Wednesday, February 19, 2014

Dominica passionis A

受難の主日(枝の主日)A

【フィリ2:6-11

キリストを模範とせよ】

5 lent A

四旬節5主日A

【ヨハ11:1-45

ラザロを生き返らせる】

4 lent A

四旬節4主日A

【ヨハ9:1,6-9,13-17,34-38

生まれつきの盲人をいやす】

生まれながら目の不自由な人とイエスとの出会いは、ドラマチックな展開で紹介されいます。
まず、物語は生まれながら目の不自由な人がイエスの力によっていやされることからはじまり、イエスの力を正しく評価できないユダヤ人が、イエスを陥れようとする試みに発展します。
いやされた男は、ユダヤ人と真っ向こうから対立し、確信にみちて一歩も退かず、軽蔑されてもゆるがないで、イエスをメシアとして信仰宣言します。この物語の結びとして最後にイエスはこのように言われました。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
この結びの言葉にあるように、このエピソードには、まことの光がなんであるかというテーマが隠されています。見えていると思う人はたしかに光に恵まれていますが、それがまことの光であるかどうかという問題が、提起されています。福音書には、このエピソード以外にも、イエスと目の不自由な人とのいくつかの出会いが報告されています。どれをとっても、こうした人々とイエスとの出会いには、健康な人々との出会いにはみられない、はりつめた火花を散らすような真剣さがあります。必死になってイエスさまに訴えかけていく迫力がみられます。
なぜでしょうか。なぜ、目の不自由な人、病んだ人、社会に取り残された人々の方が、健康で、すべてに恵まれた人々よりも、真剣にイエスを求めていったのでしょうか。
そのなぞを、イエスは今日の福音書のエピソードを通して示そうとされたのです。つまり目の不自由な人たちには、健康な目に恵まれた人々にはなかなか見えない世界が見えていたということなのです。
確かに、目が不自由であるということは重い苦しみです。人生に大変大きな負担を背負うことになります。
こうした人びとは、自分が今おかれている世界のようすがわかりませんから、その心はたえず不安におびやかされています。また、どこに向けば安全であるか定かではありませんから、確かな歩みを運ぶことはできません。一歩踏みまちがえれば、自分の身を危険にさらすことにつながりますから、つねに神経をはりつめて、緊張し、不安をもったままやみのなかにおかれていることになります。従ってまた、健康な人のようにのびのびと自由に生活を楽しみ、目標めがけてしっかりとすすんでいくことができません。生命のはつらつとした躍進への道はとざされています。
これは、健康な目に恵まれなかったということからくるどうしようもない現実であるとしても、この現実を通して、こうした人びとは、人間の存在のもろさ、限界をしっかりとみえているのです。健康な人が容易に気づかない人間の弱さ悲しさ、救いに渇いている現実に、直接にふれてしまっているのです。
従ってこうした人びとには、光があるのです。自分の有限性(限界)をみつめる光があるのです。それこそ、まことの光がであるとイエスさまはいうのです。まことの光のなかで自分の弱さ、限界を見、真の生命に飢えているのです。「恵みの力は弱さの中に全うされる」(2コリ12,9)からです。
ところが逆に、見えていると思うひとは、つい、自分の力を過信して、自分の真の姿をみつめることができにくいので、自分の真実の弱さ、限界に直面しないまま、日々の生活をおくっている場合のうほうが多いのです。
「見える」と思っていても、もっとも大切な現実に気づいていませんから、真理の上に土台をおいた人生にとはいえません。それこそもっとも深いやみの中にいることになります。
それはまさに、「自分は健康だ」と思っている人が医者に行かないのと同じです。どんなに自分の体の中で病気が進んでいても、気がつかないで、「自分は健康だ」と思っている限り、医者の所に行きません。同じように、「自分は見える」と思っている人は、イエスさまの所に行かないのです。
すなわち、「自分は罪人ではない」と思う人は、主イエス・キリストを必要と思わないのです。だから「罪が残る」のです。しかし自分が見えない、そして罪人であるということに気がついた時、イエスのもとに向かうのです。イエスさまの十字架のもとに向かうのです。そして赦しをいただくのです。
私たちは、物事を客観的・公平に判断しているつもりでも、実は「先入観」や「思いこみ」によって、大きく左右されているということがよくあります。
ある新聞によれば、過去三〇年間で、米国の一流オーケストラの女性団員の数は、五倍にもなったそうです。その理由は、オーディションの時に、演奏者と審査員の間にスクリーンを置いて、演奏者が誰であるのかを分からないようにしたことにあるそうです。目から入ってくる情報が遮断された結果、純粋に演奏だけで音楽家の実力を判定するようになったのです。つまりそれまでは演奏者が見えるので、同じ演奏の技量があっても、審査員は無意識のうちに男性を選んでいたことになります。
イエスに出会うために、真実の自分の姿をみつめる目を養うべきなのです。自分の無と弱さに近づくこと、自分のやみに目覚めることこそ、真の光、真の生命に近づくことことになるのです。
主イエスは、私たちが本当に見えるべき事を見えるようにして下さる方です。安息日の祝福を与えて下さる方です。元盲人の人が、「彼(イエス)が私の目の上に泥を塗った。そして私が洗った。そして私は見えた」と単純に証ししているような、そういう御業を、私たちにも同じようになさって下さったし、これからもなさって下さるのです。どうか見えるべき事が見えるように、主が導いてくださいますように。
神は肉眼の目で見ることはできません。イエスさまも、天国に行くまでは目でみることはできません。しかし神さまは、信仰によって見ることができます。
聖霊なる神さま。それは目で見ることはできません。しかし、風は目で見ることができなくても、風が吹いた結果を見ることはできます。風が吹いてカーテンが揺れるのを見て、風があることが分かるように、神さまもそのように見ることができるのです。そのように、神の恵みを見る喜び。‥‥神さまの世界が見えてきた、というのはそういうことです。
もちろん、今だって見えなくなることがあります。「自分は見える」「自分だけは見える」と、傲慢になった時に、何もかも見えなくなります。それゆえ、「罪人の私をあわれんでください」とへりくだりながら、主を礼拝する毎日を送りたいと思います。神の恵みを見て歩むためです。

3 lent A


四旬節3主日A
【ヨハ4:5-42サマリアの女】

サマリアの女
きょうの聖書で、私たちはキリストによって全く新しく変えられた人を発見します。
サマリアの女の所を続けて読んできました。この人は名前も記されていない、全く無名の人です。この人は「ワケあり」の女性でした。真昼に町の外の遠い井戸まで水を汲みに来ている。人目を避けているのです。町の人となるべく会いたくない様子でした。それは、イエスさまがあらかじめご存知であったように、この人には人々の噂のネタにされるような過去と現実があったのです。‥‥過去に5人の夫と結婚し、別れている。普通ではありません。そして今は、夫ではない男性と連れ添っている。このような過去と現実の中にいるこの女性。
ここまで聞いただけで、聖書を読んでいる私たちでさえも、「一体どうして今までに5回も違う男の人と結婚し、そして離縁されているのだろう? 何かこの女性に問題があったのだろうか?」と興味を持ちます。ましてや二千年前のことです。人々は陰口をたたき、中傷し、ゴシップのネタとして噂していたことでしょう。
この女性が朝晩の井戸の水汲みの時間に、町の中にある井戸に行くことを想像してみましょう。この女性が水瓶(みずがめ)をもって井戸に向かう。井戸では他の女たちが賑やかに井戸端会議をしながら水を汲んでいる。ところがこの女性が近づくと、その会話がピタッと止む。そして今度はヒソヒソと、この女性を横目で見ながらささやき始める。‥‥そんなところへ毎日毎日水を汲みに行くというのは、大変なストレスを感じることでしょう。
例えばそういう事情であったかも知れない。だからこの人は、町の女たちが水を汲みに来ない町の外の井戸に、水を汲みに来たのです。人目を避けて生きているのです。
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変えられた人
28節~29節をご覧下さい。水瓶をその場に置いたままにして町に戻り、町の人々に叫んで回っているのです。人目を避けていた人が、町の中で皆に叫んで回っているのです。‥‥「さあ、見に来て下さい。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この人がメシアかも知れません」と。
すると人々は、その女の言葉を聞いて、続々と町から出てきたのです。
まず驚くのは、この女性が「私が行ったことをすべて言い当てた人がいます」と言った時、町の人々は、その言葉だけでそれが何を意味するのかが分かったということです。‥‥つまり町の人は皆、この女性がどんな女性で、5人の男性と結婚しては離縁され、そして今また本当の夫ではない人と連れ添っている。それが愛人なのか、内縁の夫であるかは知りませんが、とにかくそういうことを町の人が皆知っていたのです。この女性が「私が行ったことをすべて言い当てた」と言っただけで、すべて分かったんです。それぐらい、この女性が有名だったのです。悪い方で。
第2に驚くのは、この女性がその自分の忌まわしい過去と現実をイエスさまが「言い当てた」と、触れて回っていることです。‥‥今までは、その忌まわしい過去と現実のために、堂々と表通りを歩けなかったのです。ゴシップのネタにされていて、恥ずかしいし、皆が避けるので、コソコソと生きていなければならなかったのです。
それがどうでしょう! さっきまでコソコソと真昼に町の外の井戸まで水を汲みにやって来た女性が、今や堂々と町の中で、多くの人々と顔を合わせて、「さあ、見に来て下さい」と、喜んで言って回っているのです!
キリストとの出会いが
そして驚きの第3は、今まで誰もまともに相手にしなかったようなこの女性の言うことを聞いて、人々が町から出てきて女性の言うとおりイエスさまの所にやって来たという事実です。町の人は今まで、この女性のことを下世話な噂の対象にしていました。見下していました。まともに相手にしませんでした。ところが、この女性の言葉を聞いて、皆町から出てきたのです。39節を見ると、その町の人々は、この女性が「イエスさまが私の行ったことをすべて言い当てました」と証言した言葉によってイエスさまを信じた、と書かれています。知らないはずの女の過去と現在をイエスさまがすべて知っておられ言い当てた、ということに驚いたから信じた、とも言えるでしょう。しかしそれだけでは信じないでしょう。なぜなら、この女性のことを町の皆は見下していたからです。
それでは一体何故、町の人々は女の言うことを聞いて、イエスさまを信じ、町から出てきたのでしょうか?‥‥それは、この女性の変わりように驚いたのです。町の人がこの女性の言うことに耳を傾けて、町から出てイエスさまの所にやって来たのは、この女性のあまりの変わりように驚いたに違いないのです。
今まで、暗く、下を向いて誰にも顔を合わせないようにしていた女性が、恐らくは、明るく輝く表情で、みんなの所に来て嬉しそうに叫んで回っている‥‥。この女性のそのような大きな変化に、町の人々は驚かされ、興味を持ち、この女性の言葉に耳を傾けたのではなかったかと思います。
ものすごい変わりようです。一体何がそんなに彼女を変えたのか?
その理由はただ一つ、イエス・キリストに出会った、ということです。キリストとの出会いが、このように人を変えたのです。
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人はどうやって変わることができるか          新年の抱負
人間はどうしたら変わることができるのでしょうか?今日の聖書は、それはキリストとの出会いによるのであることを語っています。
人は誰でも、大なり小なり「変わりたい」と思うところがあるのではないでしょうか。中学生高校生の頃は「あんなほがらかな、カッコいい、快活な先輩のような人になりたい」と思ったりするものです。大人になっても、前向きな人になりたい、いつも明るく積極的な人になりたい‥‥などと思ったりします。
あるいはこの女性のようにもっと深刻で、「もう、人目を気にしてこんな時刻にこんな遠い井戸まで水を汲みに来なくてもよい生き方をしたい」という人もいることでしょう。しかしいくら自分が変わろうと思っても、このサマリアの女のように、世間が冷たい目で見ていて、世間の人々が自分に対する見方を変えてくれないのでどうすることもできない、という人もいることでしょう。そうすると、「できることなら、生まれ変わりたい。生まれ変わって人生をやり直したい」と思うようになる。しかしそれも叶わぬことです。それで仕方なく、あきらめて、下を向いて歩くしかない。
いろいろな有名な人の講演会に行ってみたりもします。そして聞いた時は「良いお話だった」と思ったりする。そして今度は自分が変わることができると思う。しかし、間もなくすると、何も変わらない自分があるのを発見する。そういうことの繰り返しが多く、やがてあきらめてしまう。‥‥変われない自分があるのです。
先週、体の自由がきかなくなる方と初めてお会いし、お話を聞く機会がありました。彼が言うには、何が嫌かというと、「頑張れ」と言われることが嫌だということでした。「頑張れ、と言われても、もう頑張っているんや!」と。「頑張ってるのに、どうしようもないんや」と。
キリストによって変えられる
人間、頑張ってもどうしようもないことはあるものです。このサマリアの女もそうでした。しかしそれが、イエス様と出会うことによって、変えられたのです。サマリアの女が出会ったイエスさまは、自分の失敗と挫折の過去をご存知の上で、そして今の厳しい立場もご存知の上で受け入れてくださる。しかもその方が、神から来られた救い主キリストであるという。そのキリストと出会うことによって、人は変わることができるのです

御言葉の中で出会うキリスト
26節で、女性の問いに答える形で、イエスさまは自らご自分がキリストであることを言っておられます。イエスさまが自らキリストであることをはっきり言われている個所というのは、珍しいことです。
女性は、最初、自分が会話をしている方がキリストであるとは知りませんでした。
私たちは礼拝し、祈り、聖書を読みます。そのような中でキリストと出会っているのです。「あなたと話しをしているこの私である」と、イエスさまがそこにおられるということに、目を開いてくださいます。
すでにキリスト者であるという方も、「昔イエスさまに出会った」というだけでは昔話になってしまいます。またもとの、力のない、不平不満で一杯の自分に戻ってしまいます。いつも「私である」と言って近づき、語りかけて下さるキリストに出会うことが大切です。そのキリストによって、また新しく変えられるのです。日々聖書を読み、日曜日には礼拝して主と出会うことを期待するのです。

このサマリアの女の心の奥には、おそらくあきらめとさびしさがただよっていたことでしょう。男たちとの出会いによって、何度も何度も傷つけられ、捨てられ、捨てられては男との出会いを求めていくどうしようもなさに、おそらく彼女自身が苦しんでいたでしょう。
イエスは彼女をおいつめ、彼女の心の奥の不毛なあきらめきった心をゆさぶり、その心からいのちの炎を掘りおこします。彼女はイエスの言葉によって、裸にされます。不毛で冷えきった心をあばかれてしまいます。
しかし、それは、彼女にとって、恵みでした。イエスは、彼女の傷ついて冷えきった心の奥底に、生命への渇きがあることを見抜きます。はげしい生命の燃焼(ねんしょう)に飢えている心がうずいていることを知っていました。
イエスは、コチコチになった心から、つきることのない生ける水をふきださせるのです。
女はイエスに向かって叫びます。「主よ、わたしが渇くことがないように、ここに水くみに来なくてもいいように、永遠の水をください」と。
彼女は、心の奥底を、イエスの前にひらきます。イエスは、固く冷えていながらも生命に飢え渇く心にふれます。
こうして、イエスとの出会いは、彼女に真の生命の燃焼を与えます。それは、うそと偽りのまじった、生命を疲れさせていく出会いとは違います。それは、真理と愛にみちた出会い、生命、輝きを与える永遠の愛の出会いです。
私たちも、自分の人生が、ぼろぼろになった生命の枯れたものとならないよう、サマリアの女と同じように、自分の心の奥底をイエスの前にひらいて、燃え上がるような出会いを求めてみたいものです。

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2 lent A

四旬節  2主日A

【マタ17:1-9 イエスの姿が変わる】

1 lent A

四旬節1主日A

【マタ4:1-11 誘惑を受ける】

キリスト教会ミサ日曜礼拝説教
  イエスは悪魔によってさまざまな試みに遭います。