Wednesday, December 21, 2016

5 付録 神の遍在性

5 付録


聖書には、神の世界超越が説かれているとともに、また神の世界内在が説かれている。神の世界内在という思想は、聖書の見地からして、汎神論を許容することではない。汎神論におちいることなく、のみならず神の超越性をいささかもそこなうことなく、しかも神の遍在性が認められるためには、神はいかなる仕方で世界に内在し、またそのような世界内在の仕方は神のいかなる性格にもとづいて起こるかということが、厳密に考察する必要がある。


「神は或る意味においてすべての場所に在る。すなわち、至る所に存在する。まず第一に、神はすべての事物に存在と能力と活動を与えている者として、すべての事物のうちに在る。[]神はまたすべての場所を満たしている。しかし、物体のような仕方で満たすのではない。すなわち物体は、他の物体が自分とともに同じ場所を占めることは許さないという仕方で「場所を満たす」といわれるのであるが、神はこれに対し、或る場所に存在することによって他のものがそこに存在することを斥けることなく、却って反対に、すべての場所を満たしているところの「場所に置かれているもの」のすべてに、存在を与えることによってすべての場所を満たすのである。」

(トマス・アクイナス、『神学大全』第1部第8問第2項)


「神は何らかのもののうちに存在するということは、二様の意味で語られる。一つは、作用因の仕方によるものであり、この意味においては神は、神によって創造されたあらゆる事物のうちに存在する。一つは、働きの対象は働く者のうちに存在するという仕方によるものであり、これは認識されたものが認識者のうちに在り、欲求されたものが欲求者のうちに在るかぎりにおいて、魂の働きに固有なことである。そこで神は、この第二の仕方によっては、神を現実的に愛しあるいは習態的に愛している理性的被造物のうちに、特別な仕方で存在する。そしてこのこと理性的被造物が得るのは、後に明らかにされるように、恩恵によるから、このしかたによっては神は、聖なる者たちのうちに、恩恵によって存在するといわれるのである。

  ところで神によって創造された他の諸事物のうちに、いかなる仕方で神が存在するかということは、人間に関することがらのうちに存在するといわれるものをもとにして、そこから考察を進めることが適当である。たとえば、王は、全国土においてある、王自身がその至る所に現前しているわけではないが、その能力によって存在しているといわれる。また或る者は、その者の視界のもとに在るすべてのものがその人のうちに現前する、という仕方で存在するといわれる。たとえば、或る家のうちに存在するすべてのものは、或る人に現前しているといわれるのである。しかし、その人は、家のいずれの部分にも自分自身の実体によって存在しているわけではない。」

(トマス・アクイナス、『神学大全』第1部第8問第3項)


Monday, December 12, 2016

著者の序文

著者の序文


本書はミサ聖祭の準備のためにミサの前で開催された談話として始まった。談話は主の記念の本質を解釈したり、主の生涯を語るようなものではなかった。その目的は、単にミサに与る時、我々会衆に何が求められているかを明らかにし、それらの要求にどのように適切に答えればいいのかを示すことであった。

   多くの信者にとって、ミサは神聖な見ものや不可思議な手続きのような性格を持つようになった。信者は、その間に自分の祈りをささげることになってしまっている。結果的にミサの現実は埋められ、交換可能でないものは失われてしまった。この事情の理由は数多くあり、とっくの昔に遡るので、それらを正そうとしても無理がある。しかし、ミサが忠実な者たちのために再び本来の姿、制定された時の姿で現われる時が来ている。ミサは本来、使徒言行録(246)とコリントへの最初の手紙(1117-34)が指摘するように、キリストの共同体の神聖な行動、司祭職の世話のもとで、真のコミュニティとして生きた行動をすることを意味している。

  本書が役立つのは、まさにここのところである。それは、ミサをどのように祝うべきか、あるいは教会法の定められた限度内で(あるいはおそらく「祈りの法(Lex orandi)」[第20章の訳注参照]のより完全な達成を通じて)、神聖な儀式の有機的構造がより明確に引き出される方法を示すことを試みたり、信者の参加度合いがどれだけ達成され得るのかさえ述べたりすることではない。それは神学の教科書の役割である。

   ここで必要とされるのは、ミサのための個人的な準備である。これは、個々の信者が自分の信仰を強化し、心を浄化し、自分の意思を整理し、方向付けるという、通常の意味での「ミサへの準備」だけでなく、個々人の集まりを会衆に変え、不穏な群衆を神の目の前で「聖なる民」に変えるためにどうしても欠かせない態度を育てる、といった準備である。

   そのような核心的な準備からのみ、祭壇に集中する注目は内面的に静かになり、聖なるものを受け入れさせることにつながる。こうしてのみ、教会での聞き取りと会話は、道端、家庭、または事務所での言葉の遣り取りとは異なるものとなる。

  本論考の第一部は、もっぱら今述べた基本的な準備を取り上げる。地道な仕事だが、その重要性は大である。その仕事に取り組まないかぎり、ミサ典書を使ってみても、「共唱ミサ」を取り入れても、典礼についての議論は机上の空論か、審美的な物議にとどまる。

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1920年代にドイツでミサの共同体的執行が開始され、「共唱ミサ(ドイツ語でGemeinschaftsmesse ラテン語でMissa dialogata )」と呼ばれた。部分的に国語が導入され、次第に若い知識人の間で刺激となり、カトリック青年運動と結びついていった。

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典礼の行為を真剣に考えれば、知性と心の全体的な集中を前もって準備しなければならない。

     第二部では、ミサ自身について議論し、その本質とそれが我々にとって何を意味するのかを問うが、それが我々に「求めている」ことを常に心に留めておく。我々はそのような要求のくだんの解釈、神聖な儀式に熱心に参加し、聖体を支えるものに我々の態度を一致させるために真剣に努力し、自制と自己犠牲を実践する、といったことにとどまらない。すべてこれは非常に重要であるが、ここの問題の在り処は全く違うところにある。問題は次のとおりである、ミサは本質的に聖なる、典礼的な行為であるが、そうなるためには我々はミサの祭典にどのように協力していけばいいのか?

   信仰、愛、自己犠牲に備えることは、最大の理想であり、典礼と全く関係のない信心は、疑いもなく、真のキリスト教的奉仕を神の前にもたらすことができる。しかし、我々が本書で目指していることも重要であり、最大限の注意を払う必要がある。

   本書は気がかりとしているのは、ミサについて知ることではなく、ミサの実践であると、以前にも言ったことがあるが、訂正する必要がある。知識にはさまざまな道があり、通常は最初に頭に浮かんで来るのは、事柄を熟考、深め、比較し、結論づける道である。多くはこれらの手段で把握できるが、すべてではない。私は、例えば、すでに存在するものを知ることはできるが、実践してはじめて存在する無形のものを知ることはできない。

   後者の知識を得るために私はそれらを行わなければならない。研究を通して、私は木の種類を学ぶことができる、また私の周りのコミュニティ生活のパターンを確かめることができるが、研究は忠実さや愛が何を意味するかを教えてくれない、少なくともそれらの究極の意味、つまり「わたしにとって何をしている」のかを教えてくれない。

   私の観察や考察は、それだけでもある種の適性をもたらして、木や社会の現象について議論する準備をしてくれる。ところが、心の問題について同様の「観察」を試みると、今述べた言葉は薄く空になってしまう。本当に忠実を知りたいのなら、それを実践する必要がある。私は愛について権威をもって語ることができるのは、何らかの形で、私がその挑戦を受け入れた場合にのみであろう。

   同じことは我々のテーマについても言える。ある程度まで聖書とミサ典書を研究したり、典礼の歴史に関する本を読んだりすることで、ミサの本質を理解することができる。しかし、その本質、つまい最大の愛における救いの行為は主の記憶の中で行われることは、私が "やる"ときだけ私のものとなる。

   信者がそれを適切に行うことはめったにないので、おそらく公教要理、説教、そして多くの敬虔な文学にもかかわらず、ミサの本当の性質はキリスト者たちの意識の中に弱いものとなっている。本書がより良い実践に役立つならば、深い理解が続くであろう。


ロマーノ・グアルディーニ

Thursday, December 8, 2016

32 B

32B


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訳注C・H・ドッド(C.H.Dodd, 1884–1973)がとなえた「実現された終末論」(realized eschatology)を参照。それは、イエスと共にすでに、世の終りたる神の国がこの世界の中に入り込んできていると、イエス自身も信じ、また、それを教えたとするものである。ドッドは、世の終わりがこれから来たるものとして、イエスによって信じられていたことを勿論否定はしなかったが、強調点は他の終末論とはことなり、既にイエスと共に神の国、神の支配がこの世に到来している、というところにある。このように「実現された終末論」は、既に神の国の最も重要な要素たる神の支配が起こってしまっている以上、その要素がまだこれから完全に実現されるものであっても、いつそれが完全に実現されるかはそれ程に重要な問題ではなくなる。

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    このようになると、ミサ聖祭もその特徴の一つを失う。主ご自身が強調された特徴、そして初期のキリスト教徒がよく知っていた特徴を失う。ミサは堅実に確立された習慣となり、賛美と感謝をささげ、助けと贖いを求めるために、信仰生活を形作る、キリストから与えられた、一般的に受け入れられた形となる。そうすると、ミサは「すべての教会で毎日、一定の時限、とりわけ日曜日に祝われるもの」となる。もちろんこれも間違っているわけではないが、何か本質的なものが欠けている。

  願わくは、その欠けているものが我々の生活とミサに戻るだろう。神の言葉のさまざまな側面は​​、異なる季節を持っている。時には一側面は退色(たいしょく)し、背景に後退し、キリスト教徒の意識から消えてしまうことがある。それは聖書の中にまだあり、典礼で引き続き読まれているが、言葉はもはや "聞かれなくなってしまった"。それから、存在の方向が変わり、同じ言葉が突然雄弁に鳴り響いているように聞こえるようになる。今の時代はまさにそのような変化を経験している。今の時代は、その前の難攻不落の状態から逸脱し、革命の破壊と再建へと進んでいるからである。安定感と永続性の古い感覚はもはや存在の神秘に「答え」を提供するほど強くはない。我々は、人生の過渡期と疑問を深く意識している。したがって、自然の状況でさえ、聖パウロの言葉の理解を助けている。「この世の有様は過ぎ去るから」(1コリ731)である。何でも起こり得る。我々は神の可能性の大きさを認識し始め、キリストの来る現実を感じ始めている。時間の端から我々に向かって押し寄せるもの、 "言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい"(ルカ2218)。

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訳注: 「ぶどうの実から作ったもの」、つまりぶどう酒の作り方に大変似ているのがオリーブ油である。


世界は圧搾機(アウグスティヌス)


「この世はオリーブ(の実)を絞り込む圧搾機のようなものである。あなたが油かすであれば棄てられる、オリーブ油であれば集められる。とにかく機械にかけて絞り込まれることは避けられない。ただ注意して油かすとオリーブ油を見なさい。絞込みはこの世において行われる。それは、飢饉、戦争、貧困、食料不足、欠乏、死、強盗、強欲を通してである。これらは、貧しい人々にのしかかるもろもろの悩み事、また国々の災いである。我々はそれらを体験する。

ある人々はこれらの災いに悩まされて、愚痴を言う。『この時代が悪い』と。これは、圧搾機(絞る機械)から下水に流される油かすである。その色は黒い、(神)に対する冒涜だからである。全く輝きがない。オリーブ油には輝きがある。ここに別の人間がいる。同じ絞込む機械と圧力にかけられても、彼らはそれを通して清められるのである。絞込みは彼らを精製(純化)するのである。」(アウグスティヌス、Sermones, XXIV, 11 

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ご聖体の制定の直前にあるイエスのこの言葉は、偶然ではない。主の記念を祝うことは、現在の瞬間を永遠に結びつけるだけでなく、我々が容易に理解できる考えであり、未来にもつながる。しかし、その未来は時間のうちよこたわるものではなく、時間を超えてそれに近づき、最終的に時間を廃止する。キリストの約束は、我々に現在を再評価し、それに耐えてやり抜くように教えている。


初期のキリスト教の会衆で勝っていたと思われる気分を、我々がどれほど理解しているだろうか。それらの人々は知っていた:我々の周りのすべては不確実で、異質的で、危険にさらされている。明日は何をもたらすのか誰も知らない。しかし今、我々はここにおり、我々の主の記念を祝っている。彼は我々について知っており、我々は彼について知っている。彼は黙示録の手紙を書き送らせた方である:「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を、()あなたの苦難や貧しさ、()あなたの住んでいる所を、知っている。」(黙示録22,9,13)主はすべてを知っておられる。この知識は我々の逃れ場である。今や、神聖な記念の時である、主は我々の所にに来て、我々とともに留まり、我々を強めてくださるであろう。明日はどんなことであろうと、それは彼から送って来たものであろう、と。

   この束の間の不確実性の感覚を通して、もう一つのより深い感覚が打ち出される:すべての人間の存在の不確実性に対する認識。我々のこの一見して疑いのない世界は、実際にはそれにクエスティオンマークが付いて回っている。我々は今一度それに気付き始め、その兆候を理解し始めている。主は世界を終わらせるために戻ることが、いつでもあり得る。

   ミサの祭典は、常にこの世が「過ぎ去っていく」という感覚に染まるべきである。この世は最初から時間の制限のうちにあり、神の永遠の前に運行している。その運行は神の許す限りである。しかし、問題はこの世の本質的な時性だけではない。それは、「取得された」第二の制限、または死すべき運命にもさらされている。その極度の不秩序は、その不従順と不公正によってもたらされた。神の裁きの前に召喚されると、この世は「耐える」ことができなくなる。その召集が来る時について、我々は知らないので、「眠っている」(マルコ1440;マタイ2643)状態で発見されないように、目を覚まして祈る戒めは当然であろう。「すぐに」来ることだけは確かである。「すぐに」とは、時間の単純な測定(例えば、明日または一年後、あるいは30年後、数千年後)を意味するのではなく、すべての時間に適用可能な、それがどれくらい続くかに関係なく、本質的な「すぐ」を意味している。静かにキリストを待つことから生まれる聖なる「すぐ」である。それは、恐るべきことであると同時に幸せな「すぐ」であり、毎時の時間の制限から我々に押し寄せて来る。我々の信仰が本物であるために、頭のどこかになければならない「すぐ」である。

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訳注「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はスグニ網を捨てて従った。」(マタイ419-20、筆者強調)参照。

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   以上すべてが我々には奇妙に思えるかもしれない。我々は正直でなければならない。実感がないのにふりをしてはいけない。これは、我々の信仰教育の課題である。我々はこれらの考えへの道を手探りしなければならない。徐々にこの期待を我々のものにしなければならない。おそらく本書の数々の瞑想は、思考を表現するためによく使われる用語とは対照的に、我々の現代的な偏見を少なくとも取り除いてきたかもしれない。これから、我々はは本当にこの世の「過ぎ去り」の真実を身につけなければならない。目を覚ますこと、待つこと、「主が再び来られる」時まで耐えることを、練習しなければならない。これは、不自然ではなく、まぎれもない真実を表している。またこれは、生活の不安定、あるいは仕事の効率の低下を招くものではない。生活と仕事における単なるアクセントである。それがなければ、我々の生活と仕事は、物足りないものとなるのである。

  このアクセントを取り入れると、ミサ聖祭はまったく新しい意義を受ける。我々はそれがいかに本質的であるかを理解し、我々にとってミサは最も深い平安と安心の時間となるであろう。毎日の騒音と緊張の中で、ミサを思うことは我々を支えてくれるであろう。手が伸びていくように、心はミサの思いに手を伸ばすたびに、新しい力を手に入れるようになる。

Monday, December 5, 2016

32 付録



終末論の種類・近現代における終末論の展開

 A. A.リッチェル-歴史の中で発展する道徳的秩序としての神の国観-終末的視点の喪失
 B. ヨハネス・ヴァイス-『イエスの神の国の教え』(歴史に突入してくる神の国)
「破壊し再生するための歴史の中に噴きだす、そして人間が推進したり手を貸したりすることができない、圧倒的な神の嵐の突出」
 C. A.シュヴァイツァー『イエス伝研究史』(Consequent Eschatology 徹底的終末論)
「近づきつつある破局的な世界の終りに伴う超自然的な神の国の到来を待ち望んでいた」
 D. C.H.ドット『神の国のたとえ』『使徒的宣教とその展開』(Realized Eschatology 実現された終末論)「イエスの死と復活においてすでに来た」
 E. J.エレミヤス(Sich realisierende Eschatologie 実現途上にある終末論)「なお完成の時が来る」
 F. A.T.ロビンソン(Inaugurated Eschatology 開始された終末論)「連続性と未来性の調和」
 G. R.ブルトマン(Existential Eschatology 実存的終末論)
「そのときそのときの実存的決断の『生』において実現、歴史的というより実存的、無時間的性質」
 H. ディスペンセーション主義 Dispensationalism
「イスラエルと教会の分離・区別、文字どおりの解釈、教会時代は大挿入」
 I. モルトマン『希望の神学』(政治的神学)
「神の変革を待ち望みつつ変革する、歴史における主導性」
 J. ティリッヒ, R.ニーバー(Symbolic Eschatology 象徴的終末論)
「私たちの幸福は、超現世的、歴史的彼岸にある」

人類の最後の運命がどのようになるかについての教えや信仰が、いわゆる終末論と言われているものであるが、それは通常、主の日、裁きの日、死と不死、千年王国、イエスの再臨、主の永遠の支配などの教説を含む。このようなものとして終末論は、伝統的な教義学が書かれる場合に、その最後の部分に若干の頁が割かれて、ひっそりと存在するのが常であったが、十九世紀の終わり頃から情況はすっかり変わってしまった。その変化は、ヨハネス・ヴァイス(Johannes Weiß)やアルバート・シュヴァイツァー(Albert Schweizer)などの研究が原因となって起こった。
 ヴァイスやシュヴァイツァーは終末論をキリスト教理解の中心に据えた。彼らの新約聖書の歴史的研究の成果によると、イエスは自分が生きているうちに世の終わりが来たることを信じ期待していたのであった。これがシュヴァイツァーの言う徹底的終末論(die konsequente Eschatologie)であるが、もしもイエスがそういう期待をもっていたことが事実であるならば、それから二千年近く経過した今も、まだ終末が来ていない事実をどのように考えたらよいのか。否、事実に反した期待の中に生き、そして十字架上で死んで行ったイエスをどのように理解したらよいのか。また、そのように事実に反した世の終わりへの信仰が、キリスト教の中心であるイエスを駆り立てていたことを思う時に、原始キリスト教においてこのように中心的位置を占めていた間近な世の終わりへの期待を、今の我々はどのように理解し、信じたらよいのか。このような焦眉(しょうび)の急とも言うべき諸問題が現代神学に突き付けられたのである。
 徹底的終末論を一つの極と考えるならば、その対極として考えられる意見がC・H・ドッド(C.H.Dodd)からだされた。彼の立場は「実現された終末論」(realized eschatology)と呼ばれているが、それは、イエスと共にすでに、世の終りたる神の国がこの世界の中に入り込んできていると、イエス自身も信じ、また、それを教えたとするものであった。ドッドは、世の終わりがこれから来たるものとして、イエスによって信じられていたことを勿論否定はしなかったが、強調点は徹底的終末論とはことなり、既にイエスと共に神の国、神の支配がこの世に到来している、というところにあった。このように「実現された終末論」は、既に神の国の最も重要な要素たる神の支配が起こってしまっている以上、その要素がまだこれから完全に実現されるものであっても、いつそれが完全に実現されるかはそれ程に重要な問題ではなくなる。

 今日も終末論の問題は相変わらず神学議論の中心をなし、既に述べた両極のいずれかに近い立場の種々の意見が出されているのであるが、それにからんで、終末論の様々な局面が論じられている。
新約聖書の記者たちは、将来についてどのような希望をもっていたにしろ、何よりも大事な出来事は既に起こってしまっているとの前提に立って、使信を宣べ伝えている。「時の終わりに直面している」(1コリ10・11)のはまさに我々なのだ、「来るべき世の力を体験」(ヘブライ6・5)しつつあるのは我々なのだ、ということが前提とされている。この結論は既に教会や秘跡に関する神学的議論に新しい命を吹き込んでいるし、典礼や司牧活動にも影響を及ぼすべき時となっている。



Friday, December 2, 2016

32 ミサ聖祭とキリストの来臨

32 ミサ聖祭とキリストの来臨


「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(マタイ2629)前章で考察してきた契約の概念と同様に、このキリストの言葉もまた奇妙に無視されてきている。本書のミサについての瞑想を閉じる前に、我々はそれに注意を向けることにしたいと思う。聖ルカは、この聖句を、最後の過ぎ越しの杯の奉献の後で、実際に聖体を制定する言葉の前に置いている。この箇所で、イエスは最後の晩餐の時を越えて、その彼方にある王国の到来を睨(にら)んでいるようである。イエスは、将来の永遠の達成に言及している。それは、父の意志に従って、避けられない死に向かって今や一歩を踏み出さなければならないことの背後にある。この箇所は、ミサの記念全体に、特異な輝きを帯びさせている。その輝きは、クリスチャンたちの意識からぼやけているように見えるのであるが。

   ところで、この言葉は、個人的にはイエスにとっておそらく重要だったが、エウカリスティアの記念にはそれほど重要ではなかったと、反論されるかもしれない。死を前にして、その重大さを知っていた主の視点は、未来を通じて万象の終末に及んだと言われるかもしれない。また、この考えはその時点での主観的な体験を反映しているが、それ以降キリスト教の信仰生活の中核となる聖なる行為とは関係がないかもしれない。しかし、聖パウロはご聖体の制定について書いたことは、そのような見方すべてを覆す。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。 」(1コリ1123-26)これに対して、イエスの言葉は単に過ぎ去り気分の現れであると本気で主張できる人はいないだろう。聖パウロは、わざと終末と主の記念の祝いを結びつけている。使徒パウロの書簡は、その中のいくつかは諸福音書より早く成立しているし、全部は少なくとも福音書と同じ時期に出来上がっていることは忘れるべきではない。パウロの書簡は初期キリスト教共同体の力強い信仰意識を表しているからである。

  このすべてから明らかとなるのは、主がご聖体を制定した時点で、主が抱いていた見方は以下のようなものであったと思われる。あくる日、死ぬことになると知っていた。さらに、ある日戻ることになるということも知っていた。だが、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存知である。」(マタイ2436)主が贖いの死の記念を制定したのは、死と来臨の間の期間のためであった。これは抑圧された者(実際に彼の来ることを期待していたすべての人)の強さと慰めであり、彼の栄光の約束を絶え間なく思い出させるものであった。その達成に比べて、もったいぶった姿勢をとりながらも、過ぎ去る時間は、実は本質的なものが来るまでのマークにすぎない。従って、ミサ聖祭は際立って終末と関係がある。我々はこの事実を忘れがちであることに関してもっと懸念すべきである。ところが、最近文芸界を騒がせている「終末論」とは何であろうか?

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20世紀初頭は、神学界では終末論の発見の時期と言われている。その中で、カール・バルトとルドルフ・ブルとマンが一番大きな反響を呼んだ。カール・バルトは、名著『ローマ書』で「(終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという)再臨が「遅延する」ということについてその内容から言っても少しも「現れる」はずのないものが、どうして遅延などするだろうか。再臨が「遅延」しているのではなく、我々の覚醒(めざめ)が遅延しているのである」と言い、「終末は既に神によってもたらされている」と言っている。ルドルフ・ブルトマンは終末が実存的な出来事であるとし、未来に起こるとは考えない。

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それは、最後のものに関係するものであり、存在するものの基本的な不確実性を意識して「自然な」形で存在する。これは、我々の個人的な存在または一般的な存在と結びついた表面的な不確実性を意味するものではないが、もちろんそれもその一部だが、すべての存在の根底にある不確実性である。このことを全く知らない人もいる。実際、このことが社会全体から無視されてきた時期もある。最後のものを知らない人々にとっては、この世はは揺るぎない現実 - 本質的かつ自明的な現実 ""現実 である。この現実の中のすべては、物事の明確な順序によって規制されている。すべてが明白な原因と確かな結果を持っている。しかし、ある一定の時期に、これはすべて変化してしまう。使用法は有効性を失うかのようになる。人間社会全体の構造が揺れ動く。それから、常識となった仕事と妥当性の基準および嗜好(しこう)[趣味]の判断基準と行動のルールが徐々に不確実になる。すべてが流動的になったため、将来を計画することはもはや不可能となる。普遍的危険の感覚は人間の意識に浸透し、そこに巣食って、異常な感性の人に特有の経験の形態をもたらす。行動や財産にしっかりと植え付けられた人たちには自明であると思われるものは、これらの独特の知覚的な性質の持ち主に根本から疑問があるように見える。彼らには、現状の秩序は、生命そのものでさえも、存在の混乱とその制御不能な力の中で不安定に危ういバランスにあるように見えて来る。すべてのルールは一時的なものに見え、いつでも崩れそう。物事そのものが時には不透明、時には不気味になっているように見える。現実はそれが見えるほどしっかりとしたものでは決してない。すべての物事の存在のように個人的存在も、強力で危険そうな空白に囲まれて立ち往生しているように感じられる。そのような心理の持ち主には、革命、大災害、破滅は、遠い可能性ではなく、生き方の一部分となる。

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訳注例えば、大喪失、大失恋をしたら、この世の終わりではないか、という気分になる。うつ病も、ストレス社会が生んだ現代病のように思われがちであるが、実は、昔からある病気である(憂鬱)。そして、特定の人がかかる病気ではなく、誰でも、かかる病気だと言われる。もちろん、環境も関係するが、これは人間がもともとはかない、もろい存在であることの現れであろう。

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そのような気持ちは、歴史的転換期や個人的混乱の時代に伴う感情的な危機に典型的であると答えるのは簡単である。またはそれらが異常ではないにしても不健全な反応であることを指摘するのも簡単である。この捉え方は可能ですが、これらは完全に「正常」な真実を表現するという可能性もある。つまり、存在の不確実性の感覚は、正反対のもの、存在の確実性と同様に、両方は十分な根拠づけをもっている。人間経験のこの二つの形態が一緒になって初めて真実全体を把握したことになる。これらの漠然とした感覚は表現が難しく、解釈するのがさらに難しいという曖昧な感覚ではあるが、啓示(聖書)からはっきりと意義を受けている。聖書は、この世はそのまま大丈夫だと思わないように促している。それどころか、人間の本質そのものはひどく混乱している。一見して健康と安定とみえるものは、実はその障害を隠しているからこそ疑わしいものであると注意している。

   それは、創造主と世界の主が「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ111)ときに、公然と明らかになった。受け入れる代わりに、彼らは来られた方を極力破壊しようとした。なるほど、来られた方の死は世界を贖った。その方の愛のうちに、新しい本物の保護と、永遠に安定した秩序が確立された。しかし、神に背を向け、神を踏み潰したことで、世界に汚れが残る。

   世界が破壊しようとした方は再び来て、それを終わらせ、それを裁くことになっている。いつそうなるかは誰も知らないが、必ずそうなる。我々ははそのようなことを想像で描くことは難しいが、この世はは滅びることになっている。それは、この世の愚かさによって、または「自然な」原因からではない。キリストが「父が御自分の権威をもってお定めになった」(使徒17)時や時期にそれを終わらせることになっている。したがって、キリスト教的生活は、人生の一見した安全保障、秩序、約束にかかわらず、突然の終わりの絶え間ない可能性に直面しなければならない。今や、不確実性の感覚が本当に何を意味するのかを理解し始める。我々は信仰宣言で唱えているように、「主は生者と死者を裁くために再び来られる」、すなわち、キリストからの時間の周辺からの脅威を見るであろう。キリストが現世の存在の中心に置かれた苦しみと贖いの記念は、その来るべき方に向けられている。それは、この世の事情は本当はどうなっているのかを思い起こさせるものである。

    初期のキリスト教はこの状況を鋭く意識していた。はこれを使徒言行録や聖パウロの書簡の中で見てとることができる。世紀の変わり目に書かれたヨハネの黙示録はまさに、期待の言葉で終わっている。「“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。()
以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 」(黙示録2217-20)初代キリスト教の他の文章にも、大きな期待が見られる。主は来られる、すぐに来られる!

   その後、徐々に主の来臨が差し迫っているという感覚が消え、信仰者たちはより長い期間に期待をかけることになる。しかし、4世紀に入っても迫害が続き、生活は非常に不安定であり、地上の非現実感は非常に強かった。それから、キリスト教は公式の国家宗教となり、堅実で容認された生活様式となり、一般的な不安感はなくなった。我々が見てきたように、歴史的な混乱の時代や特別な気質の持ち主再び現れるが、もはやキリスト教の態度をそれ自体として決定的に支配するものとなることはなかった。

    こうして、キリスト教的生活はその終末論的な性質を失ってしまった。その損失でこの世に帰属する感覚は多かれ少なかれ自明になってしまった。キリスト教の本質的な注意深さと準備はなくなっていく。 「目を覚まして祈っていなさい」(マタイ2641;マルコ1438)という言葉は、”道徳的”に、神の意志に対する責任の重要な意味としてだけでなく、”本質的”に、生き方としての意味をも指していることを忘れられていく。キリスト教徒は決してこの世に定着することためにも、「自然と一致する」ためにも、あるいはビジネスや芸術にべったり従っていくためにも存在しているわけではない。

   これは、この世の否定や生命に対する敵意を意味するものではない。キリスト教徒は地球の壮大さと美しさを深く意識している。彼は地上で与えられた任務を他の人と同様に効率的かつ責任あるように果たすつもりでいる。それが意味することは、この世に対する一定の態度である。キリスト教徒の階級が何であれ、決して「ブルジョア」、自己満足、心配のない独りよがりになるはずがない。何と言っても戦士のように、彼は常に見張りをしているはずである。彼はより鋭い耳を持ち、他人が見逃すアンダートーンを聞きとる。彼の目は特に純粋な光で物事を見て、他の人が感知できないものでも、すなわち万物を通じて生きる現実の流れを感知するはずである。彼は決して生活におぼれることはない、むしろ頭と肩を浮かばせ、上を眺めるために目を自由にする。したがって、彼は他人よりも責任感が深い。この意識と注意深さがなくなると、キリスト教の生活は衰える。それは鈍くなり、重たく感じるものとなってしまう。