東洋文庫141、624、627
『マッテオ・リッチ伝』(平川祐弘著)
〈西洋人ではじめて中国語の読み書きを習い、はじめて明朝シナの都に住みつくことを得たイエズス会士〉だというのである。そして中国にいる間に、〈『天主実義』『交友論』『畸人十篇』『幾何原本』『坤輿万国全図』など、二十二点の漢文教書と科学書を編刊〉(ジャパンナレッジ「国史大辞典」)しているのだ。
人生世間如俳優在劇場上。所為俗業如搬演雑劇。諸帝王公卿、大夫、士庶、奴隷、后妃、婦脾、皆一時粧飾者耳、則其所衣衣非其衣、所逢う利害不及其見。搬演既畢、解去粧飾、則漫然不相関矢。故俳優不以分位高卑長短為憂喜也。惟扮其所承脚色、則雖 子亦当真切為之、以称主人之意焉。分位全在他、充位亦在我。
人の世間に生きるは俳優の劇場に在るが如し。なすところの俗業、雑劇を搬演(はんえん)するが如し。もろもろの帝王、宰官、士人、奴隷、后妃、婦脾、みな一時これを粧飾するのみ。そのきるところの衣は、その衣に非ず。逢うところの利害は、その見に及ばず。搬演すでに終われば、粧飾を解去し、漫然としてふたたび相関せず。
マッテオ・リッチ著、『天主実義』東洋文庫728、柴田篤訳注、第六章 13-20
中士が言った、「私はこのように聞いております。未来のことに精神を疲れさせる必要があろうか、現在の目前のことにひたすら取り組むだけだ、と[子(し)曰(いわ)く、未(いま)だ人(ひと)に事(つか)うること能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事(つか)えん (論語、先進篇11)]。これは真実のことばです。どうして来世のことをを論じることがありましょう」と。
西士が言った。「何と狭い見識でありますことか。犬や豚が話していると何ら変わりがありません。昔ヨーロッパに一人の教師がいました(エピクロス)。彼は憂えることなく楽しむことが人生であると考えていました。当時、彼に従う者もいました。彼は自分でその墓碑にこう記しました。「汝今、飲食して歓び楽しむべし。死後にこの楽しみなければなり」と。多くの学者は、その門人たちを豚小屋学派と呼びました。(…)そもそも「人、遠き慮(おもんぱか)り無(な)ければ、必(かなら)ず近(ちか)き憂(うれ)えあり」(論語、衛霊公11)ものです。「謀(はかりごと)が先に見通すことができない」(『詩経』、板篇)のは、詩人が諫(いさ)めたことです。私が見るところ、人は賢ければ賢いほど、その思慮は遠くにまで及び、愚かであればあるほど、その思慮は近くにとどまっています。人たる者、あらかじめ未来に備え、まだやって来ていないことを事前に考慮しないでよいでしょうか。農夫は春に植え付けをし、秋に刈り入れをします。松が百年後に実を結ぶために、植える者がいるのです。いわゆる「畑作りの老人は木を植え、その孫の孫がその身を取る」というものです。旅人は各地をめぐって、年老いて故郷に落ち着くことを願います。職人はその仕事を懸命に習って、腕をみがこうとします。士人は少年の時に苦労して学問をし、将来国君を補佐しようと考えます。このように皆、現在の眼前のことを重要事とはしないのです。出来の悪い子供は、祖先の事業をつぶし、[春秋時代の]いろいろな君主が国をほろぼし、天下を失いました。これは、遠い将来のことを配慮せずに、現在の眼前のことだけを処理しようとしたからではないでしょうか」、と。
中士が言った、「そう通りです。ただ、私は現世に生きているのですから、遠くまで思慮するといっても、現世のことだけです。死後のことなぢは迂遠(うえん)[で不要]のようです」と。
西士が言った。「孔子は『春秋』を作られ、その孫は『中庸』を表しました。その意図は万世の後の人々のためでした。それが他人のために思慮することでも、多くの君子はこれを迂遠なこととはみなしていません。私が自分のために思慮することが、せいぜい次の世代のことだというのに、あなたは迂遠だと言われるのですか。子供が壮年になれるかどうかも分からないのに老後のことを思慮しても、これを迂遠だとは言えません。[それなのに]私が死後のことは明朝のことかもしれないと思慮するのを、あなたは迂遠だとされるのですか。あなたは結婚する際、子孫ができることを願わないでしょうか」と。
中士が言った、「[子孫ができることを願うのは]葬儀を行い、墳墓を造り、祭祀を守ることをしてもらうためであって、自分の来世のためではないのです」と。
西士が言った。「そう通りですが、それも自分の死後のことなのです。私が死ぬと残るのは二つです。朽ちることのないものは霊魂(精神)です。すぐに腐るものは髑髏(どくろ)です。私は朽ちることのないものを大切にします。あなたはすぐに腐るもののことを配慮されます。私のことを迂遠と言えるでしょうか」と。
中士が言った、「善を行うことによって、現世の利益を得て現世の害悪を避けようとすることでさえ、君子は正しくないとされます。まして来世の利害など、どうして問題にできましょうか」と。
西士が言った。「来世の利害は、きわめて真実かつ重大なもので、現世の利害とは比較になりません。現在見ているのは利害の影にすぎません。ですから、現世のことは幸いであれ災いであれ、問題とするにたりません。私は師からこのような譬えを聞いております。
「人が世界に生きているのは、ちょうど俳優が劇場にいるようなもので、世間で行っている事柄は、劇場の演技のようなものである。俳優が演じている帝王、宰官、士人、奴隷、后妃(ごひ)、召使なども、一時的に装(よそお)っているだけである。だから、着ている衣装は自分のものではなく、遭遇する利害も自分自身に及ぶものではない。演技が終わって化粧や飾りを取ってしまえば、それらのものとは何の関係もなくなる。だから、俳優はその役の身分が高いとか低いとか、出番が長いとか短いとかでもって一喜一憂はしない。受け持っている役柄に扮するだけで、物乞いの役でも真剣に演じて、ひたすら舞台の主人に気に入れられるようにするだけである。つまり、役付けをするのは主人であって、その役を演じるのは自分なのだ」と。
私たちはこの世で百歳まで生きたとしても、来世の何万年以上にわたる無窮の時間に比べれば、冬の短い一日ほどの長さもありません。この世で手に入れる財産や物品も、借りて使用しているだけで、私が本当の持ち主というのではありません。どうして増えたからといって喜んだり、減ったからといって悲しんだりしましょうか。君子であろうと小人であろうと、人は誰でも何ものも持たずに裸で生まれ、何者も持たずに裸で死ぬのです(ヨブ記1:21-22参照)。最期のときが来てこの世を去るのに、黄金千箱を倉の中に積み上げて残していたとしても、ほんの少しでもそれを持って行くことはできません(ルカ12:13-21、愚かな金持ちの譬え)。どうしてこんなものに心を留めましょうか。この世の仮のことが終わったならば、ただちに来世の真実が始まります。そののち、各人はそれぞれにふさわしい貴賎の地位を受け取ることになります。もし現世の利害を真実だとするならば、それは愚か者が、芝居を見て帝王に扮している者を本当に身分の貴い人だと思い、奴隷の扮装(ふんそう)をしている者を本当に身分の卑しい人だと思うのと、何の違いがありましょう。
(…)
孔子は衛の国に行った時、民衆の様子を見て、まず富ませてそれから教えようとされましたが(論語、子路篇)、教育が最も重要だということを知らないはずがありましょうか。ただ民衆は利害を得て、初めて道理に導くことができるから、そうなさったのです。(「衣食足りて礼節を知る」参照)
Sunday, January 29, 2012
Saturday, January 28, 2012
4 per annum B
4 per annum B
Interesting, isn't, that an unclean spirit recognizes the Lord, but people cannot. In fact the unclean spirit is the first one in Mark's gospel to proclaim Jesus "The Holy One of God" The people marveled at Jesus's word< liking what and how he taught. They focused on his message. It is easy ti imagine them discussing teaching for days. In fact some folks have been discussing them for two thousand years. The unclean spirit, on the other hand< does not talk about the message of Jesus, but about himself, who he is.
Scientist speak of "anti-matter", the absolute opposite to matter. Contact between matter and anti-matter results in the annihilation of both. The unclean spirit knew that in the presence of Jesus it was faced with its opposite. So, it shrieked, "have you come to destroy us". The spirit knew who Jesus is because in Jesus it saw not teachings, but absolute good. The spirit saw the presence of God. eventually, people recognized who Jesus is. Christians know that he is, indeed, what the unclean spirit proclaimed him to be "The Holy One of God". We follow the unclean spirit in proclaiming God's presence among us in Jesus Christ.
It is not hard to think that I have more in common with an unclean spirit than that. There much in my life that is anti-matter compared to the reality that is Jesus. When I look beyond myself to the Church, I nearly despair. Our track record is not good at all. The terrible weapons that plague our lives were developed in the part of the world with the longest, most intense Christian influence. Some of the world's worst persecutions have been perpetrated by Christians who tortured one another in inquisitions, and went after non-Christians in crusades, forced conversions and the Holocaust. The destruction of the environment God created as a home for all, the creation of economic, social and political system that deprived men and women of their dignity as children of God -- all these can be laid before followers of Christ with the words, "Here are your real children."
Is this cause to give up, to decide that we have so much of the demon about us we should not presume to proclaim Christ? ShoulD we give up doing what the unclean spirit did? The rest of the world is no less soiled and sordid than we. In fact, we can stand as a symbol of the world, know Christ on behalf of the world, and proclaim him for the sake of the world precisely because we are tainted with evil. It is when I recognize how far I am from the goodness of God that I can understand the awesomeness of God's love.
When we confess our sinfulness, we can see its opposite, The Holy One of God. The first step in repentance is to admit our guilt, as when we go to confession. We admit our faults and failures out loud, making them painfully and embarrassingly real to ourselves. Then, we are presented with the sin-overpowering love of God when we most recognize our need of it. And we come to a key difference between ourselves and the unclean spirit. The demon feared; we rejoice because we know that Christ, The Holy One of God, is only our opposite in terms of evil. In terms of love, we are beloved children of God. Therefore we proclaim that The Holy One of God is among us, that there is hope for us in our uncleanness. We proclaim, like the spirit in the gospel, that Jesus is the opposite of our sinfulness.
It might even be proper to say a grateful prayer for that spirit, that it, too, might know Christ not as its enemy, but as the love of God offered to all us unclean ones. perhaps in God's mercy, we and that spirit will one day share the joy of heaven.
(Fr. Bill Grimm, UCANEWS)
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面白いことに、汚れた霊は主キリストを認めたが、普段の人々はできなかった。実際、マルコ福音書では、イエスを「神の聖者」とはじめて称えたのはこの汚れた霊です。人々はイエスの言葉に驚いた。彼の教えを好んだ。彼らは、注目していたのは、彼のメッセージであった。我々は簡単に想像できます。おそらく彼らは何日もそれについて論じたでしょう。人は二千年この方イエスのメッセージについてずっと論じてきました。他方、汚れた霊はイエスのメッセージを問題にしません。イエスそのもの、イエスは誰であるかを気にしています。
科学者は「反物質」という概念を使います。(*)物資と逆の性質をもつものです。物質と反物質が接触すると対消滅を起こし、質量がエネルギーとなって放出される。これは反応前の物質・反物質そのものが完全になくなってしまい、消滅したそれらの質量に相当するエネルギーがそこに残るということである 。
汚れた霊は、イエスの前では自分の逆のもの、正反対のものに直面するとわかっていた。そのため、叫んだ、「我々を滅ぼしに来たのか」。汚れた霊は、メッセージ、教えではなくイエスに善そのものを見ていたから、イエスは誰であるかわかった。後々に人々も、イエスは誰であるかわかってきました。クリスチャンは、まさに、汚れた霊は宣告したとおり、イエスは「神の聖者」だということを知っている。我々クリスチャンは、イエスの中に神の現存があると告げるときに、この汚れた霊に従います。
私たちは、汚れた霊に従うのはそれだけではないでしょう。私たちの生活には、イエスと現実比べれば、反物質のようなもの沢山あると、全く考えにくいことではありません。キリスト教の歴史を見ても、そこに汚れたものが沢山見えてきます。今人類を悩ましている原子爆弾は考え出され、創られたのは、キリスト教と一番なじみ深いところです。人々の生活を脅かしている経済システム、金融システムがつられたのは同じところです。
こういう現実があるから、我々クリスチャンはキリストを告げることをやめるべきでしょうか。我々には悪魔的なものがそれほどあるから、キリストを告げる資格はなくなったでしょうか。汚れた霊はなしたことを、我々はやめるべきなのか。
けれども、キリスト教となじみの薄い世界はそれほど奇麗だというわけではない。非キリスト教世界でも汚(きたな)いもの、汚れたものはいっぱいあります。だったら、我々クリスチャンは、世界の代表者、世界のシンボルとして立ち上がることはできると思います。世界に代わって、世界の救いのために、我々はキリストを知り、キリストを告げることはできる。神の善から遠ざかっていると認めるときこそ、我々は神の愛の素晴らしさがわかってきます。
我々の罪深さを告白するとき、その正反対、その逆のもの「神の聖者」を見ることができます。悔い改めの最初のステップは、許しの秘跡に預かるときのように、我々の責任を認めることです。声に出して、自分の失敗、不忠実を認めて、それらを苦しく、恥をかきながらリアルのものとして自分の前におくと。それから、罪を超える力を持った神の愛をいただくのです。そのようなときに、我々は神の愛なしには生きていけないということが一番わかります。こうして、我々と汚れた霊との間は肝心な違いに気づきます。悪魔が恐れた(滅ぼしに来たのか)。我々は喜ぶ。神の聖者キリストは我々と正反対であるのは、悪に対してだけであったとわかるようになったから。愛に関しては、我々は愛された神の子であると。従って、我々は我々の間におられる神の聖者を告げます。我々の穢れにもかかわらず、我々の汚れの只中に希望があります。汚れた霊のように、我々も、イエスは我々の罪深さの正反対だと告げます。
感謝をこめてその汚れた霊のために祈りをささげるのもよいでしょう。彼もイエスを、敵としてではなく、我々汚れた者すべてに与えられた神の愛として知ることができるように。
(*) 反物質(はんぶっしつ、antimatter)は、質量とスピンが全く同じで、構成する素粒子の電荷などが全く逆の性質を持つ反粒子によって組成される物質。例えば電子はマイナスの電荷を持つが、反電子(陽電子)はプラスの電荷を持つ。中性子と反中性子は電荷を持たないが、中性子はクォーク、反中性子は反クォークから構成されている。1928年、物理学者のポール・ディラックは電子の相対論的な量子力学を記述するディラック方程式を導いたが、この方程式から導かれる負エネルギー状態の電子の解釈について悩んでいた。(Wikipedia)
Interesting, isn't, that an unclean spirit recognizes the Lord, but people cannot. In fact the unclean spirit is the first one in Mark's gospel to proclaim Jesus "The Holy One of God" The people marveled at Jesus's word< liking what and how he taught. They focused on his message. It is easy ti imagine them discussing teaching for days. In fact some folks have been discussing them for two thousand years. The unclean spirit, on the other hand< does not talk about the message of Jesus, but about himself, who he is.
Scientist speak of "anti-matter", the absolute opposite to matter. Contact between matter and anti-matter results in the annihilation of both. The unclean spirit knew that in the presence of Jesus it was faced with its opposite. So, it shrieked, "have you come to destroy us". The spirit knew who Jesus is because in Jesus it saw not teachings, but absolute good. The spirit saw the presence of God. eventually, people recognized who Jesus is. Christians know that he is, indeed, what the unclean spirit proclaimed him to be "The Holy One of God". We follow the unclean spirit in proclaiming God's presence among us in Jesus Christ.
It is not hard to think that I have more in common with an unclean spirit than that. There much in my life that is anti-matter compared to the reality that is Jesus. When I look beyond myself to the Church, I nearly despair. Our track record is not good at all. The terrible weapons that plague our lives were developed in the part of the world with the longest, most intense Christian influence. Some of the world's worst persecutions have been perpetrated by Christians who tortured one another in inquisitions, and went after non-Christians in crusades, forced conversions and the Holocaust. The destruction of the environment God created as a home for all, the creation of economic, social and political system that deprived men and women of their dignity as children of God -- all these can be laid before followers of Christ with the words, "Here are your real children."
Is this cause to give up, to decide that we have so much of the demon about us we should not presume to proclaim Christ? ShoulD we give up doing what the unclean spirit did? The rest of the world is no less soiled and sordid than we. In fact, we can stand as a symbol of the world, know Christ on behalf of the world, and proclaim him for the sake of the world precisely because we are tainted with evil. It is when I recognize how far I am from the goodness of God that I can understand the awesomeness of God's love.
When we confess our sinfulness, we can see its opposite, The Holy One of God. The first step in repentance is to admit our guilt, as when we go to confession. We admit our faults and failures out loud, making them painfully and embarrassingly real to ourselves. Then, we are presented with the sin-overpowering love of God when we most recognize our need of it. And we come to a key difference between ourselves and the unclean spirit. The demon feared; we rejoice because we know that Christ, The Holy One of God, is only our opposite in terms of evil. In terms of love, we are beloved children of God. Therefore we proclaim that The Holy One of God is among us, that there is hope for us in our uncleanness. We proclaim, like the spirit in the gospel, that Jesus is the opposite of our sinfulness.
It might even be proper to say a grateful prayer for that spirit, that it, too, might know Christ not as its enemy, but as the love of God offered to all us unclean ones. perhaps in God's mercy, we and that spirit will one day share the joy of heaven.
(Fr. Bill Grimm, UCANEWS)
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面白いことに、汚れた霊は主キリストを認めたが、普段の人々はできなかった。実際、マルコ福音書では、イエスを「神の聖者」とはじめて称えたのはこの汚れた霊です。人々はイエスの言葉に驚いた。彼の教えを好んだ。彼らは、注目していたのは、彼のメッセージであった。我々は簡単に想像できます。おそらく彼らは何日もそれについて論じたでしょう。人は二千年この方イエスのメッセージについてずっと論じてきました。他方、汚れた霊はイエスのメッセージを問題にしません。イエスそのもの、イエスは誰であるかを気にしています。
科学者は「反物質」という概念を使います。(*)物資と逆の性質をもつものです。物質と反物質が接触すると対消滅を起こし、質量がエネルギーとなって放出される。これは反応前の物質・反物質そのものが完全になくなってしまい、消滅したそれらの質量に相当するエネルギーがそこに残るということである 。
汚れた霊は、イエスの前では自分の逆のもの、正反対のものに直面するとわかっていた。そのため、叫んだ、「我々を滅ぼしに来たのか」。汚れた霊は、メッセージ、教えではなくイエスに善そのものを見ていたから、イエスは誰であるかわかった。後々に人々も、イエスは誰であるかわかってきました。クリスチャンは、まさに、汚れた霊は宣告したとおり、イエスは「神の聖者」だということを知っている。我々クリスチャンは、イエスの中に神の現存があると告げるときに、この汚れた霊に従います。
私たちは、汚れた霊に従うのはそれだけではないでしょう。私たちの生活には、イエスと現実比べれば、反物質のようなもの沢山あると、全く考えにくいことではありません。キリスト教の歴史を見ても、そこに汚れたものが沢山見えてきます。今人類を悩ましている原子爆弾は考え出され、創られたのは、キリスト教と一番なじみ深いところです。人々の生活を脅かしている経済システム、金融システムがつられたのは同じところです。
こういう現実があるから、我々クリスチャンはキリストを告げることをやめるべきでしょうか。我々には悪魔的なものがそれほどあるから、キリストを告げる資格はなくなったでしょうか。汚れた霊はなしたことを、我々はやめるべきなのか。
けれども、キリスト教となじみの薄い世界はそれほど奇麗だというわけではない。非キリスト教世界でも汚(きたな)いもの、汚れたものはいっぱいあります。だったら、我々クリスチャンは、世界の代表者、世界のシンボルとして立ち上がることはできると思います。世界に代わって、世界の救いのために、我々はキリストを知り、キリストを告げることはできる。神の善から遠ざかっていると認めるときこそ、我々は神の愛の素晴らしさがわかってきます。
我々の罪深さを告白するとき、その正反対、その逆のもの「神の聖者」を見ることができます。悔い改めの最初のステップは、許しの秘跡に預かるときのように、我々の責任を認めることです。声に出して、自分の失敗、不忠実を認めて、それらを苦しく、恥をかきながらリアルのものとして自分の前におくと。それから、罪を超える力を持った神の愛をいただくのです。そのようなときに、我々は神の愛なしには生きていけないということが一番わかります。こうして、我々と汚れた霊との間は肝心な違いに気づきます。悪魔が恐れた(滅ぼしに来たのか)。我々は喜ぶ。神の聖者キリストは我々と正反対であるのは、悪に対してだけであったとわかるようになったから。愛に関しては、我々は愛された神の子であると。従って、我々は我々の間におられる神の聖者を告げます。我々の穢れにもかかわらず、我々の汚れの只中に希望があります。汚れた霊のように、我々も、イエスは我々の罪深さの正反対だと告げます。
感謝をこめてその汚れた霊のために祈りをささげるのもよいでしょう。彼もイエスを、敵としてではなく、我々汚れた者すべてに与えられた神の愛として知ることができるように。
(*) 反物質(はんぶっしつ、antimatter)は、質量とスピンが全く同じで、構成する素粒子の電荷などが全く逆の性質を持つ反粒子によって組成される物質。例えば電子はマイナスの電荷を持つが、反電子(陽電子)はプラスの電荷を持つ。中性子と反中性子は電荷を持たないが、中性子はクォーク、反中性子は反クォークから構成されている。1928年、物理学者のポール・ディラックは電子の相対論的な量子力学を記述するディラック方程式を導いたが、この方程式から導かれる負エネルギー状態の電子の解釈について悩んでいた。(Wikipedia)
Tuesday, January 17, 2012
Wednesday, January 11, 2012
3 per annum B
年間第3主日 B 野の百合会
【マコ1:14-20】
イエスの使徒になった人たちは、イエスに呼びかけられて、直ちに、すべてを捨てて従ったとあります。神に従うというのはこのように、変わらぬことのために、動かざるもののために、未来に希望をかけて、過去のすべてを捨てて従うこと。しかし神様に従い続けるということは、いつもいつも簡単ではありません。今日喜び勇んで使徒になった者たちも、常に従ったわけではなく、一番信仰が試されるときに、大きな裏切りをすることになったのですから。私たちは、神様に従うことを、いつも、一生をかけて、選び直しつつ、生きていかなければならないのです。
◇これからお話しするのは、ある神様に従った人の作り話です。山にひとり住み、眠っていた男に、主が現れてこう言いました。
「私はあなたにひとつの仕事を与えよう。あなたの山小屋の前にあって、いつもあなたの行く道を妨げている、あの大きな岩に立ち向かって、あなたの力の限り、その岩を押しなさい」
その男は、言われたとおり毎日、岩を動かそうと力の限り押し続けました。熱心に朝から夕方まで、力の限りふんばって、何年も押し続けました。しかしこの岩はびくともしません。すべての努力をあざ笑うかのように、その岩は動かないのです。
「主が与えてくださった仕事としても、無駄な事に力を使い果たしているのではないだろうか」。そんな失望と落胆が心に生じます。サタンがやって来ては「もうおまえはやめたほうがいい。まったく無駄なことをしている。岩は動きはしない。この仕事にお前は、向いていない。主の言葉に聞き従ったのが間違いだった」。こうささやくのです。
男はうちのめされ落胆した中、祈って言いました。
「主よ。私はあなたの言われたとおり、あの困難な大きな岩に立ち向かって動かそうとして、毎日働きました。しかし岩は1ミリも動きません。私は無駄のために働いているのではないでしょうか。何が悪いのでしょう。なぜ私はこの仕事で敗北したのでしょう」。
すると主の答えがありました。「私の子よ。私はあなたに私の言葉に聞き従って仕えるよう言った。あなたは受け入れ、力の限り岩に立ち向かって、毎日押しつづけてくれた。しかし一言も、岩を動かしなさいと言っていない。あなたの仕事は、岩を強く押しつづけることだった。あなたはいま落胆し、すべて無駄だったと考えている。しかし本当に無駄だったのだろうか。今、あなたの手と腕と足と体を御覧なさい。今は筋力(筋肉)が発達し、たくましくなった。またあなたの忍耐力が養われた。確かにあなたはあの困難の岩を動かすことはできなかった。しかしあなたは私に従って、あの従順と私の知恵に信頼し、あなたの信仰を働かせ、困難に立ち向かって、岩を押し続けることがあなたの使命だった。あなたはそれをよくやった。今私はあなたのためにこの不動の岩をも動かそう」
◇実際にこのように主の声が聞こえたりすることはそうあることではありません。そのために、変わらない神に仕え、従うことに疲れ、落胆するときがあります。何も変わらない、失望しかありえないそのようなとき。それでも希望を捨てないように。イエス様は「からし種ほどの信仰がありさえすれれば、それで山に向かって移れといえば移るだろう。できないことはない」(マルコ11・23、マタイ21・20参照)とさえ、おっしゃっいました。動かないものでも必ず動く。神様は私たちの信仰を見て、ニネベを滅ぼすのをやめたように、ご計画を変える方でもあります(ヨナ3:10)。
より深い信頼をもって、苦しみも喜びつつ、耐えていきましょう。苦しみこそ忍耐を、さらには希望を生み出すのです。失望に終わることはありません。話の男のように、堅くたって動かされず、全力を注ぎ、主の業に励んでいきましょう。主に従うことにおいて、労苦が無駄になることはありません。
「時は満ち、神の国は近づいた」。これは、マルコ福音書におけるイエスの第一声(だいいっせい)です。そこには聖書の世界の独特な考え方が表現されています。つまり、時の流れはすべて神の手の中にあるという認識から生まれてくるもので、一般的な「時」の理解とは、だいぶ違います。
日本語の「とき」という音(おん)(大和言葉)は、「結び目を解く」「氷の固まりが融(と)ける」「疑問を解く」などの「とく」という音(おんどく、おんよみ)と同じものであり、いずれも「物事が解体していく、形が消えてゆく」という点で共通した意味をもっている、とある文学者の説明を読んだ覚えがあります。
そう言われて見れば、一般的には「時は、跡形もなく流れ去っていく、過ぎ去っていく」という認識が強いように思います。例えば松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭の言葉、「月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也(たびびとなり)。」もそうです。また、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀(よど)みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。」という方丈記(ほうじょうき)の時の理解は無常観に満ちています。
こうした考え方の上に立てば、「過去のことにくよくよしたり、こだわったりしないで、水に流してしまえ」という処世術(しょせいじゅつ」も生まれてきますし、人生はむなしいというあきらめに満ちた生き方、世渡りのための人間的な知恵となります。
聖書の「時」には、このよう一般的理解と違って、確かな意味と目的が与えられています。この世はむなしいものではなく、うれしい発見に満ちたものに見えてきます。従ってそこで起きる出来事で意味のないものは何ひとつないということになります。たとえ、それが人間に不可解なことであり、そこに神様が働いておられるとは到底思えないような出来事であったとしても、そこに神の愛が必ず働いているというわけです。
こうした歴史観、世界観に立てば、一つ一つの出来事に神の働きを見出し、神にゆだねるという姿勢を育てていくことが人生の大事な課題ということになります。「時が満ちた」というイエス様の呼びかけに答えて、そこに神の意志を見出し、人生をゆだねることのできた弟子たちは幸せです。
【マコ1:14-20】
イエスの使徒になった人たちは、イエスに呼びかけられて、直ちに、すべてを捨てて従ったとあります。神に従うというのはこのように、変わらぬことのために、動かざるもののために、未来に希望をかけて、過去のすべてを捨てて従うこと。しかし神様に従い続けるということは、いつもいつも簡単ではありません。今日喜び勇んで使徒になった者たちも、常に従ったわけではなく、一番信仰が試されるときに、大きな裏切りをすることになったのですから。私たちは、神様に従うことを、いつも、一生をかけて、選び直しつつ、生きていかなければならないのです。
◇これからお話しするのは、ある神様に従った人の作り話です。山にひとり住み、眠っていた男に、主が現れてこう言いました。
「私はあなたにひとつの仕事を与えよう。あなたの山小屋の前にあって、いつもあなたの行く道を妨げている、あの大きな岩に立ち向かって、あなたの力の限り、その岩を押しなさい」
その男は、言われたとおり毎日、岩を動かそうと力の限り押し続けました。熱心に朝から夕方まで、力の限りふんばって、何年も押し続けました。しかしこの岩はびくともしません。すべての努力をあざ笑うかのように、その岩は動かないのです。
「主が与えてくださった仕事としても、無駄な事に力を使い果たしているのではないだろうか」。そんな失望と落胆が心に生じます。サタンがやって来ては「もうおまえはやめたほうがいい。まったく無駄なことをしている。岩は動きはしない。この仕事にお前は、向いていない。主の言葉に聞き従ったのが間違いだった」。こうささやくのです。
男はうちのめされ落胆した中、祈って言いました。
「主よ。私はあなたの言われたとおり、あの困難な大きな岩に立ち向かって動かそうとして、毎日働きました。しかし岩は1ミリも動きません。私は無駄のために働いているのではないでしょうか。何が悪いのでしょう。なぜ私はこの仕事で敗北したのでしょう」。
すると主の答えがありました。「私の子よ。私はあなたに私の言葉に聞き従って仕えるよう言った。あなたは受け入れ、力の限り岩に立ち向かって、毎日押しつづけてくれた。しかし一言も、岩を動かしなさいと言っていない。あなたの仕事は、岩を強く押しつづけることだった。あなたはいま落胆し、すべて無駄だったと考えている。しかし本当に無駄だったのだろうか。今、あなたの手と腕と足と体を御覧なさい。今は筋力(筋肉)が発達し、たくましくなった。またあなたの忍耐力が養われた。確かにあなたはあの困難の岩を動かすことはできなかった。しかしあなたは私に従って、あの従順と私の知恵に信頼し、あなたの信仰を働かせ、困難に立ち向かって、岩を押し続けることがあなたの使命だった。あなたはそれをよくやった。今私はあなたのためにこの不動の岩をも動かそう」
◇実際にこのように主の声が聞こえたりすることはそうあることではありません。そのために、変わらない神に仕え、従うことに疲れ、落胆するときがあります。何も変わらない、失望しかありえないそのようなとき。それでも希望を捨てないように。イエス様は「からし種ほどの信仰がありさえすれれば、それで山に向かって移れといえば移るだろう。できないことはない」(マルコ11・23、マタイ21・20参照)とさえ、おっしゃっいました。動かないものでも必ず動く。神様は私たちの信仰を見て、ニネベを滅ぼすのをやめたように、ご計画を変える方でもあります(ヨナ3:10)。
より深い信頼をもって、苦しみも喜びつつ、耐えていきましょう。苦しみこそ忍耐を、さらには希望を生み出すのです。失望に終わることはありません。話の男のように、堅くたって動かされず、全力を注ぎ、主の業に励んでいきましょう。主に従うことにおいて、労苦が無駄になることはありません。
「時は満ち、神の国は近づいた」。これは、マルコ福音書におけるイエスの第一声(だいいっせい)です。そこには聖書の世界の独特な考え方が表現されています。つまり、時の流れはすべて神の手の中にあるという認識から生まれてくるもので、一般的な「時」の理解とは、だいぶ違います。
日本語の「とき」という音(おん)(大和言葉)は、「結び目を解く」「氷の固まりが融(と)ける」「疑問を解く」などの「とく」という音(おんどく、おんよみ)と同じものであり、いずれも「物事が解体していく、形が消えてゆく」という点で共通した意味をもっている、とある文学者の説明を読んだ覚えがあります。
そう言われて見れば、一般的には「時は、跡形もなく流れ去っていく、過ぎ去っていく」という認識が強いように思います。例えば松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭の言葉、「月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也(たびびとなり)。」もそうです。また、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀(よど)みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。」という方丈記(ほうじょうき)の時の理解は無常観に満ちています。
こうした考え方の上に立てば、「過去のことにくよくよしたり、こだわったりしないで、水に流してしまえ」という処世術(しょせいじゅつ」も生まれてきますし、人生はむなしいというあきらめに満ちた生き方、世渡りのための人間的な知恵となります。
聖書の「時」には、このよう一般的理解と違って、確かな意味と目的が与えられています。この世はむなしいものではなく、うれしい発見に満ちたものに見えてきます。従ってそこで起きる出来事で意味のないものは何ひとつないということになります。たとえ、それが人間に不可解なことであり、そこに神様が働いておられるとは到底思えないような出来事であったとしても、そこに神の愛が必ず働いているというわけです。
こうした歴史観、世界観に立てば、一つ一つの出来事に神の働きを見出し、神にゆだねるという姿勢を育てていくことが人生の大事な課題ということになります。「時が満ちた」というイエス様の呼びかけに答えて、そこに神の意志を見出し、人生をゆだねることのできた弟子たちは幸せです。
Friday, January 6, 2012
Epiphany (1)
主の公現
(マタイ2・9〜10)
年が明けて、「主の公現」の祭日です。「公に現す」という字からも分かるとおり、この日は神の御子イエス・キリストが人となり、全人類にその姿をお現しになったことをお祝いします。
幼いイエスについて福音書に記された出来事の中に、東からベツレヘムに拝みに行った占星術(または天文学)の学者の話があります。歴史性と象徴性を統合した、非常に面白い物語です。キリスト教と言えば、誰も先ず聖書という書物を連想します。キリスト教の洗礼を受ける為にも、聖書の勉強に通うことは前提です。しかし、聖書より先にキリストの道を示してくれるのは、天に輝く星や、地上に生える生物です。大自然の誕生は聖書の冒頭ではありませんか。「初めに、神は天地を創造された・・・神は言われた『光あれ!』こうして光があった」。神の道が文字に銘記される為に、先ず大自然を観想しながら神の道が文字を書く人の心に銘記されなければなりません。書かれる聖書より先に、聖書を書く人の心です。占星術学者は聖書を知りませんでしたが、驚く心をもって大自然を眺めていました。こうして、エルサレムの聖書学者たちが聖書を探っても悟り得なかったキリストの誕生は、占星術学者が静かに天に輝く星を眺める事によって確認出来ました。
はるか東方の博士にまで、つまりすべての国民に、イエスは御自分を現されたというわけです。
しかし、福音書のイエス・キリスト降誕の前後を読んでみると、イエスが全人類に御自分を現された、というわりには幼子イエスを直接見た人がずいぶん少ないことに気づきます。ためしに、幼子イエスに会うことができた人を、皆さんの知っているかぎり挙げてみてください。ヨセフとマリアを除けば、羊飼い、東方の三博士……、それから後はなかなか出てきません。福音書の中でも、生まれたばかりの幼子イエスに会うことができた人はこんなものです。
では、イエスは他の人たちに御自分を隠そうとされたかというと、そうではないようです。幼子イエスを見た羊飼いたちは、喜びにあふれて、「この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ」(ルカ2・17)ました。また、きょうの福音の中でも、ヘロデ王やエルサレムの人びとは、博士たちの言葉によって「ユダヤ人の王」が生まれたことを知らされました。たくさんの人たちがイエスの誕生について知らされ、イエスに出会うチャンスを与えられたのです。それにもかかわらず、幼子イエスに会うことができたのはわずかな人たちだけでした。そこには、会いに行こうと望んだ人と無関心だった人の違いということでは片づけられない何かがあるようです。そこで、マタイ福音書をもう少し深く読んでみましょう。
マタイ2章1〜12節では、東方から来た博士たちとヘロデ王が対照的に描かれています。東方の博士たちは、一刻でも早く幼子に会いたい、との望みに駆られていました。一方、ヘロデ王も、不穏な芽は小さいうちに摘み取ってしまおうと考えたのでしょうか、それこそ血眼(ちまなこ)になって幼子の居場所を知ろうとします。別 の理由であったにせよ、ヘロデ王もまた幼子に会うことを強く望んでいたのでした。ヘロデ王は、律法学者を通して、メシアがどの町に生まれるかを知っていたのですから、普通に考えれば、ヘロデ王のほうが幼子を見つけやすかったはずです。しかし、幼子に会うことができたのは、ヘロデ王ではなく博士たちのほうでした。
なぜでしょうか。ヘロデ王は他の人に聞いた知識で幼子を見つけようとします。一方、博士たちはただ星(=神)の導きに信頼して、これに従います。ヘロデ王は、人を使って調べさせたり、人に頼んだりしますが、自分では動こうとしません。博士たちは、とにかくエルサレムを出発しました。星の導きを信じて行動しました。そして再び「東方で見た星」を見つけ、幼子にたどり着きました。
私たちは、いつもイエス・キリストと出会いたいと望んでいます。しかし、望んではいても、自分の力に頼っていてはイエスに会うことができません。神に全面的に信頼することが必要なのです。ところが、私たちは口では「神を信じます」と言いながら、いざ実生活の場になると、無意識のうちに、神の導きではなく、自分の持っている知識で、あるいは人から聞いた知識でもって行動しようとします。いつの間にかそうなってしまうのです。いつ現れるかわからない星、つまり神の導きよりも、自分の知識のほうがずっと確実に思えるからです。こうして、私たちはイエスに会いたいと望んでいるにもかかわらず、イエスに会えないヘロデ王のようになっているのです。
目に見えること、頭で分かることよりも、なかなかとらえられない神の導きに信頼するのは、たいへんなことです。道の途中で分からなくなってしまうこともあるでしょう。東方の博士たちも、エルサレムで一度星を見失ったようです。しかし、彼らが信頼をもって再び歩みを始めた時、確かに星は現れました。
私たちも、心の中にある不安や思い煩いを打ち払い、神に信頼して歩み始めましょう。そうすれば、必ず神の導きを見いだすことができるはずです。新しい年が、信頼・希望・喜びに満たされたイエスへの歩みの年となりますように。
人生は旅です。とよく言われます。自分の人生を本当に完成してくれる、みたしてくれるものを求めての旅です。旅というと、それはときには厳しい、重い、辛い、危険なものです。3人の博士は大胆にたびだちました。光を求めて、星の導くままに。
私たちも同じように、新しい年を前にして、この人生の旅、ほんものとの出会いを求めて、旅を続かなければなりません。その旅は、自分の真実への飢え渇きをいやすことのできる者との出会いになれい言いと思います。その旅はどんな形になるにしろ、博士たちを導いた星と同じような光が、与えられることもあると思います。そのためには、忍耐深くしかも真剣に祈る心が前提とされます。この祈りの中に忍耐深くとどまり、探し続けることによって、光であるイエスに出会う恵を今日祈りたいと思います。
(マタイ2・9〜10)
主の公現の祝日、すなわちエピファニーは、イエス・キリストが全人類の救い主として現れたことを祝う重要な日です。
主の公現の祝日、すなわちエピファニーは、イエス・キリストが全人類の救い主として現れたことを祝う重要な日です。
本日の聖書朗読であるイザヤ書60章1-6節とマタイによる福音書2章1-12節は、この出来事の深い意味を私たちに伝えています。本日の聖書朗読であるイザヤ書60章1-6節とマタイによる福音書2章1-12節は、この出来事の深い意味を私たちに伝えています。
イザヤ書60章1-6節:光の到来
イザヤ書60章は、「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と始まります。
この預言は、暗闇に包まれた世界に神の光が差し込み、全ての国々がその光に引き寄せられる様子を描いています。特に、異邦の民が黄金と乳香を携えて集まると記されています。
これは、後に東方の博士たちがイエスに贈り物を持って訪れる出来事を予示(前もって示して)していると解釈されます。
マタイによる福音書2章1-12節:東方の博士たちの礼拝
マタイの福音書では、東方の博士たちが星に導かれてベツレヘムにたどりつき、幼子イエスを礼拝する場面が描かれています。
彼らは黄金、乳香、没薬という貴重な贈り物を捧げました。
これらの贈り物は、それぞれイエスの王権、神性、そして将来の受難を象徴しているとされています。
博士たちは異邦人でありながら、真の王を探し求め、その導きを忠実に追い求めました。
公現の意味:全ての人への救い
これらの聖書箇所が示すのは、イエス・キリストがユダヤ人だけでなく、全ての民族、全ての人々の救い主であるということです。
東方の博士たちの訪問は、異邦人である彼らが最初にイエスを礼拝したことを意味し、神の救いの普遍性を強調しています。
イザヤの預言と博士たちの行動は、神の光が全世界に広がり、全ての人々がその光に招かれていることを示しています。
私たちへの問いかけ
この公現の祝日に、私たちは自らの信仰を振り返り、神の光にどのように応答しているかを考える機会となると思います。
私たちは日々の生活の中で、神の導きに敏感であり、東方の博士たちのように謙虚な心で主を探し求めているでしょうか。
また、私たち自身が神の光を受けて、それを周囲の人々に反映し、共に主の栄光を分かち合っているでしょうか。
パウロの時代にね、ユダヤ人と異邦人が一緒に祈るとか同じ信仰を持ってチームを作るとか、あり得なかったことです、今のパレスチナ人とユダヤ人のように。けれどもパウロはそれを実現させました。パウロのもとではユダヤ人も異邦人も一緒になってキリストの教会を始めたのです。パウロはそれについてこう言っています。「秘められた計画が啓示によって私に知らされた」(エフェソ3・3)と。秘められていたのですね、その計画は。なかったわけじゃない。パウロが作ったわけでもない。ちゃんと秘められていた。しかし、パウロはそれを信じて、その計画通りに教会を実現させました。救い主がこの世界に現れたのです。もはや私たちに不可能はない。どんな難しい課題でも知恵と力が与えられます。神の計画ですから、必ず実現します。あきらめてはいけない。50歳、70歳、関係なし。自らのうちに眠っている輝きを、恐れずに掘り起こすこと。人々の中に眠っている美しいその力を信じて発揮させること。教会がそのような力で満ち溢れたら、神さまの夢がこの世界でも実現いたします。ないものを出せと言っているわけじゃない。もしかすると生涯眠ったままになるかもしれない、神が与えてくださったかけがえのない知恵と力を掘り起こそう、と。
結び
主の公現は、神の愛と救いが全ての人々に開かれていることを祝う日です。
私たちもその光に照らされ、信仰の旅路を歩み続けましょう。
そして、イエス・キリストという真の光を、私たちの生き方を通して世に示していくことができますように。
参考:
------年が明けて、「主の公現」の祭日です。「公に現す」という字からも分かるとおり、この日は神の御子イエス・キリストが人となり、全人類にその姿をお現しになったことをお祝いします。
幼いイエスについて福音書に記された出来事の中に、東からベツレヘムに拝みに行った占星術(または天文学)の学者の話があります。歴史性と象徴性を統合した、非常に面白い物語です。キリスト教と言えば、誰も先ず聖書という書物を連想します。キリスト教の洗礼を受ける為にも、聖書の勉強に通うことは前提です。しかし、聖書より先にキリストの道を示してくれるのは、天に輝く星や、地上に生える生物です。大自然の誕生は聖書の冒頭ではありませんか。「初めに、神は天地を創造された・・・神は言われた『光あれ!』こうして光があった」。神の道が文字に銘記される為に、先ず大自然を観想しながら神の道が文字を書く人の心に銘記されなければなりません。書かれる聖書より先に、聖書を書く人の心です。占星術学者は聖書を知りませんでしたが、驚く心をもって大自然を眺めていました。こうして、エルサレムの聖書学者たちが聖書を探っても悟り得なかったキリストの誕生は、占星術学者が静かに天に輝く星を眺める事によって確認出来ました。
はるか東方の博士にまで、つまりすべての国民に、イエスは御自分を現されたというわけです。
しかし、福音書のイエス・キリスト降誕の前後を読んでみると、イエスが全人類に御自分を現された、というわりには幼子イエスを直接見た人がずいぶん少ないことに気づきます。ためしに、幼子イエスに会うことができた人を、皆さんの知っているかぎり挙げてみてください。ヨセフとマリアを除けば、羊飼い、東方の三博士……、それから後はなかなか出てきません。福音書の中でも、生まれたばかりの幼子イエスに会うことができた人はこんなものです。
では、イエスは他の人たちに御自分を隠そうとされたかというと、そうではないようです。幼子イエスを見た羊飼いたちは、喜びにあふれて、「この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ」(ルカ2・17)ました。また、きょうの福音の中でも、ヘロデ王やエルサレムの人びとは、博士たちの言葉によって「ユダヤ人の王」が生まれたことを知らされました。たくさんの人たちがイエスの誕生について知らされ、イエスに出会うチャンスを与えられたのです。それにもかかわらず、幼子イエスに会うことができたのはわずかな人たちだけでした。そこには、会いに行こうと望んだ人と無関心だった人の違いということでは片づけられない何かがあるようです。そこで、マタイ福音書をもう少し深く読んでみましょう。
マタイ2章1〜12節では、東方から来た博士たちとヘロデ王が対照的に描かれています。東方の博士たちは、一刻でも早く幼子に会いたい、との望みに駆られていました。一方、ヘロデ王も、不穏な芽は小さいうちに摘み取ってしまおうと考えたのでしょうか、それこそ血眼(ちまなこ)になって幼子の居場所を知ろうとします。別 の理由であったにせよ、ヘロデ王もまた幼子に会うことを強く望んでいたのでした。ヘロデ王は、律法学者を通して、メシアがどの町に生まれるかを知っていたのですから、普通に考えれば、ヘロデ王のほうが幼子を見つけやすかったはずです。しかし、幼子に会うことができたのは、ヘロデ王ではなく博士たちのほうでした。
なぜでしょうか。ヘロデ王は他の人に聞いた知識で幼子を見つけようとします。一方、博士たちはただ星(=神)の導きに信頼して、これに従います。ヘロデ王は、人を使って調べさせたり、人に頼んだりしますが、自分では動こうとしません。博士たちは、とにかくエルサレムを出発しました。星の導きを信じて行動しました。そして再び「東方で見た星」を見つけ、幼子にたどり着きました。
私たちは、いつもイエス・キリストと出会いたいと望んでいます。しかし、望んではいても、自分の力に頼っていてはイエスに会うことができません。神に全面的に信頼することが必要なのです。ところが、私たちは口では「神を信じます」と言いながら、いざ実生活の場になると、無意識のうちに、神の導きではなく、自分の持っている知識で、あるいは人から聞いた知識でもって行動しようとします。いつの間にかそうなってしまうのです。いつ現れるかわからない星、つまり神の導きよりも、自分の知識のほうがずっと確実に思えるからです。こうして、私たちはイエスに会いたいと望んでいるにもかかわらず、イエスに会えないヘロデ王のようになっているのです。
目に見えること、頭で分かることよりも、なかなかとらえられない神の導きに信頼するのは、たいへんなことです。道の途中で分からなくなってしまうこともあるでしょう。東方の博士たちも、エルサレムで一度星を見失ったようです。しかし、彼らが信頼をもって再び歩みを始めた時、確かに星は現れました。
私たちも、心の中にある不安や思い煩いを打ち払い、神に信頼して歩み始めましょう。そうすれば、必ず神の導きを見いだすことができるはずです。新しい年が、信頼・希望・喜びに満たされたイエスへの歩みの年となりますように。
人生は旅です。とよく言われます。自分の人生を本当に完成してくれる、みたしてくれるものを求めての旅です。旅というと、それはときには厳しい、重い、辛い、危険なものです。3人の博士は大胆にたびだちました。光を求めて、星の導くままに。
私たちも同じように、新しい年を前にして、この人生の旅、ほんものとの出会いを求めて、旅を続かなければなりません。その旅は、自分の真実への飢え渇きをいやすことのできる者との出会いになれい言いと思います。その旅はどんな形になるにしろ、博士たちを導いた星と同じような光が、与えられることもあると思います。そのためには、忍耐深くしかも真剣に祈る心が前提とされます。この祈りの中に忍耐深くとどまり、探し続けることによって、光であるイエスに出会う恵を今日祈りたいと思います。
Epiphany (2)
主の公現(2)
マタイ2・1-12
「少子化高齢化社会」と言われて久しい。今や「超・高齢化」と言います。高齢者は年金プラス3000万円、今日生まれた赤ちゃんはマイナス5000万円。つまり、年金をもらう高齢者は非常に増えて、しかも百歳まで、長くもらうので、国の予算委に負担がかかります。おまけに、高齢者の住みやすい社会、施設、病院、老人ホーム、がん治療、など高いものばかりですが、国はそのために予算を使っています。今年は100兆円を越えています。赤ちゃんは生まれてからすでに5000万円借金を抱えます。人口の60%は80%の財産をもっていると言われます。戦後、国を豊かにした世代は財産を食いつぶしているような状態です。不安定な状態です。
石蔵 文信(いしくら ふみのぶ)は、大阪大学準教授、医者として「巨人性うつと阪神性不安」(双葉社 futabasha 2003/08) という著書に書いているように、男性更年期外来の人は両方を抱えている。
読売巨人軍(とそのファン)は、常に勝つことを義務付けられている(と思いこんでいる)。幸せ慣れした人は突然の不幸に弱く、些細なことに傷つく。つまずいたことのない人は転び方がわからずに大怪我をする! それが「巨人性うつ」なのだそうです。「つまずいたら、つまずく前のように走ろうと無理をしてはいけない。少し症状が良くなると、すぐ元のように働こうとする。そして、ぶり返して元の木阿弥(もくあみ)になるのである。」・・・典型的なうつ病の経過を、見事に巨人ファンの心理を通して解説しておりました。
一方、阪神です。「いつも負けているのに今年は優勝するかもしれない?」・・・そんな絶好調の真っ只中での阪神(とそのファン)の心理です。慣れない幸せに恵まれると落ち着かない、不安でたまらない。今日は良いけど明日から全部負けるかもしれない。この幸せの先にもっと大きな不幸があるかもしれない!といつも不安に思うのです。これが「阪神性不安」です。不安になると過去の失敗ばかりに気をとられて「また失敗するのではないか」と悪い予感にとらわれる。これを避けるには過去の良いことばかり思い出せばいい。
今日の福音書には、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)。キリストが生まれた時代と今の時代はこのように重なります。昔話ではない。
私たちの生きている時代、人生を考えると、順調なときもあり、またつまづいて、次から次へと問題が起きてくるようなときもある。自分の思うままにすべてが運ぶときもあれば、万事裏目に出て、自分が閉じ込められてしまうような感じのときもある。そこにイエス・キリストが生まれたというのは、ヘロデ王やエルサレムの人々にとって不安であった。今までしていた生活に対する、神からの挑戦として受け止めた。あまり歓迎すべきことではなかったのだろうと思います。
イエスを迎えるということは、私たちの人生に一つの不安を呼び起こすことだと思う。私たちが不安になるほど深くイエスを迎え入れなければ、イエスを信じたことにならないと思います。「木に竹を接(つ)ぐ」という言葉があるが、自分というものがあって、そこへ異質のイエスを接いでいくような信仰では、命(いのち)が通わない。
なぜ不安を感じるのでしょうか。それは神が私たちの世界に入り込んできたからです。私達はサンタクロースを迎えるように、ストレートに神を向かえることはできないでしょう。言い換えますと、神の恵みは、今までに自分の生活をつづけながら受けることはできない。新しい王様が生まれることは古い王様が追放されるということになるからです。
私たちも自分の王座に座っています。だから新しい王を迎えるとか、新しく恵みを神からいただくときには、いままで王としてあがめていたものを追放しなければならない。そこに不安や戸惑いの原因があるでしょう。神からの働きかけにこたえ新しいもの、新しい世界を心から受け入れていかねばならない。
不安と言われると私はゲーテの『ファウスト』を思い出します。メフィストフェレスと取引をしたファウストは感じたのは不安ではなかったかと思います。ファウストは、成功するために、権力、富を得るために、魂をメフィストフェレスに譲ったわけです。
先月は真珠湾攻撃の70周年に当たります。これについて朝日新聞(12月8日朝刊)に東大の加藤陽子教授のインタビューが載っていました。真珠湾攻撃に終わったサイクルは明治維新に始まるというのです。そして、「今の日本社会の状況が、昔のこの時代に似ていて心配です。」
明治維新というと、「追いつけ追い越せ」、「和魂洋才」、「富国強兵」、「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」というスローガンを思い出します。西洋の技術(洋才)だけ輸入し、大和魂を守るといいながら、実はそこにメフィストフェレス的な取引はなかったかと思われます。大村さんが「敗戦後の日本に輸入された欧米の宗教文化」を嘆いておられるが、戦後ではない、明治でしょう。明治において欧米から技術を輸入しながら、拒んだのは宗教ではないか。技術と富と権力にメフィストフェレス的なものが付いて回るのは分からなかったのか。今やっと分かるようになったのか。
ところが、神が私たち人間の世界に働きかけたというのは、驚くべきことです。私たちは神に使え、神に捧げ物をしたり、香をたいて神をなだめるようなことをするのは宗教であると思いがちです。しかし、神のために人間が何かしてあげると思っていたのに、神の方から近づいてこられた。聖書は私たちに訴えている出来事とはそれなんです。そこに他の宗教とキリスト教の違いがあります。どうして神を喜ばせていくかということではなくて、神が私たちの方へどのようにして近づかれ、何をされたかに目をとめていくのが、キリスト教なんです。
マタイ2・1-12
「少子化高齢化社会」と言われて久しい。今や「超・高齢化」と言います。高齢者は年金プラス3000万円、今日生まれた赤ちゃんはマイナス5000万円。つまり、年金をもらう高齢者は非常に増えて、しかも百歳まで、長くもらうので、国の予算委に負担がかかります。おまけに、高齢者の住みやすい社会、施設、病院、老人ホーム、がん治療、など高いものばかりですが、国はそのために予算を使っています。今年は100兆円を越えています。赤ちゃんは生まれてからすでに5000万円借金を抱えます。人口の60%は80%の財産をもっていると言われます。戦後、国を豊かにした世代は財産を食いつぶしているような状態です。不安定な状態です。
石蔵 文信(いしくら ふみのぶ)は、大阪大学準教授、医者として「巨人性うつと阪神性不安」(双葉社 futabasha 2003/08) という著書に書いているように、男性更年期外来の人は両方を抱えている。
読売巨人軍(とそのファン)は、常に勝つことを義務付けられている(と思いこんでいる)。幸せ慣れした人は突然の不幸に弱く、些細なことに傷つく。つまずいたことのない人は転び方がわからずに大怪我をする! それが「巨人性うつ」なのだそうです。「つまずいたら、つまずく前のように走ろうと無理をしてはいけない。少し症状が良くなると、すぐ元のように働こうとする。そして、ぶり返して元の木阿弥(もくあみ)になるのである。」・・・典型的なうつ病の経過を、見事に巨人ファンの心理を通して解説しておりました。
一方、阪神です。「いつも負けているのに今年は優勝するかもしれない?」・・・そんな絶好調の真っ只中での阪神(とそのファン)の心理です。慣れない幸せに恵まれると落ち着かない、不安でたまらない。今日は良いけど明日から全部負けるかもしれない。この幸せの先にもっと大きな不幸があるかもしれない!といつも不安に思うのです。これが「阪神性不安」です。不安になると過去の失敗ばかりに気をとられて「また失敗するのではないか」と悪い予感にとらわれる。これを避けるには過去の良いことばかり思い出せばいい。
今日の福音書には、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)。キリストが生まれた時代と今の時代はこのように重なります。昔話ではない。
私たちの生きている時代、人生を考えると、順調なときもあり、またつまづいて、次から次へと問題が起きてくるようなときもある。自分の思うままにすべてが運ぶときもあれば、万事裏目に出て、自分が閉じ込められてしまうような感じのときもある。そこにイエス・キリストが生まれたというのは、ヘロデ王やエルサレムの人々にとって不安であった。今までしていた生活に対する、神からの挑戦として受け止めた。あまり歓迎すべきことではなかったのだろうと思います。
イエスを迎えるということは、私たちの人生に一つの不安を呼び起こすことだと思う。私たちが不安になるほど深くイエスを迎え入れなければ、イエスを信じたことにならないと思います。「木に竹を接(つ)ぐ」という言葉があるが、自分というものがあって、そこへ異質のイエスを接いでいくような信仰では、命(いのち)が通わない。
なぜ不安を感じるのでしょうか。それは神が私たちの世界に入り込んできたからです。私達はサンタクロースを迎えるように、ストレートに神を向かえることはできないでしょう。言い換えますと、神の恵みは、今までに自分の生活をつづけながら受けることはできない。新しい王様が生まれることは古い王様が追放されるということになるからです。
私たちも自分の王座に座っています。だから新しい王を迎えるとか、新しく恵みを神からいただくときには、いままで王としてあがめていたものを追放しなければならない。そこに不安や戸惑いの原因があるでしょう。神からの働きかけにこたえ新しいもの、新しい世界を心から受け入れていかねばならない。
不安と言われると私はゲーテの『ファウスト』を思い出します。メフィストフェレスと取引をしたファウストは感じたのは不安ではなかったかと思います。ファウストは、成功するために、権力、富を得るために、魂をメフィストフェレスに譲ったわけです。
先月は真珠湾攻撃の70周年に当たります。これについて朝日新聞(12月8日朝刊)に東大の加藤陽子教授のインタビューが載っていました。真珠湾攻撃に終わったサイクルは明治維新に始まるというのです。そして、「今の日本社会の状況が、昔のこの時代に似ていて心配です。」
明治維新というと、「追いつけ追い越せ」、「和魂洋才」、「富国強兵」、「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」というスローガンを思い出します。西洋の技術(洋才)だけ輸入し、大和魂を守るといいながら、実はそこにメフィストフェレス的な取引はなかったかと思われます。大村さんが「敗戦後の日本に輸入された欧米の宗教文化」を嘆いておられるが、戦後ではない、明治でしょう。明治において欧米から技術を輸入しながら、拒んだのは宗教ではないか。技術と富と権力にメフィストフェレス的なものが付いて回るのは分からなかったのか。今やっと分かるようになったのか。
ところが、神が私たち人間の世界に働きかけたというのは、驚くべきことです。私たちは神に使え、神に捧げ物をしたり、香をたいて神をなだめるようなことをするのは宗教であると思いがちです。しかし、神のために人間が何かしてあげると思っていたのに、神の方から近づいてこられた。聖書は私たちに訴えている出来事とはそれなんです。そこに他の宗教とキリスト教の違いがあります。どうして神を喜ばせていくかということではなくて、神が私たちの方へどのようにして近づかれ、何をされたかに目をとめていくのが、キリスト教なんです。
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