Friday, June 29, 2012

14 Sunday Ordinary Time Year B


14 Ordinary Time – Year B


2 Samuel 5:1-5, 9-10; Psalm 48; (or Ezekiel 2:1-5; Psalm 123); 2 Corinthians 12:2-10; Mark 6:1-13

“The words of the prophets are written on the subway walls and tenement halls and whispered in the sounds of silence.” – Paul Simon

                Don’t expect cousin Charley to think you are a prophet.  He knew you when you were a kid.  That’s what happened in Nazareth.  Jesus went to his hometown, got up in the synagogue early one Saturday morning, and spoke few words.  The folks that Jesus had known his whole life were impressed.  But they were not that impressed.  They said in effect: Who does he think he is?  We know him.  He’s the carpenter, Mary’s kid.  (Mark 6:2-3)  Then we have Jesus’ immortal memorable come back: “Prophets are not without honor, except in their hometown, and among their own kin, and in their own house.” (Mark 6:4)  The words “in their own house” imply that even Jesus’ own immediate family did not accept who he was and what he was about.  Our passage for today has two parts.  First Jesus is rejected.  Then he sends his disciples out two by two to carry on his work.  Thanks a lot.  Is this what we have to look forward to?  Jesus answer is yes.  He tells his disciples, and us, that if we are unwanted shake the dust from our feet and move on. (Mark 6:11)  If we live long enough, all of us will be rejected for who we are, in one way or another.  This does not mean that we are out there being preachy in a door to door obnoxious way.  If we are true to ourselves in an honest but loving manner there will always be someone who will reject us.  It may be because we are gay or straight, black or white, Republican or Democrat, rich or poor, male or female, Catholic or Baptist, employed or unemployed, fat or skinny.  There will always be someone, with their own poor self-image, snubbing us.  Count on it.  Some things in time may change, like being unemployed or poor or Republican or Catholic.  Other things will not change like being black, gay or female.  But whatever we are at this moment is what God loves, and is speaking through.  We are blessed by God, and by our very being speak of God’s love without even using words, just by being loving.  Jesus says if we are rejected move on.  But if we more on don’t’ think all is lost or we have failed.  If we move on without rancor, resentment, animosity or malice, but with love and self-possession we will leave behind a message from God.  After we have gone on our way the good seeds we have sown will be “written on the subway walls and tenement halls and whispered in the sounds of silence.”  We are prophets by being who we are. (see Greek below)

Greek

The word for “prophet” in Greek is a compound word with two parts meaning “to speak for,” in this case to speak for God, just as the sun in the sky speaks for God by being what it is.  We too can radiate the presence of God by simply being true to ourselves.  Then we are prophets, speaking for God.

Haiku

The sun shines God blessed.

The flower blossoms God blessed.

Why slight these prophets?

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N obody likes a smart aleck. Particularly if the person concerned is one of us, one who seems to act as if she or he is in some way better than the rest. Even if it is true, we insist that that person should not flaunt it. Today’s readings all sketch the profile of a messenger of God, someone called from the group to speak God’s word to that group. They also describe the rejection that these messengers had to endure. Those chosen by God are compelled by the force of their call; those to whom they are sent respond: Who does he think he is?



A prophet is not one who looks into the future, but one who has insight into the present. The biblical prophets were always members of the community who were called by God to speak to that community. It was not difficult to accept them when their message was affirming. But when they criticized the community and challenged it to repentance and reform, the messenger was often rejected along with the message. This was the case with both Ezekiel and Jesus. The prophetic mantle was, and continues to be, a heavy one to bear.

The reading from Corinthians does not address the opposition that Paul experienced from others. In fact, it presumes that he has been quite successful in his ministry. Rather, this reading highlights the need to turn to God in the face of any kind of trial. Paul suffered from “a thorn in the flesh”; Ezekiel was sent to a people who were “hard of face and obstinate of heart”; it was the people of Jesus’ own home town who “took offense at him.” In each case God could certainly say: “My grace is sufficient for you.”

These readings can hit home to us in two very different ways. In some circumstances, we might be the ones who are closed to the insights of others, insights that could open our lives to new and exciting possibilities. Why are we jealous of the gifts God may have given to others and not to us? Rejecting them is really our loss!

In other circumstances, we might be the ones who feel unappreciated, overlooked or actually rejected because of some ability we genuinely possess or some service we wish to offer. At such times, we might act as did Paul, begging God to remedy the situation. But such prayers are seldom answered as we would like, and so we too must rely on the divine promise: “My grace is sufficient for you.” If we accept that grace, we will discover the truth of that promise—God’s grace is indeed sufficient.

13 per annum B (2)


年間第13主日 B(2)

マルコ5・21-43


幸せな家庭、これはだれでもが夢み、だれもが願うものでしょう。しかし、その幸せも、自分の思うままに得られるものではありませんし、自分の望むままにいつまでも楽しめるものでもありません。不動でゆらぐことのない幸福などあるはずがありません。ちょっとしたことでゆらぐ、ささいなことから崩れていくものです。幸せな状態をいつまでも保とうとする私たちの努力と願いにもかかわらず、崩されていくものです。そのとき、わたしたちは自分の無力さを知らされます。苦しみの深い淵の中においこまれます。しかし、これはまた、恵みの時になります。表面的な生き方を反省し、真実なものに目をひらいていくためのよいチャンスともなります。
今日の福音書に登場するヤイロの話は、まさにそれを語っています。この話を通して、一度苦しみのどん底に落とされた者が、どのように真実なものに目覚め、イエスに出会っていくかを確かめることができます。
彼は会堂長であったとあります。社会的に尊敬される身分です。保証された身分と経済力に恵まれ、彼の家庭は幸せそのものであったでしょう。しかし、それも愛する娘の重い病気によって破綻していきます。娘は12歳であったとあります。かわいいさかりの時期です。「目の中にいれても痛くない」という言い方があるように、それほどかわいい娘が死ぬ危険に脅かされていくという事実によってそれまでの幸福感が、蜃気楼のように消え去っていきます。父親も母親も、なすすべのない心配と不安の中で、ただうろうろするだけであったでしょう。立派な病院は揃っている現代社会でも、医学研究は最先端をたどっている日本でも、どうしようもないケースは少ないのですが、ましてやこの時代に愛する娘のために、なんの役に立つこともできないという現実を知って、無力感にうちのめされたことでしょう。
会堂長としてのヤイロは、宗教の分野での指導者であったはずです。御坊うさんのように、死の問題にこれまでもいろいろかかわってきたことでしょうし、人々を慰め、導く立場にあって、その務めも果たしてきたことでしょう。これまで、第三者の死に対しては、冷静に客観的に受けとめられてきたでしょうが、自分が直接にかかわり、愛して北者の死の場合には、そうはいきません。
愛情のきずなにつながれていなければ、人の死は冷静に受けとることができます。しかし、愛に結ばれているときは冷静でいることはできません。愛する者の死は、残酷といってよいほど、人を痛めつけます。愛していればいるほど、死は切なく、苦しいものです。心は乱れ、愛する者を救うことのできない自分の無力感に陥ります。
愛する者を苦しみから救いたいという望み、そして愛する者と別れたくないという願い、しかも、それが自分の思うようにはならないという無力さ、ここから祈りとなっていきます。愛が真実であればあるほど、愛する者の死の危機は、人間を謙虚にします。神の前に人をひざまずかせます。自分一人の危機やゆきづまりであるならば、なんとか自分の力でのりこえようと努力できます。そしてのりこえることができないと、無力を感じても、かならずしもそれが祈りに結びつくとはかぎりません。けれど愛する者の場合には、どんな自尊心の強いひとであっても、ひざまずくものです。愛する者の救いを願って、自分の無力を認め、祈り叫びます。恥も外聞(がいぶん)も忘れて、いっさいの虚栄心もかなぐり捨てて、赤裸々な真実の姿をさらけだします。
ヤイロもそうだったでしょう。イエス様と対立するユダヤの宗教伝統を保つ自分であることも忘れ、世間体も外聞も忘れて、愛する娘の救いを願う無力なただの父親の姿をさらけだします。こうして彼は、イエス様の前にへりくだり、ひれ伏します。おそらく、彼の願いは、娘は死なないで助かることだけ求めるものであったでしょう。「おぼれるがわらをもつかむ」というような気持ちで、イエスにすがっただけのことであったでしょう。自分の利益を求めるだけの信仰だったでしょう。
しかし、イエス様hくぁ、それを高めていきます。途中で娘の死が知らされます。それはイエス様を不要にするものです。その時、イエスは「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われます。死をこえる力強さがイエスの中に現存していることをわからせます。ヤイロは、愛する娘の死という苦悩と、自分の無力感を通して、死をこえるイエスの神秘にふれていったのです。




 それにしてもキリスト者の生き方は、いつもどこか選択を迫られつつ生きていくものです。
 たとえば娘が生き返った後、この会堂長、つまり会堂に属するユダヤ人の指導者ヤイロ(マタ9:18)の生き方はどうなったでしょうか。単純に幸福になったのでしょうか? そうではないと思います。
 もしもイエス様に従ったなら、会堂長は自分の仕事を失ったはずです。キリスト教徒はやがて、会堂から追放されるようになるのですから。(ヨハ9:22「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」。他にヨハ12:42、ヨハ16:2)。
 もしもイエス様を拒んだならば、娘を死から救われたのにと言うことで、神の厳しい裁きを受けたかも知れません。ヤイロもその娘も、深く悩んだことでしょう。
 すべていいことばかり、ということはありえないのです。 イエス様を産んだマリアは、同時に、子が十字架にかかるという悪夢を見なければならなかったのです。剣がいつも心に刺さっていました(ルカ2:35)。ヤイロの娘もヤイロも死から救われた代わりに、この世で、苦労して生きたに違いないのです。
 キリスト者は、この世で生きるので、この世の幸福を願っていいのです。しかしそんな中でも、神の意志を感じ取り、それを大切にして、生きることが必要です。そしてそのバランスの中で、生きていくのです。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_042.htm

Friday, June 22, 2012

Nativity of St. John the Baptist

【洗礼者ヨハネの誕生】6月24日
(ルカ1:57-66,80)

今日は、洗礼者ヨハネというのはどのような人なのか?またわたしたちにとっての意義とは何か?ということを一緒に考えていきたいと思います。

洗礼者ヨハネについて特に感じるのは、彼の自主的な生き方です。困難にあっても屈しない生き方。詳しいことは分かりませんが、彼は長年厳しい修行を自己に課し、神に向かい、やがて自分が真実であると確信するメッセージをもって、前例によっかかることのない洗礼運動を展開しました。イエスが後に、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(マタ11・13)と述べるように、彼の告げたものはそれまでのユダヤ教全体を代表するほどのポテンシャルを持っていたと思われます。ヨハネはまた、イエスご自身に対しても最も影響を与えた存在ではないかと思われます。四福音書はおしなべて、福音の始めをイエスの洗礼に置いています。ヨハネとの接触を通してイエスはご自分の福音とそれを宣べ伝える使命とに目覚められたと考えられます。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(マタ11・11)。イエスの高いヨハネ評価は、最後まで変わらなかったようです。数多くの偉大な聖人が、キリストに触発されてその生き方を大きく実らせることができました。しかし、逆にキリストに影響を及ぼした聖人は洗礼者ヨハネだけでしょう。
神の前での人間の謙虚さ
「わたしは水であなたたちに洗礼を授けた」(マコ1・8)。ヨハネは人々に自己の内なる罪と悪を神の前にすなおに認めて、そのしるしとして水の洗礼を受けるように促しました。彼は、人間が自分の力によって自分を救うことはできないことを痛感していたことでしょう。彼は、従来の宗教の権威をも含めて、この世のどのような権威に盲従することもなく、ただただ神の前で何が真実であり、何が虚偽であるかを見つめ続けたのでしょう。そして彼が自分にできることとして到達した結論が、(聖霊によらない)「水による洗礼」だったのでしょう。「わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履き物をお脱がせする価値もない」(使13・25)。この土下座するような謙遜。自己の無力さを知っているからこそ、ヨハネは救いの力を最後まで求め続けます。牢獄にとらわれてからも、あの一時は自分の弟子であったはずのイエスに、「あなたが来るべき方ですか」と問いかける心の開きを保っていたのです。
自主性のある信仰を
教会は聖人を立てることによって、信仰者が彼らの生き方を模範とするようにと勧めます。洗礼者ヨハネの独立不羈(どくりつふき)の精神と神の前での謙虚さは、今日の信者にとって独特の促しを与えてくれるように思います。信者、特にカトリック信者には、キリストの恵み、そして教会の指導に身を任せるあまり、自分の判断、自分の決断、自分の使命を求め見極める努力を行わない傾向が見られないでしょうか。言い換えれば、セカンドハンドではない、オリジナルな自分の信じ方、生き方が希薄になっていないでしょうか。誠実で骨太(ほねぶと)な生き方を自分で誠実に求め続けていくとき、はじめて現代の弱り切った人間社会において、キリストの先駆者として奉仕することができるのではないでしょうか。
イエス様はこのヨハネについて、「女より産まれた者の中で、ヨハネ以上に偉大なものは現れなかった」と言い(マタ11:11)、「燃えて輝くともし火」(ヨハ5:23)と呼びました。そして神の子イエスは、人間ヨハネから洗礼を受けることさえ望み、洗礼を授かっています。これほどまでの洗者ヨハネの偉大さはどこにあるのでしょう。
それは徹底した謙そんさにあります。それほどまでイエス様にも大切にされた洗礼者ヨハネは、「自分はただの人間。イエス様の履物をお脱がせする価値もない(使徒13:25)。イエス様こそメシアで神の子。イエス様は栄えるが自分は衰えていく(ヨハ3:30)」。そう言ったのでした。ここに洗礼者ヨハネの偉大さがあります。

◇指揮者バーンシュタインは、一番難しいパートはと問われて、「第2バイオリン」と答えました。第1バイオリンのようにけっして目立って音を奏でることはない。しかし技量は同じ程度のものが必要とされている。それでもただ第1バイオリンを引き立たせていく第2バイオリン。これこそ一番難しいパートと言ったのでした。
私たちは誰もが第2バイオリニストです。第1バイオリンが神様です。私たちの働きはすべて、神様である第1バイオリンを引き立たせることです。そして私たちが第2ヴァイオリンのパートをしっかり演じ切るとき、神様こそが第1バイオリンとして私たちの業を照らし出して、私たちの業を完成してくださるでしょう。
そして神様のために働いて、神様の業を輝かせながら、第2バイオリンとして生き抜いていく。第2バイオリンとしてのキリスト者の生き方、教会に奉仕する生き方は、もしかして、いたずらな骨折り、うつろにむなしいものと思えるかもしれません。しかしその生涯の終わりに、確実にこのような神様の声を聞くでしょう。「あなたは私の僕、あなたによって私の輝きが現れた」(イザ49:3f)。これこそがキリスト者の理想とする生き方、死に方です。洗者ヨハネの生涯はまさしくこれでした。
イエス様の生涯も、人間の目、キリストを信じないものから見れば、「神様に仕えながらも、最期に人間に裏切られ、何の実りもなかった」。そのようなものであったかもしれません。しかしこのキリストをその後、神の独り子・救い主として、国々の光として、2000年間、教会はたえずたたえてきたのです。ここに神の業があります。

大方の人は普通なら、洗礼者ヨハネにはなりたくないと思うのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは、自分を見てとは言っていません。いつも、イエスを指し示す存在です。
洗礼者ヨハネの使命は、洗礼を受けている私たちにも、特に司祭、修道者に与えられています。その使命を生きる時には、様々な苦しみを体験します。それでも私たちは、洗礼者ヨハネのように、生き方、言動によって、イエスを指し示さなければならないのです。自分のしたいように生きる、いわゆる『自己実現』ではないのです。『私』ではなく『イエス』です。
私たち一人ひとりが、イエスを指し示す 本物の洗礼者ヨハネの姿に近付くように祈って、このミサを捧げていきます。

Sunday, June 17, 2012

12th Sunday in Ordinary Time - Year B


12th Sunday in Ordinary Time - Year B

Mark 4:35-41


Comment: Recalling this episode (the calming of the storm) must have often helped the apostles during their struggles. We are all one body with Jesus as the head – we can overcome even what appear to be insurmountable obstacles. Life is like a boat, exposed to a myriad of dangers; temptations, occasions to sin, bad counsels of men, passions of corrupt nature, etc. Never lose confidence – when temptations arise, keep your eyes on God, who alone can deliver us.
“When you have to listen to abuse, that means you are being buffeted by the wind. When your anger is roused, you are being tossed by the waves. So when the winds blow and the waves mount high, the boat is in danger, your heart is imperiled, your heart is taking a battering. On hearing yourself insulted, you long to retaliate; but the joy of revenge brings with it another kind of misfortune – shipwreck. Why this?: Because Christ is asleep in you.
What do I mean? I mean you have forgotten His presence. Rouse Him, then; remember Him,
let Him keep watch within you, pay heed to Him. ... A temptation arises: it is the wind. It disturbs you: it is the surging of the sea. This is the moment to awaken Christ and let Him
remind you of those words: ‘Who then is this whom even wind and sea obey?’” [Saint Augustine of Hippo (between A.D. 391-430), Sermons, 63,1-3].

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As is typical in Mark's Gospel, Jesus' disciples are frightened by the sudden storm; they do little to inspire confidence in the reader. Mark notes the contrast between the disciples' terror and Jesus' peace. Jesus is sleeping, untroubled by what is going on around him.

The disciples' words to Jesus are telling. They are familiar enough with Jesus to dare to wake him. Their words to him are words of reproach, questioning his care for them. A careful reader might wonder what the disciples expected Jesus to do. Are they more troubled by the storm or by Jesus' inattentiveness to their needs? How many of us have chided a family member or friend for not agreeing with our assessment of the severity of a situation?

Today's Gospel offers evidence of Jesus' power and authority as he calms the storm. In his day, power over nature was believed to be a sign of divinity—only God calms storms. Jesus' rebuke of the storm also echoes the rebuke he uses when he talks to and expels demons. In each situation, Jesus' power and authority is a sign of his divinity. Indeed, the disciples are left wondering about Jesus' identity at the conclusion of today's Gospel. They see before them a human being who acts with the authority and power of God. The disciples' uncertainty about Jesus' identity is a recurring them in Mark's Gospel.

This Gospel is a metaphor for our lives. We are in the boat, the storms of life are raging around us, and like the disciples, we may believe that Jesus is unconcerned, or “sleeping.” We hope that we will be as familiar with Jesus as his disciples. If we feel that Jesus is sleeping, are we comfortable enough to wake Jesus and present him with our needs? Jesus does not chide his disciples for waking him. Instead he chides them for their lack of faith, for their lack of perspective. When we bring our worries to God in prayer, we might just begin to learn to see things from God's perspective.

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Solemnity of the Nativity of Saint John the Baptist June 24, 2012


Solemnity of the Nativity of Saint John the Baptist
June 24, 2012


The Readings for Sunday:
Reading I: Isaiah 49:1-6
Responsorial Psalm: 139:1b-3, 13-14ab, 14c-15
Reading II: Acts 13:22-26
Gospel: Luke 1:57-66, 80


The God Who Is Revealed in Christmas

Christmas is God's answer to human longing, God's response to the centuries of prayers that lay hidden in our groaning, our sighs, our frustrations, and our religious efforts, each of them a plea, mostly silent, for a divine intervention, all of them asking God to come and rid the world of injustice and our hearts of loneliness and heartache.

But God's answer didn't exactly meet our expectations even as it surpassed them. What was born with Jesus' birth and what still lies seemingly helpless in mangers all around the world wasn't exactly what the world expected.

What the world expected was a superstar, someone with the talent, sharpness, and raw muscle-power to out-gun everything that's bad on this planet, someone charismatic enough to make everyone who opposes him slink away in defeat. God's answer to that: A baby lying helpless in the straw!

Why? Why would God choose to be born into the world in this way?

Because you can't argue with a baby! Babies don't try to compete, don't stand up to you, don't try to best you in an argument, and don't try to impress you with their answers. Indeed, they can't speak at all. You, on your part, have to coax everything out of them, be it a smile or a word, and that effort, which demands great patience, usually draws out what's best in you. Moreover, you can't push at a baby too hard, it will begin to cry and the session is over.

And that is the Savior who was born in Bethlehem, and that is too how God is still basically in the world. Like a baby, God does not outgun anyone, out-muscle anyone, threaten anyone, or overpower anyone. The power of God revealed in Christmas is the power of a baby, nothing more, nothing less: innocence, gentleness, helplessness, a vulnerability that can soften hearts, invite in, have us hush our voices, teach us patience, and call forth what's best in us. We watch our language around a baby in the same way as we watch our language in a church, with good reason.

The power of Christmas is like the power of a baby, it underwhelms in such a way so as to eventually overwhelm. There is a greater power than muscle, speed, charism, unstoppable force: If you were to put a baby into a room with the heavy-weight boxing champion of the world, who ultimately would be the stronger? The boxer could kill the baby, but, no doubt, wouldn't, precisely because something inside the baby's powerlessness would overwhelm the boxer. Such is the way of God, the message of Christmas.

But we have always been slow to understand this; we want our messiahs to possess more immediate power. And we are in good company here. The messiah that people longed for during all those centuries leading up to Jesus and Bethlehem was precisely conceived of as a human superhero, someone with the earthly muscle to bang heads together and purge the world of evil by morally superior muscles.

Even John the Baptist expected the messiah to come with that kind of power. His concern was justice, repentance, asceticism. He warned people of an approaching time of reckoning and expected the longed-for messiah to come precisely as a violent fire, a winnowing fan that would separate the bad from the good and burn up the former with a righteousness that came straight from God. When he heard reports of Jesus gently inviting sinners in rather than casting them off, John was scandalized, that kind of a messiah didn't fit his expectations, or his preaching. That's why Jesus, in sending a response to him, invites John not to be scandalized in him. John hadn't wanted a gentle, vulnerable, peace-preaching messiah. He wanted bad people punished, not converted. But, to his credit, once he saw how Jesus' power worked, he understood, accepted a deeper truth, stepped back in self-effacement, and pointed people in Jesus' direction with the words: He must increase and I must decrease. I'm not even worthy to untie his scandal strap!

We too are slow to understand. Like John the Baptist, our impatience for truth and justice makes us want and expect a messiah who comes in earthly terms, all talent and muscle, banging heads together so as to rid the planet of falsehood and evil. We want the kind of messiah we see at the end of every Hollywood thriller, Mother Theresa turned into Sylvester Stallone or Bruce Willis, beating up the bad guys with a violence they can only envy.

But that's not the Christmas story, nor the power revealed in it. An infant lying in the straw in Bethlehem didn't outgun anyone. He just lay there, waiting for anyone, good or bad, to come to him, see his helplessness, feel a tug at his or her heart strings, and then gently try to coax a smile or a word out of him. That's still how God meets us.

Fr. Ron Rolheiser

Saturday, June 16, 2012

8 per annum B


年間B 第8主日 

マルコ2:18-22


イエスの時代には、信仰熱心な人は週に二度、月曜日と木曜日に断食をしていました(ルカ18・12)。その他に災難の時や、悲しみの日に人々は断食をしました。現代でも、災難で死者がでると、私たちは一分間の黙祷をすることがあります。けれども本当にその人たちの死を悼むのであれば、一分ではなく、一日でも、あらゆる娯楽を慎しんで、祈りと断食をしたらよいと思います。一分だけでは、ちょっと偽善者のように見えるかもしれない。

「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか?」 以前、私も不思議に思ったことがあります。他の宗教では断食したり、徹夜の祈りをしたり、滝に打たれたり、火渡りをしたり、信仰の修練としていろいろやっているのに、キリスト教は何もしなくてもよいのか、と。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客たちは断食できるだろうか?」これが福音の解答です。「婚礼の客」とは、花婿の親友たちです。結婚式(神の国の到来)を前にして、花婿なるイエスに、取税人や罪人たちが花婿の親友として招待されているのです。世間的にみればこれは奇妙な仲間です。しかしこれがイエスの宗教なのです。今日の第一朗読にあるように、神とイスラエルの民とが恋人の愛、夫婦の愛で結ばれるということが、イスラエル宗教の理想的な在り方でした(イザヤ54・5、エレミヤ2・2、ホセア2・16)。イエスは、彼と弟子たちとの関係において、その理想を現実にしているのです。婚礼の席に、悲しみの徴である断食は合わないのです。

織りたての布というのは、まだ洗っていないために、縮みもなく、洗ったあとの布地のように密になっていません。それでこのような織りたての布を古い服に継ぎあてると、洗濯の後、織りたての布切れの縮みが大きくて、弱くなっている古い服を引き裂いてしまう。こうしてもっと悪い状態になると言うわけです。また新しいぶどう酒は十分発酵しきっておらず、発酵を終えていません。そこで新しいぶどう酒は、古い革袋に入れると、発酵の力によって、固くなって伸縮性の少ない古い革袋を破ってしまう。こうしてぶどう酒も革袋も駄目になる。だから新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければならないと言うわけです。

ちなみに、この二つのたとえは、イエス御自身が生活者であり、庶民の実生活に明るい人だったことをよく示しています。
断食問題は小さい問題ですが、その意味するところは大きいのです。イエスの新しい福音は、古いユダヤ教とは全く異質なものであり、古い宗教の破れの継ぎ当てになるようなものではありません。断食、祈り、施しなどの、人間の苦行や善行を積み上げて神の義を勝ち取るものではなく、神の義は、イエスに結び付くことによって神の恵みの賜物として無償で与えられるものなのです。しかも、それにはいかなる差別もありません。ユダヤ人と異邦人、ファリサイ人と罪人、金持と貧乏人、男と女…。キリストの福音はユダヤ教の手直しではなく、仏教の手直しでもなく、日本の伝統的な宗教への継ぎ当てでもなく、「虐げられている人々」の解放運動(Liberation、Emancipation)という政治的プログラムへの付足しでもなく、全く新しいものなのです。

断食には、身を清め、精神の働きを鋭くする力があることは本当です。しかし、それにこだわって断食や苦行によらないと神に近づけないと思い込んでしまうなら、大変なあやまちをおかすことになります。断食や苦行をすれば・・・という思いは、やがて自分の力で神に近づけるという錯覚へと陥っていきます。そして、神と私たち人間には、無限のへだたりがあり、本質的な差があるということを見失ってしまいます。どんなに人間が努力したところで、神に出会う権利を得ることはできないという根本的な真理を忘れてしまうことになります。神との出会いは、あくまでも恵みです。神からの一方的な愛によるものです。苦行や断食の有無などに関係のないものです。断食をはじめとするさまざまな修行の具体的な形を教えにならなかったイエスは、他の宗教と比べると、めずらしい存在といえるかもしれません。ユダヤ教だけでなく、どの宗教にも必ずといってよいほど、修行や苦行に関する詳しい規定があります。
「断食がない」という批判に対して、イエズスはこう答えます。
「花婿とともにいるあいだ、その仲間が断食できようか」
「新しいぷどう酒は、新しい皮袋に」
このことばの中に、イエスの世界の本質があります。イエズスの宗教が他の宗教と根本的にちがうところを示しています。「花婿」「新しいぷどう酒」これは、よろこびと祝福のシンボルです。旧約聖書を読むとわかりますが、神とイスラエルは、花婿、花嫁の関係でとらえられています。しかし、その関係は、人びとの罪によって壊されてしまいました。自分の欲望のままに、神を無視して、身勝手にふるまった人びとの生活は、やがてよろこびを失ったみじめな状態になります。当然、人びとは、自分たちの失った恵みと祝福を、自分たちの力でとりもどすことができません。
それは絶対不可能なことです。たとえ、どんな苦行をし、断食をしてもできないのです。祝福は、神の手から、無償で与えられるものなのです。そうです。ここで、「花婿」「新しいぷどう酒」という表現をもって、キリストは、救いが神の一方的な恵み、イニシアティブによるものであることを示そうとされたのです。人間の功徳や苦行によるものではなく、神のあわれみとゆるしによる恵みであり、それをわたしたちに与えてくださったのが、じつにキリストそのかたなのです。ですから、この「新しいぷどう酒」には、新しい皮袋がふさわしいのです。「新しい皮袋」それは、新しい恵みを受けとる人間の姿勢です。苦行や断食ではなく、自分の無を自覚した謙虚さとあわれみに対する信頼、これこそ新しいぷどう酒に対する、新しい皮袋なのです。

イエスの教えはそれまでの常識をうちやぶる全く新しいものです。新しいぶどう酒を新しい革袋に入れるように、イエスを信じる私たちは新しい器になることが求められています。
それはどんな罪人をも愛される神の愛を受け入れていく器です。



7 per annum B


年間第7主日B
【マコ2:1-12
 中風の人をいやす】

< 第一:とりなしの信仰 >

 「その人たちの信仰を見て」とありますが、それは「屋根まではがして一人の病人をイエスの前に連れ出そうとした四人の信仰を主イエスが見て」ということです。「中風」とは「脳卒中発作の後などに現れる手足のマヒや半身不随のこと」を意味します。その病人は四人にとってはとても大切な人であったのだと思います。だから四人は一生懸命でした。屋根まではがしてつり下ろすというのは一大事です。彼ら四人の熱く必死な思いが伝わってきます。イエスさまの前に連れてゆきさえすればこの人は何とかなる、癒される! 彼らはそう信じたのです。ワラにもすがるような思いだったかもしれませんが、彼らはただそう信じた。私はその五人のつながりの強さに目を見張るような思いがいたします。

 一人の人間のために必死になってとりなす者たち。その真摯さが主イエスの胸を打ち、また私たちの胸を打つのです。このことの目撃者たちも胸を打たれたがゆえにこれを言い伝えていったに違いありません。このマルコ福音書の記事の背後には実際にこの出来事を目撃したペトロの熱い思いがあるという註解者もいます。いずれにしても彼らの熱意は感動的で多くの人の胸に刻まれたのです。

 四人はその病人をほっておけなかった。どうしても主イエスのみ前に連れてゆきたいと考えたのです。そこには私たち自身が他者のためにとりなしてゆく姿が示されているとも言える。苦しむ者、悲しむ者、大きな壁にぶつかっている者、絶望している者を主イエスの前に連れて出るというとりなしの働きが私たち自身にも求められています。実は、私たちが今ここで日曜日のミサを捧げているということは、私たちを主のもとにとりなしてくれた人、導いてくれた人がいたからでもあります。私は最近、人と人との出会いの中にこそ主イエスが働かれるのだということを強く思わされています。我と汝という人格的な出会いの延長線上に「永遠の汝」たる神が垣間見えるのです。

< 第二:罪の赦しということ >

 さて次に、「あなたの罪は赦される」というもう一つのポイントを見てみたいと思います。このイエスさまの言い方は、病気と罪、赦しと癒しの関係を私たちに示しています。

 注意しておきたいことがあります。その人の肉体が癒されたのは、「子よ、あなたの罪は赦される」という最初の言葉が語られた時ではありませんでした。このときには目に見える形での「奇跡」(癒し)は起きませんでした。起こったのはその次の時点です。律法学者たちが腹の中で考えていることを見抜き主は言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」するとその人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。では最初の「子よ、あなたの罪は赦される」という言葉は何を意味しているのでしょうか。実はここで、肉体の癒しよりももっと大切な次元を主イエスは問題としているのです。それが「罪の赦し」の次元なのです。聖書における「罪」とは関係概念であり、個々に犯した罪を意味するというよりもむしろ、神と人との破れた関係を意味しています。神との「我と汝」という人格的な応答関係に生きる!これこそが主イエスが問題としたことなのです。これこそが肉体の癒しよりもさらに大切な、より根源的な次元の事柄なのです。 病は治されても人は又、病にかかります。しかし罪の赦しは、永遠の救いのために有効です。

 「あなたの罪は赦される」という言い方で主は、「あなたと神との破れた関係は修復された」「神はあなたと共にいます(インマヌエル)」「神はあなたを決して見捨てない」ということを宣言しておられる。それは病気が癒されるよりももっと大切な次元の事柄です。人間全体の癒しと言ってもよい。病いの時も、悲しみの時も、死の時にも、神がわたしと共におられる!「死の陰の谷をゆく時にも災いを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」と詩篇23編は告白しています。この信仰的な認識こそがすべてなのです。病人をイエスのもとに連れてきた四人は、自らの思いをはるかに越える形で、病いの癒しだけでなく存在そのものが丸ごと癒されるということのために、主イエスの救いのみ業に仕える者として用いられたのでした。主は私たちをもそのようなとりなしのご用のために用いてくださるのです。
 
「子よ、あなたの罪は赦されている」。

 病気の癒しを求めてイエスのもとに来た者にとって意外な言葉だったでしょう。神の言は人間の願いにとってまことに意外である。それは、天が地よりも高いように、神の道は人間の道よりも高く、神の思いは人間の思いよりも高いからである(イザヤ五五・九)。人間は地のことを求める。眼前の切実な必要を神に訴える。しかし、その全存在をもってする訴えが信仰として神に受け入れられる時、神は天のものを与えられる。

イエスはこの問いをもって、律法学者の「人間は罪を赦すことはできない」という批判を逆手にとって彼らを行き詰まりに追い込み、御自身の中に新しい時代への突破口が開いていることを示されるのである。イエスは彼らにこう迫っておられるのである、「あなたがたは、神のほか誰も罪を赦すことはできない、すなわち地上の人間は誰もその権威をもっていない、と言う。そのとおりである。ではあなたがたに尋ねるが、今目の前にいるこのからだの麻痺した人に、立ち上がって歩け、と言うことはそれよりも易しいことか。あなたがたはそれができるか。できないであろう。どちらも同じく人間にはできないことである。そうであるならば、もしわたしがこの人を歩かせたならば、人間を超える権威がここに働いていることをあなたがたは知らなければならない。その人間を超える権威がこの人の罪が赦されていることを宣言するのである」。

これから感謝の祭儀に与ります。主がわれらと共におられる! 十字架の上で主イエスは罪人の一人に言われました。「今日、あなたはわたしと一緒に天国にいる」と。苦しみ悲しみ死の時にも主が共におられる。そこに神の国があり、天国があります。インマヌエルの神の恵みの食卓にご一緒に与りたいと思います。 父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。

6 per annum B


年間第6主日B

マルコ1・40-45

「重い皮膚病」は聖書の中で以前は「らい病」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止を契機に新約聖書・新共同訳で「重い皮膚病」と訳されることになりました。差別的なニュアンスのある「らい病」という言葉を避けるためであり、また、聖書の中のこの病気が現代医学の「ハンセン病」と同じだとは言い切れないからです。しかし、「重い皮膚病」と言ってしまうとあまりに漠然としていて、古代から続くハンセン病の患者たちの大きな苦しみを感じることができなくなってしまうかもしれません。

最近のハンセン病の国家賠償請求訴訟の報道で、元患者さんたちがマスコミの前に堂々とお出になるようになりました。比較的後遺症の軽い方々がテレビに登場されたのですが、それでも、顔の表情が変わってしまわれたり、手の指が失われていたり、関節が曲がったままになっていらしたり、歩けなくなる方もいる。症状が進むと、失明もするのです。そうするとここを「重い皮膚病」と訳すのは、やはりこれもまた十分ではない。だいたい現代では、「重い皮膚病」と言えば、ハンセン病のことを連想する人はまずいないでしょう。むしろほとんどの人は、「アトピー性皮膚炎」を連想することでしょう。
 しかしいずれにしても、十分な訳語が見つからないこともまた事実でありまして、それがまたこの問題の歴史を表しているようなものなのです。

さて「らい病」と判定された者は一般社会から隔離された所に住み、普通の人と交わることはもちろん、近づくことさえ許されていなかった。人が近くに来ると、「汚れた者、汚れた者」と叫んで、その存在を知らせなければならなかった。ただ神だけがらい病を清めることができるとされ、らい病人の清めはメシヤがもたらす終末的な祝福の一つとされたいた。

洗礼者ヨハネが弟子を遣わして、「『来るべきかた』はあなたですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と訊ねた時、イエスはこう答えておられる。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」また、イエスは十二弟子を宣教に派遣するにあたって、こう言っておられる。「 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」(マタイ一〇・七~八)。これらの箇所で「らい病人の清め」が他の病気の癒しとは別の種類の業として扱われていることが注目される。それは「清める」という動詞が示唆しているように、単なる身体の病気の治癒ではなく、「汚れた者」として神の民の交わりから断たれていた者が「清い者」として再び神の民の交わりに迎え入れられることを意味している。「らい病人を清める」ことは、「死人を生き返らせる」ことと並んで、終末時の神の業として特別の意義を持っているので、マルコは一人のらい病人の癒しを他の多くの癒しの業の中に埋没させることなく、詳しく伝えるのである。

やはり、ここでらい病は罪を背負っている人間の状態を描くシンボルだと思われます。神も隣人も愛せない人間がらい病患者のようなものだ、そのような恐ろしい難病にかかっているようだ、というわけです。

さて、イエスがガリラヤのある町におられた時、「ひとりのらい病人がイエスのもとに来て、ひざまずいて願って言った」。らい病人は人に近づくことも許されていなかった。彼がその律法の枠の中に止まっていたならば、救われることはなかったであろう。彼が癒されたいという切なる願いと、イエスに対する信頼とによって、律法という隔ての垣根をあえて踏み超えて、イエスのもとに来てひれ伏した時、救いが始まったのである。イエスも律法を超えてらい病人を受け入れておられる。イエスのもとにひざまずくらい病人、そこはすでに律法を超えた場である。

 「あなたはわたしを清めることもできるかたです」と彼は言っている。らい病人を清めることが神の終末的な業であることを考えると、本人は自覚していたかどうかはわからないが、この告白はイエスを終末的メシヤと告白する重大な意味を持つものになる。とにかく彼は人間の力が絶する所でただイエスの中に働く神の力だけに頼り、「それがあなたの意志であれば」と言って、自分の死生をイエスの意志に委ねて、その足元にひれ伏したのであった。

この一言にこの人の、すべての思いが語られているように思えるのです。なんというすばらしい信仰告白の言葉でしょうか。誰にも解決できない、治すこともできない、そして言われなき差別と偏見、そして自ら「汚れた者」と言わなくてはならない屈辱の中に生きてきた。しかしこの人は言葉を発しました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」‥‥イエスさまならいっさいを解決することがおできになりますと。

すると、イエスさまは手を差し伸べて、その人に触れました。イエスさまは病気をおいやしになるとき、いつも手を触れたわけではありません。言葉だけで命じて、病気をいやされたことも多いのです。しかしこの時は、手を差し伸べて、この人に触れました。これを見ていた人はどんなに驚いたことでしょうか。誰も触れない、いや触れてはならない病気にかかった人、その人に主イエスは手を伸ばして触れられたのです。群衆の目が、そのイエスさまの手に釘付けにされたことでしょう。
 そして主は言われました。「よろしい。清くなれ。」そしてその人のらい病はいやされてしまいました。
 これがキリストの奇跡です。イエスさまの奇跡は、愛の奇跡です。ただ人を驚かすだけの奇跡ではありません。そんなものは奇跡ではないのです。誰も触れることのなかったところに手を伸ばして触れられ、いやして下さる方です。これが私たちの主です。この方が、私たちのためにも十字架にかかってくださったのです。この方が、私たちの生涯の主です。私たちと共に歩まれる方です。感謝ですね。

常識の世界に住んでいる人間が、信仰の青空を見上げると、そこに奇跡という雲がかかっていて、理解を妨げているように見えます。信仰のある人にとっては、奇跡は当り前かもしれません。しかし又、信仰を求めていながらまだ得られない人にとって、奇跡は実にやっかいなもので、天国の門前にいるお鬼のようなものです。奇跡が信仰を生むのか、信仰が奇跡を生むのか。どちらが先か分からない問題の例として「たまごが先か、にわとりが先か」というのがあります。しかし、信仰は人間の産物ではなくて、神の賜物だとすると、奇跡が分からないと言って思い悩むのではなく、信仰を与えて下さいと願い求めることが大切です。そしてその信仰は、復活のキリストに出会うという経験によるのです。生けるキリストに出会って倒される。そして彼に起こされる。すると倒される前の自分と、起こされてからの自分とでは本質的に全く異なっている自分を発見するのです。復活のキリストとの出会いという最大の奇跡を経験すると、他のもろもろの奇跡は、いかにもイエスにふさわしいものに見えてくるから不思議です。

このらい病人は神の力を体験した喜びのあまり、自分の身に起こった事を語らないではおれなかったのであろう。彼がこの事を言い広めたので、ユダヤ教当局からイエスはメシヤを自称して民衆を扇動する者ではないかと疑われるようになり、町に入り会堂で公に宣教することができなくなり、町の外の寂しい所で教えるようになった。これまでは「諸会堂に入り、福音を宣べ伝え」ておられたのに、これ以後は会堂での宣教はごく僅かになり、おもに海辺や家の中、山辺や旅路で語られることになる。それでも、イエスが行かれる所にはいつも律法学者たちがいて、イエスの言動を監視し、批判し、論争するようになる。

福音書のテーマの一つは、イエスに対する人間の無理解があります。親しい少数の弟子たちですら、聖霊降臨の経験を得るまで、十字架のイエスを理解していません。まして一般の民衆たちは、奇跡を行ない、病気を治してくれるイエスを崇め敬いますが、世の罪を負って十字架に向かうイエスには無関心です。イエスは病気の治療を使命の一つとして引き受けながらも、神を愛して十字架の道を歩むことを教えるという、真の救済に至る福音には程遠いことを感じて、口止めしたのではないでしょうか?

主よ、
自分の利益だけを求めようとする
心の病を癒してください。
あなたの愛をもっと深く知り、
あなたのように愛する恵みを
お与えください。


4 per annum B


年間第4主日B
【マコ1:21-28 】


「イエス様は律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになった」とあります。
この権威に驚くとはいったいどういうことなのでしょうか。現代の私たちにそういう経験がはたしてあるのでしょうか。私たちはイエス様の教えに驚いたことがあるでしょうか。

考えて見ますと、私たちの時代は、いままで権威あるものとされてきた人が、それを失っている時代です。尊敬され信頼されている権威は少なくなりました。親、教師、政治家、ある意味で教会も、権威を失ってしまっています。

現代人も、真に権威あるものに出会いたいのだ、それを願い求めているのだ、しかし求めてもなかな か得られない、だからこそ権威への驚きというものが本当にあることさえ忘れてしまいやすいということになるのかもしれません。

さて、イエス様の時代はどうだったでしょうか。たとえば、十戒があります。これは昔も今大変な権威をもっています。
 神様からモーセが受けた十戒というものがあり、今も、キリスト教徒にとっても大切なものです。当時ユダヤの社会では、十戒の教えをさらに細かく規定していた、613もの掟がありました。法の専門家である律法学者たちは、十戒を細かく注釈し、議論しました。
 たとえば安息日には働いてはいけない。ところで歩くことも労働である。しかし人間まったく歩かないわけにはいかない。では一日のどのくらいの距離を歩いてよいか。そういうことがとても大切になっていました。
 そんな時代の中、イエス様はそうした細かなことにとらわれることなく、思い切った教えをしていきました。たとえばこのような箇所を覚えていると思います。
 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。……あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。(マタ5:21-22,38-41)」。
 ここには立法の本当の意味が捉えられていると思われます。この法律があるのは、実はこういうことを神様は言いたかったからだと、神様のみ旨を徹底的に明かにし、深め、解釈しなおす。それも法の権威だけではなく、「わたしは言っておく」と述べて、イエス様はしっかりと神様のみ旨を根幹から理解している。その意味というのはこういうことなのだと、さまざまな解釈の違いにとらわれることなく、はっきり宣言しているわけです。これ以上の知恵、これ以上の確かさがありえないといえるぐらいで、はっきりしている。
 つまり「殺すな。そう十戒で定められているね。でも私は言う。その教えはただ殺すという行為のことを言っているのではない。人をばかだと言ってその人格や価値を軽んじたとき、それはその人を殺すこと同じなのだ。それがいけないと神はいっているのだ」。
 そういう教え。ある意味で立法学者たちが教えていたことよりも、もっときつい教えで、一般の人々には、とてもついていけない教えです。だからこそびっくりします。「とてもできない。でも確かにそれが神様の本当に伝えたいことなのかもしれない」と。
 そしてそのような権威ある教えができるというのも、イエス様が深く父なる神と一つとなっていることを感じさせるのです。

ところで今日の福音書では、人間のほうは鈍いのに、悪霊のほうが、すぐにイエス様の正体をメシアだとはっきり見分けていることも興味を引く部分です。

私たちの今日の世界では、悪霊、汚れた霊というような存在をあまりまともに問題にしないかもしれません。もしそれがただ病気の元凶のように見られるならば、今日はもうそのような時代ではないと思われるかもしれません。しかし、今日の世界に広がる不安というようなものは、新しい形での汚れた霊のなせる業のように考えられます。しかも不安とは拠るべきまことの権威がないところに起こるのではないでしょうか。主イエスが、新しい、まことの権威者として登場されていることの意義は大きいのです。 

 さて、悪霊も恐れ、逃げ出してしまうほどの神の権威を持った、最高のみ言葉、真理そのものを、私たちはこうして毎日曜日に聞きます。
 私たちには、いろんな恐れがあります。将来への不安、犯罪にあうこと、事故にあうこと、自分をおびやかす人。しかしそんなことより何より、神の言葉を聞いて、その権威を認めて生きることは、私たちに最高の安心、最高の知恵を与えるのではないでしょうか。

信頼できる権威を持った人が少なくなった時代、その反面、ますます権威あるものに出会いたいという気持ちが高まる時代、我々の時代こそキリストに信頼をおくべき時代ではないでしょうか。今一番賢い生き方がキリストが教えた生き方ではないでしょうか。

「神との親しさ」。――これこそが「権威」の真の意味です。イエスを見た人びとは、その「権威ある姿勢」に圧倒されました。神の想いを、よどみなく見事に生きていたイエス。その姿は、ほんものでした。うそいつわりのないほんもの。人びとはイエスの誠実さを敏感に感じ取ったのでしょう。

ほんものというものは、毎日の生活のなかで次第に整えられていくものです。たとえ、聖書の言葉を全部暗記していても、その言葉を心に深く受けとめて生活のなかに活かしていなければ、ほんものの生き方にはなりません。ファリサイ派の人たちや律法学者の人たちは聖書の言葉を暗記していましたが、自分の生活のなかで活かしてはいませんでした。ですから、彼らの生き方は、
なにかうそっぽいものだったのかもしれません。にせものは、必ず、ばれます。ぼろがでます。

しかし、ほんものは、いつでもそのままで、まっすぐで、うそがないので、ぼろがでることもありません。ほんものの生き方というのは、神のあったかい想いを自分の生活のなかで生きていることです。神と親しくなって、いつもコミュニケーションを深めていることです。神の想いを、身をもって生きていること。神ならば、どう考えるのかな、と常に心のなかで思いつづけていることが大切なのです。イエスは、それがよくできたのです。神の想いに気づいて、自分から積極的に、ていねいに実行に移していたのです。

パウロが私たちに勧めていることも、ポイントは独身生活か、結婚生活か、にあるのではなく、ひたすら主に仕えること、どうすれば主に喜ばれるかと、いつも、主のことに心を遣うかどうかにあります。

第一朗読に書かれていることも、やはり、神の想いに気づいて、その想いを人びとに伝えるということがテーマになっています。神の想いを相手に伝える役割を果たすのが預言者です。
預言者というものは、自分勝手に語るわけではありません。むしろ、神のあったかい想いだけを語りつづけるのです。神の親心は、ときには厳しい指導を相手におよぼす場合もありますが、
実は、常にあったかい気持ちが動機になっているのです。

神のあったかい想いに気づき、常に感謝し、喜んで生きることができますように。
http://www.seseragi.gr.jp/gospel/gospel.html
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預言は、個人のため、あるいは共同体のための神様からのメッセージです。旧約時代から聖書の中にはたくさんの預言者が登場しています。預言者と言えば、何か他人ごとのように思えるのですが、実は洗礼を受けた人は皆、預言職を頂いています。

しかし、実際、誰かが語った言葉が神様からのものか否か、どうやって識別すれば良いのでしょうか。私は、誰かからの言葉が心に残って離れないようならば、神様からのメッセージとして受け取って良いのではないかと思っています。

以前、次のようなことがありました。ある司祭が、ミサの説教の中で、「時間を有効に使いましょう」と語ったのです。その時の私が、時を無為に過ごすような自堕落な生活を送っていたせいでしょうか。その言葉は私の心に強く響き、いつまでも残っていました。しかし、神様からの言葉とは考えたくありませんでした。なぜなら、その時の私は、その司祭とあまり良好な関係を築いてはいなかったからです。私は、「この人から神様の言葉が出てくるはずはない」と思っていました。しかし、抵抗すれば抵抗するほど苦しくなりました。最終的に観念して、神様からの御言葉として受け入れ、御言葉を礼拝した時、心が穏やかになりました。

ところで、今日の福音の中で、イエス様は会堂に入って教え始めておられます。この「教え始める」という単語の時制は未完了形です。ですから、イエス様は今も教え続けておられることになります。それは、聖書を通して、また私たちの周囲の人を通してです。イエス様は、身近な人を通して語られるのかもしれません。けれども、私たちの心が悪霊に支配されていれば、御言葉は私たちの心に入ってくることはできません。そんな時、まずイエス様に悪霊を追い出してもらわなければなりません。悪霊、それは傲慢の霊です。イエス様と相いれない霊です。イエス様が悪霊を追い出されれば、私たちの心は聖霊で満たされ、神の支配、神の国が私たちの間に実現していきます。

今日、イエス様が身近な人を通して語られます。しかし、私たちの先入観や偏見が邪魔をするかもしれません。悪霊がそれを利用して、御言葉が私たちの心の中に入ってこないように仕向けるかもしれません。そのようなことに配慮しながら、信仰生活を送りましょう。今日、悪霊を追い出し、御言葉を語られるイエス様に、私たちの心の目を向け、耳を傾けましょう。



5 per annum B


年間第5主日B

【マコ1:29-39

「手を取ると、熱が去り、その結果、起き上がった」と言うかわりに、「そばに行き、手を取って起こすと、熱が去った」と述べています。「起き上がる」(ギリシア語で、エゲイロー)ということばに注目させ、死から立ち上がる復活を示そうとしています。(荒)奉仕できない状態は、死の状態に等しい。健康な人間は奉仕できる人だと言わんとしている。ちなみに、この箇所は「(専業)主婦の福音」と言われています。なぜかと言いますと主婦の役割を引き立たせています。
イエスが手を取って起こされると、しゅうとめの熱は去り、彼女は一同をもてなしました。イエスの癒しは、私たちが自分に与えられた使命を生きることへと向かわせます。神の力はイエスを通してこの世にもたらされ、イエスに出会った者は神の国の実現に協力するようになります。それこそ、人間が渇望する、救いではないでしょうか。
主よ、神から離れて倒れている私を癒してください。あなたからいただく使命を生きる喜びに立ち返らせてください。sese05 今わたしが罹っている熱病は何だろうか。イエスの差し出される手は、どこにあるだろうか。深く心を沈めてゆくと、イエスの手がわたしの痛むところに置かれ、わたしの手を取って引き起こして下さるのが分かる。あなたに起していただいたこの喜びを周りの人々と共に味わうことができますように。sese07


常識の世界に住んでいる者が、信仰の青空を見上げようとすると、そこに奇跡という雲がかかっていて、その望みを妨げているように見えます。信仰のある人にとっては、奇跡は当り前で、奇跡を行なう能力(ちから)のないイエスに祈る気持は起きません。しかし又、信仰を求めていながらまだ得られない人にとって、奇跡は実にやっかいなもので、天国の門前にいる赤鬼(あかおに)、青鬼(あおおに)のようなものです。
奇跡が信仰を生むのか、信仰が奇跡を生むのか。どちらが先か分からない問題の例として「たまごが先か、にわとりが先か」というのがあります。しかしこれは創造の秩序から考えれば、親が子を生むのであって、子が親を生むのではないのだから、にわとりが先なのです。神様がにわとりを造り、にわとりがたまごを生むのです。信仰者の人生観には秩序があります。
 「初めに神が天と地とを創造した」(創世記1・1)。これが聖書の世界観の大前提です。すべてのことはそこから始まります。新約聖書の信仰は、旧約の創造論を受け継いで、「初めに言(ロゴス)(神の子イエス)があった」(ヨハネ1・1)という前提から福音書のイエスの生涯が始まるのです。信仰は人間的思考の所産ではなくて、神の賜物なのですから、奇跡が分からないと言って思い悩むのではなく、信仰を与えて下さいと願い求めることが大切です。そしてその信仰は、復活のキリストに出会うという経験によるのです。生けるキリストに出会って倒される。そして彼に起こされる。すると倒される前の自分と、起こされてからの自分とでは本質的に全く異なっている自分を発見するのです。復活のキリストとの出会いという最大の奇跡を経験すると、他のもろもろの奇跡は、いかにもイエスにふさわしいものに見えてくるから不思議です。

自分には信仰があるかないのか、よく分からないという人がいます。けれども、アウグスティヌスがいうように、(信仰がないかもしれないが)信仰を望んでいる、神様のことをもっと知るようになりたい、、という状態はすでに信仰の一種です。あとは神様が存在しているかのように生活してみる、そこから信仰の成長がはじまるわけです。


「悪霊共に物言うことを許さなかった」。イエス様には一つの矛盾がありました。隠れて治療してさえも評判は立ってしまうのに、こんなに大勢の人をオープンに治してしまったら、当然うわさはうわさを呼んで、すべての人に知られてしまうでしょう。しかも尚、「人に語るな」と厳しく戒められるのです。これは「メシアの秘密」と神学者は呼んでいます。
イエスはその全生涯を通して「キリスト」という称号を避けました。公生涯の終わり頃、民衆から隔絶した場所で、弟子たちに「わたしは誰か?」と尋ねました。弟子たちを代表してペテロが、「あなたはキリストです」(マルコ8・29)と答えるとイエスは「そのことを誰にも話してはいけない」と戒めました。
 霊的存在である悪霊は弟子たちよりもはるかに敏感にイエスの正体を見破っていました。イエスと共に天の勢力が地上に突入してきた。さあ大変だ、と悪霊たちはその対策に懸命になっているのです。そして局地戦で、一つ一つの拠点が打ち破られていきます。イエスに負かされた悪霊は、弟子たちよりもはるかに勝った称号をイエスに捧げます。「あなたこそ神の御子です」(マルコ3・11、5・7、ルカ4・41)。
 イエスはキリストであり、神の子であると告白することは正しいことです。しかも尚、それは間違っているのです。イエスは弟子達にも悪霊共にもそれを言わないようにと厳しく命じました。病人を癒し、悪霊を追放し、すぐれた説教をするイエスを人々は、「メシアが出現した」と言い、「神の子が来臨した」と言って彼を崇めるようになることは明らかです。
ところが、この世で名声を博し、名誉を得ることはイエスの道ではありません。イエスがなし遂げようとしているキリストの御業は、この世の権力者達から棄てられ、殺されることによって成就されるのです。人々が願い求める栄光のキリストではなく、人々が顔を背ける苦難のキリストです。「あなたこそキリストです」と告白したペトロが考えていたキリストは、栄光のキリストでした。そこでイエスは、十字架と復活のキリストについて語りました(マルコ8・31)。するとペトロはそのようなキリストに反対し、イエスを諫めました。イエスは怒り、「サタンよ、引き下がれ!」と一喝(いっかつ)しました。ペトロのキリスト告白は、サタンのそれと同じだったのです。そこにサタンの遠謀深慮(えんぼうしりょ)が見られます。サタンの手下の悪霊共が、イエスをキリスト、神の子と言いふらすことによって、人々を誤ったキリストへと導き、真のキリストへの道を閉ざそうとする魂胆(こんたん=たくらみ、策略)です。「伝承された称号を鵜呑みにし、イエスにそのレッテルを貼るようなことをするやいなや、人はもはや先入観なしに彼に出会うことができなくなる」(D・シュヴァイツァー)。
 イエスはペトロを厳しく叱責した後、「わたしの後に従って来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい」(マルコ8・34)と命じました。これは他人事(ひとごと)ではありません。私たちはいかなるイエスを信じ、どのようなキリストを宣べ伝えているのでしょうか。「私は君たちの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと決心した」(コリント第一書2・2)。パウロの戦いも又、この点にありました。

http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0103_mark_.html

3 per annum B


年間第3主日 B   野の百合会
【マコ1:14-20】

イエスの使徒になった人たちは、イエスに呼びかけられて、直ちに、すべてを捨てて従ったとあります。神に従うというのはこのように、変わらぬことのために、動かざるもののために、未来に希望をかけて、過去のすべてを捨てて従うこと。しかし神様に従い続けるということは、いつもいつも簡単ではありません。今日喜び勇んで使徒になった者たちも、常に従ったわけではなく、一番信仰が試されるときに、大きな裏切りをすることになったのですから。私たちは、神様に従うことを、いつも、一生をかけて、選び直しつつ、生きていかなければならないのです。
◇これからお話しするのは、ある神様に従った人の作り話です。山にひとり住み、眠っていた男に、主が現れてこう言いました。
 「私はあなたにひとつの仕事を与えよう。あなたの山小屋の前にあって、いつもあなたの行く道を妨げている、あの大きな岩に立ち向かって、あなたの力の限り、その岩を押しなさい」
 その男は、言われたとおり毎日、岩を動かそうと力の限り押し続けました。熱心に朝から夕方まで、力の限りふんばって、何年も押し続けました。しかしこの岩はびくともしません。すべての努力をあざ笑うかのように、その岩は動かないのです。
 「主が与えてくださった仕事としても、無駄な事に力を使い果たしているのではないだろうか」。そんな失望と落胆が心に生じます。サタンがやって来ては「もうおまえはやめたほうがいい。まったく無駄なことをしている。岩は動きはしない。この仕事にお前は、向いていない。主の言葉に聞き従ったのが間違いだった」。こうささやくのです。
 男はうちのめされ落胆した中、祈って言いました。
「主よ。私はあなたの言われたとおり、あの困難な大きな岩に立ち向かって動かそうとして、毎日働きました。しかし岩は1ミリも動きません。私は無駄のために働いているのではないでしょうか。何が悪いのでしょう。なぜ私はこの仕事で敗北したのでしょう」。
 すると主の答えがありました。「私の子よ。私はあなたに私の言葉に聞き従って仕えるよう言った。あなたは受け入れ、力の限り岩に立ち向かって、毎日押しつづけてくれた。しかし一言も、岩を動かしなさいと言っていない。あなたの仕事は、岩を強く押しつづけることだった。あなたはいま落胆し、すべて無駄だったと考えている。しかし本当に無駄だったのだろうか。今、あなたの手と腕と足と体を御覧なさい。今は筋力(筋肉)が発達し、たくましくなった。またあなたの忍耐力が養われた。確かにあなたはあの困難の岩を動かすことはできなかった。しかしあなたは私に従って、あの従順と私の知恵に信頼し、あなたの信仰を働かせ、困難に立ち向かって、岩を押し続けることがあなたの使命だった。あなたはそれをよくやった。今私はあなたのためにこの不動の岩をも動かそう」
◇実際にこのように主の声が聞こえたりすることはそうあることではありません。そのために、変わらない神に仕え、従うことに疲れ、落胆するときがあります。何も変わらない、失望しかありえないそのようなとき。それでも希望を捨てないように。イエス様は「からし種ほどの信仰がありさえすれれば、それで山に向かって移れといえば移るだろう。できないことはない」(マルコ11・23、マタイ21・20参照)とさえ、おっしゃっいました。動かないものでも必ず動く。神様は私たちの信仰を見て、ニネベを滅ぼすのをやめたように、ご計画を変える方でもあります(ヨナ3:10)。
 より深い信頼をもって、苦しみも喜びつつ、耐えていきましょう。苦しみこそ忍耐を、さらには希望を生み出すのです。失望に終わることはありません。話の男のように、堅くたって動かされず、全力を注ぎ、主の業に励んでいきましょう。主に従うことにおいて、労苦が無駄になることはありません。

「時は満ち、神の国は近づいた」。これは、マルコ福音書におけるイエスの第一声(だいいっせい)です。そこには聖書の世界の独特な考え方が表現されています。つまり、時の流れはすべて神の手の中にあるという認識から生まれてくるもので、一般的な「時」の理解とは、だいぶ違います。
日本語の「とき」という音(おん)(大和言葉)は、「結び目を解く」「氷の固まりが融(と)ける」「疑問を解く」などの「とく」という音(おんどく、おんよみ)と同じものであり、いずれも「物事が解体していく、形が消えてゆく」という点で共通した意味をもっている、とある文学者の説明を読んだ覚えがあります。
そう言われて見れば、一般的には「時は、跡形もなく流れ去っていく、過ぎ去っていく」という認識が強いように思います。例えば松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭の言葉、「月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也(たびびとなり)。」もそうです。また、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀(よど)みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。」という方丈記(ほうじょうき)の時の理解は無常観に満ちています。
こうした考え方の上に立てば、「過去のことにくよくよしたり、こだわったりしないで、水に流してしまえ」という処世術(しょせいじゅつ」も生まれてきますし、人生はむなしいというあきらめに満ちた生き方、世渡りのための人間的な知恵となります。
聖書の「時」には、このよう一般的理解と違って、確かな意味と目的が与えられています。この世はむなしいものではなく、うれしい発見に満ちたものに見えてきます。従ってそこで起きる出来事で意味のないものは何ひとつないということになります。たとえ、それが人間に不可解なことであり、そこに神様が働いておられるとは到底思えないような出来事であったとしても、そこに神の愛が必ず働いているというわけです。
こうした歴史観、世界観に立てば、一つ一つの出来事に神の働きを見出し、神にゆだねるという姿勢を育てていくことが人生の大事な課題ということになります。「時が満ちた」というイエス様の呼びかけに答えて、そこに神の意志を見出し、人生をゆだねることのできた弟子たちは幸せです。

2 per annum B


年間第2主日 B年

ヨハネ1・35-42

年間第2主日には毎年、ヨハネ福音書からイエスの活動の最初のころのエピソードが読まれます。年間主日のミサの福音は3年周期で、マタイ・マルコ・ルカ福音書をもとにイエスの活動を思い起こし、ヨハネ福音書は主に四旬節や復活節に読むようになっています。ただ、活動の最初のこの部分だけは年間第2主日に読まれるのです。
 内容的には「イエスが姿を現し、人々がイエスの光に出会う」というものであって、「栄光の現れ」(「主の公現」の福音のヒント参照)という降誕節のテーマを引き継いでいます。

イエスさまの最初の弟子は洗礼者ヨハネの弟子だった。私はこのところを読むたびに、本当に感動してしまいす。そして洗礼者ヨハネという人が、本当に神の僕(しもべ)、預言者であると思いました。本当に成熟した人だな‥‥この世の中ではどうでしょうか? 例えば、何かの習い事の先生が、自分の所のお弟子さんが辞めていって、他の先生のお弟子さんになったとしますと、「弟子を取られた」などということになりはしないでしょうか。
 しかしヨハネはやきもちがない、むしろ自分の弟子たちが、イエスさまに従っていくことを望んでいるのです。自分を離れて、イエスさまに従っていくように、と。まだ世の中の人が誰もイエスさまのことを知らない時のことです。

ヨハネ福音書の中でのイエスの第一声(だいいっせい)は「何を求めているのか」というものです。「○○しなさい」でも「○○するな」でもなく、相手の求めていることに耳を傾け、それを受け取ろうとしてくださる言葉です。イエスはわたしたち一人一人にもまずそう問いかけてくださっているのではないでしょうか。
 これに対する二人の答えは「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」というもので、質問に対する答えの形にはなっていません。

「来なさい。そうすればわかる」 イエスの呼びかけは、あまりにも単純です。しかし、短い言葉の奥底に深い思いが込められています。イエスのことが分かるためには、理屈よりも
自分の身をもってついていくことこそが重要なのです。まず、信頼してイエスと行動を
ともにすることが求められています。二人の弟子は、余計なことは言わずに、ひたすらイエスのあとについて行きました。「午後四時ごろのことである」とわざわざ書いてあることからも明らかなように、弟子たちはイエスに従いはじめたときを、かけがえのない門出として、しっかりと意識しています。私たちも大事な出会いの出来事を事細かに日記に書きとめるなど鮮明に記憶しているものですが、イエスとの出会いは二人の弟子たちにとっても
印象深い出来事だったのです。まさに、第二朗読で説明されているように「自分のからだで神の栄光を現わすこと」が肝要です。自分の欲望にもとづく勝手な都合で生きることをやめて、ひたすら神の呼びかけに耳を傾けて全身全霊を賭けてついて行くこと。頭だけで考えて詮索するのではなく、むしろ自分の生き方を神の思いに同調させてみることが問われています。神の呼びかけに自分の歩みをあわせてみることが、神の思いを理解する第一歩なのです。イエスこそが神の呼びかけを私たちに感じさせてくれます。
イエスをとおして多くの人々が神の呼びかけを実感して歩み始めました。神の呼びかけは、
誰かをとおして取り次がれていくものです。イエスはもちろんのこと、エリ、洗礼者ヨハネ、パウロも神の呼びかけを周囲の人々に示しました。言わば、彼らは神の呼びかけを相手に取り次ぐ役割を果たしています。
私たちは、どうでしょうか。今日、神の呼びかけを実感しているでしょうか。そして、神の呼びかけを周囲の人々に取り次ぐ役目を担っているでしょうか。今日の三つの朗読箇所を読み直しながら、内省してみるとよいかもしれません。


「わたしたちはメシアを見つけた」(41節)ということばも大事、イエスさまの表に見えない内側にある神の奥深さに気づいたということでしょう。人、出来事の表面だけにとらわれがちなわたしたちに対する勧告でもあります。要するに「観察すること」が大切であるといえます。観て、察してあげることです。換言すれば、心の目で見ましょう、ということです。ヨハネのような役割を果たしている人は世の中にたくさんいます。それが当たり前のこととしてではなく、必要なこととしてみることでしょう。自分が必要とされていることは、その人に生きがいを提供してくれます。そのような自分を求めて今年も前進しましょう。

Cristo Re B


王であるキリスト  B年 

ヨハネ18・33b-37


教会の暦は待降節第1主日から新しい1年が始まりますので、きょうの「王であるキリストの祭日」は年間最後の主日ということになります。「王」という言葉は現代のわたしたちにとって馴染みにくい言葉ですが、この祭日のテーマは、神の国の終末的な完成を祝うことです。この日の朗読箇所は3年周期の各年でずいぶん異なっています。今年(B年)は、イエスが逮捕され、ローマ総督ピラトから尋問される場面です。

「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」
イエスはこのように堂々とピラトの前で宣言されます。真理のためにいのちをかけ、真理に沿って生きる、これは私たち凡人にとっては実に難しいことです。私たちの心を動かしているのは、多くの場合、真理ではなく、別のものです。それは欲望であったり、野心であったり、快楽であったりします。
 今日の福音書に登場するピラトもユダヤ人も、私たちと同じように真理とはほど遠い世界、ウソの世界を生きていることをあがかれてしまいます。イエスをピラトの前に引き渡したユダヤの祭司長、長老、律法学者たち、彼らはいのちをかけて守ろうとするものは、自分たちの勢力であり、繁栄です。そのためにどんなひどいことでもやってのけます。偽りも暴力も平気です。自分の望む目的を実現するために手段を選びません。恥ずかしいこともします。
  私たち凡人がひそかに生きている偽りの姿を拡大すれば、ピラトやユダヤ人と同じ姿になると思います。祭司長、長老、律法学者たち、彼らはユダの手引きによって捕らえられたイエスを、不正な裁判にかけます。偽証人を立ててまでイエスを訴えますが、死に追いやる証拠はみつからないから、イエスの言葉じりをとらえて、冒涜罪(ぼうとくざい)として、死に値すると主張します。ここには真理はありません。自分たちの欲望や野心が原点にあって動いているわけです。そしてピラトにはローマ皇帝に対する反逆者としてイエスを訴えます。ここには抜け目のないずるさがあります。下心にねたみと野心があることをピラトから見ぬかれています。
  ピラトは何度もイエスをゆるそうと、ユダヤ人たちに働きかけます。何がなんでも死に追いやろうとするユダヤ人たちは、最後に自分たちがもっとも毛嫌いしていた世界(異邦人のローマ)に自分たちが従属している事実を認めてしまいます。
「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」
皇帝、つまりこの世の権力者。神を無視した世界のシンボル。力と快楽を求めて手段を選ばない世界。それは、神から選ばれ、神に従って生きることを誇りとしてきたユダヤ人が、もっとも軽蔑していた世界です。異邦人としてさげすんだ、差別していた世界に自分たちが属しているものであることを、はからずも暴露してしまったのです。ウソを生きる、この点に関してはピラトも同じです。イエスが無罪であることを知りながら、ユダヤ人から圧力をかけられて、自分の考えのままに行動しません。
 適当に黙ったり、迎合したり、じょうずに逃げたり、ずるい妥協を繰り返して生きてきたピラトは、真理から目をそらします。真理に従えば自分の地位も危うくなると感じた彼は、ウソの世界と妥協します。自分の良心の声に耳をふさぐのです。
「真理とは何か」とピラトは問いかけはします。しかしそれ以上すすみません。現実に妥協してしか生きていけないピラト、それは私たち凡人の姿でもあります。家族を食べさせて行かなければならない。そのために、小さな妥協を繰り返して、小さな偽りの世界から抜け出せないのです。
ユダヤ人もピラトも、そして私たちも、現実の生活に重きをおいているということに関してはあまり差はないのです。
真理を証しするために来られたイエスがみつめているもの、もっとも重きをおいているものは、神さまと神の世界です。そこにすべてをかけておられるのです。ウソと妥協から、人間の真の救いはありえない。このように教えてくださったイエスは、本当の意味で王様です。
彼に従えば、自由の王国にいけます。「真理はあなた方を自由にします。」という言葉があるように、イエスのみ言葉を受け止めたいと思います。そうすることによって、もうちょっとになってみたい。

(この世にはたくさんの支配者がいます。国王、大統領、総理大臣。いろいろな名で呼ばれますが。しかしこの世のことなどよりはるかに大きな宇宙万物、過去・未来をも支配する王様がいます)。
 神様がいます。神様は人間やこの世のこと、過去も未来もすべて支配しています。しかし神様は目に見えません。神様の考えもはっきりとは知ることができません。そこで神様からのとっておきのプレゼントとして、神様の独り子・イエス様が、2000年前に、イスラエルという国でお生まれになりました。彼に聴けばこの世の権力を過剰に気にせずに安心して生きていけます。イエス様はこの世のどのような権力よりも強いです。


今日は、「王であるキリスト」の祭日です。典礼暦では年間の最終主日にあたり、来週から待降節に入ります。
聖イグナチオ・ロヨラは、『霊操』という祈りの指導書の中に、「二つの旗」という祈りを置いています。悪魔の頭ルシファーの陣営とイエス・キリストの陣営の二つの様子を描き、自分はどちらの旗の側に付くのかを選ぶ祈りです。
イグナチオによれば、ルシファーは、まず、この世の富で人の欲望をそそります。その結果、むなしい名誉、そして最終的には増長した高慢へと人を誘い、そこからあらゆる悪徳の道に導くのです。
一方のキリストは、ルシファーとは正反対の「戦略」を取ります。まず、人々を心の貧しさに導き、
次いで世の名誉に対して辱めやさげすみを厭わないところまで、そして最後には真の謙遜へと導き、
そこからあらゆる善徳を生じさせます。

キリスト自身が、貧しく蔑まれた謙遜な生涯を送りました。今日の福音でイエス自身が語るように、
私たちの「王」はこの世の王とは大きく異なります。
私たちはどんな王に付いて行くことを望んでいるのか、そして王は付き従う私たちに何を望んでいるのか、今日の祭日に今一度じっくりと思いを巡らせ、しっかりと心を定める機会にしたいものです。

33 per annum B


年間33主日 B
【マコ13:24ー32 人の子が来る】

 きょうの福音書は、いかにも世の終わり。「滅び」の予告する言葉のようですが、実はそれは、神の栄光を帯びた人の子つまり救い主が来られるという教えです。キリスト教の言う「終末」とは決して「終わり」ではなく、神の国の「完成」であり、終末預言とは、すべてを神のみ手にゆだねる生き方への呼びかけにほかならないことが示されているのです。

ある人が、スーパーの閉まる直前、買い物に出かけ、食料や、日用品などをいろいろ買ってレジに並びました。たくさん並んでいて、やっと自分の番来て、レジで計算をしてくれたあと、金額が12000円にもなりました。そこで、財布を出そうとしたら、なんとそのお財布の中には1000円しかなかったのです。前の日に、電化製品を買ったことを忘れていたのでした。それでお金を取りに行くからこのまま置いておいてもらえませんかと言ったのですが、もう店が閉まるから駄目、もとの場所に帰して下さいと言われました。たくさん人も並んでいたので、恥ずかしいやら、情けないやら、いろんな気持ちで、またずいぶん時間をかけてもとの場所に品物を返したのでした。
 太陽が暗くなって、天も大地も、明日のない終わりがある。お店だったら、今日終わっても明日開く。夜だったら、朝が明ける。今年だったら来年がくる。でも明日のない終わりがある。その時皆、神様の前に出て、清算しなければならない。「幾ら買ったのですか」でなく、「生きている間何をしたのですか」と聞かれる。こんな悪いことをした、あんな悪いことをした、怠けもした、やりたい事をした。悪い事に対しては罰を受けなければならない。そんな日が来る。その時どうしますか?
 終わりがある。清算しなければならない。今年失敗した事は来年取り戻せば良い。金を借りて、今年返せなくても、来年返せば何とかなる。今年受験に落ちても、来年入ればいい。でも決して明日、来年なんとかすると言えないときがくる。12000円なくて恥ずかしい思いをするかもしれない。でももしこの時に、誰かが代わりに払ってくれたら助かります。でもそんな人はいるわけがない。ばかじゃないと見て、内心あざ笑って終しまい。
 でも人の子イエス様は私が払う事の出来なかったお金を払って下さるため、私の代わりに罰を受けるためにおいで下さったのです。イエス様をあざ笑う者、ののしる者をなお救うために来たのです。裁くために来るのですが、弁護者としてイエス様を信じる人々の足りなさを補うためにも来るのでもあります。
 イエス様が足りないところを補って下さる。だからと言って、この世で、怠慢に自分のことばかり考えて生きていればいいと言うのではもちろんありません。ただ世の終わりの審判への恐ろしさ、恐怖から、善いことをするのなら、意味のないことではいと思います。そういうレベルの話しかわからない人もいると思います。けれどもそうでなく、私の負債、借金を負って下さったイエス様への感謝の気持ちを本当に理解し、しっかりと自覚したとき、その感謝の気持ちは、自然に他人にもあふれ、善い行いをせざるをえないはず。

 もうじき教会の暦の中で1年が終わろうとしています。この最後の時を迎えて、もう一度この1年を振り返って、イエス様ありがとうございます。そう言ってみませんか。確かに色々つらい事もあったかもしれないですけど、でも神様に感謝してみませんか。私たちはとかく不幸なことばかり並び挙げて、神様は何もしてくれていないと言いがちです。でも本当は、たくさん守られて、与えられています。感謝することはたくさんあるはずなのに、それを意識しない。気がついていないだけかもしれません。身近だからこそ忘れている家族への感謝、こうして生きていられること。いろんなことに感謝しながら、新しい季節に立ち向かっていきましょう。moseos

神のはからいに信頼して生きるように、今日の三つの朗読箇所を通して主は招いておられます。神のいつくしみが完全に実現するまでの歩みを人々が体験しています。しかも、完成のときの直前には、
大いなる「苦難」が必ず訪れるということが強調されています。たしかに、イエス・キリスト御自身も、神の栄光に入る直前に「十字架の死」の苦難を身に受けました。苦難を経ても、神への徹底的な信頼が保たれているときに、その人の信仰は実を結びます。
私たちの日常生活においても、さまざまな苦難が次々に起こりつづけています。親子の不和、夫婦の断絶、会社と個人との矛盾、学校内のいじめの問題など、数え切れないほどの問題が積み重なっています。しかし、これらの苦難の中にあって、神に信頼して前進しつづけていくときに、必ず、思いもよらないほどの実り豊かな結果が与えられていくこともまた、真実なのです。困難が大きければ大きいほど、試練を経たあとの豊かさは、測り知れないものとなるのでしょう。「キリストに信頼して生きる人」は、第一朗読では「お前の民、あの書に記された人々」と呼ばれ、第二朗読では「聖なる者とされた人びと」と名指され、福音朗読では「弟子たち」、「彼によって選ばれた人たち」として描かれています。神は何としてでも人間を救おうとして、独り子を通して、「つながりを密接に深めていこう」とされているのです。神とのつながりが深まるとき、人間は「神の民」となり、「聖なる者」として生きることができます。「聖なる」とは、神のいつくしみにつつまれて、常に神とともに親密に生きているという意味です。「あの書に記された」とは、神が人間を救いたいと望み、ひとりひとりを深く知り尽くして忘れないように記録しているという比喩表現です。それほどまでに相手のことを大切に覚えて責任をもって接してくださるのが神のいつくしみなのです。
私たちは、日ごろ、必要以上に悩んだり、苦しみ続けてしまうことが多いのですが、苦難は苦難で終わるわけではないという真実を思い起こすことが大切でしょう。いつくしみ深い神が私たちを見棄てることは、決してありえないのですから。聖書には、さまざまな人物と神との関わりが描かれていますが、そのような関わりから常に、「滅びることのないいつくしみの実現」が浮き彫りになってくるのです。イエスを通して決定的に表された神のいつくしみに、いっそう信頼を深めていくことができますように。sese06

わたしたちの現実はどうでしょうか? わたしたちの中には両面があると言えるのかもしれません。苦しみの中で必死に生きている現実と目先の利害に振り回されている現実。そのわたしたちにとってきょうの福音はどのように響いてくるでしょうか。

  (5) イエスはこの中で「わたしの言葉は決して滅びない」(31節)と語ります。13章の初めで、弟子たちは目に見える神殿こそが確かなものだと思い、そこに信頼を置こうとしました。しかしイエスは、それは結局滅び去るもので頼りにならないと説きます。そして、だからこそ決して滅びないものに弟子たちの目を向けさせているのでしょう。「愛は決して滅びない」(〓コリント13・8)というパウロの言葉も思い出されます。わたしたちにとって、「決して滅びないもの」とは、本当に頼りにすべきものとは何でしょうか? hinto


32 per annum B


年間第32主日 B年
マルコ12・38-44

 場所は神殿の庭です。そこには13個のラッパ状の賽銭箱が置いてありました。多くの参詣者が金を投げ入れている中で、一人の貧しいやもめが、そっとレプトン銅貨2枚を投げ入れました。マルコはその金額をローマの貨幣価値に換算して、彼の福音書を読むローマ人に分かるように配慮しています。ここで「2枚」という点を注目したいと思います。この婦人は1枚を献金して、あとの1枚を生活費として残しておくことができたはずですが、彼女は2枚とも捧げてしまったのです。マルコは、「あらゆる持ち物、生活費の全部」と書いて、それを強調しています。
 生活費のすべてを献金した貧しいやもめの行為については、いろいろ疑問が生じます。どうしてイエスにそれがレプトン銅貨で、その2枚が彼女の全財産だと分かったのか? すべてを献金してしまったなら、明日からの生活費をどうするのか? そのような無分別は、結局は周囲の人に迷惑をかけることにならないか? 全財産を捧げよという教えは、まさに変な宗教は進めているではないか?
 財産のすべてを捧げよとは、ある宗教家が説くところです。そしてその殆んどすべては欺瞞です。寺院、会堂、教会の壮大豪華な建築に比べて、貧弱な信者の家屋を見かけることがあります。民衆の信仰心を煽り立てて、その陰で宗教家が王侯貴族のような贅沢をしています。人集めと金集めの上手な宗教家を世間も教団も崇めます。
 イエスも又、神にすべてを捧げよ、と教えました。しかし同時に彼は、「やもめの家を食い尽くす」律法学者を激しく非難しました。宗教家が「神」を看板にして宗教的ビジネスに熱中することを批判しているのです。マルコの描くイエスは、お忍びの姿で人間世界を歩む神の子なのです。それでイエスにはすべてがお見通しなのです。やもめの手にある2枚のレプトン銅貨も、それが彼女の持てるすべてであることも、彼女の心にある純粋な信仰も、律法学者の偽善的な長い祈りも。宗教の専門家が神に仕えていると言いながら、その実、神を利用しているのとは正反対に、貧しいやもめが、恵みの神への感謝と信仰の喜びに満ち溢れて、持ち物すべてを捧げて、自らのすべてを神の御手に委ねている姿が、イエスには明らかに見えるのです。「幸いなるかな、霊において貧しき者、天の国はその人のものなり」(マタイ5・3)
 「先ず神の国と神の義とを求めよ、さらばすべてこれらの物は、汝らに加えらるべし」(マタイ6・33) これがイエスの人生哲学なのです。先ずなによりも第一に神との関係を正しく保つこと。神の愛に満たされ、神への愛に生きること。そして生活上の思い煩いから解放されて、「空の鳥」や「野の花」のように自由に生きること。このイエスの人生哲学を学んで生きる者が、クリスチャンなのです。
 http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0111_mark_.html
 
  現代においても私たちは、有り余るものだけ、自分にとって快適な生活が保たれる程度に、献げているのではないでしょうか。それも、自分の良心の平安を保つために。あるいは、お金や物を分け与えても、誰かがそばにいることを必要としている人に私の時間を、また、私自身を与えないことが多いのではないでしょうか。社会的に疎外されている人々の権利を認めても、彼らを自分の生活の中に入れようとはしていないのではないでしょうか。
「乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れたからである。」ということからしますと、連帯の根本的な態度は自分が誰かのために痛みを感じることを良しとすることです。無関心ではいられない、心からの分かち合いです。それは、相手を辱めるような援助ではありえず、対等な立場における援助です。

やもめの行いを見て、いろいろな反省をさせられます。私たちの施しの動機は何でしょうか?なぜ、イエスを信じる私たちが、もっと寛大になれないのでしょうか?イエスのまなざしを感じながら、
愛と信頼のうちに、私自身を喜んで与えていくことができますように今日一日祈りたいものです。
sese

ともかく、律法学者たちは自分は善をしている、あるいは正しいことをしている、信仰あつい人間なんだということを誇りたいのです。そのように人々からいわれたいのです。それは神様からそのように認めてもらいたいというのではなく、もっと手っ取り早く、周りの人間からそのように評価されたい、ほめられたいのです。もちろん、本当は神からほめられたいのです。しかし神からほめられるとしても、それはずっと先の話になるし、終末のことになるかもしれないし、いつになるかわからない、だからもっと手っ取り早く、今その報酬を得たいのです。死んでからほめられてもひとつもうれしくはないのです。
 マタイでは、イエスはそういう偽善的な行為に走る律法学者パリサイ人に対して、彼らは「報いを受けてしまっている」というのです。つまり、彼らは神からの報いを受ける前に、人からの報いを受けてしまっているというのです。
 手っ取り早くほめられたい、生きているうちに、目に見えるかたちで、自分は立派な人間なんだと人々に評価されたい、彼らはそこに生き甲斐を求めていたのであります。そのために、彼らは偽善的になるのであります。
神様を相手にしたら、そんなことは通用しないことを知っているのです。神の目はそんなに甘くないことをわれわれは知っています。ですから、もしわれわれが神の前に立つならば、われわれは偽善的になりようがないのです。すべては神に見透かされてしまうからであります。それで彼らは、いや、彼らというよりは、われわれはといったほうがいいと思いますが、われわれは神を相手にするのではなく、人を相手にする。人からほめてもらおうとするのであります。そのために見栄のために長い祈りをしたり、上座の席に座るのを好むのであります。あるいは、最初は末座に座って、人からどうぞ、あなたは上座に座ってくださいとすすめられたいのです。神様の目はごまかせないが、人の目はごまかせるとわれわれは思っているのです。つまり、偽善者というのは、神という他者の前にたっていない。信仰というのは、自分以外の他者としての神の前に立つということであります。やもめは、ただ神のみをみつめて捧げている、キリストはその姿勢に打たれたのではないかと思います。子供が病気の時には、お百度まいりしたり、(好きなものを断つ)お茶断ちをしたりして、なんとか子供の病気を治してもらおうと、神社にお参りする、お地蔵さんにお供え物をする、それと同じような気持ちではないでしょうか。彼女は貧しいなかでも神に感謝したいという気持ちだったでしょうか。神の前で、無力な人は一人もいないということです。自分は年をとって何もできない、病気で何も役に立たない、能力はないから人からあまり期待されないとか。そんな人でも持っているものを惜しみなく心から捧げれば、神はそれを喜ぶというわけです。「キリスト者とは、ただキリストだけに頼るしかない人のことだ」と言う言葉を心に受け止めておきたいと思います。

http://www.t3.rim.or.jp/~kyamada1/luke78.htm


30 per annum B


年間30主日 B マコ10:46ー52

あいさつ:イエスを救い主として信じることができたのは、人からは見捨てられた人、自分の弱さ、貧しさを知った人でした。ですから、私たちの弱さをみとめ、許しをねがいましょう。

 
今、園田教会の前、園田橋からおりてNTTのビルの前をイエスが歩いておられると聞いたらどうするでしょうか?何もかも置いてすぐに飛び出して、今日の福音の盲人のように、イエスに向かって自分の願いを必死で叫ぶでしょうか?
答えは、ほぼ「No.」でしょう。
まずはその人が本当にイエスなのかどうか、現代人に得意な懐疑心を持って相当に疑うでしょう。
そして、もし本当に彼であるらしいとわかっても、様々な理由で、後先考えずに公道で何かを叫ぶという「みっともない」行為を自分に許さないでしょう。人がどう思うだろうか、人生に満足していないということを人に知られたくない、急いでいらっしゃるのに私なんかのために時間を取らせるのは
申し訳ない、などなど、言い訳はいくらでも出てきます。
いえ、実はそもそも、そこまでしてイエスに叫ばずにはいられないほどの強い願いを持っていない、
あるいは自覚していないというのが正直なところかもしれません。病気や失敗や悩みなど、人の目を気にする余裕もなく自分の願いもはっきりする逆境の時ほど、かえって単純に神(イエス)に出会うチャンスになる。それは古来多くの人の体験が証明しています。

また、今日の人物の立場にたってみて、イエスが私に気づいて近づいて来て、私の目を覗き込んで限りない慈しみに満ちた声で尋ねる場面を想像してみます。「何をしてほしいのか。」
私の中にどんな感情が動くでしょう?イエスの視線にまっすぐ自分の視線を返せるでしょうか?
私がイエスに向かうことを妨げるものは何でしょう?質問には何と答えるでしょうか?
今日一日、そのイエスのまなざしと質問とともに過ごしてみることにします。
今の私の一番深い望みは一体何でしょうか。そこから私と神とのお付き合いが始まります。
信仰の大先輩である今日の盲人バルティマイの単純さ・一途(いちず)さにならって、
私もありのままの自分で単純にイエスにぶつかっていくことができますように。sese

 私たちは目が見えるものとして生活しています。そのことを疑うことはありません。しかしその前提を疑うことができると言ったら、おかしなことを言っていることになるでしょうか。
 人間が盲目であると知るのは、光があるからです。もしも光がないところで人間が生活しているなら、人間は自分が盲目であることを知らないことになります。
 ある人がトンネル工事中に事故に遭いました。トンネルから外に助け出されるまで、そのけが人は、自分は手足にけがをしているだけと思っていました。しかし救出され、外に運び出されたとき、初めて目もけがをして、失明していることに気づいたのです。
 人間が自分が盲目であると知るのは光があるから。光がないところでは自分が盲目であることさえ、分からないことになる。目が見えると思えるのは、そこに光があるからです。

 それを心の内面の問題に移し替えると、こうなります。私が罪人であると分かるのは、イエス・キリストという光に照らされるからです。もしもイエス・キリストがいなければ、自分が罪人であることにさえ気づかないと言うことが、たくさんあります。光に照らし出されて、初めて、自分が闇の中にいるということが分かるからです。カトリックにはさまざまな掟があります。これらが時に、重荷になり足枷になり、カトリックであることの不自由さを思わせることもあるかもしれません(例えば、毎週日曜日ミサに出かけなければならないこと)。しかしそれらの掟を知っていたからこそ救われ、そのために後からかぶさってくる重荷や責任から、早めに解放されると言うことも、確かにあるのです。
 自分が見えていないことにさえ気づいていない人間は哀れです。その人は、光の世界に連れ出されたときに初めて、自分の目が見えていなかったことに気づきます。同じように、自分が罪人であることにさえ気づいていない人間は哀れです。その人は、どうしようもない状況に自分が引き出され、また落ち込んだときに初めて、自分が罪を犯していたことに気づくのです。
 そこでイエス様は、ある時、ファリサイ派の人々を「盲人の道案内をする盲人だ」(マタ15:14)と言って批判したことがありました。ファリサイ派の人々は、自分が盲目であるとは思いも寄らなかった。しかしイエス様という光から見れば、ファリサイ派の人々は実は盲目だったのです。
 それに対し、第一朗読で読まれたエレミヤ。彼はイスラエルの指導者たちに見えなかったもの、神のみ旨がはっきり見えた人でした。しかし目に見えるものでも、周りが目の見えないものばかりである場合、目の見えるものというよりは、異常な人とみなされます。そのために迫害され、苦しみを体験したのです。

 闇を照らす光を、光であるがゆえに拒んでいる。そういうものになっていないでしょうか。光より闇を好む。そういう人間になっていないでしょうか。
 百聞は一見にしかずなどと言います。しかし目が見えれば、それで本当に正しいことが見えると断言できるでしょうか。物質的なものが見えること、それはもちろん大事ですが、しかし本当はそれよりはるかに大切なものがあるのです。
 「心の目が見えているのか」。それが神様から今問われています。バルティマイと同じように、私たちこそ「私は何も見えていない人間です。私を憐れんでください。私は目が見えるようになりたいのです」と、何度も何度も叫ぶべきなのです。そして眠りからさめ、光そのものである神に照らされて、立ち上がり、光の中を歩めるよう、回心の恵みを願っていきましょう。moseos

バルティマイは「行きなさい」と言われたにもかかわらず、イエスに従うことを選びました。 このバルティマイの姿は、結局のところ財産を頼りにしてイエスに従うことのできなかった金持ちの男や、誰が偉いかを論じ合っていた、名誉を求めていた弟子たちの姿とはっきりと対比されています。マルコ福音書はバルティマイの中に「十字架への道を歩むイエスに従う人」の典型的な姿を見ていると言えるでしょう。これも、我々の歩みに参考になると思います。hinto

28 per annum B


年間第28主日 B年
 マルコ10.17-30


弟子たちの中で、そんなに金持ちはなかったはずなのですが、弟子たちはびっくりしてしまいました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。弟子たちならずとも、こう言われて驚かない者はいないでしょう。
 とにかく弟子たちはこのときから、お互い金持ちになることだけは避けるようとしたのでしょうか。しかし世の中には、金持ちになってしまう方々がいるものです。大変な苦労をして金を作る人のいれば、親から受け継いで、宝くじがあって、金持ちになる人もいます。
 そういう方々にとっては、きょうの福音のことばは厳しくて、耳痛いかもしれません。何しろ神の国に入れるかどうかというという死活問題、永遠の運命がかかっているのですから。
 この不思議なことばの意味を解く鍵の1つとして、あのマタイ福音書25章の神の国に入る者の“リスト”を頭に入れておく必要があります。つまり、最も小さな者に何かをしてあげなかったささいな怠りが、神の国の入り口を阻むのだというのです。
 その怠りとは、飢え渇く人に飲食物を与えなかったこと、病気の時の見舞い、刑務所訪問をしなかったことなどです。金を持ち過ぎたことについては何も触れられてはいないのです。
 このことからしますと、お金を持つことは構わないが、勝負どころは、そのお金でどれだけ小さき者の世話をしたかというところにあるようです。
 また、あの有名な「金持ちとラザロ」(ルカ16・19―31)の話でも、ある金持ちが、玄関先のすぐ近くにいた貧しいラザロに関心を寄せなかったことが問題とされています。「陰府の国に行った金持ちは言い渡されてしまいます。「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって」(同16・26)、この淵は越えられないのだと。
 越えられない淵、通れない針の穴この2つはおそらく同じものでしょう。場所的に言えば、すぐ近くにいたラザロに対して、金持ちは小さな無関心を重ね、ついに越えられない淵をつくり上げてしまいました。
すると、ここで言われている「金とは一体何を指しているのでしょうか。それは実際の現金のみならず、人と人の間に淵をつくってしまう恐れのあるすべてのものということになりましょう。
http://www.cwjpn.com/kiji/konnakomichimo/komichiold/komichi3735.htm

お寺や神社に行きますと、よく、寄付をした方の名前が貼り出されているのに気づきます。人よりも沢山したらしい方々は、大きな字で、ご本尊に近い所に貼り出されていて、少しした方々とは違う特別扱いだったりします。日本には、「地獄の沙汰も金次第」というイヤな言葉もありますが、ああいうのを見ますと、結局、裕福な人の方が天国に近いのか、貧乏人は天国から遠いのか、という印象を受けます。この世の宗教を見ていると、そんな考えを持っているのかなあ、と思わざるを得ないことがあるのです。
ですから、今日の御言葉の23節で、イエス様が、「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」とおっしゃった時、「弟子たちは、イエスのことばに驚いた。」(24節)とありますが、やはり弟子達も、この世の考え方、つまり、お金があるということは、沢山の寄付が出来るし、そういうお金があるということ自体が、神様から祝福されているしるしではないか、…というような、この世の考え方をしていたのだなあ、と思います。だから、イエス様の言葉に「驚いた」のでしょう。
この箇所の直前には、いわゆる「金持ちの青年」の記録があります。せっかくイエス様の教えを求めに来て、そしてその答えを頂いたのに、しかしそれが自分には厳しすぎるように思えたために、22節、「彼は、このことばに気を落として、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」ということになってしまったのです。金持ちであるがゆえに、イエス様を選びきれなかったのです。もちろんだからといって、私達が皆無一文になる必要があるのではありません。私達に必要なのは、お金にとらわれる心から解放されることなのです。お金への執着心は、私達が神様と共に歩むことを邪魔するからです。大切なのは、お金を沢山とか、全部とかいうことではなくて、信頼をどこにおいているのか、ということでしょう。幼子のように全幅の信頼感をもって、後のことの心配はイエス様に委ねて、ただイエス様について行けばそれでよいのだということでしょう。
 さて、驚いた弟子達に、イエス様は重ねて語ります。
24節、「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
 言い換えますと、「誤解するな。お金というものは、あなた達が神の国に入ることを助けるどころか、時にはむしろ邪魔になるのだ。あなた達の心を束縛し、それをささげるべき時に捨てきれない、という葛藤が生じるのだ。それほど人間の心は、お金にとらわれやすいのだ、というのです。
 これは、私達の、そして弟子達の常識をひっくり返す言葉でした。
26節、「弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。『それでは、だれが救われることができるのだろうか。』」
 一番入れそうな金持ちが入れないのであれば、それでは一体誰が、天の御国に入ることができるのだろうか…。金も力も無い俺達は、一体どうなってしまうんだろうか、と思ったのでしょう。
 25節の、「らくだが針の穴を」というのは、通れるはずがありません。絶対に不可能です。では、金を出せば、天の御国へのこの小さな入り口は広がるのでしょうか。イエス様は、広がらない、と言われたのです。(この世の宗教は、それが広がるのだと教えて、人を惑わし、財を集めるのではないでしょうか。)
 じゃあ、金を出しても広がらないのなら、一体誰がそこを通ることができるのでしょうか。・・・ここで、イエス様がおっしゃるのは、金持ちだけのことではありません。弟子達全員、私達全員に、「あなた達は、この針の穴を通れるか。」と問うておられるのです。
 ここで、イエス様は何をおっしゃりたいのでしょうか。
 それは、「人にはできないこと」だということを、徹底的に悟らせたいのです。
 天の御国に入るということは、人間の力では出来ないことです。それを、「人の力でできる」と考えるのが、この世の宗教の大半でしょう。お金を出せば救われるとか、良いことをすれば報いがあるとか、えらいお坊さんにお経をあげてもらえば御利益があるとか。
 しかし、そういうことが私達を天の御国に入れてくれるのではありません。人間は何をやっても、天国への針の穴を通ったわけではない。自分を救うことが出来ませんし、ましてや他人を救うことなど出来ません。出来るように思うのは、気休めに過ぎないのです。場合によってはごまかしにもなります。
「それは人にはできないこと」と、イエス様は徹底的に確かめさせようとしておられます。じゃあ、駄目なのか。人は誰も天の御国には入れないと、諦めなくてはならないのか。いや、そうではないのです。「人にはできない」ことが、「神にはできる」のです。
27節、「イエスは、彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。』」
 人間にはできなくても、「神にはできる」のだということを悟り、そこに望みを置き、しっかりと信じなさい、と言うのです。救いがある所は、人間の側ではなく神様の側なのです。神様の一方的な愛・恵み・選び・救いの御業によってのみ、私達の救いは実現するのです。
 27節で、イエス様は、この神様に全てがかかっているのだということを悟れ、と言っておられるのでしょう。そして、この神様が、今あなた達を愛し、救おうとしておられることを知れ、と言いたいのでしょう。そのようにして、この神様を天の父として、安心して、委ねて、信じて行けばそれで良いのだ、それが信仰というものなのだ、ということでしょう。
 
 私達は今日、人には出来ないが、神には出来る、という所に私達の信頼を置いて歩む決心を固めましょう。そして、この世の素晴らしいもの・・・家、兄弟、姉妹、母、子、畑、…全てを御支配なさっておられ、それを私達に与えて下さる神様、そしてそれだけではない、永遠のいのちを与えて下さる神様をしっかりと信じて歩む信仰を確かめましょう。そのようにして、神様の方を向いて生きて行く、人生の方向を確かめたいと思います。
http://members.jcom.home.ne.jp/tamach/message/monthly/monthly9802.html

27 per annum B


年間第27主日 B 
マルコ10・2-16

イエスの時代の「離縁」の問題と現代の「離婚」の問題は同じではありません。当時の社会で妻の側からの離婚の申し出や協議離婚などありえず、「離縁」といえば、それは一方的に「夫が妻を離縁すること」だったのです.

ところで、イエスの時代、律法学者の間にさまざまな解釈はありましたが、一番有力な解釈はたとえば、有名な例でい言うと「夫の食べ物を過って焦がしてしまう」というのが離縁するための十分な理由でした。つまり、妻のどんな小さな落ち度でも、夫が気に入らないとなれば、離縁する正当な理由になるのです。一般にこのヒレル派の解釈が通用していました。だから、きょうの箇所でイエスの対話の相手も「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(4節)と言っています。つまり、「離縁状さえ書けば、妻を離縁してよい」これが当時の一般的な考えでした。律法学者は皆、男性でした。何百年かの間に、この律法は男性に都合のいいように解釈されていったのです。

イエスは当時の社会の中で、夫に追い出され、路頭に迷う多くの女性たちを見ていたのでしょう。断固として離縁に反対します。神の心は、夫が妻を離縁することを許すことではない、とイエスは主張します。そして、モーセの時代よりもさかのぼり、人間の創造の物語について語ります。「神は人を男と女とにお造りになった」(6節)は創世記1・27の引用です。神にかたどって創造された男女が神の前に対等であることを語る箇所です。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」(7-8節)は創世記2・24の引用です。そして結論として、イエスはこう言います。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(9節)。
 妻とは何か? それは神が与えてくださったかけがえのないパートナーではないか。妻を自分の都合がよければ家に置いておき、都合が悪くなれば追い出せるようなものと考えるのはおかしいではないか・・・ということでしょう。イエスは律法の規定や結婚という制度を守ろうとしているのではなく、その中に生き、苦しんでいる一人ひとりの人間(ここでは弱い立場にいた当時の女性たち)を守ろうとしているのではないでしょうか。このように見るとイエスの言葉は「新しい律法」ではなく、まさに「福音」(よい知らせ)なのです。http://tokyo.catholic.jp/cgi-bin/MT/


結婚の問題と、子どもをキリストのもとに連れていくことについてのイエスのことばです。ファリサイ派の人々も、イエスの弟子たちも、そのことが 「許されているか」どうかを気にしていますが、イエスは外面的な規則ではなく、神の望まれることが何なのかを問題にしています。

【解説】 「あばら骨」は心臓をおおっています。心臓に一番近いものです。また心臓は心のあるところと考えられていました。それで、最初の女性が男性のあばら骨から造られたということは、男性の心の思いを満たすものとして、すなわち心の相手として造られたということです。「性」という字が、心(?/りっしんべん)を合わせて生きると書くことにも通じます。

まず、主なる神が、この絵の中心に大きく描かれている。しかも、まさしくキリストのように表現されていることに注目したい。それが意図的であるならば、これはキリストによる人間の再創造を描いた絵となる。こう見ると、画面に霞んだ印象を与えている色彩がなかなか興味深く見えてくる。全体の基調となっている茶色(土の色)、そして背景の青と緑である。神は人を土から造り、息吹を与え、生きる者とした(創世記2・7)。そしてキリストの死と復活は人間の第二の創造となり、聖霊を与え、永遠の命へと導くものとなった。一つの画面の中に、二つの創造を重ね合わせて考えることができるのである。(男女としての人の創造    聖カストルの聖書挿絵    ドイツ バンベルク国立図書館 1067年頃)。

もうどうにも取り替えることのでき得ない出会いというものがあります。この父、この母、この祖父母から生まれたという事実。これだけはいくら不満を持っても、どうにもできない人間関係です。いくら別の家のお父さん、お母さんを望んでも、どうにもならないことです。反発しようが、無視しようが、仲良くしようが、家を出ようが、そして結婚して別の家庭を持とうが、どうにもならずいつまでも親子関係を引きずります。これはどうにもならない決定論、運命的に思えることです。しかし実のところは運命ではなく、神様のご計画なのですが。結婚もそんなところがあります。


<きょうのミサについて>
 わたしたちは自分が置かれている状況が理想的なものではないことをよく知っています。自分自身の心の状態、他の人々との交わり、自然界に対する働きかけ、どれをとっても矛盾に満ちています。これでいいはずはないと痛感します。けれども、思うようにはいかないのが現実です。
 きょうの朗読に示されている楽園の理想像は、人類の過去の姿がそうであったというのではなく、矛盾だらけの現実の世界の正反対の姿として描かれているのではないでしょうか。神が望まれる人間の理想像、人類が到達すべき目標がここにある、という意味です。そして、わたしたちは、兄弟となってくださったキリストとともに、そこに到達できると信じているのです。http://www.oriens.or.jp/

男女が一生涯をともにすることの難しさは、昔もいまも変わるものではないでしょう。「二人は一体となる」、つまり二人の男女は愛を誓うとき、永遠にふれています。ある限られた年月の交わりを誓うわけではありません。結婚の近いは永遠を志向します(永遠に向かっています)。有限な存在でありながら、そして弱さとエゴイズムを抱えながら、永遠の愛を誓う男女の姿に、創世記が教える永遠の神のかたどりを見るべきです。弱い人間の中に、永遠への目覚めを与えているのです。
永遠への目覚め、永遠への歩みの道は、いろいろあると思います。修道院に入って神の世界に専念するのも一つの道です。男女の愛の誓いも永遠の世界に向かう道です。
人間社会の営みにはいろいろなものがあります。仕事、趣味、学問など。しかし、これらの営みは、永遠を自覚しながら行われているでしょうか。そのなかで、永遠にはっきりふれることのできるものは男女の愛の営みといえるでしょう。クリスチャンの夫婦はこれを証しする偉大な使命を頂いていると思います。
自分勝手な欲望のままに生きる人間のために、十字架のきわみにいたるまでご自分を与えられたイエスは、愛の理想を私たちに示されたのです。男女がその誓いどおりに生きようとするならば、かならず、十字架につけられるまで愛されたイエスの愛にふれることになるのです。永遠への道としての夫婦の歩みを再評価するとともに、さまざまな困難にめげず、その交わりを大切にする恵みを祈りたいと思います。(森)





26 per annum B


 年間第26主日 B年
民数記11・25-29
ヤコブ5・1-6
マルコ9・38-43,45,47-48

<今週の表紙絵から> 神の声を聞くモーセ    12世紀の写本画   ウィーン国立博物館

 シナイ山で神の言葉を受けるモーセの姿を描く絵である。きょうの第一朗読の「主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ」(民11・25)に寄せて選んだが、本来は「モーセは…シナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、」(出34・4-5)の場面を描いたものだろう。雲の中に主なる神が人間の姿で描かれてい るのも興味深いが、それよりも目を引くのは、モーセの頭に描かれた二本の角である。
 これは、聖書翻訳史上の有名な誤解に基づいている。出34・28-30によると、40日40夜山上にいたモーセが山を下ってきたとき、「顔の肌が光を放っていた」。ここで「光」と訳されているヘブライ語ケレンには「角」という意味もあったため、ヒエロニムスのラテン語訳聖書(ウルガタ訳)でははっきりと「角」を意味するラテン語に訳された。そこで、中世の聖書写本画や聖堂壁画でモーセ を描くときには、固有の特徴として、頭に角を描くのが通例になった。16世紀にミケランジェロが教皇ユリウス2世の墓のために作ったモーセの彫像でさえも角があるほどに定着していったのである。しかし、意味としては、モーセがあいまみえた神の栄光の反映を具象化したものと理解すべきであろう。

<きょうのミサについて>
  「王さま以上に王党派」という表現があります。他人の利害をその人以上に気にかけることを言い表しているのです。王さまは寛大なかたであるのに、その取り巻きが先走って判断し、せまい心になっている。それでいて自分は他のだれよりも王さまのことを考えているのだと思いこんでいるのです。きょうのミサにおけるモーセに対するヨシェア、イエスに対するヨハネの態度がちょうどこれに当たります。しかし、モーセの願いは神の民がみな預言者となる」こと、「民全体が神の霊を受ける」ことであり、イエスの心底からの 願いも、派閥争いに勝つことではなく、「小さな者の一人」も失われることなく、民全体が神のいのちにあずかることなのです。

第一朗読
【導入】 「民数記」はイスラエルの民がエジプト脱出後に、荒れ野において体験した出来事を記しています。荒れ野の困難な旅に対する民の不平不満が高まったとき、七十人の長老がモーセとともに民の重荷を負う者として選ばれました。そのときのエピソードが朗読されます。

第二朗読
【解説】  富んでいる人に対してヤコブは厳しく警告しています。彼らは不正に富を手に入れるという危険があるばかりでなく、富を手に入れることによって貧しい人々のことを 少しも考えなくなるという危険があります。「正しい人を罪に定めて、殺した」という言葉には「隣人の生活の道を奪う者は彼を殺すようなもの」(シラ書〔集会の書〕34・26) という箇所が参照されます。

福音朗読
【解説】 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである――自から恵みを拒まないかぎり、だれでもみな神の国へと招かれています。しかし、このことは、 何も努力しなくてもよいということではありません。神の国に入るためには、手足のような必要なものさえも捨てる覚悟が求められているということを忘れてはならないでしょう。
http://www.oriens.or.jp/Fseiten.htm

今日の福音では、イエスの名を使って悪霊を追い出そうとする人をやめさせようとした弟子たちを
たしなめたイエスの姿が描かれています。そこには弟子たちのグループのエゴイズム、競争意識、
自分だけが正しいという思い込みが見られます。弟子たちは、聖霊がどこでも働いているということをなかなか認められないのです。
イエスを信じる私たちは世界のどこにでも解放をもたらす人々がいることを喜んで認め、心の狭さを避けることが大切です。他の人が良い仕事をしているなら、共に協力し、ねたむことがあってはなりません。一番大切なのは善が行われることです。イエスの言葉は、心を広げることへの呼びかけ、
誰が行ったかに拘わらず、善が行われることを喜ぶことへの呼びかけでしょう。
「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」
このイエスの言葉は、弱い人、見捨てられた人のためにまた、神の国の建設のために働く人は誰でも
わたしたちの味方であることを示しています。
神の国は永遠のいのちです。イエスの言葉は永遠のいのちに関するものを、よく注意して選ぶように、徹底的な選びをするように招いています。永遠のいのちを得ることに関して、私たちは真摯に識別しなければなりません。神とその御国に期待をかける人はすべてをそのために使います。イエスの比喩的な言い方、例えば、「片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」
「片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」などという言葉は、私たちのすべて、手、足、目をいのちのために使うべきだということを意味しています。
徹底的に選ぼうとする時、心を広くもつ時、生活と祈りに出会いが満ちあふれます。私たちが神に開かれ、人々に開かれるならば、豊かになることができます。そのために私たちは一層寛容になる恵みを祈り求めたいものです。seseragi

25 per annum B


年間25主日B
【マルコ9:30-37
いちばん偉い者】



「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」」 これを聞いているのは、弟子たちです。しかも、教会の中心的な役割を担う12人です。彼らは人の先に立つ者にならなければなりません。人々を導くリーダーとして人々の模範となり、本当に偉い人にならなければなりません。偉くなりたいという意欲と希望がなければ、人は怠け者になってしまいます。「どうでもいいよ。」という言い方は、本当に謙虚な人の言い方のように聞こえます。しかし、それはいい加減な言い方でもあります。学生たちを見る、優秀になりたいという意欲がない人は、あまり努力もしません。努力しない人が実力ある人、偉い人、世の中に影響を及ぼすような人になることは無理でしょう。キリストの弟子は常に、人の先に立って良い影響を及ぼす人にならなければなりません。ですから、イエス様は弟子たちに「偉くなってはいけない、偉くなりたいと思うな」と言いませんでした。偉くなりたいと思うその気持ちを無視されなかったのです。私たちは一番偉くなりたいと思って闘争する必要があります。人々の上に君臨するためではなく、人々に仕えられるためではなく、みなに仕えるために闘争するのです。
自ら自分を低くしてしんがりとなり、みなに仕えることはやさしくありません。特に気に入らない人に仕えることは本当に難しいです。それはイエス様を学びたいという切なる願いとともに霊的に闘争すること、何よりも聖霊の助けがなければできないことです。偉くなることはやさしくないのです。しかし、常に偉くなりたいと思って祈りながら聖霊の助けを受けてイエス様を学んで行く時に、まことにキリストの弟子らしい弟子として成長し、偉大な人生を生きることができます。高ぶる者は滅びに向かって行きます。人を押し退けて、人を踏み台にして偉くなるという道もあるが、それはうそだよ、と。みなのしんがりとなり、みなに仕えておられたイエス様にまことの平安と喜び、まことの自由がありました。イエス様の力を「よこどり」して偉くなろうとしていた弟子たちのような考えや生き方では心に平安も喜びもありません。「それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、言われた。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。
 イエス様は、人に仕えることの本質を、ひとりの幼子を通して視聴覚教育をなさいました。
http://www.ubf.or.jp/modules/xf3Message/article-708.html

幼子のようになる、とは?

 では、「子供を受け入れる」、「幼な子のようになる」というのはどういうことなのでしょうか。
 幼な子というのは、欠点がないかといえば、そんなことはないわけです。いやむしろ欠点がたくさんある。もちろん、純真であるとか、かわいらしいとか、よい面がたくさんあるのですが、一方では幼な子は、たいへんわがままです。赤ちゃんの時など、母親が病気であろうが、疲れていようが、ミルクがほしければ夜中でもなんでも大声で泣きます。少し大きくなれば、けんかもするし、おもちゃなんか独り占めもします。
 もちろんイエスさまは、幼な子のそういう面を見習え、とおっしゃったのではないでしょう。使徒パウロは、1コリント4:14で、「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」と教えています。
 子供のわがままな面を見習えといっているのではない。では「子供のようになる」というのはどういうことでしょうか。それはマタイ福音書の言うように、「自分を低くして」ということになるでしょう(集会祈願参照)。
 子供が低いものであるということを知っているということです。子供は本能的にと言いますか、自然に自分が低いということを知っています。そして特に親に対して、自分が低いことを知っています。言い換えれば、親がいなくては、生きてはいけないことを知っています。赤ちゃんがなぜ泣くのか。それは母親を呼んで泣くのです。そうしなければ生きられないからです。迷子の幼な子はなぜ泣くのでしょうか。それは、親を捜し求めて泣くのです。親が自分にとって最も大切なもの、かけがえのないものであることを知っているからです。そのように幼な子は、自分ひとりでは生きられないことを自然に知っています。親がかけがえのないものであることを知っています。うそをついて親にばれても、またすぐにゆるします。低いものであることを知っているのです。

     神さまの幼子になってすがる

 ところで、わたしたちにとって、父なる神様は、まさに天の親です。おとなから見たら、幼稚園児がお互いに「誰が偉いか」と言って比べているのを見たらこっけいであるように、天の父なる神様から見たら、わたしたちがお互いに「誰が偉いか」などと言っているのはまことにこっけいなことであるということになるでしょう。
 むしろ、幼な子が泣いて親にすがり、迷子になったら親を捜し求めて泣き続けるように、また親に叱られたら「ごめんなさい」と言ってうなだれるように、わたしたちは神さまに対してそうあるべきなのです。人間だけを見ている、つまり横だけを見ている世界から、天にいます神を見上げる、つまり縦の世界に目を向けることです。
  nibanmati

本当に偉い人はみなに仕える人です。自分より偉い人に、自分の気に入る人に仕えるだけではなく、子どものように小さいもの、弱い者、病んでいる者を大切にして仕える人なのです。

今の教会の現場を見渡すと、偉そうにふるまう人は結構いますが、学ぶ姿勢は――残念ながらーーあまりみません。神父でも、司教でも、枢機卿でも学ぶ姿勢がなければ、本当の奉仕者になれないとは決まっています。

本当の意味で偉くなるために、まず子供を受け入れなさい。子供にしつけをうける必要がある。学ぶ姿勢がある。偉くなるためには奉仕をすることを学ばなければならない。子供のようにすなおにまず教育を受けなければいけない。今の私たちの教会に大変必要なおことばではありませんか。


19 per annum B


年間第19主日 B年     夙川
ヨハネ6・41-51

 主の御使いとエリヤ
    ディーリック・ブーツ作 ベルギー ルーヴァン
    サン・ピエール教会 15世紀

<今週の表紙絵から> 
 ルネサンス期のオランダの画家ディーリック・ブーツ(生没年不詳)が聖体の秘跡の制定に関する絵を連作したなかの一つといわれる。きょうの第一朗読(列王記上19・4-8 )の内容が、近代的な遠近法による立体的空間の奥行きの中で、克明に描写されているのがわかる。
  エリヤ(その衣装は画家の時代のものを反映しているのだろう)は、えにしだの木のもとでかたひじをついて横になって眠っている。そこに現れた御使いの手のしぐさが「起きて食べよ」という言葉が示す。エリヤの頭のほうに、水の入った器とパンが見える。とすると、ここは二度目に眠ったエリヤと二度目に現れた御使いを描いているものとも思えるが、画家は物語の時間的推移を厳密に描いているわけではなく、むしろ物語の要素をすべて同一画面に描き出していることに注意しなくてはならない。その証拠に画面の右奥には、杖をついて山を上っていくエリヤが描かれており、結局、この絵の中には、物語の経過のすべてが盛り込まれていると考えることができる。しかもその中心で強調されているのは御使いの姿である。神に力づけられてこそ預言者は歩む 、とのメッセージが一つのテーマとして貫かれているのだろう。

<きょうのミサについて>
   「わたしは天から下ったいのちのかて、このパンを食べる人は永遠に生きる。」きょうの福音のメッセージの中心を、わたしたちはアレルヤ唱で歌います。
 年間第十七主日から、今年の主日にあたった主の変容をはさみ、ヨハネ6章が福音として読まれています。初めにパンを食べて満腹し、イエスを王にしようとまで考えた大群衆ですが、しるしの意味が説き明かされるにつれて不信を抱き、やがてイエスを離れるようになってい きます。彼らがイエスに期待したものと、天の父が与えようとするものとに食い違いのあることが、きょうの箇所からもうかがえます。
 自分の思いに縛られず、父が与えてくださるものを受け止めようとするとき、わたしたちは、イエスが父から遣わされたことを信じて、永遠の生命を生き始めるのです。

第一朗読
【解説】 エリヤはバアルの預言者たちと対決して勝利をおさめ、彼らを滅ばしましたが、王妃イゼベルの逆襲を恐れ、自分の命を守るために逃げ出しました。旅に疲れた エリヤは死を望みますが、与えられたパンを食べて生き返り、神と出会う旅を続けます。

第二朗読
【解説】 「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」(エフエソ2・5)と言うパウロは、信仰を得たエフェソの人々(異邦人)に、神を知らない異邦人としての生き方を捨て、神の子として新しく生きることを求めます。聖霊が与えられていることは、彼らが神のものとされ ているあかしです。

福音朗読
【解説】 イエスの周囲にいたユダヤ人たちは、彼がどこのだれなのかを知っていました。しかし、イエスが自分と天の父との関係を話し、自分がどこから遣わされたのかを言うに及んで、不信が生じます。イエスとはだれなのか、わたしたちにとって何なのか。これはわたしたちにも問われていることです。

人間はいろいろな壁、失敗、試練にぶちあたります。自分自身の罪、自分が気づかないところで人を傷つけ、そのことから自分に返って来た痛み。災害、犯罪の被害。いろんな壁や挫折にぶつかって、絶望し、おかしくなりそうになったり、これ以上歩けないと思ったり。神から見放され見捨てられたと絶望し、キリスト信者であっても何にもならない、そうでなかった方が良かったと思う時さえ来るかもしれません。
 それらを負わされたとき、神や教会を呪って、離れていく人もいるかもしれません。しかし人間の痛みをよくご存じの神様は、耐え難いからこそ、必ずいろいろな形で助けも下さいます。自分から求め、扉を叩くなら、神様や教会と本当に共に歩む勇気を持ち直すなら、きっと道が開けていくのだと思います。moseos

キリスト者は、イエスに学びながら生活します。イエスの生き方から、最も人間らしい生き方、本物の幸せがどこにあるかを見出すのです。今日、イエスは言われます。「信じる者は永遠の命を得ている。」永遠の命とは、単に終わりのない命というだけではなく、キリストを信じることによって、
神によって完成された世界を仰ぎ見、意味のある、充実した生き方をもたらす命の源を得ることでしょう。
エリヤと同じように、私たちは日々の生活に疲れた時、パンとなられたキリストを自分の内に宿し、
力をいただくことができます。イエスはその教えによって、また、御自身を捧げることによって、
私たちを養ってくださいます。この世に生き、十字架上で苦しみ、死を通られ、復活されたイエスの体が、私たちに命を与えるのです。死には、神の命を終わらせることができません。
イエスを信じることはイエスに従って生きることにつながり、その生き方を通して、永遠の命に至ります。神はイエスを通して私たちに、幸いな者になることを信じるように招いています。
それは、神御自身の命にあずかり、イエスと一致した生き方をすることによって可能となるのです。
信仰は恵みであると同時に、人間の選びです。
私の命をイエスに委ね、充実した生命を見出すことができますように。sese

神様がマナを与えて下さった霊的な意味は人はパンだけで生きるのではなく主の口から出るすべての御言葉によって生きる存在であることを悟らせるためでした(申8:3)。32,33節をご覧下さい。イエス様は彼らに言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」

人には肉体の飢えと霊的な飢えがあります。飢えていることは悲しいことです。飢えていると食べ物ばかり考えます。飢えていると何をしても満足と喜びがありません。霊的に飢えている人も同じです。何をしても満足がなく真の喜びがありません。何かを熱心にしてもいつも虚しさを感じます。それは霊的パンを食べることによってのみ解消することができます。イエス様は魂の飢えを解消してくださるいのちのパンです。イエス様はいのちの源であり、真の満足と喜びの源です。イエス様は飢えている人にはいのちのパンであり、渇いている人には生ける水となられる方です。また、イエス様は闇の中にいる人のいのちの光であり、迷っている人の道であり、死の恐れにさいなまれている人のよみがえりであり、いのちである方です。ですから、このイエス様を信じる人の人生は決して空しくありません。その人は真の喜びと満足がある人生を送ります。

世間の人々はお金に最高の価値をおいて朝から晩まで働いています。それはお金がなければ幸福になれないと思っているからです。しかし、いくらお金を儲けても人々のストレス、疲れ、不安が消え去りません。人間には肉のパン以上のもの、すなわち、霊的なパンが必要です。人間はいのちのパンを食べる時のみまことの満足と喜びを得ることができます。イエス様は私たちのいのちのパンです。http://www.ubf.or.jp/modules/xf3Message/article-240.html

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自転車操業(じてんしゃそうぎょう)ということばがあります。自転車はペダルを漕ぎ続けることで安定した走行が可能であるが、漕ぐのをやめるといつかは転倒してしまう。この自転車の状態を経営収支に見立て、ペダルを漕ぎ続けることを操業とし、停止すると転倒、つまりは倒産する状態を喩えている。 たとえば、社長が会社を作ります。機械を買ってものを作って売ります。繁栄します。ところが、近くに別の会社ができ、同じものをより安く売ります。負けないために、設備投資、コスト削減、新商品の開発を考えなければならない。競争相手はじっとするわけがないから、これは永遠に続きます。 まぁ、これで経済的に発展もあるから、消費者にはそれなりの利点もあるでしょうが、心から安心できるところはない。厳しい世の中です。 アメリカのオバマ大統領は、貧しい家庭で生まれたが、よく勉強してよく働いて、トップに上り詰めた。今トップになって安心できるかというと、そうではないらしいですね。今度総選挙があります。それに勝てないと大失敗。勝ったとしても、またそれなりの敵が現れます。 経済、政治、学問の世界は大体こんなものです。 人間は成功すると、それで安心できない状態に置かれているようです。それはちょうど、食事をすると一応満腹するが、数時間したらまたおなか減ってきます、というのと似ています。今日食べたからといって、安心できない、明日も食べていかなければならないから。何十年食べれるお金を貯めたらといわれるかもしれない。じゃ、そのお金は「布団銀行」にするか、それとも銀行に預けるか、いずれも完全に安心できないでしょう。 イエスさまは、「永遠のいのちにいたるパン」をくださると。つまり、自転車操業でないような生き方を約束します。あるいは、自転車操業の中でも、満足できる食べ物を約束します。 「それは、えらいコッチャ」とユダヤ人たちはつぶやきます。イエスの身の回りを見ているから、「君は何ぼのものか」と疑うわけです。 今を生きる私たちにとっても、同じようなつまずきがあります。イエス・キリストを「まことの神にして、まことの人」と信じることは簡単なことではありません。自転車操業には非常に現実性があります。具体性があります。イエス・キリストというと、ちょっと抽象的な観念に聞こえないでしょうか。絵に描いた餅的な側面はないでしょうか。

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人々は感動を求めて、ディズネイランド、あるいはユニバーサル・スタジオ・ジャパン(R)のようなところに行きます。そこで夢を見た気分になれます。身の回りの現実には、あまり感動がない、灰色で、当たり前、どっちかというとつまらないこと、みすぼらしいことは多い。  けれども考えてみれば、いつも住んでいる家の窓の外を見るだけでも、すばらしい景色のときもある。普段出会っている人々の中にも、気をつけて接すれば、様々なドラマ、悲しみ、喜びがある。本にすれば立派な文学になる。音楽にすれば立派な協奏曲になる。素晴らしい映画になるかもしれない。 自分のそばに座っている人は深い信仰体験を持っているかもしれない。それでも、ほとんど気がつかない。そう考えることもないでしょう。 キリストはどうでしょうか。彼は立派な人間だったでしょう(二千年この方噂されているぐらいですから)。けれども、私たちとはあまり変わらない姿で現れて、キラキラと輝くような生き方をしなかった。そして、今は様々なしるしの中に生きておられる。そのしるしはどこにでもある。ミサは毎週、毎日行われる。みことばは何回も聞いたがある。ありふれたものです。馴れてしまうと当たり前で、つまらないことにもなるのだが、実はその中にすばらしい宝が隠されている。もっとも身近で当たり前のものの中にすばらしい神秘があります。信仰の目さえあれば。 司祭とミサに馴れ馴れしくなるのは、ある意味ではしかたがないでしょう。キリストに対してでさえ、ユダヤ人はそうなったというから、ところが、それは不信仰の世界だよと、今日の福音書を注意を促しています。不信仰の世界、面白くないよ、と。自転車操業の方は面白いですか、と問いかける福音書。

17 per annum B


年間17主日 B  ヨハ6:1ー15

イエス様がパン5つと魚2匹を、男だけで5千人、女性や子供を入れればその倍を満たすほどに増やしました。ここにまた奇跡物語が登場します。
処女が身ごもる、死者がよみがえる。こういうことを聞くと「昔の人はそういう話も単純に信じられた。しかし今は、そんなに単純に信じられるわけがない。科学があり、いろいろな知識がある」。そう言って躓く人がいます。そうして現代人に分かる話に作り直していきます。
たとえばこう。「本当は、自分の食事を持ってきた人が多くいた。しかし分け合って食べれば、自分の食べる分がわずかになると思うと、それを隠したままでいるしかなかった。しかし子供がわずかな食事をイエス様に差し出し、それを皆で分ければいいと言いだしたので、自分の狭い心が恥ずかしくなり、隠し持っていた食べ物を出し、皆で食べようと勇気を持って言った。そうして皆が食事を出したら、有り余るほどになった」。
このように「自分だけのものにしようとするのでなく、寛大な心を持ちましょう」。そういう道徳の話へ置き換えるなどです。
しかしこれは福音のメッセージを正しく伝えることになりません。もしもただこれだけなら、イエスを王にしようとする群集の行動はなかったでしょう。

それに何より、教会は迫害と殉教がひどくなる中で、広まって行くわけです。その時に、書かれ、編纂され、成立していったのが、福音書なのです。ネロの迫害でパウロとペトロが殉教したのが61-65年、その後くらいから、マルコ福音などができ始め、最も過酷と言われるドミティアヌス帝(81-96在位)の迫害、さらにユダヤの国自体ローマによって滅ぼされていくのが、今日読まれたヨハネ福音の書かれた90年代初期です。
つまりこの福音を読み、伝えているのは、ローマ帝国に追われ、飢え、地下の墓場に隠れ、生活している信者です。パンを食べたくて、いくら祈っても、司祭にすがっても、けっして、パンが増え、たらふく食べることなどできず、かえって死に追いやられていった時代。そういう時代の人たちが信じ、読みつないでいったのが福音書なのです。
彼らは、けっして単純に書かれたことを信じられる状況にある人たちではありませんでした。科学が今ほどなくても、パンの増やしを簡単に信じられるほど恵まれた状況ではありませんでした。疑うのは簡単だし、このような記載はむしろ、信者でない人が理解することの妨げになるだけだったかもしれません。しかし飢えと無力と惨めさの中で、このことを書き、言い伝え、信じることに賭けた人たち。その人たちを、昔の人は単純に信じられたけど、今は科学的に考えるからなどと言って、信じることを拒否するのなら、それほど当時、命がけで信じ、命を捧げていった人たちをばかにする話はありません。それこそ現代人の傲慢と言うことになります。

それを前提に、改めて今回の福音を読むと分かることがあります。
イエス様は、単に食べ物に満たされたことで拍手喝采し、自分をこの世の王と期待し、王にしようとする群衆に、背を向けます。大切なのはこの世の物質的な富・権力・名誉ではありません。しかしそのイエス様の願いが受け入れられないとみると、ひとり退きます。つまり奇跡が本当に伝えたいことを伝えるのに役立たないのなら、イエス様は奇跡を起こせなくなるわけです。イエス様がこの世にもたらしたかったもの、伝えたかったものは、永遠の命に至る糧であり、そのための御言葉でした。
もう一つ忘れてはならないのは、5000人のためにわずかなパンを差し出した少年の行為です。これは信仰によるもので、この信仰に答え、イエス様は奇跡を行われたことです。奇跡の背景に人間による信仰・捧げもの・犠牲があって、それがイエス様の手により増されたのです。例えごくわずかなものでも、信仰によって神に対し真の捧げ物をするとき、真の祈りを捧げるとき、その献げ物と祈りはイエス様により祝福され、大きく増やされ、望んだ以上、あまるほど与えられるということです。

誰かなぞを出しました。「分ければ分けるほど増えるものはなぁに」「普通は分ければ減るのにね。分からないわ。降参」。正解は「それはね、神様の恵みだよ」何です。神様からのいただいきものは、自分だけで独占しようとするのでなく、人々と分かち合うとき、よりいっそう、増えるのです。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_033.htm

わずかしかなくても、主の手に渡した時に

最初の教会。それは、12使徒と、その他の男女の弟子たちわずか120人でした。イエスさまは「出ていって全世界に福音を宣べ伝える」よう、弟子たちにお命じになりました。ペンテコステの前、120人の人々しかいなかった。それに対して、これから弟子たちが宣べ伝えようとする全世界には、いったい何人の人がいるというのでしょうか。1億でしょうか。2億でしょうか。いずれにしても、120人という数字は、まるでこの時の、5つのパンと2匹の魚のようなものです。それはまったくわずかです。その時、弟子たちはこの出来事を思い出したのではないでしょうか。
5つのパンと2匹の魚が、もしイエスさまの手に渡らなかったとしたら、それはやはり5つのパンと2匹の魚のままです。何事も起こりません。しかし、何の足しにもならないように思われるわずかのパンと魚であるが、それがイエスさまの手に渡されたとき、イエスさまはそれを感謝して受け取ってくださり、イエスさまの手の中で豊かに増え広がるのです。

わたしたちを用いられる主

そうしたら、神の御子イエスさまのことだから、パンも魚も一つもなくても、人々を満腹にすることができたのではないか?」という人がいるかもしれません。しかしそれは違うのです。イエスさまは、一人芝居をなさりません。全体から見たらわずかではあっても、その人が持っているものをすべてささげたときに、それを用いて事をなさるのです。
最初の教会は、たった120人でした。しかしその120人は、自分たち自身をそのままイエスさまにささげました。その結果、ペンテコステの日に聖霊が降って、その日教会は3000人になったのです。
この日本でのクリスチャンは、全体から見たら、まことに少ない、わずかの人数かもしれない。英知大学のクリスチャンはどのぐらいいるのでしょうか。しかし、イエスさまから見たら、少ないということは問題ではないのです。私たち自身を、イエスさまの前に差し出すか否か、ということです。私たち自身をイエスさまの手に渡したとき、主イエスは感謝してそれを受け取り、大きくお用いになるのです。それは奇跡なのです。私たちがするのではありません。イエスさまがなさるのです。

http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat99.html

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1:ヨハネによる福音書 / 6章 1節
その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。

出エジプトを思わせることば。人々は奴隷状態から自由を求めて、海を渡った。ここからイエス様の出エジプトが始まる。人類を奴隷状態から自由にする道は。

2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。


3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。

モーセが神と語るために山に登った(一人で)ように、新しいモーセであるキリストは山に登った(弟子たちと一緒に)。山は神と出会う、交わる空間、そこにお座りになったと。つまり、イエスは(弟子たちと一緒に)おられるところに、そこに神とのやり取りできる場所となる。

4:ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。

過越祭は、まさに出エジプトを記念する祭りです。ここで新しい過越祭が始まると。

5:イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6:こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。

イスラエル人はエジプトから出て、砂漠を渡らなければならなかった。そこで問題となったのは、食べ物がないということだった。人々はモーセと神に不満をぶつけました。そして、マナ(神からの支え、食べ物)が与えられた。ここで、イエス自身がその問題を思い起こさせます。そして、まず、フィリポにその問題の解決を問いかけます。
フィリポはキリストの弟子ですが、古い契約、立法にこだわるタイプで、メシア(救い主)としてのキリストの新しいさを理解していない人物です。「立法に従ってこの問題はどうしたらいいのか」みたいな問いかけです。
フィリポの答えは、不可能ということです。

7:フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。

1デナリオンは一日の賃金でしたら。半年の給料(二百万円)でも、足りない。普通の社会では、人々はどうやって生活するかというと、働いてお金を稼いで、それでものを買うと。売買する、これではどうしても物足りない、豊かさはない。これは一般社会のすがたですが、フィリポはそれにこだわり、それを超えることはできない。キリストは違うタイプの社会を考えて、それを作りたいということはまだわからない。

8:弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。

今度は、アンデレが登場します。これは、キリストの新しさを理解しているタイプの代表。自ら進んでキリストに協力したいことを表す。

9:「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

五つのパンとは、5000人と比例する。第一朗読でも、20個のパンと100人というギャップがありますが、それ以上のギャップ。五つのパンと2つの魚、合わせて7となる。7は完全性を表す数字で、「すべて、完全に」という意味になります。少年は「召使」「奉仕者」という意味もあります(丁稚 でっち)。キリストの仲間は、持っているものをすべて、完全に差し出すということになります。

けれども、すべて、完全に出しても、キリストの仲間の持っているものは、「何の役にも立たない」とあります。これは、謙遜を表すことばであると同時に、実際にそうです。あるいは、弟子たちの悲観的な態度を表しているかもしれない。これは現代の私たちにも見られます。「召し出しは足りない」とか、「福音宣教するには力はない、足りない」とか、よく聞きます。キリストの弟子の悲観主義、ペシミズム。

10:イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。

出エジプトの時は、仔羊を食べるときに、立って食べる、急いで食べることでした。ここで、「座らせなさい」とあります。出エジプトは神の救いの出発点ではった。ここは、むしろ終着点、ゆっくりできます。

11:さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。

キリストは、仲間(教会共同体)から出されたパンを取る、それは少ない不十分であるが、ここで新しい展開があります。「感謝の祈りを唱える」。ここで、神様が登場します。人々に食べ物を与える前に、まず神様との関係は成立しなければならない。
感謝するとは、自分は持っているものは、いただいたものであると認めることです。「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです」。
キリストは行った「奇跡」、「しるし」は、個人の持ち物は、本来の姿に戻らせ、つまりそれは神の愛からのものであると認めること、それを分かち合うことによって豊かさが生まれる。奇跡は愛である。まず、神からの愛、この世界は愛の産物である、と。そして、人間の愛、すべてを完全に与える、これによって神の創造は繰り返し新たにされる。キリストの「感謝の祈り」は、人間の役割を生かしながら、豊かさを作り出します。
「欲しいだけに与えられた」。マナは少ししかもらえなかった。キリストの与える支えは、「欲しいだけに与えられる」と。

12:人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13:集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
14:
そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15:イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。



16 per annum B


年間16主日 B

【マコ6:30ー34 飼い主のいない羊のような有様】



すでに7月も半ばを過ぎ、普段なら学校に行っている子供たちも夏休みに入っています。彼らにとって夏休み心待ちにしていた楽しいものなのでしょう。しかし自分の時間を取り上げられて、その子供たちの面倒を一日中見なくてはならないお母さんたちにとっては忙しいときになるかもしれません。
 私も子供のころ、夏休みに忙しい大人たちがわざわざ時間割いて、連れて行ってくれた山や海の思い出が今でも心に残っています。そう考えると、やはり子を持つ親の心として、子供たちによい思い出を残してあげたいと言うことになって、いろいろと計画を立てることになります。
 今日の福音書では使徒たちに語られたイエスの「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言う言葉が登場します。このときイエスの弟子たちは休息を必要としていたようです。だからイエスは弟子たちに「人里離れた所へ行くように」と命じられたのです。私たちは今日の聖書箇所を通して私たちの身も心も安らぐことのできる休息はどこで見出すことができるかと言うことについて考えたいと思うのです。
旅先でイエスの弟子たちは人々の驚嘆と関心を集めることができたはずです。きっと彼らは胸を張って帰って来て、そのことをイエスに報告したのだと思います。

(3)休息の必要性

 こうなれば彼らは、この力をもっとたくさんのところで発揮したいと考えたはずです。なぜならば、人々の関心を集めることは彼らにとってたいへん心地よいものだったからです。ところが「イエス様、続けて私たちを他のところにも派遣してください」と願い出ようとする彼らを前に、イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と命じたのです。
 このときイエスは弟子たちをリゾート地や温泉ではなく「人里離れた所」へ行かせようとします。このときの弟子たちの状態から考えると、イエスが命じる休息は第一に弟子たちが人々の関心や注目から離れることを意味していたと考えてよいのではないでしょうか。確かに人々の向ける弟子たちへの関心は、彼らにとって心地良いものであったに違いありません。しかし、彼らがその関心を気にして働き続けようとするなら、彼らの生き方は大きく変わってしまいます。人の関心を集めるために、彼らはいつも人の期待を気にして、その期待に応えることに時間と労力を傾けなければならなくなるのです。
 ここでマルコは彼らイエスの弟子たちを「使徒」と言う特別な名称で呼んでいます。これは「神から遣わされた者たち」と言う意味を持った言葉です。彼らの使命は人々の関心を集めることではなく、神から与えられた使命を遂行して神の福音を伝えることにあるのです。だからこそ、彼らはこの使命を果たすために、人々の関心から離れる必要があったのです。
 第二に「人里離れた所」はイエスが祈りのためにたびたび向かわれた場所でした(マルコ1章35節など)。ですからこのイエスの命令は弟子たちに本当の休息を与えることができる方が誰であるかをも教えているのです。それは私たちの祈りの対象である神様ご自身です。この方こそ、私たちに本当の休みを与え、新たな力を与え続けてくださる方なのです。だからこそ弟子たちはこの休息を得るために「人里離れた所」に行く必要があったのです。
ところが、福音書は弟子たちがイエスの命令の通りに休息を取ることができなくなったことを続けて説明します。
イエスと弟子たちが舟に乗ったことを知った群衆たちは、彼らを先回りして、舟の行き着くはずの向こう岸に先回りしたと言うのです。この人々の熱意のためにイエスと弟子たちの休息計画は中断されたかのように見えるのです。
このとき、イエスは群衆を見て、この「飼い主のない羊のような有様」と言う言葉は旧約聖書を背景としたものだと考えられています。旧約聖書の時代、イスラエルの王は「牧者」、つまり羊の飼い主にたとえられ、イスラエルの民はその羊だと考えられていたのです。ですから、イスラエルの王の使命は神様から委ねられている民を養い、守ることにありました。ところが実際のイスラエルの王はその使命を遂行することができません。だからこそイスラエルの民は「飼い主のいない羊のような有様」になって苦しむほかなかったのです。
 旧約聖書に登場する預言者たちはそのような使命を忘れるイスラエルの王に警告を発するために神から遣わされた人々でした。その預言者の一人エレミヤは次のような神の言葉を取り次いでいます。
 
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。(23:1-2)

 このように旧約聖書は民の苦しみの原因を牧者がその使命を果たしていないためだと語るのです。イスラエルの民が安らぎを得ることができないのは、彼らを導く真の牧者が不在だからだと説明しているのです。
 ところで先ほどのエレミヤ書はイスラエルの王にくだされる神の厳しい裁きを語る一方で、神がイスラエルの民のために「真の牧者」を送ってくださると言う預言を語り続けます。
 
 「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる」(5~6節)。

 真の牧者が神様の約束の通りやって来られるとき、イスラエルの民は救いを受けて、安らかに住むことができるとエレミヤ書は語ります。そのときこそ本当の休息を受けることができるときであるとエレミヤ書は預言しているのです。
 ですからこのマルコによる福音書は「飼い主のいない羊のような有様」と言う言葉を使用することで、読者に旧約聖書の神様の約束を思い出させ、その約束の通りにこの地上に来られたイエス・キリストを指し示そうとしているのです。
 そう考えると弟子たちに「休息」を与えようとしたイエスの計画は中断されたのではなく、不思議な形で実現していることが分かるのです。つまり、福音書は彼らに本当の休息を与えることができるのは主イエスだけであると教えているのです。そして弟子たちはそのイエスを見つけ出すことによって真の休息を得ることができたのです。

(2)牧者イエスを人生の主として受け入れる

 ルカの福音書の伝える有名な「マルタとマリアの姉妹」のお話があります。マルタの名前には「女主人」と言う意味が込められている。この名前の通りマルタはこの物語の中で一家の女主人としての役目を最後まで果たそうと必死になっています。ところが、明らかにされたことは、その彼女の行動こそが彼女の心を乱し、ある意味では疲れさせる原因となっていたと言うのです。なぜなら、彼女はせっかく彼女の家に彼女の人生の「主人」となってくださるためにやってきた主イエスを受け入れず、それとは反対に依然として彼女は自分の人生の主人として立場を守り続けようとしたのです。
 この失敗はマルタに限ることでないと思うのです。私たちは私たちの人生を導く牧者としてやって来て下さったイエスを無視して、むしろ自分で自分の人生を支配し、何とかしようと努力し続けているのです。しかし、私たちは何をしなければならないかさえ本当のところ分かってはいません。これでは私たちの人生は疲れるだけではないでしょうか。だからこそどんなに肉体の休みを取ることができても、心には様々な思い煩いが存在し続け、私たちをますます疲れさせるのです。
 本当の休息を得たいならば、私たちは真の牧者であるイエスに自分の人生を委ね、その方に従って行く必要があります。そしてイエスは今でも私たちに真の休息を与えるためにこのように招かれているのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11章28~29節)。

 真の安らぎはこのイエスを自分の人生の主人として、牧者として迎える者の上に実現することを今日の聖書の箇所は私たちに教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 私たちに真の救いと安らぎを与えるために救い主イエス・キリストを遣わしてくださってありがとうございます。私たちを捕らえてやまない思い煩いや、さまざまな出来事から私たちの心をお守りください。私たちが真の牧者であるイエスに従うことで、この人生で本当の自由を得ることが出来るようにしてください。
イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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年間第4土
マルコ6・30-34

「飼う者のない羊」という象徴は、牧畜の生活を身近に見ていた当時の人々には分かりやすいものであったろう。しかしそれだけでなく、この表現はただちに預言者エレミヤの預言を思い起こさせる。エレミヤの時、主の民イスラエルの牧者たる者が自分の利益のために民を食い物にし、牧者の使命を果たさなかったから、指導階級の人たちを痛烈に批判した。そして、終りの日には主ご自身が自分の群を捜し出し、世話をされること、具体的には「僕ダビデ」を民の牧者としてお立てになることを予言した(エゼキエル書三四章)。
イエスは現在の主の民イスラエルの状況がエゼキエルの時代と同じであることを見て、やがてエレミヤの時以上の苦難に直面しなければならない民に対して深い憐れみを持たれるのである。イエスの憐れみは、たんに彼らが病気や苦労の多い日々の生活に疲れ果てていることに対するだけのものではなく、真の牧者がいないために神の民としての真理の道に歩むことができず、祝福を失い、神の裁きの下に散らされていく者たちへの憐れみであろう。
現在、神の民の牧者をもって任(にん)じている議員や学者たちは、民に背負いきれない重荷を負わせるだけで、民の前に「神の国」の門を閉ざしている。その上、終りの日に神がその民に遣わされたまことの牧者を殺そうとしている。やがてこの民が神の裁きのもとに打ちすえられ、追われ散らされていくことは避けられないであろう。このような状況の中で、イエスの主の民に対する憐れみは、そのお心の内に熱く燃えるのである。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_034.htm#top




滋賀県の嘉田(かだ ゆきこ)知事は、大津市で中学2年生の男子生徒が自殺した問題について「私どもの力不足を大変申し訳なく思う」と陳謝しました。

また、嘉田知事は「男子生徒が自殺したあとに市長がかわり、新しい市長には引き継ぎがほとんどなく県のほうにもなかった。教育委員会の在り方にも問題があった」と述べました。
そのうえで、嘉田知事は「毎日、批判を受けていて、大津市や滋賀県には1万通を越えるコメントが届いた。この問題は根深いので、総合的な対策を考えなければ子どもたちの命は守れない。今後、知事としての責任を果たしていきたい」と述べ、再発防止に取り組む考えを強調しました。

また、奥村展三・文部科学副大臣は20日、同市などを訪れ、真相究明やいじめ対策について、「国全体にかかわること」と述べ、「学校は(情報を)囲い込んでしまいがちだ。もっと公開して理解を求める必要がある」と、市と市教委との連携の必要性を強調。、生徒の心のケアや保護者との信頼関係を再構築するよう求めた。

これに対し、越市長は「残念ながら学校、市教委の調査が不十分だった」と釈明した。

政治家も、教育関係者も、親もうろたえている様子がうかがえます。

(2012年7月21日09時11分  読売新聞)

また最近、明治学院大学でシンポジウムが行われ、児童虐待の現状に詳しいジャーナリストは、現代社会における児童虐待の現状に警鐘を鳴らした。


大人社会こそが小さな弱い命を軽んじ、むしろ滅ぼしているのではないか。羊の群れを滅ぼし散らしている牧者が、今の社会でも姿として現実のものとなっているのです。


現代社会に生きているわたしたちの多くはたぶん疲れています。31節でイエスは弟子たちに「しばらく休むがよい」と言われましたが、わたしたちもこの言葉を切実に必要としているかもしれません。


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? 私たちは少なからず、この世の生活に疲れ果てています。複雑な人間関係、仕事、育児、家庭生活、社会生活などなど、身も心も疲れ果てます。そういう時、私たちはどこに安らぎを見いだすのでしょう。趣味、レジャー、パチンコ、競馬、酒、あるいは、もっともっと仕事に没頭する…。しかしおおむね、もっと疲れてしまうことが多いように思います。「私のもとに来なさい。私が休ませてあげる」とは何とすごい言葉なのでしょうか。けっして他の人間には、口にできない言葉です。疲れ果てて相談に行っても、お説教されたり、
よく聞いてもらえなかったり、変に同情されたりで、よけい疲れることがあまりにも多いからです。
私たちが疲れきった時、自分の心を本当に分かってくれる人のそばで、ゆっくりくつろぐことで十分なのです。何も話さなくても、疲れきった自分を、ありのままに受け入れてもらえる時、疲れがいやされていくのを感じます。そしてゆっくり休んだら、「さあ、がんばろう」と、自分の重荷をかつぐ気力がわくのです。
私の重荷はだれかが背負ってくれるわけではなく、私が背負わなければならないからです。
私も人の重荷を背負うことはできないのです。その人の重荷は、その人がになわなければならないものであって、人は人の重荷を身代わりになってになうことはできないからです。しかしそれぞれ自分の重荷をになう者同士として、互いに思いやることこそ大切なのです。
信仰とは本来、疲れた人に安らぎを与え、またその重荷をになう力を与えるものです。
疲れた人をよけいに疲れさせるお説教をたれたり、高飛び車にしかりつけたり、よけいなお荷物を負わせてはいけないのだと思います。イエス様はご自分を、人のために完全に御父にささげました。だからこそ、ご自分のもとに来る人に安らぎを与えられるのです。本当に、その人をその人として受け入れてくださるからです。エゴイストこそ、他の人を疲れさせるからです。
私たちはいったい人を休ませているのでしょうか、あるいは疲れさせている方でしょうか。
「重荷を背負っている者は、私のもとに来なさい」
マタイ11・28-30
神の知恵イエスは、律法の重荷のかわりに安らぎを与え、神の愛のくびきを受けるようにと呼びかけます。愛のおきては難しいものではなく(Iヨハネ5・3)、イエスのため、人々のために、労苦、疲れを受けることを、かえって誇り、慰めとさせます(Iコリント15・10、Iテサロニケ2・9)。主が力づけてからである。
主は「 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40・29-31)

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現実のことに追われ、休みなく働き、何が本当に大切かが分からなくなっている。何のために今の活動、仕事をしているのかも分からなくなっている。そして「誰も自分の立場を分かってくれない。誰にもこの苦しさは分からない」と追い詰められ、疲れ、人から愛されることを求めている。そういう人たち、とりわけ世話をする立場にある親に、教育者に、指導者に、そして教会の羊飼いに、修道者に言うのです。
「私は分かっている。だからあなたは人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」。
イエス様は迷う羊の姿を、ご自分のこととして苦しみ、憐れみ、そして語り始められました。
本当に休ませてくれるのは、イエス様のもとでしかありません。そしてイエス様のみが常に、正しく教えてくださるのです。本当の道・真理・命だからです。そして私たちはイエス様の言葉を、聖書をじっくり自分のものとして読み聞くとき、ご聖体の前でゆっくり時を過ごすとき、聞き取れるようになるのです。
現実の社会は、休む時間も奪っているのかもしれません。ましてや祈る時間はもっとも最初に削られていく時間でしょう。祈ることも、神の言葉をじっくり考えることもしなくなっていくのです。しかしそれでは、魂の抜け殻が、ただ活動をしているだけに過ぎなくなってしまうのです。
イエス様はこのような有様を見て、怒り、悲しみ、そして深く憐れまれ、言われるのです。「人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」。
「最高の休息」のとき。それはイエス様と時を過ごす時です。忙しければ忙しいほど、イエス様と時を過ごすことが必要です。きっとその時にこそ、イエス様は教え、心の平安を取り戻させてくれるはずです。そのような時間をまったく生み出す余裕がないのであれば、時間の使い方、今の生き方に何か問題があるのかもしれません。
何が本当に生きる上で大切か。現実の社会はその問いさえ出せないほど厳しいものかもしれません。しかし朝から晩まで毎日働いても、その陰で、命を大切にすることもできない子どもが育っているとしたなら、そういう社会であるなら、それこそ、恐ろしいことです。そのことに気づくためにも、何よりも優先して祈りの時を作り、神様との時を過ごすことができるよう、心がけていきましょう。

ふだん私たちは意識しておりませんが、実は私たちにとって「自分の居場所」というものはとても大切です。自分の居場所がないということで苦しんだことが誰しもあるのではないかと思われます。特に引っ越しや、卒業や入学、就職や留学、結婚や離婚、失業や再就職、定年退職などで、新しい場所に自分が移らなければならないということは私たちに大きな緊張感を与えます。それは、自分の居場所を新しく見出すことができるだろうかという不安と重なっているからでもあります。旅行などもそのような緊張感を伴いますが、やがて帰ってくるべき場所があるからこそ、安心して旅行を楽しめるのだろうと思います。

「自分の居場所」は自分にとって居心地のよい場所でもある。家庭や学校や地域や職場などにおいて、自分の居場所を見出すことができない時の苦しさ、寂しさを私たちはよく知っています。今いる場がそれほど居心地よいとは感じられないけれども、ぐっとこらえて我慢しておられる方もおられるかもしれません。

実は人生においても自分の居場所はとても重要です。自分が生きていてよかったと感じる時、生き甲斐を感じる時、私たちは私たちの人生において居場所を見つけていると言えるのではないか。逆に、自分なんかいてもいなくても同じだと感じる時、自分の居場所を見出すことができない時、また、自分の身の置き場を失った時に私たちはとても苦しく寂しい思いがいたします。


私たちは日曜日になるとこのようにミサに集ってまいります。それは私たちが主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの居場所が用意されているということを知っているからです。月曜日から土曜日までは出向していた船が日曜日には母港に戻ってきて、休息とエネルギーを供給するように、私たちはこの主日のミサに出ることを通して、キリストの私自身に対する招きの言葉を聞き、主が私を休ませてくださるために、何をなしてくださったのかということに思いを馳せるのです。

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15 per annum B


年間第15主日 B年

【マルコ6:7ー13 十二人を派遣する】

ここで1週間分の重荷を下ろし、少し心を癒され、元気になって、イエス様に入っていただいて、力を回復してほしいのです。


今月の主日ミサの第一朗読は、先週がエゼキエル、今週がアモス、来週がエレミヤ、再来週がエリシャと、イエスとの関連において旧約の預言者に光が当てられていく。預言者について学ぶ時としてみるのもよいだろう。


父の家にお帰りなさい。教会は帰ってくる場所です。ここには同じひとつのこと、もっとも大切な神様のことを信じている人たちの集まりがあります。安心して、ほっとして、疲れを癒してください。


教会というのは、他のところでは絶対もらうことのできない大切なおもてなし。イエス様が語ってくれた言葉を聴き、そしてイエス様ご自身をいただきます。こんなすばらしいものをもらえる場というのは、他にはありません。ここで1週間分の重荷を下ろし、少し心を癒され、元気になって、イエス様に入っていただいて、力を回復してほしいのです。
でもまた忘れないでほしいことがあります。それは教会に帰ってきた以上、教会からまた出かけていく、遣わされていくということです。
どこに。この世に。福音を知らない場所。たくさんの迷いに満ち満ちている場所に。何を携えて。杖と履物だけ。「杖」・これから先を指し示す福音。「履物」・一歩一歩足もとを照らして、共に歩んでくださるイエス様だけ携えて。それも同じ信仰の仲間・兄弟と共に。
教会にいる間信者であるけれど、教会を出たら、もう自分が信者であることを忘れてしまう。それでは困るのです。キリスト教を人々に伝える福音宣教は司祭、修道者の仕事だからと思っているならば、それは違います。
自分はそのような器でない。とてもできないという恐れ。それに対してはっきり今日読みました。今日遣わされたアモスは、ただの家畜を飼い、イチジク桑を栽培するだけのものでした。しかしそこに主が共にいてくださって、真理の言葉を携えているから、預言者にもなったのです。神が愛する御子イエス様によって与えてくださった輝かしい恵み。それを私たちはたたえます。そしてそれを人々にもっていく。
その使命・自覚をいつも忘れないようにしましょう。私たち一人ひとりが、この世に派遣されています。たくさんの迷った人、犯罪、事件。どうして何もしないまま、今の世は間違っている、おかしいと眺めていることができるでしょう。その人たちのため、そういう迷った社会のため、私たちはたくさんのことをしなければいけません。救いの手を差し伸べないで見過ごしてしまった。そのような怠りをしないよう、せめてそのような迷える人たちを教会につれてきてほしいのです。
「人に直接会って話すことは恐ろしい。自分は機械相手のほうが得意」。そういう人も、今は簡単に自分の意見を発する場所ができました。ニュースでもやっていました。「今まで個人は、情報のただの受け手だった。しかしインターネット、特に、簡単に開けるブログは、個人を情報の発信する側に変えた」と。なんと幸いな時代でしょう。そういう機械のほうが向いている人にも、福音を宣べ伝えるチャンスが回ってきたのです。それぞれの特徴、それぞれ神様から与えられたタレントをいくらでも生かして、私たちは、いろんな形で、迷える世界に、誰もがイエス様の福音を宣教できる。そんな時代が来たのです。
司祭を目指す中高生がいます。どんなに大きな使命が自分たちに今与えられているか。そのことを決して忘れないようにしましょう。たくさん羊が迷っているのに、羊を導く飼い主がいないのです。自分はそれほどのものでないと思う時が来るかもしれません。それでも神様が用いて下さろうとしているのです。
そして洗礼を受けたばかりの人。すべて新たにされ、キリストの弟子に選ばれたのです。自分で選んだのでは、実は決してない。まさに天地が創られる前から、神様は、あなたをこの暗い世に派遣するために、あらかじめお選びになってくださっていたのです。神様が選んでくださった。だから勇気を持って、救いをもたらす福音を携えていきましょう。
そのためにも、自分自身が救われた喜び、感謝の心できらきら輝いていなければなりません。私はもうイエスによって救われたもの。何の恐れもない。怖いものもない。そうやっていつも胸を高く上げているでしょうか。失望や世の思い煩いに、下向きになってないでしょうか。ちょっと下向きな人に私は約束します。もう教会に集っている人。一人ひとりすべて救われ、永遠のいのちへの道をすでに歩んでいます。神様が必ず共にいて、私たちを導いてくださっている。教会に確実にいる神さまが約束してくださっている。そのことを伝えます。そして私たちは、その神さまからの愛を受け、その神様の愛と真理を人々に伝えるよう召されています。
迷いに入ったとき。また初めからリセットして再出発することのできるゆるしの秘跡。イエス様が本当に一緒に歩んでいるのだとしっかりと確認できる聖体の秘跡。そして病気の時には特に力を与えてくれる病者の塗油。実際にイエス様は今もこうして確実に教会で働いて下さっています。恐れることはありません。真理の言葉、救いをもたらす福音をもって、またこの1週間を歩んでいきましょう。 私たちの主イエス・キリストの父である神はほめたたえながら。

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「権能をお授けになった」
イエス様は十二人を選び、彼らに「権能(Exousia, Potestas)をお授けになった」とあります。「権能」ということばは、おそらく翻訳されたときに丁寧に選ばれた言葉だと思います。「権利」、「権力」の権(この字は「はかり」「おもり」という意味)と「能力」の能。そして、この権能は、「汚れた霊に対する」ものであり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患(わずら)いをいやすため」のものです。現代風にいえば、生活、生き方、人生を変える力、よくする力。人間の生活にマイナスとなるようなものを除く力です。私たちもそうですが、実際に、キリストの弟子に出会って、人生、生き方を帰られた人は多いと言えるでしょう。ほかにも生き方を変える力はあります。例えば、お金もそうです。お金は人の生活、生き方をよくしたり、悪くしたりする。政治的な権力もそうです。あるいは暴力を使う軍隊や警察の強制力、拘束力。しかし、使徒たちに授けられた権能は違います。お金の力、政治的力は長く続かない、もろいものです。この権能は二千年近く続いているし、世界的な広がりがあります。このように考えてみると、やはりこの権能はこの世的なものではない、神からの力だということは分かります。今日はこの神の力に与かるように祈りたいと思います。

遣わされるもの。それは第一朗読のアモスのように、単なる家畜飼い、いちじく桑を栽培する(アモ7:14)普通の人間がある日、神の呼びかけに従い、神の言葉を語るようになるわけです。けっして自分の能力や才能で預言者としての務めを果たせるのではありません。むしろパンも金も持たず、迎えてくれる家で世話をされるしかない弱いものです。しかしそれでも神の力によって、悪霊を追い出し、病人を癒す、そういう働きができる者なのです。
イエス様が十字架にかかる前の、使徒たちに欠けていたのは、自分たちだけで何とでもできると思い込み、神の支え、お互いの祈りがなければ弱いという自覚がなかった点だと思います。だからこそ神の子、イエス様を見捨てる結果となりました。 逆に言えば、使徒が完全なものになるためには、自らの弱さを知り、祈りでもって支えられる必要があると本当に知ることが必要だったとも言えます。それができたとき、つまり十字架と復活を体験して、初めて使徒になったのであって、イエス様の生きている間の派遣によって、使徒としての働きが完成されたのではありません。

(1) なぜ「二人ずつ組にして」なのでしょうか? これについてはいろいろな意味が考えられます。申命記19章15節には、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」という規定があります。これは裁判のときに複数の証人がいればその証言は確かであるということですが、神の国をあかしする場合も同様に考えられているのかもしれません。また、二人が一緒に旅をするならば互いに助け合うことができ、心強いことも確かです。さらに言えば、互いに助け合い、愛し合う姿をとおして神の国・神の愛を伝えることができる、と言えるかもしれません。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13章35節)。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされている」(Ⅰヨハネ4章13節)。わたしたちの中でも同じことが言えるでしょうか?

イエスは弟子たちの持ち物を厳しく制限しました。食べ物、着物、袋、お金、一切の余分な所有を禁じました。ただ野獣から身を守るための杖と、蛇やさそりから足を守るためのサンダルの着用を許しました。イエスは彼に従う者たちに、天の父なる神の御配慮を信頼して、「空の鳥」や「野の花」のように生きることを求めました(マタイ6・25以下)。「空の鳥を見よ、蒔かず刈らず倉に収めず、しかるに汝らの父は、これを養いたもう」。もちろんイエスの時代と現代とは実情が違いますから、文字通りこれを実行することはできません。当時ユダヤ教徒の町ではどこでも、旅人のために食べ物や衣服の世話をする人がいました。同様にキリスト教の巡回伝道者は、どこの教会に行っても、衣・食・住の提供を受けられたはずです。社会的、文化的、宗教的相違を無視して、これをそのまま実行することはできません。しかし基本は変わりません。無所有が信仰者のあるべき姿です。「何を食べ、何を飲み、何を着ようかと明日のことを思い煩う」ことは、神を知らない人の取り越し苦労です。天の父はそれら一切のものを私たちが必要としていることを御存知なのだから、それを天の父の御配慮にゆだねて、まず何よりも神の支配と神との正しい関係を求めて、日々を平安(シャローム)のうちに過ごしなさい、とイエスは告げられます。イエスの弟子たちは、イエス御自身のように自由に生きることを求められているのです。
http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0105_mark_.html

下着は二枚着てはならないとある。「二枚持っていってはならない」ではない。わたしたちは下着を二枚重ねてきることがあるだろうか。おそらくこれは野宿に対する備えであろうと思われる。野宿での寒さをしのぐために、下着を二枚重ねて着る。それほど厳しい状況の中に送り出される弟子たちだったのだが、下着を二枚着るなと言われている。それはすなわち、下着を重ねて暖かくして野宿しようと考えるよりは、だれかの家に泊めてもらうことを考えなさいということであったと思う。


イエスは宣教に出かける弟子たちに汚れた霊に対する権能を授け、何も持たないように命じて派遣します。弟子たちに優先させたことはイエスの教えを伝えに行くことだけでした。日常生活のさまざまな選択肢の中で、私たちも問われています。今、最優先されなければならないことは何か。本当に必要なことは、心が囚われるようなものを「持たない」ことでしょう。

どんな時も支えてくださる神よ、このときの弟子たちのようにあなたを全く信頼できますように。日々の生活の中で見過ごしている人々の支え、配慮に感謝することができますように。sese07

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福島原発事故調査委員会報告書に「朝河貫一」あさかわ・かんいち(1873-1948)という名前の人が出てきます。この人は福島出身の歴史学者(アメリカのイエール大学で教授となった)で、100年ほど前に、日露戦争以後に日本が進んで行く道を、正確に予測し、それに対して警鐘(ケイショウ)を鳴らした人です。

「今回の事故は、これまで何回も対策の打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局および東電経営陣が、それぞれ意図的な先送り、不作為(ふさくい)、あるいは自己の組織に都合の良い判断を行うことによって、安全対策が取られないまま3.11を迎えたことで発生したものであった。」(福島原発事故調査委員会報告書、2012年6月28日、11頁)

「想定できたはずの事故がなぜ起こったのか。その根本的な原因は、日本が高度成長期を遂げたころにまで遡る。政界、官界、財界が一体となり、国策として共通の目標に向かって進む中、複雑に絡まった『規制の虜(Regulatory Capture)』が生まれた。そこには、ほぼ50年にわたる一党支配と、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造と、それを当然と考える日本人の「思いこみ(マインドセット)」があった。経済成長に伴い、「自信」は次第に「おごり、慢心」に変わり始めた。」(はじめに、委員長 黒川清(きよし))

朝河貫一が、これらのことを予測し、警鐘を鳴らしていたというわけです。調べてみると、朝河は実は敬虔なクリスチャンだったのです。「東京専門学校」(現・早稲田大学)の学生だったころ、宣教師にであって、洗礼を受けたそうです。あれ以来人生の最後まで信仰を守ったのです。また、アメリカにいた時代に、太平洋戦争を避けるために、いろいろと働きかけた人でもありました。

となると、二千年前にキリストから遣わされた弟子たちは、東京に辿り着いて、現代の悪霊に対する力を発揮しているということになります。「先送り」、不作為、都合のいい判断、思い込み、おごり、慢心というのは悪霊の働きでなければ何でしょう?








14 per annum B


年間14主日 B
【マコ6:1ー6 ナザレで受け入れられない】

  あいさつ

皆さん、先週は娘を蘇らせてもらったヤイロとか、イエスの服に触れた女、つまり自然にイエスを信じて癒された人々について黙想しました。今週は、それに打って変わってイエス様のことを信じない、あるいは信じにくい人々が登場します。私たちはどちらのカテゴリーに属しているでしょうか。おそらく両方でしょう。ですから、きょうは注意深くみことばに耳を傾けて、信じる喜びと信じる難しさについて考えていきましょう。


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今日の箇所から、イエス様は、まったく普通の赤ん坊として生まれ、育ったのだと分かります。もしも神の子イエス様が、どこか普通の子と違う赤ん坊として、子どもとして育ったのなら、こんなことにはならなかったでしょう。「前から、あのヨセフの子は、すごいよ。早くからしゃべれる、何か人の心を見通せる力があるようだ、子どもなのに大人顔負けの知恵を持っている。未来をどうも予知できるようだ」。そんな噂など一度もたったことがなかった。同じように泣き、むずがり、病気にかかり、親がいなければすぐに死んでしまう。そんなちっぽけな赤ん坊として生まれ、まったく普通の貧しいヨセフとマリアの子。大工仕事を手伝うただの当たり前の子どもだったのです。
そんなイエスがいつの間にか、イスラエルの国中で騒ぎを起こしていると、その評判が逆に伝わってくる。
そこでイエスの故郷の人は、その知恵と奇跡に驚く。「これはすごい」。神殿で律法の勉強していない、医学を学んだ訳でもない。だからこそ神の力によって、それらの業を行っている!……
残念ながらそうは思いませでした。「あれはただの大工の子。親も親戚もみんなよく知っている。なんかごまかしでもしてるのではないか」。
身近な人々に対しての宣教。神父にとって一番いやなことは、家族がいる前で説教することかもしれません。何しろ自分のすべて、あらゆる欠点、すべて人の知らない裏を知っているのですから。
そういう感覚をナザレの人(せいぜい人口120-130人の村です)、はもっていたでしょうし、さらに加えて、当時の考えとして、メシアが、よく知られた家から、赤ん坊として生まれる。そんなものではありえませんでした。それこそ突然、力あるものとして、よに不思議に現れる。そのようなものでした。また、多くの預言者の運命を知っていたため(実際赤ん坊イエス様の巻き添えで、何人もの幼い赤ん坊が殺されたのですから)、そうしたことになっては大変という気持ちもあったかもしれません。何しろ彼らの考えでは、イエスがメシアなどではありえないと十分に分かっていました。あるいはいつの間にか、名声を得て、弟子を従えている、そんなことへの嫉妬もあったかもしれません。
そんないろんな思いのためイエス様は奇跡を起こしたくても、何もできないことになってしまいました。
 
年間第4水
マルコ6・1-6

私たちは誰でも、他人(ひと)から誤解されると苦しみ、悩み、傷つきます。そして何とかして正しく理解されたいと努めます。しかし福音書を見ると、イエスほど人々によって誤解された人はいないのではないか、と思うほどです。イエスの生涯は悲劇的です。ローマの支配者からも、エルサレムの権力者からも、ガリラヤの民衆からも、故郷のナザレの人々からも、愛する家族からも、そして親しい弟子たちからも、誤解されていて、その誤解が解かれないまま、イエスは十字架上で死ぬのです。そして現在も、イエスは世間の人々からばかりでなく、キリスト信者や聖職者からも、誤解されているのです。(ですから教会のシンボルである十字架は、イエスに対する人間の誤解、盲目を表わしていると言えます。)
誤解の原因はどこにあったとかいうと、それは先入観でした。虚心になってイエスの語る言葉に耳を傾けるのではなく、自分達がイエスのすべてを知っていると過信している点にありました。故郷の人々の驚きから考えると、イエスは決して神童(しんどう)、天才児の誉が高かったわけではなく、平凡で静かな人間として彼らの間で30歳位まで生きていました。イエスが急に変わったのはやはり、洗礼からでしょう。その時に神の呼び声を聞き、召命を受け、聖霊の力に満たされて福音を語りはじめ、奇跡の業を行なうようになりました。故郷の人々は当然その変化の原因を知りませんでした。そこに問題があります。

私たちは世間の常識(コモンセンス)に従って物事を判断するのですが、それを絶対化しないで、10パーセント位は、神様が介入されて御業を行なって下さると考える余地を残しておかないと同じ過ちになります。それは信仰の知恵です。これは親子の関係、夫婦の関係、友人の関係、共同体にとって大切なことです。ナザレの人々の場合、イエスに変化が起きたのは、もしかすると神の御業ではないか、と考える余地があったら、イエスを預言者として受け入れることができたでしょう。彼らがつまずいたのは、イエスの語る言葉よりも、イエスとの肉の関係にこだわったからでした。 
http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0105_mark_.html

主よ、今、私が出会っている人に素直な心で向き合うことができますように。過去の出来事や人々の思いに振り回されず、憶測、推測で判断することなく、今をありのままに見る知恵と勇気を与えてください。あなたに耳を傾け、良い気づきをいただきながら成長することができますように。sese07
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「神は未来をみる。しかし人間は過去をみる」。今日の福音で言われているひとつのことです。
過去にこだわって非難される。それはイエス様の弟子たちも浴びせ続けられたことです。自分たちを支配しているローマの手先の税吏だった、罪人だった、漁師の出に過ぎない、いい学校を出ていない。

しかしそれがイエス様の選びの不思議でもありました。けっして、神殿で立派な教育を受けた、地位のある人たち、すでに十分品行方正(ひんこうほうせい)と尊敬されている人の中からは、けっして自分の弟子を選ばなかったのです。ある弟子は激しやすく、ある弟子は野心に固まりイエス王国の大臣になりたいと望んでいました。そして、残念なことに、裏切り者になる弱さを含んだ人間もいたのです。
神の選びは人間の選びと違います。「人間は過去をみるが、神は未来をみる」。

アルコール中毒からようやく脱した人がこう言いました。「私はアルコールで皆にはかり知ることのできない迷惑をかけました。私に残されたのは償いの人生だけです。でも、神様はこんな私にたった一つ宝を下さいました。それは私がアルコール依存症だったことです」。もちろん過去はその人にとって、大切なことで、輝きにもなります。彼は自分が依存症に陥ったからこそ、同じ病気で苦しむ人のため、働き、希望を与えることができるのです。そのような同じ痛みを持った人が同じ痛みを持った人を助ける自助組織、たとえば犯罪被害者の会もそうですが、そういう組織がたくさんできて、多くの人の支えとして働いています。
これが第二朗読の「弱さの中でこそ、力が十分に発揮される」(IIコリ12:9)ことの意味でしょう。過去のことはすべて宝です。それこそがその人の人生の今を輝かしくもするのです。ただそれはその人の「今の強さで、自らの傲慢を常に正し、思い上がりを防いでくれる」ものだが、「かつての弱さであり、ある人には躓きになり、サタンから送られた使いにもなる」と、よく知っていると思います。
パウロの場合、それはかつてキリスト者を迫害したことがそうでしょう。あのパウロがキリスト者の群れに加わった。それは励ましになったでしょう。しかしパウロが活躍すればするほど、「昔はキリスト者を迫害していたんだよ」とそれが躓きを与えたのも、間違いないと思います。パウロにとってそれがとげの一つだったことは確かでしょう。しかしそれはパウロを飛躍させました。自分が最初の助祭ステファノの石殺しに加わってしまった。それならばステファノの分も自分は福音を宣教しよう。そんな気持ちを私は感じます。
ペトロの裏切りも聖書で記されるほどに有名な話でした。しかしその人間的な弱さをかえって原動力として、ペトロは誠実に、初代教皇としての勤めを、果たして行ったのです。
誰にもその人にとっての弱さ、いわば故郷というものがあります。しかしその弱さを自覚しつつ、傲慢にならずに、今を生きることがキリスト者のつとめです。どんな過ちがあり、悲しみがあり、弱さがあろうと、もう大丈夫。ちっぽけでも大丈夫。神様はすべて弱いものを、かえって良いことのために用いてくださいます。弱さ、失敗をかえって自分の強さとして生きましょう。いっさい過去を問わない神様の憐れみに感謝しましょう。またいつも自分の弱さ、故郷を忘れない気持ちも持ちながら、この1週間をまた共に歩んでいきましょう。

 霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた
(エゼキエル2・2より)

 預言者エゼキエル
ステンドグラス
パリ  サント・シャペル教会  13世紀

きょうの第一朗読(エゼキエル2・2-5)にちなんで、エゼキエルの召命を主題としたステンド・グランスを掲げた。サント・シャペル教会は12世紀半ば、聖人として敬われるフランス王ルイ9世がパリのシテ島に建てさせた王宮付属礼拝堂。コンスタンティノポリスでビザンティン皇帝から購入したキリストの「茨の冠」や十字架の断片などを納めるために建設したもので、王宮につながる王族用の上堂と一般者用の下堂から成る。上堂には高さ15mに達する窓が15面あり、千百余りのキリスト生涯図や旧約聖書の場面を描くステンド・グラスで飾られている(1245-48年制作)。
この場面は、きょうの第一朗読を含むエゼキエル書1~3章を踏まえている。神の働きかけを意味する「右手」から巻物がエゼキエルの口に向かって差し出されている。これは直接には3章1-3節に基づく。「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」(3・1)。きょうの朗読箇所にあるイスラエルの民への預言者としての派遣を告げる内容だが、「巻物を食べる」というイメージで語っているところが面白い。これが絵画的想像を支えている。(向かって)右側に描かれているのは1章5-14節に出てくる四つの生き物。「それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた」(1・6)。四つの顔とは人間、獅子、牛、鷲(1・10参照)の顔で、それぞれが巧みに重なって描かれている。この不思議な生き物の形象は、古代バビロニアの神殿の守護神が四つの顔を持っていたことに源流がある。「四」は神の全体性を象徴するという(フランシスコ会訳聖書注より)。このような生き物によって、それらの上の玉座に現れる神の全能と栄光(1・22-28参照)が強調される。人間、獅子、牛、鷲は美術史においては四福音記者を表す象徴となっていくものである(順にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)。その連想をもって眺めるとき、このエゼキエルの姿のうちにイエス・キリストの姿が見えてくるのである。