復活祭 2015
けれども、物事の見方を変えれば、奇跡はそっちゅう起こっています。例えば、ディエゴ・アルマンド・マラドーナというサッカー選手がいます。彼は、得点能力に優れて、すごいプレーで有名です。奇跡としか思えないような技をみせました。フリーキックでボールを蹴って、前に20人ぐらいいるのに誰も止めることのできないかたちで、ボールをネットに入れます。力学的に分析すれば、何の法則も破っていない。
フォン・カラヤンという指揮者がいます。中でもカラヤンの「運命」と「未完成」をカップリングしたLPは日本で約150万枚を売り上げた。カラヤンの指揮したコンサートは、奇跡としかいいようがないと言われています。音楽は、科学的に分析すれば、音なんですね。空気の中にある窒素と酸素の分子は波になって空気を通って耳に届くような仕組みです。何の法則も破っていない。
今のスパーコンピュータにベヘトベンの協奏曲やバッハのカンタータを作曲させようと思っても、できないですね。いくら技術を積み重ねても及ばないのです。やはり、違う次元のものが働いています。
カラヤンのような指揮、あるいはマラドーナのようなプレーは私達凡人にはできません。カラヤンもマラドーナも練習しましたよ、けれでも私たちはいくら練習しても及ばないのです。練習の生む技ではなくやはり奇跡です。この人たちは、タレントを持っていました。あるいは才能を持っていたと言われます。それは、親から譲ってもらったこともはない。カラヤンの父親は音楽家ではなかった。マラドーナの父親はサッカー選手ではなかった。タレント、才能はどこから来るのか、やはり別世界からですね。私たちはコントロールのできない世界から来るのです。我々はコントロールのできない別世界があって、そこからこの世界に影響があって、奇跡が起こるのです。奇跡は自然界を破るのではなく、それを完成するのです。英語でジニャスですが、日本語で天才と言いますね。天からの才能ですね。神曲を書いたダンテとかモナリザを書いたレオナルド・ダビンチとかは、千年に一度しか現れない天才がいます。一年に一度しか起こらない奇跡。復活は二千年前に起こった奇跡です。それ以来ずっと話題となっています。キリストの復活は!自然の法則をやぶるのではなく、完成するのです。
神父様は、奇跡がそっちゅう起きると仰っるのですが、僕は一回も見たことがないと誰かいうかもしれない。あのね、君は線路の近くに住んでいないのに、電車があなたの窓の前に通るのを見ることができると思いますか?電車を見たいなら、電車の通るところにいかないといけないでしょう。奇跡も、起きやすい場所と時間があります。あるいは起きない場所と時間があります。あなたは日米安全保障条約の採択に立ち会っていないでしょう。ペニシリンの発見にも、東条英機の自殺にも立ち会ったことがないでしょう。そういうことを見るためには、歴史的政治的な曲がり角に立っていなければならないわけです。奇跡も、霊的世界の曲がり角に起こります。
私のおばあさんは、子供の頃テレビでサッカーの試合を見ていましたら。「いい年しているのにショートパンツをはいて、男たち22人は一個のボールを追いかけています」と言っていました。この程度しかサッカーの知識を持たなかった(賢い人で立派な信仰者でしたが)私のおばあさんは、マラドーナ、ペレ、ベッケンバウワのすごいプレーを見ても、感動しないでしょう。サッカーセンス、サッカーに対する感覚、音楽に対する感覚、知識、情熱が必要でしょう。同じように奇跡を信じる素直さがないといけない。
奇跡を見るために信仰が必要と言われます。あなたは、殉教者となる覚悟もないのに、あるいは宣教師になりたい思いもないのに、信じる心もないのに、奇跡を見たいのであれば、ちょっと無理があるでしょう。奇跡を見たいならば、奇跡が起きる場所と時間に行きなさいよ。
奇跡のない世界は、音楽のない世界、スポーツのない世界と同じように、つまらない世界です。奇跡を信じない人は「現金な人」になりがち。「現金な人」打算的」要するに、あまり乗り気ではないとか否定的な人が、何らかのメリット(物品とか地位とか)を提示された途端に肯定的に変貌する様子ですね。
一番身近なことだと、泣いてる子供にお菓子やおもちゃをあげると急に元気になるとか。奇跡のない世界は、現金な世界となる。教会は現金な団体となってしまわないために、奇跡を信じる必要がある。奇跡は教会に似合うのです。
03は東京の市外番号ですか。0.3パーセント東京の市外番号見たいなパーセントを持ってる団体は、政治的な働きで社会を変えようと思ったら、それこそ起きない奇跡なんです。それは、迷信です。あるいはごまかし。やはり、教会こそ奇跡を語る、復活を語る団体になるべきでしょう。社会を明るくするための奇跡の語り方、これは私たちのかだいでしょう。
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