四旬節B第1主日
創世記(9:8-15)使徒ペトロの手紙(Ⅰ3:18-22)マルコによる福音(1:12-15)
ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、主イエスは「神の霊」によって荒野へと押し出され、そこで40日間、サタンより誘惑/試練を受けられたことが記されています。マタイ福音書とルカ福音書が誘惑の内容を詳しく述べるのと対照的に、マルコ福音書はその誘惑/試練の内容には全く触れていません。マルコはただ淡々と、短いけれども決然とした筆致で、イエスのヨルダン川での洗礼、荒れ野での試練、ガリラヤでの宣教開始について記している。マルコにとってはそれらの出来事はワンセットなのです。
12節の「それから」というのは「すぐさま」とも訳せる言葉ですが、誘惑/試練がイエスの洗礼と密接な関わりを持っているということを告げています。受洗時に霊が鳩のようにイエスに降ってきた。その霊がイエスをすぐさま荒野へと追いやってゆくのです。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という天からの促しが主イエスを荒野へと押し出してゆく。マルコ福音書は誘惑/試練の内容については沈黙していますが、それはおそらくイエスの父への信頼を突き崩そうとする誘惑/試練であったと思われます。
私たちも洗礼を受けたときに神さまからの霊をいただきました。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という神さまからの根源的な存在の肯定をいただいているのです。その神さまからの促しを得て私たちもまた、イエスさま同様、私たち自身も人生においては、神の霊によって荒野へと押し出され、悪の力(サタン)から苦しく辛い誘惑/試練を受けるということが確かにあると思います。私たち自身にとって荒野の誘惑/試練が何を意味しているのかということを問いたいと思います。
我々の人生にも自分が決断するのではなく、知らないうちに後ろから押し出されるように困難に踏み入ってゆく時がある。そしてそこで重荷を担わされることがあります。その背後には聖霊の押し出しがあるのかもしれないと思わされることがあります。
< 現代の荒野としての現代人の孤独 >
実は聖書の「荒野」という言葉には、「孤独な、人里離れた、寂しいところ」という意味もあります。従って、「荒野における試練」とは「孤独における試練」と訳することもできないことはない。現代の荒野は現代人の孤独だと思います。そのような孤独の中で、私たちは悪(サタン)の誘惑/試練を受けるのです。それは神を信じることのできない者として、愛を信じることができない者として、虚しさと絶望と滅びへと落ちてゆくように私たちをいざなう誘惑です。
マザーテレサには次のような言葉があります。「人間にとって最大の悲惨は、あなたは誰からももはや必要とされていないと感じることです。それこそが、人間にとってもっともむごい、さびしい、つらいことです。『あなたはもう必要ではない』 そのとき人は倒れます」と。
誰からも必要とされていないと感じること、そのことの辛さを私たちは体験的に知っています。私たちは何か人の役に立ちたいという願望を心の深いところに持っています。なぜでしょうか。誰からも必要とされていないと感じたくないからです。こんな自分でも誰かが自分を必要としてくれている。そう思いたいのです。しかし何かができるから、何か人の役に立てるから誰かが自分を必要としてくれているというDoingの次元、行為の次元における考え方は、何もできなくなったときには役に立ちません。病気になったときや次第に老いて体が動かなくなってきたときには人の役に立たない、誰からも必要とされていないということになり、とても辛くなってしまうのではないでしょうか。
しかしそうではない。私たちが何ができようができまいが関係なしに、私たち自身の存在そのもの、Beingそのものの次元こそが大切なのです。
神はノアに言います。「わたしは雲の中にわたしの虹(にじ)を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」(創世記9:13)と。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(16節)というのです。本日の福音書に「イエスは、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とありますが、おそらくこの言葉には、神との全被造物との間のノア契約が思い起こされているのでしょう。すなわちそれは荒野に虹が架かっている状態です。マザーテレサが愛の乏しいカルカッタという現代の荒野に愛をもたらして虹のように輝いて生きたように、イエスは荒野の虹として生きたのです。そしてまたそのようなお方につながっている私たちもまた、小さないのちそのものを大切にし、希望の乏しい場所、愛の渇く場所に神の契約のしるしである虹を架けるような働きを求められているのかもしれないと思います。
私たち現代人の孤独は真実の「愛」というものを信じることができなくなったところにあるのではないかと思われます。家庭や学校や職場や社会において人間関係が崩れているのです。バベルの塔が崩された後、人間が大地に散らされて言葉が通じなくなった時のように、互いに心が通じ合わなくなっているという現実がある。人間は昔も今も孤独の中で孤立して苦しんでいるのではないかと思われます。あまりに愛のない出来事が多い。否、愛を否定する酷いテロや戦争や凶悪な犯罪が毎日のように起こり、人々の命がまるで虫けらのようにいとも簡単に殺されてゆく。どこに愛があるのか。神はどこにいて何をしているのか。どこにも神の愛がないではないかと私たちは絶望的な気持ちになります。
しかし、実は愛が信じられなくなるということは現代人の特徴に限られるわけではありません。聖書の中ではアダムとエバの最初から愛を信じることができなくなった孤独な人間の悲惨が描かれています。苦難とは私たちを神の愛から引き離そうとするサタンの誘惑であるとも言える。神の愛が信じられなくなること。それがサタンの目的です。しかし同時に苦難の中で私たちは救いを求め、信仰に導かれてきたという側面もあります。苦難は滅びへの誘惑であると同時に救いへと通じる試練でもあるのです。苦難とは、ちょうどコインに裏と表があるように、サタンの側から見れば誘惑ですが、神の側から見れば試練ということになりましょうか。
困難な誘惑/試練の中にあっても、再び勇気を抱いてこのように世の中を見回せば本当に多くの隠れた虹が輝いていることにも気づかされます。孤独な荒野にも神の契約のしるし、愛のしるしが与えられている。十字架への孤独な苦難の歩みを始められた主イエス・キリストにこそ、私たちのための神からの虹が輝いていることを覚えつつ新しい一週間を過ごしてまいりましょう。お一人おひとりの上に神さまの守りが豊かにありますように。 アーメン。