心理学に流される傾向があり、全てを知性や道徳的な面に、あるいは「体験」という主観的レベルに還元しがちである。もし、我々は祝日(例えば、復活の祝日)とは何かと問われたら、おそらく次のようなことを答えるだろう。復活の祝日とは、イエス・キリストの復活を記念する日であり、我々は喜びのうち神を賛美し、信仰と愛に満たされ、主の復活の恵みに与る望みを持ちながら、主を探し求め、主が与えてくださった新しいいのちを生きる決意を立てる時である。

これで、復活の祝日のエッセンスを言い当てたことになるだろうか。そうではない。なぜなら、その核心にある現実に触れていないからである。主の復活は、ただ単に繰り返し記憶されるのではなく、追体験されるそのユニークな祝い方が肝心である。主キリストが実際に、永遠という次元から、我々の時間、我々の間にやって来る。

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原注26章で述べたことを参照。

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キリストがその贖罪的いのち全体の充満をもって、それぞれの時、それぞれの祝い日にやって来る。典礼の暦の流れにそって、神の受肉、ご公現、ご受難、ご復活、ご昇天などのそれぞれの神秘の時にやって来る。彼は、おん父から、聖霊の力において、我々の間にやって来る。

  彼を待つ、彼を求める、彼を受け入れ、光栄を感じ、賛美すること、また彼と共にいること、拝領の親密さに魅(ひ)かれること、これがキリスト教的祝日の意味である。

  ここまで考えると、「祝日」と「出会い」という概念はどれほど結ばれているかをちょっと見え始めるであろう。両者は矛盾することはない、むしろ互いに支え合っている。お互いに誤った偏りや虚言にならないように助け合っている。やって来る人と出会うという概念は、人格の尊厳を守り、晩餐という概念をふさわしくない軽視から守る。聖体拝領は所有物ではなく、本物の我と汝の見つめ合いのように交流である、ということを思い起こさせる。他方、晩餐という概念は、出会いという概念を、把握しきれない聖なる神秘の究極の親密性へと投影させる。人間同士の出会いだと、それはいつも相対的であり、他者を完全に抱擁することはない。いつまでも橋渡しできないこの分離は、被造された愛の(緊急対策を必要とする)事態である。聖体拝領では、この分離の最後の痕跡が消除され、被造物のすべての能力を超える一致への「到達」が保証される。

我々はこの神秘から我々の方へ流れる生命についてもっと知りたいなら、使徒パウロの書簡に目を向ける必要がある。ガラテヤの信徒への手紙にこう書いている人:「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ220)この人は、キリストとの「完全な出会い」、つまり「我々のうちにおられる」キリストの福音記者である。

   前章においては、ミサ聖祭への参加のためには会食、祝宴の我々の概念を生きたものにする必要があると結論づけた。本章では、ミサへの参加には、我々のキリストとの出会いの自覚という構成要素もあるとつけ加えなければならない。キリストはやって来る、この部屋におられる、わたしの方へ目を向けておられる、ここにおられる、という自覚である。耳を傾けて、戸口へのたたきを聞き取る必要がある。我々は、彼の到着、彼の訪問を深く体験する必要がある。それは、感傷的な気分、あるいは感情の高揚なしに、むしろ平易な、落ち着いた信仰において。その信仰は全き真理でもある。

Monday, October 17, 2016

28B


28B


主キリストの記念は、キリスト教的生き方の中心的な神秘である。それは、会食の形態をとり、そこでキリストは食べ物において自己自身を献げる。子供の頃の初聖体のお勉強で我々はこれを教われた。説教や黙想会で、それは繰り返し教えられる。信仰についての出版物にも同じことを読むことができる。ところが、我々はこういう考えのすごさを本当にわかっているだろうか?

   主イエスにとって、聴衆が分かっていることが重要なことであっただろうと思われる。なぜなら、ご聖体の制定を宣言なさったとき、その膨大な意義を、偶然と思えない形で強調したからである。カファルナウムでの言葉が、実際の制定の時の言葉とはかなり異なっている。後者の場合は、質素で落ち着いた言葉であった。聖木曜日で起こったものすごい行為においては、イエスはそのものすごい意義を強調しない。信仰の偉大な試みはすでにすぎて、決意がなされた。最後の晩餐でイエスと一緒にいた人たちはすでに試されていた。なぜなら、カファルナウムで、打撃を受けただけではなく倒されるほどに、イエスは聴衆を、激烈に神の超越性(otherness)に直面させたからである。福音書には次のように報告される。「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ635)ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(ヨハネ64142)

   ユダヤ人の反論は、未だに制定されていないエウカリスティアの神秘にではなく、イエス自身の主張、自分は信仰のパン、永遠の真理であるという主張に向けられている。それに、主はどのように答えたかを注目しよう。主張を和らげることはない。聖書の預言書におけるご自分の位置付けを指摘して説明しようとすることもない。

  彼はさらに進んで、あたかも刃物を押し付けるが如く、次のように言う。「わたしは命のパンである。 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 

わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 (ヨハネ64851)これで、ユダヤ人たちは、ショックの激しさを最大に感じる。

   常識的に考えれば、ここで言葉を変えるとか、少なくとも説明してみるとか、と言うことになるだろう。が、イエスは聞き手のショックを和らげる代わりに付け加える。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ65357)ここで、弟子たちの間では、最初の分裂が起こる。「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(ヨハネ661)

   イエスの最も近い弟子たちは困ってしまうが、イエスは彼らを助けたりはしない。むしろ、生きるか死ぬかの意思決定を迫る。必然的にこの世の知恵を覆す啓示を、その完全性において受け入れる準備があるか。それとも、自分の視点にこだわるか、啓示の「可能性」に制限をつけて判断するか。

   「あなたがたはこのことにつまずくのか。 

それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば…… 

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」(ヨハネ661-64)最初に「つぶやいた」「やだや人たち」は、すでに離れていた。その次、「弟子たちの多くの者」は、離れていく。今度、残った中核となる者に向かって言う,「あなたがたも離れて行きたいか」。

  助けとなる言葉は一つもない。ただ、大変な意思決定を迫るのみ。ペトロは答える、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 (ヨハネ668-69)ペトロとその仲間たちは分かっているわけではない。ただ、神秘の力から衝撃を受けて、それに自分たちをゆだねる。彼らは物を言えないほど驚いたが、信頼し続ける。少なくとも、大多数は。

  イエスの答えから分かるように、全員ではない。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」 

イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(ヨハネ670-71)

   イエスは聖なるエウカリスティアという神秘を託したのは、以上のように厳しく試された人たちである。最後の晩餐で初めて、聖なる糧を受けたのはこの人たちである。

   どうやら戦いのないところに本物の信仰もない。その名に値するすべての信仰者が、いつか躓きの危険や試練による裁判(trial by fire)を受けなければならない。

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訳注神明裁判(しんめいさいばん)とは、何らかの手段を用いて神意を得ることにより、物事の真偽、正邪を判断する裁判方法である。古代、中世(一部の地域では近世まで)において世界の各地で類似の行為が行われているが、その正確な性質は各々の神、宗教によって異なる。ヨーロッパでは試練による裁判(Trial by ordeal)、日本では盟神探湯(くがたち)が行われた。

盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。

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試練を無事に通れるのは、神によって守られる純粋な神の子供たちであろう。大多数は無事に通れることはない。

  我々も、カファルナウムで起こったことのすごさを感じるに違いない。ユダヤ人たちを激怒させたこと、多くの弟子にショックを与えたこと、イエスの言葉が我慢ならないこと、イエスを離れたことは、他人事ではない。おそらく、ユダの信仰を粉々にさせたのはこの時のショックだったかもしれない。他の十一人は救われたのは、分からないままに主の御許に信頼をおいたこと以外は何も考えられない。

   カファルナウムで行われたやりとりのインパクトは、在り来たりの信心書が示唆するような、のどかな感傷的な印象を与えることは決してない。それは、前代未聞(ぜんだいみもん)のチャレンジであり、そのチャレンジは投げつけられるのは、知性だけではなく、カファルナウムの厳しい場面で見たように、心にもである。一方、キリストが立っておられ、我々の生活の中味と原動力になるためにご自身を与えることを望んでおられると宣言している。他方、いったいどうやって一人の人が別の人に自分を与えることが可能であろうか。自分の持ち物、知識、経験、助け、信頼、尊敬、愛、一緒に暮らすことであれば、よく分かる。だが、そいうことではなく、食べ物として、そして飲み物として、ご自分の体と魂を、という。しかも、それは「精神的に」ではなく、「現実に」という。ご聖体はシンボルであると主張する論客たちは根拠に取っている聖書の箇所は次の通りである。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。」(ヨハネ663)けれども、パンとぶどう酒が意味するのは、「私の霊はあなた方を満たす。私の力はあなた方を強める」であった、とこの箇所は示しているわけでは決してない。もし、イエスはそのようなことを言いたかったなら、そうすることができたわけだが、しかし、そうは言っていない。カファルナウムの話の肝心な点は、まさに実際の肉、実際の血、実際の食べ物と実際の飲み物へのこだわりである。もちろん、「霊」においてではあるが、それは「聖霊」を意味するのである。

主はいけにえについて語ったが、それは聞き手が馴染みのあった神殿のいけにえとは異なる意味であった。旧約の一般的、人間味の少ないいけにえの意味でもなかった。信仰の親密な神秘の意味であった。イエスのいけにえという輝かしい現実と、弟子たちのそれについてのぼやけた知識とは、聖霊の完全な力における主の復活した体と、弟子たちの前に立っている体とに匹敵する。

   ここでくれぐれも注意する必要がある。ここに我々の信仰の最も高い、最もとがった尖峰(せんぽう)がある。言い換えると、これが最も狭い、最も急峻(きゅうしゅん)な峠であり、これを乗り越える努力をしないと、信仰の完全な、本質的な自由に達することができない。教会史を見ると、キリスト教のこの頂点の現実性を薄める(水増しする)人たちは、ずっと下の基礎まで、教会、受肉、キリストの神性、三位一体といった真理をも薄めてしまうことになる、と示されている。

   カファルナウムの試練は、まことに信仰の最高の試練である。自分の考えが、自分と神の出会いを邪魔する場合、それを乗り越えようとしない人は、神の国にふさわしくない。偉大な回心、尺度の転換が起こるのはここである。決心の本気さと、躓きの危険が直面され克服されたこととを感じないまでは、この究極の神秘の奇跡が展開できない。この難点を乗り越えると、突然、自明であるかのように、至福の知識だけでなく、完全に満たされるあの愛が現れる。あの愛が持っているすべてを与えるだけではなく、「自己自身」のすべてを与えることができる。

   この世のいかなる愛は完全に満たされることはない、いつまでも。この世の意味で愛することは、実は不可能なことを追求することを意味するのである。聖ヨハネは、神の愛の超越性(otherness)をほのめかしている。神は愛スルだけではなく、神が愛デアル、と。神だけが愛することを望むことができるだけではなく、「この上なく愛し抜く」(ヨハネ131)ができるのである。

  人々はパンとワインをいただいて、その栄養分を完全にかつ親密に同化して生きる力を得ていると同じように、イエスはご自分のいのちの源、ご自分の人格そのものという賜物を、人々がいただいて同化することを望んでおられる。また、このような栄養分をいただかない人は、究極の命を持つことはできない、ということさえ付け加えておっしゃっている。

   この世の愛の賜物何であれ、それが可能であるとみなしても、イエスの自己奉献ほど完全なものとなり得ない。愛に伴う不純物や毒素の全くないものになり得ない。イエスは全き純粋さであり、全き強さ、全きいのちなどなどである。イエスは、永遠を通じて神の前に立つことが唯一可能となるための、その不滅の、究極の生命の前提条件である。イエスは最後の晩餐でおっしゃったことは本気であった。トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ145-6)。