Thursday, March 31, 2016

復活祭 2016

復活祭 2016


小さい子供はおままごとをします。今時の子は塾とか受験勉強に忙しいかもしれないが。おままごと、あるいは何かのごっこをする時期は、身体的にも、特に精神的にも非常に大切なときと言われます。性格作り、人格作り、自我に目覚め自分の人生を豊かなものにしたい、というおもいから、自分を取りまくあらゆるもの、自然とか社会のさまざまな動きに関心と興味を抱くようになります。小さい子供は大人になることは、例えば50才、あまりわからないまま、ひたすら、夢中になって大人たちの真似をします。ゆってみれば、未来に引っ張られて生活はしていくわけです。

私たちもこの聖なる三日間に、おままごとをしています。イエス様ごっこ。食事、洗足、十字架、復活。


ボートを漕ぐように 人は後ろ向きに未来へ入っていく 


「《われわれは後ろ向きに未来へ入ってゆく》。あたかも行く手に背を向けてボートを漕ぐように。人が見ることのできる景色は過去と現在だけである。・・・云々


ボートを漕ぐときのように、過去の方を見ながら未来に向かっていく」という言葉が ... わたしたちは後ずさりをしながら未来入っていく


後ろ向きに未来に入ってゆく      

 これからどうなる? 多少むずかしくても、もし確実に分かる方法があるなら、だれも悩まないだろう。じじつは、予測も展望もつかない。だから、わたしたちは後ろを振りかえる。


千の風になって せんのかぜになって

私のお墓の前で/泣かないでください/そこに私はいません/眠ってなんかいません

千の風に/千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています


「永遠の風」

離ればなれになってもこころは一つ

風はひとつ



iPadから送信

Sunday, March 20, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳) ➃

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11   聖なる日と聖なる時

「天地万物は完成された。 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。 」(創世記 2・1ー3)。第七の日、安息日(Sabbath)。ところが、新約の安息日は週の初めの日、日曜日となった。
  ここもまた、新約聖書らしいことが起こった。イエス・キリストは旧約の完成者であったが、その主でもあった。イエスにおいては、旧約聖書全体にわたってきらめく、来るべきメシアの約束は、満たされる。以前のものはすべて、完成者である彼の方に向かって進んでいく。彼はそれらのものに新しい意味を与え、それらの終末を告げた。旧約の代表者たちが、彼を神の敵と見なして、彼を殺した。それほど決定的な終末であった。だが、彼の殺害という行為は、意外なことに彼の贖罪的愛という制度の制定を決めた。
  キリストの死と復活から、新しい秩序が始まった。死ぬ前の晩、エウカリスティアを制定しながら、神的単純性でもって、「私の血における新しい契約」(ルカ22・20)について語った。また、自らのミッション(使命、役割)の最後を栄誉で飾りながら復活した日は、今や完成の新たな日となる。今一度、神は創造の仕事を離れ、安息なさる。今度は、その創造から新しい人、新しい天と地が現れるはずである。その日とは、毎週日曜日に戻ってくる。日曜日は第一の創造と第二の創造の婚姻の記念である。安息日の神の安息は、今や復活の勝利と交(ま)ざっていく。平安のうなりに勝利のファンファーレが侵入する。約束と成就が一つとなった。なぜなら、安息日は、永遠に、創始に、後ろにむいていた。日曜日は、永遠に、終末に、来るべきものに、前に向かっている。日曜日は終末論的性格をもっている。日曜日は、キリストの新しい創造、新しい世界を宣言している。それは、キリストのわざから生まれ、いつか永遠に示されるのである。
   神は「在りて在るもの」, 全能者、永遠なるもの、不変のものであるから、神の安息について語るのは可能であろうかと、我々は問いかける。啓示(聖書)は答える。神は真に決意をたてておられる。創造を志し、創造から休むのを決める。偏在する神、全宇宙を支配する神のさらなる側面、人格として自由を持ち、特殊的な出来事に関わり、行動することは、聖書全体に公布されている。聖書は、特定の人の選び、彼と誠実の契約を結び、選ばれた人の子孫から成長した民との契約の強化、その民の惰性および頑固さとの絶えざる闘いにおける神的導きと支え、神の失われることのない誠実さ、彼らの度々の背信からの救いなどについて語っている。何度も何度も神は寛大な心の裏切り行為を飲み込む。それから記述が進んで、神はどのように自分自身の全存在を示したかを語るようになる。父なる神が永遠の御ひとり子を、長らく待降されたメシアとして、世に派遣した。聖霊はいのち全体を支配し、誰もが前代未聞(ぜんだいみもん)のその力を自覚できる。最後に、神のひとり子が、人々の間で計画された定めを最高に快諾し、何世紀にもわたって神に対する抵抗という募った嵐雲(らんうん)が、自らの頭の上に降りかかり、自らを虐殺されるのを受け入れた。カルワリオにおけるこの行為の完成、そして復活の勝利が、主の日に表現される。
  ところが、人々の間での神の定めた分け前には、時間におけるもう一つの表現がある。つまり、ミサである。
  神の「定め」(Gottesschiksal)は時間において現れた。けれども、「神の」行為、「神の」定めとして神の意志から発出した。一旦、始まりと終わりを持った地上の出来事として現れた。しかし、同時に永遠変わらない現実でもある。そこで、キリストが自らの受難と死をもって、おん父の前に立っている。死ぬ前に彼は、[定めの]この救済的成就が絶えず記念されることを命じた。最後の晩餐においてキリストが、ご自分の友にご自分の身体のパン、血のぶどう酒を与え、記念として「これをしなさい」と勧めた。「これをする」権限を持った人たちがこの命令に従うたびに、最後の晩餐の時に起こったことは、今現在再び起こる。この「記念」(memoria)は単なる想起ではない。実際の存在への帰還である。主の記念という行為を通して、地上に対する神の定めの永遠なる現実が、何度も何度も時間の中に入り込む。その戸口は聖なる時間[一時間]であり、絶えず再起する「今」である。人間が神のために一時間を取っておくというようなことではない。神ご自身が救済的定めを伴いながら、一時間の中に入り込むのである。その一時間は神を通して自己実現するのである。今や新しい創造の一部分となる。そのような一時間を通して時間は永遠を含み、永遠は時間を抱擁する。
  永遠なる神が我々の人間的はかなさをご自分の上に受けとった時、言葉の本当の意味での聖なる時間は存在し始めた。最初は、天使による受胎告知と主の昇天の間の時間しかなかった。その数十年の間、受肉した神の子は我々と共に生活し、働き、苦しんだ。ちょうどその間に、そしてその間にのみ。皇帝カエサル・アウグストゥスの在位の間、神が実に人間となり、ポンティウス・ピーラートゥスがユダヤの総督だった間に、実に亡くなった。ちょうどその間、早くなることも遅くなることもない。この二つの出来事の間に、永遠なるロゴス[言]が人間として存在していた。地上におけるその寄留はミサにおいて新たにされる。主自身から権限を受けた司祭がパンとぶどう酒の上に式文を唱える時に、生きたキリストが自分の会衆の間に歩き、聖なる晩餐において自分自身を糧として与えるまで。これもまた、始めと終わりのある、限られた一定の間である。まことに文字どおり、「主の過ぎ越し」である。
  効果的にミサに与るために、その時間性、即ちその始まり、その経過、その終わり、を意識することが本質的である。この短い時間の部分は永遠を包んでいる。ミサ中にご聖体を顕示するというような習慣は、以上のことを曖昧にするきらいがある。それは、御聖体の神秘のうちに在る主キリストの現存をはっきりと、親密に、できるだけ長く味わいたい会衆への譲歩である。信仰生活に関して、この要望とそれに対する教会の対応にはとても重要なものがある。ところが、もっと深く見れば、以上のような特権は、詳しい制限なしには与えられていないということが分かる。御聖体の展示はいとも簡単にミサの聖なる時間性という感覚を鈍らせる。長い間、祭壇の上に星のように輝くホスチアの姿は、主キリストが来て、しばらく滞在し、そして去ったという感覚を消えさせる。
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訳注:  ここで、グアルディーニがおそらく、「40時間の祈り」のような、16世紀以来行われてきた「永久聖体礼拝」という聖体信心を念頭においていると思われる。「40時間」とは、キリストの死(金曜日の午後)と復活(日曜日の朝)の間に経過した時間にちなんだものである。
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  永遠から生まれた聖なる時の過ぎ越しを経験するのはとても重要なことである。その聖なる時は我々を永遠に吸い上げる。それが続く間は、すべての他の時とは全然違う次元に我々は住むのである。それから退出を命ずる、その後我々は日常生活のはかなさに戻る。しかし、もし我々はそれに生き生きとした与かり方をしていれば、我々は復活から生まれた聖なる永遠の種(たね)を持ち帰ることができる。こうして、浮世における我々の生活は変えられる。
  


Sunday, March 13, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私訳) ①


ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私訳)
Romano Guardini, Besinnung von der Feier der heiligen Messe, 1939. (english tr.: Preparing Yourself for Mass, Sophia Inst. Press, 1993)
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目次
第一部:聖なる姿勢
1.静寂 (Stillness, Stille)
2.静と言 (Silence and the Word)
3.沈黙と聴くこと
4.平静 (Composure)
5.平静と行為 
6.平静と参加
7・聖なる場
8.敷居としての祭壇
9.食卓としての祭壇
10.聖なる日
11.聖なる日と聖なる時
12.聖なる行為
13.啓示する言葉
14.遂行する言葉
15.賛美の言葉
16.祈願の言葉
17.会衆と正された不正
18.会衆と教会
19.障害となる習癖
20.障害となる感情
21.障害となる人間性
第二部: ミサ聖祭の本質
序文
22.制定としてのミサ
23.記念としてのミサ
24.新約の記念
25.現実
26.時間と永遠
27.典礼的形態の模倣
28.自己自身を捧げるキリスト
29.会合と祭り
30.真理とユーカリスト
31.ミサと新約
31.ミサとキリストの再臨
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第一部:聖なる姿勢
1.静寂 (Stillness, Stille)
ミサ聖祭がきちんと祝われると、司式司祭と信者との両方の声の音はしないときがある。司祭は典礼法規に従って儀式を行い続け、小さい声で祈ったり、発声を伴う祈りを唱え終えるときである。会衆は見守りながら祈りのうちに心を合わせる。この静かな休止期間は何を意味するのか?我々はその時はどうすればよいのか? この静寂さは何を含意するのか?
 まず第一にこの静寂さは、話が終わり、静けさは勝つということを意味する。いかなる音も - 身動き、ページめくり、咳、咳払い - 聞こえなくなる。おおげさに考える必要はない。人間は生き物であり、生き物は動くのは自然である。強制的に得られた外面的な画一化は、そわそわした状態に優りはしない。にも拘らず、 静寂さは動かない、真剣に望まれた時だけ成り立つ。我々はそれを尊重するなら、喜びをもたらす。重んじないなら不快をもたらす。ある人は言うかもしれない、「咳き込むことは止められない」、あるいは「静かに跪くことはできない」と。けれども、コンサートや講演で感動したときは、咳き込みやそわそわするのを忘れる。人 生におけるもっとも美しい事柄に関しては、それにふさわしい静寂さは勝つ。美しさと真に重要な事柄が君臨する、注意深さに満ちた静かな空間。我々は真剣に静寂さを望み、そのために何かを快く犠牲にするのをいとわないようにしなければならない。そうすれば静寂さは我々のものとなる。我々はそれを体験した後は、どうして 今までそれなしで生きてきたのかと驚くだろう。
 さらに、静寂さは、話もないもじもじすることもないときのように、表面的なものであってならない。我々の考え、感情、心も落ち着きを見出さなければならない。そうすれば、正真正銘な静寂さは浸透し、内面世界の計り知れない深さまでますます広がる。
 このような深い静寂さに達しようとすると、一挙にできるものではないとわかる。それを望むだけでは不十分で、練習しなければならない。ミサ聖祭の数分前は最も大事である。けれども、その数分を準備に使うために、早めに来なければならない。その数分は、回りをじろじろ見たり、空想に耽ったり、無用なページめくりをす るためにあるのではない。気を取り戻し、気を落ち着かせるためにある。自宅から出かけて教会に向かうときから始まったほうがよりよいであろう。やはり、聖なる儀式に与ろうとしているから、その道のりは平静を取り戻す練習に変えてもよいだろう。今から参加する聖祭の序曲のようなものにしてもよいだろう。実は、この聖な る静寂さへの準備は前の日から始まると言ってもと想う。典礼的に言えば、土曜日の夕方は日曜日の一部である。例えば、適切な読書の後、しばらく平静を取り戻す練習をしてみれば、その効果は翌日に現れるだろう。
 以上、消極的な観点から静寂さを取り上げてきた。話を止め、音をたてない。ところが、静寂さは話のない音のない、いわゆる言葉や音の間にある単なる隙間だけではない。静寂さには積極的な側面がある。もちろん、我々はその積極的な価値を評価する必要がある。何らかの講演、行事、祭典の間に一時的な休止がある。そのと き、ほとんど例外なく咳き込んだり、咳払いをする人がいる。その人は、話や音という道のりの割れ目として静寂さを体験している。その割れ目を埋めようとしている。そのためになんでもいい。その人にとっては静寂さ、単なる空白、空洞であり、無秩序、不快なものになる。実は、静寂さはあふれるばかりのものである。
 静寂さは内面的いのちの平穏であり、その隠れた流れの深い閑静である。集中して全存在を感じるときであり、受容性をもち、、覚悟のできた、敏感な「自分のすべてがそこにある」のような状態である。なにも惰性的なもの、重苦しいものはない。
 注意深さ、これがここで言う静寂さ、神の御前での静寂さ、のポイントである。
 教会聖堂とは何だろう。確かに建物である。壁があり、柱と空間をもった建物である。しかし、それらは教会聖堂という言葉のごく一部しか、その殻しか言い表していない。ミサ聖祭は「教会で」行われるという時は、我々はそれ以上のものを含意しているだろう。すなわち「会衆」(Congregation)、単なる人々の集まりではな い、「会衆」となった人々。教会に通う人々は、教会に到着し、信者席に座ったり、跪いたりしている人々は、必ずしも「会衆」となると限らない。彼らはただ単にたまたま同じ場所に居合わせる多かれ少なかれ敬虔な個々人かもしれない。「会衆」は成立するのは、個々人がただ単に身体的にではなく、霊的にも居合わせるときの みである。共同の祈りにおいて連絡し合い、共に霊的「空間」に踏み込んだときである。厳密に言えば、祈りで持って聖堂という空間を広げ、高めてからである。そのとき、真の「会衆」が存在しはじめ、教会共同体の建築的表現である建物と共に生きた教会を形成し、そこでミサ聖祭という聖なる行為は達せられる。これはすべて 静寂において行われる。静寂さから真の神聖さが生まれる。このように理解するのは重要なことである。建物は消えたり、破壊したりしている。すべてが信者が「会衆」を形成するかどうかにかかっている。「会衆」はどこにいても、その場所は貧しくてもつまらないものでも、破壊されえない「教会聖堂」である。我々は霊的聖堂 を建築する技術を学び、その技術を使わなければならない。
 静寂さを過剰評価することは不可能である。典礼について考察する本稿は静寂というテーマで始まるのは偶然ではない。典礼はどこから始まるのかと問われたら、私の答えは、静寂を学ぶことから、である。静寂なしには何もかも表面的なものとなり、実質のないものになる。ここで言う静寂とは、変な審美感ではない。美学的な 観点から静寂を捉えると、あるいは自分のエゴに引きこもるというようとして捉えると、それを台無しにしてしまうだろう。我々は目指しているのは、残念ながらひどくおろそかにされがちだが、深刻で重大な事柄である。それは、聖なる典礼行為の不可欠な条件である。
 
2.静と言 (Silence and the Word)
前章で神の御前での静寂を取り上げた。静寂においてのみ、聖なる儀式に欠かせない会衆は存在しはじめると確認された。静寂においてのみ、ミサ聖祭が行われる部屋は教会聖堂に高められることができる。従って、礼拝の始まりは静寂の創造である。静寂は、沈黙と言葉とに親密に関連づけられる。 言葉というのはミステリーに満ちたものである。言葉は唇にのぼったとたんすぐ消えるというほどにはかないものであるだけでなく、それにもかかわらず人の運命を決め、存在者の意味を決定付けるほど強力なものである。ことばは、つかの間の音によって形作られた壊れやすい構造であるが、同時に真理という永遠的なものを含 んでいる。言葉は、内面から出てきて、身体の諸機関によって音として作り出され、人間の中から、その心や霊の表現として口に昇ってくる。人間は言葉を発するが、言葉を造るわけではない。言葉はその人間の以前からすでに存在していた。言葉は他の言葉と関連づけられる。諸々の言葉全体は、偉大な統一体である言語を形成す る。言語は、人間が住まいとする形を取った真理という帝国である。
 生きた言葉は、玉ねぎのように多層の組織を作る。一番外側は単純なコミュニケ^ションがある、知らせや命令。これらは活字や人声を再生できる器具によって機械的に伝達することができる。このように造られる文字や音節は本物の言語からその意味を受け継ぎ、充分に一定の必要を満たすことができる。
しかし、このように表 面的で機械的なレベルでの言葉が本当の発話に達しない。本当の発話は、発話者から聞き手に伝わる確信の量に比例してのみ存在し始める。人間が意図する意味が理解可能な音に体現される際に、その意味が明らかにされればされるほど、人間の心がより完全に自己表現でき、より真にその発話は生きたことばとなる。
 最も深い精神は真理によって生きる。「これは何であるか」そして「価値あるものは何か」ということを認めることによって精神は生きる。人はこれらの心理を言葉で表す。真理をより完全に認めれば認めるほど、それだけその発話はよりよくなり、言葉はより豊かになる。真理は沈黙からしてのみ認識されうる。たえずしゃべる 人は、決してあるいはめったにしか真理をつかみはしない。もちろん、よくしゃべる人も何らかの真理をつかんでいるだろう。そうでなければ存在することはできない。彼はある事実を認め、物事の関連性を見、そこから結論を引き出し、計画をたてる。しかし、彼は正真正銘な真理をまだつかんでいない。真理は成り立つためには 、まず物事の本質、関連性の意味、この世界において価値あるもの、永遠的なものが自己開示を待たなければならない。これには、沈黙のみが作り出せる広さ、自由、内面の「きれいに拭かれた部屋」のうような純粋な受容性が必要である。いつもしゃべる人は、そのような内面の「部屋」を知らない。なので、真理を知ることはで きない。真理、すなわち話の真実性、話した後は静かになるという発話者の能力にかかっている。
 ところが、熱心さ[熱心に祈る]といえば、それは情動から、物事の意義や価値を評価する情動から力を得るのではないか。熱心さは、その背景にある体験が即時的であればあるほど、それだけ話に注がれるのではないか。そして、その即時性は、理屈を控えれば控えるほど、大きさを保つではないか。とりあえず、それはそのとお りだとしよう。しかし、たえず話すひとは、だんだん空っぽになるということも本当である。そしてその空虚さは一時的なものとは限らない。いつも敏速に言葉に注がれる情動は、やがてへとへとになる。何も貯めることはできなくなり、我に帰ることもできなくなった心は、すくすく成長することはできない。絶え間なく産物を出 さなければならない畑と同様に、やがて貧弱になる。
  沈黙から出てきた言葉だけは、実体を持ち、力強くなる。言葉は効果的であるためには、公の話に出なければならないが、ある真理の場合、すなわち自己自身や他者、そして神に関する理解の言い表せない深さの場合、必ずしも必要ではない。これらの場合、言い表せないまま体験さえあれば充分だろう。それ以外はしかし、内 面の言葉は外面のことばにならなければならない。悪用される話(トーク)があるように、悪用された沈黙(無言)もある。無言は冗長な話と同じぐらいわるいものである。無言とは、出口のない心という地下牢に沈黙が閉じ込められ、締め付けられ、重苦しくなったときに起こる。
言葉がその要塞を切り開く。暗闇に光をもたらし 、虜になったものを自由にする。話によって人間は、自分自身に対して、そして世界に対して責任を取るようになり、しかも自分自身と世界を超越するようになる。話は、他人の間、歴史の中の人間の居場所を示す。自由を与える。沈黙と話は互いに結ばれている。前者は後者を前提にしている。共に一体をなし、生きた人間が生活 し、その一体の名のなさを発見することは、奇妙に美しい。我々は知っている、人間のエッセンスは、地上の命は光対闇、日対夜という本領に同封されているように、沈黙対話という本領に囲まれている。
 従って、話すために沈黙の練習をしなければならない。典礼とは、概ね神に向けられた言葉と神から受け入れる言葉とから成り立っている。いかなる言葉も、最も深みのある言葉でも最も聖なる言葉でも、適切に話されない場合はそうなりがちなのだが、典礼の言葉は単なるトークに成り下がることを防がなければならない。典礼 の言葉には、神と贖われた人間の真理は明るく燃え上がるように組み込まれている。それらには、キリストの心(そこに父なる神の愛が生きている)とキリストの弟子の心は完全な表現を見出さなければならない。典礼の言葉を通じて我々の内面は、会衆とその神秘が神の御前で作り出す聖なる公開性に渡る。キリストがその弟子に 「これを行うたびに、私の記念として行いなさい」とおっしゃったときに、弟子に託したその神の聖なる秘儀でさえ、人間的言葉によって再現される。この秘儀のために、典礼の言葉において居場所を見つけなければならない。典礼の言葉が幅をもち、落ち着いたもの、内面的知識で満ちたものでなければならないが、それは沈黙か ら出たとのみそうなりうるのである。、礼拝の準備段階にある沈黙でも、礼拝の
間にたびたび自ずから確立する沈黙でも、礼拝における沈黙の重要性を強調しすぎることはない。沈黙は、そこから言葉が湧き出る内的泉を開くのである。

3.沈黙と聴くこと
 沈黙と話は互いに頼り合う。共に、名のない一体を形成し、それは我々の霊的いのち(生活)を支える。しかし、ここでもう一つ欠かせない要素がある。それは聴くことである。
 ミサ聖祭の対話を想像してみよう。ミサの大きな部分になるのだが、使徒の書簡と福音書は国語で朗読される。そうすると、典礼を愛し、典礼になるべく完全に参加したい信者はどうするのだろうか。彼らは朗読者が朗読している間に、手元の祈祷書[ミサの式次第と朗読箇所を含む]でもって、その朗読箇所を読んでいく。彼らは 良かれと思ってそうするだろう。聖書朗読の一語も見落としたくない。しかし、これなんて変な結果となる。かつては助祭の務めであったが、今朗読奉仕者がそれを受け継いで一方で信者に向けて荘厳に聖書を朗読している。他方、信者は同時に書物から読んでいる。これは、霊的行為の本来の姿でありうるのか。決してそうではな い。何かが壊されている。
 荘厳な朗読は聴くことを要求する。同時に書物から読む必要はないはず。でなければ、声を出して朗読する意味はないだろう。書物を中心としている我
々の学習の癖がこの不自然な結果の原因である。嘆(なげ)かわしいことに、聴くべきときに書物から読むようにさせるのである。結果として御伽噺はなくなり、詩は力を失った 。御伽噺と詩の響き渡る、知恵に満ちた、誠意を込めた言い回しは、読むためではなく、聴くためにあるのである。ミサ聖祭の場合はさらに、美しくて荘厳な言葉だけではなく、神の言葉に対する態度が問われる。
 もしかするとここで反論されるかもしれない。「これは、あまりにもささいなことではないか。最も大事なことは、信者が神の言葉を受け入れ、それを理解することではないか。それは、読むことによってであれ、聴くことによってであれ、かまわないではないか。」実を言うと、これは死活のもんだいである。黙って書物から読 むことにおいて、言葉という弱くて力強い事柄は不完全である。未完成のままで、活字にもつれたまま、物体的なものとして、生きた部分を欠いている。急いで文字を追いかける目は、つかの間のイメージを想像力にもたらし、知性はぼんやりした「理解」しか得られず、結果の値打ちはすくない。失われたものは典礼的行為のエッ センスに属するものである。もはや聖書は、その霊的・身体的次元を完全に伴い、空間を通じて聞き手に、生活に受け入れるべく届くことはない。もし、人々は自らの最も暑い思いを生きた発話で伝達することをやめ、その代わりに書面においてのみコミュニケションを取るとすれば、損することになるのだろうか。絶対に損になる だろう。鳴り響く言葉の身体的活力は消える。信仰の領域においても損は大であろう。何といっても、キリスト自身は「聴く」と言っていた。キリストは「目のある者は、読みなさい」(マタイ11・15参照)とは言っていない。これで活字の価値を切り下げるつもりはない。活字にはそれなりの善さもあり、必要なことである。しか し、活字はより善いもの、より必要なもの、より美しいもの、つまり聴くことを閉め出すべきではない。パウロが言うように、信仰は聞くことから生まれる(ロマ10・14)。
 もちろん、信仰は書物によって灯されることがある。しかし、「福音」(福をもたらす音)、「良き知らせ」は聴かれるときのみその完全な活力を得る。活字は当たり前となった昨今、我々はこの事実を忘れがちである。しかも、どれだけのものを失ったかを実感しえなくなったほど、完璧に忘れてしまった。完全な言葉は、印刷 した形にではなく、発話されたときである。そのときのみ真理は自由である。人声によって発せられた言葉のみ、情動の深み、霊の座、良心の感受性全体を動かすために必要な繊細さと力をもっている。秘跡と同様に、神の言葉が霊的且つ身体的なものであり、秘跡のように血と肉をもった人間の霊を養うために、人間の内面に力を 発揮するためにある。そのために完全なものでなければならない。さらに深めていくと、我々を訪れた救われる神は、永遠なるみ言葉であった。そのみ言葉は、ひらめく悟りまたは突然書物に現れたものではない。その神は「肉となった」(ヨハネ1・14)、見える肉、聞こえる肉にされた。ヨハネがその最初の書簡の初頭で生き生 きとした表現で強調しているように、手で触れることのできる肉であった。それと同じ秘儀が典礼の告知における生きた言葉に続いている。このつながりが保たれるのは死活問題である。
 さて、神の言葉が聴かれるためにある。ところが、聴くために沈黙が必要である。
 次のように要点を確認しよう。適切な聴き方を妨げるものは何か。例えば、声の届かない距離から人に話しかける。その場合、つながりをもつためにもっと大きな声で話しかけるべきだろう。また、充分大きな声で話しても相手は、別の方向に耳を傾けているとしよう。こちらの言うことは無視されるだろう。その場合、相手に聞 くように呼びかける必要がある。相手はこちらを聞いていて、言われてことを受け止め、内容を把握し、努力しながらも理解してくれないとしよう。相手において何かが閉じられている。相手がこちらの言い分を聞く、その意味を知的に心理的に受け止めている。第三者に向けられた言葉であれば、すぐに理解できる。しかし、自分 に向けられた言葉としてはつながらない。彼のプライドは邪魔になり、真理を認めようとしない。もしかすると、彼の内面の声が注意を促しているかもしれない。その真理を認めたら、変えたくない生き方を変えなければならない、と。こうやって様々の例を分析してみると、聴くことには複数のレベルがあるということはわかって くる。特に発話者が神である場合は、聴き方の重要性は明らかになる。「聴く耳を持つ者は聴きなさい」(マタイ11.15、マルコ4.9、ルカ8.8)と主がおっしゃったのにはわけがある。
 聴く耳を持つためには恵みが必要。なぜなら、神から耳を開けてもらった人だけが、神の言葉を聴くが出来るからである。耳を開けてもらうのは、神の意にかなうときであり、従って真理を悟るために神に願わなければならない。しかし、同時に我々にもそれを望み、受け入れる何かが必要である。それは、自分自身の内面におい て注意していること、自分自身の存在の生きた核心から聴く姿勢、彼方からやって来る聖なる言葉に自己自身を打ち明けることである。これは、我々は内面的に静寂さを持つときのみ可能である。静寂さにおいてのみ我々は実際に聴くことができる。外から聖堂に入るときは我々の耳が町の雑音、仲間の様々の言葉、自分自身の葛藤 や複雑な思い、心にある不安や気がかり、傷や喜びで耳がいっぱいになっている。そこでどうやって神の言葉を聞くことができるのか。[祭壇の方]に耳を傾けることぐらいでも、大したものだ。皆そうなると限らない。より良いことに、注意を注いで言われていることの意味を捉えようと努力することまでこぎつける人がいる。しか言葉が根付くことのできる注意深い静寂さではない。この静寂さは礼拝が始まる
前に確立していなければならない。可能な限り、教会に向かう道で沈黙で準備する必要がある。また、前日の夕方にしばらくの間に平静を取り戻すのは、もっとよい方法であろう。

4.平静 (Composure)
信仰生活において沈黙が単独で取り上げられることはまれである。早かれ遅かれ、沈黙の友、平静が話題になる。沈黙は雑音とおしゃべりを抑える。平静は放心状態と不穏に対する勝利である。沈黙は、つい先まで話していた人の閑静である。平静とは、周囲の状況に分裂し、日々の無数の出来事に振り回されがちな人の生き た、ダイナミックな一致である。
 平静とは何を意味するのか?大抵、人間の注意力は、その人を取り巻く多様な物事や人々に即して、無数の断片に引き裂かれている。心は落ち着かない、情動は絶えず様変わりする物事を求め、望みは次々と対象を変える。意志は、しばしば矛盾する無数の心積もりの虜になる。悩まされ、様々な方向に引っ張られ、自己矛盾を抱 えるのは普通の状態である。
 平静は逆方向に働きかける。虜にしている雑多な対象から人間を救い出し、霊的一致を回復させるのは平静の仕事である。平静は様々な誘い、誘惑から心を自由にし、最も大切な事柄一つに集中させる。平静は、無数の思い、望み、計画、心積もりを追いかけ、四方に散らばっている魂を呼び戻し、我に帰るようにさせ、その深さ を回復させる。
 ありとあらゆるものが人間から落ち着きを奪うようである。大自然の現象は人間の好奇心をそそり、彼を引き付けて放さない。もちろん、自然のことだから、落ち着かせる、集中させる効果もある。人間にまつわるほかのすべての現実も同様である。出会いと運命、仕事と休み、病気と事故、いのちと死。
これらすべてが人間に圧 力をかけ、その心に群がり圧倒させる。しかし、同時にこれらは人間に本気と重みを与える。
 まことに悲惨なのは、現代的生活の無秩序と不自然さである。我々はずすさまじい、混沌とした様々の刺激という嵐にたえず直面させられている。この刺激は同時に強力で表面的だが、すぐにその力を失い、ただ次の刺激に取って代われる。このような過度で離れ離れの刺激は、互いに矛盾し合い、邪魔し合い、さえぎりあう。一 歩進めば我々は巧みにつり込む異なる[反対]の目的[意図]の虜になり、それらにだまされる。いたるところ我々は要らないものを押し付ける広告に直面させられる。我々は重要なこと、深みのあることから、たえず気をさらすもの、「面白い」もの、ぴりっとするものへとおびき出される。
 こうした事情は、我々の周りだけではなく、我々のうちにもある。かなりの程度で、人間は深みのない、中心のない、上面で気まぐれな生活をおくっている。自分の内に本質的なものを見出さないので、何でも刺激となるもの、物議をかもすもにすがる。しばらくはそれらで喜び、また飽きて、自分の空虚さを思い出し、新たな刺 激を求める。乗り物、情報、知識をたえず増やすことによって、接近したすべてのものに触れるが、吸収することは何もない。ただ単に物事について「聞いた」だけで満足し、流行の用語で分類し、どこかに置いておいて、次の物に進む。上辺の人間がその空虚さを落ち着きのない絶えざる活動で満たそうとする。活動の真っ最中に 、ラッシュとノイズと迅速な結果との成功の刺激に一番幸せと感じる。回りは静かになるとたん、迷子になる。
 こういった事情はどこでも見受けられる、信仰生活においても、礼拝でも、ミサの時も。たえざる不安はその特徴の一つである。そこで、何回も周りを見る、必要なく跪いたり、立ったり、物事をさがしたり、衣服をもてあそんだり、咳したり、咳払いしたりして、落ち着かない。外面的に振る舞いはちゃ
んとしていても、歌う時 、聞くとき、答えるときなど、全般的には内面的な不安は明らかである。人々は浮いている、聖堂という生きた空間とミサという生きた時間をはみ出ている。一言で言えば、平静がない。
 平静はばらばらの刺激と仕事からの自由だけではない。平静とは、いのちが完全な深みと力をもったときである。いのち、生活はそれ自体として、いつも外に、物事や出来事の雑多に向かっている。しかし、この自然な傾きは平衡(へいこう)させるべきである。例えば、呼吸の仕組みを見てみよう。内側へそして外側へと、二つ の方向をもっている。両方ともいのちに必要。どちらもいのちの営みの基本的な要素となっている。一つだけでいのちは成り立たない。息を吐き出すだけの有機体も、あるいは空気を吸い込むだけの有機体もやがて窒息するだろう。平静は、霊的人間の吸い込みであり、それによって自らの深みに戻って、ばらばらになった自分の様 々な部分を中心に集めるのである。
 平静をもった人のみ人格になる。そのような人だけが真剣に話しかけられ、答えることができる。そのようあ人だけが、目覚めていて、意識的に人生の出来事によって本当の意味で影響を受けることができる。目覚めているというのは、それは自分の利害、好都合を早く見て早くつかむ、という表面的な意味合いではない。そのよ う用心深さは小鳥や蟻にも見られる。必要なのは、本当の意識、本質的なものの内的知識である。つまり責任のある選びをする能力、霊的感受性、快諾、生きる喜び。平静が確立してくると、典礼行為は可能になる。聖書や典礼のシンボルの深い意味、典礼刷新のどうのこうのについて論じても、大前提の本気はなければ無駄であろ う。本気になることがなければ、典礼でも「面白い」ものにしてみたり、過ぎ去る流行ものにして見たりしたくなる。真剣に典礼に参加するためには精神的な平静がなければならない。ところが、沈黙と同様に、平静も自動的に起こるものではない、まずそれを望み、練習しなければならない(R. Guardini, Wille und Wahrheit, Mainz, Matthias Grunewald Verlag, 1938参照)。
 何よりもまず、早めに教会に行って、内面的掃除をしておく。教会聖堂に入る時点の我々の普通の状態、落ち着きのなさ、内的混雑、無秩序をありのままに直視すべきである。厳密に言えば、我々は、神の話し掛けに適切な答えを返せる人格としてそこにいるということまではいたっていない。我々は、その時点で、互いに矛盾し あっている感情や空想、思いつきや心積もりの束にすぎない。まず第一にすべきは、落ち着くことであり、我に帰ることである。
我々は正直に次のように言うべき、「今私はここにいる。しなければならないことは一つだけ、自分のすべてをかけて、唯一大事なことである聖なる典礼に参加することである。さあ、準備ができた」と 。
 こうのうに努力してみると、我々はどれほど取り乱れた存在であるかが分かってくる。我々の考えは我々をありとあらゆる方向に引っ張っていく。人間関係、家族、友人、ライバル。仕事、心配事、世間の出来事、個人の用事などなど。我々は何回も、何回も、思いを呼び戻し、繰り返し繰り返し整理しなければならない。それは 難しいと実感してきたときにあきらめずに、ただ我に帰るときであるとばかりに自分に言い聞かせるしかいない。
 これは、可能であろうか。人間というのはどうしようもなく外面的な刺激、様々な欲情、不満に負けるものではないのか。この質問は、究極の問題に触れている、人間と動物の違い。
動物は実際に刺激に縛られている。自由がない。しかし、同時に秩序的資質を含んだ本能によって守られている。動物は本当の意味で気が散ることはない。厳密な意味で動物には乱れも平静もない。乱れか平静かという選択に直面させられたことはない。動物の存在は自然本性によって決定づけられ、その本性は秩序を意図している 。人間だけは、自然を超える霊魂のために乱れることがありうる。霊魂はこの世の物事に向かうと、そこで迷子になることがある。その同じ霊魂が乱れに打ち勝ち、平静を取り戻すために闘うことができる。霊魂は神秘的なものであり、永遠と関係付けられている。絶対的な休息、平静は永遠に等しい。時間は不安と乱れと関係して いる。永遠は休息と一致、ただし永遠イコール不活発ないし退屈ではない、愚か者だけはこのように関係付けている。永遠とは、休息という形でのあふれるばかりのいのちである。永遠の何かが我々の中に、深いところにある。
 霊的巨匠に従ってそれを「霊魂の地盤」または「霊の頂点」とよぶことにしよう。前者は内在性、深みの休息、後者は遠く離れたところの静寂、高みを意味表示している。永遠のこの種子は私のなかにあり、私はその支えを頼りにできる。その助けでもって、終わりのない追求から逃れることができる。この神の家に属さないいか なるものも忘れることができる。私は静かになり、自分の完全性を取り戻して、正直主の呼びかけに答えることができる、「主よ、私はここにいる」と。
 
5.平静と行為
正しい話し方と聞き方は沈黙から生まれると同様に、正しい振る舞いと良き行為は平静からのみ生まれる。行為は外に現れる演技のものである。無数のレベル、いのちと同じように無数のレベルを持っている。電気をつけるというように、ただ単に外に向けた機能がある。スイッチなどはちゃんとしていれば、問題なく明りがつく。 しかし、課せられた仕事、時に大事な仕事をしなければならないとなると、その場合集中しなければミスをおかしてしまうかもしれない。
 奉仕するとき、友達と付き合うとき、愛するときのような人間関係においては、人間とその行為という領域全体には、行為の人間らしさは、どの程度内面から関わっているということにかかっている。日常言語にはそれを示す表現がある。彼は仕事に「夢中になっている」、または「心をこめて」やっている。心をこめなくても一 人で色々のことができる。何かをするときに、ある程度の心理的活動によって体を動かすが、心が別のところにあっても、できることはたくさんある。課せられた仕事は高貴であればあるほど、難しければ難しいほど、重要であればあるほど、それを成し遂げるために、それだけ自分自身の注意力、本気、熱望、そして愛を込めなけ ればならない。精神をフルに使用して心から取り組んでいかなければならない。それは平静である。心と精神は今、ここに集中している。空想を追いかけることなく、自分のすべてが今ここにいる。
 同じことをすべての行為について言えるが、特に、本書のテーマである、神の御前で行われる礼拝についてあてはまる。典礼は、教会聖堂における神の現存に基づいている。そして、その現存に対する人間の答えから始まる。この点は、典礼と個人的祈りの分かれるところである。個人の祈りは、どこでも、自宅でも、街でも、畑 でもできる。典礼とは、何よりもまず、聖なる場所での奉仕を意味し、そしてこれは決定的なことである。これは偉大なしんぴである、神は一定の場所に現存する。我々は神の御前にあることを覚え、それに答えなければならない。これについてイタリア語には美しい表現がある。"Fare atto di presenza"(「ここにいる行為を行う」)。そこからすべてが始まる。身体、精神、魂、注意力、敬う心、愛でもってここにいる、という意識が不可欠である。それは平静である。平静をもった人だけが自らの内に神の現存を持ち、神の御前に出て、敬愛でもって神の溢れる恵みに答えることができる。
 平静は目に見える正しい振舞い方を可能にする。教会聖堂における人々の振る舞いはしばしばたるんでいる。これは言いすぎだと思われるかもしれない(変な解釈してほしくないのだが)が、大変重要な問題なので、注目をしていただきた。教会に通う人々の多くは、この問題に関して充分な理解をもっていない。教会にいること は、ほかの場所にいるのと同じように捉える人がいる。
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【訳注】
・典礼の中で守られる沈黙は「聖なる沈黙」(『典礼憲章』30条など)と呼ばれ、典礼に参加するための一つの要素として位置づけられています。
「ローマ・ミサ典礼書の総則」では1969年の初版から、沈黙に関する項目が掲載されています(23番)。そして、2002年版では次の文章が加えられました。「祭儀そのものの前にも、教会堂、祭具室(香部屋)、準備室とそれに隣接する場所では沈黙が正しく守らなければならない。こうして、聖なる行為が敬虔かつ正しく行わ れるよう、すべてが整えられるのである」(45番)。ここで述べられているようなことは、あたりまえのことかもしれません。しかし、あえてこのことが加えられたということは、ミサが始まる前の沈黙が実際には守られていない状況があることを表しています。
たしかにミサの前には、「おはようございます」、「こんにちは」など日常的あいさつをはじめ、その日に行われる行事などについて会話を交わしてしまうことがよくあります。ほかに場所がないので仕方なく行われているのかもしれませんが、こうした会話は本来、教会堂の外で交わされるはずのものです。(毎日のミサ、2009年 9月号)

・聖堂がもっと静かな祈りの場であるためのお互いの努力(ミサの前後はもとより、平日の清掃や歌の練習の際も私語を慎むよう務めること)ttp://home.a06.itscom.net/catholic/communio/pastor200301.html
最近は平気でミサの前後に聖堂内で日常の話をしている方々がいます。御聖体が聖堂内にないのが原因のひとつかもしれませんが、沈黙の時間帯をミサの前後に決めるのも考えなければと思います。でも先導者がマイクで静かにしてくださいというのには反対です。誘導者がシーという程度でやってもらいたいです。
www.geocities.jp/fujisawa_church/shiryo/2006sokai-iken.htm

・ミサの朗読配分を解説する『朗読聖書』(カトリック中央協議会発行)28項は、ことばの典礼の意義を沈黙という観点から次のように述べています。
「ことばの典礼は、沈黙を助けるように行わなければならない。したがって、内省を妨げるような落ち着きのない行動はいっさい避けなければならない」。
(…)落ち着きのない行動を慎むようにとの注意は、信徒の積極参加を特徴とする現在のミサで、ややもすると生じがちな傾向を反省させているようです。沈黙は参加者全員に求められている根本的な奉仕であることに気づかされます。(『聖書と典礼 2009.10.4』オリエンス宗教研究所発行、4頁)『朗読聖書の緒言』28項は、ことばの典礼における沈黙についてさらに次のように続けます。「聖霊に促されて神と人との対話が行われるためには、集まった会衆に合わせて短い沈黙にひとときをとる必要がある。それによって神のことばを心で受けとめ、祈りをとおして応答を用意することができる」。ミサにおける沈黙が 、神との対話という深い次元でのことばの働きの状態であることが示されています。そして、ことばの典礼の中で沈黙のひとときを適宜とるよう勧められているのは、「ことばの典礼そのものが始まる前、第一朗読と第二朗読の後、また説教が終わってから」です。(『朗読聖書の緒言』)28項の内容は「ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版)」56項にも所収)。これら以外でもミサの式次第の各所で沈黙のひとときは大切な役割を果たします。静かな間を適宜とることは司式司祭と奉仕者(朗読者、先唱え者、オルガニスト、聖歌隊など)、そして会衆全員との間での連携と協力が求められる、ミサでの実践の大きなポイントです。(『聖書と典礼 2009.10.11 』オリエンス宗教研究所発行、4頁)
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ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳) ②

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私訳)
Romano Guardini, Besinnung von der Feier der heiligen Messe, 1939. (english tr.: Preparing Yourself for Mass, Sophia Inst. Press, 1993)
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目次
第一部:聖なる姿勢
1.静寂 (Stillness, Stille)
2.静と言 (Silence and the Word)
3.沈黙と聴くこと
4.平静 (Composure)
5.平静と行為 
6.平静と参加
7・聖なる場
8.敷居としての祭壇
9.食卓としての祭壇
10.聖なる日
11.聖なる日と聖なる時
12.聖なる行為
13.啓示する言葉
14.遂行する言葉
15.賛美の言葉
16.祈願の言葉
17.会衆と正された不正
18.会衆と教会
19.障害となる習癖
20.障害となる感情
21.障害となる人間性
第二部: ミサ聖祭の本質
序文
22.制定としてのミサ
23.記念としてのミサ
24.新約の記念
25.現実
26.時間と永遠
27.典礼的形態の模倣
28.自己自身を捧げるキリスト
29.会合と祭り
30.真理とユーカリスト
31.ミサと新約
31.ミサとキリストの再臨
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5.平静と行為
正しい話し方と聞き方は沈黙から生まれると同様に、正しい振る舞いと良き行為は平静からのみ生まれる。行為は外に現れる演技のものである。無数のレベル、いのちと同じように無数のレベルを持っている。電気をつけるというように、ただ単に外に向けた機能がある。スイッチなどはちゃんとしていれば、問題なく明りがつく。しかし、課せられた仕事、時に大事な仕事をしなければならないとなると、その場合集中しなければミスをおかしてしまうかもしれない。
 奉仕するとき、友達と付き合うとき、愛するときのような人間関係においては、人間とその行為という領域全体には、行為の人間らしさは、どの程度内面から関わっているということにかかっている。日常言語にはそれを示す表現がある。彼は仕事に「夢中になっている」、または「心をこめて」やっている。心をこめなくても一人で色々のことができる。何かをするときに、ある程度の心理的活動によって体を動かすが、心が別のところにあっても、できることはたくさんある。課せられた仕事は高貴であればあるほど、難しければ難しいほど、重要であればあるほど、それを成し遂げるために、それだけ自分自身の注意力、本気、熱望、そして愛を込めなければならない。精神をフルに使用して心から取り組んでいかなければならない。それは平静である。心と精神は今、ここに集中している。空想を追いかけることなく、自分のすべてが今ここにいる。
 同じことをすべての行為について言えるが、特に、本書のテーマである、神の御前で行われる礼拝についてあてはまる。典礼は、教会聖堂における神の現存に基づいている。そして、その現存に対する人間の答えから始まる。この点は、典礼と個人的祈りの分かれるところである。個人の祈りは、どこでも、自宅でも、街でも、畑でもできる。典礼とは、何よりもまず、聖なる場所での奉仕を意味し、そしてこれは決定的なことである。これは偉大なしんぴである、神は一定の場所に現存する。我々は神の御前にあることを覚え、それに答えなければならない。これについてイタリア語には美しい表現がある。"Fare atto di presenza"(「ここにいる行為を行う」)。そこからすべてが始まる。身体、精神、魂、注意力、敬う心、愛でもってここにいる、という意識が不可欠である。それは平静である。平静をもった人だけが自らの内に神の現存を持ち、神の御前に出て、敬愛でもって神の溢れる恵みに答えることができる。
 平静は目に見える正しい振舞い方を可能にする。教会聖堂における人々の振る舞いはしばしばたるんでいる。これは言いすぎだと思われるかもしれない(変な解釈してほしくないのだが)が、大変重要な問題なので、注目をしていただきたい。教会に通う人々の多くは、この問題に関して充分な理解をもっていない。教会にいることは、ほかの場所にいるのと同じように捉える人がいる。
 人間が「ここにいる」という時は、それは聖堂の外にではなく、聖堂の中にいるということだけを示すのではない。その人の身体はその人そのものである。どこかに居るということは生きた行為である。誰かが居間に入ってきて座る。すでにいた人たちはもう一つの椅子は使われたということにかすかに気づく。もう一人の人がやってきた。その人の「ここに居る」ことは、何も言わずに何もしなくても、一種の力である。「ここに居る」の静かな力(存在感)を全面的に打ち出す絵画がある。たとえば、中世の絵画で、数人の聖人たちがとなりに座って会話をしているようなものがある。描かれた人物たちは何もしない、互いに言葉を交わしたりジェスチャーをしたりすることは見受けられないが、それでもなんといのちにみちた、親密な存在感を打ち出していることか。「ここに居る」というのは、座ったり跪いたりして、自分の席にいるということだけではない。それは内面的な行為であり、振舞い全体に影響をおよぼすのである。
上記のことは、様々な動きや振る舞いについても言える。多くの人は聖堂に入るときに、慌てて片ひざをついてさっさと自分の席につく、ということほど見づらいことはあろうか。それは公園のベンチ、あるいは映画館の席に座り込むのと同じではないか。この人たちは今どこにいるのかを恐らく知らないだろう。実際、この人たちはミサ聖祭が終わった後、例えば偉い人の家を訪れるとしたら、直ちに違う振舞い方をする。
 聖堂において座るということに関しては、それは居心地のいい姿勢をとること以上の意味をもっている。それは目覚めている平静を表している。同じことは跪く姿勢についても言える。それは銃を構えるハンターの姿勢とは違う。神の前で、立っている(立身)ことを捧げるということを表している。同様に、聖堂において立つことも、道端で立ち尽くすこと、あるいは出発するのを待つこと以上の意味をもっている。それは天主の前での畏敬の念を表している。
 以上のようなことは、納得の行く形でできるのは、注意して取り掛かるときのみである。それはしかし、平静を前提にしている。
眺めると見るという、一見して単純で、もっとも自然な行為も、実は注意を必要としている。礼拝において眺めるという動作の重要性を少し詳しくみてみよう。それは、種を見分ける鳥や危険な敵をじろじろ見る獣の態度とは異なる。人間の場合は、自分の前にある物事、それらの特殊性を把握する行為である。見るとは、参加への第一歩である。劇場においては、舞台裏から観客席の方へ、あるいは観客席から舞台裏の方へ見られないで覗き込むことがある。こうして人の顔を見ようとするときにばれると、顔を隠したくなるほど感動することがある。人間の視線は人間全体を表しているからである。信仰の目で祭壇を見ると、それは今ミサはどの時点にきているのかただ単に確認するということとは全く異なる意味を持つ。それは、すでに参加につながる。これに関して、一回聖土曜日、モンレアーレ大聖堂[訳注:イタリア、シシリ島にある町。ビザンチン風モザイクの著名なキリスト像がある]を訪れたときを思い出す。そこで会衆の徹夜際の典礼への参加の仕方は印象的であった。徹夜際はすでに五時間を過ぎて私は帰らなければならなかった。ところが、会衆は何の書物もなく、ロザリオを唱えていたわけでもなく、ただ単に眺めていた。しかし、その眺め方には人格全体がこもっていた。嘆かわしいことに、この眺め方は現代社会においては失われたのである。原因はさまざまである。読書の習慣、都会の様々な風景、広告、映画などなど。キリスト教的伝統のうちに育った素朴な人間は持っていた平静は果ての挙句消えた。祭壇へ向けた視線の深さは、その人の平静の深さに比例するのである。
 また、典礼における数々の身振りを取り上げてみよう。たとえば、もっとも単純で、しかももっとも聖なるもの、十字架のしるしをみてみよう。そのやり方にがっかりすることがある。散漫で、手をひきずるようなやり方からして、本人にとってはそれは明らかに全く関心のない人に対する軽率な挨拶のようである。キリストの死のシンボルを我々の体で描くこと、贖いの印と親しむこと、主を仰ぎその守護を求めることとは程遠いものである。
 聖体拝領のやり方はどうであろうか。未信者が主の食卓に近づく信者を見た場合どう思うだろうか。恐らく、二つの特徴が目につくだろう。不自然で課せられた義務という態度。他方、何をやっているのかを全く分からない、まるで列に並んでただ単に先に進むだけ、というようことを暴露する不注意な態度。

 取り上げるべきことがら他にもたくさんあるが、ここで問題に気づいてもらうためにいくつの例をあげたにすぎない。教会に行くのは、礼拝に立ち会うためではなく、それは往々にして積極的に参加せずに受身的に眺めることに終始する。教会に行く理由は、それは司祭の奉仕に合わせて、我々自身が神に奉仕するためである。そうすると、教会でのすべての振る舞いが、入場から、そこに居ること、跪くこと、座ること、立つこと、御聖体を受けることまで、神への奉仕となる。
  典礼的行為は、これといった目標はないので(人間の行為には目標があれば注意しやすいのだが)、それだけに平静が必要になってくる。机の前に座って書物を手に取れば、自分でその行為の本質に達することができる。職場で仕事をするときに、失敗しないために自然に集中する。いかなることでも、自分の注意力を縛る目標がある。ところが、礼拝においては目標はない、人間はただ単に仮眠お前に身をおく、神のために時間をとるのである。典礼とは際立って、目標のないものである。しかし、その代わりに神への奉仕という精神に満たされている。典礼において神の崇高性が神秘的に働いている。典礼においては人間のすべてが集中する。そのように心がけ、実践しなければならない。そうでなければ、典礼のすべてが不活性、あいまい、なまけたものになり、神の偉大さを侮辱するのである。

6.平静と参加
ここまでは主に典礼における言葉に注目してきた。けれども、ミサ聖祭は言葉だけでも、主として言葉によって成り立つわけでもない。典礼においては言葉が主な役割を担う場合がある。それは、聖務日課の晩課[晩の祈り]や修道士たち[二つのコーラスが交互に詩編を歌うこと]の祈り一般である。ミサ聖祭はむしろ基本的に動作である。主キリストがミサを制定した時の言葉は、「これを私の記念として言いなさい」でも、「成し遂げられたことを瞑想し、告知し、賛美しなさい」でもない。「行いなさい」である。
 確かに、ミサ聖祭の前半、あわれみを求める祈り[1967年以前の式次第では、祭壇に上がるまえに唱えられていた]から信仰宣言までは、言葉を中心とする形態をとっている。また、同じ形態は聖体拝領の後から最後まで見られる。しかし、中心部分は動作によって成り立つ。司祭は奉献の準備をし、聖変化の秘儀を行い、御聖体を配り、参加者はそれを受ける動作を行う。信者の役割は、ミサ聖祭の下り文を瞑想することにつきるわけではない。むしろ、いけにえを捧げるという動作に積極的に参加すべきである。しかし、それはここまで取り上げてきた、内面的な平静を前提としている。
 現代教会において、厳密な意味でミサ聖祭に参加することについて論じるのは簡単なことではない。なぜなら、それは晩餐の記念の歴史的発展とつながっているからである。最後の晩餐の部屋(Cenaculum) に集まっていた使徒たちのミサの形態は長続きはできなかったことは明らかである。なぜなら、それは小人数を前提にしているからである。これについて、使徒言行録において証しが出ている。 「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(2、46-47)
 この箇所から伺えるように、全員が直接に聖なる動作に参加している。皆、同じ食卓に座り、晩餐を取っているのである。
 似た場面は第一コリントの手紙にも描かれている。「わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(10、15-17)
 さらに、「 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会[集会]で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。」(11、17-34)
 それ以来、共同体が発展し、人数が増えるにつれて、「聖なる集い」*のための新たな方針が必要になってくる。
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*[ミサの伝統的な呼び名。「(聖なる)集い」: ギリシア語の原語は、Synaxis、そのラテン語訳は synaxis、または collecta。ギリシア語動詞シュナゲイン(「行動を共にする」、「集まる」)の派生語のひとつ。この同じ動詞から派生語でシュナゴゲと言えば、ユダヤ教の会堂のことであり、シュナクシスと言えば、教会の公的集会、特に主の晩餐の集会をいう。公的集会というからには、それは教会の教会としての集会であり、個人的信心の集会ではない。この用語は新約聖書にはなく、教会教父たちの著作の中に現れる。フランス語の「主の集い」(assemblee du Seigneur)がその意味あいをよく保存している。]
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食事という元々の直接的な性格が薄くなり、輪郭だけ残していった。「聖なる食事」という核心の周りに儀礼的要素が加わり、日常的な動作としての食事に代わって、象徴的演出が生まれてくる。食卓は祭壇になり、聖なる食卓に親密に預かるという本来の意味合いは必然的に薄れていく。民衆は、少人数のように同時に行動することは不可能である。こうして、参加者は観衆になっていくのは避けられない。だんだん、祭壇側で行動する人たちと民衆という二通りのグループにはっきりと分かれていくのである。民衆は、司祭に代表されていると意識しながらも、直接にいけにえの食卓に座れなくなったのである。
 歴史が進むにつれて、聖堂は大きくなり、当然ミサの新しい形態はそれに合わされていく。現代においては、初代のシュナクシスの名残はわずかばかりである。つまり、奉納後の典礼と聖体拝領だけである。
長い歴史の中で失われた要素は取り戻せないわけではない。典礼刷新運動はそれに向けてかなり進歩してきたが、まだまだ課題はたくさん残っている。勝手な刷新は禁物であるが、特に注目されるのは奉納行列である。その本来の意味を明らかにし、会衆がもっと積極的に参加できる可能性は追求される。
 他方、歴史的発展は無視できない。特に、現代の会衆の平均サイズを考慮に入れれば、全員は直接に典礼的動作に参加できるために残された余地は少ないであろう。
 従って、エウカリスチアという儀礼は、行為を真似するということにつきるものではないという事実を認めなければならない。
 典礼における我々の行為は、代表者の行為につながることである。その代表者とは、すなわち司祭である。司祭は自分のためにではなく、共同体のためにある。司祭はその任務によって発せられる言葉と行為の効力によって、キリストに由来する出来事が実現される。その出来事に参加するように全員が呼ばれている。司祭は個人としてその呼びかけに答えるのも、自分のためではなく、自分のためにもであるが、全員に代わってである。全員が司祭と一致することによってその出来事につながることが可能になるし、それを通さなければならない。
どうすればよいだろうか。まず、行われる動作の意味を理解することからはじめよう。奉納のときに司祭が聖餐杯(カリス)からかぶり布を取り除くと、こう考える必要がある。すなわち、今、聖変化に使われる供え物が準備される。主キリストが弟子を遣わして、過ぎ越しの晩餐の準備をさせたことが、今ここで再現される。それにちなんで初期共同体はそれぞれの供え物、パン、ぶどう酒、オリーブ・オイルを捧げはじめた。それらを要約して、いわば図式的に、司式司祭の簡略した動作になった。司祭がホスチアの入れたパテナ[聖変化させるホスチアを置く皿のこと]を少し高く掲げて、食卓に置いておく。それから、侍者からぶどう酒の入ったアンプルを渡してもらって、カリスに注ぎ、少しの水を足す。ホスチアと同じように捧げようという意味で少し揚げて、コルポラーレ*に置く。
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日本語では「聖体布」と言う。古代世界では皿ではなく、このような白い布を敷いてその上でパンを置いたり食べたりしていた。 何故「コルポラーレ」という名前になったかというと、カトリックでは聖変化したパンはキリストの体だからである。(ラテン語で「コルプス・クリスティ」と言う。) 司祭はミサの時、この布を祭壇の上に広げてパンを置き、そして祈りによってそのパンをキリストの体に聖変化させる。
また同じように「プリフィカトリウム」という布がある。イエスさまの御血を飲んだ司祭が口を拭ったり、また飲み終わった後のカリスを清めたりする布である。
ミサの後、これらの布にはイエスさまの御体や御血がまだ残っている場合がありうる。司祭は細かく丹念にそれらを集めるが、完全には出来きないから。 そこで回収不可能な細かすぎる御体や御血に不用意な扱いをしない為に、これらの布は司祭の手によって3度洗われる事になっていた。 その後、洗浄に使った水は人が絶対踏まない場所(土の上)に流される事になっているそうである。
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 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25、40)福音のこうしたみことばにもとづいて、ミサのために捧げられる単純な供え物は、主の晩餐のために、そして兄弟姉妹のために必要なものを象徴していると考えるべきである。
 パンとぶどう酒のほかに、もう一つの供え物がある、すなわち献金。ここで献金を取り上げる事に関しては反感を買ってしまうかもしれない。なぜなら、献金の集め方はときどきみっともないからである。けれども、正しく理解すればいやがる必要ない。実際、信者の小さな寄付金は、古代では荘厳に祭壇のもとに置かれた個々人のもっと豊かな贈り物を象徴している。古代では、ある人は焼いたばかりのパン、ある人はぶどう酒の樽、別の人はオリーブ・オイルの入った器、つまり実生活と直接に関係する贈り物を携えて祭壇まで進むという習慣があった。その時代の奉納行列はもっと生き生きしたものだったろう。今日では、みっともないコインばかりになった。けれども、過去を懐かしむ必要はないし、ないものねだりしなくてもよろしい。今日では、お金が人間同士の取引の代表である。であるから、問題は献金のやり方である。ある人は財布をあけて、一枚のコインを取り出すことによって、平静を損ねてしまう。別の人は、出かける前に準備をしておいて、聖堂では同じような動作をするが、邪魔にはならない。彼は、どうでもよいおつりではなく、自分の経済状況の中でちょっとした犠牲となるような金額を考えて献金をするのである。このように考えると、その供え物は本当に神への怖れと隣人に対する愛を表すであろう。
 奉納行列に続いてSANCTUS(「聖なるかな」)があり、それはCANON(奉献文)を導入する。つまり、ここから初代教会でまさにACTIO(動作)と呼ばれた部分がはじまる。ここで、最大の注目が必要になってくる。そして聖変化が近づいて沈黙が深まると、救い主に御旨が成就されたと考えるべきである。救い主がおっしゃった、「これを私の記念としておこないなさい」と。彼の命令が遂行された。キリストは最後の晩餐の部屋と同じように来てくださる。キリストはその愛と贖いと共に我々の間にいてくださる。我々に対する愛としてこの地上にもたらされた秘儀はここにある。司式司祭はさまざまな動作を行うが、我々も司祭と共に、親密な一致のうちに、行動しなければならない。信仰の目線を祭壇に上げ、行われる秘儀と同化しなければならない。このようにすれば、ミサに立ち会うことはまさに参加であること、つまり我々の魂は主を受け入れるということを実感するだろう。
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第二ヴァティカン公会議は、「行動的参加」を呼びかけているが、それは原文では、"actuosa participatio"となっており、"activa participatio"とは異なる概念である。
教皇ベネディクト十六世著、『愛の秘跡』(52)より
「それゆえ、『参加』ということばは、祭儀の中での単なる外的活動を指すだけではないことをはっきりさせる必要があります。実際、公会議が求めた行動的な参加を、より本質的な意味で理解すべきです。そのために、わたしたちが祝う神秘と、その日常生活との関係とを、深く自覚することから出発しなければなりません。公会議の『典礼憲章』(14ー20,30以下、48以下)は、信者が感謝の祭儀に『無関係な、あるいは無言な傍観者として』参加するのではなく、『聖なる行為に、意識的に、敬虔に、また行動的に』参加するよう勧めます。」

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…Agnus Dei (アニュス・ディ「神の子羊」)。司祭は祈願を[司祭の私的聖体拝領の祈り]
唱え、聖体拝領をすませる。それから、ホスチアを会衆に示しながら、「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と宣言し、食卓に近づいた信者に御聖体を配る。ここで、キリストのことば「皆、これをとって食べなさい。」が実現される。
 ところが、ミサ聖祭の流れは行為ばかりではない。ときどき、動作という要素は、思い、省察、注視、意識的にここにいること(act of presence)、欲すること、愛すること、自分を捧げることの体験に場をゆずる。だからといって、その重要性は減るわけではない。霊的働き(行為)は手の動きや体の動きに劣ることはないのである。
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Actus Fidei (信徳唱):
Domine Deus, firma fide credo et confiteor omnia et singula quae sancta ecclesia Catholica proponit, quia tu, Deus, ea omnia revelasti, qui es aeterna veritas et sapientia quae nec fallere nec falli potest. In hac fide vivere et mori statuo. Amen.
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真理の源なる天主、*主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。

 Actus Spei(望徳唱):
Domine Deus, spero per gratiam tuam remissionem omnium peccatorum, et post hanc vitam aeternam felicitatem me esse consecuturum: quia tu promisisti, qui es infinite potens, fidelis, benignus, et misericors. In hac spe vivere et mori statuo. Amen.
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恵みの源なる天主、*主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、われに終わりなき命と、これを得べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。
Actus Caritatis (愛徳唱):
Domine Deus, amo te super omnia proximum meum propter te, quia tu es summum, infinitum, et perfectissimum bonum, omni dilectione dignum. In hac caritate vivere et mori statuo. Amen.
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愛の源なる天主、*主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、われ、心を尽くし力を尽くして、深く主を愛し奉る。また主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。
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司式司祭は動く、我々はそれに合わせて、それと一致して、眺めながら、見ながら、霊においてそれに従う。我々も、単なる傍観者ではなく、積極的に行動しなければならない。我々は、無関心、眠気、怠惰、自己中心的な思いという誘惑を乗り越えなければならない。言い換えれば、我々は生き生きとした形で典礼の交わりの中に入らなければならない。
 さて、繰り返しになるが、上記の参加の仕方はどうしても平静を求めます。もし、我々の魂がこの世の過ぎ去る心配事に捕らわれるなら、心が平和でなければ、目覚めていなければ、信者はあれこれの動作や言葉に気づかないかもしれない。あるいは、鈴の音によってミサの中心部分が近づいたということに気づかされるかもしれない。けれども、聖なる行為への本物の参加にどうしても欠かせない目覚めた心、生き生きとして心を持つことはできないだろう。平静なしには、典礼的行為は成り立たない。祈祷書(missalette)や典礼の解説書、聖歌などは、それ自体としては大変価値のあるものであるが、それらが豊かな実りをもたらすためには、どうしても基本的な前提である平静が守らなければならない。
 この平静と、そこから、そのいのちの根源として、流れ出る振る舞いを訓練する必要がある。唯一の真の祈り、真の典礼的行為は心の深みのみから出てくるという考察はよく聞かれる。それは違う。祈りと宗教的行為一般はいのちの営みであるが、いのち全体ではない。他に、重要なものとして奉仕と仕事はある。「神的奉仕」(Gottesdienst)という言い方はよく聞かれるが、その概念を分析してみよう。「奉仕」というのは必ずしも心から自発的に出てくる行為ではない。むしろ、それは適切な時に、従順のために営まれる行為である。また、奉仕は人間に対するものではなく、神に対するものとなると、それは外的な行為だけではなく、むしろ第一に内面的な行為であるから、その本質的な要素はそこから決まってくる。そこで、我々がしなければならないことは見えてくる。つまり、たえず神への真の奉仕を訓練することである。真の奉仕とは何かという認識を深めること。[人間の力で]欲することも、実践することもできないもの、つまり神への奉仕の生きた体験、いつか、我々にも与えられるだろう。神は我々と共におられるという意識は我々の魂を支配し、贖いの秘儀に導入され、本当に主の記念を生きるようになる。「主の記念」とは、人間の業ではなく、神の業である。それは、いけにえを捧げるときに永遠から再現される神による贖いであり、ミサ聖祭のときにそれは時間に入り、この世に入ってくるのである。神からのもであるという事実を意識するのは、ミサ聖祭の司式から与えられる恵みの中で最大のものである。しかし、それは神から与えられるときにも得られるのである。我々の役割は誠実に、熱心に奉仕することである。

7・聖なる場
 ミサ聖祭は聖堂、つまり聖なる場所で祝われる。特別な時に別な場所でもできる。会衆は聖堂で納まらない場合は、野外ミサがある。船上でもミサを捧げることがある。迫害の時、信者の自宅で捧げられる。儀式を挙げるやり方に関しては、公に荘厳であったり、感動的にこぢんまりしたものであったり、あるいは危険から隠れるかたちであったりする。いずれにしても、これらの場合は明らかに例外であることが分かる。ミサが営まれるのは、原則として聖別された教会聖堂である。
 次のような根強い反論を聞かされるのはまれではない(真剣な反論かどうかは疑問であるが)。曰く、神への奉仕はどこででもできるはず。容易に聖書を根拠にとって、神に祈る理想的な場は、「奥まった自分の部屋」(マタイ6,6)であると主張される。あるいは、善意の人にとっては大自然のほうが神のことを身近に感じると主張される。圧迫される建築物よりは、花一本を眺めるほうがずっと霊的に感じると。こうした主張に言い返せることはいろいろあるが、それよりここでこれらの主張にはどれほどのありふれた陳腐さ、または真剣さが含まれているかを問いかけてみたい。このように主張している本人は、自分の静かな部屋で本当に神様に語っているのであろうか。森の中で花を前にして実際に平静を目指しているだろうか。
 ところが、我々のテーマにとって、上記の反論の背景にあるとがめは重要なものである。つまり教会は個人の敬虔を疑う、そして大自然を悪と思っている。
 聖職者は命を伝えないこと、芸術的空間を確保し、そこに人間の本質とは関係ない活動、また大自然の根源性とは関係のない活動を行う背景にはこうした教会の姿勢があるとされる[ニーチェのキリスト教に対する反論を参照]。こうしたそっけない形での反論はまれではあるが、一般的に教会は後から作られた儀式で福音のメッセージを堕落させ、目に見える儀式を重んじて結局キリストを裏切ったではないかとよく攻められる。攻めたい人にとっては何でもよいが、真理の驚くべき自己弁明に、二つの反論は相互に矛盾しているのである。
教会がこの世を真剣に受け止めている。この世のすべてが神から創造され、神の力、神の霊の表現であると認識している。しかし、同時にこの世に否定的な力、人間を誘(いざな)おうとしている力もあるということを無視しない。こうして、すべてを神に帰させ、すべてを神の国の秩序に回復させようとしながらも、教会が社会の中で、世俗的使用からもっぱら神の礼拝に使われる空間を確保している。その空間において魂が、自然の産物でもない人間の業でもない、真の聖なる要素を見出すことができるようになる。
 ここで「聖なる」(sacred)ということばは、星空や森、あるいは人生の節目に現れるような神秘性ではなく、神の啓示によって示された聖なるものを指している。啓示によると「聖なる」(saint)であるのは神のみである。[SacredとSaintの違い]
「聖性」とは神の本質の特殊性を意味する。神は純粋で、創造性に富み、主である。神は悪を含まないのみならず、悪を憎み、悪を裁く方である。善そのものであり、善の充実であり、被造物の善性は神の善性の写しにすぎない。言葉で言い表せない神秘に生きており、被造物によって理解しえないが、人間のもっとも高貴でもっとも親密なあらゆる憧憬(しょうけい)の最終目的である。ここで語られる神の聖性は、詩人たちの想像力に沿ってではなく、預言者たちの教えに沿って語られている。
 どうしてある場所は聖なるmのでありうるのか。いかなる創造されたものは、それ自体として、その本性上、主の聖性を宿す権利をもつものではない。ある場所は聖なるものとなるのは、神自身がそれを聖なるものとされたときのみである。それは、神がそこに臨在するのを惜しまないとき、そこにご自分の住まいをおいてくださるときに起こることである。これが、我々の考える「聖なる場」である。
ところが、神は天においても、地においても、どこでも遍在するはずではないか。神はすべてを知り、すべてを支配し、その全能ですべてを存在させる。従って、神は特定場所にるのではなく、すべての場所は神のうちある。パウロの言うとおり、『我らは神の中に生き、動き、存在する』(使徒言行17、28)。神なしには、埃の一個の原子でさえ存在し続けることはできない。しかし、それにもかかわらず、神は我々のうちに実際に住まいをとることがありうる。旧約聖書全体は、神が人々を訪れ、導き、統治し、愛のためにその福祉を背負ってくださることを物語っている。神の臨在、神の我々の間に住まう最高のあり方、もっとも本質的なあり方は、キリストである。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1、10-11、14)
 イエスはおられる所はそこに神もまたおらえる。イエスは神殿に入られるとき、家を訪れるとき、道を渡られるとき、そこに神は特別な意味で真におられる。それは、神殿の前や別の家や違う道で同じ在り方でおられるとは言えないほどである。これは、幼稚で変な話に聞こえるかもしれない。霊的に言えば調子はずれに聞こえるかもしれないが、間違いなく真実だ。真実とはすなわち事実にもとづいた話である。現実の実体的な何かが現われ、誰かに見られ、表現されたたということを示している。ところで、真実にはいくつかの段階があり、これらの段階の間に比較的により高貴なもの、より高いものがある。天地の創造主なる神、愛の力で宇宙を支配される神の遍在というのはすばらしい真実である。しかし、我々にとっては、神はキリストにおいて我々の所に真に来られたと我々は信じている真理のほうが、啓示されらものとして、より高いより聖なる真理である。
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「信仰上の諸真理の序列」"The Hierarchy of Truths" (Hierarchia Veritatum)とは第二ヴァティカン公会議における重要な思想である(エキュメニズムに関する教令、11項参照)。公 会 議 は次のように発言している。 「カ ト リッ クの 信仰上 の 諸真理 は す べ て が 存在論 ・本質論的に 無差 別 で 同 じ重 要性 を もつ の で は な く、 そ こに は重 要 さ の 順 位が あ る」 とい う確認 で あ る。
信仰 上 の 諸 真 理 の 間 に は 内容 の 救 い の 経 綸 に おけ る重 要 さ の 違 い に 基 づ く存在論 的序列が あ る、とい うこ と の普遍 的教 導 職 に よ る教 会史 上 初 めて の 公 的確認で あ る。 

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こうやって、キリストがおられる所では、そこに神もまたおられ、その在り方全く特別なものであり、我々の理性はその在り方を神の遍在という概念とまさしく調停できないから、完全に理解できない。にもかかわらず、我々の霊はそれを崇高な愛の秘儀として深く体験できるのである。
 教会聖堂は厳密な意味で、「聖なる場」、「神の家」である理由はここにある。
 まず第一に準備的な意味で、司教がその権限で、教会聖堂という建築物を単なる被造物、人間社会における事柄、日常生活に使われる建物の数から解いて、それを神に捧げた(取っておいた、聖別した=聖なるものにした)からである。これで教会聖堂は、神の我々からの無限の距離、神の聖性、神の支配の象徴となった。
 さらに、厳密な意味で、教会聖堂は「聖なる場」と言われ、事実であるのは、そこで神的いけにえが祝われるからである。聖変化のときに神ご自身が降臨され、またとない形で臨在されるからである。人類を救う愛でもって、その贖いの秘儀でもって、神は典礼的共同体において特別な住処(すみか)をとり、そこから交わりの儀において魂の糧となる。この「神の通過」の始まり、経過、成就は教会聖堂で実現される。
 ミサ聖祭に与る準備としてこれらの省察はいつでも役に立つだろう。「ここは、最高の聖なる場である。ここに主が来られ、ここに住処をとり、我々を放蕩から救い上げ、ものぐさに勝ってくださる」と自分に言い聞かせる。
 
 8.敷居としての祭壇

聖なる場と一般世間を区別し、聖なる場における神の特別な現存と被造世界における偏在を区別してきた。それと同時に、ありふれた反論に答えた。神はどこでも遍在するので、自分の家でも、あるいは大自然の中でも、聖堂の中でと同じように、人間の魂は神の方へ高揚することができる、と。けれども、そうしたやり方で出会われる神は、本物でありうるが、それより容易に"にせもの"の神になる可能性は高い。また、大自然、森、花における神を繰り返し口にする人々に対して、彼らは啓示の全能の神の聖性ではなく、往々にして大自然に漂う曖昧な神聖、いのちの神秘性、その他多数の呼び名がつけられる思い込みを念頭においている疑いは拭い去れない。
 真の神はそうではない。神は人間に公開で明瞭なメッセージを伝えている。それは、全世界に向けられたイエス・キリストの生涯と教えであり、それを通して世界を目覚めさせ、真理を認めることと改心とを要求する。それがために、神の秘儀が祝われるのは、無分別にどこでも、あるいは広々とした大自然の中、あるいは個人の自宅でもなく、謹厳(きんげん)で制限のある教会聖堂である。従って、信仰者には絶え間ない生活のリズムが求められる。そのリズムとは、教会に行き、その敷居を越して、積極的に聖なる場と交わることである。これは、一般に考えられる以上、重要なことであり、本物の信仰を反映している。神の家に着いた人間は、聞いたり、語ったり、行動したり、奉仕を捧げる。そこからまた、広い世間に戻り、制限のある自分の住まいに戻るが、神の家で体験したことは、いつも彼と共にあり、戒めとなり、生きるための知恵と力になる。
 聖なる場には諸部分がある。いけにえを捧げる荘厳な動作は個人の気持ちや偶然にまかせることなく、綿密な秩序に沿って行われることは、典礼の本質に属するものである。こうして、主の記念も聖なる場ならどこでもいいというわけにはいかない。それは祭壇でなければならない。
 祭壇その物は一つの秘儀である。おそらく、何らかの形で祭壇をもたない宗教はないといえるぐらい、宗教の根源的な形態としての祭壇はほとんどの宗教に見出される。
 祭壇は旧約聖書に出てくる。そこで、綿密なしきたりによってその形や扱い方、祭壇の周りでどのように振舞えばいいのかが定まっている。新約聖書は、祭壇に関しては何も特別な記述はないが、黙示録に現れるしるしのように、そこにも出てくる。新約聖書が編纂されていた時期には、祭壇とは共同体が晩餐を祝うために使われた食卓であった。しかし、やがてこういう原始的な祭壇はなくなり、カタコンベにしか描かれなくなる。
 祭壇にはどのような意味があるだろうか。まず、二つの要素を見分けることができる、敷居(欄干[ランカン]*)と食卓。
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* 「橋や縁側のヘリに設けられた腰の高さほどの柵状の工作物。人の墜落を防ぎ、また装飾とする。おばしま。てすり。」(広辞苑)
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 「敷居」には、通過と限界という要素がある。「限界」とは何かが終わり、何かが始まるということを意味する。祭壇の敷居までは教会聖堂のいわゆる第一空間がある。敷居の彼方には残りの空間、内陣(sanctuary)がある。限界自体は聖なる場の第一空間の目標を記し、別の空間への通過を可能にする。
 祭壇はまず、敷居として区分の原理として、境界を生み出す。それは信者のための空間と最も聖なる場所、神の場との間の境界である。言い換えれば、人間がアクセスできる場とアクセスのできない場、聖なる者の場を区分する。祭壇のこうした側面は、得がたいもの、神のおられる場、神の隔離を思い起こさせる。神との距離を示すために、「神は敷居の彼方におられる」という言い方がある。
 しかし、これは文字通り、物理的に捉えるべきではない、霊的な意味で受け止めるべきである。この言い方は、神は理解し尽くし得ない方、近づきがたい方、彼のみが全能であり、我々はそれに及ばないということを表している。彼のみがいと高き方、いかなる造られたものをも遥かに超える存在である。創造主と造られたものの距離を測るにも尺度さえなく、その根拠は神の本性、その聖性であり、人間側からはその世界に触れていく道は一つもない。
 他方、専ら霊的に、いわゆる単なる概念として捉えるべきではない。典礼においてはすべてが象徴である。なお、象徴には、例えば、天秤を手にして目隠しをしている女性の肖像は「正義」を思い起こさせるように、感覚的な像の背景に非感覚的な現実を思い起こ以上のものがある。正義の女神の場合でも、正義そのものは見ることはできない。目隠しは、つまり裁判官はある人をえこひいきしないということ、天秤は各人に各人のものを配分すべき[配分律(功績や立場に応じて公平に配分をなすべきであるとの思想)]であると、我々はその意味を教えてもらう必要がある。正義の女神の像は寓喩(allegory)であり、意図される意味は見えないが、目隠しの背景に公平、天秤の背景に正しい裁きの表象を見るように慣れてきた。典礼にも寓喩がある。ところが、寓喩と違って、表象しているものを同時にもたらしている具現は象徴である。
 「象徴」において、その感覚的な表現によって意図させるものは、隠されているが、具現に垣間見ることのできるものである。例えば、人間の魂[心]は目に見えないが、顔の表情に表れる。
 さて、祭壇は寓喩ではなく、象徴である。祭壇は限界であることは、思慮深い信者は教わる必要はない。いと高き方は「敷居を越えて、敷居の彼方におられる」とは神との無限の距離を示すことは協定による因習ではなく、実際に目にそのように見受けられるだろう。
 平静の心、目覚めた心には直ちに象徴の背景に秘儀が感知され、すぐに畏敬の念にとられる。その時とその場は生き生きとしたものであれば、モーセが一人でホレブ山に登ったときの体験をいくらか追体験にまでいたるかもしれない。モーセが羊の群れの世話をしていたとき、「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」」(出3、1-5)
 人間にとっては、一度聖なる場から突き放されるという体験、神のみ前で落胆を体験することは、神のことを十分に理解するために、また神と人間との間に無限の距離があるということを理解するために、大変重要なことである。神の偉大さの認識、神の聖性に対する畏れなしには、神を頼りにすること、神の懐に逃れるという体験は貧弱で、うすっぺらなものに終わってしまう。従って、神の偉大さの体験を願うことはとてもよいことである。なお、そのお願いをするために、祭壇ほど適切な場所はないだろう。
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遊園地に設置されている遊具、ジェットコースターにのってスリルを体験し、元気になる若者のように、荘厳な作りでの祭壇や聖堂において、我々はただで神の偉大さを体験できる。これは最高のスリルである。
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 敷居は専ら限界を意味するものではない、そこに「通過」ということもある。敷居を通過して聖なる場の一つの空間から別の空間に渡るのである。祭壇の敷居に立って、祭壇から我々の所に降りてくる方を受け入れることができる。敷居は従って、一致をつくる要素であり、出会いと会合の地点である。
 祭壇についても同じことが言える。啓示の真髄は我々に対する神の愛である。神の愛とは、人間のうちにある愛を最大限に高めたものだけではない。従って、我々に啓示される必要があった。それは秘儀であり、従来聞いたことのないものである。神とと我々被造物の差異をしっかり認識して初めてそれを十分評価できる。神の愛の固有の現れ方は受肉の秘儀においてである。神は自分自身の個性の世界を離れて、我々の間に降りて、我々の一人となり、罪以外は我々の人間性とその惨めさを背負った。神は我々と共にあり、我々をかばってくださる。その愛は、我々は想像することもできなかった、人間との関係をつくるのである。
 神の愛が意図することは、祭壇に現れる。主が我々に向かっていると祭壇は物語るのである。主がその崇高な立場から我々の所まで下ってくる、隔離を超えて我々に近づいてくださると。祭壇は、我々の間、否、我々のうちにおける神の継続的な現存を証ししている。祭壇は、人間の立場から神の立場に通じる道がある、我々の罪の深さから神の高みに通じる道があると述べている。我々はその道をたどって行くことができる、もちろん我々の力によってではなく、いただく力によってできる、と。我々が登れるのは、ただ神が我々の方へ降りてきたからである。降りてきてくださったことは我々を引き上げてくれるのである。来られた方自体が、道であり、真理、いのちである。
 以上のことは同時に、神とのもっとも親密な関係を描く根源的なキリスト教的経験の一つである。その輪郭は通過[過ぎ越し]、降りる、そして登るということにまとめられる。ある地点を通過するような、そのような単なる通過ではない。それは、境界・限界を超える通過でなければならない。それぞれ別の空間(領域)があって、その間に扉がある。その扉は開けることもできるし、閉まることもある。通過は二つの特徴をもっている。一方、敷居を越えられるという信頼、他方、敷居を越えられるのは「自動措置的」に起こるものではないという恐れ。信頼は不謹慎に代わるやいなや、信頼から傲慢、習慣、恵みを受けられる過信[でしゃばり]といったプロセスをたどっていくと扉が閉まる。また、その状態を放っておいて、これでよしとするならば、扉がますます開けられなくなる。我々はこの「通過」はどういう意味を持っているのかを理解できる恵みを祈らなければならない。それは神の家族のメンバーの特権であるが、しかしそれはいつも「おそれとおののき」のうち使用すべき特権である。
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『おそれとおののき』は、1843年に出版されたキルケゴールの左手著作の第二番目である。この書物の題材となっているのは、旧約聖書の『創世記』第22章1-14節に出てくるアブラハムの物語である。神がアブラハムを試みられ、アブラハムがその試みに答えて信仰をもち続け、イサクを生贄にしようとして、思いもかけず息子を再び授かったという物語りである。
『おそれとおののき』の「結びの言葉」で「信仰は人間のうちにある最高の情熱である。おそらくどの世代にも、信仰にさえ到達しない人がたくさんいることであろう。・・・しかし、いまだ信仰にすら至らない者にも、人生は十分の課題を与えてくれる。そして、もし人がこの課題を誠実に愛するなら、最高のことを理解し把握した人たち(真のキリスト者たち)の生涯もまた無駄ではなかったことになるであろう」と述べる。
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 ここで主題となっている敷居は、実はどこにでもある。それは、端的に神は創造主であり、人間は被造物であるという現実から出てくる。人間が罪人であるという事実から、こういう現実はさらに強調される。人間が神の聖性に耐えられないが、神が愛のために贖ってくださり、神に戻る道を作ってくださった。こうして、神との間に隔たりをつくる聖なる防壁がどこでも立ちはだかっている。しかし、同時にどこででも通過の可能性は開かれている。
 我々は「祈り」と呼んでいるものは、突き詰めて考えれば、こうした秘儀の実現にほかならない。神に呼びかけるたびに、我々は敷居に近づき、それを超えようとしているのである。それはまさに、教会聖堂で、祭壇で提供されることである。その表現力は一番深く感じられるのはミサ聖祭が捧げられるときであり、特にキリストの死の奉献において最高に明白になる。キリストの死と贖いは、神の子の受肉を前提にしている。その受肉とは、敷居、障壁であり、そこに神はどういう方であるか、人類にとって罪とはどのようなことなのかが明らかになる。しかし、受肉は同時に通過でもある。なぜなら神が人間になったのは、人間が「神の本性にあずからせていただくようになるためで」(1ペトロ1,4)あった。
 こうして、祭壇は真に最高の「聖なる場」であると言える根拠は明らかになった。

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳) ③

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私訳)
Romano Guardini, Besinnung von der Feier der heiligen Messe, 1939. (english tr.: Preparing Yourself for Mass, Sophia Inst. Press, 1993)
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目次
第一部:聖なる姿勢
1.静寂 (Stillness, Stille)
2.静と言 (Silence and the Word)
3.沈黙と聴くこと
4.平静 (Composure)
5.平静と行為 
6.平静と参加
7・聖なる場
8.敷居としての祭壇
9.食卓としての祭壇
10.聖なる日
11.聖なる日と聖なる時
12.聖なる行為
13.啓示する言葉
14.遂行する言葉
15.賛美の言葉
16.祈願の言葉
17.会衆と正された不正
18.会衆と教会
19.障害となる習癖
20.障害となる感情
21.障害となる人間性
第二部: ミサ聖祭の本質
序文
22.制定としてのミサ
23.記念としてのミサ
24.新約の記念
25.現実
26.時間と永遠
27.典礼的形態の模倣
28.自己自身を捧げるキリスト
29.会合と祭り
30.真理とユーカリスト
31.ミサと新約
31.ミサとキリストの再臨
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9.食卓としての祭壇

  祭壇は神との一致への敷居である。キリストにおいて主なる神は近づきがたい方、知られざる方でなくなった。その方は我々に向かって語った、我々の方に来られた、我々の一人となった。それは、我々が神に立ち返り、再び神のものであるために。祭壇は、主が我々の世界に渡ってくる、そして我々は主の世界に渡っていく境界線を印している。
  この時点で、神のことを語るために使用される隠喩[類比]について一考察しておこう。隠喩は、秘儀の豊かな倉庫のロックを解除し、神的現実のいくつかの側面に集中させ、我々の理解力を助ける。こうして、祭壇を敷居という隠喩で捉える場合、一側面を注目し、他の側面、例えば食卓、を脇においておく。隠喩はどうしてもこの世の経験からとられる。しかし、個室と別の個室は区切られているように、我々はそれほどに神の世界とその命から切り離されていないので、神の現実を表すために隠喩の不十分さにあまり重点をおくべきではない。もし、そこに重点を置くならば、我々は重要な宝、本質を見失うだろう。隠喩は、子供向け、あるいは大衆むけの単なる方便ではない。インテリが隠喩を嫌って、その内容を純粋な概念で捉えるということになっていない。アブラハムの孫息子ヤコブがその偉大なる夢から目覚めたとき、恐れおののいてこう言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(創世記28、17)ヨハネは黙示録にこう書いている。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」(黙示録4、1)
  さて、ここで言われる「門」とは「単なる隠喩」であり、それは神が目に見えないにも関わらず近くにおられる、という意味であろう。また、人間は神に近づくことはできないが、神から近づいていただくことができる、という意味であろうというならば、それは間違っていないがあまりにも陳腐な考えである。使徒ヨハネは「門」というならば、それは「門」であるはず、単なる文彩(ぶんさい)ではない。理性は努力して聖書思想の内容を概念や言表で表そうとするのは間違ったことではないが、所詮その努力は思想の内容に表現を与えるための補助的なものにすぎない。従って、逆から考えるべきである。大事なのは隠喩であって、概念はその深みを探ろうとしているにすぎない。隠喩は概念よりも豊かな内容をもっている。そして、隠喩を把握しようとする行為は、つまりそのイメージを見ることは思考よりも、生きたものであり、豊かで意味深くて心に浸透する。この事柄に関して、現代人は、言い方が許されるならば、概念的過ぎる。我々はイメージを見、物語を聞き、シンボルを操る能力を失ったしまった。けれども、その能力を回復させることができる、それは観想する訓練によって、長らく疎(おろそ)かにされた能力を呼び覚ますことによってできるのである。
  隠喩、イメージ、シンボルに関する考察でちょっと横道にそれたが、本題に戻って、祭壇は「敷居」に尽きるものではなく、「食卓」でもあるということを見てみよう。
 人間だけではなく、神(々)もそこに座る聖なる食卓というイメージはどの民族の宗教にも見られる。予感のようなものであろう。どのような宗教でも敬虔な信者は何らかの祭壇に供え物を捧げる場面が見られる。供え物を神に快く受け入れてもらいたい。その意味で、その捧げ物は人間のものでなくなり、神のものとなる、という発想であろう。そのために、その捧げ物は消耗されたり、あるいは少なくとも人間によって使用されないようにされたりする。生け贄の遺体は焼かれ、血が出されたりするのは、それは死の過ぎ越し、彼方への通過、神的空間への通過を象徴するためであろう。
 さらに、よくある例として、生け贄の一部分が脇においておかれること、もっと正確に言えば「戻される」(消耗される部分は全体を象徴するから)ことである。それは捧げる人々によって味わわれ、神と人間は同一の食卓に参し、同一の食べ物を味わうことを表している。その上、捧げる人は、捧げられる物で自分自身を表し、自分自身を捧げることを志向している。同時に、その同じ捧げ物は、本当の食物は神的いのちであるから、神を象徴する。
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訳注: お供えと御下がり、神仏の供物の取り下げられたもの。神仏に供えた飲食物(神の場合は神饌)などを下げたもの(同、撤饌)。神饌(しんせん)とは、日本の神社や神棚に供える供物のこと。御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも呼ばれる。(広辞苑)
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我々は、このような儀式にはそれなりの深い意味がある。けれども、さらに深くその意味を見抜こうとすれば、それらは往々にして陳腐で、因習的なもの、自然崇拝的なものに堕落しがちであることを見るだろう。こうなると、神は人間の生活の産物となり、一定の部族、民族の性格を持つようになる。ところが、人間にとって神は自分のいのち、自分の部族、民族の命の根拠であり、要するに神は人間を必要とし、人間は神を必要としている。捧げ物、生け贄はこうした人間と神の一致をいつも新たにする役割を受け持っている。
 ところが、旧約聖書はこうした表象、象徴とは無縁である。旧約の場合、祭壇に捧げ物を捧げるとき、神は民族の命の秘密、世界のいのちの秘密ではなく、すべての創造主である。この主に捧げ物を捧げることは、すべてが彼のものであるということを告白し、神の思し召しに沿ってのみ人間はすべてを使用できると認めてもらうためである。生け贄が祭壇の前で捧げられるのは、あたかも神が血を必要としているからではなく、すべてのいのちが彼のものであるということを意味している。同じように、初穂が祭壇に捧げられるのは、「自らの内に種子」を持つものは、つまり新たないのちを生み出せるものはすべて神のものであることを表している。動物の生け贄と果物の初穂によって奉献の表象が成し遂げられる。そこから、奉献がなされた祭壇から人間が家畜をいただき、生活に使用される土地の産物をいただくのである。
 祭壇とは、天の父なる神が我々を招いておられる食卓である。贖いの業によって我々は神の子供となり、その家に入ることができる。祭壇においては、我々はその聖なる食卓を共にする。そこで、神の手は我々に「天のパン」を与える。天のパンとは、つまり真理のみことばと、すべての想像を超える賜物、人間となったひとり子、生けるキリスト(ヨハネ6)である。我々に与えられるのは、同時に身体的現実と認識できる真理である。要するに、いのちと人格、賜物によってしか受けられないもの。
  聖なる食卓で神もまた何かをもらっているか、と問うならば、これは容易に答えられる質問ではない。昔からの予感、同じ食卓での神との交わりはキリスト教において成就を迎えたといえるだろうか。言い過ぎ[冒涜]を恐れて慎重に考えるべきであろう。けれども、ここでパウロの書簡とヨハネ福音書に頻繁に出てくる秘儀に目を向けるのは有意義であろう。神の地上の降臨の結果は救いである。なお、救いとは、赦しと贖いだけ意味するのではなく、世界が父なる神のもとに「[実家に] 帰らせていただいた」ことでもある。それはまた、人間が再び従順と愛のうち神に帰ったことだけではなく、人間が神的いのちに受け入れられた、そして人間を代表として世界全体は神のいのちに受け入れられたことをも意味している。これは神の計画であり、その計画のうちに成就される。神が我々を愛しておられると言われるときは、それは神が我々に対して善意を持っているということだけを意味するのではなく、愛ということばをその完全な意味で受け止めるべきである。つまり、神が人間を慕うのであり、御自分が造った者を必要としておられ、そばにおきたいのである。キリストが「渇く」(ヨハネ29、28)と叫んだときに、それは物理的な渇きだけ意味しているのではない。ヤコブの井戸があったところのエピソードのように、弟子たちが準備していた食事を勧めると、イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4、34)その飢え、その渇きは不可思議なものであり、神の飢えと渇きであると言える。アウグスティヌスが言ったように、エウカリスチアをいただくことは、それは神のいのちをいただくというより、いのちの神が我々をそのうちに引き寄せることである。ところが、これについて慎ましく語るべきである。なぜなら、これは慎ましい聖なる秘儀だからである。けれども、神と人間の間に愛と交わりの秘儀があるという事実、そしてその秘儀は祭壇において実現されるということを思い起こすのは有意義なことである。

10.聖なる日

世界という空間に聖なる場が現れたのは、神の子が地上に現れたとき、ナザレで受胎され、ベツレヘムで生まれたときである。また、パレスチナの町々で人々と語るときである。そのとき、神の子は「ここにある」とか「そこに行かれる」というふうに、非常に具体的に言えたほどである。さて、聖なる場があるように、それに相当する聖なる時があるのだろうか。
 人間にできることとしては、いかなる行為、いかなる出来事、いかなる荘厳な儀式も、神の前で聖なるもの、聖なる日、聖なる時となるほどに高められうることはなにもない。これは成し遂げられるのは神のみであり、神は時間の制限に入るのを惜しまないときである。
 私は「時間の中に」いる。つまり、私は一定の時間の流れのうちに生き、成長し、行為し、自分自身を実現させるのである。我々はこう考えるのである。さて、神についてもそれに似たようなことがあるだろうか。まず、「否」と答えるべきである。実際、神はすごく長く生きるというのではなく、永遠に生きると言われる。それはすなわち、神のいのちは時間とは無関係であるということを意味している。神には何も加わることもなければ、減ることもない。神について、成長しているということも、変化したということも、つまり時間と関係する諸概念はあてはまらない。神は無限に単純ないのちを完全に完璧に永遠の現在に生きておられる。時間そのものが、存在するあらゆる物事のと同様に、神の手から出てきたものである。もっと正確に言えば、神は世界を創造し、それは時間において存在する。こうして神は時間をも満たし、時間のうちに存在する。ところが、神がすべての時間、長い時間、短い時間、一日、一時間、一分のうちにおられる。我々の感覚から漏れ、物理学者の実験でしか計れない時間の原子も神のものである。同様に一世紀も、一千年も、すなわち我々は直接に経験できない時間、天文学的な時間も神のものである。時間全体は神のものであるから、時間のどんな一部分も、それとして他の部分より聖なるものであるとはいえない。一定の時間は聖なるものとなるのは、神の偏在的聖性は人間に、いわば触れるかどうかにかかっている。人間に触れる神が、こうやって歴史において記憶という痕跡を残すのである。
 ところが、こういう話は直接に我々のテーマには入らない。神が人間に触れるという「聖なる時」とはいつでもありうる。自然現象から、家族の人間関係、歴史の諸出来事までたくさんの例がある。ところが、典礼においては「聖なる時間」と言われる場合は、それは正確に決定されたものであり、聖なる場というときと類似的関係にある。それは、啓示によってのみ知られうる。例えば、一週間の七日のうちに一日は聖なる日であるというときがそうである。一日が主のために聖別されるわけは、それは主御自身が創造の業を終えて、七日目に安息なさったからである。
 
 「安息」という言葉は正しく理解しなければならない。これは、神秘に満ちた言葉であるが、はっきりと限定した意味をもっている。創世記の言述によれば、創造の業は一週間の間に行われた。神は六日間働かれ、七日目には休まれた。こういう言述は、自然科学で調べられる惑星や動植物の起源とは関係ない話である。聖書において「週間(七日間)」とは、日常的な意味での時間の尺度とは異なる。それにはむしろ二つの意味がある。まず第一に、我々は理解できる時間という範疇でもって、宇宙の起源を司(つかさど)った最も知恵深い秩序を象徴することである。さらに、宇宙の起源そのものから神が、七日のうち仕事に六日間、そして七日目は創造の業が完成され安息に入られたから、ご自分のためにとっておかれたというように、週間を分けられたということを強調することである。
 従って、人間が休む習慣があるから聖なる日になるというのではなくて、七日目は聖なる日であるからやすまなければならないと言った方が正しい。主日(dies domini)が聖なる日であるのは、生活のリズムから湧き出るものではない。あたかも、人間が六日の間義務に縛られ、この世的な目標におわれ、そして七日目に自由になり、その自由から主日の聖性が成立するかのようなものではない。
 仕事と休みは交互に成り立つということにおいて心が密かに宗教的ともいうべき平安を味わうことは否定できないが、信仰と典礼の場合はそれとは異なる意味がある。主日の聖性は、人間の心が主日に巡り合うたびに繰り返し体験できる秩序から出てくるのではなく、主なる神が七日に何かをなさったということから成り立つ。つまり、神が安息なさった、もっと正確に言えば、神と創造の業の間に、「神の安息」ということで、秘儀的関係があるという事実に基づくのである。
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付録

「いったい神さまは何のために休まれたか。神さまは六日間天地創造のために働いて、大変お疲れになったので七日目に休まれた。そういうことは、まず考えられません。なぜなら、神さまの力は無限ですから、六日ぐらい働いても、疲れて休むというようなことはない筈です。ですから、『創世記』に書いてあるように、神さまが六日間働いて七日目にお休みになったのは、疲れたから休まれたわけでは絶対にありません。それでは、遊ぶためでしょうか。神さまは六日間、義務的な労働として世界を創ったけれども、それがやっと終ったので、あとはゆっくりと骨休みをして遊び給う。そんなこともありえない。(...)神さまは、働らいては休み、休んでは働らくのではなくて、働らいたのは六日間だけです。その後は、七日目というのが、いわば永遠に続いている、永遠にお休みになっている、そのようにも考えられるのです。しかし、現実にわれわれ被造物の立場からいいますと、依然として世界は、絶えざる神の創造のもとに在ると考えられます。そうすると、六日の創造というものは、われわれにとっては実はまだ終っていない、いつになったら終るかしらないが、少なくともわれわれ被造物にとっては、神の創造は終っていない。或る意味で神さまはもう創造をやめておられる、休んでおられる、と、こうも考えられるのではないかと思うのです。アウグスティヌスは、神はいつも働らき、いつも休んでいるといっていますが、それは多分そういう意味ではないかと思います。つまり、われわれにとっては、神さまはたえず働らいておられる。この世界が存在するかぎり、神はたえずこの世界をささえておられる。それはたえずこの世界を創造しておられることです。しかしその絶えざる創造の働らきそのものが、神の一つの大きな憩いにおいて在ると、何かそういうことを、神は七日目にお休みになったという旧約聖書の記事は意味しているのではないでしょうか。ですから、こうも考えられます。神はわれわれのこの被造的世界に対してたえず働らいている。しかしその働らきを通してわれわれは、神の存在を知り、また幾分か神さまについて知ることができますが、その働らきの背後といいますか、その働らきを支えている何か底知れない神の沈黙の世界というようなものが在るのではないか。たえず働らきながら、その働らきを起こしている奥といいますか、勿論、奥といっても空間的な意味での奥ではありませんが、そういう働らきを支えている計り知れない神の憩いの世界、憩うている神が在るのではないか、そのような感じがするのです。」(山田晶、『アウグスティヌス講話』、新地書房)
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 ところが、創造主に関して「安息」という概念を使って叙述することにはどのような意味があるのか。これは、簡単に適切に答えられる質問ではないが、信仰でもって深く考えると、神の安息ということにいくらか深いものを感じることができる。神は、[スコラ]哲学の専門用語で言われる、単なる「純粋な現実態(actus purus)」だけではなくて、働くものでもあり、従って働く人間について叙述される事柄は、神についても叙述できる。神は決意し、行為し、形成し、秩序付け、そして業は完成した段階で「御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2、2)。六日間は神の働きという秘儀にみちているように、七日目は神の安息という秘儀でいっぱいになっている。言ってみれば、週間(七日間)全体は秘儀である。言い換えると、時間全体が一つの秘儀である。それは、時間そのものから、あるいは人間の生活からそうなるのではなく、神の働きからそうなるのである。そうであるから、時間という秘儀を理解するために地上的なものではなく、啓示がなければならない。
 主日(日曜日)は秘跡のようなものである。秘跡においては二つの行為が互いに結ばれている。一つの「自然的」行為(例えば、洗礼の場合水で洗うこと)と「超自然的」行為(恩寵の働き)。人間が動くときに、意志決定に応じた身体の動きがあり、この二つの結合から例えば歩くという行為が生まれるように、自然的行為がなされる間に恩寵が働くというようなことである。
 月曜日から土曜日まで気を張って来た(tension)とそれに続く日曜日の膨張(distension)とが自然の構造をなし、その中に神が、それを伝えるために、ご自分の安息の秘儀を組み込んだのである。主日のおきてを守ることは、創造の業の後の神の安息の秘儀を吸収し、尊敬し、一日の過ごし方においてそれを証しすることを意味するのである。
 これは大変美しい考えであるが、それだけに実行しがたいものである。これについて話する場合、夢をすてて現実に沿って話ししなければならない。これもまた、難しいことである。なぜなら、主日は生活の自然なリズムから流れ出るものではないからである。自然的なものは、否応なしに、流れ出る道を見つけるだろう。
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* 「渠成水到」(禅語)、渠(キョ)成レバ水イタル、みぞが出来上がれば自ずから水がそこへ流れてくる。
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ところが、主日というのは啓示に根っ子をおろしており、自然的ないのちにも必要なものを含むが、冒涜しやすいものである。仕事や世間の心配事等々、たえず日曜日(主日)の地平線に上り、聖なる日を忘れさせる。仕事のために安息からそれることがある。安息の代わりに娯楽に夢中になり、安息日の聖性に背き、おきてを守っていてもその真の意味をつかんでいない。義務だから休むこともあり、その退屈しのぎは、安息日で仕事するよりも耐え難い。各自が安息日(主日)を前にして、自分の生活パターンの中でこの日をどう過ごすべきかを考えなければならない。これは各個人にとって大事な問題であるが、特に家庭にとって重要である。この日のことを理解し、その高い価値を認めた上で、重要なことに関して普段しているように、行動を決めなければならない。
 最後に、典礼で言う一日と太陽の運行に基づいて定義される一日とは同一ではない。普段では一日は0時から始まるが、典礼では前の日の夕方から始まり、「聖日前夜」というものがある。ここに深い意味がある。天文学的な一日とは違って、典礼の場合はいのちのサイクルの一日である。前者は、何があっても決まった瞬間に始まり、正確に計算できるものであるが、後者はいのち(生活)の新鮮で新たな局面を反映している。この後者はいつから始まるかと問うならば、それは睡眠は一番深いとき、いのちが沈黙の頂点に達するとき、と答えられるかもしれない。その場合は、睡眠の始まり、経過、終わりは秩序のあるものでなければならないのは大前提であるが。典礼日はこのことから構成され、夜から次の夜まで続く。ところが、熟睡は真夜中にあたるだろう。眠りというのは自分で得られるものではなく、自分におしかかるものである。
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眠りにおちいるための三つの条件。 1.良心にやましさがない。2.創造主に信頼がある。3.日ごとに満足がある。
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従って、始まりは睡眠におちいる前におかなければならないだろう。夕方以降の時間の過ごし方は睡眠にどれだけ影響しているかを知らない人はいないだろう。主日が提供する問題は前日(土曜日)の夕方から始まる。各自が実り豊かな過ごし方を選ばなければならない。
11.聖なる日と聖なる時