Monday, February 16, 2015

5 Lent B

四旬節B年 第5主日 
 ヨハネによる福音書 12:20-26

  
ある難民キャンプですっかり気力を失ってしまった子供がひとりいまして、手足もすっかり細くなってしまい、お腹だけがやけに膨れている子供がおりまして、おそらく親もどこかで死んだか途中で生き別れたか、とにかく一言も口をきかずにただジーッと空を見つめたままの子供がいたのです。流動食も受けつけないし、薬も飲まない。ただ死を待つばかりであったというのです。そこに一人のボランティアの青年でピーターと呼ばれる青年がやってまいりまして、その子の世話を自分がしようといって引き受けるわけです。ピーターはその子を抱いて地べたに座り込むんです。そして、二日二晩、自分のトイレに行く時間だけははずして、あとはズーッと抱き続けるんですね。三日目、この子に反応がでます。この子が笑うようになったというのですね。犬養道子さんはその時の様子をこういうふうに書いています。「自分を大切に思ってくれる人がいた。自分は誰にとってもどうでもいい存在ではなかった。この意識と認識とが無表情の石のように閉ざした子供の顔と心を開いたのだ」と書いておられるのです。 < 犬養道子『人間の大地』から >

 
この子供にとってボタンティアの青年は、おそらく数多く働いているボランティアの中のひとりにすぎないのです。そして、難民キャンプの中ではたえずボランティアたちは忙しく立ち働いているわけです。おそらくは、手が回るはずもない、どうせ何もかばってくれるはずはない、そういうひとりの青年でありました。そういうふうに見ても差しつかえのない立場にいるんです。ピーターにとっても同じことであります。この子は数多い同じような境遇の中にいる子供のひとりであります。いずれは、その辺りでばたばたと死んで行く子供のひとりででしかない。もし、このピーターが行ってその子供をかき抱かなければ、お互いに気づかずに、一方は忙しく立ち働きですね、一方は人知れず死んで行く。そしてそのことが少しも難民キャンプでは不自然ではない。そのままでも、ピーターはよいボランティアであり得るし、その子供はやむを得ず死んで行く。そのような状況の中でしか生きることができなかったひとりの子供です。そうした中で、青年がその子供をかき抱くことによって、その子に笑顔が戻って来るのですね。いったいそれは何だろうかということを思うのであります。 

< 「一粒の麦」とは何か > 

 聖書の中でのイエスとの出会い、それも同じようなことが言えるかも知れないと思うのです。今日の福音書を読みますと、お祭りでギリシャ人が神殿に上ってきたと書いてあります。おそらくは、異邦人であって、このいわばユダヤ人たちと同じ信仰を持とうとして、改宗した人たちであったと思われます。おそらくは、そのままイエスに出会うことなく過ぎたとしてもよい信仰者でありうるそういう存在であります。けれども、聖書はイエスとの出会いが起こることによってそのままでは過ぎない何かが起こった、ということを教えている。その内容をイエスはここでギリシャ人に対して、「わたしは一粒の麦だ」ということをおっしゃるのですね。もちろん、このことばはイエスご自身のことを指しているということは確かなことです。しかも、イエスご自身は、自ら一粒の麦として死ぬということは十字架にかかって自分は死ぬ、やがて受け止めるべき自分の定めをここで、こうしてギリシャ人たちに指し示しすわけであります。けれども、この一粒の麦ということの中には、それをギリシャ人に向かってイエスがおっしゃったということを考えますともっと深い意味があるように思うのであります。 

 
「一粒の麦」というのは、これは「どうでもいい存在」なんですね。イエスと出会うなどということは、もしイエスが一粒の麦であるといたしますと、これは、どうでもよいことかも知れない、ということを暗に示しています。 

 
あの難民キャンプの中で大勢の子供とボランティアという関係があった。あるいは、病院では大勢の患者とスタッフの関係がある。学校でたくさんの生徒と先生の関係がある。教会で信者同士の関係がある。ある意味ではその中で起こる出会いはどうでもよいことかも知れないのです。それはそれで、それぞれ成立をするんです。ボランティアである青年は難民のためにミルクを配り、とうもろこしの粉を配るのです。そして忙しく立ち働くことで自分はボランティアの働きをしていると思うこともできる。はるばる遠くからやって来て、難民キャンプで苦労している自分を見れば、「ああ、自分はよいことをしている」ということで済むのです。あるいは、飢え死にをする子供は大勢いる子供の中のひとりですから、自分が死ぬということは、難民キャンプの中では、人から見る時には「やむを得ないこと」として受け止めることもできるのです。「かわいそうだけれども、こういう状況では仕方がない」そういうふうにしか思うことができないところに生きている子供であります。それはそれでそれぞれに成立するところを生きている。ある意味では、青年も子供も「一粒の麦」です。その他大勢の中のひとりなんです。 

 
ギリシャ人だってそうです。自分たちは改宗者として敬虔な祈りを捧げている、それですむのです。イエスというお方を見て、通り過ぎることだってできる。ある意味ではどうでもよいところをギリシャ人たちは歩いているんです。イエスご自身はだからギリシャ人に向かって「わたしは一粒の麦だ」とこうおっしゃる。ギリシャ人から見てイエスは、まことに一粒の麦です。大勢の中のひとつなんです。見えないかも知れない、そこをイエスはあえて自分を「一粒の麦」として立ち向かっていらっしゃるんですね。その「一粒の麦が死んで」ということの中に、その「どうでもよいところを一歩踏み込むことによって全く違った世界が広がる」ということを、「死ぬ」という言葉の中にイエスは表現していらっしゃるんです。一歩踏み込むということは、どうでもよいところを突き抜けるということであります。 

 
ギリシャ人たちはフィリポのところへ来て「イエスにお目にかかりたい」と言っています。フィリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとフィリポはイエスのところへ行くと、つまり大変に手間暇をかけているわけです。一粒の麦である、あるいはどうでもよいかも知れない、そのイエスのところに手間暇をかけてギリシャ人たちは行っている。それは一歩の踏み込みであります。それは自分の中にあるあの「どうでもよい」とする、「このままでもよい」とするあの部分を死なせることであります。いわば自分の中の一粒の麦を殺すことであります。その時、一粒の麦はなくてならぬ食べ物に変身をするのです。一粒の麦が死んで多くの実を結ぶとイエスはおっしゃるんです。イエスが一粒の麦として死んで下さったということと同時に、わたしの中にある一粒の麦を死なせるということがここではまたギリシャ人たちに求められているということを学び取ることができるように思うのであります。それは「どうでもよい」部分に一歩、わたくしどもがもう一歩踏み込むということであります。 

< 出会いにおけるもう一歩の踏み込み > 

 わたくしどもの中にも、どうでもよい一粒の麦がたくさんあると思うんです。その一粒の麦は、一粒の麦ですから目にとまらないかも知れない。どうでもよいと思うことかも知れない。そこをほったらかしてもちゃんと自分は自分として生きていけるかも知れないのです。ギリシャ人たちが敬虔な信仰者であったように、そのことは残り続けるのです。けれども、一歩の踏み込みがあることによって、その一歩の踏み込みとはどうでもよい部分を自分の中で死なせることによって、じつはその部分はキリストご自身であることを知るのです。 

 
わたくしどもの中にあります一粒の麦、どうでもよいと自分が思っている部分こそ、じつはキリストご自身に他ならない。そのキリストご自身がここでは、わたしのために死んでいてくださる、ということをまざまざと知るのです。そのことをじつは今日、ここでイエス様はわたくしどもに教えていてくださるように思うのです。
(1988年3月20日 四旬節第5主日礼拝説教  テープ起こし 、賀来周一牧師
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/102.htm
 

 
「私たちの中で最高の信仰生活をしていると思っている人は一人もいないと思う。これでは足りないのだと自分をむち打つような思いをみな持っていると思う。しかし、それができない。家族があるとか、仕事があるとか、立場上いろいろなことのために信仰生活が中途半端になっている。しかし、死ぬときには育児の最中だからとか、仕事が忙しいだから少し待ってくださいとは言えない。小さい子供をのこして「かわいそうに」と人が思うときでも、人は死んでいく。そして死んだら、そのあとのことは全然心配できない。死ぬとは、だめになってあとかたもなくなってしまうことです。死ぬとは、責任を神様が持ってくださると信じてゆだねていくことです。




 

4 Lent B

四旬節B年 第4主日 
 ヨハネ3・14-21 
今日の福音はエジプト脱出の時に砂漠で起きた「炎の蛇」の出来事で始まります(民数記21・7-9参照)。神に逆らってエジプトへ戻ろうとしたヘブライ人は、エジプトのファラオの権力のシンボルである蛇にかまれると死にますが、モーセが旗竿に掲げた「青銅の蛇」を見ると命を得ます。そしてモーセは、人々を癒やす方は蛇ではなく、主なる契約の神であることを思い出させます。 
 モーセが荒れ野で蛇を上げた。これは、聖書をよく知っており、黙示思想に親しんでいるユダヤ人には意味をなしますが、ユダヤ教徒ではない異邦人には分かりにくいので、著者は、一四節の言葉が指している十字架・復活のキリストの出来事を、「神は世を愛して、そのひとり子を与えてくださった」出来事として、その意義を説明しています。 
 神は世を愛された ところで、「世」とは、ヨハネ福音書では神に背を向け、神に敵対する人間世界の総体です。「神が世を愛された」というのは、神が自分に敵対する者たちを愛されたということです。すでにパウロは、「わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死なれたことによって、神はわたしたちに対する御自身の愛を示しておられるのです」(ローマ五・八)と言っています。このことを、ヨハネは「世」という用語を用いて語っているのです。自分を愛する者を愛するのではなく、自分に敵対する者を愛するところに、神の愛の質が表されています。すなわち、イエスが取税人や遊女をそのまま受け入れた愛されたように、神はその愛を受ける資格のない者たちを、無条件で愛されるのです。神の愛が無条件・絶対であることが「神は世を愛して」の一句に込められています。 
私たち人間は、この世の価値観ですべてを判断します。たいてい自分の立場から語るのであって、神の側に立つことはできません。しかしイエス様は、神の側から語られたみ言葉です。つねに神の側に立って発想し、それをこの世の言葉で語るのです。神の側と人の側の両方に立てる方なのです。ですから、この世の言葉であって、この世の言葉ではないのです。だからこそこの世を救う言葉なのです。私たちはこの世の価値観を、神におしつけてはならないのです。かえってこの世の価値観を、神の価値観で見直さなければならないのです。

モーセが荒れ野で上げた蛇は、青銅の蛇でした。人々をかんだ燃える蛇は、不平不満の蛇でしょう。エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民は、その自由のありがたさを感謝するどころか、奴隷時代の食事(たまねぎばかり食べていたといわれているのに)を思い出して不平を言ったのです。 
人は、目先のことしか見えないのです。人があまりにも長いあいだ奴隷状態に置かれると、自由のありがた味を忘れ、奴隷の時をなつかしみ、あまつさえ(amasse その上にさらに)昔の状態にもどることを望むのです。自由にしてもらったことを、うらむことさえします。奴隷のほうが楽だからです。そして感謝すべき事柄を、不平不満に変えてしまうことによって、人の心は死んでしまうのです。感謝すれば生きる心が、ブツブツ言うことによって死ぬのです。物事を感謝して受け取るか、不平不満を言って受け取るかは人の自由です。でもその受け取り方によって、その人の生き方が決まるのです。つまりその人の責任なのです。イエスは暗闇と光を一度に歩むことはできないと知らせると同時に、光か闇かを選ぶように促されます。

しかし人を殺す燃える蛇が、燃える蛇でありながら燃えない青銅の蛇に変わり、人々がそれをあおぐ時、燃える蛇にかまれた人々は皆生きたというのです。それはイエス様を指し示すしるしでした。イエス様ほどひどい目にあった人はいません。何の落度も理由もなく・最大の悪人として抹殺されてしまいました。何の罪もなかったのにです。つまり人の価値観が神の価値観を否定し、十字架につけたのでしょう。この世の価値観を貫くため、神を消そうとしたのです。神を神とする時、人は人であるにもかかわらずです。
人の子は上げられなければならない、とイエス様は言います。神の価値観をおしつけず、むしろ人の価値観におしのけられる形で、神の価値観をうち立てようとなさったのです。イエス様は、人の価値観にのみこまれながら、なお神の価値観を説きました。いちばん粗末にあつかわれ、ボロぞうきんのように捨てられ、殺されながら、一言も不平不満を口にしませんでした。神への愛と人への愛を告白しながら殺されたのです。つまり極限の状況の中で証明されたのは、彼の愛だったのです。皆から認められている時、愛を語り、人々を愛することはやさしいでしょう。しかしイエス様はすべての人から拒まれ捨てられる時、なお愛を語り、神と人を愛し通したのです。つまり不平不満の機会を、すべて自分のエゴを神と人とにささげる機会にしたのです。明るい光の下で語られたのではなく、真っ暗闇の中で語られた愛の言葉だからこそ重みがあるのです。イエス様の価値観は、この世の価値観に敗れたのです。しかし、負けたように見えながら、その中でこそ神の愛の価値観が勝利したのです。この世の価値観の真ん中に、神の愛の価値観が十字架の形にうち立てられたのです。私たちは神の価値観を十字架につけるべきではなく、私たちの不平不満をこそ、十字架につけるべきなのです。この世の価値観で十字架を見るのではなく、十字架の価値観によって、この世と私の人生を見るべきなのです。(静)苦しんでいる人類の中心に立てられた十字架を見つめる私たちの目が、変容していくかどうか、愛と光を発見していくかどうかが、この世で生きる私たちに与えられている課題です。



3 Lent B

1 Lent B

四旬節B第1主日 
 創世記(9:8-15)使徒ペトロの手紙(Ⅰ3:18-22)マルコによる福音(1:12-15
   ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、主イエスは「神の霊」によって荒野へと押し出され、そこで40日間、サタンより誘惑/試練を受けられたことが記されています。マタイ福音書とルカ福音書が誘惑の内容を詳しく述べるのと対照的に、マルコ福音書はその誘惑/試練の内容には全く触れていません。マルコはただ淡々と、短いけれども決然とした筆致で、イエスのヨルダン川での洗礼、荒れ野での試練、ガリラヤでの宣教開始について記している。マルコにとってはそれらの出来事はワンセットなのです。 

 
12節の「それから」というのは「すぐさま」とも訳せる言葉ですが、誘惑/試練がイエスの洗礼と密接な関わりを持っているということを告げています。受洗時に霊が鳩のようにイエスに降ってきた。その霊がイエスをすぐさま荒野へと追いやってゆくのです。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という天からの促しが主イエスを荒野へと押し出してゆく。マルコ福音書は誘惑/試練の内容については沈黙していますが、それはおそらくイエスの父への信頼を突き崩そうとする誘惑/試練であったと思われます。 

 
私たちも洗礼を受けたときに神さまからの霊をいただきました。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という神さまからの根源的な存在の肯定をいただいているのです。その神さまからの促しを得て私たちもまた、イエスさま同様、私たち自身も人生においては、神の霊によって荒野へと押し出され、悪の力(サタン)から苦しく辛い誘惑/試練を受けるということが確かにあると思います。私たち自身にとって荒野の誘惑/試練が何を意味しているのかということを問いたいと思います。 
 我々の人生にも自分が決断するのではなく、知らないうちに後ろから押し出されるように困難に踏み入ってゆく時がある。そしてそこで重荷を担わされることがあります。その背後には聖霊の押し出しがあるのかもしれないと思わされることがあります。 
 < 現代の荒野としての現代人の孤独 > 
 実は聖書の「荒野」という言葉には、「孤独な、人里離れた、寂しいところ」という意味もあります。従って、「荒野における試練」とは「孤独における試練」と訳することもできないことはない。現代の荒野は現代人の孤独だと思います。そのような孤独の中で、私たちは悪(サタン)の誘惑/試練を受けるのです。それは神を信じることのできない者として、愛を信じることができない者として、虚しさと絶望と滅びへと落ちてゆくように私たちをいざなう誘惑です。 
 マザーテレサには次のような言葉があります。「人間にとって最大の悲惨は、あなたは誰からももはや必要とされていないと感じることです。それこそが、人間にとってもっともむごい、さびしい、つらいことです。『あなたはもう必要ではない』 そのとき人は倒れます」と。 

 
誰からも必要とされていないと感じること、そのことの辛さを私たちは体験的に知っています。私たちは何か人の役に立ちたいという願望を心の深いところに持っています。なぜでしょうか。誰からも必要とされていないと感じたくないからです。こんな自分でも誰かが自分を必要としてくれている。そう思いたいのです。しかし何かができるから、何か人の役に立てるから誰かが自分を必要としてくれているというDoingの次元、行為の次元における考え方は、何もできなくなったときには役に立ちません。病気になったときや次第に老いて体が動かなくなってきたときには人の役に立たない、誰からも必要とされていないということになり、とても辛くなってしまうのではないでしょうか。 
 しかしそうではない。私たちが何ができようができまいが関係なしに、私たち自身の存在そのもの、Beingそのものの次元こそが大切なのです。 
神はノアに言います。「わたしは雲の中にわたしの虹(にじ)を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」(創世記9:13)と。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(16節)というのです。本日の福音書に「イエスは、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とありますが、おそらくこの言葉には、神との全被造物との間のノア契約が思い起こされているのでしょう。すなわちそれは荒野に虹が架かっている状態です。マザーテレサが愛の乏しいカルカッタという現代の荒野に愛をもたらして虹のように輝いて生きたように、イエスは荒野の虹として生きたのです。そしてまたそのようなお方につながっている私たちもまた、小さないのちそのものを大切にし、希望の乏しい場所、愛の渇く場所に神の契約のしるしである虹を架けるような働きを求められているのかもしれないと思います。 
 私たち現代人の孤独は真実の「愛」というものを信じることができなくなったところにあるのではないかと思われます。家庭や学校や職場や社会において人間関係が崩れているのです。バベルの塔が崩された後、人間が大地に散らされて言葉が通じなくなった時のように、互いに心が通じ合わなくなっているという現実がある。人間は昔も今も孤独の中で孤立して苦しんでいるのではないかと思われます。あまりに愛のない出来事が多い。否、愛を否定する酷いテロや戦争や凶悪な犯罪が毎日のように起こり、人々の命がまるで虫けらのようにいとも簡単に殺されてゆく。どこに愛があるのか。神はどこにいて何をしているのか。どこにも神の愛がないではないかと私たちは絶望的な気持ちになります。 
 しかし、実は愛が信じられなくなるということは現代人の特徴に限られるわけではありません。聖書の中ではアダムとエバの最初から愛を信じることができなくなった孤独な人間の悲惨が描かれています。苦難とは私たちを神の愛から引き離そうとするサタンの誘惑であるとも言える。神の愛が信じられなくなること。それがサタンの目的です。しかし同時に苦難の中で私たちは救いを求め、信仰に導かれてきたという側面もあります。苦難は滅びへの誘惑であると同時に救いへと通じる試練でもあるのです。苦難とは、ちょうどコインに裏と表があるように、サタンの側から見れば誘惑ですが、神の側から見れば試練ということになりましょうか。 
困難な誘惑/試練の中にあっても、再び勇気を抱いてこのように世の中を見回せば本当に多くの隠れた虹が輝いていることにも気づかされます。孤独な荒野にも神の契約のしるし、愛のしるしが与えられている。十字架への孤独な苦難の歩みを始められた主イエス・キリストにこそ、私たちのための神からの虹が輝いていることを覚えつつ新しい一週間を過ごしてまいりましょう。お一人おひとりの上に神さまの守りが豊かにありますように。 アーメン。