Sunday, July 31, 2016

21 障害となる人間性

21 障害となる人間性

正確に言えば、主キリストがどのようにご聖体を制定したのか?最後の晩餐で起こったことを考え、ご自分の存在と働きの本質的なものを、それ以降は絶え間なく再現され信仰生活の中心となる、一つの行為に組み込んだのは誰であるかを考えると、詳細なまで全てを丁寧に定めただろうと思われるかもしれない。全体の構造及び言葉とジェスチャー一つ一つを選んで、至聖なるものを、時間の流れからくる邪魔物や歪曲から守るために、厳格な法則で固められた霊的な「保護区域」においただろうと思われるかもしれない。イエスが育った旧約聖書の伝統、その精密な礼拝活動の発展を考えれば、ますますそう思いたくなる。一方、イエスの時代にはそのような細かい定まりは常識的なものであったし、他方では、新しいものと古いもの区別をはっきりさせるために必要だろうと思っていたとしても、決しておかしくない。
  ところが、実際は全然違う。キリストは最後の晩餐という時の重要性を完全に意識していたと、福音書は報告している。何か不注意が働いたとはとても考えられない。ご自分がしようととりかかったこと、まさにそのことをなさった。それは何であろうか?過越祭という文脈で、パンを取り、その上に我々は知っている言葉を述べ、食べるために弟子に配った。同じことを、杯でも行う。それから、「これらをするたびに、私の記念としてしなさい」とおっしゃる。
   誰に向かって語っているかは明らかである、使徒たちとその後継者である。彼らがしなければならないことも明らかである、彼自身がたった今なさった「これら」のことである。おそらく、「これら」のことをゆがめることもなく、抽象化させることもないように。以上である。さらなる言葉もない。「このようにせよ」という細かい指図も、指示もない。より広い全体や枠組みのなかの位置付けもない。いつ、どこでなすべきか、などなど当然知りたいことについて一言もない。このようにして、無限の可能性と神的尊厳の簡潔な命令が、驚くべき単純さで、人間の手に任される。
  イエスは、聖なる行為を定めるにあたって、過越祭の流れを汲んで、これからこのような新しい形で祝い続けるように命じている。要するに、何の処置も手続きも定めていない。イエスはなさったことは、種を蒔くようなことである。その種は日の浅い会衆という土に根を張り、そこで芽を出した。聖木曜日で起こったことは、ユカリスティアの祝いで新たにされるべきであると、教会共同体はいつも信じてきた。が、それは模倣ではなく、生きた再現でなければならない。種はいつも直接に「土」の影響を受けてきた。つまり、教会が置かれた社会的勢力や動機、状況などは影響を及ぼしてきた。また、会衆のサイズ、所在、都会部か田舎か、民族の歴史的文化的状況によっても、教会が影響を受けた。
  このように、ミサの聖なる行為の土台は時の流れの中に置かれた。それは、まことに長い、変化に富んだ歴史であった。その中に、ミサのいのちとなる側面、不滅の側面と共に、逆に過ぎ行く側面、やがて消滅に向かう側面も確かに現れた。この長いプロセスの中で、全体の構造は、特定の概念をシフトしながら、いつの間にか「定住」したわけである。時には、それほど価値のなかった追加は、言語や儀式に入り込んでしまうこともあった。当時使用された言語は、後に「死語」となる運命にあったが、そのほかにも様々な危険があった。
   さらに、ミサ聖祭は司祭や奉仕者や会衆、つまり人間でもって祝われてきた。その人間たちのうち、典礼の独自性や形態に対して深い理解を持った人もいただろうし、皆はそうと限らない。ある人は、象徴に反応できるが、観念や道徳的戒律しか分からない人もいる。一個人の中でさえ、準備の度合い、霊的参与の度合いは動揺する。目覚めた時期、楽しい時期もあれば、無関心と落胆、不注意と退屈の時期もある。
   神聖な行為の種は、人間の不完全な土に植えられている。典礼は自分にとって生きたものである司祭によって祝われると、その言葉とジェスチャーには納得いく。典礼の精神に疎い司祭だと、言葉と振る舞いはぎこちないもの、不自然なものに見える。そのほかにも、個人差で、話し方や物腰や振る舞い方の様々な短所があり、かなりの邪魔となり得る。会衆に関しても、様々な欠点が見られる。会衆にも理解と無関心、積極的参加と他人任せなどがある。ちゃんと教育を受けて、理解した上でミサに参加する会衆もあれば、毎日、毎週消極的にセレモニーの流れを眺めるだけで、ミサは受け継いだ伝統でしかない会衆もある。会衆は乗り気にある場合もあれば、全く従ってこない時もある。会衆のうちに個人的な信心を行っているメンバーもいる。その中に、絶えず変わる人間生活に含まれる気分のすべての様々な色合いがある。
   これは、個々の信者にとって、深刻な問題となり得る。ミサに行くとき、ありとあらゆる不備を感じる。観客のような姿勢をとるか、「まともな演技」をしてもらえるかどうかで、満足いったり不満になったりして、あるいは、演技の問題ではなく、共に行う奉仕であるということを理解するか、すべてがその分かれ目にかかっている。共に捧げる奉仕であれば、担い手は司祭だけでも、会衆の他のメンバーだけでもなく、各人である。
   各人が、それぞれの立場にしたがって、ミサの担い手である。各人が、既成の秩序において、できる限りより優れた実践を目指し、なるべく間違いをなくすように力を尽くすべきである。それ以上のことは、出席しているミサの諸事情を受けいれて、お任せすべきであろう。何らかの短所があれば過度に心を乱すべきではない。もちろん、その短所を参加の度合いを保留するための口実にすべきではない。各人が、本質的なものは変わっていないということ思い起こし、ミサの流れに乗り、神聖な行為は達成されるように協力すべきである。



Monday, July 11, 2016

20 障害となるセンチメンタリズム

20 障害となるセンチメンタリズム(感傷)

単刀直入に言えば、センチメンタリズムは「感動させられる望み」である。孤独や喜び、悲しみや恐れにひたることである。高まる気分や有頂天、または弱い気分や困惑した気分によって、何らかの形で動かされたいことである。
  人によってその望みには強弱の差があるが、皆多少を持っている。おかしいことに、感情的と見えない人々、理性や意志の自己修養のある人々、やり手、想像力に欠ける人々には、特に強い。
   このことから、センチメンタリズムは本物の感情とは異なる、ということが分かる。感情は力強く、くもりのない、純潔なものである。センチメンタリズムは不完全な感情である、肉欲に染まった感じやすさである。従って、本物ではっきりとした価値基準を持っていない人々だけではなく、もっぱら"性格"に頼る人々、意志の強さや自己修養に強調点をおいている人日にも、強くなる。後者は、感情を軽視するので、いかがわしいこと、下劣なことに陥りがちである。
   以上の諸特徴は、信仰生活にもパラレルがある。感傷的信仰者は、偉大な聖人たちのうちの好みや好きな真理や好きな聖書箇所、その物腰全体にセンチメンタリズムへの傾向がある。
   ある程度までは、これは批判できないものである。ぼやけた考えや弱い筋肉のように、単に気質的なものである。けれども、信仰者がこの傾向に支配されると、大失敗を招く。啓示のみ言葉の偉大さを失わせ、聖人たちを歪(ゆが)め、信仰生活全般を弱々しいものにし、不自然でまごつかせるものにしてしまう。
   センチメンタリズムの事例はいたる所見受けられる。売れている信心書や宗教グッズや美術を見ればわかる。また、キリストの受難についてのある種の瞑想や煉獄のかわいそうな霊魂についての書物を読めば足りるだろう。嘆かわしいことに、この傾向に影響に流された一つの信心を取り上げると、それは聖心の信心である。本来この信心はキリスト教的信心の最も深いレベルに属する。その表現から聖書的真理と生き生きとしたキリストの力強さがにじみ出るはずである。気質の高いもので、純粋なものであるはず。残念ながら、多くの場合は、耐え難い不自然なめめしさを帯びている。
この問題に多くの側面がある。いずれにしても、侮れないし、何とかしなければならない問題です。感傷的な信者にとっては、ミサに参加することは極めて難しいことである。このタイプの人にとっては、ミサの神聖な行為は慰めでも啓発することではない、むしろ厳格で、冷たく、人間味のない、人を寄せ付けないとさえ感じる。確かに、ミサは厳格的なものである。その並はずれた概念が簡潔に表現されている。行為としては単純である。その言葉は、明確かつ簡潔である。その感情が制御されいる。霊的態度は、最も深い意味で自己をゆだねることであるが、静寂と純潔さを伴う。センチメンタリズムは、自分の飾り付けをミサになげかけることによって、すでに完璧なものに余計な手を加えようとする。聖なる食卓という形をとどめるように考えられた祭壇は、ケルビムやキラキラの小さなランプでごった返しのさか巻きとなってしまう。行為は、何より感情に触れるように、花輪(はなわ)のごとくジェスチャーで飾られる。侍者の衣料品はごてごてで、人形のごとく。祈りのテキストや音楽に機嫌をとるような甘さがある。ミサ典書の力強い言葉づかいの代わりに、人為的な考えや力を込めない不自然な感情に溢れる信心が勝つようになる。こうして、ミサの中核となる真理は失われる。主の記念は「啓発」のための出品になり、そして神聖な儀式への真剣な参加に、感動させる「体験」が取って代わられている。
エルサレムで行われた最後の晩餐、そして十字架上の死、この二つは不可思議に結ばれていて、主ご自身の言葉によれば、これらの出来事は何度も新たにされる。キリストが命じたように、「これを行うたびに、私の記念として行いなさい」と。教会がこの命令を受けとめ、二千年にわたってそれに従い、また世の終わりまでそれに従うだろう。教会はどのように「それを行っている」かというと、それは典礼の厳密な形である。
  もし、この「行い」は、敬虔な者の宗教的感情、または感傷主義に任せていれば、どうなっただろう。想像するために、信心的な祈祷書を見る必要がある。
  全体として感動的な言葉数は多くなり、可能な限り苦しみの恐ろしさや大変さが強調され、イエスの愛は常に繰り返したテーマになっただろう。敬虔なしつこさで、イエスを呼びかけ、イエスを賞賛し、同情し、彼の口にありとあらゆる感動なフレーズを置くことになっただろう。
  ミサ典礼のテキストはまったく異なる態度で語っている。なにより、明確かつ簡潔なテキストである。深みのある感情はあるが、いつも制御され、尊厳のある文書になっている。イエスご自身はほとんど呼びかけられていない。呼びかけは奉献文にまったくなく、簡単に記念行為が完了した後に、アニュス・デイと聖体拝領前の祈りにだけある。いつも卓越した控えめが守られている。原則としてミサの典文は父なる神に向けられている。主が受難の間、そして瀕死の時に感じたことにまったく言及されていない。最も深い畏敬の念に包まれ、神秘全体の背景に静かに感じられるだけである。
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訳注:   受難曲は、4つの福音書に基づくイエス・キリストの受難を描いた音楽作品をいう。受難曲は聖週間における典礼と密接に結びつき、中世以来の長い伝統を有しており、17世紀から18世紀には、合唱や管弦楽を伴うオラトリオ受難曲が数多く作曲された。現代においても、演奏会または典礼用の受難曲が新たに創作されている。受難曲がバッハの時代あたりから聖句を中心にしたオラトリオ受難曲(oratorio passion)から聖句を用いない自由な受難詩によって書かれた受難オラトリオ(passion oratorio) がメインになっていった。
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  受難曲というジャンルから見られる聖なるドラマにおいて、我々は信仰者の感情がどのように展開したかを見てとることができる。その展開の方向は、最後の晩餐の部屋とゴルゴタに起こった出来事の手の込んだ模倣である。これと比べれば、ミサという、直接に神自身によって制定されたものに、どの程度の天来の着想が必要であるかが悟るだろう。
  ミサにおいては、模倣もなければ感傷もない、イエスの経験を自分のことのように感じる(代行的[vicarious]経験)という要素は見られない。ゴルゴタで起こった出来事は全面に出ることはまったくない。全体の背景に静かによこたわっていることは意味深い。ドラマ的なアクションは最後の晩餐の部屋から取られている。それも、模倣されることなく、厳格な洋式化された形に翻訳されている。典礼が隠すことを形は漏らす。
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訳注:   英語ことわざ「What soberness conceals, drunkenness reveals.」《正気が隠すことを酔いは漏らす》を参照。
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   初期のキリスト教徒は、聖なるものに不可思議な形を着せることは適切であると信じていた。彼らの態度の理由の一つは、迫害の危険であった。迫害が起こると機会あるごとに聖なるものは汚されてしまう危険性であった。彼らはまた、神秘性は聖性の自然的要素であるということも知っていた。この要素は我々現代人には失われてしまった。あるいは、センチメンタリズムと虚偽の神秘主義という黄昏に沈むままに任されている。おそらく教会刷新の最も緊急な課題の一つは、本物の神秘とそれに必要な態度を再発見することであろう。その態度は、センチメンタリズムとはまったく関係がなく、信仰の要求を「ゆるめる」ことをしない。むしろ、信仰の厳格さと尊厳を守ることを好む。本物の神秘への導入(arcani disciplina)は唯一残った典礼においてのみ発見し、取得することができる。
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訳注: 「Arcani disciplina (羅) 3~5世紀の初代教会における異教徒、未信者に処する心得」(小林珍雄編、『キリスト教用語辞典』,東京堂、昭和29年)。求道者は段階的にミサへの参加に導かれていた。この発想は、第二ヴァティカン公会議に再発見され、それ以降の成人のキリスト教入信に取り入れられた。
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ミサの厳格な形は、従って、センチメンタリズムの逆方向をたどる。センチメンタリズムは、感動を目指す。そのために、怖れや無力を思わせる感動的な振る舞い、また情緒溢れる言葉や衝撃となるイメージ、感動的な対話などを使用する。これらのことは一切ミサには見出されない。こうして、感傷的傾向の信仰者には三つの選択肢がある。1)ミサとの生き生きとした関係を作る希望を捨て、個人的な信心の領域に退く。2)ミサの性格を勘違いして、感動的な受難オラトリオの一種と捉える。3)自らの性向に勇敢に直面し、その性向をミサに従わせることができる。
  感傷を克服する必要がある。でなければ、ミサとの本物の関係を作ることは不可能となる。
自分の偏向と好みで判断する習癖を捨てきるべきである。なぜなら、ミサの形は主の命令に従った主の教会から与えられたからである。言うまでもなく、ここでも極端な姿勢を避けるべきである。教会の儀式とその言葉は教理(dogma)の絶対性を持つことにならない。
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「自分に委託された教理の忠実な擁護者であり弁護者であるキリストの教会は、信仰の遺産を全然変更したり、減らしたり、追加したりすることなく、全力をあげて昔から伝えられたことを忠実に守り、これを理解しようと努める。しかし、昔から伝えられ、教父たちが感じたことを磨き洗練されたものとするため、天上からの教えの昔からからの教理が証明され、照らし出され、区別されることによって、その充満性、完全性、正当性を見いだし、教理が同じ趣旨、同じ意味(eodem sensu eademque sententia)で受け取られながら発展することを望んでいる」(デンツィンガー・シェーンメッツァー、『カトリック教会文書資料集』、エンデルレ書店、昭和49年、2802項)。レランのヴェンセンチウス(Vincentius Lerinensis)のCommonitorium primum, c. 23 (PL 50, 668A)参照。
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  しかし、これだけは確かである、主の記念は、教会内で実行される方法は、「祈りの法(Lex orandi)」であり、典礼奉仕の法則にである。信じることを心から望む者は、言い換えれば、啓示に従順でありたい者は、この点においても従順でなければならない。そして、その規範に従ってプライベートな感情を教育しなければならない。そうすれば、個人的な信心とは全く異なる次元の霊的生命が働いているということを悟るだろう。神の奥深さからの出てきた感情を知るようになるだろう。キリストの内面の範囲内に入るようになる。教会の内面の生命を支配する力を直接に体験するだろう。
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 訳注:昔から「祈りの法は、信仰の法」(”lex orandi, lex credendi”)というモットーがある。典礼で祈られていることが、信者の信仰内容に影響を与えるという意味である。ここでいう「祈り」には礼拝や賛美のような信仰の実践が、「信仰」には教理や神学のような信仰の言葉が含まれており、つまり礼拝は信仰の形成に重大な影響を及ぼすということである。またアウグスティヌスは「歌うことは二度祈ること」と述べたといわれるように、歌には、言葉の増幅という重大な機能がある。歌と共に繰り返し心に刻み込まれた信仰の言葉は、歌っている人々、それを聞いている人々の「霊性」や生き方(lex vivendi)に、少なからぬ影響を与える。とりわけ説教の言葉の十分な理解が困難で、かつ歌をすぐに覚える幼い子どもにとっては深刻な問題だ。そのような意味では、教会の歌は祈りや信仰告白以上に、教会の信仰形成にとって重大な意味を持つのかもしれない。教会の歌が、教会の信仰告白、教育、そして霊性の育成と密接に結びつくものであることが深く意識され、積極的な取り組みがなされることを期待したい。

Monday, July 4, 2016

19 障害となる習癖

19  障害となる習癖

本書は、「ミサ聖祭に与るための準備」と呼ばれ、その目的は、神聖な祭典により完全に参加できることである。各章は異なる角度からその目的に向けてさまざまな考察を紹介している。終わりに近づこうとしている第一部では、いくつかの純粋に実用的な考慮事項を提供しされている。ミサになるべく参加することに我々にとって妨げとなることは何か?まず第一に、習癖だろう。
  いかなる感動[印象]も消え失せていく、というのは精神の基本的な法則である。いのち全体は成長もするが、絶えざる生成消滅でもある。最初のうち感動は強く働き、力を得てしばらくつづき、やがて消える。感動の経験者は、言って見れば、その感動を「使い果たした」。それから、無関心の状態になる。
  それは日常生活の多くのつかの間の接点の事柄である限り、問題はない。それぞれの接点がその瞬間またはその時を持っているし、次の接点のために準備をする。ところが、同じプロセスが我々の存在の基本的な部分、したがってかけがえのない部分を支配するままにしておくと、致命的になる。例えば、我々の使命[職業 vocation]は、不変の要求と責任をもっている。結婚、親友関係、自己との関係などもそうである。変化するままにしておくわけにいかないので、自分との暫定協定をしていかなければならない。
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訳注:  人生の歩みの中で、決然と一つの目標を見定めて行動を起こさなければならない時がある。それは、大学を選んだり、職業を始めたり、結婚もまたそうであろう。そのために困難なこと、辛いこと、寂しい思い、そして順境であろうと逆境であろうと、その志を保ち続ける強い心が求められる。
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   この場合は、感動や感情の消え失せる法則は深刻な問題となる。仕事は新しく、興味はいっぱいある時は、その仕事は全く負担ならない。その仕事は同じでも、長らく行われると負担になり、困難さを伴うようになる。他人との付き合いは、相手には知られざる新しさ、サープライズや驚きがある限り、喜びであり、よい刺激となる。しかし、親しくなると、その反応や応答は知り切ったこととなると、退屈に沈むのである。自分に関しても、我々は皆、我々自身の性格、欠点に落胆と圧倒的な嫌悪感を経験しているだろう。
  以上の全てがミサにも当てはまる。我々は毎週日曜日ミサに与っている。より頻繁に、毎日でも与っている人々は少なくない。ほとんど同じものである。主要なテキストのほとんどは、何回も繰り返される。いつも祭壇の下で同じ祈りで始まり、たまにしか詩編[43・1]Judica me [私を弁護し給え]が省かれるだけである。主の命令に応じて、主ご自身がなさったことを記念として行うために、奉献文[ローマ典文]は、わずかなバリエシオン以外は、いつも同じである。キリエ、グロリア、クレド、主の祈りとアニュス・デイ、主な祈りは完結したものであり、変わることがない。待降節や四旬節のように、グロリアが省かれることがある。平日のミサや殉教者、証聖者、聖女の記念日のように、クレドが除外されるぐらいの変化しかない。
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ミサ通常文(Ordinary of the Mass)と固有文(Proper)

ミサを構成する種々の祈りの文のうち,執行される日や目的などによって変化しない部分をいう。それに対して,曜日や季節,祝祭の種類などに応じて変化する部分をミサ固有文という。具体的には,キリエ,グローリア,クレド,サンクトゥス,ベネディクトゥス,アニュス・デイなどが通常文といわれる。
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  ミサの固有文でさえ、その構成、言語スタイル、霊的態度において、お互いに似たりよったりである。例えば、昇階文はだいたい、聖書の箴言の書を真似しており、アレルヤが点在している。集会祈願はいつも、直接な呼びかけで始まり、主な内容を展開し、決まった文言で終わる。時間の経過とともに、毎日かわる書簡と福音の朗読も鮮度を失いがちである。神聖な儀式に参加して長い年月が経つと、我々の対応は、おなじみのある古き友人への対応と同じになる。
  こうして、最初のうちは現れては消えるが、単調感が少しづつ長くなり、どんどん強くなるのである。"全部分かりきったもんだ"とか、"次はどうなるのか、どういう言葉が出るのかも知っている"、と言いたくなる。しかも、同じ司祭は同じ祭壇に、長い間、いつも変わらないやり方で、個人的な特殊性や癖で司式するとなると、退屈と疲れのまことの危機に襲われるであろう。こうなると、もう何も得られないと感じるようになり、何のために足を運んでいるかがほとんど分からない、という状態になる。各主日にミサに与るのは、教会の掟により義務となっているのは、泣き面に蜂である。
   この場合はどうすればいいのか? いかなくても良いのだろうか?平日でも毎日ミサに与る人は、ミサは無味乾燥になってしまったら、それほど頻繁に出なくてもよいというアドバイスを与えるのもできると思われる。しばらくの間、主日だけにして、その代わりに、ご聖体訪問や聖書を読む時間を取るのはよろしいだろう。しかし、主日のミサに関してはそういうわけにいかない。これで教会の掟の大切さが分かる。完全にあきらめることにならないように、我々には本性上ルールが必要である。
  信仰生活は強制すべきではない、内面から自発的でなければならないと主張されることがある。ところが、人間の生活は何もかも自発的ではない。規則正しい部分もあり、練習や規律が必要になってくる。規則正しさ規律が捨てられると、価値あるものも失われる。主日のミサへの参加という掟は必要であるだけではなく、正しいものである。掟は、聖なる時間、主の日と週日との関係に関わるからである。しかし、教育的観点の他に別の考慮事項がある。キリストがミサ聖祭を制定した事実である。それは我々が気まぐれに無視できることではない。むしろ、我々の信仰生活の核心である。もし我々はミサをスキップとすれば、その代わりに何を置くべきであろうか?何か我々自身が選んだものであろうか。でも、すぐにずっと悪い満腹感を経験し、人生の究極の意味に関わる、人間的努力の耐えられないつまらなさを経験するだろう。
   では、どうしたらいいのか?まず、ミサは我々の生活に欠かせないということをきっぱりと明確にすべきであろう。きっぱり決めたこと、変らるべきではないことに独特な強さがある。自分で決意した事に関しては、少なくともある程度実行できる。本質的に不動ではない人間が、常に流される傾向があり、生活における明確な規律は、身体における骨太のようなものである。堅固(けんご)さと品位を与える。
  「新しい歌を神に歌え」(詩編96・1)。この詩編は、歌い手がいつもいつも新曲を期待しなければならない、ということを言っていない。むしろ、あらゆる歌は、新たにされた心からさわやかに膨れ上がるべきである、と言っている。新しくされたものの力が人生における最大の幸せの一つである。まだ誰も作っていないものを作れる能力だけではなく、既に在るものを、初めて存在し始めたと言われるほどに、再生させるキャパシティーは幸せの一つである。人間は、長く続けてやったこと、見たことの単調さを突破することができる。そして、自分のうちにたまった力から、新たな出発をすることができる。
    以上のことは、殊更にミサ聖祭に当て嵌まる。ミサ聖祭は絶対的で無尽蔵だからである。ミサの大部分は、いい意味で、人間の技、神によって指導された奉仕の技である。また、悪い意味でも、人間の技であり、形式主義や浅薄さを含んでいる。しかし、その現実の核心には、生きたキリストの救う行為があり、その行為には天主の知恵と愛全体が含まれている。その知恵と愛が、単なる対象物としてではなく、生きた力、現に働く力として与えられる。主の記念を祝うとき、肝心なところは、我々の知覚能力や評価能力ではない。キリスト自身が我々と共に働いておられる。第一義的に行為をするのはキリストであり、我々の記念する行為においては、動かすのはキリストである。
  馴れ馴れしくなることと単調さは、物事、活動、人々には限られた意義と現実性しかない、ということの証拠である。従って、早かれ遅かれ限界に達し、付け加えるべくさらなるものは何もないと、はっきりしてくる時が来る。その時点で、興味をそそることに、忠誠心がとって代わらなければならない。ところが、ミサの場合は事情は違う。ミサの場合は、我々は直接に扱っているのは、キリストとその救済の業であり、ロゴスであり、その神的存在の無限性とその尽きない愛である。我々はキリストと関わるのは、当然支払わなければならない尊敬を求めてくるという意味だけではなく、我々の記念する仕事を助けてくださるという意味でもある。単調さは、ミサ自体からくるものではないと、信仰が教えてくれる。単調さが現れるのは、我々のうちにのみであって、キリストとその愛を十分真摯に受け止めていないときである。信仰者がキリストと関わる限り、その限りに応じてまさにキリストは新しいものである。従順のいかなる行為、いかなる克己、主の導きと力によって克服される生活のいかなる状態も、キリストについて何か新しい側面を示している。ミサは、我々はそれに期待をかける分だけ多くを与えてくれる。生活を刷新する力は、我々から来る限りの力ではない。我々は、天主の無限の可能性に期待をかけることができる。
   確かに、我々は信仰においてのみこのように期待できるが、信じられることの真実は、それが個人的に経験される程度には明らかになる。
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付録   福音の新しさ

2コリ 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
マルコ1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
1コリ11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

福音はいつも新しいはずです。よそに新しさを探す必要はないはずです。

情報とは何か。情報にはいくつかの特徴があります。何かを情報といえるためには新しさがなければならない。明日の新聞には今日の新聞と同じ情報であれば、誰も読まないでしょう。価値がない。
また、情報は同時に「冗長性」(じょうちょうせい redundancy)がなければならいといわれます。規則だたしさといったら分かりやすいかもしれない。繰り返される部分がなければならない。ですから、明日の朝日新聞はいきなり韓国語になったら、ついていけない人は多いでしょう。
あるいは、ニュートンの法則、F=ma 力は質量にかける加速度に等しいと言われても、慣れていないひとはちょっと待ってよ、というでしょう。その人にとって新しすぎる情報となります。

遺伝子にはたくさんの情報が詰まっています。遺伝子は体の形を伝えています。毎日体の細胞は遺伝子の情報に従って変わっていきます。変わらない細胞は死んでしまいます。毎日変わらない生き物は死んでしまいます。だから、毎日体は新しくなりますが、ここにも冗長性、繰り返される部分がなければならない。ネズミの実験で、鼻をつくる遺伝子を操作(そうさ)して、足に鼻を作らせた実験があります。やはり、体は唐突的に変わるものではない、少しずつ変わるが、突然全部新しくならない。

「あいうえおかきくけこ」50音表、あるいはabcdefgアルファベットには、決まった順序があって、いつも変わらない冗長性、繰り返される部分、規則正しさがある。けれども、アルファベットを繰り返すだけで情報を伝えることはすくない。やはり、順序を崩して、様々な言葉を作ります。文字を並べ替えて言葉と話を作ります。





Sunday, July 3, 2016

歩くこと ロマーノ・グアルディーニ

ここで一つの参考に、20世紀の宗教哲学者、典礼運動の指導的思想家であったドイツのロマーノ・ガルディーニ(1885年生まれ、1968年没。事典などではグアルディーニとも表記される)のことばを紹介したい。『聖なるしるしについて』(原著ドイツ語 増補改訂番1929年発行、未邦訳)という、典礼の中のさまざまな動作や姿勢のもつ霊的意味を考察する書物で、以下は「歩くこと」について述べる一節である(試訳)。 「歩くこと、それは、急ぐことや走ることと異なる静かな運動である。足を律動させる力強い前進。体を真っ直ぐにして安定したリズムを刻む。このような正しい歩行には高貴さが漂う。自由でありつつ適度の規律によって抑制され、軽やかでありつつたくましく、穏やかでありつつ前に進む力にあふれている。このように直立して歩くということは、すなわち人間であるということをもっともよく示している。……歩くことをもって人間らしさを表す我々は、キリストによって、人間以上のもの、『神の民』となり、神によって新しいいのちに生きるものとなった。神の民のうちにキリストが聖体をとおして深い意味で内在する。キリストのからだが我々のからだの中に入り、キリストの血が我々のうちに成長し、我々はキリストのうちに成長する。いつも、深く我々の中に入り、我々を貫き、上へと高めていく。我々がキリストの背丈に届くまで、キリストが我々のうちに形づくられるまで」