ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私訳)
Romano Guardini, Besinnung von der Feier der heiligen Messe, 1939. (english tr.: Preparing Yourself for Mass, Sophia Inst. Press, 1993)
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目次
第一部:聖なる姿勢
1.静寂 (Stillness, Stille)
2.静と言 (Silence and the Word)
3.沈黙と聴くこと
4.平静 (Composure)
5.平静と行為
6.平静と参加
7・聖なる場
8.敷居としての祭壇
9.食卓としての祭壇
10.聖なる日
11.聖なる日と聖なる時
12.聖なる行為
13.啓示する言葉
14.遂行する言葉
15.賛美の言葉
16.祈願の言葉
17.会衆と正された不正
18.会衆と教会
19.障害となる習癖
20.障害となる感情
21.障害となる人間性
第二部: ミサ聖祭の本質
序文
22.制定としてのミサ
23.記念としてのミサ
24.新約の記念
25.現実
26.時間と永遠
27.典礼的形態の模倣
28.自己自身を捧げるキリスト
29.会合と祭り
30.真理とユーカリスト
31.ミサと新約
31.ミサとキリストの再臨
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5.平静と行為
正しい話し方と聞き方は沈黙から生まれると同様に、正しい振る舞いと良き行為は平静からのみ生まれる。行為は外に現れる演技のものである。無数のレベル、いのちと同じように無数のレベルを持っている。電気をつけるというように、ただ単に外に向けた機能がある。スイッチなどはちゃんとしていれば、問題なく明りがつく。しかし、課せられた仕事、時に大事な仕事をしなければならないとなると、その場合集中しなければミスをおかしてしまうかもしれない。
奉仕するとき、友達と付き合うとき、愛するときのような人間関係においては、人間とその行為という領域全体には、行為の人間らしさは、どの程度内面から関わっているということにかかっている。日常言語にはそれを示す表現がある。彼は仕事に「夢中になっている」、または「心をこめて」やっている。心をこめなくても一人で色々のことができる。何かをするときに、ある程度の心理的活動によって体を動かすが、心が別のところにあっても、できることはたくさんある。課せられた仕事は高貴であればあるほど、難しければ難しいほど、重要であればあるほど、それを成し遂げるために、それだけ自分自身の注意力、本気、熱望、そして愛を込めなければならない。精神をフルに使用して心から取り組んでいかなければならない。それは平静である。心と精神は今、ここに集中している。空想を追いかけることなく、自分のすべてが今ここにいる。
同じことをすべての行為について言えるが、特に、本書のテーマである、神の御前で行われる礼拝についてあてはまる。典礼は、教会聖堂における神の現存に基づいている。そして、その現存に対する人間の答えから始まる。この点は、典礼と個人的祈りの分かれるところである。個人の祈りは、どこでも、自宅でも、街でも、畑でもできる。典礼とは、何よりもまず、聖なる場所での奉仕を意味し、そしてこれは決定的なことである。これは偉大なしんぴである、神は一定の場所に現存する。我々は神の御前にあることを覚え、それに答えなければならない。これについてイタリア語には美しい表現がある。"Fare atto di presenza"(「ここにいる行為を行う」)。そこからすべてが始まる。身体、精神、魂、注意力、敬う心、愛でもってここにいる、という意識が不可欠である。それは平静である。平静をもった人だけが自らの内に神の現存を持ち、神の御前に出て、敬愛でもって神の溢れる恵みに答えることができる。
平静は目に見える正しい振舞い方を可能にする。教会聖堂における人々の振る舞いはしばしばたるんでいる。これは言いすぎだと思われるかもしれない(変な解釈してほしくないのだが)が、大変重要な問題なので、注目をしていただきたい。教会に通う人々の多くは、この問題に関して充分な理解をもっていない。教会にいることは、ほかの場所にいるのと同じように捉える人がいる。
人間が「ここにいる」という時は、それは聖堂の外にではなく、聖堂の中にいるということだけを示すのではない。その人の身体はその人そのものである。どこかに居るということは生きた行為である。誰かが居間に入ってきて座る。すでにいた人たちはもう一つの椅子は使われたということにかすかに気づく。もう一人の人がやってきた。その人の「ここに居る」ことは、何も言わずに何もしなくても、一種の力である。「ここに居る」の静かな力(存在感)を全面的に打ち出す絵画がある。たとえば、中世の絵画で、数人の聖人たちがとなりに座って会話をしているようなものがある。描かれた人物たちは何もしない、互いに言葉を交わしたりジェスチャーをしたりすることは見受けられないが、それでもなんといのちにみちた、親密な存在感を打ち出していることか。「ここに居る」というのは、座ったり跪いたりして、自分の席にいるということだけではない。それは内面的な行為であり、振舞い全体に影響をおよぼすのである。
上記のことは、様々な動きや振る舞いについても言える。多くの人は聖堂に入るときに、慌てて片ひざをついてさっさと自分の席につく、ということほど見づらいことはあろうか。それは公園のベンチ、あるいは映画館の席に座り込むのと同じではないか。この人たちは今どこにいるのかを恐らく知らないだろう。実際、この人たちはミサ聖祭が終わった後、例えば偉い人の家を訪れるとしたら、直ちに違う振舞い方をする。
聖堂において座るということに関しては、それは居心地のいい姿勢をとること以上の意味をもっている。それは目覚めている平静を表している。同じことは跪く姿勢についても言える。それは銃を構えるハンターの姿勢とは違う。神の前で、立っている(立身)ことを捧げるということを表している。同様に、聖堂において立つことも、道端で立ち尽くすこと、あるいは出発するのを待つこと以上の意味をもっている。それは天主の前での畏敬の念を表している。
以上のようなことは、納得の行く形でできるのは、注意して取り掛かるときのみである。それはしかし、平静を前提にしている。
眺めると見るという、一見して単純で、もっとも自然な行為も、実は注意を必要としている。礼拝において眺めるという動作の重要性を少し詳しくみてみよう。それは、種を見分ける鳥や危険な敵をじろじろ見る獣の態度とは異なる。人間の場合は、自分の前にある物事、それらの特殊性を把握する行為である。見るとは、参加への第一歩である。劇場においては、舞台裏から観客席の方へ、あるいは観客席から舞台裏の方へ見られないで覗き込むことがある。こうして人の顔を見ようとするときにばれると、顔を隠したくなるほど感動することがある。人間の視線は人間全体を表しているからである。信仰の目で祭壇を見ると、それは今ミサはどの時点にきているのかただ単に確認するということとは全く異なる意味を持つ。それは、すでに参加につながる。これに関して、一回聖土曜日、モンレアーレ大聖堂[訳注:イタリア、シシリ島にある町。ビザンチン風モザイクの著名なキリスト像がある]を訪れたときを思い出す。そこで会衆の徹夜際の典礼への参加の仕方は印象的であった。徹夜際はすでに五時間を過ぎて私は帰らなければならなかった。ところが、会衆は何の書物もなく、ロザリオを唱えていたわけでもなく、ただ単に眺めていた。しかし、その眺め方には人格全体がこもっていた。嘆かわしいことに、この眺め方は現代社会においては失われたのである。原因はさまざまである。読書の習慣、都会の様々な風景、広告、映画などなど。キリスト教的伝統のうちに育った素朴な人間は持っていた平静は果ての挙句消えた。祭壇へ向けた視線の深さは、その人の平静の深さに比例するのである。
また、典礼における数々の身振りを取り上げてみよう。たとえば、もっとも単純で、しかももっとも聖なるもの、十字架のしるしをみてみよう。そのやり方にがっかりすることがある。散漫で、手をひきずるようなやり方からして、本人にとってはそれは明らかに全く関心のない人に対する軽率な挨拶のようである。キリストの死のシンボルを我々の体で描くこと、贖いの印と親しむこと、主を仰ぎその守護を求めることとは程遠いものである。
聖体拝領のやり方はどうであろうか。未信者が主の食卓に近づく信者を見た場合どう思うだろうか。恐らく、二つの特徴が目につくだろう。不自然で課せられた義務という態度。他方、何をやっているのかを全く分からない、まるで列に並んでただ単に先に進むだけ、というようことを暴露する不注意な態度。
取り上げるべきことがら他にもたくさんあるが、ここで問題に気づいてもらうためにいくつの例をあげたにすぎない。教会に行くのは、礼拝に立ち会うためではなく、それは往々にして積極的に参加せずに受身的に眺めることに終始する。教会に行く理由は、それは司祭の奉仕に合わせて、我々自身が神に奉仕するためである。そうすると、教会でのすべての振る舞いが、入場から、そこに居ること、跪くこと、座ること、立つこと、御聖体を受けることまで、神への奉仕となる。
典礼的行為は、これといった目標はないので(人間の行為には目標があれば注意しやすいのだが)、それだけに平静が必要になってくる。机の前に座って書物を手に取れば、自分でその行為の本質に達することができる。職場で仕事をするときに、失敗しないために自然に集中する。いかなることでも、自分の注意力を縛る目標がある。ところが、礼拝においては目標はない、人間はただ単に仮眠お前に身をおく、神のために時間をとるのである。典礼とは際立って、目標のないものである。しかし、その代わりに神への奉仕という精神に満たされている。典礼において神の崇高性が神秘的に働いている。典礼においては人間のすべてが集中する。そのように心がけ、実践しなければならない。そうでなければ、典礼のすべてが不活性、あいまい、なまけたものになり、神の偉大さを侮辱するのである。
6.平静と参加
ここまでは主に典礼における言葉に注目してきた。けれども、ミサ聖祭は言葉だけでも、主として言葉によって成り立つわけでもない。典礼においては言葉が主な役割を担う場合がある。それは、聖務日課の晩課[晩の祈り]や修道士たち[二つのコーラスが交互に詩編を歌うこと]の祈り一般である。ミサ聖祭はむしろ基本的に動作である。主キリストがミサを制定した時の言葉は、「これを私の記念として言いなさい」でも、「成し遂げられたことを瞑想し、告知し、賛美しなさい」でもない。「行いなさい」である。
確かに、ミサ聖祭の前半、あわれみを求める祈り[1967年以前の式次第では、祭壇に上がるまえに唱えられていた]から信仰宣言までは、言葉を中心とする形態をとっている。また、同じ形態は聖体拝領の後から最後まで見られる。しかし、中心部分は動作によって成り立つ。司祭は奉献の準備をし、聖変化の秘儀を行い、御聖体を配り、参加者はそれを受ける動作を行う。信者の役割は、ミサ聖祭の下り文を瞑想することにつきるわけではない。むしろ、いけにえを捧げるという動作に積極的に参加すべきである。しかし、それはここまで取り上げてきた、内面的な平静を前提としている。
現代教会において、厳密な意味でミサ聖祭に参加することについて論じるのは簡単なことではない。なぜなら、それは晩餐の記念の歴史的発展とつながっているからである。最後の晩餐の部屋(Cenaculum) に集まっていた使徒たちのミサの形態は長続きはできなかったことは明らかである。なぜなら、それは小人数を前提にしているからである。これについて、使徒言行録において証しが出ている。 「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(2、46-47)
この箇所から伺えるように、全員が直接に聖なる動作に参加している。皆、同じ食卓に座り、晩餐を取っているのである。
似た場面は第一コリントの手紙にも描かれている。「わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(10、15-17)
さらに、「 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会[集会]で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。」(11、17-34)
それ以来、共同体が発展し、人数が増えるにつれて、「聖なる集い」*のための新たな方針が必要になってくる。
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*[ミサの伝統的な呼び名。「(聖なる)集い」: ギリシア語の原語は、Synaxis、そのラテン語訳は synaxis、または collecta。ギリシア語動詞シュナゲイン(「行動を共にする」、「集まる」)の派生語のひとつ。この同じ動詞から派生語でシュナゴゲと言えば、ユダヤ教の会堂のことであり、シュナクシスと言えば、教会の公的集会、特に主の晩餐の集会をいう。公的集会というからには、それは教会の教会としての集会であり、個人的信心の集会ではない。この用語は新約聖書にはなく、教会教父たちの著作の中に現れる。フランス語の「主の集い」(assemblee du Seigneur)がその意味あいをよく保存している。]
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食事という元々の直接的な性格が薄くなり、輪郭だけ残していった。「聖なる食事」という核心の周りに儀礼的要素が加わり、日常的な動作としての食事に代わって、象徴的演出が生まれてくる。食卓は祭壇になり、聖なる食卓に親密に預かるという本来の意味合いは必然的に薄れていく。民衆は、少人数のように同時に行動することは不可能である。こうして、参加者は観衆になっていくのは避けられない。だんだん、祭壇側で行動する人たちと民衆という二通りのグループにはっきりと分かれていくのである。民衆は、司祭に代表されていると意識しながらも、直接にいけにえの食卓に座れなくなったのである。
歴史が進むにつれて、聖堂は大きくなり、当然ミサの新しい形態はそれに合わされていく。現代においては、初代のシュナクシスの名残はわずかばかりである。つまり、奉納後の典礼と聖体拝領だけである。
長い歴史の中で失われた要素は取り戻せないわけではない。典礼刷新運動はそれに向けてかなり進歩してきたが、まだまだ課題はたくさん残っている。勝手な刷新は禁物であるが、特に注目されるのは奉納行列である。その本来の意味を明らかにし、会衆がもっと積極的に参加できる可能性は追求される。
他方、歴史的発展は無視できない。特に、現代の会衆の平均サイズを考慮に入れれば、全員は直接に典礼的動作に参加できるために残された余地は少ないであろう。
従って、エウカリスチアという儀礼は、行為を真似するということにつきるものではないという事実を認めなければならない。
典礼における我々の行為は、代表者の行為につながることである。その代表者とは、すなわち司祭である。司祭は自分のためにではなく、共同体のためにある。司祭はその任務によって発せられる言葉と行為の効力によって、キリストに由来する出来事が実現される。その出来事に参加するように全員が呼ばれている。司祭は個人としてその呼びかけに答えるのも、自分のためではなく、自分のためにもであるが、全員に代わってである。全員が司祭と一致することによってその出来事につながることが可能になるし、それを通さなければならない。
どうすればよいだろうか。まず、行われる動作の意味を理解することからはじめよう。奉納のときに司祭が聖餐杯(カリス)からかぶり布を取り除くと、こう考える必要がある。すなわち、今、聖変化に使われる供え物が準備される。主キリストが弟子を遣わして、過ぎ越しの晩餐の準備をさせたことが、今ここで再現される。それにちなんで初期共同体はそれぞれの供え物、パン、ぶどう酒、オリーブ・オイルを捧げはじめた。それらを要約して、いわば図式的に、司式司祭の簡略した動作になった。司祭がホスチアの入れたパテナ[聖変化させるホスチアを置く皿のこと]を少し高く掲げて、食卓に置いておく。それから、侍者からぶどう酒の入ったアンプルを渡してもらって、カリスに注ぎ、少しの水を足す。ホスチアと同じように捧げようという意味で少し揚げて、コルポラーレ*に置く。
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日本語では「聖体布」と言う。古代世界では皿ではなく、このような白い布を敷いてその上でパンを置いたり食べたりしていた。 何故「コルポラーレ」という名前になったかというと、カトリックでは聖変化したパンはキリストの体だからである。(ラテン語で「コルプス・クリスティ」と言う。) 司祭はミサの時、この布を祭壇の上に広げてパンを置き、そして祈りによってそのパンをキリストの体に聖変化させる。
また同じように「プリフィカトリウム」という布がある。イエスさまの御血を飲んだ司祭が口を拭ったり、また飲み終わった後のカリスを清めたりする布である。
ミサの後、これらの布にはイエスさまの御体や御血がまだ残っている場合がありうる。司祭は細かく丹念にそれらを集めるが、完全には出来きないから。 そこで回収不可能な細かすぎる御体や御血に不用意な扱いをしない為に、これらの布は司祭の手によって3度洗われる事になっていた。 その後、洗浄に使った水は人が絶対踏まない場所(土の上)に流される事になっているそうである。
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「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25、40)福音のこうしたみことばにもとづいて、ミサのために捧げられる単純な供え物は、主の晩餐のために、そして兄弟姉妹のために必要なものを象徴していると考えるべきである。
パンとぶどう酒のほかに、もう一つの供え物がある、すなわち献金。ここで献金を取り上げる事に関しては反感を買ってしまうかもしれない。なぜなら、献金の集め方はときどきみっともないからである。けれども、正しく理解すればいやがる必要ない。実際、信者の小さな寄付金は、古代では荘厳に祭壇のもとに置かれた個々人のもっと豊かな贈り物を象徴している。古代では、ある人は焼いたばかりのパン、ある人はぶどう酒の樽、別の人はオリーブ・オイルの入った器、つまり実生活と直接に関係する贈り物を携えて祭壇まで進むという習慣があった。その時代の奉納行列はもっと生き生きしたものだったろう。今日では、みっともないコインばかりになった。けれども、過去を懐かしむ必要はないし、ないものねだりしなくてもよろしい。今日では、お金が人間同士の取引の代表である。であるから、問題は献金のやり方である。ある人は財布をあけて、一枚のコインを取り出すことによって、平静を損ねてしまう。別の人は、出かける前に準備をしておいて、聖堂では同じような動作をするが、邪魔にはならない。彼は、どうでもよいおつりではなく、自分の経済状況の中でちょっとした犠牲となるような金額を考えて献金をするのである。このように考えると、その供え物は本当に神への怖れと隣人に対する愛を表すであろう。
奉納行列に続いてSANCTUS(「聖なるかな」)があり、それはCANON(奉献文)を導入する。つまり、ここから初代教会でまさにACTIO(動作)と呼ばれた部分がはじまる。ここで、最大の注目が必要になってくる。そして聖変化が近づいて沈黙が深まると、救い主に御旨が成就されたと考えるべきである。救い主がおっしゃった、「これを私の記念としておこないなさい」と。彼の命令が遂行された。キリストは最後の晩餐の部屋と同じように来てくださる。キリストはその愛と贖いと共に我々の間にいてくださる。我々に対する愛としてこの地上にもたらされた秘儀はここにある。司式司祭はさまざまな動作を行うが、我々も司祭と共に、親密な一致のうちに、行動しなければならない。信仰の目線を祭壇に上げ、行われる秘儀と同化しなければならない。このようにすれば、ミサに立ち会うことはまさに参加であること、つまり我々の魂は主を受け入れるということを実感するだろう。
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第二ヴァティカン公会議は、「行動的参加」を呼びかけているが、それは原文では、"actuosa participatio"となっており、"activa participatio"とは異なる概念である。
教皇ベネディクト十六世著、『愛の秘跡』(52)より
「それゆえ、『参加』ということばは、祭儀の中での単なる外的活動を指すだけではないことをはっきりさせる必要があります。実際、公会議が求めた行動的な参加を、より本質的な意味で理解すべきです。そのために、わたしたちが祝う神秘と、その日常生活との関係とを、深く自覚することから出発しなければなりません。公会議の『典礼憲章』(14ー20,30以下、48以下)は、信者が感謝の祭儀に『無関係な、あるいは無言な傍観者として』参加するのではなく、『聖なる行為に、意識的に、敬虔に、また行動的に』参加するよう勧めます。」
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…Agnus Dei (アニュス・ディ「神の子羊」)。司祭は祈願を[司祭の私的聖体拝領の祈り]
唱え、聖体拝領をすませる。それから、ホスチアを会衆に示しながら、「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と宣言し、食卓に近づいた信者に御聖体を配る。ここで、キリストのことば「皆、これをとって食べなさい。」が実現される。
ところが、ミサ聖祭の流れは行為ばかりではない。ときどき、動作という要素は、思い、省察、注視、意識的にここにいること(act of presence)、欲すること、愛すること、自分を捧げることの体験に場をゆずる。だからといって、その重要性は減るわけではない。霊的働き(行為)は手の動きや体の動きに劣ることはないのである。
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Actus Fidei (信徳唱):
Domine Deus, firma fide credo et confiteor omnia et singula quae sancta ecclesia Catholica proponit, quia tu, Deus, ea omnia revelasti, qui es aeterna veritas et sapientia quae nec fallere nec falli potest. In hac fide vivere et mori statuo. Amen.
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真理の源なる天主、*主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。
Actus Spei(望徳唱):
Domine Deus, spero per gratiam tuam remissionem omnium peccatorum, et post hanc vitam aeternam felicitatem me esse consecuturum: quia tu promisisti, qui es infinite potens, fidelis, benignus, et misericors. In hac spe vivere et mori statuo. Amen.
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恵みの源なる天主、*主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、われに終わりなき命と、これを得べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。
Actus Caritatis (愛徳唱):
Domine Deus, amo te super omnia proximum meum propter te, quia tu es summum, infinitum, et perfectissimum bonum, omni dilectione dignum. In hac caritate vivere et mori statuo. Amen.
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愛の源なる天主、*主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、われ、心を尽くし力を尽くして、深く主を愛し奉る。また主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。
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司式司祭は動く、我々はそれに合わせて、それと一致して、眺めながら、見ながら、霊においてそれに従う。我々も、単なる傍観者ではなく、積極的に行動しなければならない。我々は、無関心、眠気、怠惰、自己中心的な思いという誘惑を乗り越えなければならない。言い換えれば、我々は生き生きとした形で典礼の交わりの中に入らなければならない。
さて、繰り返しになるが、上記の参加の仕方はどうしても平静を求めます。もし、我々の魂がこの世の過ぎ去る心配事に捕らわれるなら、心が平和でなければ、目覚めていなければ、信者はあれこれの動作や言葉に気づかないかもしれない。あるいは、鈴の音によってミサの中心部分が近づいたということに気づかされるかもしれない。けれども、聖なる行為への本物の参加にどうしても欠かせない目覚めた心、生き生きとして心を持つことはできないだろう。平静なしには、典礼的行為は成り立たない。祈祷書(missalette)や典礼の解説書、聖歌などは、それ自体としては大変価値のあるものであるが、それらが豊かな実りをもたらすためには、どうしても基本的な前提である平静が守らなければならない。
この平静と、そこから、そのいのちの根源として、流れ出る振る舞いを訓練する必要がある。唯一の真の祈り、真の典礼的行為は心の深みのみから出てくるという考察はよく聞かれる。それは違う。祈りと宗教的行為一般はいのちの営みであるが、いのち全体ではない。他に、重要なものとして奉仕と仕事はある。「神的奉仕」(Gottesdienst)という言い方はよく聞かれるが、その概念を分析してみよう。「奉仕」というのは必ずしも心から自発的に出てくる行為ではない。むしろ、それは適切な時に、従順のために営まれる行為である。また、奉仕は人間に対するものではなく、神に対するものとなると、それは外的な行為だけではなく、むしろ第一に内面的な行為であるから、その本質的な要素はそこから決まってくる。そこで、我々がしなければならないことは見えてくる。つまり、たえず神への真の奉仕を訓練することである。真の奉仕とは何かという認識を深めること。[人間の力で]欲することも、実践することもできないもの、つまり神への奉仕の生きた体験、いつか、我々にも与えられるだろう。神は我々と共におられるという意識は我々の魂を支配し、贖いの秘儀に導入され、本当に主の記念を生きるようになる。「主の記念」とは、人間の業ではなく、神の業である。それは、いけにえを捧げるときに永遠から再現される神による贖いであり、ミサ聖祭のときにそれは時間に入り、この世に入ってくるのである。神からのもであるという事実を意識するのは、ミサ聖祭の司式から与えられる恵みの中で最大のものである。しかし、それは神から与えられるときにも得られるのである。我々の役割は誠実に、熱心に奉仕することである。
7・聖なる場
ミサ聖祭は聖堂、つまり聖なる場所で祝われる。特別な時に別な場所でもできる。会衆は聖堂で納まらない場合は、野外ミサがある。船上でもミサを捧げることがある。迫害の時、信者の自宅で捧げられる。儀式を挙げるやり方に関しては、公に荘厳であったり、感動的にこぢんまりしたものであったり、あるいは危険から隠れるかたちであったりする。いずれにしても、これらの場合は明らかに例外であることが分かる。ミサが営まれるのは、原則として聖別された教会聖堂である。
次のような根強い反論を聞かされるのはまれではない(真剣な反論かどうかは疑問であるが)。曰く、神への奉仕はどこででもできるはず。容易に聖書を根拠にとって、神に祈る理想的な場は、「奥まった自分の部屋」(マタイ6,6)であると主張される。あるいは、善意の人にとっては大自然のほうが神のことを身近に感じると主張される。圧迫される建築物よりは、花一本を眺めるほうがずっと霊的に感じると。こうした主張に言い返せることはいろいろあるが、それよりここでこれらの主張にはどれほどのありふれた陳腐さ、または真剣さが含まれているかを問いかけてみたい。このように主張している本人は、自分の静かな部屋で本当に神様に語っているのであろうか。森の中で花を前にして実際に平静を目指しているだろうか。
ところが、我々のテーマにとって、上記の反論の背景にあるとがめは重要なものである。つまり教会は個人の敬虔を疑う、そして大自然を悪と思っている。
聖職者は命を伝えないこと、芸術的空間を確保し、そこに人間の本質とは関係ない活動、また大自然の根源性とは関係のない活動を行う背景にはこうした教会の姿勢があるとされる[ニーチェのキリスト教に対する反論を参照]。こうしたそっけない形での反論はまれではあるが、一般的に教会は後から作られた儀式で福音のメッセージを堕落させ、目に見える儀式を重んじて結局キリストを裏切ったではないかとよく攻められる。攻めたい人にとっては何でもよいが、真理の驚くべき自己弁明に、二つの反論は相互に矛盾しているのである。
教会がこの世を真剣に受け止めている。この世のすべてが神から創造され、神の力、神の霊の表現であると認識している。しかし、同時にこの世に否定的な力、人間を誘(いざな)おうとしている力もあるということを無視しない。こうして、すべてを神に帰させ、すべてを神の国の秩序に回復させようとしながらも、教会が社会の中で、世俗的使用からもっぱら神の礼拝に使われる空間を確保している。その空間において魂が、自然の産物でもない人間の業でもない、真の聖なる要素を見出すことができるようになる。
ここで「聖なる」(sacred)ということばは、星空や森、あるいは人生の節目に現れるような神秘性ではなく、神の啓示によって示された聖なるものを指している。啓示によると「聖なる」(saint)であるのは神のみである。[SacredとSaintの違い]
「聖性」とは神の本質の特殊性を意味する。神は純粋で、創造性に富み、主である。神は悪を含まないのみならず、悪を憎み、悪を裁く方である。善そのものであり、善の充実であり、被造物の善性は神の善性の写しにすぎない。言葉で言い表せない神秘に生きており、被造物によって理解しえないが、人間のもっとも高貴でもっとも親密なあらゆる憧憬(しょうけい)の最終目的である。ここで語られる神の聖性は、詩人たちの想像力に沿ってではなく、預言者たちの教えに沿って語られている。
どうしてある場所は聖なるmのでありうるのか。いかなる創造されたものは、それ自体として、その本性上、主の聖性を宿す権利をもつものではない。ある場所は聖なるものとなるのは、神自身がそれを聖なるものとされたときのみである。それは、神がそこに臨在するのを惜しまないとき、そこにご自分の住まいをおいてくださるときに起こることである。これが、我々の考える「聖なる場」である。
ところが、神は天においても、地においても、どこでも遍在するはずではないか。神はすべてを知り、すべてを支配し、その全能ですべてを存在させる。従って、神は特定場所にるのではなく、すべての場所は神のうちある。パウロの言うとおり、『我らは神の中に生き、動き、存在する』(使徒言行17、28)。神なしには、埃の一個の原子でさえ存在し続けることはできない。しかし、それにもかかわらず、神は我々のうちに実際に住まいをとることがありうる。旧約聖書全体は、神が人々を訪れ、導き、統治し、愛のためにその福祉を背負ってくださることを物語っている。神の臨在、神の我々の間に住まう最高のあり方、もっとも本質的なあり方は、キリストである。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1、10-11、14)
イエスはおられる所はそこに神もまたおらえる。イエスは神殿に入られるとき、家を訪れるとき、道を渡られるとき、そこに神は特別な意味で真におられる。それは、神殿の前や別の家や違う道で同じ在り方でおられるとは言えないほどである。これは、幼稚で変な話に聞こえるかもしれない。霊的に言えば調子はずれに聞こえるかもしれないが、間違いなく真実だ。真実とはすなわち事実にもとづいた話である。現実の実体的な何かが現われ、誰かに見られ、表現されたたということを示している。ところで、真実にはいくつかの段階があり、これらの段階の間に比較的により高貴なもの、より高いものがある。天地の創造主なる神、愛の力で宇宙を支配される神の遍在というのはすばらしい真実である。しかし、我々にとっては、神はキリストにおいて我々の所に真に来られたと我々は信じている真理のほうが、啓示されらものとして、より高いより聖なる真理である。
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「信仰上の諸真理の序列」"The Hierarchy of Truths" (Hierarchia Veritatum)とは第二ヴァティカン公会議における重要な思想である(エキュメニズムに関する教令、11項参照)。
公 会 議 は次のように発言している。 「カ ト リッ クの 信仰上 の 諸真理 は す べ て が 存在論 ・本質論的に 無差 別 で 同 じ重 要性 を もつ の で は な く、 そ こに は重 要 さ の 順 位が あ る」 とい う確認 で あ る。信仰 上 の 諸 真 理 の 間 に は 内容 の 救 い の 経 綸 に おけ る重 要 さ の 違 い に 基 づ く存在論 的序列が あ る、とい うこ と の普遍 的教 導 職 に よ る教 会史 上 初 めて の 公 的確認で あ る。
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こうやって、キリストがおられる所では、そこに神もまたおられ、その在り方全く特別なものであり、我々の理性はその在り方を神の遍在という概念とまさしく調停できないから、完全に理解できない。にもかかわらず、我々の霊はそれを崇高な愛の秘儀として深く体験できるのである。
教会聖堂は厳密な意味で、「聖なる場」、「神の家」である理由はここにある。
まず第一に準備的な意味で、司教がその権限で、教会聖堂という建築物を単なる被造物、人間社会における事柄、日常生活に使われる建物の数から解いて、それを神に捧げた(取っておいた、聖別した=聖なるものにした)からである。これで教会聖堂は、神の我々からの無限の距離、神の聖性、神の支配の象徴となった。
さらに、厳密な意味で、教会聖堂は「聖なる場」と言われ、事実であるのは、そこで神的いけにえが祝われるからである。聖変化のときに神ご自身が降臨され、またとない形で臨在されるからである。人類を救う愛でもって、その贖いの秘儀でもって、神は典礼的共同体において特別な住処(すみか)をとり、そこから交わりの儀において魂の糧となる。この「神の通過」の始まり、経過、成就は教会聖堂で実現される。
ミサ聖祭に与る準備としてこれらの省察はいつでも役に立つだろう。「ここは、最高の聖なる場である。ここに主が来られ、ここに住処をとり、我々を放蕩から救い上げ、ものぐさに勝ってくださる」と自分に言い聞かせる。
8.敷居としての祭壇
聖なる場と一般世間を区別し、聖なる場における神の特別な現存と被造世界における偏在を区別してきた。それと同時に、ありふれた反論に答えた。神はどこでも遍在するので、自分の家でも、あるいは大自然の中でも、聖堂の中でと同じように、人間の魂は神の方へ高揚することができる、と。けれども、そうしたやり方で出会われる神は、本物でありうるが、それより容易に"にせもの"の神になる可能性は高い。また、大自然、森、花における神を繰り返し口にする人々に対して、彼らは啓示の全能の神の聖性ではなく、往々にして大自然に漂う曖昧な神聖、いのちの神秘性、その他多数の呼び名がつけられる思い込みを念頭においている疑いは拭い去れない。
真の神はそうではない。神は人間に公開で明瞭なメッセージを伝えている。それは、全世界に向けられたイエス・キリストの生涯と教えであり、それを通して世界を目覚めさせ、真理を認めることと改心とを要求する。それがために、神の秘儀が祝われるのは、無分別にどこでも、あるいは広々とした大自然の中、あるいは個人の自宅でもなく、謹厳(きんげん)で制限のある教会聖堂である。従って、信仰者には絶え間ない生活のリズムが求められる。そのリズムとは、教会に行き、その敷居を越して、積極的に聖なる場と交わることである。これは、一般に考えられる以上、重要なことであり、本物の信仰を反映している。神の家に着いた人間は、聞いたり、語ったり、行動したり、奉仕を捧げる。そこからまた、広い世間に戻り、制限のある自分の住まいに戻るが、神の家で体験したことは、いつも彼と共にあり、戒めとなり、生きるための知恵と力になる。
聖なる場には諸部分がある。いけにえを捧げる荘厳な動作は個人の気持ちや偶然にまかせることなく、綿密な秩序に沿って行われることは、典礼の本質に属するものである。こうして、主の記念も聖なる場ならどこでもいいというわけにはいかない。それは祭壇でなければならない。
祭壇その物は一つの秘儀である。おそらく、何らかの形で祭壇をもたない宗教はないといえるぐらい、宗教の根源的な形態としての祭壇はほとんどの宗教に見出される。
祭壇は旧約聖書に出てくる。そこで、綿密なしきたりによってその形や扱い方、祭壇の周りでどのように振舞えばいいのかが定まっている。新約聖書は、祭壇に関しては何も特別な記述はないが、黙示録に現れるしるしのように、そこにも出てくる。新約聖書が編纂されていた時期には、祭壇とは共同体が晩餐を祝うために使われた食卓であった。しかし、やがてこういう原始的な祭壇はなくなり、カタコンベにしか描かれなくなる。
祭壇にはどのような意味があるだろうか。まず、二つの要素を見分けることができる、敷居(欄干[ランカン]*)と食卓。
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* 「橋や縁側のヘリに設けられた腰の高さほどの柵状の工作物。人の墜落を防ぎ、また装飾とする。おばしま。てすり。」(広辞苑)
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「敷居」には、通過と限界という要素がある。「限界」とは何かが終わり、何かが始まるということを意味する。祭壇の敷居までは教会聖堂のいわゆる第一空間がある。敷居の彼方には残りの空間、内陣(sanctuary)がある。限界自体は聖なる場の第一空間の目標を記し、別の空間への通過を可能にする。
祭壇はまず、敷居として区分の原理として、境界を生み出す。それは信者のための空間と最も聖なる場所、神の場との間の境界である。言い換えれば、人間がアクセスできる場とアクセスのできない場、聖なる者の場を区分する。祭壇のこうした側面は、得がたいもの、神のおられる場、神の隔離を思い起こさせる。神との距離を示すために、「神は敷居の彼方におられる」という言い方がある。
しかし、これは文字通り、物理的に捉えるべきではない、霊的な意味で受け止めるべきである。この言い方は、神は理解し尽くし得ない方、近づきがたい方、彼のみが全能であり、我々はそれに及ばないということを表している。彼のみがいと高き方、いかなる造られたものをも遥かに超える存在である。創造主と造られたものの距離を測るにも尺度さえなく、その根拠は神の本性、その聖性であり、人間側からはその世界に触れていく道は一つもない。
他方、専ら霊的に、いわゆる単なる概念として捉えるべきではない。典礼においてはすべてが象徴である。なお、象徴には、例えば、天秤を手にして目隠しをしている女性の肖像は「正義」を思い起こさせるように、感覚的な像の背景に非感覚的な現実を思い起こ以上のものがある。正義の女神の場合でも、正義そのものは見ることはできない。目隠しは、つまり裁判官はある人をえこひいきしないということ、天秤は各人に各人のものを配分すべき[配分律(功績や立場に応じて公平に配分をなすべきであるとの思想)]であると、我々はその意味を教えてもらう必要がある。正義の女神の像は寓喩(allegory)であり、意図される意味は見えないが、目隠しの背景に公平、天秤の背景に正しい裁きの表象を見るように慣れてきた。典礼にも寓喩がある。ところが、寓喩と違って、表象しているものを同時にもたらしている具現は象徴である。
「象徴」において、その感覚的な表現によって意図させるものは、隠されているが、具現に垣間見ることのできるものである。例えば、人間の魂[心]は目に見えないが、顔の表情に表れる。
さて、祭壇は寓喩ではなく、象徴である。祭壇は限界であることは、思慮深い信者は教わる必要はない。いと高き方は「敷居を越えて、敷居の彼方におられる」とは神との無限の距離を示すことは協定による因習ではなく、実際に目にそのように見受けられるだろう。
平静の心、目覚めた心には直ちに象徴の背景に秘儀が感知され、すぐに畏敬の念にとられる。その時とその場は生き生きとしたものであれば、モーセが一人でホレブ山に登ったときの体験をいくらか追体験にまでいたるかもしれない。モーセが羊の群れの世話をしていたとき、「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」」(出3、1-5)
人間にとっては、一度聖なる場から突き放されるという体験、神のみ前で落胆を体験することは、神のことを十分に理解するために、また神と人間との間に無限の距離があるということを理解するために、大変重要なことである。神の偉大さの認識、神の聖性に対する畏れなしには、神を頼りにすること、神の懐に逃れるという体験は貧弱で、うすっぺらなものに終わってしまう。従って、神の偉大さの体験を願うことはとてもよいことである。なお、そのお願いをするために、祭壇ほど適切な場所はないだろう。
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遊園地に設置されている遊具、ジェットコースターにのってスリルを体験し、元気になる若者のように、荘厳な作りでの祭壇や聖堂において、我々はただで神の偉大さを体験できる。これは最高のスリルである。
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敷居は専ら限界を意味するものではない、そこに「通過」ということもある。敷居を通過して聖なる場の一つの空間から別の空間に渡るのである。祭壇の敷居に立って、祭壇から我々の所に降りてくる方を受け入れることができる。敷居は従って、一致をつくる要素であり、出会いと会合の地点である。
祭壇についても同じことが言える。啓示の真髄は我々に対する神の愛である。神の愛とは、人間のうちにある愛を最大限に高めたものだけではない。従って、我々に啓示される必要があった。それは秘儀であり、従来聞いたことのないものである。神とと我々被造物の差異をしっかり認識して初めてそれを十分評価できる。神の愛の固有の現れ方は受肉の秘儀においてである。神は自分自身の個性の世界を離れて、我々の間に降りて、我々の一人となり、罪以外は我々の人間性とその惨めさを背負った。神は我々と共にあり、我々をかばってくださる。その愛は、我々は想像することもできなかった、人間との関係をつくるのである。
神の愛が意図することは、祭壇に現れる。主が我々に向かっていると祭壇は物語るのである。主がその崇高な立場から我々の所まで下ってくる、隔離を超えて我々に近づいてくださると。祭壇は、我々の間、否、我々のうちにおける神の継続的な現存を証ししている。祭壇は、人間の立場から神の立場に通じる道がある、我々の罪の深さから神の高みに通じる道があると述べている。我々はその道をたどって行くことができる、もちろん我々の力によってではなく、いただく力によってできる、と。我々が登れるのは、ただ神が我々の方へ降りてきたからである。降りてきてくださったことは我々を引き上げてくれるのである。来られた方自体が、道であり、真理、いのちである。
以上のことは同時に、神とのもっとも親密な関係を描く根源的なキリスト教的経験の一つである。その輪郭は通過[過ぎ越し]、降りる、そして登るということにまとめられる。ある地点を通過するような、そのような単なる通過ではない。それは、境界・限界を超える通過でなければならない。それぞれ別の空間(領域)があって、その間に扉がある。その扉は開けることもできるし、閉まることもある。通過は二つの特徴をもっている。一方、敷居を越えられるという信頼、他方、敷居を越えられるのは「自動措置的」に起こるものではないという恐れ。信頼は不謹慎に代わるやいなや、信頼から傲慢、習慣、恵みを受けられる過信[でしゃばり]といったプロセスをたどっていくと扉が閉まる。また、その状態を放っておいて、これでよしとするならば、扉がますます開けられなくなる。我々はこの「通過」はどういう意味を持っているのかを理解できる恵みを祈らなければならない。それは神の家族のメンバーの特権であるが、しかしそれはいつも「おそれとおののき」のうち使用すべき特権である。
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『おそれとおののき』は、1843年に出版されたキルケゴールの左手著作の第二番目である。この書物の題材となっているのは、旧約聖書の『創世記』第22章1-14節に出てくるアブラハムの物語である。神がアブラハムを試みられ、アブラハムがその試みに答えて信仰をもち続け、イサクを生贄にしようとして、思いもかけず息子を再び授かったという物語りである。
『おそれとおののき』の「結びの言葉」で「信仰は人間のうちにある最高の情熱である。おそらくどの世代にも、信仰にさえ到達しない人がたくさんいることであろう。・・・しかし、いまだ信仰にすら至らない者にも、人生は十分の課題を与えてくれる。そして、もし人がこの課題を誠実に愛するなら、最高のことを理解し把握した人たち(真のキリスト者たち)の生涯もまた無駄ではなかったことになるであろう」と述べる。
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ここで主題となっている敷居は、実はどこにでもある。それは、端的に神は創造主であり、人間は被造物であるという現実から出てくる。人間が罪人であるという事実から、こういう現実はさらに強調される。人間が神の聖性に耐えられないが、神が愛のために贖ってくださり、神に戻る道を作ってくださった。こうして、神との間に隔たりをつくる聖なる防壁がどこでも立ちはだかっている。しかし、同時にどこででも通過の可能性は開かれている。
我々は「祈り」と呼んでいるものは、突き詰めて考えれば、こうした秘儀の実現にほかならない。神に呼びかけるたびに、我々は敷居に近づき、それを超えようとしているのである。それはまさに、教会聖堂で、祭壇で提供されることである。その表現力は一番深く感じられるのはミサ聖祭が捧げられるときであり、特にキリストの死の奉献において最高に明白になる。キリストの死と贖いは、神の子の受肉を前提にしている。その受肉とは、敷居、障壁であり、そこに神はどういう方であるか、人類にとって罪とはどのようなことなのかが明らかになる。しかし、受肉は同時に通過でもある。なぜなら神が人間になったのは、人間が「神の本性にあずからせていただくようになるためで」(1ペトロ1,4)あった。
こうして、祭壇は真に最高の「聖なる場」であると言える根拠は明らかになった。