復活節第6主日 B
ヨハネによる福音(15:9-17)
「私が愛したように、あなたがたは互いに愛し合うこと」、これはキリストがもたらした新らしいおきてと言われるものです。新しさとはどこにあるのでしょうか。
旧約聖書にも隣人愛に関するおきてがありました。しかし、それは、キリストが与えられたおきてと比べてみると、だいぶちがいがあります。旧約のレビ記は、隣人愛についてこう記しています。「隣人を自分のように愛せよ」(レビ19・18)。ここでは隣人愛の基準が、「自分」になっているのに対して、ヨハネ福音書では、「キリスト」になっています。つまり、「キリストが愛したように」ということです。じつに、ここに新しさがあるわけです。キリストがわたしたち人間に対して示された心と行動が、・隣人愛の理想としておかれるわけです。
これは、最後の晩さんの時に、とつぜんキリストがいわれたことではなく、山上の説教ですでにふれていることです。
「天の父は、悪人の上にも、善人の上にも、太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれる者を愛したからといって、あなたがたになんの報いがあろうか。徴税人でさえもそうするではないか。また自分の兄弟だけに.あいさつしたからといってなにかとくべつのことをしたのだろうか。異邦人でさえもそうするではないか。だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・45~48)。「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とは、その脈絡から、隣人愛についていっているのは明らかです。天の父が人びとを愛し、つつみ、働きかけていくのと同じような、愛の完全さを、キリストは人びとに求めているわけです。「キリストが愛したように」「神が愛するように」人びとを愛する。
考えてみれば、これほど、たいへんなことはありません。わたしたち人間にはとうていできないことです。わたしたちは、神と異なって、エゴイストです。自分の心のどこかにかならず、自分を優先する心が生きているものです。他の人のことよりも、自分の望み、自分の生活を先に考えてしまいます。
これがわたしたちの真実な姿です。
たとえ、他人の幸せを考え、働きかけることがあるとしても、どれほどの真実な心をこめたものかわかりません。さまざまな打算や下心があり、たとえそれが愛ということばで表現できるものだとしても、多少ともきたなく、よごれたものです。真実で純粋な愛からは、はるかにかけ離れた、カのない弱々しいものです。
しかし、キリストは、わたしたちの汚れ、わたしたちの弱々しさを十分承知しながら、理想を高くかかげられたのです。そこに福音のすばらしさがあります。キリストはわたしたちの現実、わたしたちの罪ある婆を、わたしたち以上に知りながら、それに妥協せず、高い理想をわたしたちに与えていらっしゃるのです。
高い理想、それは、たしかにわたしたちの力では実現不可能なことです。しかし、「神にはおできにならないことはない」のです。神の恵みによってなら、可能なことなのです。ですから、まず、わたしたちは、高い理想をしっかりとみつめるべきです。自分には不可能だからといって、あきらめたらなにもなりません。それこそ、不信仰といわれるものかもしれません。理想を捨てたクリスチャンは本当に哀れなものです。不可能なことこそ、しっかりと自覚しながら、けれど、恵みによってかならず可能となるという確信が必要です。そうしてこそ、私たちは、自分の泥沼、自分の弱さからぬけだせるのです。そうでなければ、救いがないということになります。(森)
では、なぜキリストがこんなに高い理想を掲げたのでしょうか。理由は11節にあります。
「私がこのようなことを話したのは、私の喜びがあなた方の中にあり、あなた方の喜びが満たされるためなのです。」(ヨハネ15・11)
私たちはいつも、自分の喜びを求めています。しかしめったに、喜びに満たされることはありません。喜びがあっても、それは非常にはかないものです。それは私たちの求める喜びが、往々にして人から期待するもの、ないし奪ってくるものだからでしょう。自分が喜んでも、だれかが迷惑しているのなら、それは本当の喜びとは言えないでしょう。私たちはどうしても、他の人の喜びよりも自分の喜びを優先したいのです。しかしそれでは、満たされる喜びにはけっしてならないでしょう。イエス様は「私の喜びがあなた方の中にあり、あなた方の喜びが満たされるように」と言います。イエス様は私たちの喜びを奪うのではなく、ご自分の喜びを与えてくださるのです。私たちは自分の喜びより、イエス様の喜びを求めなければなりません。そうでなければ、私たちの喜びは満たされません。
本当の喜びは人から奪うものではなく、与えるものだからです。与えることによって、私の喜びは満たされるのです。私たちの求める喜びが、けっして満たされることがないのは、私が「私の」喜びを求めるからでしょう。しかしイエス様は、「私の」喜びがあなたたちの中にあり、「あなたたちの」喜びが満たされるように、と言います。つまり私が「私の」喜びを求めるのではなく、イエス様の「私の」喜びを受ける時、私の喜びが満たされるのです。
では、イエス様の言う「私の喜び」とは何でしょう。奪われることのない喜びとは、それは第一に、御父から愛されている喜びでしょう。これは、けっして失われることのない喜びです。御父から確実に愛され、その愛に包まれていることを信じ、知ることです。そして感謝することです。どんなに御父の愛が信じられない時も、御父から見捨てられたとつらく感じる時も、御父が私を捨てるはずがないと確信することなのです。イエス様も十字架の上で、神から完全に捨てられたと感じた時も、なお御父を信じ、愛し続けられたのです。
ですから第二は、御父を信じ、愛せる喜びでしょう。十字架上のイエス様の苦しみを支えていたのは、このゆるぎない喜びだったでしょう。たとえ神から捨てられたとしても、私は父を信じ、愛しきります、という喜ぴです。この喜びもまた、だれも奪い去ることができません。これこそ真に宗教(信仰)的な喜びです。
私たちには、人間的な喜びがあります。おいしいものを食べたり、親しい人と会ったり、願ったものが得られた時などです。また同時に、人間的な悲しみもあります。失敗したり、人間関係のトラブルで悩んだり、解決できないジレンマにはさまれたりした時です。しかしキリスト(信仰)的な喜びは、そのどちらにも浸透します。人間的な喜びの中にもキリストの喜びが満ちており、人間的な悲しみの中にも、キリストの喜びが満ちているのです。つまりどちらにも含まれ、その二つの矛盾したものを止揚する(結んでたかめる)絶対的な喜びなのです。御父に愛され、イエス様に愛され、イエス様を愛し、御父を愛し、隣人と互いに愛し合う喜びこそ、イエス様が与えてくださる喜びの源なのです。(静)
Sunday, April 22, 2012
5 Easter B
復活節5主日
【ヨハ15:1ー8 イエスはまことのぶどうの木】
「私につながって、実を結びなさい」。
教会暦と聖書の流れ
復活節第5、第6主日の福音では、ヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスの言葉が読まれます。世を去るにあたってイエスが 弟子たちに語られた遺言のような言葉ですが、なぜ、これが復活節に読まれるのでしょうか。これらのイエスの言葉はほとんどが 「わたしは去っていくが、何かを残していく、その何かのかたちでわたしはずっとあなたたちと共にいる」という約束です。この 約束は、福音書を書いているヨハネにとっては将来のことではなく、すでに自分たちの中で実現した現在のことでした。今のわた したちもこのイエスの言葉が、わたしたちの中で現実になっていると気づくときに、イエスが今も生きていることを確信できるの です。復活節は、ただ単に2000年前にイエスが死者の中からよみがえった、ということを祝う季節ではありません。復活して今も 生きておられるキリストとの深いつながりを味わう季節なのです。
枝が木全体の中にとどまっている、というイメージは分かりやすいと思いますが、ぶどうの木全体が一つ一つの枝のなかにとどま っている、というイメージはどうでしょうか? ぶどうの一房一房の中にぶどうの木全体が含まれている、というと、現代人には 携帯電話の話のように聞こえるかもしれません。(一人一人の電話は電話会社につながっている、そしてその会社の技術はすべて1 個の電話に現れます)。となると、一人のクリスチャンの中に、キリストとつながっていれば、キリストのすべての力が現れる、 ということになるかもしれません。とにかく、ヨハネ福音書は「互いが互いのうちにとどまる」という表現で両者の深い交わりを 表そうとしています。
「キリストがわたしのうちにおられる」と感じるのはどんなときでしょうか。「わたしがキリストのうちにいる」ということは 、どんなときに感じられるでしょうか。それを自分たちの経験の中に見つけることができれば素晴らしいことでしょう。 たとえば、2節「手入れをなさる」。イエスの言葉は、わたしたちにとって時として厳しいこと・痛いことがありますが、それが自分にとって 大きな成長のチャンスでもあった、そんな経験はわたしたちにもあるのではないでしょうか。 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そ うすればかなえられる」(7節)という約束がありますが、このような約束は、ヨハネ14章13-14節、15章16節、16章23-24節でも繰り 返されます。もちろん誰の中にも「祈りがかなえられなかった」という苦い経験があるでしょう。わたしたちはこのイエスの約束 をどう受け止めるべきでしょうか。ここでは、キリストの愛に結ばれてわたしたちが願うことは、わたしたち自身が愛する者にな る、わたしたちの中に愛が実現することだ、と言えるかもしれません。そしてわたしたちのこの願いと祈りを支えるものは、イエ スご自身が苦しみと死を味わい、愛によって死を越えて、愛そのものである神と一つに結ばれた、という信仰なのです。何度も繰 り返される「実を結ぶ」ということも「わたしたちの中に愛が実現する」ことそのものだと言えるでしょう。そして、それは「イエ スの弟子になる」こと、「父が栄光を受ける」ことにつながっています。
(5) このように見てくると、「イエスというぶどうの木につながっている」ということは洗礼やミサへの参加などよりももっ と根本的な生き方の問題だということが分かります。もちろん、ミサや秘跡をとおしてイエスにつながることは大切です。でもそ れはもっと大切な、目に見えないイエスとのつながりを生きること、そして、わたしたち自身が愛する者に変えられていくことを 表しているものなのです。 2節「つながっていながら、実を結ばない枝」や6節「つながっていない人」に対する厳しい言葉は、キリスト信者でない人を断 罪するための言葉ではなく、キリストを知ったわたしたちがキリストから離れないようにと警告するための言葉です。わたしたち はキリスト信者でなくとも、愛によってキリストにつながっている人を知っています。その人々についてここでは直接的には何も 述べられていません。ここで問いかけられているのは、キリストの愛を知ったわたしたち自身の生き方の問題なのです! イエス様につながって実を結んでいるかどうかは、愛がそれにより実っているかによって分かります(Iヨハ3:18)。実りに愛が 実現されていなければ、たとえ神のため一所懸命働いていても、それは独善、偽善で終わっている可能性があります。ちょうどイ エス様に出会う前のサウロが、神のために働きながら、キリストの教会を迫害していたように。愛が生じ実っているのか。このこ とが真の実りかどうかの目印になります。 私たちはふだん、自分や自分のグループの権利を守ろうと、正義、正しいと思うことを主張することが結構あります。その時、 とかく愛を忘れ、人を裁き、切り捨て、独善的になりがちです。教皇ヨハネパウロ2世が明確にしましたが、過去のユダヤ人、 プロテスタント教会、他宗教との関わりには、反省すべきところがあるのは、そこでは正義の名のもとに愛が忘れてしまったからです。 もしかすると、私たちは同じ過ちを繰り返しているかもしれません。
【ヨハ15:1ー8 イエスはまことのぶどうの木】
「私につながって、実を結びなさい」。
教会暦と聖書の流れ
復活節第5、第6主日の福音では、ヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスの言葉が読まれます。世を去るにあたってイエスが 弟子たちに語られた遺言のような言葉ですが、なぜ、これが復活節に読まれるのでしょうか。これらのイエスの言葉はほとんどが 「わたしは去っていくが、何かを残していく、その何かのかたちでわたしはずっとあなたたちと共にいる」という約束です。この 約束は、福音書を書いているヨハネにとっては将来のことではなく、すでに自分たちの中で実現した現在のことでした。今のわた したちもこのイエスの言葉が、わたしたちの中で現実になっていると気づくときに、イエスが今も生きていることを確信できるの です。復活節は、ただ単に2000年前にイエスが死者の中からよみがえった、ということを祝う季節ではありません。復活して今も 生きておられるキリストとの深いつながりを味わう季節なのです。
枝が木全体の中にとどまっている、というイメージは分かりやすいと思いますが、ぶどうの木全体が一つ一つの枝のなかにとどま っている、というイメージはどうでしょうか? ぶどうの一房一房の中にぶどうの木全体が含まれている、というと、現代人には 携帯電話の話のように聞こえるかもしれません。(一人一人の電話は電話会社につながっている、そしてその会社の技術はすべて1 個の電話に現れます)。となると、一人のクリスチャンの中に、キリストとつながっていれば、キリストのすべての力が現れる、 ということになるかもしれません。とにかく、ヨハネ福音書は「互いが互いのうちにとどまる」という表現で両者の深い交わりを 表そうとしています。
「キリストがわたしのうちにおられる」と感じるのはどんなときでしょうか。「わたしがキリストのうちにいる」ということは 、どんなときに感じられるでしょうか。それを自分たちの経験の中に見つけることができれば素晴らしいことでしょう。 たとえば、2節「手入れをなさる」。イエスの言葉は、わたしたちにとって時として厳しいこと・痛いことがありますが、それが自分にとって 大きな成長のチャンスでもあった、そんな経験はわたしたちにもあるのではないでしょうか。 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そ うすればかなえられる」(7節)という約束がありますが、このような約束は、ヨハネ14章13-14節、15章16節、16章23-24節でも繰り 返されます。もちろん誰の中にも「祈りがかなえられなかった」という苦い経験があるでしょう。わたしたちはこのイエスの約束 をどう受け止めるべきでしょうか。ここでは、キリストの愛に結ばれてわたしたちが願うことは、わたしたち自身が愛する者にな る、わたしたちの中に愛が実現することだ、と言えるかもしれません。そしてわたしたちのこの願いと祈りを支えるものは、イエ スご自身が苦しみと死を味わい、愛によって死を越えて、愛そのものである神と一つに結ばれた、という信仰なのです。何度も繰 り返される「実を結ぶ」ということも「わたしたちの中に愛が実現する」ことそのものだと言えるでしょう。そして、それは「イエ スの弟子になる」こと、「父が栄光を受ける」ことにつながっています。
(5) このように見てくると、「イエスというぶどうの木につながっている」ということは洗礼やミサへの参加などよりももっ と根本的な生き方の問題だということが分かります。もちろん、ミサや秘跡をとおしてイエスにつながることは大切です。でもそ れはもっと大切な、目に見えないイエスとのつながりを生きること、そして、わたしたち自身が愛する者に変えられていくことを 表しているものなのです。 2節「つながっていながら、実を結ばない枝」や6節「つながっていない人」に対する厳しい言葉は、キリスト信者でない人を断 罪するための言葉ではなく、キリストを知ったわたしたちがキリストから離れないようにと警告するための言葉です。わたしたち はキリスト信者でなくとも、愛によってキリストにつながっている人を知っています。その人々についてここでは直接的には何も 述べられていません。ここで問いかけられているのは、キリストの愛を知ったわたしたち自身の生き方の問題なのです! イエス様につながって実を結んでいるかどうかは、愛がそれにより実っているかによって分かります(Iヨハ3:18)。実りに愛が 実現されていなければ、たとえ神のため一所懸命働いていても、それは独善、偽善で終わっている可能性があります。ちょうどイ エス様に出会う前のサウロが、神のために働きながら、キリストの教会を迫害していたように。愛が生じ実っているのか。このこ とが真の実りかどうかの目印になります。 私たちはふだん、自分や自分のグループの権利を守ろうと、正義、正しいと思うことを主張することが結構あります。その時、 とかく愛を忘れ、人を裁き、切り捨て、独善的になりがちです。教皇ヨハネパウロ2世が明確にしましたが、過去のユダヤ人、 プロテスタント教会、他宗教との関わりには、反省すべきところがあるのは、そこでは正義の名のもとに愛が忘れてしまったからです。 もしかすると、私たちは同じ過ちを繰り返しているかもしれません。
Saturday, April 21, 2012
4 Easter B
復活節4主日 B
【ヨハ10:11ー18 イエスは良い羊飼い】
「私は良い羊飼い。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハ10:11)。
ヨハネ福音書には「わたしは○○である」というイエスの宣言がいろいろな箇所にあります。「わたしがいのちのパンである」(6章)、「わたしは復活であり、いのちである」(11章)、「わたしは道、真理、いのちである」(14章)などなど。これらは単なる自己主張ではありません、非常に具体的な生き方に基づくイエスの自己紹介であり、そのイエスに出会った人々の信仰告白の言葉でもあるのです。 パレスチナ地方は、雨が少なく、緑も豊かではありません。このような地方で自分の羊に水を与え、牧草を与えて養うことは、とても厳しい仕事でした。旧約聖書の中でも、その地に住む人々が大きな干ばつに見舞われた出来事や、井戸を確保するためにこの地方の部族が争った出来事などが数多く記されています。また、この地方では一日の寒暖の差も大きく、砂嵐の季節があったり、一年の内の気候の変化も激しく、羊飼いはそのような中をあちこちに点在する僅かな青草と水飲み場を求めて、自分の羊を導くのです。
このような地方では、野の獣にしても餌(えさ)になる物はそれほど多くはなく、狼などの野獣が羊を襲いに来ることも決して珍しいことではありませんでした。羊飼いはこのような外敵から自分の羊を守り、自分が飼っている羊に水と青草を与えるために、命がけで働き、また羊はか弱く迷いやすい家畜ですから、羊飼いに導かれることなしには生きていけなかったのです。このように羊飼いと羊が一体となっている姿は、パレスチナの人々にはごく身近なものであり、主イエスさまは、しばしばこのような羊飼いと羊の譬えを用いて弟子や群衆に神のことを語り聞かせたのです。また、ユダヤの指導者たちと論争をする時にも、主イエスさまはこうした身近な譬えを用いられたのです。 この福音書の記者ヨハネは自分の信仰の証として主イエスさまを読者である私たちに紹介し、私たちを「良い羊飼いである主イエス」のみもとに招き、導こうとしていることがよく分かります。今日、私たちは主イエスさまが聖書のみ言葉によって、迷える羊のような私たち一人ひとりの名を呼んで下さり、私たちをみもとに招いておられることを覚えることができたら幸いです。 私たちが羊飼いである主イエスさまに一人一人の名前を呼ばれていることを考えてみましょう。 羊飼い主イエスさまは羊飼いがその羊の一頭一頭に名を付けその性質も知っておられるように私たちの全てを知ってくださり、私たちの名を呼び、一つの群れとするために、私たちを導いてくださっておられるのです。私たちは、生まれてから今日まで、どれだけ自分の親や周囲の人々から、自分の名前を呼ばれたことがあるでしょうか。私たちがまだ乳飲み子で自分で自分が誰であるかを意識できないような時から、周りの人から優しく穏やかで柔らかな声で数え切れないほど幾度も名前を呼ばれて来たのはではないかと思います。
それは例えて言えば、まだ形の定まらない大理石の原石にノミを加えているようなことであり、私たちが名前を呼ばれるたびに少しずつ自分が名前を持った尊い一人の人間であることを刻み込まれ、次第に今の自分が彫り上げられてきたと言えるのではないでしょうか。あるいはまた、身に危険が及びそうになった時や過ちを犯しそうになった時に、親は厳しく子どもの名前を呼んで、安全な場所へ連れ戻し、もう危険な所に行かないように、更にはもう過ちを繰り返さないように導こうとします。そのように子を知り子を思う親のように、羊の一頭一頭を知っている良い羊飼いである主イエスさまは、私たちの名を呼び私たちをかけがえのない羊として導こうとしておられるのです。
私たちは、良い羊飼いであられる主イエスさまの御声を聞き分けることができるでしょうか。イエス様を信じて従おうとされるなら、そのみ声を聞き分けることが出来るのです。主イエス・キリストは、このみことばの通りに、十字架に掛けられ、永遠の滅びから私たちを救ってくださるために死んで下さいました。羊と羊飼い(牧者)とどちらが価値があるでしょうか。もちろん、それは言うまでもなく、羊飼いの方にはるかに価値があります。しかし、驚くべきことにその羊飼いが羊のためにいのちを捨てられたのです。主イエスさまの御声を聞いて従って行くことは、私たちがかけがえのない自分自身として生きていくことを意味しています。私たちは、主イエスさまによって養われ導かれている者として、羊飼い主イエスさまのすばらしい福音を囲いの外の多くの迷える羊たちにも届けるために働くことができる者となるのです。
囲いの外にいる羊や主イエスさまの御声を聞かない羊は、良き羊飼いである主イエスさまの御声に導かれて生きる人々を見て初めて自分もその喜びに与りたいと思い、自分も主イエスさまの愛に触れたいと思うようになります。ですから、良き羊飼いである主イエス様に導かれるクリスチャンたちは、主イエスさまの御声を聴き、導かれ、生かされていくことがどんなに大きな喜びであるかを僅かでも証しできればと願っているのです。私たちは、すべての人が良き羊飼いである主イエスさまのもとに導かれることを願っています。クリスチャンは、そのためにこの世に遣わされている者たちなのです。私たちは、一人でも多くの人が感謝して主イエスさまの福音を信じてみ言葉に聞き従っていくことが出来るように祈っているのです。
また、主イエス様は「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」 (ヨハネの福音書10:17,18)と言われました。主イエス様は、人間の側から見ると、そのいのちを無理矢理に奪われたように見えますが、そうではなく、自ら進んでいのちを捨てられ、また十字架の死後、墓に葬られ、三日目に自らよみがえられた御方なのです。どうか、このようなすばらしい救い主を信じて救われ、希望に満ちた生涯に導かれる主イエス様に従う方となって下さい。 ●「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主(御父なる神)は、私たちのすべての咎を彼(キリスト)に負わせた。」(イザヤ書53:6)。 ●「わたし(イエス)の羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして、彼ら(クリスチャン)はわたしについて来ます。」(ヨハネの福音書10:27)。 http://blog.goo.ne.jp/goo1639/e/9a10aab2426bf822540f6707b89a4e12
確かに私はイエス様のことは完全には知らないかもしれない。しかし私のために死んで下さった方がいる。それがイエス様だと知っている。もしこのことが本当に分かったならば、他に何を知る必要があるでしょう。私のために死んで下さった神の子がいる。それだけ知っていればもう十分知っていると言えるのです。 私がそのことを真に悟ったとき、嬉しくて人々に告げ知らせたい衝動にさえ駆られます。毎週ミサに通いながら、自分が変わっていないのなら、それは復活体験前の使徒と同様に、ただ情報としてイエス様のことを聞いているだけだからなのではないでしょうか。 真にイエスが自分のために死んだと理解するなら、自分も人のために死ねるように当然変わって行かざるを得ない。私も「御子に似た者とな」らざるをえないのです(Iヨハ3:2)。 こうしてあの弱虫の裏切り者のペトロも聖霊に満たされ、堂々と主の復活を議員・長老の前で宣べ伝えるものに変わっていった(使徒4:8)。ペトロの心にあったのは「私の弱さを背負って死んで下さった。そして復活して下さったイエス様。アレルヤ!」という満たされた思いだったでしょう。それに尽き動かされ、ついに殉教をするにまで変えられました。 イエス様の十字架の死。それは、私をとても大切に思ってくださった神様が、この私の罪、弱さ、寂しさ、満ち足りなさ、つまり神様から離れようとするところから救い、補い、償い、帳消しにするため。それをキリスト者は信じます。
【ヨハ10:11ー18 イエスは良い羊飼い】
「私は良い羊飼い。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハ10:11)。
ヨハネ福音書には「わたしは○○である」というイエスの宣言がいろいろな箇所にあります。「わたしがいのちのパンである」(6章)、「わたしは復活であり、いのちである」(11章)、「わたしは道、真理、いのちである」(14章)などなど。これらは単なる自己主張ではありません、非常に具体的な生き方に基づくイエスの自己紹介であり、そのイエスに出会った人々の信仰告白の言葉でもあるのです。 パレスチナ地方は、雨が少なく、緑も豊かではありません。このような地方で自分の羊に水を与え、牧草を与えて養うことは、とても厳しい仕事でした。旧約聖書の中でも、その地に住む人々が大きな干ばつに見舞われた出来事や、井戸を確保するためにこの地方の部族が争った出来事などが数多く記されています。また、この地方では一日の寒暖の差も大きく、砂嵐の季節があったり、一年の内の気候の変化も激しく、羊飼いはそのような中をあちこちに点在する僅かな青草と水飲み場を求めて、自分の羊を導くのです。
このような地方では、野の獣にしても餌(えさ)になる物はそれほど多くはなく、狼などの野獣が羊を襲いに来ることも決して珍しいことではありませんでした。羊飼いはこのような外敵から自分の羊を守り、自分が飼っている羊に水と青草を与えるために、命がけで働き、また羊はか弱く迷いやすい家畜ですから、羊飼いに導かれることなしには生きていけなかったのです。このように羊飼いと羊が一体となっている姿は、パレスチナの人々にはごく身近なものであり、主イエスさまは、しばしばこのような羊飼いと羊の譬えを用いて弟子や群衆に神のことを語り聞かせたのです。また、ユダヤの指導者たちと論争をする時にも、主イエスさまはこうした身近な譬えを用いられたのです。 この福音書の記者ヨハネは自分の信仰の証として主イエスさまを読者である私たちに紹介し、私たちを「良い羊飼いである主イエス」のみもとに招き、導こうとしていることがよく分かります。今日、私たちは主イエスさまが聖書のみ言葉によって、迷える羊のような私たち一人ひとりの名を呼んで下さり、私たちをみもとに招いておられることを覚えることができたら幸いです。 私たちが羊飼いである主イエスさまに一人一人の名前を呼ばれていることを考えてみましょう。 羊飼い主イエスさまは羊飼いがその羊の一頭一頭に名を付けその性質も知っておられるように私たちの全てを知ってくださり、私たちの名を呼び、一つの群れとするために、私たちを導いてくださっておられるのです。私たちは、生まれてから今日まで、どれだけ自分の親や周囲の人々から、自分の名前を呼ばれたことがあるでしょうか。私たちがまだ乳飲み子で自分で自分が誰であるかを意識できないような時から、周りの人から優しく穏やかで柔らかな声で数え切れないほど幾度も名前を呼ばれて来たのはではないかと思います。
それは例えて言えば、まだ形の定まらない大理石の原石にノミを加えているようなことであり、私たちが名前を呼ばれるたびに少しずつ自分が名前を持った尊い一人の人間であることを刻み込まれ、次第に今の自分が彫り上げられてきたと言えるのではないでしょうか。あるいはまた、身に危険が及びそうになった時や過ちを犯しそうになった時に、親は厳しく子どもの名前を呼んで、安全な場所へ連れ戻し、もう危険な所に行かないように、更にはもう過ちを繰り返さないように導こうとします。そのように子を知り子を思う親のように、羊の一頭一頭を知っている良い羊飼いである主イエスさまは、私たちの名を呼び私たちをかけがえのない羊として導こうとしておられるのです。
私たちは、良い羊飼いであられる主イエスさまの御声を聞き分けることができるでしょうか。イエス様を信じて従おうとされるなら、そのみ声を聞き分けることが出来るのです。主イエス・キリストは、このみことばの通りに、十字架に掛けられ、永遠の滅びから私たちを救ってくださるために死んで下さいました。羊と羊飼い(牧者)とどちらが価値があるでしょうか。もちろん、それは言うまでもなく、羊飼いの方にはるかに価値があります。しかし、驚くべきことにその羊飼いが羊のためにいのちを捨てられたのです。主イエスさまの御声を聞いて従って行くことは、私たちがかけがえのない自分自身として生きていくことを意味しています。私たちは、主イエスさまによって養われ導かれている者として、羊飼い主イエスさまのすばらしい福音を囲いの外の多くの迷える羊たちにも届けるために働くことができる者となるのです。
囲いの外にいる羊や主イエスさまの御声を聞かない羊は、良き羊飼いである主イエスさまの御声に導かれて生きる人々を見て初めて自分もその喜びに与りたいと思い、自分も主イエスさまの愛に触れたいと思うようになります。ですから、良き羊飼いである主イエス様に導かれるクリスチャンたちは、主イエスさまの御声を聴き、導かれ、生かされていくことがどんなに大きな喜びであるかを僅かでも証しできればと願っているのです。私たちは、すべての人が良き羊飼いである主イエスさまのもとに導かれることを願っています。クリスチャンは、そのためにこの世に遣わされている者たちなのです。私たちは、一人でも多くの人が感謝して主イエスさまの福音を信じてみ言葉に聞き従っていくことが出来るように祈っているのです。
また、主イエス様は「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」 (ヨハネの福音書10:17,18)と言われました。主イエス様は、人間の側から見ると、そのいのちを無理矢理に奪われたように見えますが、そうではなく、自ら進んでいのちを捨てられ、また十字架の死後、墓に葬られ、三日目に自らよみがえられた御方なのです。どうか、このようなすばらしい救い主を信じて救われ、希望に満ちた生涯に導かれる主イエス様に従う方となって下さい。 ●「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主(御父なる神)は、私たちのすべての咎を彼(キリスト)に負わせた。」(イザヤ書53:6)。 ●「わたし(イエス)の羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして、彼ら(クリスチャン)はわたしについて来ます。」(ヨハネの福音書10:27)。 http://blog.goo.ne.jp/goo1639/e/9a10aab2426bf822540f6707b89a4e12
確かに私はイエス様のことは完全には知らないかもしれない。しかし私のために死んで下さった方がいる。それがイエス様だと知っている。もしこのことが本当に分かったならば、他に何を知る必要があるでしょう。私のために死んで下さった神の子がいる。それだけ知っていればもう十分知っていると言えるのです。 私がそのことを真に悟ったとき、嬉しくて人々に告げ知らせたい衝動にさえ駆られます。毎週ミサに通いながら、自分が変わっていないのなら、それは復活体験前の使徒と同様に、ただ情報としてイエス様のことを聞いているだけだからなのではないでしょうか。 真にイエスが自分のために死んだと理解するなら、自分も人のために死ねるように当然変わって行かざるを得ない。私も「御子に似た者とな」らざるをえないのです(Iヨハ3:2)。 こうしてあの弱虫の裏切り者のペトロも聖霊に満たされ、堂々と主の復活を議員・長老の前で宣べ伝えるものに変わっていった(使徒4:8)。ペトロの心にあったのは「私の弱さを背負って死んで下さった。そして復活して下さったイエス様。アレルヤ!」という満たされた思いだったでしょう。それに尽き動かされ、ついに殉教をするにまで変えられました。 イエス様の十字架の死。それは、私をとても大切に思ってくださった神様が、この私の罪、弱さ、寂しさ、満ち足りなさ、つまり神様から離れようとするところから救い、補い、償い、帳消しにするため。それをキリスト者は信じます。
Saturday, April 14, 2012
3 Easter B
復活節第三主日 B
ルカによる福音(24:35-48)
聖書には、作り話ときこえる部分がありますが、間違いなく歴史的事実と言えるで部分もあります。
例えば、「イエス様が十字架にかけられて死に、墓に葬られたこと。その事実を目の当たりにしたとき、弟子たちが、自分も同じような目にあうのではと逮捕を恐れ、皆逃げ出してしまったこと。そしてその同じ弟子たちが、その後、自分の命さえなげうって、自ら死ぬことになりながらも、イエス様の復活を第1朗読に見たように証しするものに変わったこと。その命がけの弟子たちの宣教によりましてキリスト教が成立し全世界に広まったこと」。これらのことです。
しかしここには常識的には、どうしてもつながらない2つの事実があります。「イエス様の死とそれを見た弟子たちが皆、裏切り、逃げ出してしまった」こと。そして「その同じ弟子たちが命を捨ててまで宣教した」こと。この二つには大きな溝があります。そしてこの2つをつなぐものこそ、イエス様の復活の出来事ということになります。
しかしこの復活という出来事こそ、躓きであり、正しく理解することの難しいところです。世間では幽霊の話は、結構聞きますので、イエス様の復活の出現を、この幽霊話と結び付けて理解するかもしれません。しかし今日の箇所は、復活の出来事が幽霊話とはまったく違うことを、証しする大切な箇所ということになります。
弟子たちもイエス様が現れたとき、亡霊が現れたと思い、恐れ、びっくりしたのです。むしろ聖書に記される弟子たちの復活体験は喜びよりは驚きと恐れのほうが強調されています(マコ16:8)。それにはさらに裏切ってしまったイエス様に顔を向けられない、今会うのは恐ろしいという思いもあったかもしれません。
しかしこうしておののく弟子たちにイエス様はこうおっしゃいました。「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」。そう言って手足を見せた。それでも不思議がっている弟子に、わざわざ焼いた魚を食べて見せた。ここにはイエス様のユーモアがある感じがします。そこに「あんな人知らない」といって逃げてしまった弟子へのゆるしも含まれているように思えます。
私たちも目の前で死んだ人間が、突然現れたらびっくりして逃げ出してしまうでしょう。しかし肉体があることをしっかりと見せただけでなく、物を食べ、本当に、そこにいるのが死に打ち勝ったイエス様がいるということを証してくださったのです。聖書はこのようにしてイエス様の復活の出来事、赦す神、神様の愛を伝えます。
私たちはこのことから、自分の復活も同じことだと分かります。
復活とはただ死後霊的な部分だけが続くということではない。滅びた肉体がよみがえり、霊とともに、永遠のものに、滅びない肉体に変わるということです。これは確かに私たちには理解しがたいことです。永遠の滅びない肉体というものを理解できないからです。肉体は滅んでいくもの、老いて行くものというのが私たちの常識です。しかし聖書は復活の事実を霊と肉が永遠のものに変わることと言います。
確かに私たちは、「空間」と「時間」を前提として日常生活を生きています。「空間」と「時間」がすべてではないとしても、「空間」と「時間」の中で私たちは生きているということを知っています。「空間」と「時間」は私たちが生まれる前からあって、人間の経験に先立って最初から存在し、その枠組みの中で私たちは物事を捉えるのです。 その意味では「空間」と「時間」も創造主なる神さまの被造物の一つであると言ってよいのだと思います。創世記が示す天地創造は、そこにおいて神が「空間」と「時間」を創造されたのだということが理解できると思います。
私たちは先週の復活祭で主イエスの復活の出来事を祝いましたが、これもまた神の新しい創造であると申し上げることができましょう。週の初めの日の朝早く、まだ闇が開け染めない中で「光あれ!」と神は宣言されたのです。死のただ中に生命が、悲しみのただ中に慰めが、そして絶望のただ中に希望が創造されました。闇のただ中に光が創造された出来事、それが復活でした。パウロ的に言えば、主のご復活において死が死を迎えたのです。主イエスの墓は空っぽなのです。
墓は、墓地は私たちのこの地上の生涯の終着駅であるかのように見えます。墓の前では、依然として、圧倒的な力をもって死は私たちに君臨しているように見える。墓とは私たちの深い悲しみと痛みと絶望の場であるとも申せましょう。しかし私たちはその墓の前で、キリストの言葉を聞くのです。死の現実のただ中で、死を越えた生命の言葉を聞くのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)という言葉を。このキリストのみ言葉にこそ私たちに死の悲しみを乗り越えさせる力があるのです。
「空間」と「時間」の中に人間が認識可能なすべての出来事は起こると、有名な哲学者カントがいいました。しかし「主の復活の出来事」とはこの「空間」と「時間」を超越しています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。鍵のかかった部屋の真ん中に主イエスは立たれたのです。そしてあの十字架の上に死んだはずの人間が今、目の前に立っている。それはありえないことです。「空間」と「時間」の突破がそこで起こっている。
これは理性(頭)ではなく、信仰において捉えなければわからない真実であると思います。「空間」も「時間」も神さまの被造物の一つであるとすれば、神さまは創造主なのですから、それらを超越したところにおられるのです。「天」とか「永遠」という言葉は、「空間」と「時間」を越えたところに神が存在しておられるということを指し示す言葉なのです。そして神はそれらを突破したり、それらに介入したりする自由をお持ちのはずです。復活とは私たちの「空間」と「時間」とに閉ざされた現実への神さまの介入なのです。復活を信じることは、「時間」と「空間」に対する考えを広げることをも意味すると思います。
聖書はこう私たちに迫っています。「臆病者の私たち弟子が変わった。それはこのようにして実際に復活の出来事を体験したからだ。そして裏切り者をさえ赦す神様の愛を体験したからだ。この証言を聞いたあなたも、私たち弟子の証言を信じて、神様の深い愛を伝えるために、イエス様に、私たちに従いなさい」と。
私たちがその命がけの弟子たちの証言を、そのまま受け止めていくことができるよう、恵みを願いましょう。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_046.htm
直接に体験した弟子たちにとっても、キリストの復活というものは決して分かりやすいことではなかったようです。
弟子たちの心をほぐして悟らせるイエスの接し方に倣って、私たちも、福音を伝えていくことができますように。
ルカによる福音(24:35-48)
聖書には、作り話ときこえる部分がありますが、間違いなく歴史的事実と言えるで部分もあります。
例えば、「イエス様が十字架にかけられて死に、墓に葬られたこと。その事実を目の当たりにしたとき、弟子たちが、自分も同じような目にあうのではと逮捕を恐れ、皆逃げ出してしまったこと。そしてその同じ弟子たちが、その後、自分の命さえなげうって、自ら死ぬことになりながらも、イエス様の復活を第1朗読に見たように証しするものに変わったこと。その命がけの弟子たちの宣教によりましてキリスト教が成立し全世界に広まったこと」。これらのことです。
しかしここには常識的には、どうしてもつながらない2つの事実があります。「イエス様の死とそれを見た弟子たちが皆、裏切り、逃げ出してしまった」こと。そして「その同じ弟子たちが命を捨ててまで宣教した」こと。この二つには大きな溝があります。そしてこの2つをつなぐものこそ、イエス様の復活の出来事ということになります。
しかしこの復活という出来事こそ、躓きであり、正しく理解することの難しいところです。世間では幽霊の話は、結構聞きますので、イエス様の復活の出現を、この幽霊話と結び付けて理解するかもしれません。しかし今日の箇所は、復活の出来事が幽霊話とはまったく違うことを、証しする大切な箇所ということになります。
弟子たちもイエス様が現れたとき、亡霊が現れたと思い、恐れ、びっくりしたのです。むしろ聖書に記される弟子たちの復活体験は喜びよりは驚きと恐れのほうが強調されています(マコ16:8)。それにはさらに裏切ってしまったイエス様に顔を向けられない、今会うのは恐ろしいという思いもあったかもしれません。
しかしこうしておののく弟子たちにイエス様はこうおっしゃいました。「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」。そう言って手足を見せた。それでも不思議がっている弟子に、わざわざ焼いた魚を食べて見せた。ここにはイエス様のユーモアがある感じがします。そこに「あんな人知らない」といって逃げてしまった弟子へのゆるしも含まれているように思えます。
私たちも目の前で死んだ人間が、突然現れたらびっくりして逃げ出してしまうでしょう。しかし肉体があることをしっかりと見せただけでなく、物を食べ、本当に、そこにいるのが死に打ち勝ったイエス様がいるということを証してくださったのです。聖書はこのようにしてイエス様の復活の出来事、赦す神、神様の愛を伝えます。
私たちはこのことから、自分の復活も同じことだと分かります。
復活とはただ死後霊的な部分だけが続くということではない。滅びた肉体がよみがえり、霊とともに、永遠のものに、滅びない肉体に変わるということです。これは確かに私たちには理解しがたいことです。永遠の滅びない肉体というものを理解できないからです。肉体は滅んでいくもの、老いて行くものというのが私たちの常識です。しかし聖書は復活の事実を霊と肉が永遠のものに変わることと言います。
確かに私たちは、「空間」と「時間」を前提として日常生活を生きています。「空間」と「時間」がすべてではないとしても、「空間」と「時間」の中で私たちは生きているということを知っています。「空間」と「時間」は私たちが生まれる前からあって、人間の経験に先立って最初から存在し、その枠組みの中で私たちは物事を捉えるのです。 その意味では「空間」と「時間」も創造主なる神さまの被造物の一つであると言ってよいのだと思います。創世記が示す天地創造は、そこにおいて神が「空間」と「時間」を創造されたのだということが理解できると思います。
私たちは先週の復活祭で主イエスの復活の出来事を祝いましたが、これもまた神の新しい創造であると申し上げることができましょう。週の初めの日の朝早く、まだ闇が開け染めない中で「光あれ!」と神は宣言されたのです。死のただ中に生命が、悲しみのただ中に慰めが、そして絶望のただ中に希望が創造されました。闇のただ中に光が創造された出来事、それが復活でした。パウロ的に言えば、主のご復活において死が死を迎えたのです。主イエスの墓は空っぽなのです。
墓は、墓地は私たちのこの地上の生涯の終着駅であるかのように見えます。墓の前では、依然として、圧倒的な力をもって死は私たちに君臨しているように見える。墓とは私たちの深い悲しみと痛みと絶望の場であるとも申せましょう。しかし私たちはその墓の前で、キリストの言葉を聞くのです。死の現実のただ中で、死を越えた生命の言葉を聞くのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)という言葉を。このキリストのみ言葉にこそ私たちに死の悲しみを乗り越えさせる力があるのです。
「空間」と「時間」の中に人間が認識可能なすべての出来事は起こると、有名な哲学者カントがいいました。しかし「主の復活の出来事」とはこの「空間」と「時間」を超越しています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。鍵のかかった部屋の真ん中に主イエスは立たれたのです。そしてあの十字架の上に死んだはずの人間が今、目の前に立っている。それはありえないことです。「空間」と「時間」の突破がそこで起こっている。
これは理性(頭)ではなく、信仰において捉えなければわからない真実であると思います。「空間」も「時間」も神さまの被造物の一つであるとすれば、神さまは創造主なのですから、それらを超越したところにおられるのです。「天」とか「永遠」という言葉は、「空間」と「時間」を越えたところに神が存在しておられるということを指し示す言葉なのです。そして神はそれらを突破したり、それらに介入したりする自由をお持ちのはずです。復活とは私たちの「空間」と「時間」とに閉ざされた現実への神さまの介入なのです。復活を信じることは、「時間」と「空間」に対する考えを広げることをも意味すると思います。
聖書はこう私たちに迫っています。「臆病者の私たち弟子が変わった。それはこのようにして実際に復活の出来事を体験したからだ。そして裏切り者をさえ赦す神様の愛を体験したからだ。この証言を聞いたあなたも、私たち弟子の証言を信じて、神様の深い愛を伝えるために、イエス様に、私たちに従いなさい」と。
私たちがその命がけの弟子たちの証言を、そのまま受け止めていくことができるよう、恵みを願いましょう。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_046.htm
直接に体験した弟子たちにとっても、キリストの復活というものは決して分かりやすいことではなかったようです。
弟子たちの心をほぐして悟らせるイエスの接し方に倣って、私たちも、福音を伝えていくことができますように。
2 Easter B
復活節第二主日B(神のいつくしみの主日)
ヨハネによる福音(20:19-31)
VIDEO:
http://www.amagasaki.net/LITURGY/arch_2012.php
< 「空間」と「時間」の突破としての復活 >
確かに私たちは、「空間」と「時間」を前提として日常生活を生きています。「空間」と「時間」がすべてではないとしても、「空間」と「時間」の中で私たちは生きているということを知っています。「空間」と「時間」は私たちが生まれる前からあって、人間の経験に先立って最初から存在し、その枠組みの中で私たちは物事を捉えるのです。 その意味では「空間」と「時間」も創造主なる神さまの被造物の一つであると言ってよいのだと思います。創世記が示す天地創造は、そこにおいて神が「空間」と「時間」を創造されたのだということが理解できると思います。
私たちは先週の復活祭で主イエスの復活の出来事を祝いましたが、これもまた神の新しい創造であると申し上げることができましょう。週の初めの日の朝早く、まだ闇が開け染めない中で「光あれ!」と神は宣言されたのです。死のただ中に生命が、悲しみのただ中に慰めが、そして絶望のただ中に希望が創造されました。闇のただ中に光が創造された出来事、それが復活でした。パウロ的に言えば、主のご復活において死が死を迎えたのです。主イエスの墓は空っぽなのです。
墓は、墓地は私たちのこの地上の生涯の終着駅であるかのように見えます。墓の前では、依然として、圧倒的な力をもって死は私たちに君臨しているように見える。墓とは私たちの深い悲しみと痛みと絶望の場であるとも申せましょう。しかし私たちはその墓の前で、キリストの言葉を聞くのです。死の現実のただ中で、死を越えた生命の言葉を聞くのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)という言葉を。このキリストのみ言葉にこそ私たちに死の悲しみを乗り越えさせる力があるのです。
「空間」と「時間」の中に人間が認識可能なすべての出来事は起こると、有名な哲学者カントがいいました。しかし「主の復活の出来事」とはこの「空間」と「時間」を超越しています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。鍵のかかった部屋の真ん中に主イエスは立たれたのです。そしてあの十字架の上に死んだはずの人間が今、目の前に立っている。それはありえないことです。「空間」と「時間」の突破がそこで起こっている。
これは理性(頭)ではなく、信仰において捉えなければわからない真実であると思います。「空間」も「時間」も神さまの被造物の一つであるとすれば、神さまは創造主なのですから、それらを超越したところにおられるのです。「天」とか「永遠」という言葉は、「空間」と「時間」を越えたところに神が存在しておられるということを指し示す言葉なのです。そして神はそれらを突破したり、それらに介入したりする自由をお持ちのはずです。復活とは私たちの「空間」と「時間」とに閉ざされた現実への神さまの介入なのです。復活を信じることは、「時間」と「空間」に対する考えを広げることをも意味すると思います。
< 復活の主の手とわき腹 >
弟子たちの真ん中に立たれた復活の主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と言われました。恐れとおののきと混乱の中に置かれた弟子たちを治めるためにご自身の手とわき腹とをお見せになったのです。そこには十字架の釘跡とやりの刺された跡が残っていました。すると不思議なことに、弟子たちはその主の手とわき腹を見て、「喜んだ」とある(20節)。十字架の周りで弟子たちは自分の弱さや裏切り、不従順ということを徹底的に知らされたはずです。主を見捨てて逃げたことに対する苦い後ろめたさ、これからの歩みに対する不安と絶望といった重たい思いの中に彼らは深く沈み込んでいたことでしょう。突然現れたイエスの亡霊に自分たちは仕返しを受ける、呪われるとさえ思ったのではないか。十字架の釘跡と槍跡を示されるということは、自分たちの裏切りの一番深いところ、罪の一番痛いところを示されるということでもあったはずです。しかしそこにおいて起こったことは審きではなく赦しであり、呪いではなく祝福であり、恐れではなく大いなる喜びでありました。弟子たちは主の十字架がそのような恐れや絶望からの解放であったことを、主の手とわき腹とを示されることによって知ったのです。
それに続いて派遣が起こります。主イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われたのです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
復活の主イエスを信じる者は、人々の「罪」と関わるように聖霊を受けて派遣されてゆくのです。聖書で「罪」とは、何か悪い思いとか悪い行いを指しているというよりも、「罪」とは、「義」と同様に、神と人間との関係を表す関係概念なのです。神との破れた関係を「罪」と言い、神との正しい関係を「義」と言うのです。ですから、ここで罪と関わるようキリスト者が召されているというのは、人々を神との正しい関係に立ち返るように招いてゆくということを意味します。キリストの福音、主の十字架と復活はすべての人のために与えられているのです。そして神の聖霊が私たちを押し出してゆくのです。
平日のミサではこのところずっと使徒言行録を読んでいますが、ペトロやパウロが中心となって描かれているのですが、その本当の主人公は使徒たちを突き動かしている神の聖霊であり、それは聖霊行伝であると言えましょう。使徒言行録は28章で終わっていますが、それは開かれたまま終わっているのであって、29章以下は私たちの人生において神の聖霊が働かれることによって書き足されてゆくのだと、神学者たちが言っています。
「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えて下さいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。この愛が、回心をもたらし、平和を与えます。どれほど世界は、神のいつくしみを理解し、受け入れる必要があることでしょうか。」(ヨハネ・パウロ二世」神のいつくしみの主日のメッセージ」)。
それにしても主のことば、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という言葉は何を意味しているのでしょうか。罪を赦すことと赦さずにおくことの両方が語られていますが、それは何を意味するのでしょうか。主イエスはペトロと教会に解く鍵とつなぐ鍵の両方を与えられました(マタイ16:19)。それは主のみ手の釘跡とわき腹の槍跡を示すことでもあります。十字架と復活とが私たち自身をさまざまな呪縛から解放するためのものであったことを示すことでした。手とわき腹を示すとは、キリスト・イエスご自身の私たち一人ひとりに対する深い愛を示すことでもあったのです。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と語ってくださったお方は、私たちの悲しみや苦難の中で、「わたしがあなたを支え、わたしがあなたを守る。だから、わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはないのだ」と語ってくださるお方でもあるのです。
だれがそのようなキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょうか。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。だれも引き離すことはできないのです。主のみ手とわき腹に刻まれた十字架の傷跡は、私たちに注がれている愛の強さを示しています。それは、「空間」と「時間」を突破してご自身のすべてを十字架の上に注ぎだすほどに深く、高く、広く、強く、確かな愛なのです。私たちはこのような愛の中に新しい日々の歩みを踏み出してゆくことが許されている。このことを心から感謝いたしたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/80.htm
今日、わたしに、復活の主が来て下さったことを味わい、いつくしみ深い神に賛美と感謝を捧げていくことができますように。
ヨハネによる福音(20:19-31)
VIDEO:
http://www.amagasaki.net/LITURGY/arch_2012.php
< 「空間」と「時間」の突破としての復活 >
確かに私たちは、「空間」と「時間」を前提として日常生活を生きています。「空間」と「時間」がすべてではないとしても、「空間」と「時間」の中で私たちは生きているということを知っています。「空間」と「時間」は私たちが生まれる前からあって、人間の経験に先立って最初から存在し、その枠組みの中で私たちは物事を捉えるのです。 その意味では「空間」と「時間」も創造主なる神さまの被造物の一つであると言ってよいのだと思います。創世記が示す天地創造は、そこにおいて神が「空間」と「時間」を創造されたのだということが理解できると思います。
私たちは先週の復活祭で主イエスの復活の出来事を祝いましたが、これもまた神の新しい創造であると申し上げることができましょう。週の初めの日の朝早く、まだ闇が開け染めない中で「光あれ!」と神は宣言されたのです。死のただ中に生命が、悲しみのただ中に慰めが、そして絶望のただ中に希望が創造されました。闇のただ中に光が創造された出来事、それが復活でした。パウロ的に言えば、主のご復活において死が死を迎えたのです。主イエスの墓は空っぽなのです。
墓は、墓地は私たちのこの地上の生涯の終着駅であるかのように見えます。墓の前では、依然として、圧倒的な力をもって死は私たちに君臨しているように見える。墓とは私たちの深い悲しみと痛みと絶望の場であるとも申せましょう。しかし私たちはその墓の前で、キリストの言葉を聞くのです。死の現実のただ中で、死を越えた生命の言葉を聞くのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)という言葉を。このキリストのみ言葉にこそ私たちに死の悲しみを乗り越えさせる力があるのです。
「空間」と「時間」の中に人間が認識可能なすべての出来事は起こると、有名な哲学者カントがいいました。しかし「主の復活の出来事」とはこの「空間」と「時間」を超越しています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。鍵のかかった部屋の真ん中に主イエスは立たれたのです。そしてあの十字架の上に死んだはずの人間が今、目の前に立っている。それはありえないことです。「空間」と「時間」の突破がそこで起こっている。
これは理性(頭)ではなく、信仰において捉えなければわからない真実であると思います。「空間」も「時間」も神さまの被造物の一つであるとすれば、神さまは創造主なのですから、それらを超越したところにおられるのです。「天」とか「永遠」という言葉は、「空間」と「時間」を越えたところに神が存在しておられるということを指し示す言葉なのです。そして神はそれらを突破したり、それらに介入したりする自由をお持ちのはずです。復活とは私たちの「空間」と「時間」とに閉ざされた現実への神さまの介入なのです。復活を信じることは、「時間」と「空間」に対する考えを広げることをも意味すると思います。
< 復活の主の手とわき腹 >
弟子たちの真ん中に立たれた復活の主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と言われました。恐れとおののきと混乱の中に置かれた弟子たちを治めるためにご自身の手とわき腹とをお見せになったのです。そこには十字架の釘跡とやりの刺された跡が残っていました。すると不思議なことに、弟子たちはその主の手とわき腹を見て、「喜んだ」とある(20節)。十字架の周りで弟子たちは自分の弱さや裏切り、不従順ということを徹底的に知らされたはずです。主を見捨てて逃げたことに対する苦い後ろめたさ、これからの歩みに対する不安と絶望といった重たい思いの中に彼らは深く沈み込んでいたことでしょう。突然現れたイエスの亡霊に自分たちは仕返しを受ける、呪われるとさえ思ったのではないか。十字架の釘跡と槍跡を示されるということは、自分たちの裏切りの一番深いところ、罪の一番痛いところを示されるということでもあったはずです。しかしそこにおいて起こったことは審きではなく赦しであり、呪いではなく祝福であり、恐れではなく大いなる喜びでありました。弟子たちは主の十字架がそのような恐れや絶望からの解放であったことを、主の手とわき腹とを示されることによって知ったのです。
それに続いて派遣が起こります。主イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われたのです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
復活の主イエスを信じる者は、人々の「罪」と関わるように聖霊を受けて派遣されてゆくのです。聖書で「罪」とは、何か悪い思いとか悪い行いを指しているというよりも、「罪」とは、「義」と同様に、神と人間との関係を表す関係概念なのです。神との破れた関係を「罪」と言い、神との正しい関係を「義」と言うのです。ですから、ここで罪と関わるようキリスト者が召されているというのは、人々を神との正しい関係に立ち返るように招いてゆくということを意味します。キリストの福音、主の十字架と復活はすべての人のために与えられているのです。そして神の聖霊が私たちを押し出してゆくのです。
平日のミサではこのところずっと使徒言行録を読んでいますが、ペトロやパウロが中心となって描かれているのですが、その本当の主人公は使徒たちを突き動かしている神の聖霊であり、それは聖霊行伝であると言えましょう。使徒言行録は28章で終わっていますが、それは開かれたまま終わっているのであって、29章以下は私たちの人生において神の聖霊が働かれることによって書き足されてゆくのだと、神学者たちが言っています。
「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えて下さいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。この愛が、回心をもたらし、平和を与えます。どれほど世界は、神のいつくしみを理解し、受け入れる必要があることでしょうか。」(ヨハネ・パウロ二世」神のいつくしみの主日のメッセージ」)。
それにしても主のことば、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という言葉は何を意味しているのでしょうか。罪を赦すことと赦さずにおくことの両方が語られていますが、それは何を意味するのでしょうか。主イエスはペトロと教会に解く鍵とつなぐ鍵の両方を与えられました(マタイ16:19)。それは主のみ手の釘跡とわき腹の槍跡を示すことでもあります。十字架と復活とが私たち自身をさまざまな呪縛から解放するためのものであったことを示すことでした。手とわき腹を示すとは、キリスト・イエスご自身の私たち一人ひとりに対する深い愛を示すことでもあったのです。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と語ってくださったお方は、私たちの悲しみや苦難の中で、「わたしがあなたを支え、わたしがあなたを守る。だから、わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはないのだ」と語ってくださるお方でもあるのです。
だれがそのようなキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょうか。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。だれも引き離すことはできないのです。主のみ手とわき腹に刻まれた十字架の傷跡は、私たちに注がれている愛の強さを示しています。それは、「空間」と「時間」を突破してご自身のすべてを十字架の上に注ぎだすほどに深く、高く、広く、強く、確かな愛なのです。私たちはこのような愛の中に新しい日々の歩みを踏み出してゆくことが許されている。このことを心から感謝いたしたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/80.htm
今日、わたしに、復活の主が来て下さったことを味わい、いつくしみ深い神に賛美と感謝を捧げていくことができますように。
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