Monday, October 24, 2016

29 出会いと祝宴

29 出会いと祝宴


ミサ聖祭の参列者は食卓を囲む共同体のメンバーとなる。ミサの前半では、神のみ言葉を受け取り、それに答えて神の栄光を讃える祈りをささげ、また自分の心配事や関心事を摂理なる御父の御許におく。それから、席から見守りながら、自分自身の捧げ物を携えて聖なる会食の準備に参与する。献金に使われるお金はいかに人間的暖かみが少なくても、より重要である生活での自己贈与の認められた代替である。それから、参列者は司祭とともに御父に向かい、「私は、天から降って来た生きたパンである」(ヨハネ651)とおっしゃった方の臨在を信仰でもって受け入れる。聖体拝領となると、霊において、聖なる糧を差し出す御父の手を見るのである。「いのちを得る」ことができるために、その糧を敬虔に受け取る。しかし、主の晩餐、または祝宴という概念は一人立ちしない。もう一つの概念、キリストの「来臨」とペアになっている。

  霊性を語るために使われる言語には、後者の側面に関しては慣用語句がある。それは、大変シンプルな表現となっている。いたる所に次のような言い方に出くわすことがある。「キリストはミサに存在している」、「聖体拝領においてキリストは自己自身を信者に与える」、「キリストは信者の心に残る」など。このような霊的言語には問題があると主張する人々は、穏健に反省すべきであり、今一度カファルナウムでのキリストの話を読むべきである。約束されるエウカリスティアに関しては主ご自身が、「来る」と「会う」というイメージを使っておられる。実際の食糧、実際の食べ物と飲み物の強調と共に、次のような文言がある。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 (ヨハネ633)。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 わたしは命のパンである。(ヨハネ646-47) 」「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(ヨハネ651)」 「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ657)

   御父の手が差し出す「まことの肉」、「まことの飲み物」はものではなく、一人の方であり、「それ」ではなくて、「彼」である。この方が永遠に誉めたたえられる至上の人格である。したがって、敬虔な信仰者は、食べるとか飲むとか言う言い方は、キリストという聖なる方を少し卑しくするのではないかと、ごく自然に感じる傾向がある。

   聖ヨハネ福音記者は、彼が生きた時代でさえ出始めたたくさんの異端と果てしなく戦わなければならなかった。そのために、基本的な箇所で真理を語る言葉づかいは極めて鋭いものとなっている。福音書のプロローグとなる第1章では、ヨハネは神のひとり子が人となったと言わない。「言が肉となった」(ヨハネ114)という、より強い表現を使っている。エウカリスティアに関しては、共観福音書の表現、「取って食べなさい、これは私のからだ」ではなく、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 」(ヨハネ65456)という言葉を使っている。これは究極の解明であり、それに対して人々ははっきりと決定的な「イエス」か「ノー」を言わなければならない。

カファルナウムでの「ユダヤ人」、「多くの弟子」、またユダの頑固な強情とは全く異なる本物の難しさ、前に言及した難しさが明らかになるのはこの辺りである。ここでは、主の自己奉献は、我々に対する人格同士の関係という純粋さから、物や対象物のレベルに成り下がるという真摯な心配がある。というのは、人格を持った人、とりわけイエス、聖なる一者、主である方が物のように与えたりもらったり、いわゆる持つことができない。人は取り交わされ、交換できるものではない。人格は取り交わされるのではなく、我・汝という関係に入り、自由に人格として自らを与える。

   これが、ミサの固有の第二の概念である。第一は「会食」であり、第二は「出会い」である。両方は、キリスト自身によって幾度となく述べられ、またキリストの言葉からインスピレーションを受けた一般的な霊的表現にも見られる。前者は、「まことのパン」、「食べ物と飲み物」、「世にいのちを与える肉」、後者は、「天から降って来た」、「私のもとへ来る者」というイメージで支えられている。他にも、無数の表現があり、主は我々の間におり、我々とともに、我々の方へ愛をこめてかがめ、我々のうちに住まい、我々と一致するということが述べられている。

   ミサは主キリストの記念である。我々は、このことをできるだけ豊かに、深く理解しようとしてきた。今や、さらに一歩先に進む必要がある。

    「記念(メモリアル)」は、地震とか特に豊か収穫とかではなく、人格を持った人にだけ当てはまる。地震とか収穫は、記憶(remember)することはできよう。記念する場合は、災害の犠牲者とか、秋の豊かな実りを祝福し、それを喜ぶ愛する人たちとかは記念されるだろう。記念はいつも人と関連し、その人との生きた関係を前提としている。本来、記念はすでに存在している我・汝の関係の延長線にある。

  これは、まさにミサ聖祭に現れる。主が我々に残された記念は、あるイベントの単なる記憶でもなければ、偉人の肖像画でもない。キリストとの人格同士の関係、贖い主と信仰者の関係の遂行である。ミサにおいてキリストが自らの全人格の現実を携えて、その救済的運命を帯びてやって来る。彼がやって来るのは、誰であっても構わないと言うわけではなく、自分自身に属する人たちである。この辺りもまた聖ヨハネが、この神秘を特に鋭く捉えている。神のひとり子が天から、おん子のみが知っておられるおん父からやって来る。おん子がおん父のいのちをいきておられる。おん子が持っておられるものすべて、その存在の全てがおん父から、おん父を通してである。しかし、この親密な関係がそこでとどまる事はない。おん父がそのひとり子を人類に派遣し、受けた神的いのちを人々に伝えるために。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ657)

  イエスは人となったときに、天と地の間にある隔たり、おん父と我々の間にある隔たりの上に、一度限り永遠に、橋をかけた。従ってイエスは、我々の仲間であるという意味で、我々と共に「おられる」。隔たりの「こちら側」に「おられる」。「インマヌエル」、つまり来タリシ神である。

  ところが、神秘という特別なやり方で、主の記念が祝われるたびに、主が新たに隔たりを埋めるのである。まず、その日の朗読において、我々は主の言葉を受け取る。それから、奉納が準備され、一区切りとなる。聖変化を通して、理解しきれないほどダイナミックな「記念」の主体として、主が我々のところに来られ、我々のために恵みに満ちた世話をやく。聖体拝領においては、主は我々一人ひとりに近づき、次のようにおっしゃる。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」(黙示録320)「戸口」が、本物の信仰と愛において開けられる限りでは、主が入り、その個人の信仰者のために自らをお与えになる。

   ここまで来て、主が典礼において来られるということの一般的な意味に言及すべきかもしれない。「祝日(feast)」という言葉のキリスト教的意味合いはなんであろうか。立ち止まってこのようなことについて考えようとする場合、我々の時代は一定の究極の神秘性との接触を失ったことを念頭に置く必要がある。我々には皆合理主義、また実証心理学に流される傾向があり、全てを知性や道徳的な面に、あるいは「体験」という主観的レベルに還元しがちである。もし、我々は祝日(例えば、復活の祝日)とは何かと問われたら、おそらく次のようなことを答えるだろう。復活の祝日とは、イエス・キリストの復活を記念する日であり、我々は喜びのうち神を賛美し、信仰と愛に満たされ、主の復活の恵みに与る望みを持ちながら、主を探し求め、主が与えてくださった新しいいのちを生きる決意を立てる時である。

これで、復活の祝日のエッセンスを言い当てたことになるだろうか。そうではない。なぜなら、その核心にある現実に触れていないからである。主の復活は、ただ単に繰り返し記憶されるのではなく、追体験されるそのユニークな祝い方が肝心である。主キリストが実際に、永遠という次元から、我々の時間、我々の間にやって来る。

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原注26章で述べたことを参照。

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キリストがその贖罪的いのち全体の充満をもって、それぞれの時、それぞれの祝い日にやって来る。典礼の暦の流れにそって、神の受肉、ご公現、ご受難、ご復活、ご昇天などのそれぞれの神秘の時にやって来る。彼は、おん父から、聖霊の力において、我々の間にやって来る。

  彼を待つ、彼を求める、彼を受け入れ、光栄を感じ、賛美すること、また彼と共にいること、拝領の親密さに魅(ひ)かれること、これがキリスト教的祝日の意味である。

  ここまで考えると、「祝日」と「出会い」という概念はどれほど結ばれているかをちょっと見え始めるであろう。両者は矛盾することはない、むしろ互いに支え合っている。お互いに誤った偏りや虚言にならないように助け合っている。やって来る人と出会うという概念は、人格の尊厳を守り、晩餐という概念をふさわしくない軽視から守る。聖体拝領は所有物ではなく、本物の我と汝の見つめ合いのように交流である、ということを思い起こさせる。他方、晩餐という概念は、出会いという概念を、把握しきれない聖なる神秘の究極の親密性へと投影させる。人間同士の出会いだと、それはいつも相対的であり、他者を完全に抱擁することはない。いつまでも橋渡しできないこの分離は、被造された愛の(緊急対策を必要とする)事態である。聖体拝領では、この分離の最後の痕跡が消除され、被造物のすべての能力を超える一致への「到達」が保証される。

我々はこの神秘から我々の方へ流れる生命についてもっと知りたいなら、使徒パウロの書簡に目を向ける必要がある。ガラテヤの信徒への手紙にこう書いている人:「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ220)この人は、キリストとの「完全な出会い」、つまり「我々のうちにおられる」キリストの福音記者である。

   前章においては、ミサ聖祭への参加のためには会食、祝宴の我々の概念を生きたものにする必要があると結論づけた。本章では、ミサへの参加には、我々のキリストとの出会いの自覚という構成要素もあるとつけ加えなければならない。キリストはやって来る、この部屋におられる、わたしの方へ目を向けておられる、ここにおられる、という自覚である。耳を傾けて、戸口へのたたきを聞き取る必要がある。我々は、彼の到着、彼の訪問を深く体験する必要がある。それは、感傷的な気分、あるいは感情の高揚なしに、むしろ平易な、落ち着いた信仰において。その信仰は全き真理でもある。

Monday, October 17, 2016

28B


28B


主キリストの記念は、キリスト教的生き方の中心的な神秘である。それは、会食の形態をとり、そこでキリストは食べ物において自己自身を献げる。子供の頃の初聖体のお勉強で我々はこれを教われた。説教や黙想会で、それは繰り返し教えられる。信仰についての出版物にも同じことを読むことができる。ところが、我々はこういう考えのすごさを本当にわかっているだろうか?

   主イエスにとって、聴衆が分かっていることが重要なことであっただろうと思われる。なぜなら、ご聖体の制定を宣言なさったとき、その膨大な意義を、偶然と思えない形で強調したからである。カファルナウムでの言葉が、実際の制定の時の言葉とはかなり異なっている。後者の場合は、質素で落ち着いた言葉であった。聖木曜日で起こったものすごい行為においては、イエスはそのものすごい意義を強調しない。信仰の偉大な試みはすでにすぎて、決意がなされた。最後の晩餐でイエスと一緒にいた人たちはすでに試されていた。なぜなら、カファルナウムで、打撃を受けただけではなく倒されるほどに、イエスは聴衆を、激烈に神の超越性(otherness)に直面させたからである。福音書には次のように報告される。「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ635)ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(ヨハネ64142)

   ユダヤ人の反論は、未だに制定されていないエウカリスティアの神秘にではなく、イエス自身の主張、自分は信仰のパン、永遠の真理であるという主張に向けられている。それに、主はどのように答えたかを注目しよう。主張を和らげることはない。聖書の預言書におけるご自分の位置付けを指摘して説明しようとすることもない。

  彼はさらに進んで、あたかも刃物を押し付けるが如く、次のように言う。「わたしは命のパンである。 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 

わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 (ヨハネ64851)これで、ユダヤ人たちは、ショックの激しさを最大に感じる。

   常識的に考えれば、ここで言葉を変えるとか、少なくとも説明してみるとか、と言うことになるだろう。が、イエスは聞き手のショックを和らげる代わりに付け加える。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ65357)ここで、弟子たちの間では、最初の分裂が起こる。「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(ヨハネ661)

   イエスの最も近い弟子たちは困ってしまうが、イエスは彼らを助けたりはしない。むしろ、生きるか死ぬかの意思決定を迫る。必然的にこの世の知恵を覆す啓示を、その完全性において受け入れる準備があるか。それとも、自分の視点にこだわるか、啓示の「可能性」に制限をつけて判断するか。

   「あなたがたはこのことにつまずくのか。 

それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば…… 

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」(ヨハネ661-64)最初に「つぶやいた」「やだや人たち」は、すでに離れていた。その次、「弟子たちの多くの者」は、離れていく。今度、残った中核となる者に向かって言う,「あなたがたも離れて行きたいか」。

  助けとなる言葉は一つもない。ただ、大変な意思決定を迫るのみ。ペトロは答える、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 (ヨハネ668-69)ペトロとその仲間たちは分かっているわけではない。ただ、神秘の力から衝撃を受けて、それに自分たちをゆだねる。彼らは物を言えないほど驚いたが、信頼し続ける。少なくとも、大多数は。

  イエスの答えから分かるように、全員ではない。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」 

イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(ヨハネ670-71)

   イエスは聖なるエウカリスティアという神秘を託したのは、以上のように厳しく試された人たちである。最後の晩餐で初めて、聖なる糧を受けたのはこの人たちである。

   どうやら戦いのないところに本物の信仰もない。その名に値するすべての信仰者が、いつか躓きの危険や試練による裁判(trial by fire)を受けなければならない。

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訳注神明裁判(しんめいさいばん)とは、何らかの手段を用いて神意を得ることにより、物事の真偽、正邪を判断する裁判方法である。古代、中世(一部の地域では近世まで)において世界の各地で類似の行為が行われているが、その正確な性質は各々の神、宗教によって異なる。ヨーロッパでは試練による裁判(Trial by ordeal)、日本では盟神探湯(くがたち)が行われた。

盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。

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試練を無事に通れるのは、神によって守られる純粋な神の子供たちであろう。大多数は無事に通れることはない。

  我々も、カファルナウムで起こったことのすごさを感じるに違いない。ユダヤ人たちを激怒させたこと、多くの弟子にショックを与えたこと、イエスの言葉が我慢ならないこと、イエスを離れたことは、他人事ではない。おそらく、ユダの信仰を粉々にさせたのはこの時のショックだったかもしれない。他の十一人は救われたのは、分からないままに主の御許に信頼をおいたこと以外は何も考えられない。

   カファルナウムで行われたやりとりのインパクトは、在り来たりの信心書が示唆するような、のどかな感傷的な印象を与えることは決してない。それは、前代未聞(ぜんだいみもん)のチャレンジであり、そのチャレンジは投げつけられるのは、知性だけではなく、カファルナウムの厳しい場面で見たように、心にもである。一方、キリストが立っておられ、我々の生活の中味と原動力になるためにご自身を与えることを望んでおられると宣言している。他方、いったいどうやって一人の人が別の人に自分を与えることが可能であろうか。自分の持ち物、知識、経験、助け、信頼、尊敬、愛、一緒に暮らすことであれば、よく分かる。だが、そいうことではなく、食べ物として、そして飲み物として、ご自分の体と魂を、という。しかも、それは「精神的に」ではなく、「現実に」という。ご聖体はシンボルであると主張する論客たちは根拠に取っている聖書の箇所は次の通りである。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。」(ヨハネ663)けれども、パンとぶどう酒が意味するのは、「私の霊はあなた方を満たす。私の力はあなた方を強める」であった、とこの箇所は示しているわけでは決してない。もし、イエスはそのようなことを言いたかったなら、そうすることができたわけだが、しかし、そうは言っていない。カファルナウムの話の肝心な点は、まさに実際の肉、実際の血、実際の食べ物と実際の飲み物へのこだわりである。もちろん、「霊」においてではあるが、それは「聖霊」を意味するのである。

主はいけにえについて語ったが、それは聞き手が馴染みのあった神殿のいけにえとは異なる意味であった。旧約の一般的、人間味の少ないいけにえの意味でもなかった。信仰の親密な神秘の意味であった。イエスのいけにえという輝かしい現実と、弟子たちのそれについてのぼやけた知識とは、聖霊の完全な力における主の復活した体と、弟子たちの前に立っている体とに匹敵する。

   ここでくれぐれも注意する必要がある。ここに我々の信仰の最も高い、最もとがった尖峰(せんぽう)がある。言い換えると、これが最も狭い、最も急峻(きゅうしゅん)な峠であり、これを乗り越える努力をしないと、信仰の完全な、本質的な自由に達することができない。教会史を見ると、キリスト教のこの頂点の現実性を薄める(水増しする)人たちは、ずっと下の基礎まで、教会、受肉、キリストの神性、三位一体といった真理をも薄めてしまうことになる、と示されている。

   カファルナウムの試練は、まことに信仰の最高の試練である。自分の考えが、自分と神の出会いを邪魔する場合、それを乗り越えようとしない人は、神の国にふさわしくない。偉大な回心、尺度の転換が起こるのはここである。決心の本気さと、躓きの危険が直面され克服されたこととを感じないまでは、この究極の神秘の奇跡が展開できない。この難点を乗り越えると、突然、自明であるかのように、至福の知識だけでなく、完全に満たされるあの愛が現れる。あの愛が持っているすべてを与えるだけではなく、「自己自身」のすべてを与えることができる。

   この世のいかなる愛は完全に満たされることはない、いつまでも。この世の意味で愛することは、実は不可能なことを追求することを意味するのである。聖ヨハネは、神の愛の超越性(otherness)をほのめかしている。神は愛スルだけではなく、神が愛デアル、と。神だけが愛することを望むことができるだけではなく、「この上なく愛し抜く」(ヨハネ131)ができるのである。

  人々はパンとワインをいただいて、その栄養分を完全にかつ親密に同化して生きる力を得ていると同じように、イエスはご自分のいのちの源、ご自分の人格そのものという賜物を、人々がいただいて同化することを望んでおられる。また、このような栄養分をいただかない人は、究極の命を持つことはできない、ということさえ付け加えておっしゃっている。

   この世の愛の賜物何であれ、それが可能であるとみなしても、イエスの自己奉献ほど完全なものとなり得ない。愛に伴う不純物や毒素の全くないものになり得ない。イエスは全き純粋さであり、全き強さ、全きいのちなどなどである。イエスは、永遠を通じて神の前に立つことが唯一可能となるための、その不滅の、究極の生命の前提条件である。イエスは最後の晩餐でおっしゃったことは本気であった。トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ145-6)。


Monday, October 3, 2016

28 自己をささげるキリスト

28 自己をささげるキリスト


本物の理解のために必要なことは二つある。第一は、比較し、区別し、因果関係と相互依存の関連を見分ける能力である。第一は重要であるが、それより重要なのは、教えることのできない、物事の本質に対するある感受性である。この感受性は、危険や好都合に素早く気づく用心深さとは何の関係もない。動物も用心深さを持っている。好奇心とも、未知のものや並外れたことをそれ自体として体験して見たい気持ちとも、同じくらい異なる。

   新しいことを体験したいという渇望は、最も高く見積もっても、本質を求める態度の前身に過ぎない。けれども、多くの場合、それのカリカチュアになってしまい、無関心と同じくらい、本物の悟りを妨げるのである。

    悟りの本当の前提条件は、物事の啓示衝撃に打たれ揺れ動かされる知的(知的次元以上のものもあるが)準備である。それは、しかし、個人的な恐れや欲望の影響のもとであってはならない、なぜなら、その場合志向と目的の範囲を入ってしまうからである。娯楽狙いでもいけない、なぜならこの次元では面白さばかり求められるからである。

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訳注本質を求める態度は、具体的な目的や面白さを超えるものであり、物事それ自体に注意を向けることである。例えば、水は美味しいから、あるいは噴水は面白いからではなくて、なぜ水はH2Oと言われるのかを問うこと。

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いくつかのイメージまたはイメージのパターンの背後に隠された意味に直面して、人間はそれを発見したくなる。そのために、真実が外に出てきてくれるように、出口への道を準備する。

   信仰の世界でも、物事の本質に対する感受性がある。けれども、当然ながら、異なった働きを持っている。信仰の世界では、真実の「誕生」は、つまり承認という光、広がりへの本質の出現は可能となるのは、知性と意味のコンタクトによってではなく、神光の力、すなわち恵みによってである。信仰の真理は、まわりの世界から出現し、それを発見することのできるマインドに直面することはない。地上の対象のように、把握され、測られ、徹底的調べられうるものとして、一切存在しない。信仰の真理は神においてのみ存在し、「与えられる」、神の言葉によって啓示される必要がある。そして、信仰によって受け入れる必要がある。いつも、被造されたマインドを超越する神秘として留まる。

啓示によって表された真理は、この世の延長上にあるのでもなければ、この世の新たな次元でもない。完全にこの世の真実を覆すものである。覆すだけではなく、この世の真実の虚しさを暴くのである。人は信仰の従順において神的真理を受け入れる時、人間的真理を見直すことを余儀なくされる。その際行われる回心は、宇宙観全体を巻き込み、それを完全に新たなものにしなければならない。そうする快諾の程度は、その人の啓発の尺度となる。

   しかし、この激変を通じても自然的理性は有効のまましっかり留まる。なぜならば、啓示において語るロゴスは、天地を創造したロゴスでもあるから。

  従って、人間の真の知識の深さは、彼が受けた神的知識の影響にかかっている。この重大な点は、真理に対する単なる知的承諾よりも、もっと深いところにある。それは、生まれ変わること、または新しく創造されることの辺りにある。

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「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り新しいものが生じた.」(2コリ517; ガラテヤ615参照)

パウロは使っている言葉は、kaine ktisis カイネ・クティシスである。「カイネ」は時間的新しさ、新鮮さではなく、性質の新しさ、質的によりすぐれたことをさす。

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   啓示に直面する20世紀の信仰者は特別な難しさを感じる。我々は遅参者である我々の

世代は、神聖な便りを何回も聞かされている。しかも我々は、読み書きと話を聞くことはありふれたものである時代に住んでいる。言葉や情報の取り引きは止まることを知らない。言って見れば、我々の鋳貨(ちゅうか)が擦り切れ、使い古されて、鋳造力はほとんどなくなった。我々は真実の代わりに、真実のカリカチュアを、認識の代わりに、知ったかぶりを売られている。かなり努力しないと、錯覚から解放されない。解放されないと、立ち止まってゆっくり考えることはできない。情熱を注いで物事の明確な真の真実を探求する必要がある。

  そうすると、我々は神的真実を手に入れることのできないように運命付けられているのだろうか。いえ、決してそうではない。なぜなら真実はすべての時代に通用するはずだから。ところが、我々は本世紀における真実の特定の障害をクリアするために、それらを知り、それらと戦う必要がある。

   とりわけ、我々は平静、瞑想、集中力を学び直す必要がある。これらは本書の別の章で説明し描いてきた。また、習癖の捕らわれから自由になり、致命的な見せかけの認識を捨てなければならない。我々は、はっきりと真実を語ることができるように、我々の言葉を再造幣(ぞうへい)しなければならない。