Wednesday, November 21, 2012
4 advent C
待降節第4主日 C
【ルカ1:39ー45マリア、エリザベトを訪ねる】
(1) エリサベトはマリアの親類で、高齢になっていたにもかかわらず、洗礼者ヨハネを身ごもりました。人間的には不可能と思われることですが、だからこそ、そこに神の力が働いている、ということになります。洗礼者ヨハネの誕生という出来事には神の力が働いているのです。
(2) エリサベトはマリアに向かって「あなたは女の中で祝福された方」(42節)と言います。これは「最も祝福された女性」という意味です。これはヘブライ語やアラム語で最上級を表す表現なのです。
今わたしたちが唱えている「恵みあふれる聖マリア…」という祈り(ラテン語の「アヴェ・マリアAve Maria」)の前半は、ルカ1・28の天使の言葉「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と、このエリサベトの言葉から採られています。日本語では、「主はあなたを選ばれ、祝福され」と訳されていますが、どうでしょうか。「選ばれ」というとマリアだけが例外的に祝福されているように聞こえてしまうかもしれませんが、決してそうではなく、「最も祝福されている方」という意味なのです。
マリアも、エリザベトも「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方である」。その点でキリスト信者の模範になる方です。
私たちはどれほど主のおっしゃることは実現すると信じたものでしょうか。主のおっしゃること、つまり聖書に書かれていることがらを私たちはどれほど信じるものになっているでしょう。いまだ単に、良いことを記した書物ととらえているだけで、それを生活の中心においていない、と言うことがたくさんあるのではないでしょうか。受肉していない部分があるでしょう。
物理学の用語で、「応力」という言葉があります。応じる力と書きます。その意味は簡単に言えばこう言うことです。
皆さんの座っている椅子。1人で座っているのもあれば、3人座っているのもあります。 小学生が座ると、この椅子には5人も6人も座るのかもしれません。当たり前のようですが、これは不思議なことです。
一人が座っているとき、椅子はちょうどその1人を支えてびくともしません。なぜでしょう。実は50kgの重さが椅子にかかったとき、椅子の方からもまったく同じ50kgの、1人を支える力が下から上に出ているのです。だからこそ椅子はつぶれることもなく、また人を飛び跳ねさせることもなく、ちょうどぴったり支えることができるのです。
2人が座ります。やはり同じです。100kg人が座って重荷がかかった時、椅子の方からもまったく同じ100kgの、2人を支える力が出ているのです。今度は3人が座ります。すると今度は椅子からは150kgもの、3人を支える力が出てくる。
どれくらいの重さが椅子にかかっているか、それがその人の信仰の度合い。この椅子の人間を支える力が、神様から発せられる力。そう捉えたらどうでしょう。椅子はとても頑丈で、300kgの力が掛かってもつぶれることはありません。なのにほとんどの人は、その椅子に、中腰(ちゅうごし)で、恐る恐る、そっと座っているだけです。自分の足に頼って支えようとして、腰からすっかり、じっくり自分の全体重をかけて座ろうとしていません。そのために人はいつもふらふらしているし、また椅子の方も、力を出しきらずに置かれているだけ。そんなことがあるのではないでしょうか。
あなたはこの椅子にどれだけ腰を据えて座っているでしょうか。自分の足を頼りにし、椅子に深々と座ろうとしないうちは、けっして椅子が本当の力を発揮することはないのです。しかもこのように信じると言うこと、それは本当は簡単なことなのです。自分の足を頼りにすることをやめて、自分で何とかしようとすることをやめ、心配することを忘れ、恐れを捨て、すっかり神に任せ、深々と座ってみたらどうでしょうか。それが主がおっしゃることは必ず実現すると信じるものの姿です。すべて重荷を置いて、椅子に座りなさい。そうイエス様は呼びかけておられます。
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サンタ、今年も追跡します(朝日新聞 2012年12月23日朝刊)
北米航空宇宙防衛司令部(NORAD:North American Aerospace Defense Command)が毎年行っているサンタクロースの追跡作戦“NORAD Tracks Santa”が今年も行われる。
米軍とカナダ軍が共同運営する北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)は24日、毎年恒例のサンタを追跡するプロジェクトを実施する。人工衛星などを監視するNORADは、12日の北朝鮮のミサイル発射を探知し、地球の軌道を周回する北朝鮮の人工衛星も追跡しているが、クリスマスイブには「一大任務」が加わる。
NORADは、クリスマスプレゼントを配るため世界中を移動するサンタを追跡、その様子を24日未明(日本時間同日午後)から、NORADのウェブサイトで日本語を含む8カ国語で紹介する。
北朝鮮の人工衛星とサンタを同時に追跡できるのか、朝日新聞がNORADに尋ねたところ、担当者は「運営の安全を確保するため、能力の詳細は話せません」と断ったうえで、「私たちはいくつもの物体を同時に追跡できます。サンタはものすごい速さで移動するのですが、私たちの人工衛星は、トナカイの鼻から出る赤外線を探知して、サンタを追跡できるのです」と答えた。
サンタが実在するかどうかについて、NORADは「50年以上にわたる我々の追跡から導き出される結論は、サンタが世界中の子供の心の中に実在し、愛されているということだ」としている。
”「サンタはいる」と答えた新聞”というタイトルの新聞記事が目に付きました。朝日新聞の”風”欄です。
~19世紀末、ニューヨークに住む8歳の少女が新聞社に手紙を送った。「友だちがサンタクロースなんていないと言います。本当のことを教えてください。サンタはいるんでしょうか」それを受け取った「ニューヨーク・サン」紙の編集局は本物の社説で答えた。
「サンタはいるよ。愛や思いやりの心があるようにちゃんといる」「サンタがいなかったら、子どもらしい心も、詩(文学)を読み楽しむ心も、人を好きになる心もなくなってしまう」「真実は子どもにも大人の目にも見えないものなんだよ」と。・・・・
少女の名前は、バージニア・オハンロン。手紙を書いた少女は教育に携わり、亡くなるまで恵まれない子どもたちの救済に尽くしたということです。彼女の名前を冠した奨学金制度が今月、ニューヨークでできた。貧しい家庭の優秀な子に授業料を支援する。お世話になっている子達の心には「目には見えずとも大切なもの」が生き続けていると校長は言う。「デパートで出会ったサンタのひげをひっぱったら、取れちゃった。でも、サンタはいないとは思わない。クリスマスになると、わくわくするのはサンタのおかげ。見えなくても、わたしの胸の中ちゃんといる」。作文の授業で、10歳の少女はこうつづった。米ジャーナリズム史上最も有名な社説と呼ばれる、バージニアへの返信を掲載したサン紙は半世紀前に消えた。同じ名前と精神を看板に設立された新聞社も、経済危機のあおりで昨年解散した。少女の心の扉を開き、百年の時を越えて人々の想像力のともしびを燃やし続ける一編の記事を生み出す力が今、私たちの新聞にあるだろうか。サンタはいる。そう書ける新聞でありたい、と思う。(朝日新聞(朝刊)2009年12月19日)と。
この2人の出会いの中に、「教会」の根本的なイメージを感じ取ることができるでしょう。「いろいろ問題や悲惨なこともあるけれど、それでも神の約束は確かにわたしたちの中で実現に向かっているよね」ということを分かち合い、その喜びを確かめ合うのが、教会という集いの根本的な意味だと言ってもよいのではないでしょうか。
3 advent C
待降節第3主日 C
ルカ3:10ー18
待降節も第三週に入ります。今日は喜びの主日と呼ばれ、世の救い主がまもなく、この世に来て下さる、その喜びを表す日です。今日読まれるフィリピの教会への手紙に、「常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリ4:4)と喜ぶことを教えています。ふつう喜びとか賛美の心は自ずからわきあがるものです。そしてこういう気持ちでいられるとき、確かに人は幸せでいられます。でもいつもいつもそのような心でいられるとは限りません。いや、むしろそうでないことの方が多いでしょう。自分の思っていることがかなわない、仕事や人間関係はうまく行かないとき、突然の事故で親しい人が亡くなったとき、そのような中でも、喜びや賛美の心を持ち続けることは難しいです。
「喜び」は命令されて出てくるものではありません。喜びがあるときに自然にわき上がるものです。しかしパウロは命じられました。あなたは喜びなさい。重ねて言う。喜べと。この手紙も、パウロ自身が牢獄に閉じ込められている中で書いたものです。パウロは、喜び、感謝、賛美の心は決して自然にわき上がるものだけではない。与えられるものでもない。自らが作り出し、発見していくもの。
キリスト者の務めは喜ぶこと、そして感謝することに対し、感受性を高めることにあると、教えているようです。
イエス様はご自分に従おうとする者に、こうあらかじめ言っています。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタ5:12)。 またイエス様は十字架を前にした最後の夜、こう祈りました。「今、私はみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」(ヨハ17:13)。
死に渡される最後の夜、「私の喜び」と言ってのけたイエス様の喜びとは一体どのようなものだったのでしょう。その夜イエス様は血の汗が出るほど苦しんだはずでした。これから先に起こる弟子と群衆の裏切り、十字架の苦しみ、母マリアとの別れ。
できるならこんな苦しみは取り除いて下さいと願うほどの苦しみでした。でもこんな苦しみの中でも、絶望的な、迫害を前にしても、イエス様は喜びを感じ取ることができたのです。
それは父なる神様への感謝の心を思い起こすことができたからだと思います。どんな絶望的な中でも、それでもすべてのことを結局は、良いように導く神様。父のみ旨を果たす喜び。父なる神への感謝の気持ち。それらを思い起こすことができたのです。それができたとき、イエス様は自身の苦しみを、神様から与えられたものとして、喜びをもって受け入れることができたのだと思います。
いろんな苦しみを人間は体験するものです。しかしあの苦しみの時が、一番の恵みの時だった、自分のために確かになった。そう後で分かることがあったのではないでしょうか。 私たちはこのイエス様を模範にして、どんなとき、苦しいときにも、わずかでも喜びを感じ取り、すべてのことの背後におられる神様へ感謝することが大切です。
たとえば突然の地震や事故を体験すると、人は言うものです。神様がいるなら、どうしてそのような悪を止めなかったのか。しかし同じように言う人はほとんど、地震のない日常、事故のない電車に乗り合わせるとき、それは当たり前と思い、感謝する心を起こしません。
カール・バルトと言う人は強盗にあったときに、次のように感謝したそうです。 今まで強盗に会わなかったことに感謝します。取られたのが金であって命でなかった。命は大丈夫だったことに感謝します。すべてのものを奪われたがそれほどではなかったことに感謝します。私が盗む側でなかったことに感謝します、と。
間もなくイエス様がこの世にお生まれになります。洗礼者ヨハネも、自分はイエス様の先駆けでしかないこと、自分が衰えて行くしかないことを知っていました。しかしイエス様の栄光が高まる結果なら、それでよしとしました。名誉、地位にとらわれず、自分の命を惜しみなく捧げていく。洗礼者ヨハネもまた神様のみ旨に、従順に生き抜いて、自分の喜びと神様への感謝をしっかりと知っていた人でした。
「キリストに倣って」という本では、この世の喜びにとらわれることなく、神様をしっかり見つめて、こう祈っています。
「主よ、もしあなたが、私を暗黒(暗闇)の中に置こうとお思いなら、私はあなたを讃美します。
もし私を光の中に置こうとお思いなら、同様に、あなたを讃美します。
もしあなたが、私を慰めて下さろうとお思いならば、あなたを讃美します。
また、もし私を苦悩にあわせようとお思いならば、同様にあなたを讃美します」
私たちも、いろんな苦しみの中でも、賛美する、感謝する心を忘れないようにしたいと思います。moseos
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「馬小屋が人生の学びやである(…)。この馬小屋で、私たちはまことの喜びの秘訣を学ぶことができるからです。まことの喜びとは、多くのものを所有することではありません。むしろそれは、主が愛してくださっていることを感じ、他の人のために自分をささげ、愛し合うことのうちにあります。馬小屋に目を向けたいと思います。聖母と聖ヨセフはそれほど幸せな家族だったとは思われません。二人は最初の子をたいへんな困難のただ中で受けとめました。それでも二人は深い喜びに満たされました。なぜなら、二人は互いに愛し合い、助け合っていたからです。何よりも、自分たちの現実の中で神が働いておられることを確信していたからです。神は小さなイエスのうちにご自身を示してくださったのです。羊飼いたちはどうでしょうか。羊飼いたちはなぜ喜んだでしょうか。いうまでもなく、みどりごは彼らの貧しさや除(の)け者にされた境遇を変えてくれるわけではありません。けれども、彼らは信仰の助けによって、「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」のうちに、「しるし」を見いだすことができました。すなわち、神は、「み心にかなう」すべての人のために、また羊飼いたちのためにも、ご自分の約束を実現してくださったという「しるし」です(ルカ2・12,14)。
(…)ここにまことの喜びがあります。まことの喜びとは、私たちの個人また共同体としての生活が大いなる神秘の訪れを受け、この神秘で満たされていると感じることです。大いなる神秘とは、神の愛の神秘です。私たちは喜ぶために、ものだけではなく、愛と真理を必要とします。私たちは近くにおられる神を必要としています。(…)この神が、おとめマリアから生まれたイエスのうちに示されました。だから、私たちが馬小屋や降誕の洞窟の中に飾る「幼子」は、万物また世界の中心なのです。」(ベネディクト16世、『霊的講話 2009年』、380頁以下、一部変化)
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ヨハネが悔い改めを迫った時に、群衆が「それではわたしたちは何をすればよいのですか」と、尋ねた時に、ヨハネはきわめて具体的、現実的な答えをするのです。「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい。」といい、取税人に対しても「きまっている以上に取り立ててはいけない。」といい、兵士に対しても「人をおどしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足しなさい」と、きわめて当たり前、現実的なことを勧めるのです。悔い改めるということはこういうことです。
何か悔い改めるといいますと、今までの生活をがらりと変えることだ、全財産を投げ出して、出家することだとはいわないのです。そういう悔い改めをして、全国に講演旅行することが悔い改めではないのです。そんな悔い改めをしたら、自分はこんなに劇的な悔い改めをしたのだと悔い改めた自分を見つめてばかりいて、そうしてやがて悔い改めた自分を自慢話のネタにするのです。それは悔い改めさせてくれた神よりも、悔い改めた自分を宣伝するようになるのではないかと思います。http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke5.htm
洗礼者ヨハネの生き方は、「自分の立場をわきまえる」ことでした。洗礼者ヨハネは、それぞれの立場の人びとから、さまざまな質問を浴びせられています。それらの問いかけに対して、洗礼者ヨハネは無理のない分かち合いを進めています。決して大それたことではなく、毎日の生活のなかで身近に行うことのできる振る舞いを大切にするよう呼びかけています。民衆は、洗礼者ヨハネの生き方を眺めて、「救い主が来た」という感触を得て、よろこびつつ騒ぎ立てました。しかし、洗礼者ヨハネは、「自分の役割をわきまえていた」のです。自分を宣伝し、威張り散らしがちな世の中の人びととはまったく異なった謙虚な生き方が洗礼者ヨハネの魅力です。
しかし洗礼者ヨハネは、自分はメシアではない。偉くなんかない。イエス様こそメシアで神の子だから偉いと、率直に語りました。「自分はただの人。イエス様の履物をお脱がせする価値もない。イエス様こそメシアなのだ」と言ったのです。
有名な指揮者レオーナード・バーンシュタインは、管弦楽団で一番難しいパートを問われて、第2ヴァイオリンと答えました。けっして目立って音を奏でる第1バイオリンではなく、かと言え技量も同じものを持ちながら、それでも第一ヴァイオリンを引き立たせる第2ヴァイオリンの役こそ、一番難しいと言ったわけです。 考えてみれば私たちは誰も第二バイオリニストです。第一ヴァイオリンであるイエス様を引き立たせるための。そうでなく自分が何よりも目立とうとするときに、いろんな誤りが起こってきます。 また私たちはすぐ自分のすることの実りを求めます。しかし働かせてくださるのは神である主です。主が働いて実りをもたらしてくださることを信じ、実を結ばないように思えるときも、自分のすることを地道にしていく忍耐を持てます。Moseos
今日の三つの朗読は、イエス・キリストの特徴を見事に言い表しています。イエス御自身は直接に登場していませんが、その特徴がうきぼりにされているのです。イエスの特徴とは、確実に私たちを救ってくださること、まことのよろこびに迎え入れてくださること、謙虚に仕える者として私たちを支え励ましてくださることです。
私たち自身の生き方とイエスの生き方とを比べてみると、まったく逆の現実が見えてきます。私たちの場合は、相手を確実には救えない、にせのよろこびのなかで自分勝手に生きている、傲慢にも相手を従えて利用しようと、もくろんでいる。反省させられます。同時に、主イエスに助けを求めて回心していきたいと願います。主よ、あなたに従う真実の喜びに入ることができるよう、自分の小ささを謙虚に受け入れる恵みを与えてください。sese06
生活の中での愛の実践。生活の具体的な場でのやさしさ、おもいやり、いたわり。それを救い主イエスと出会う最高の準備として、もう一度真剣に考えなおしてみたいものです。
2 advent C
待降節第2主日 C
ルカ3:1ー6
今日の福音は、洗礼者ヨハネの登場と、イザヤの言葉の引用で、私たちにクリスマスの準備を促しています。これからの一週間、私たちの心の準備に当てていく何かをつかむことにいたしましょう。
この福音書を書いたルカは、最初のところで、二つの動きを紹介しています。一方は、この世の権力者の名前を挙げて、この世がどれほど権力を欲しがっている世の中だったかを描き、もう一方では、荒れ野という、この世の権力争いとは無縁の場所で、神の言葉が伝えられていくところです。
神の言葉は、権力と支配がすべてという場所に降ることなく、しかしそれと同じ時代に、神の言葉はヨハネが活動の場に選んだ荒れ野に降ったのです。権力は何と魅力的なことか、神を信じることに、どれほどの意味があるだろうか。権力者が力を見せびらかしていたその時に、権力争いから離れた場所で神の言葉が降り、活動し始めるのです。
あるいはそれは、ほかのいろいろな疑いを持っている時代に、神の言葉が降ったと言ってもいいでしょう。たとえば、命は、大切だろうか、命の大切さをいったい誰が、どこで教えてくれるだろうか。そう疑っている現代にも神の言葉は降る。そう言い直しても構いません。
政治がよくなれば、日本は良くなると考えている人がたくさんいます。それはそうかも知れませんが、政治家が世の中を動かして、たとえばゆとりのある教育を押し進めたとしても、命の大切さを、本当に教えることができるようになったかと言ったら、そうでもないのです。神の言葉が降って、神の言葉を受けいれた人が、神の思いを忠実に受けとめなければ、たとえば命の大切さも、本当の意味では伝わらないのです。
学校では、特定の宗教を取り上げることはできません。ですから、「いのちは神が与えてくださったものだから、大切なんだ」という、この一言を言いたくても言えないのです。「かけがえのない命」とは言えても、神が造られたから命は大切なんだ。たったこれだけのことが言えないのです。
だからこそ、神の言葉はザカリアの子ヨハネに降り、伝えよと言われたことをそのまま伝えます。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。(中略)人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と。残念ながら、政治の舞台も教育の現場も、神の言葉を神の言葉として語れないのです。そんな行き詰まりの中にある社会に、宗教だけが、神を信じる集いだけが、神の言葉を神の言葉として聞き、学び、伝えて回ることができるのです。そしてその神の言葉が、まもなく人となっておいでになるのです。今私たちはその日を待ち、喜び迎えようとしているのです。そう思って、一日一日を過ごしていただきたいのです。
次に、洗礼者ヨハネの口を通して語られた、イザヤ預言者の言葉をもう少し考えてみましょう。引用された言葉に共通するのは、「~される」という言い回しです。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに(「される」ということでしょう)なり」。
洗礼者ヨハネの呼びかけを聞いて、あーそうだ、私たちは救い主をお迎えするために、あわただしい生活のなかに、落ち着いた場所を用意しないといけない。そう感じた人たちが、呼びかけに答えて神に立ち直るとき、時間に追われ、落ち着きを失っている私たちにも、神様が宿る場所、平らな場所が与えられるわけです。
それは、呼びかけに答える私たちと、実際にその歩みを完成してくださる神様との、共同の働きです。神が、谷を埋め、山と丘を低くし、曲がった道をまっすぐにしてくださるのです。こうして、イエスを迎える準備の時から、神が私たちの準備を助け、完成してくださると気付いていただきたいのです。
神が、人となっておいでくださる。権力争い、支配欲などでドロドロになっている世の中であっても、神は伝えたいことがたくさんあって、おいでくださる。命がなおざりにされ、物とか力で他人を支配しようとする世の中に、神は命の大切さをみずから知らせにおいでになるのです。
国や政治、あるいは法律が、命の大切さを決めるでしょうか。今宿ったこの命は守り育てるけれども、あの命は事情があって守ってあげられない。現に法律がそれを許しているのだからと考える人がいますが、日本の法律はなぜすべての命を大切にしてくれないのでしょうか。あの人はまだ生きていて良いが、この人はかわいそうだから、国の定めた条件に合えば死んでよい、とでも言うのでしょうか。
神だけが、命の尊さ、生きる意味について正しく教えてくださいます。そのことをはっきり教えるために、神がまもなく、人となっておいでくださるのです。ある国で安楽死の法律が決まっても、いのちに権限を持っておられるのは神です。その国にとっても、イエスの誕生は、まことの命の意味を知るために必要なのです。
神だけが知っておられ、神のみが教えることのできる真理を、私たちは必要としています。そういう思いで今年も主の降誕を待つことにしましょう。教会にみなで集まってイエスを待ち、生活にあっては祈りの時間を持つことで、この社会にイエスがおいでくださる必要があるということを証ししていきましょう。
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私たちは先週から、こらから来られるキリストのために心の準備を始めました。この準備のために、今日の福音は良いヒントを与えてくださっています。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る』
人は、みな誰かを出迎えようとする時に、その道がデコボコだったり、整えられていない山道だったりしたら、相手の方が、少しでも速く来やすいように道を整えて準備をします。
車が走りやすいように、カーブを減らし、高速道路のようになるべく真っ直ぐな道にします。道を真っ直ぐにするということは、曲がった道を走るより、目的の場所に速く到着するということです。
それでは、その道を私たちの心に例えてみますと、正直で曲がっていない心には、キリストは最も早く来られます。曲がった心にもキリストは来て下さいますが、そのスピードは快速とはいえません。車は渋滞し、なかなか進みません。また、新幹線も、高い山を登らずにトンネルをくぐり、深い谷を下らずに橋を渡って走ることにより、真っ直ぐ走ることができ、スピードが出せます。この山と谷を人間の心や生活に対比させてみると、山は元気すぎる時(奢り高ぶる心や金持ちにあこがれる生活)、谷は失望する時(鈍い心や貧しさを嘆く生活)ではないでしょうか。私たちは、深い谷を少しずつ埋めることによって、高い山を低くしていかなければならないでしょう。つまり、両方の極端な状態を平均的にしていくことにより、その状態は、穏やかになります。
キリストは柔和な心の人、公平な心の人の中に、真っ直ぐ豊かな恵みをもって宿ります。この山と谷は、私たちの日常生活を見回してみても思い当たることが一杯あるのではないでしょうか。人間関係の中で「あなた」と「私」の間に、いろいろな妨げがある時、それは、それぞれが心に抱えている曲がった道です。ベルリンの壁が崩壊したときに、ヨハネ・パウロ2世教皇様は、「"壁"ではなくて"橋"を作りましょう」と強くおっしゃいました。これはイザヤのような預言と言えるでしょう。私たちの心の中にある曲がった道(壁)を避けて通るのではなく、道を整えて"橋"を、「あなた」と「私」の間に架けましょう。お互いを信じ、信頼し、お互いにチャンスを与え会話をすること。そうすれば、「あなた」の中にいらっしゃるキリストを、「私」は優しく迎えることができるのです。しかし、このことは、私たちの力だけではできません。そのために神様に"祈り"ます。『神様、力を与えてください』と。
国連のデータによると、今、この世界で飢えている人々が、10億24万人いるそうです。また、6秒おきに栄養失調の子どもが死亡しているそうです。12月2日に、アメリカのオバマ大統領がアフガニスタン支援のための増兵を正式に発表しました。そのために年間300億ドル(約2兆6000億円)の費用がかかるそうです。そのお金の少しでも飢えている人々に使えたら、大きな"橋"になるのではないでしょうか。
クリスマスは、平和と一致の季節です。国と国の間、私たち一人ひとりの間にその心を持つことが出来るように神様に願うことは、とても大切なことです。
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◇私たちはいつの間にか、自分だけが正しい。他の人は自分の都合のよいように変わるべき。そのような自分中心の悪の原理主義に犯されがちです。家族の間でどうでしょう。いつも相手に期待し、相手が自分の都合のいいように変わるよう願っている。しかし自分は絶対に変えない。変わるつもりがまったくない。強情を貫き通している。
ある孤独な老人は、自分のことを振り返ってこう語りました。「自分の人生は結局は、人に変われということばかりだった。しかしその結果、みんな自分の周りから去ってしまった。たったひとり。今最後になって思う。本当は、自分が変わらなければいけなかった。そのことに気づくのにあまりに遅かった」。
第2朗読でパウロの祈りを読みました。「知る力と見抜く力とを身に着け、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(フィリ1:9f)と。
いつも愛が十分に働いているか。そのことを基本の原理とすること。愛のために、本当に、自分のなすべきことを見つめること。本当に大切なことを、大切にしているかをしっかり見極めること。それが大事です。イエス様は、自分の枠に閉じこもり、自分を守ろうとする狭い心で、人を裁いてばかりいる私たち一人ひとりに、回心を呼びかけるのです。
◇ある家庭の妻は、飲んだくれのご主人をかかえて困りぬいていました。毎晩のように飲んでは暴れる。ある時、子どもと二人で、酔っている夫の首を、ネクタイで絞めようとしたほどだったそうです。そんなある時、「愛はあなたを変える」という教会の案内を手にしました。「そうだ、キリスト教なら夫を変えてくれるかもしれない」とかすかな希望をいだき、様子を見に、まず自分が教会を訪れました。しかし出席するにつれ、「夫が変われば」と思っていたのが、「変わらなければならないのはこの私だ」と気づき始めました。こうして妻が変わりました。「私に愛がなかったばっかりに…」と夫に謝りました。妻の変わりように夫も教会に行き、イエス様を信じてすっかり変わり、家中がすっかり明るく変わってしまった。この変化は「まず自分が変わらなければ」と妻が自覚した時から始まりました。
夫婦の間で、けんかがあるのは当然です。そうやって言いたいことを言いわなくなったら、それも不幸な、家庭の中の冷戦状態です。そうではなく互いの違いを、間違いとして拒絶するのでなく、理解しあい、受け入れる関係をたえず作っていく。これこそが大事です。
家族の中で、学校で会社で、「誰々が悪い」と初めから決め付けて、その人をただ批判するのではない。自分が変われば相手が変わるといつも確信して疑わないこと。
自分は正しい。それを大きな声で相手に無理やり押し付けたりしないこと。互いに自分の感じ方を伝えながら、互いが分かり合っていくよう努力すること。
相手のいいところを見つけたらほめ、自分がいいなと思ったらそれを率直に伝えましょう。
会話のときには、「私」を主語にして話しましょう。「あなたがうるさい」「あなたは間違っている」というのでなく、「私はうるさいと感じる」「私はあなたが間違っていると思う」という言い方にかえていく。こうして決め付けた言い方をやめて、「本当は違うかもしれないけれど、少なくとも私は思う・感じる」、そのような余韻を残しつつ、相手に受け入れやすい表現を多くしていきましょう。
そういうことを一つ一つ重ねて、自分絶対主義から、神様の愛の原理主義に回心して近づいていけるよう努力しましょう。
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さて、「悔い改め」、「回心」というと、一般には「自分の生活を改めること」と考えられています。しかし、これは皆さんも御存知でしょうが、「メタノイア」という言葉に「生活改善」の意味はありません。
「生活改善」の意味の「改心」は、別に単語があるのです。「メタノイア」は「心を神様の方向に向けること」、だからこそ、教会で「カイシン」は、「改める心」ではなく、「回す心」と書くんですね。「心を神様に向ける」、今日の福音の後半、イザヤさんの預言の引用で、「道」というものを、ことさら強調しているのも、うなずける気がします。一本道を歩く時、私たちは後ろ向きに歩くことはしませんし、よそを向いて歩けば転んで怪我をする恐れがあります。道を歩く時、私たちは、まっすぐ前を向いて歩くのです。まっすぐ、終着点を見つめて。その終着点が山や丘に遮られて、ジャンプしても見えなければ、意気込みもそんなに大きくはないでしょうが、神様はヨハネを通して、視界を遮る山や丘を平らにされ、しかも、私たちが歩きやすいように、曲がった道をまっすぐにし、でこぼこの道を整えて下さいます。
終着点におられる方、それは言うまでもなくイエス・キリストです。初めは見えないキリスト、しかしイエス様はそこにおられます。洗礼者ヨハネは、このイエスキリストを、人々がはっきりと見、遂には一致し、キリストを「着る」までになるために、「悔い改め」の洗礼を授けたのです。今日の第一朗読と第二朗読には、それぞれ、「義の衣を身にまとい」、「栄光の冠を身につけよ」、「知る力と見抜く力とを身につけて」、と記されています。私たちは「身につける」という言葉を使う時、文字通りに「着る」という意味でも使いますが、同時に、「習得する」、「自分の力とする」という意味でも使います。私たちはキリストと一致し、キリストを「着る」ことによって、キリストを「自分の力とする」のです。
私たちは、神様が整えて下さった道を進みます。そしてイエス様もその道を、私たちの方へ歩いて来られます。私たちもイエス様も、お互いを求めているのです。クリスマスまでの 3 週間、私たちが更に、キリストを求める心を燃え立たせることができますように、そして、クリスマスに、その心を一気にスパークさせることができますように、共に祈りましょう。
1 advent C
待降節第1主日 C
ルカ21:25ー28,34-36
今日、「生活の煩(わずら)いで心が鈍くならないように注意しなさい」。また「いつも目を覚まして祈りなさい」という聖書の言葉が読まれました。人間の一生は先が分かりません。だからこそ心配し、備え、煩いがつきまといます。それでも先を煩わず、いつも目を覚まして祈りなさい、と言うのです。でも逆に言えば、先が分かりさえすれば、人間は煩わずにすむのでしょうか。人間には未来のことはわからないが、もし分かっていればやりやすくなるでしょうか。
この頃DVDで同じ映画が何回も見ることが出来ますので、私たちはそのストリーの過去も未来の出来事も、お見通しと言うことになります。例えば、若い娘が彼氏と恋愛し、結婚したくて仕方なくて、それで両親の反対にあって もめている部分が流されます。実はその先、二人はめでたく結婚します。ところが旦那さんは、人を助けるために、死んでしまうのです。でも、若い娘は、彼と一緒になりたい……そういう場面が再放送で、また流れるわけです。
そういう先の展開の分かっている私は、「あぁ、そうやって苦労して結婚したって、あとで、悲しい思いをするだけなんだよ」と思って、声をかけてあげたくなる。でも、もしも、私が神になりすまして、本当に声をかけたとしても、「結婚したって間もなく死んじゃうんだから、やめときなさい」と声かけたとしても、きっと彼女は、そんな声を信じるわけないだろう。むしろ「そんな未来知りたくも信じたくもない。神様黙れ」と激怒するんじゃないかとと思うのです。
人間は未来を知りたくて仕方なくて、占いに頼ったりして、未来を解き明かそうとします。でも未来が本当にすべて分かったら、未来に希望をなくし、ハラハラドキドキすることもなく、つまらない人生を生きるのだろうな、と思います。
神の思いは、この若い娘の好きだという感情の前では、奥に引っ込まざるを得ない。神様は限りない愛をもって、彼女に、「別れなさい」なんて言えるのでしょうか。神様が人間の生活に介入しないのはそのためでしょう。
でもそうは言っても、次の疑問が生まれます。神様は何で、旦那さんが死ぬのをそのまま、分かっていながら放置するのか。この答えは恐らく、神様が放置したのでなく、そういうように、その人間の生き方がその道に導いてしまうのでしょう。この旦那さんは、優しい人だから、自分を犠牲にしても人間を助けたいと言うことを自分の意志によって決めて、そのために死んでしまう。またそのような人だからこそ、彼女は、好きになるのではないでしょうか。
それでもまだ納得いかないことがあります。ではなぜわざわざ神様は、そんな悪い結末をゆるすのか?なぜ神は自然の災害をゆるすのか?なぜ、あの問題は解決しあにのか?なぜ、あの人は変わらないのか?なぜ、なぜ?人間が生きていく上では、この「なぜ」がつきまといます。生活の煩いの一部です。そのなぜばかり繰り返し、自分の不運を嘆き、また他人を責めてばかりしていると、心は鈍くなり、生き生きとした、明るい心がなくなっていきます。
「なぜ」の答が全部 分かったとき、そのとき、すっかり未来は明らかになる。でもそうしたらやはり、この「私」という人間の生きる意義が、すっかりなくなるのではないでしょうか。それが全部分かったら、ただあらかじめ定められた地図と年表に従って、ノルマを果たしていくだけの「ロボット」のようなものに成り下がるしかないのではないでしょうか。
人間は先が分からないからこそ、自分で決定し、自分で責任をとり、自分であることができる。
たとえば、今日はこの人と知り合って、数年後その人が自分を裏切る。
もしそんなのがすべて分かっていたら、まったく面白くないし、人生に対して、生きる意味をなくして、すっかり悲観論になって、生きる目的を失います。
神様は、この世と人間を創造したあと、ほったらかして、傍観している神ではありません。いろいろな営みをしている人間の歴史を限りない憐れみと愛をもって眺め、そんな人間一人ひとりの歩みを、ある時は神の存在に気づかせ、回心させ、ある時は忘れることを赦しながらも、いつもそれでも限りない愛のまなざしで見守って共にいてくれている。いつも来てくれる、きて下さる。私たちはそれを待つのです。未来を知ってコントロールしようという生き方と、来られる方を待つという生き方は大分違うと思いますが、今日はその違いについて考えるように呼びかけられています。
人間は先が分からないからこそ、自分で選択し、自分で決断し、その時その時を大切にしていくことができる。そして自分の過去も、自分のこれまでの人生の歩みも、今の時も、これから起こることも「すべて、恵みであり、これでよし」と感謝し、前向きに受け取るのがキリスト者の生き方ではないでしょうか。
「いつも目を覚まして祈りなさい」とは、人生の一時一時を、大切に、自分で精一杯、選択し、責任を取りながら、またいつも感謝しながら過ごす、そういうことだと思います。
待降節。このように私たちの自由を、歩みを大切に見守って下さっている神様が、ただ眺めているのではなく、本当に人間を救いたくて仕方ないのだ。そのことを明らかにするため、人間の歴史の中にイエス様として登場して下さるのを待ち望む、新しい季節が始まりました。この誕生を待ち望む新しい季節の始まりを、大切に、感謝して過ごしたいと思います。moseos
目先の快楽や自分の生活の安定、損得勘定にはとても敏感なのがわたしたちの日常だと言えるかもしれません。しかし、それよりももっと大切なことに心を向けさせるのが「祈り」なのです。
「起ころうとしているこれらすべてのこと」、すなわち、現実の悲惨さや絶望的な状況、迫り来る「終わり」を突き抜けて、神に心を向けることが「祈り」です。
27節にもある「人の子」は栄光のうちに再び来られるキリストのことですが、キリストが愛によってすべてを完成させる時に向けてふさわしく生きるようにさせてくれるのも「祈り」なのです。パウロは「そのときには、顔と顔を合わせて見る」(Ⅰコリント13・12)と言います。このキリストとの決定的な出会いを意識し、「来られるキリスト」に目を向けていることが「祈り」だと言ったらよいのではないでしょうか。hinto
ニセ救世主、戦争、暴動、地震、飢饉、疫病、天変‥‥。福音は、人生の苦しみや悩みに目をつぶっ
た非現実的な楽天主義ではなく、世の終わりまで続く人間社会の困難を知った上での、イエスの愛と
命と希望のメッセージです。
様々な暗いニュースに沈みがちな心を奮い立たせながら、この世の現実のまっ只中に共にいて、闇に
光をもたらしてくださる神の愛を、今日も信じて生きることができますように。sese04
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