Theotokos
All'inizio dell'anno la solennità della Madre di Dio La garanzia dell'Incarnazione
decisione del concilio di Efeso è ancora oggi evidente e valida: Maria può essere detta "ma- dre di Dio", non perché ha generato un dio, ma perché ha partorito co- me vero uomo un Figlio che era an- che vero Dio. In questa prospettiva si salvaguardava perfettamente la salvezza apportataci da Cristo, figlio di Dio e figlio di Maria; non è un caso che dopo Efeso ebbero nuovo impulso il culto, la pietà e la devo- zione mariana nella Chiesa.
Molti secoli dopo la decisione conciliare efesina, esattamente l'11 ottobre 2010, Benedetto XVI, durante la prima congregazione generale dell'assemblea speciale per il Medio Oriente del Sinodo dei vescovi, par- lando "a braccio", non ha temuto di ricordare come Theotókos sia un «ti-tolo audace», osservando fra l'altro:
«In questa grande parola Dei Geni- trix, Theotókos, il concilio di Efeso aveva riassunto tutta la dottrina di Cristo, di Maria, tutta la dottrina della redenzione (...). Una donna è Madre di Dio. Si potrebbe dire: co- me è possibile? Dio è eterno, è il Creatore. Noi siamo creature, siamo nel tempo: come potrebbe una per- sona umana essere Madre di Dio, dell'Eterno, dato che noi siamo tutti nel tempo, siamo tutte creature? Per- ciò si capisce che c'era forte opposi- zione, in parte, contro questa parola. I nestoriani dicevano: si può parlare di Christotókos, sì, ma di Theotókos no: Theós, Dio, è oltre, sopra gli av- venimenti della storia. Ma il concilio ha deciso questo, e proprio così ha messo in luce l'avventura di Dio, la grandezza di quanto ha fatto per noi. Dio non è rimasto in sé: è usci- to da sé, si è unito totalmente, così radicalmente con quest'uomo, Gesù, che quest'uomo Gesù è Dio, e se parliamo di Lui, possiamo sempre anche parlare di Dio. Non è nato un solo uomo che aveva a che fare con Dio, ma in Lui è nato Dio sulla ter- ra. Dio è uscito da sé.
Ma possiamo anche dire il contrario: Dio ci ha at- tirato in se stesso, così che non sia- mo più fuori di Dio, ma siamo nell'intimo, nell'intimità di Dio stes- so».
Ciò che ha in- fluito sullo sviluppo del dogma ma- riano nella Chiesa antica è stata so- prattutto la volontà di difendere la verità cristologica dall'attacco delle eresie, e il bisogno di professarla nella sua integrità. Il pensiero di fe- de nel suo movimento di compren- sione dell'"evento-Cristo" coinvolge sempre la persona, il ruolo e il signi- ficato di Maria per la Chiesa. Il dogma mariano è dunque ben inte- grato nella cristologia; la difesa della fede cristologica diventa al tempo stesso attestazione della verità intor- no alla Madre del Signore. Anche nella teologia contemporanea tale rapporto è indagato e approfondito, sia sul versante della diaconia mater- na, che su quello della significanza ecclesiale, tipologica, ecumenica e simbolica di questa Donna di Naza- ret. La maternità messianica, vissuta dalla Vergine con singolare ed esem- plare fede e carità, è stata arricchita dal Signore stesso, come ha insegna- to Giovanni Paolo II nell'enciclica Redemptoris Mater (25 marzo 1987), dalla diaconia salvifica ed ecclesiale; servizio che esprime bene l'asserita iconicità di Maria in ordine alla ma- ternità e al servizio apostolico della Chiesa e del singolo credente a Cri- sto, per opera dello stesso Spirito, al suo Regno e a ciascun redento. La maternità di Maria è stata ed è quin- di vera, reale, umana, cristica, eccle- siale, verginale, femminile, psicologi- ca, teologale, appassionata, globaliz- zante; maternità singolare che l'ha posta come protagonista nell'evento trinitario e insieme antropologico dell'Incarnazione. Per cui la rifles- sione di fede sulla Madre di Gesù è tutta relazionale: non si può parlare di lei senza scrutare i suoi rapporti col Padre, con la persona e l'opera del Figlio, con la persona e l'azione dello Spirito e perciò della Trinità nella persona umana, nella Chiesa dei discepoli, nella storia e nell'esca- tologia.
Infine, in questo 1° gennaio la maternità universale e interrelazio- nale della Madre del Signore, sug- gerisce alla Chiesa di invocarla e di additarla come vera Regina pacis, in quanto, come scrive Benedetto XVI nel messaggio per la Giornata mon- diale della pace 2013, «ogni anno nuovo porta con sé l'attesa di un mondo migliore. In tale prospettiva, prego Dio, Padre dell'umanità, di concederci la concordia e la pace, perché possano compiersi per tutti le aspirazioni di una vita felice e prospera»; una esistenza segnata dalla comune vocazione e impegno alla pace integrale e fraterna.
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Saturday, December 29, 2012
Thursday, December 27, 2012
5 per annum C
年間5主日C
ルカ5:1-11 イザヤ6・1-2a,3-8
ペテロたちは自分達は魚を取るということに関しては専門家なのです。イエスは大工の子なのです。シモンの答えにはそういうニュアンスがあったと思います。漁が不作であるなんてことは、漁師にとってはあるいは日常茶飯事のことではないかと思います。漁というものは、夜しかできないものだ、漁というのは、この場所でしかできないものだという自分たちの長い間 積み上げてきた経験というものがあった。しかしそれがいつのまにか固定観念になってしまっていた。
そういう時にイエスから「沖へこぎ出して網をおろしてみよ」と言われた。どうもこの「沖へこぎだせ」と言う言葉は、深い意味が込められていると思います。自分の経験、人間の知識、それをもっと超えたところに、網をおろしてみなさい、そういうイエスの語りかけではないかと思います。2001年大聖年の終わりに前教皇ヨハネ・パウロ二世は、全世界の教会へ送った文書があります。そのタイトルはまさにこれでした「沖へこぎだせ」(Duc in altum)。2000年過ぎたら、キリスト教はもう知り尽くされている、もうわかった、それほどもう期待していない。ペトロたちの気持ちに極めて近い現代人には、教皇がもう一度、もう一度やりましょうよ、そういう励ましのことばだったと思います。私たちは、教会というものに馴れています。修道院という生活の要領は、もうわかったと、そんなに新しいことは期待できないのだと。そういう私たちに今日こういう言葉が言い渡されます。「沖へ漕ぎ出せ」と、なまぬるい生活に減ったっている場合じゃないと。もう一度チャレンジしなさいと。
専門馬鹿という言葉がありますけれど、専門家というのは、やはり自分たちの経験を絶対化しがちであります。しかし自分達の経験、知識というものがそれほど絶対的なものかということを考えなさいというわけです。
シモン・ペテロは「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って、沖へこぎ出して網をおろしてみたのであります。信仰にとって大事なことは、この「しかし」という接続詞だとある人がいっております。「しかし」「にも拘わらず」というという接続詞には大切な意味が込められていると思います。信仰というのは、神を信じるということですから、ある時には自分を信じることをけ飛ばして、あるいは人間の経験とか知識とか常識とか蹴飛ばして、飛躍して、「しかし、にも拘わらず」一歩沖へこぎ出す、そういう冒険をしてみる、「しかし」と言って飛び込んでみる、そうしないと信仰にはならないのだとよく言われたものであります。もちろん、なにも闇雲に飛び込むわけではないのです。「しかし、お言葉ですから」という、イエスの言葉、神の言葉、聖書の言葉に対する信頼があって、始めてこの「しかし」という言葉が生み出されるのだと思います。
自分の経験から、こうであるから、こうなる、という理詰め(りづめ)から信仰というものが生まれてくるわけではないのです。ある程度そうした理屈とか論理というのは必要です。われわれは迷信を信じるわけではないし、オカルトとかを警戒しなくてはならないと思います、人間の理性というものがどんなに大事かということはよく知っておかなくてはならないと思います。しかしどんなに人間の知識、経験を積み重ねていっても、信仰はうまれないのです。最後のところでは、自分の知識とか経験に逆らって、「しかし」「にもかかわらず、やってみます」という冒険を必要とするのです。石橋を叩いて渡るのは結構なことなのですが、しかしそれはともすれば、人生のことや人間関係においては石橋を叩いて、結局は渡らないということになりかねないのです。
この時シモン・ペテロがイエスの言葉、「お言葉ですから」というイエスの言葉にどれだけ信頼をもっていたかはわかりません。イエスと一緒の舟にいて、イエスがその舟の中から群衆に語りかける話をどれだけ聞いていたかはわかりませんが、しかし何かを感じ取っていたことは確かだろうと思います。そうでなければ、沖にこきだすこともなかったと思います。ここには、漁がない、それが何日も続いているという人間の行き詰まりと、信頼できるイエスの言葉、それがちょうどタイミングよくぶつかったということであるかもしれません。だから信仰の冒険ができたのかもしれません。われわれの人生にもそういう時というものがあるのではないかと思います。そういう時が与えられる時というのがあるのではないかと思います。最近、キリストの言葉がゆえに行動を起こしたことがあるのでしょうか。完全にわかっていないかもしれない。けれども純粋にキリストのお言葉だから人を赦したとか、今までやっていないことをやり始めたとか。人間的に考えれば納得いかないかもしれないが、いやな人を受け入れてみたとか。
シモン・ペテロがイエスの言葉を信じて、沖へこぎだし、網をおろしてみたら、魚がとれて、その重みのために舟が沈みそうになった。その時ペテロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」といって、イエスのひざもとにひれ伏した。「わたしから離れてください」というペテロの言葉はどういう思いでそういったのでしょうか。「わたしは汚れた罪深いものですから、これ以上あなたがわたしのそばにおられると、あなたの聖(とうと)さを汚すことになるから、わたしから離れてください」という意味なのでしょうか。「あなたの聖さをけがしたくない」という意味なのか。それとも、「もうこれ以上あなたのそばにいると、わたしが滅ぼされますから、わたしから離れてください」という意味なのか、どちらなのでしょうか。ペテロはとれた魚の多さで舟が沈みそうになって、「これを見て」そう言ったと記されておりますから、やはり、あなたの聖さでわたしを滅ぼされないために、わたしから離れてくださいという思いの言葉だったと考えたほうがよさそうです。
預言者イザヤが神殿で聖なる神にお会いした時、そこでケルビムが飛び交い、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」という声を聞き、神殿の敷居がゆれ動く体験をした時に、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」と言うところがあります。そこでは聖なるものに出会った時に、わたしは滅ぼされるという思いをもったのであります。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と言ったのであります。この時もペテロは舟が沈みそうになるのを見て、自分が滅ぼされるという恐れをもって、「わたしから離れてください」と言ったのではないかと思います。自分の汚れで、神の聖さを汚すなんてことはあり得ないので、つまり人間の汚れで神の聖さが汚されるほど神の聖さはちゃちなものではないわけですから、あなたの聖さを汚しますから、わたしから離れてください、というのはおこがましい限りです。
しかしもしそうしますと、このペテロの言葉は、あの汚れた霊がイエスを見た時に「ああ、ナザレのイエスよ、わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」という言葉と奇妙にも一致しているということになるのではないかと思います。
どこが違うのでしょうか。ペテロは「わたしから離れてください」と言ったあと、「わたしは罪深い者です」と告白しているのであります。預言者イザヤも「わたしは汚れたくちびるの者で、」と告白しているのであります。しかし汚れた霊は、逃げ出そうとしているだけなのです。そこが決定的違うところなのではないかと思います。神の聖さに出会った時に、自分の汚れを知るということ、自分の罪深さを知るということ、そしてそこからもう動けなくなる、ただひれ伏してしまうばかりであるということであります。この時ペテロは「主よ」と呼びかけている、前には「先生」と言っていたのに、もうこの時には「主よ」とよびかけているのであります。
この時ペテロはなにかあやまちを犯したという罪の告白ではなく、聖なるもの(完全なもの)に出会って、自分自身の不完全さをしる、わたしは罪深い者です、と告白するのです。しかし、汚れた霊、悪霊にはその告白はないのです。彼らは確かにイエスのなかに聖なるものを敏感に感じ取ったかもしれない、そして自分の汚れを多少は知っているかもしれませんが、しかしそれを全面的に認めようとはしないのです。そういう悪霊から「あなたこそ神の子です」と告白されても、それは信仰の告白にはならないのです、それでイエスは彼らにものを言うことをお許しにならなかったのであります。
神の恵みはペテロを圧倒いたしました。そのおびただしい魚をみて、舟が沈みそうになるほどの恵だった。それを見てペテロは「ああよかった、こんな幸福なことはない」と、思うことはできなかったのであります。一匹もとれなかった魚がこんなにたくさんとれたというのですから、これは御利益を受けたということなのです。しかしペテロはこの御利益の幸福感にひたってはおれなかったのです。「わたしから離れてください、わたしは罪深い者です」と、告白せざるを得なかったのであります。神がイエス・キリストを通してわれわれに与えられる御利益は、われわれを御利益信仰に自己満足させるわけにはいかない恵なのです。つまり、人間のエゴイズムを打ち砕いてしまう御利益なのです。
ペテロはこの恵みの経験、この御利益の経験を魚をとるという漁師に活かすことが許されずに、人間を取る漁師となって、この経験を活かしなさいとイエスから命じられて、ペテロはいっさいを捨ててイエスに従っていくのです。ペテロの受けた恵はわれわれを御利益信仰にとどめさせないで、われわれをますます自己中心的な思いにさせないで、そういう思いを打ち砕いて、他者のために、他者を救いに導くために、この経験を活かしなさいとイエスはわれわれにも命じておられるのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke11.htm
4 per annum C
年間第4主日C
【エレ1:4f,17-19 エレミヤの召命】
ルカ4章21-30節)
ルカ福音書ではイエスの活動はまだ始まったばかりです。先週の福音(ルカ1章1-4節、4章14-21節)は、イエスがナザレの会堂でイザヤ書の巻物を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言したところで結ばれていました。その結びの部分から始まるのがきょうの箇所です。なお、今回の写真は告知教会から見た現代のナザレの町です。
福音のヒント
(1) 多くの人はこの話を読んで、話の展開に少し無理があるように感じるのではないでしょうか。22節の「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」という箇所と、28-29節の「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」の間には、確かに大きなギャップがあります。ただ一回のナザレでの出来事と見るには無理があると考えて、ナザレでのイエスの活動を伝えるいくつかの伝承が組み合わされているという見方もあります(確かにイエスはガリラヤでの活動中、何度かナザレに行ったことがあったでしょう)。とにかくルカはここで、ナザレでのある一日の出来事というよりも、イエスのこれからの活動全体を表そうとしているようです。
(2) 22節の「この人はヨセフの子ではないか」という言葉は、人々のイエスに対する好意的な反応を表すものでしょうか。「ヨセフの子でありながら、こんなに素晴らしいことを語っている!」というような…。だとすると、この後、イエスのほうからケンカを吹っかけるような言葉が続くのは、不自然に感じられるかもしれません。
むしろ、これは非難めいた言葉でしょうか。つまり、「ヨセフの子にすぎないのに、こんな大胆なことを語るのはおかしい」という意味です。マルコ6章2-3節では、故郷での話の中にこういう言葉があります。「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」。故郷の人々は、人間的なレベルでしかイエスを見ようとしないので、イエスを受け入れられなかった、ということになるでしょう。ルカ福音書の「ヨセフの子」も同様に考えてよいのではないでしょうか。
なお、22節で「ほめ」と訳された言葉は「弾劾し」というまったく正反対の意味にもとれる言葉です。こうとったほうが、後の展開には合うかもしれませんが、ここまでの展開からすれば「皆がイエスをほめ」と受け取るほうが自然でしょう。
(3) エリヤとエリシャはともに紀元前9世紀、北イスラエル王国で活動した預言者です。それぞれの物語は、列王記上17章、列王記下5章に伝えられた有名な話です。「シドン」「サレプタ」はイスラエルの北方、地中海に面した位置にあります。「シリア」はイスラエルの北にある国ですが、その国のアラム人の王の軍司令官がナアマンでした。ともに異邦人に神の救いがもたらされた話です。
預言者の活動は、狭い民族的な利害に基づくものではなく、神の大きな救いの意思に基づくものでした。イエスもまたそのような預言者として活動しているのです。
(4) 問題はナザレの人々の狭さでした。彼らは同郷のイエスに期待しますが、それはあくまで地縁血縁に基づく利益が与えられることに対する期待だったようです。そんな彼らにとっては同じガリラヤ地方のカファルナウムでさえ「外の世界」になるのです。この姿勢には、後になってイエスを十字架に追いやっていくユダヤ人指導者たちと共通するものがあります。ルカ20章でぶどう園の農夫のたとえ話が語られています。主人からぶどう園を借りていた農夫たちが、収穫を受け取りに来る主人の「愛する息子」を殺害してしまうというたとえ話です。これに対する人々の反応をルカはこう伝えています。「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」(20章19節)。つまり、ユダヤ人指導層はイエスを自分たちの特権的な利益を脅かす存在として抹殺することになるわけです。このような狭い意識がわたしたちの心のどこかにないとは言えないでしょう。
(5) 「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」というのは極端すぎる反応でしょうか。もちろん大きな期待があったからこそ、その期待を裏切られたときにそれが憎しみに変わるということはあるかもしれません。しかし、それだけでなく、将来起こるイエスの受難と十字架の死を予告するような出来事として、ルカはこのことを伝えているようです。この話は「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(30節)と結ばれています。これはもちろんまだ、十字架の「時」(4章13節参照)ではないからですが、同時にイエスが最終的に「天に立ち去られた」ということを暗示しているようでもあります。
先週と今週のナザレでの出来事の中に、「貧しい人に福音を告げ知らせる」(ルカ4章18節)イエスの姿と、それを受け入れることのできなかった人々の姿がはっきりと表されています。それは福音書全体の縮図とも言えるでしょう。わたしたちにも、このイエスの福音に心を開けるかどうかが問われています。
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故郷で敬われないイエス様ご自身、そして数多くの預言者たちのことが今日の福音(ルカ4:21-30)で読まれました。第1朗読で読まれたエレミヤも同じです。エレミヤはバビロン捕囚の直前からユダで活動を始めた預言者です。エレミヤは、自分の国にバビロンへの服従を説いて回りました。エジプトと同盟しバビロンに対抗し、戦おうとする愛国者たちに反対しました。そうしなければ、本当に国がなくなってしまうと、エレミヤは神様から知らされていたのです。実際そのとおりになりました。しかしバビロンに屈服しようとする態度は、愛国者から見れば、国家に反逆するものでしかありません。
さらにエレミヤの悲劇は、エレミヤが地方都市・アナトトの祭司の家系の人であることです。エレミヤは異教的な要素がある地方神殿を封鎖し、エルサレム神殿に礼拝を集中させようとする改革に協力します。そのため、地方神殿で生活している故郷の祭司たちからも恨まれ、殺害を計画されます。国の人からも、故郷からも恨まれるばかり。
エレミヤは悩みます。自分は本当に神の言葉を伝えているのだろうか。神様の意思に従って生きたって、いいことなんかない。生まれなければよかった。こんな預言者の生活なんてこりごり。結婚して平凡に暮らそう。そして叫びます「私を産んだ胎は呪われよ」。
そんな正直なエレミヤに神様は語りかけます。「私を生んだ胎は呪われよだと。とんでもない。私はあなたを、母の胎内に造る前から、知っていた。おののくな。私はあなたと共にいる」。 エレミヤ自身も、やめたくても神様の言葉を告げざるを得ません。やめたくてもやめられない。迫害されると分かりながら。エレミヤは思わず言います。「私の負けです」。
エレミヤは苦しみが来るとわかっていながら、どうして神の言葉を告げざるを得ないのでしょう。生きていくには様々な苦しみがつきものです。それは取り去られることはありません。そしてその苦しみは、自分だけが抱えていると思った時、いっそう、重く、つらいものになります。しかし神様は言います。「あなたのすべてを知っている。この世の苦しみも悲しみも」。--私の苦しみを知っている人がいる。共にいてくれる人がいる。大きな喜びです。その相手が神様だったら、なおいっそうのことでしょう。でも、知っているならどうして何もしれてくれないのか、苦しみはなくならないのでしょうか。
神様は自己満足の幸福、この世的な幸福を約束してくれません。お金がたくさんあって、皆から尊ばれ、名前が永久に残り、病気にならず、事故にも遭わず、良い配偶者と子供に恵まれ……。そういう生活は、残念ながら神様ははっきりと約束してくれません。もちろんキリストの掟に従って誠実に行動する中で、多くの信頼を得て、結果的に成功を与えられている人がたくさんいることも事実ですが。
キリスト教が、この世での幸福や成功を約束しないなら、信じても何の得にもならない、役に立たない宗教なのでしょうか。
しかしそれでは、多くの人が囚われるお金がたくさんあるという生活が、幸福を保障するのでしょうか。お金があっても、人間の思い、特に家族は、自分の思うとおりにはなりません。 人を思い通りに動かそうと金や力を使ったとしても、金も力もなくなれば、皆離れてしまう。もしそれだけの関係ならむなしいだけです。 愛する人とのつらい別れ・死別も避けることはできません。いくら死をないもののように生きようとしても、結局はごまかしに過ぎません。 物、自己満足の幸福にとらえられているとき、逆に、いつそれらが取り去られるかと、戦々恐々とする生き方になります。
キリスト教は、あまりにこの世的な幸福に囚われることから解放し、貧しさ、病いや苦しみの中でも、喜びをもって生きられると、人生観、ものの見方の根本的な変化を約束するのです。永遠の命と報いへの希望です。
しかもただ指し示しただけではありません。イエス様の生き方、またイエス様をそう生きさせ、死なせた神様自体のあり方によって、すでに神様自身が身をもって証しているのです。神様はもう実際に、同じ苦しみを負ってくださった。そういう点でも、共にいてくださるのです。
それからキリスト教は、それなら貧しさ、病いの中でも、いつも満足して生きればいいと、現状維持、自己満足を説いているのでもありません。かえって貧しさを減らし、病いをなくし、平和のため、愛のために働く使命を持ちます。しかしそのためには、自らが病気になり、貧しくなり、迫害されても、そこにも喜びがあるというのです。
それをイエス様に倣って実践した人。エレミヤ、フランシスコ、マザーテレサ、ハンセン病のため働いたダミアン神父。いくらでも挙げることができます。幸福は自分が感じるもの。この世的なものがすべてそろっていても、不幸な人はたくさんいます。なのにそれらに無縁だった彼らは、輝くほどの幸せを持って生きたのです。こうした人たちを前にして、金や家族の幸せに囚われている人は言うしかないのです。「私は負けだ」。エレミヤはこうして神様に負け、神様に従う道を生きます。
私も深い闇にいたことがあります。多くの弱さを抱えた人間に過ぎません。そういう者でも司祭になることがある。その神様のいたずらを、エレミヤと同じ様に、文句を言いたい時、たくさんあります。確かに、この世には苦しみはつきものです。神に従って生きても、この世の苦しみはなくならないかもしれません。しかし神と人への愛のために生きたという喜びと充実感を感じ、満足したときに、これでよかったと人生を振り返ることができるのです。
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大阪市立桜ノ宮高校バスケットボール部の体罰問題を受けて、マスコミにたくさんの意見が出されました。その中にある新聞には、こういう記事がありました。「体罰を受けても、部活はなかなかやめられない。日本はムラ社会の原理が強く、共同体が生きるすべて(である)。その性格は年功序列(ねんこうじょれつ)、終身雇用など企業に応用されてきた。部活も共同体。スポーツ部の学生の就職が有利とされるのも、部と企業の原理が同じだからだ。つまり退部(たいぶ)は共同体からはずれ、一生の問題となる。また、退部は共同体で生きられなかったことになり、敗者(負け組)ともなる。他人はできても自分はできなかったと。組織が間違っているかもしれないのに、そんな意識が働かない。体罰をなくすには監督崇拝を問い直すことだ。監督がいることはかえってマイナスという考え方をした方がいい。
今日の福音書は、ナザレの村人たちが、イエスを村の外へ追い出し、丘の上から突き落とそうとしたというエピソードを語っています。イエスを拒む村人たち、村というつながりの中に受け入れられないイエス。ここに、村の人々とイエスとの間に異質的なものがあったことを推測できます。きょうは、ここでイエスを受け入れるということがどういうことなのかを考えてみたいと思います。
さて、常識から考えると、話の展開に少し無理があるように感じるのではないでしょうか。22節の「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」という箇所と、28-29節の「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」の間には、確かに大きなギャップがあります。ただ一回のナザレでの出来事と見るには無理があると考えて、ナザレでのイエスの活動を伝えるいくつかの伝承が組み合わされているという見方もあります(確かにイエスはガリラヤでの活動中、何度かナザレに行ったことがあったでしょう)。とにかくルカはここで、ナザレでのある一日の出来事というよりも、イエスのこれからの活動全体を表そうとしているようです。
22節の「この人はヨセフの子ではないか」という言葉は、「ヨセフの子にすぎないのに、こんな大胆なことを語るのはおかしい」という意味でしょう。つまり、村人たちはイエスという人物の中に、自分たちがいままで生きてきた世界とは異質なものを嗅ぎ取ります。平和でのどかな村のそれまでのつながりを、ゆるがせてしまうような、何かをかぎとったのです。
私たち人間が一緒になって、仲間として互いに助け合って生きていこうとする意識が生まれる土台は、ある場所(空間、土地)を共有することです。同じ国、同じ町、同じ村、同じ地域、同じマンション、同じ学校、などに住むということから、ともにいる、お互いに助け合わなければ、という連帯意識が生まれます。それは、人間の心に自然に生じてくる自覚です。それが、村という狭い世界では、地縁・血縁(ちえん・けつえん)が加わって、さらに強くかたいものになります。先祖代々(だいだい)から受け継いできた習慣や考え方の中で、村人たちは互いに安心し、平凡に暮らします。のどかな平和とつながりを楽しみます。しかし、それはともすれば、保守的で排他的になります。新しい考え方を拒みます。新しい考え方は、変化を促しますので、心に緊張を与えるだけではなく、お互いの中に対立を生み出すことになります。のどかな平和な世界がゆさぶられます。つまり村のつながりの中では、地縁・血縁の理念が先に立ち、なれあいが生まれ、個人の良心的な生き方はきらわれるのです。
イエスと村人たちの食い違いは、ここにあったような気がします。イエスは、人々の良心に呼びかけます。のどかに生きてきた人々の心をゆさぶるような呼びかけをします。人間中心の秩序とつながりの中に、神様中心の秩序とつながりを生みだす必要を訴えたのです。イエスのメッセージの中に、人間中心のつながりを超えて、生きなければならない価値の世界があるという告知です。
これは、「人権」という考え方の始まりです。
イエスは、故郷にもどりましたが、故郷の世界にどっぷりひたってしまうことを拒んだのです。神の世界への自覚を促して、神の世界から新たに人々を包んで、人々のつながりを見直すように求めたのです。神とのつながりですべての人が兄弟であるという大きな転換が、もっと大きな愛に広がることを呼びかけるのです。
地縁・血縁、あるいは同じクラブ活動で固くつながっている世界に、新しい自覚を呼びかけることは、反発を呼び起こします。村八分にされることを覚悟しなければなりません。こうして十字架への歩みが始まります。「山の崖」からおとされそうになったイエス、それはイエスの十字架への歩みが始まっていることを示すものです。人間のエゴイズムを指摘し、神への悔い改めを求めるイエスは、人類と世界から反発を受け、拒まれる必然性があったのです。
キリスト者としてのわたしたちも現代社会の中で反発を受ける覚悟しながら、どうやってイエスの歩みについていくという課題は残ると言えるでしょう。
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村八部
地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話(死体を放置すると腐臭が漂う、また伝染病の原因となるため。また死ねば全てを許されると言う思想の現れとも)と火事の消火活動(延焼を防ぐため)という、放置すると他の人間に迷惑のかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つこと(残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行)。また、「八分」は「はじく」(爪弾きにする)の訛ったもので、十分のうち二分を除いたものというのは後世の附会であるとの説もある。
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カトリック教会には修道会が生まれたのは、まさにこの村八分に耐えるためです。
3 per annum C
年間第3主日C
ルカ1・1-4;4・16-21
異国に囚われていたイスラエルの民が、解放され、エルサレムに戻る。そんな中、イスラエルの民を力づけるために、聖書が読まれ、その言葉に心打たれ、涙を流す。そんな場面が第一朗読で読まれました(ネヘ8)。また福音書では囚われている人を解放するために、イエス様が来て下さった。そのことは、聖書の言を耳にしたとき、すでに実現したのだと、イエス様は宣言なさいました(ルカ4:21)。
人間はさまざまの囚われをもっています。ある人は人との関係のしこりをいつまでも持ち続けます。またある人は自分の欠点や自信のなさへの囚われを持ち続けます。また自分の犯した過ち、失敗、あるいは自分の悪い習慣。あるいは金や、あるいはセックスに囚われたままの人もいます。そうした囚われは、決して人を幸福にはしません。そう分かっていても、なかなか手放せません。こうしていつまでも囚われたまま、一生終えてしまう人もいます。しかしイエス様は囚われている人に解放を宣言します。それももう実現したのだと。しかしそれは、どうしたら本当に実現するのでしょう。moseos
イザヤ書で預言されている「主のめぐみの年」には、まず「貧しい者に福音が宣べ伝えられる」ということだと宣言されます。貧しい人がただちに金持ちになることではないのです。福音が宣べ伝える、福音とはなによりも、貧しい者が抱えている借金がもう棒引き(ぼうびき)にされる、もう借金を返さなくてもいいということです。いきなり貧しい者が金持ちになるのではないのです。なによりも借金が取り消されること、赦されることなのです(ヨベルの年)。
ゼロから出発することが許される、こんなうれしいことはないのです。それはいきなり金持ちになることよりも人間としてもっと喜ばしいことなのではないか。もっと張り切れること、生き甲斐が与えられることではないでしょうか。ここで言われている「貧しい者」とはただ経済的な意味のことだけではないでしょう。ここで言われていることは、やはりわれわれの弱さ(罪)が何よりも言われていることだと思います。
われわれは何かに弱みを握られて生きているようなものです。罪に苦しんでいるものにとってなによりもの福音は、罪が赦されることです。それはわれわれがいきなり聖人にされてしまうということではないのです。けれども、やはりうれしいことなのです。自分の罪を知っているもの、そうしてそれに苦しんでいる者にとってなによりもうれしいのは、もう自分の罪で思い悩まなくてもいい、神様から「わたしは罪のあるお前をそのまま受け入れてあげる、お前の罪を赦す」と言われることなのではないかと思います。それはいきなりわれわれが完璧になることではないのです。自分を見つめればちっとも清くなんかなっていない、それはよくわかっている、それでもいい、と言われることくらいわれわれにとって福音はないと思います。「完璧にされたい」、これは傲慢な思いからくるkかもしれません。赦されて、そこからわれわれは立ち上がることができるのです。清さに向かって一歩一歩自分の足で、自分のペースで歩み出せるのではないでしょうか。
お前なんかだめな人間だ、役に立たない、そういって圧迫されている、そしてそういう圧迫に対してわれわれはそれに反論し、反発する気力もなく、本当にそうだと思ってしまうことはあるのではないでしょうか。そのためにわれわれは打ちひしがれているのではないでしょうか。自分の可能性をフルに生かせないことになります。キリストの与える自由を受け入れると、人生がすぐに変わります。人との関係も変わります。本当の幸せを見つけることになります。「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。
私も遣わされた!
ルカ福音は、なぜイエスがこの世に来られたかを、イエスご自身の口を通して荘厳に私たちに語ります。私たちも自分に問い掛けます。「私は何のために生まれたのか?」と。
なぜ生まれたのか、生きている意味は何か、本当の幸福を得るためにどうすればいいのかといったことについて考えるのは、哲学的な思想のようにも聞こえますが、今の社会を見渡すと、実は、自分さえ幸せになればいいという自分中心主義で、しかも仕事も恋愛もうまくいき、お金もうけをして何が悪いといったような人は圧倒的に多いという感じがします。関心があるのは自分がより快適に暮らすための自分の幸運、仕事、健康だけで、他人がそのためにどうなるのかは眼中にないようです。最近、恐ろしい殺人事件も増えているのも関係がありそうな気がします。生きる意味は、自分自身へのみ向かう内向き的な考えに呑まれていくばかりです。
主が私をお遣わしになったのは具体的に何のためなのか、考えるように促されているのです。私たちはイエスを救い主と信じるので、イエスは「捕らわれている人に解放を告げるために」来られたのです。洗礼を受け聖霊をいただく私たちがまずこの解放に目覚めることが大切です。自分のことだけで頭が一杯で、他人に目を向けるゆとりも関心もない自己中心に陥っている私たち、そして自分をむしばむ生き方に縛られている私たちが、イエスの宣言された真の解放と自由を実感し、それをさらに証ししなければならないということが教えられているのです。そのために私は生まれ、遣わされているのです。私の本当の幸せはどこにあるのか。(大塚喜直=京都教区司教=カトリック新聞))
私たちは神に使え、神にささげ物をしたり、香をたいて神に喜ばれるようなことをするのが宗教である、信仰生活であると思いやすい。しかし、ここではイエス・キリストとは、旧約聖書の預言が成就された出来事であると言われている。神のために人間が何かしていくと思っていたのに、神のほうから近づいてこられた。神が私たち人間の世界に働きかけられたというのは、驚くべきことである。聖書が私たちに訴えていることはそれである。そこに他の宗教とキリスト教の違うがある。どうして神を喜ばせていくか、あるいはなだめていくかということではなくて、神が私たちのほうへどのようにして近づかれ、何をされたかに目をとめていくのがキリスト教である。(榎)
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「冬天(とうてん)に暖景(だんけい)なくば、梅麦(ばいばく)なにをもってか花を生ぜん」。
これは弘法大師(空海)が奈良の元興寺の僧、中璟(ちゅうけい)の罪を赦しを乞い、朝廷に提出し
た文の一節です。
冬の厳しい寒さの中でも、わずかに暖かい光が差し掛けるからこそ、春になれば美しい花も咲くのです。
今日の福音書にぴったりのことば、神のことばこそ冷たいこの世に語られ、温かい光となって、たえず新しい命を生み出します。
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ヘブライ4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
4:16 だから、(私たちは)憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
不安を取り除くために活用される方法にグループ・サイコセラピーがあります。これは、集団によるカウンセリングで、人生の問題を抱えている人たちの交流をとおして療法をすすめていきます。問題を持っている人にとって、人生の荒波を耐えてきた人が他にもいるということに気づくことは、大きな助けとなりますし、互いに理解し、気にかけ合います。
イエス様は私たち一人一人のことを理解し、気にかけてくださいます。私たちの弱さや誘惑されやすい性質を理解してくださいます。だから、思い悩むときに、「私のところに近づいてきなさい」、「休ませてあげよう」と勧めておられるのです。必要なときに恵みをもって助けるために、私たちを招いて下さっているのです。イエス様とあなた自身とを結びつけて考えてみてください。あなたが、今、経験しているその悩み、痛みをイエス様はご自分の身に感じておられます。イエス様は、私たちのために、誘惑や心の痛み、弱さや拒絶を経験されたのですから。(「平安を得るためのヒント100」、いのちのことば社)
2 per annum C
年間第2主日 C
【ヨハ2:1-11 カナでの婚礼】
最初のしるし
「しるし」‥‥それは奇跡のことです。「しるし」というのは、何かの目印であるということです。何かを指し示すものであるということです。すなわちイエスさまがしるしをなさったということは、単に何かイエスさまが不思議なことをなさった、「あー、すごいね!」で終わらないということです。すごいにはすごいに違いないのですが、そこに意味があるということです。その不思議な奇跡が、何かを指し示しているのです。
宴会の途中でぶどう酒がなくなるというのは大ピンチです。イエスが水をぶどう酒に変えてそのピンチを切り抜けたという話ですが、ヨハネ福音書はこの出来事を、新しい救いの時代の始まりを象徴的に表す出来事として見ているのです。婚礼のイメージは「神と人とが一つに結ばれる救いのイメージ」でもあります。
奇跡です。イエスさまが大量の水をぶどう酒に変えられたのです。‥‥私たちはここで起こったこの奇跡の現象に目が行ってしまいます。「こんなことがあり得るのだろうか」と思われる人もいることでしょう。
古代の教父(使徒たちの後の時代の教会の指導者で尊敬される人)にアウグスティヌスという人がいます。今から1600年も前の人で、北アフリカの司教です。古代で最も今日に影響を及ぼした教父と言って良いでしょう。このアウグスティヌスが、ここのところの説教で次のように述べています。
「召使いたちが水瓶に注いだものがぶどう酒に変わったのは主のわざであるが、同様に雲が降らせたものがぶどう酒に変わったのも同じ主のわざである。このことは毎年起こるので、私達は驚かない。それは規則的に起こるので、驚嘆の念を失わせる。けれどもそれは、この水瓶の中で起こったこと以上に熟慮されるべきものである。」
なるほどその通りです。カナの婚礼の時は、水が、すぐにぶどう酒に変わった。だから驚嘆します。しかし考えてみれば、ぶどうの木は、天から降った雨水によって甘いぶどうの実を結ぶ。そしてそのぶどうの実が発酵してぶどう酒ができる。‥‥これもまた水がぶどう酒に変わったのです。考えてみれば不思議なことです。しかしこちらのほうは、いつもそのようになっているので誰も驚かない。しかし「奇跡」ということが、神さまのなさる業だと考えますと、雨が降ってぶどうの木が実を結び、そして発酵してぶどう酒ができるというのもまた奇跡であると言えましょう。すると、神の奇跡は毎日私たちの間で起こっていることなのです。そのことに気がつきなさいと、アウグスティヌスは述べています。
そして、婚宴の世話役も、おそらくは新郎新婦も気がつかないところでその奇跡をなされた。私たちの毎日も、実は私たちの気がつかないところで、主が支えてくださっているのです。助けてくださっているのです。奇跡を行っていてくださるのです。そのことに目が開かれたいと思います。
私たちの人生、長く生きてまいりますと、「こんなものだ」とあきらめるようになる。先が見えてきて、つまらない毎日のように見えてくる。しかしイエス様によれば、後の方から出てきたものが「良いぶどう酒であった」ということが起きるのです。
実はヨハネ福音書の語るこのエピソードは、非常に内容豊かなメッセージを含んでいます。
その中に、人間の喜びは天から恵につつまれるのでなければ、もろく、はかなく、崩れやすいものです、というのもあります。事実、喜びの婚宴の最中にぶどう酒がなくなります。ぶどう酒は宴席には欠かすことのできないものです。喜びはささいなことから崩れていくものです。とるにたりないような小さなことがらが喜びをむしばんでいきます。ささいなことであっても注意しないと、それが、心の奥底までつきささってしまうなら、人生のすべての喜びをとざしてしまうこともあります。
マリアはぶどう酒がなくなったという、小さな、ごく日常的な現象をイエスの前にもちだします。永遠の神の目で見たら、ごくごく小さな、とるに足りないことです。しかしマリアは、それをすなおにイエスの前に置きます。ここから一つ重大なことを学ぶことがだきます。イエスの前に、どんなことでももちょだしてかまわないということです。この問題なら願ってもいい、その問題は願ってはならないという判断を、人間はしなくてもいいのです。祈りの内容の是非についての最終的判断は、祈る本人の仕事ではないということです。その理は簡単です。人間の営みのすべてが、神とかかわっているということです。受肉されたイエスは、人間の生の営みのすべてを背負われたからです。人間となられたイエスの心には、喜びも悲しみも、真の意味で人間的といえるものすべてがひびいていくからです。
「それが、あなたと私になんのかかわりがあるのですか。私の時はまだきていません」
これは、マリアに対する拒絶のことばでもなく、イエスが人間の営みとのかかわりを拒絶したものでもありません。イエスのかかわり方が、人間の営みの次元をこえるものであることを示すことばです。人間の営みを恩恵の営みに引き上げようとすることばです。
「イエスの時」がヨハネ福音書では重要な意味をもちます。それは、救いの時、恵の世界がひらかれる時です。
信頼のうちにイエスにゆだねられるなら、イエスはそれを恩恵の次元に高め、つつんでくださるのです。水がぶどう酒に変わるのです。そして、いちばんよいぶどう酒が与えられます。それが「どこから」きたのかと人々は問います。「どこから」つまり天から、上からです。カナの婚宴のエピソードは、どんなささいな人間の営みであっても、天からこられたイエスの力にいだかれ、愛につつまれる時、真の喜びが与えられることを明らかにしたのです。
ある人の話です。その人は5歳の頃、自転車がほしくてたまらなかったそうです。ところが親は危ないからとどうしても買ってくれません。その子は親を恨みます。そうこうするうちやがて自転車への関心もなくなり、小学校高学年になった頃、引越しすることになりその地を離れます。
そうして20年以上経ち、小学校の同窓会が開かれることになりました。5歳だった少年も、もう30歳の父親。同窓会に参加し、なつかしく昔自分が住んでいた家を探し当てたとき、その男は分かったのです。家の周りは、急な坂ばかりの狭い道。しかも大きな道路の抜け道となっていて、車がとにかく多い。そういえば、と思い出します。幼稚園の頃、家の前で車を見るのが好きで、それだけで1日過ごすことが多かった。 その時、自分がずっと親を恨んでいたこと、それがその自転車を買ってもらえないことに原因があったこと。しかしそれは本当は感謝すべきことだった。子供の願いを拒絶するのも親の愛であった。それらすべてのことを思い出し、理解したのです。
同じように、小さい子が注射が嫌いで、注射をしないですむようにと祈ることもあるかもしれません。しかし親は必要があれば、注射を打たせるでしょう。それが親の愛なのです。
マリア様に願いを取り次いでもらう。それはいいことです。ただそのこととすべて願いがかなうこととは別のこと、ということはあり得るのです。それは人間の考える以上の大きな愛と計画が潜んでいるからです。
自分の願う祈りがすべてかなわないからといって、神様への感謝や賛美、また自分への悔い改めの祈りを失うことがないようにしたいと思います。よく考えてみれば、なんだかんだと言いつつも当たり前に日常を送っている。実はそれだけで、とてつもない神様の大きな恵みの結果なのです。ところがうまくいかなくなると、突然、神様、どうしてと思ってしまう。そうでなく、当たり前の日々を送りながら、感謝もせずにいる自分。そういう自分を反省し、感謝と賛美、また自分への反省の気持ちを忘れず過ごしていきましょう。
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こうしてイエス様の最初の奇跡、神様と共にいることのしるしが行われます。イエス様の最初の奇跡が、別に深い信仰を持っていた病人を癒したのでも、死からよみがえらせたことでもなく、ただ婚礼の場でぶどう酒が足りなくなったので、水をぶどう酒に変えただけ、というのはちょっと意外です。イエス様は石をパンに変える試みにあって、それを拒否したばかりでした。あまりにこの世的で、もしこんな奇跡を繰り返したなら、ぶどう酒業者として、裕福に暮らせ、またそのお金で貧しい人を救えたとも思ってしまいますが、もちろんそんな形跡はありません。訳の分からない奇跡です。
この箇所で言いたいのは、神の子イエス様を動かしたのは、マリア様である。それ以外に説明のできない箇所だと思います。確かにマリア様がいたからこそ、イエス様は地上に降りてくることができた。このマリア様に30年も仕えてイエス様は生活してきた。そのマリア様に頼まれたからこそ、こんなの神の独り子のすべきことではないと思いながらも、つい奇跡を行ってしまったイエス様。そうとらえるのがどうも自然のようです。マリア様は、たとえどんな願いであっても、それをイエス様に取り次いでくださる方である。またイエス様の心をさえ動かす力を持っている、奇跡を生み出す鍵であることが分かります。「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」とはヤコブ書にかかれたことばですが、これはマリア様についてよく当てはまることばです。マリア様に取り次いでもらうよう、よく祈ることが勧められます。すべての恵みの泉であるイエス様を産んだと言う点で、すべての恵みの仲介者とマリア様は言うことができるのですから。
ところで祈りには、神様への讃美、感謝、お願い、悔い改めなどがあります。人間はこのお願いの祈りをすることが多く、しかしそれは叶わないことが多い。そのために祈り自体をやめてしまうことが多いのです。しかしそれは本当でしょうか。
神の母聖マリア 一月一日 Mater Dei Mother of God
神の母聖マリア 一月一日
【ルカ2:16ー21 羊飼いと天使】
きょう一月一日、私たちはさまざまな思いを持ってこのミサに集まっています。そしてともに祈ることでこの一年を始めようとしています。今日のミサは、聖母マリアの姿を仰ぎながら、すべての祝福が御子イエスによってもたらされたことを思い、新しい一年に向けての祝福を祈り求めるという意味があるでしょう。
また、きょうのミサは豊かな内容をもっていますので、その中から、私たちの祈りのポイントを考えてみましょう。
クリスマスから八日目
デパートや商店街では、12月25日を過ぎるとクリスマスの飾り付けはすっかり取り払われてしまいます。慌ただしい年の瀬が過ぎ、やっとのんびりとしたお正月を迎えたところで、クリスマスなんてもうどこか遠くへ行ってしまったような感じかもしれません。しかし、教会では12月24日まではクリスマスの準備の期間(待降節)で、クリスマスからイエスの誕生の祝い(降誕節)が始まります。きょうは主の降誕からちょうど一週間目。きょうのミサの福音はクリスマスの余韻(名残り)を残しながら、イエスの誕生八日目の割礼と命名を記念します。典礼暦から見ると、きょうのミサのテーマの中心はここにあります。教会はお生まれになった幼子イエスの光のうちに新年を迎えるのです。
赤ん坊のイエス、それは小さな光(しるし)です。しかし、「飼い葉おけに寝かせてある乳飲み子」というこの小さなしるしのうちに、私たちはひとり子を人類の一員として与えてくださった神の愛と救いを見いだします。どんなに苦しいことがあっても、どんなに打ちひしがれていても、神は私たちとともにいてくださる、この(降誕の)喜びと希望のメッセージのうちに教会は新年を迎えました。ひとり子イエスを与えてくださった神の愛に感謝しながら、幼子イエスの光がすべての人に及ぶように、きょう私たちはいのります。
新しい年の祝福
きょうの第一朗読は民数記にある祭司の祝福のことばが読まれます。答唱詩編も神の祝福を願いながら歌いました。これは福音と関連しているというよりも年のはじめを意識したものです。新しい年の上にまず神の祝福を祈るのです。祭司の祝福で「主が」と三回繰り返されるように、祝福の源は神ご自身であり、祝福とは何よりも神がともにいて恵みを注いでくださるということです。
昨年一年の間、神から与えられた恵みを感謝しながら、新しい一年も神がともにいてくださるように、そして私たちが神とともに歩めるように祈ります。
神の母聖マリア
きょうの祝日のタイトルは「神の母聖マリア」ですが、福音朗読に登場するマリアの姿は「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」姿です。マリアは幼子イエスの誕生にまつわるさまざまな出来事を深く心に留め、そのすべての中に神の救いのわざの偉大さと不思議さを感じとっています。
私たちの身の回りにもいろいろな出来事があります。喜ばしい出来事も、辛く悲しい出来事もあります。新年に向けて私たちは、教会の母マリアとともにこれらの出来事を思い巡らします。私たちも、日々の一つ一つの出来事の中に神が働いておられることを味わっていくことができますように。
聖母マリアを思い浮かべながら私たちが祈るとき、もう一つ忘れてならないのは、天使のお告げを受けたときのマリアのことばでしょう。「お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・38)私たちにさまざまな願いがあります(お告げを受ける機会に恵まれるかもしれない)。しかし、マリアと同じ深い信頼のうちに、私たちはまず神のことば、神のみ旨の実現を祈りたいものです。
世界平和の日
新年に世界の平和のために祈ろう、と呼びかけたのは教皇パウロ六世でした。私たちはもちろんそれぞれ自分の家庭の平和や幸福を願います。しかし、それだけではなく、すべての人を救うために来られたキリストを思いながら、きょう、世界中のすべての人と心を合わせて平和のために祈るのです。マリアがイエスをこの世に生んだことによって、本当の平和をもたらした。そのために母マリアの祝日は平和の日となったと思われます。
人間と親しくなろうとする神は人間になって、弱い赤ちゃんとしてお生まれになりました。母マリアは、何が行われているかをよく理解できません。ただ、これらの出来事一つ一つを「心に思い巡らしていた」と書かれています。神のなさることは人間には理解しにくいものです。現代でも神の計画はなかなか理解できないのに、ましてやマリアの時代なら、なおさらのことです。
強い人が幸せに暮らし、貧乏人はより貧しくなる状況。毎日何万かの子供たちが飢え死にする状況。戦争のために家、家族、すべてを失った難民の状況。神はこれらの状況を、どうしてなくさないのかと考えます。そのときマリアは大切なことを教えてくれます。たとえ私たちが今すぐ、その意味を理解できなくても、とりあえずこれらのことを全部、心のなかで受けとめるのです。そして、自分にできることを神から示されるとき、積極的に自分の役割を果たす決心を立てるのです。
だれもが、子供が生まれると喜びます。その誕生を祝う気持ちがあります。しかし、人々が子供を産み育てることにかつてほどの期待を向けなくなっているという現状があります(少子化社会)。たしかに、実際に生まれてくる一人、二人の子供に対しては、今まで以上に手数をかけ、その誕生を祝い、子育てに強い関心をはらう親が多いと思いますが、もっと根源的な意識の中では、生み育てることがかつてほどの価値を持たなくなっている。換言すれば、そのほかにもっといろいろ追求価値があって、子供を産み育てることは相対的に地位が低下した。
そしてまた、聖母マリアに象徴されるような、赤ん坊を抱く母親を美化し、理想化する思想もイメージも、かつてに比べてその力をウ失っている。その意味での母性愛神話がすでに過去のものになった現代にとって、聖母マリア・イメージをどうやってもう一度人々が抱きなおすことができるかが、クリスマス(新年)にあたって問われています。実際の母親たちは、その多くが、赤ちゃんに自分の関心も思いやりも愛情のすべてを注ぐという心の状態に、かつてほど安住することができなくなっています。
母親を美化する思想、価値観が失われただけでなく、実際に生み育てる母親の身になってみると、社会的な仕事もしなければならない。しかし、夫のサポートも、実家の母や姑(しゅうとめ)、ひいては地域社会のサポートもなかなか得られない。母親であることが深刻なストレスを担うことを意味してしまいます。
これら諸条件を改善し、現代女性にふさわしい形で、安心して母と子の二人の世界に安らぐことができるような条件を作り上げることが、クリスマス(新年)を祝うことを契機に大いに工夫されなければならないでしょう。
新しい年が始まりました。1月1日。「世界平和の日」と定められています。このミサの中で特別に、戦争や分裂、憎しみや飢え渇きなどのない平和な世界が来るように祈っていきましょう。
教皇ベネディクト16世は2006年度の平和メッセージの中で、平和は真理のうちにこそ達成される。その真理をしっかり自覚することの大切さを強調します。ここで真理とは、すべての人間が平等な尊厳を備え、神の似姿として作られていること。神が人類のため計画を実行されていること。善と悪は存在するのであるが、その存在をすべての人が認識できることを指しています。
主の洗礼 B年 Battesimo del Signore B In Baptismate Domini
主の洗礼 B年 (2009/1/11 マルコ1:7-11)
降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエスが誕生してから30年もたった後の出来事ですが、ここには「イエスの神の子としての現れ」という降誕節のテーマが続いているのです。 同時にこの出来事はイエスの活動の出発点でもあります。主の洗礼の翌日から「年間」となり、福音を告げるイエスの活動の歩みが始まります。
それにしても、イエス様がどうしてヨハネに清めと悔い改めの洗礼を求めたかは理解しにくいかもしれません。本当の効果的な洗礼を定めたイエスは清めも、許しもいらなかったのに、"今はそうさせてほしい"、とヨハネに頼みました。そしてその洗礼を受けてからイエスは御父によって御自分の愛する子として紹介されて、聖霊がイエスの上に下ってきた、とあります。これからイエスは救いの御業を成し遂げることになるが、同時にかれは完全に私たちの仲間としてこの道を歩むことを聖書は強調していると思います。御父はイエスを人類に救い主として紹介したといえるような気がします。神様が送った救い主はこのようなものだよ、といわんばかりです。つまり、イエスは力ずくで救うのではなくて、スーパーマンのようにいいカッコしい救い主ではなく、私たちと同じように生活し、私たちのの弱さ、罪を背負っていく救い主です。自分は罪をおかさなかったが、罪の結果だけを背負って人間と同じように生活し、人間と徹底的に連帯する救い主です。その姿を御父が喜ばれる。私の愛する子といわれる。
トマス・アクィナス(1225?~1274)はとても理解しやすい説明をしています。清められるためではなく、水に清める力を与えるためイエスはその洗礼を受けたと。東方教会の、イエスの洗礼を大切にお祝いしてきた伝統はその意味を深く理解して、川を祝福する水の祝福式を大切にしてきました。物質も救いの世界に迎えられる前触れとして私たちはイエスの洗礼をみているわけです。大自然、被造物全体は救いの世界に迎えられるから、大自然と環境のことをもっと深く考える必要があるのではないでしょうかい。こういう、作られた世界のすべてを積極的に評価する理由や土台は主の洗礼にあるのではないでしょうか?
http://blogs.yahoo.co.jp/iriki_ch/53633241.html
福音のヒント
(2) 洗礼を受けた後に起こったことも大切です。 (a)天が裂け、(b)聖霊がイエスに降(くだ)り、(c)「わたしの愛する子」という声が聞こえた。
(a)の「天が裂け」というのは、神がこの世界に介入してくることを表す表現です。イザヤ63章19節には「あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名(みな)で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降(くだ)ってください。御前(みまえ)に山々が揺れ動くように」という言葉があります。今日の福音書はこうしたイザヤの叫びへの答えになります。
(b)の「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるイメージを表す表現です。 (b)と(c)の出来事について、マタイ、マルコ、ルカは微妙に表現が違います。マルコでは聖霊を体験するのはイエスご自身で(イエスが見た!)、声も「あなたは」とイエスに向かって語りかけています(マルコ1章10-11節)。ルカでは、聖霊が「目に見える姿でイエスの上に降ってきた」と客観的な描写のようになっていますが、声のほうはマルコと同じく「あなたは」とイエスに向かって語りかけます(ルカ3章21-22節)。マタイでは、聖霊が降るのを見るのはイエスご自身ですが、声のほうは「これは」という三人称で周りの人にも聞こえたような印象があります。つまりこの出来事は、一方では、洗礼者ヨハネをはじめその場にいた人々が見聞きすることのできる出来事だったようでもあり、もう一方ではイエスの内面的な体験と見ることもできるようなのだとも言えそうです。この出来事には、イエスが神の子として現されたという面、と同時に、イエスが神の子としての使命を特別に自覚したという面の両方があると考えたらよいかもしれません。
(3) 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉の背景には、イザヤ42章1節以下があると言われています。新共同訳ではこうなっています。「1見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。2彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。3傷ついた葦(あし)を折ることなく/暗くなってゆく灯心(とうしん)を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。4暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」 「主の僕(しもべ)の召命」と呼ばれる箇所です。この「僕」のギリシア語訳は「パイスpais」で「家の中の小さい人たち=子どもや僕」を意味する言葉です。福音書の「子」は「ヒュイオス(hyios)」で「息子」を意味する言葉ですが、イメージとしてはつながっています。つまり、この「愛する子」という言葉に、イエスが神の子として、主の僕としての使命を生き始めることが示されているわけです。
(4) 「あなたはわたしの愛する子」この言葉は、ある意味でわたしたちすべてに向けて語られている言葉だと言えるでしょう。わたしたちの洗礼はわたしたちが「神の愛する子」とされることを表しています。この「イエスのヨルダン川での洗礼→わたしたちの洗礼」というつながりも大切ですが、「ヨルダン川→ペンテコステ→堅信の秘跡」というつながりも大切です。イエスの復活後50日目のペンテコステ(五旬祭)の日、使徒たちの上に聖霊が降り、使徒たちは福音を告げる活動を始めました(使徒言行録2章)。堅信の秘跡は、同じようにわたしたちが聖霊を受けて教会の使命に積極的に参加することを表すものです。聖書の多くの箇所で聖霊は「ミッション(派遣・使命)」と結びついています(新約聖書では、ルカ1章30-35節、ヨハネ20章21-22節などを参照)。弱い人間が神から与えられた使命を果たすことができるように、神の力である聖霊が与えられます。これこそが堅信の秘跡の中心テーマなのです。「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」もちろん、それは秘跡の中だけのことではないはずです。どんなときにわたしたちはそう感じることができるでしょうか。
(5) 「洗礼」はギリシア語では「バプティスマbaptisma」で、元の意味は「水に沈めること、浸すこと」です。洗礼者ヨハネが行なっていた洗礼も、初代キリスト教会の洗礼も、人の全身を水の中に沈めるものでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い(罪の)自分に死んで、新しい(神の)いのちに生きることを意味しています。洗礼者ヨハネにとって、洗礼は何よりも回心(悔い改め)のしるしでした。イエスは罪なき方であったのに、他の人々とともにこの回心のしるしである洗礼を受けました。そこにイエスの、罪人である人間との深い連帯性を見ることもできます。人々とともに苦しみの水の中に沈み(マルコ10・38参照)、人々とともに神のいのちへと立ち上がる、この洗礼の出来事の中に、イエスの生き方全体を表す象徴的な意味を感じ取ることもできそうです。
http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/200811331317_9e87.html
ある人は自分の才能を伸ばし、政治家になって世の中を変えようと思いました。そうやって自分のキャリアを磨くことを追い求め一所懸命仕事をしていました。
そんな人があるとき、同じ会社で、床磨きだけをもう何10年もしてきた初老の男性のつぶやきをふと聞いてしまいました。「いつかこの仕事できなくなるかなぁ。天国に行ってもやっていたいなぁ」。誰に向かって語ったわけでもない、老人のひとり言。それに衝撃を受けました。
今まで何も気に留めず、むしろ内心ばかにしていた、単純な仕事を繰り返しているだけの男性。しかしこの人に比べて、はたして自分は、今やっている仕事を天国でも続けてやってみたいと思うだろうか?
この男性は、自分を磨き、才能を伸ばすことなどまったく無頓着だったでしょう。しかしただありのままに、自分のできること、自分のしたいことを黙々と、生きがいをもって、何10年もし続けている。それに比べて自分は。いつも背伸びし「自分を高めよう。競争に勝てるようになろう」。そんなことばかり考えている。人を見ればいつもライバルと思い、蹴落とすことばかり考え、自分が評価されなければ、頭にきてしまう。こんな毎日の仕事。とても天国でし続けたいことではない。この世の中で十分……。いったい自分のしてることは何なのか。
自分のありのままの姿。自分の置かれている場所。それをそのまま受け入れていくことに、幸いの一つがあります。
パスカルは「パンセ」という書物の中でこんなことを語っています。
「自分の惨めさを知らずに、神を知ることは、傲慢を産む」。イエス様が批判したファリサイ派や回心前のパウロのことを思い浮かべればいいのでしょうか。彼らはただ自分たちだけが神に従っている正しいと思い込みました。自分の惨めさを知りませんでした。そして罪を犯さざるを得ないもの、自分たちと違う考えをするものをばかにし、迫害し、牢に入れたのでした。
パスカルは述べます。「神を知らずに、自分の惨めさを知ることは、絶望を生む」。人間は誰でも、いつか自分の惨めさに気づくときがあります。たとえば自殺してしまったユダ。ユダの悲劇はゆるす神、愛の神を拒否したことから起こりました。そして自分のどうしようもない惨めさを知ったとき、ただ絶望し、自殺するしかないと思ってしまいました。一方ペトロは自分の惨めさ、イエス様を裏切るという自分の惨めさを知っても、ゆるす神、祈ってくれている神を知っていました。だから絶望することなく、回心し、イエス様に付き従っていくことができました。
神は、深く回心したものを必ず赦します。この憐れみ深い神を知らないで自分に絶望するもの。たとえば思い犯罪を犯した人間が再び同じ過ちを犯すことがあります。この理由の一つには「もう自分は誰からも愛されない、自分は地獄に行くしかない。それならばどうなってもいい」。そんな絶望からきます。
またパスカルは述べます。「自分が惨めであることを知るのは惨めなことだが、人間が惨めなことを知っているのは偉大である」。ペトロは裏切った後、初めて自分が本当に惨めな人間でしかないことを知りました。そして回心し、イエスの復活を宣べ伝えていくときに、たびたび自分の惨めさを思い出しては、後悔の涙を流したと言われます。しかしだからこそ、かつてのユダヤ教の宗教指導者のように傲慢になることなく、人を裁くだけにならず、そして自分の裏切りの場面も、そのまま聖書に記録することを、初代教皇として許し、むしろ勧めました。自分に続くキリスト信者が同じように傲慢から間違いを犯さないように。ここに自分の惨めさを知った人間の偉大さがあります。
自分を必要以上によく見せようと背伸びしてないでしょうか。そのためにただ自分を磨き続ける男性。それよりもありのままの自分を受け入れながら、どんなことも神が私に与えてくれたことと受け止める。そうしてたとえ些細なことであっても謙そんに忠実に仕上がるとき、神の国の一員としての役割を立派に果たすことになるのです。自分をよく見せるのでなく、ささいなこと、床を磨き上げ、きれいな床を見せることにも、立派な価値があります。
私たちも洗礼者ヨハネがそうであったように、自分のために、自分を人々に見せるのでなく、イエス様のために、自分の背後に働くイエス様を世界に見せるために、イエスさまの望むことを、謙そんに、一つ一つ、着実に、果たしていきましょう。
moseos
Tuesday, December 25, 2012
Monday, December 17, 2012
Christmas Day
御降誕祭 日中のミサ
ヨハネ1・1-18
ことばにはいろいろあります。あたたかい言葉、冷たい言葉、人を傷つける言葉、人を励ます言葉、内容のあることは、うわっつらな言葉。わたしたちの心は、この言葉によってそうとう左右されています。とげ(毒)のある言葉で心は傷つき、冷たい言葉によって、ときには失望したり、はては絶望してしまうこともあります。逆にあたたかい言葉によって、心の安らぎをおぽえ、内容(知恵)のある言葉によって、ひらめきを得たり、大きく飛躍し、羽ばたいていったりすることもできるのです。
さて、言葉がわたしたちの希望となり、言葉がわたしたちの人生を照らし、言葉がわたしたちをほんとうにあたためるとはどういうことでしょうか。そうなる言葉の条件はいったいなんでしょうか。
たとえば、ある青年が悩んでいるとしましょう。彼は、恩師(信頼できる人)のところにいき、その悩みを打ち明けます。恩師は彼の苦しみを感じ、彼の痛ましい姿を心に受けとり、その痛ましい姿を見て見ぬふりをすることができなくなります。恩師の心はやさしさにみち、この痛ましい姿に共感します。そこからこの青年をなんとかしてあげたい、という思いがわいてきて、そしてそれが助言の言葉となっていきます。当然言葉をかけるまえに、どういうことをどういってあげたらいいのか、この青年の将来のためにどうしたらいいか、考えると思います。そして、自分のいままでの人生経験に照らして、真剣に考え、自分の思いをまとめ、そしてそれを言葉にしていきます。こうしたことばは、この青年の希望となり、励ましとなるわけです。つまり、言葉が、希望になり励ましになり、その人生を照らすものとなるための条件とは、一つは愛であり、そしてもう一つはその人格の深さ、経験の深さ、これだと思います。
言葉になるまえに、相手の存在を自分の中で感じとる。そして痛ましく思う。それをほんとうに深いところで、自分の全体で感じとってしまう。そういう相手に対する思いやりがまず第一です。この思いやりのない、相手に対するやさしさのない、相手を痛ましく思うことのない心からでる言葉、それは冷たい言葉になります。相手を傷つける言葉になります。実際に役に立つことのできない言葉になってしまいます。
それでは、こういった面でキリストはどうだったでしょう。キリストは神の愛からでてきたかたです。天のおん父はおんひとり子を与えてくださるほどこの世を愛されたとあります。天のおん父は、わたしたちの痛ましい姿をごらんになり、その痛ましい姿をしっかりと受けとって、見て見ぬふりをすることがおできにならない。そういうところからでてきたキリストの誕生です。キリストにはまず愛があります。キリストの姿の背後にはまずわたしたちに対する限りのない愛があります。思いやりからでる言葉、わたしたちをほんとうに痛ましいと感じることからでてくる言葉、これは、やはりわたしたちの希望になるはずです。キリストは、まさにそういうかただったということです。
しかもそれは、たんなる思いつきからでてくる言葉でもありません。人間をほんとうに育てるためになにが必要なのか。人間をほんとうに導くためには、どんな光が必要なのか。人間を罪の病からほんとうに解き放すためには、どのような恵みが必要なのか。じっくりと考え、しっかりと人間をみつめながら、わたしたちのために父なる神様が心をひらいてくださった、それがキリストだというわけです。キリストの中には、わたしたちへの神の愛がこめられています。そしてキリストの中にわたしたちの人生をいやし、照らし、導き、完成しようとする神の思いがすべてこめられているのです。キリストはまさに神の最高の言葉といっていいのです。
そしてもう一つ、忘れてはならないことは、言葉はいのちであるということです。言葉にはその人の内面のいのちがすべてこもっているということです。恩師の言葉、その中には恩師のいのち、その人生がすべてあるということなのです。言葉には、恩師の生きてきたいのちそのものがこめられているはずです。そこで、恩師の言葉をすなおに心から受けとれば受けとるほど、恩師の人格が伝わってきます。恩師のいのちが伝わってきます。いのちを伝承することができるわけです。
ですから、神の言葉には、神のいのちそのもの、神の内面の生命そのものがこめられていると考えてもまちがいではありません。つまり、キリストはわたしたちに向かって神のいのちを伝えてくれるかたでもあるのです。たんに、わたしたちのための神の愛というだけではない。わたしたちの人生を照らす光というだけではない。神のいのちそのものをわたしたちに伝えてくださる、そういった言葉であるということです。このようなキリスト、神の言葉としてのキリスト、それをわたしたちはしっかりとみつめなおす必要があると思います。キリストの中に神のわたしたちに対する光がある。わたしたちに与えようとする神のいのちそのものが、生きているということです。
JUAN, 1, 14
No sera menos un enigma esta hoja
que las de Mis libros sagrados
ni aquellas otras que repiten
las bocas ignorantes,
creyendolas de un hombre, no espejos
oscuros del Espiritu.
Yo que soy el Es, el Fue y el Sera
vuelvo a condescender al lenguaje,
que es tiempo sucesivo y emblema.
Quien juega con un nino juega con algo
cercano y misterioso;
yo quise jugar con Mis hijos.
Estuve entre ellos con asombro y ternura.
Por obra de una magia
naci curiosamente de un vientre.
Vivi hechizado, encarcelado en un cuerpo
y en la humildad de un alma.
Conoci la memoria,
esa moneda que no es nunca la misma.
Conoci esperanza y el temor,
esos dos rostros del incierto futuro.
Conoci la vigilia, el sueno, los suenos,
la ignorancia, la carne,
los torpes laberintos de la razon,
la amistad de los hombres,
la misteriosa decocion de los perros.
Fui amado, compredido, alabado y pendi de una cruz.
Bebi la copa hasta las heces.
Vi por Mis ojos lo que nunca habia visto:
la noche y sus estrellas.
Cono ci lo pullido, lo arenoso, lo desparejo, lo aspero,
el sabor de la miel y de la manzana,
el agua en la garganta de la sed,
el peso de un metal en la palma,
la voz humana, el rumor de unos pasos sobre la hierba,
el olor de la lluvia en Galilea,
el alto grito de los pajaros.
Concoc i tambien la amargura.
He encomendado esta escritura a un hombre cualquiera;
no sera nunca lo que quiero decir,
no dejara de ser su reflejo.
Desde Mi eternidad caen estos signos.
Que otro, no el que es ahora su amanuense, escriba el poema.
Manana sere un tigre entre los tigres
y predicare Mi ley a su selva,
o un gran arbol en Asia.
A veces pienso con nostalgia
en el olor de esa carpinteria.
Jorge Luis Borges, Elogio de la Sombra, 1969
JOHN 1:14
This page will be no less a riddle
than those of My holy books
or those others repeated
by ignorant mouths
believing them the handiwork of a man,
not the Spirit’s dark mirrors.
I who am the Was, the Is, and the Is To Come
again condescend to the written word,
which is time in succession and no more than an emblem.
Who plays with a child plays with something
near and mysterious;
wanting once to play with My children,
I stood among them with awe and tenderness.
I was born of a womb
by an act of magic.
I lived under a spell, imprisoned in a body,
in the humbleness of a soul.
I knew memory,
that coin that’s never twice the same.
I knew hope and fear,
those twin faces of the uncertain future.
I knew wakefulness, sleep, dreams,
ignoran ce, the flesh,
reason’s roundabout labyrinths,
the friendship of men,
the blind devotion of dogs.
I was loved, understood, praised, and hung from a cross.
I drank My cup to the dregs.
my eyes saw what they had never seen-
night and its many stars.
I knew things smooth and gritty, uneven and rough,
the taste of honey and apple,
water in the throat of thirst,
the weight of metal in the hand,
the human voice, the sound of footsteps on the grass,
the smell of rain in Galilee,
the cry of birds on high.
I knew bitterness as well.
I have entrusted the writing of these words to a common man;
they will never be what I want to say
but only their shadow.
These signs are dropped from My eternity.
let someone else write the poem, not he who is now its scribe.
Tomorro w I shall be a great tree in Asia,
or a tiger among tigers
preachin g My law to the tiger’s woods.
Sometime s homesick, I think back
on the smell of that carpenter’s shop.
ヨハネによる福音書 一章十四節
(ホルヘ・ルイス・ボルゲス、 斉藤幸男訳 『闇を讃えて』 水声社 18頁以下)
この紙片が謎となるのだ、
わたしの聖なる書物の一葉一葉よりも。
そしてまた人々の愚かな口先が
聖霊の朧気(おぼろげ)な反映とはつゆ知らず
人間の手になるものと看傲しては繰り返す
かの聖なる諸節なぞよりは。
ある、あった、あるだろうわたしは
絶え間のない時であり表象である言葉へと
ここに再び立ち返るのだ。
子供を相手に戯れる者は
何かしら身近で不可思議な存在と戯れている ―
わたしの子供らと戯れようと
驚きと優しさに満ちてわたしはその中にいた。
不思議な力が働いて
奇(くす)しくも胎内からわたしは生れ出た。
魔力に搦(から)められ身体の虜となって
取るに足らぬ人間としてわたしは生きた。
その度に姿を変える硬貨 ― 記憶を
わたしは知った。
期待と恐れ 一 不確かな未来のふたつの顔を
わたしは知った。
目覚めと眠りと夢を、
無知と肉体を、
から回りする理性の迷宮を、
人と人との友愛の心、そして
犬たちの不可思議な献身をわたしは知った。
愛され理解され崇められ、十字架に吊るされた。
澱(おり)まで杯をなめ尽くした。
わたしの両の眼が未だかつて見たことのない
夜と星屑とを見た。
すべすべした、さらさらの、不揃いの、ざらざらしたものを、
蜜と林檎の味わいを、
乾いた喉を潤す水を、
掌にのせられた金属の重みを、
人の声を、小草を踏みしめる足音を、
ガリラヤに降る雨の匂いを、
鳥たちの甲高い鳴声をわたしは知った。
そしてまた苦味をも知った。
さる男に書き取るように頼んだ
もはやわたしの言いたいこととは異なって
ただその反映にすぎないものを。
これらのしるしはわたしの永遠からこぼれ落ちるのだ。
傍らにいる書き手その人ではなく別の誰かがこの詩を書き取って欲しいものだ。
明日にはわたしはアジアの巨樹となり、
虎たちに混じる一頭の虎となって、
森なかで自ら法を説くことだろう。
時には懐かしさのあまり
あの仕事場の木の匂いを思うだろう。
Christmas Vigil
主の降誕(夜半のミサ)C
【ルカ2:1ー14】
宿屋には彼らのために泊まる場所がなかったからである。
ルカ2・7参照
母マリアは、生まれたばかりの赤ちゃんを飼い葉おけに寝かせたと書いてあります。なぜなら、宿屋には彼らのいる場所がなかったからです。ということは、人々の心に場所がなかったということでしょう。私たちの心は自分のことで一杯で、人のことを考える余裕はありません。とくに自分の苦しみの時はそうです。
二千年まえのこの時も、皆それぞれ自分のことに忙しくて、この貧しいヨセフとマリアに、
かまっているひまはなかったのです。私たちはまず、自分のことを最優先します。それから、
自分に関係の深い物事に関心がいき、もし時間があれば神のことも考えるのです。つまり、神
の場所はいちばん後回しになりやすいのです。神は、文句を言いませんから。
ところで、私たちが生きるために、物理的な場所と同時に心理的、精神的な心の場所も必要
です。赤ちゃんでさえ、母親のおなかに物理的に存在したにもかかわらず、母の心に自分の場所がない時に、大きなショツクを受けるといいます。私たちも周りの人々の心の中に場所がないと
感じる時、大変つらくなります。いじめというのは、その人の心の場所を奪うことでしょう。
イエス様が人間としてこの世に入られる時、受胎することをマリアが承知しました。つまり神の子のために、物理的な胎内という場所のまえに、マリアの心に場所があったということでしょう。次にイエス様はヨセフの心に場所を見いだし、馬小屋の中でこの世に物理的な場所を持たれ、次いで羊飼いたちの心、三人の博士たちの心にも場所を広げられました。
私たちの心が自分のことで一杯で、他人の場所がない時、他の人の心にも自分の場所がない
ことを表します。他の人だって、自分のことで一杯なのですから。自分の心に他の人の場所を
つくらないで、人にだけ私の場所をつくれとは無理な相談です。私がまず、私の心に人の場所
をつくる時、人も私の場所をつくってくれる可能性が生まれます。心に人の場所をつくれるということは、その人の心の広さを表し、その人の人格のすばらしさを示すのです。逆に自分で一杯ということは、その人の心の狭さを示します。
いちばん簡単でよい方法は、人を愛することでしょう。自分のために人を愛するのではなく、その人のために愛する時、いつの間にか私の心をその人が占領します。しかも私は少しも損だとは思いません。愛していない時に自分の時間、場所を少しでも犯されると腹が立ち、損をしたと思ってしまいます。
では神の場所は、どうでしょう。ついつい神の場所は後回しになって、困った時や苦しい時ぐらいしか、神を思い出さないこともあります。私たちが神を忘れても、神は私たちを忘れませんけれど。私たちが神の場所を設けなくても、神の中の私たちの場所がなくなることはないでしょう。しかし私たちが物理的、時間的に私たちの心に神の場所を設けないなら、神の中の私たちの場所を、自分で閉ざしているのです。
親の心には子どもの場所がいつもあります。しかし子どもが親のことを無視していれば、そこにある自分の場所をも無視していることになりますし、場所があることに気づかなくなるのです。子どもが心から親を敬う時、親の心の中にある自分の場所を、いちばん大切にしていることになります。
ですから神のために、一日のうち五分でも十分でも、場所をあける必要があります。しかし
それはこの五分間に、神を閉じこめることではありません。私の狭い場所に神をおしこめて、
私の願いを聞いてもらおうとすることではありません。神は私の召し使いではないのです。神
は私の一部分をほしいのではなく、私全部をほしいのです。つまり私の場をご自分の場にした
いのです。
神を私の場に閉じこめることではなく、私の場が、神の場の中に開かれることを望むのです。
私の心を神にあけ渡す時、神が私の場となられるのです。そのことを表現する手段として、物
理的に時間的に一日のうちの五分を神にあけ渡すのです。神こそ私の全部の場なのだ、という
ことを忘れないために、五分をささげるのです。
神の国は物理的でも心理的精神的な場(スペース)でもありません。まったく霊的な場を持つ国なのです。ただ私たち人間は、それを物理的時間的に表現する必要があるのです。神の国は武器の力によって獲得する国とは違い、愛の力によってのみ成立する国です。私たちが神を愛する時、
その国の愛の支配の中に入るのです。心に神の場所を設けるということは、その人の心がとてつもなく広いということを表します。他人のことを考えられる人は、すばらしい人です。だったら神のことを考えられる人は、何とすばらしい人てしょう。
このクリスマスにあたって、私たちの心に幼子イエス様の場所を作りたいと思います。それはイエス様の場の中で私たちが生きるためです。私たちが狭苦しい場から、イエス様の広い場へ移るとき、私たちは本当に自由になるでしょう。狭い自分の広場から飛び出て、広大な神様広場、イエス様広場、愛の広場に開かれるとき、私は私から自由になって、お互いにこころから兄弟姉妹を愛せるでしょう。神様広場、イエス様広場では、すべての人間がまったく平等なのですから。
今晩、世界中の人々と心をあわせて、幼子キリストの誕生をともに心から祝いたいと思います。クリスマスおめでとうございます。(静)
世界中の国では、クリスマスとなると、(ちょうど日本のお盆の時のように)、なにをおいても、このときばかりはと、それぞれ家族のもとに帰り、一家団欒(いっかだんらん)の大切なひとときを、ともにするのが慣わしです。家族や肉親が久しぶりに再会し、ともども主の降誕を祝い、感謝し、親子・兄弟の絆を強めるとともに、そのような善意と平和が、くまなく全世界に広まっていくことをキリスト教徒たちは祈り願っています。日本では、年の瀬、大晦日に除夜の鐘とともに、しんみりと、この一年を、あるいは、これまでの自分の人生を回想し追憶します。そこに、至らぬ自分、あるいは逆に、満ち足りた自分の姿を見るのかもしれません。いずれにせよ、このシーズン、感謝と希望のうちに一人でも多くの人々が、古い自己を脱却し、遠大な思想にたち帰り、「いと高き天においては神に栄光、地においてはみ心にかなう人々に平安」という聖書のこの言葉が一人一人の心に響きわたりますように。
「あなたは夜に来ます
私たちの心のうちはいつも夜です。
ですから、主よ、いつも来てください。
あなたは静かに来ます
私たちはお互いに何を言えばいいのか分からなくなった。
ですから、主よ、いつも来てください。
あなたは寂しいところに来ます。
私たち一人一人はますます寂しく感じます。
ですから、主よ、いつも来てください。
来てください、平和の子よ。
私たちは平和とは何か知らないのです。
ですから、主よ、いつも来てください。
私たちに自由を与えに来てください。
私たちはますます奴隷になっています。
ですから、主よ、いつも来てください。
私たちを慰めに来てください。
私たちはますます悲しくなっています。
ですから、主よ、いつも来てください。
私たちを探しに来てください。
私たちはますます迷子になっています。
ですから、主よ、いつも来てください。
私たちを愛するあなた、来てください。
まずあなたと一緒でなければ、
誰も兄弟姉妹と交わることはできない。
私たちは遠くに行ってしまって、迷い込んでいます。
何をしたいのか、私たちは誰であるのか分からなくなった。
主よ、来てください!
主よ、いつも来てください。
(D・M・トゥロルド)
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神様とは全能の、宇宙の作り主、時と場所を越えて存在する方です。それに対し人間とは、有限の、時と場所に縛られる小さな存在に過ぎないものです。このクリスマスとは、その全能の神様が有限な人間になったことをお祝いする日です。それにしても「神が人間になった」、これはいったい何を意味するのでしょう。
こう考えると「水戸黄(こう)門」(江戸時代前期)を思い出します。
水戸黄門は、ご承知のように徳川光圀(みつくに)の別名で、「先(さき)の副将軍」(権力者)であるのですが、その身分のままでは気ままな旅ができないので、「越後のちりめん問屋の隠居(いんきょ)・三右衛門(さんえもん)」と名を変え姿を変えてお忍びで、格さん助さん(家来)を従えて旅をします。そして肝心な時には、いよいよその本来の身分をあらわして、葵の紋(あおいもん・みつばあおい)をかざして「頭(ず)が高いぞ!()無礼者、あたまの下げ方足りない)」とやるわけです。「ザ・権力」です。
この場合は、あくまでも「町人の振り」をしているまでです。本当に町人になったのではない。見せかけです。
ダミアン神父(1840-1889年、1995年列福)。彼は33歳の時、ベルギーからハワイ諸島のハンセン病患者が追いやられていたモロカイ島に志願して渡り、600人もの患者と共に生活した宣教師です。彼は自分も病気に感染しますが、そのとき、こう喜んで言いました。「私自身がハンセン病になった。これまで以上に人々に近づき、絆をもっと深めることができる」。彼はやっとこれで本当に自分は患者と兄弟になれたと思ったのです。「あなたたち」が「私たち」に代わったからです。こうして49歳で亡くなるまで、彼はハンセン病患者の司祭として働きました。
実は神様も同じでした。神様は人間のことをとても心に掛けていました。自分に似せて作った人間、でも神から背いてしまった人間をなんとかして救いたいと思っていました。そこでイスラエルの歴史の中で、繰り返し夢に現れたり、預言者という人間の口を借りながら、それとなく介入しては、自分の考えを伝え、なんとか人間との関わりを持とうとしてきました。しかし人間の不満はいつも同じでした。
「私たちには食べ物が必要だ。すぐに疲れれば、痛みも感じる。寝るところが必要だし、お金のために働かなければならない。雲の上の、霊的な話ばかりしてもらっても困る」
かくしてイスラエルの歴史は、人間の神への拒絶と、また神への立ち戻りの繰り返しでした。
それでも神様は御自分が大切に作った人間を、単なる奴隷でも慰めでもなく、本当に大切に造った人間、だからこそ自分に逆らうことも許した人間を救いたいと思ったし、どんなに人間を大切に思い、愛しているか示したかったのです。
そこで神様は決断しました。神様自身が人間となって、人間の肉体の弱さもそっくり抱えたままで、それでも神様に従うことができる、その見本を、本当に示そうと。そこでこの世に現れたのが、神様の独り子イエス様でした。
私たちは同じ者には心を開き、その声を聴くことがたやすくできます。そこでさまざまな自助組織ができています。アルコール依存になったものが同じ苦しむ人を救う会、犯罪被害者になったものが犯罪被害者を助ける会などの活動を見れば、分かります。彼らの援助には、同じ苦しみを負ったものとして、すぐれたカウンセラー以上のものを期待できるのです。
ところで、神様が人間になること。このことは神の独り子にとっても、大変な犠牲だったのです。すべて見通せていたものが肉体に閉じ込められるものになり、死なないものが死に縛られるようになる。カフカは短編「変身」(1915)の中で、ある朝、目をさますと、自分が巨大な虫に変身したセールスマンの孤独を描きました。神が人間になるとは、このように人間が、自分の頭脳をそのまま持ちながら動物になる、そんなことよりも、もっと大きな犠牲と勇気が必要でした。神の子はさらにまったく無力な赤ちゃんになりました。人間に任せきりになって、人間に自分の命をそっくり任せたのです。そしてそんな大きな犠牲を払って生まれてきた神の子イエス様だからこそ、人間の間違った裁きにさえ従って、十字架の死を最期に身に受けることができたのです。
神様が人間という目に見える姿をとって、人間の歴史に直接入り込んで下さった。神様の考えをはっきりと知ることができるようになった。かつて人間の祖先が背いて以来、溝ができた神様との関係をすっかりもとに戻すこと。それらが神様の子・イエス様の誕生によってできるようになったのです。そこまでして神様は人間を救おうとしてくださった。だからこそ教会はこのことを感謝し、最大のクリスマスのお祝いをするのです。
しかしこのような人間になった神という考えは、ユダヤ教の伝統やイスラム教などから見れば、とんでもない過ちということになるでしょう。全能無限の神が、限られた人間になることはありえない。神は絶対的、超越的なものであるとユダヤ教などは考えるからです。しかしキリスト教は、そこまで人間の間に入り込んでくださり、私たちと同じになってくださっても、深い人間への愛を示してくださった神様の業を何より大切にするのです。
そしてまた私たちはイエス様の生き方によって、希望を持ちます。なぜなら人間となった神の独り子イエス様は、誘惑にあい、痛み、泣き、苦しみ、神の子が神に見捨てられた感覚をも持ちながらも、それでも神様に従って、神の御心にかなう生活をすることができた。そのことで私たち人間も、神様のように生活していくことができる、その希望が与えられているからです。
人間になったイエス様が、神の子としての使命を立派に果たしていった、その希望に支えられながら、その神様の愛に応えるために、私たち一人ひとりも、自分中心の立場から、人の立場に立って、同じ身になって思いやりながら生きていく、そういうものに変わっていくのです。Moseos
Wednesday, November 21, 2012
4 advent C
待降節第4主日 C
【ルカ1:39ー45マリア、エリザベトを訪ねる】
(1) エリサベトはマリアの親類で、高齢になっていたにもかかわらず、洗礼者ヨハネを身ごもりました。人間的には不可能と思われることですが、だからこそ、そこに神の力が働いている、ということになります。洗礼者ヨハネの誕生という出来事には神の力が働いているのです。
(2) エリサベトはマリアに向かって「あなたは女の中で祝福された方」(42節)と言います。これは「最も祝福された女性」という意味です。これはヘブライ語やアラム語で最上級を表す表現なのです。
今わたしたちが唱えている「恵みあふれる聖マリア…」という祈り(ラテン語の「アヴェ・マリアAve Maria」)の前半は、ルカ1・28の天使の言葉「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と、このエリサベトの言葉から採られています。日本語では、「主はあなたを選ばれ、祝福され」と訳されていますが、どうでしょうか。「選ばれ」というとマリアだけが例外的に祝福されているように聞こえてしまうかもしれませんが、決してそうではなく、「最も祝福されている方」という意味なのです。
マリアも、エリザベトも「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方である」。その点でキリスト信者の模範になる方です。
私たちはどれほど主のおっしゃることは実現すると信じたものでしょうか。主のおっしゃること、つまり聖書に書かれていることがらを私たちはどれほど信じるものになっているでしょう。いまだ単に、良いことを記した書物ととらえているだけで、それを生活の中心においていない、と言うことがたくさんあるのではないでしょうか。受肉していない部分があるでしょう。
物理学の用語で、「応力」という言葉があります。応じる力と書きます。その意味は簡単に言えばこう言うことです。
皆さんの座っている椅子。1人で座っているのもあれば、3人座っているのもあります。 小学生が座ると、この椅子には5人も6人も座るのかもしれません。当たり前のようですが、これは不思議なことです。
一人が座っているとき、椅子はちょうどその1人を支えてびくともしません。なぜでしょう。実は50kgの重さが椅子にかかったとき、椅子の方からもまったく同じ50kgの、1人を支える力が下から上に出ているのです。だからこそ椅子はつぶれることもなく、また人を飛び跳ねさせることもなく、ちょうどぴったり支えることができるのです。
2人が座ります。やはり同じです。100kg人が座って重荷がかかった時、椅子の方からもまったく同じ100kgの、2人を支える力が出ているのです。今度は3人が座ります。すると今度は椅子からは150kgもの、3人を支える力が出てくる。
どれくらいの重さが椅子にかかっているか、それがその人の信仰の度合い。この椅子の人間を支える力が、神様から発せられる力。そう捉えたらどうでしょう。椅子はとても頑丈で、300kgの力が掛かってもつぶれることはありません。なのにほとんどの人は、その椅子に、中腰(ちゅうごし)で、恐る恐る、そっと座っているだけです。自分の足に頼って支えようとして、腰からすっかり、じっくり自分の全体重をかけて座ろうとしていません。そのために人はいつもふらふらしているし、また椅子の方も、力を出しきらずに置かれているだけ。そんなことがあるのではないでしょうか。
あなたはこの椅子にどれだけ腰を据えて座っているでしょうか。自分の足を頼りにし、椅子に深々と座ろうとしないうちは、けっして椅子が本当の力を発揮することはないのです。しかもこのように信じると言うこと、それは本当は簡単なことなのです。自分の足を頼りにすることをやめて、自分で何とかしようとすることをやめ、心配することを忘れ、恐れを捨て、すっかり神に任せ、深々と座ってみたらどうでしょうか。それが主がおっしゃることは必ず実現すると信じるものの姿です。すべて重荷を置いて、椅子に座りなさい。そうイエス様は呼びかけておられます。
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サンタ、今年も追跡します(朝日新聞 2012年12月23日朝刊)
北米航空宇宙防衛司令部(NORAD:North American Aerospace Defense Command)が毎年行っているサンタクロースの追跡作戦“NORAD Tracks Santa”が今年も行われる。
米軍とカナダ軍が共同運営する北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)は24日、毎年恒例のサンタを追跡するプロジェクトを実施する。人工衛星などを監視するNORADは、12日の北朝鮮のミサイル発射を探知し、地球の軌道を周回する北朝鮮の人工衛星も追跡しているが、クリスマスイブには「一大任務」が加わる。
NORADは、クリスマスプレゼントを配るため世界中を移動するサンタを追跡、その様子を24日未明(日本時間同日午後)から、NORADのウェブサイトで日本語を含む8カ国語で紹介する。
北朝鮮の人工衛星とサンタを同時に追跡できるのか、朝日新聞がNORADに尋ねたところ、担当者は「運営の安全を確保するため、能力の詳細は話せません」と断ったうえで、「私たちはいくつもの物体を同時に追跡できます。サンタはものすごい速さで移動するのですが、私たちの人工衛星は、トナカイの鼻から出る赤外線を探知して、サンタを追跡できるのです」と答えた。
サンタが実在するかどうかについて、NORADは「50年以上にわたる我々の追跡から導き出される結論は、サンタが世界中の子供の心の中に実在し、愛されているということだ」としている。
”「サンタはいる」と答えた新聞”というタイトルの新聞記事が目に付きました。朝日新聞の”風”欄です。
~19世紀末、ニューヨークに住む8歳の少女が新聞社に手紙を送った。「友だちがサンタクロースなんていないと言います。本当のことを教えてください。サンタはいるんでしょうか」それを受け取った「ニューヨーク・サン」紙の編集局は本物の社説で答えた。
「サンタはいるよ。愛や思いやりの心があるようにちゃんといる」「サンタがいなかったら、子どもらしい心も、詩(文学)を読み楽しむ心も、人を好きになる心もなくなってしまう」「真実は子どもにも大人の目にも見えないものなんだよ」と。・・・・
少女の名前は、バージニア・オハンロン。手紙を書いた少女は教育に携わり、亡くなるまで恵まれない子どもたちの救済に尽くしたということです。彼女の名前を冠した奨学金制度が今月、ニューヨークでできた。貧しい家庭の優秀な子に授業料を支援する。お世話になっている子達の心には「目には見えずとも大切なもの」が生き続けていると校長は言う。「デパートで出会ったサンタのひげをひっぱったら、取れちゃった。でも、サンタはいないとは思わない。クリスマスになると、わくわくするのはサンタのおかげ。見えなくても、わたしの胸の中ちゃんといる」。作文の授業で、10歳の少女はこうつづった。米ジャーナリズム史上最も有名な社説と呼ばれる、バージニアへの返信を掲載したサン紙は半世紀前に消えた。同じ名前と精神を看板に設立された新聞社も、経済危機のあおりで昨年解散した。少女の心の扉を開き、百年の時を越えて人々の想像力のともしびを燃やし続ける一編の記事を生み出す力が今、私たちの新聞にあるだろうか。サンタはいる。そう書ける新聞でありたい、と思う。(朝日新聞(朝刊)2009年12月19日)と。
この2人の出会いの中に、「教会」の根本的なイメージを感じ取ることができるでしょう。「いろいろ問題や悲惨なこともあるけれど、それでも神の約束は確かにわたしたちの中で実現に向かっているよね」ということを分かち合い、その喜びを確かめ合うのが、教会という集いの根本的な意味だと言ってもよいのではないでしょうか。
3 advent C
待降節第3主日 C
ルカ3:10ー18
待降節も第三週に入ります。今日は喜びの主日と呼ばれ、世の救い主がまもなく、この世に来て下さる、その喜びを表す日です。今日読まれるフィリピの教会への手紙に、「常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリ4:4)と喜ぶことを教えています。ふつう喜びとか賛美の心は自ずからわきあがるものです。そしてこういう気持ちでいられるとき、確かに人は幸せでいられます。でもいつもいつもそのような心でいられるとは限りません。いや、むしろそうでないことの方が多いでしょう。自分の思っていることがかなわない、仕事や人間関係はうまく行かないとき、突然の事故で親しい人が亡くなったとき、そのような中でも、喜びや賛美の心を持ち続けることは難しいです。
「喜び」は命令されて出てくるものではありません。喜びがあるときに自然にわき上がるものです。しかしパウロは命じられました。あなたは喜びなさい。重ねて言う。喜べと。この手紙も、パウロ自身が牢獄に閉じ込められている中で書いたものです。パウロは、喜び、感謝、賛美の心は決して自然にわき上がるものだけではない。与えられるものでもない。自らが作り出し、発見していくもの。
キリスト者の務めは喜ぶこと、そして感謝することに対し、感受性を高めることにあると、教えているようです。
イエス様はご自分に従おうとする者に、こうあらかじめ言っています。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタ5:12)。 またイエス様は十字架を前にした最後の夜、こう祈りました。「今、私はみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」(ヨハ17:13)。
死に渡される最後の夜、「私の喜び」と言ってのけたイエス様の喜びとは一体どのようなものだったのでしょう。その夜イエス様は血の汗が出るほど苦しんだはずでした。これから先に起こる弟子と群衆の裏切り、十字架の苦しみ、母マリアとの別れ。
できるならこんな苦しみは取り除いて下さいと願うほどの苦しみでした。でもこんな苦しみの中でも、絶望的な、迫害を前にしても、イエス様は喜びを感じ取ることができたのです。
それは父なる神様への感謝の心を思い起こすことができたからだと思います。どんな絶望的な中でも、それでもすべてのことを結局は、良いように導く神様。父のみ旨を果たす喜び。父なる神への感謝の気持ち。それらを思い起こすことができたのです。それができたとき、イエス様は自身の苦しみを、神様から与えられたものとして、喜びをもって受け入れることができたのだと思います。
いろんな苦しみを人間は体験するものです。しかしあの苦しみの時が、一番の恵みの時だった、自分のために確かになった。そう後で分かることがあったのではないでしょうか。 私たちはこのイエス様を模範にして、どんなとき、苦しいときにも、わずかでも喜びを感じ取り、すべてのことの背後におられる神様へ感謝することが大切です。
たとえば突然の地震や事故を体験すると、人は言うものです。神様がいるなら、どうしてそのような悪を止めなかったのか。しかし同じように言う人はほとんど、地震のない日常、事故のない電車に乗り合わせるとき、それは当たり前と思い、感謝する心を起こしません。
カール・バルトと言う人は強盗にあったときに、次のように感謝したそうです。 今まで強盗に会わなかったことに感謝します。取られたのが金であって命でなかった。命は大丈夫だったことに感謝します。すべてのものを奪われたがそれほどではなかったことに感謝します。私が盗む側でなかったことに感謝します、と。
間もなくイエス様がこの世にお生まれになります。洗礼者ヨハネも、自分はイエス様の先駆けでしかないこと、自分が衰えて行くしかないことを知っていました。しかしイエス様の栄光が高まる結果なら、それでよしとしました。名誉、地位にとらわれず、自分の命を惜しみなく捧げていく。洗礼者ヨハネもまた神様のみ旨に、従順に生き抜いて、自分の喜びと神様への感謝をしっかりと知っていた人でした。
「キリストに倣って」という本では、この世の喜びにとらわれることなく、神様をしっかり見つめて、こう祈っています。
「主よ、もしあなたが、私を暗黒(暗闇)の中に置こうとお思いなら、私はあなたを讃美します。
もし私を光の中に置こうとお思いなら、同様に、あなたを讃美します。
もしあなたが、私を慰めて下さろうとお思いならば、あなたを讃美します。
また、もし私を苦悩にあわせようとお思いならば、同様にあなたを讃美します」
私たちも、いろんな苦しみの中でも、賛美する、感謝する心を忘れないようにしたいと思います。moseos
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「馬小屋が人生の学びやである(…)。この馬小屋で、私たちはまことの喜びの秘訣を学ぶことができるからです。まことの喜びとは、多くのものを所有することではありません。むしろそれは、主が愛してくださっていることを感じ、他の人のために自分をささげ、愛し合うことのうちにあります。馬小屋に目を向けたいと思います。聖母と聖ヨセフはそれほど幸せな家族だったとは思われません。二人は最初の子をたいへんな困難のただ中で受けとめました。それでも二人は深い喜びに満たされました。なぜなら、二人は互いに愛し合い、助け合っていたからです。何よりも、自分たちの現実の中で神が働いておられることを確信していたからです。神は小さなイエスのうちにご自身を示してくださったのです。羊飼いたちはどうでしょうか。羊飼いたちはなぜ喜んだでしょうか。いうまでもなく、みどりごは彼らの貧しさや除(の)け者にされた境遇を変えてくれるわけではありません。けれども、彼らは信仰の助けによって、「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」のうちに、「しるし」を見いだすことができました。すなわち、神は、「み心にかなう」すべての人のために、また羊飼いたちのためにも、ご自分の約束を実現してくださったという「しるし」です(ルカ2・12,14)。
(…)ここにまことの喜びがあります。まことの喜びとは、私たちの個人また共同体としての生活が大いなる神秘の訪れを受け、この神秘で満たされていると感じることです。大いなる神秘とは、神の愛の神秘です。私たちは喜ぶために、ものだけではなく、愛と真理を必要とします。私たちは近くにおられる神を必要としています。(…)この神が、おとめマリアから生まれたイエスのうちに示されました。だから、私たちが馬小屋や降誕の洞窟の中に飾る「幼子」は、万物また世界の中心なのです。」(ベネディクト16世、『霊的講話 2009年』、380頁以下、一部変化)
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ヨハネが悔い改めを迫った時に、群衆が「それではわたしたちは何をすればよいのですか」と、尋ねた時に、ヨハネはきわめて具体的、現実的な答えをするのです。「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい。」といい、取税人に対しても「きまっている以上に取り立ててはいけない。」といい、兵士に対しても「人をおどしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足しなさい」と、きわめて当たり前、現実的なことを勧めるのです。悔い改めるということはこういうことです。
何か悔い改めるといいますと、今までの生活をがらりと変えることだ、全財産を投げ出して、出家することだとはいわないのです。そういう悔い改めをして、全国に講演旅行することが悔い改めではないのです。そんな悔い改めをしたら、自分はこんなに劇的な悔い改めをしたのだと悔い改めた自分を見つめてばかりいて、そうしてやがて悔い改めた自分を自慢話のネタにするのです。それは悔い改めさせてくれた神よりも、悔い改めた自分を宣伝するようになるのではないかと思います。http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke5.htm
洗礼者ヨハネの生き方は、「自分の立場をわきまえる」ことでした。洗礼者ヨハネは、それぞれの立場の人びとから、さまざまな質問を浴びせられています。それらの問いかけに対して、洗礼者ヨハネは無理のない分かち合いを進めています。決して大それたことではなく、毎日の生活のなかで身近に行うことのできる振る舞いを大切にするよう呼びかけています。民衆は、洗礼者ヨハネの生き方を眺めて、「救い主が来た」という感触を得て、よろこびつつ騒ぎ立てました。しかし、洗礼者ヨハネは、「自分の役割をわきまえていた」のです。自分を宣伝し、威張り散らしがちな世の中の人びととはまったく異なった謙虚な生き方が洗礼者ヨハネの魅力です。
しかし洗礼者ヨハネは、自分はメシアではない。偉くなんかない。イエス様こそメシアで神の子だから偉いと、率直に語りました。「自分はただの人。イエス様の履物をお脱がせする価値もない。イエス様こそメシアなのだ」と言ったのです。
有名な指揮者レオーナード・バーンシュタインは、管弦楽団で一番難しいパートを問われて、第2ヴァイオリンと答えました。けっして目立って音を奏でる第1バイオリンではなく、かと言え技量も同じものを持ちながら、それでも第一ヴァイオリンを引き立たせる第2ヴァイオリンの役こそ、一番難しいと言ったわけです。 考えてみれば私たちは誰も第二バイオリニストです。第一ヴァイオリンであるイエス様を引き立たせるための。そうでなく自分が何よりも目立とうとするときに、いろんな誤りが起こってきます。 また私たちはすぐ自分のすることの実りを求めます。しかし働かせてくださるのは神である主です。主が働いて実りをもたらしてくださることを信じ、実を結ばないように思えるときも、自分のすることを地道にしていく忍耐を持てます。Moseos
今日の三つの朗読は、イエス・キリストの特徴を見事に言い表しています。イエス御自身は直接に登場していませんが、その特徴がうきぼりにされているのです。イエスの特徴とは、確実に私たちを救ってくださること、まことのよろこびに迎え入れてくださること、謙虚に仕える者として私たちを支え励ましてくださることです。
私たち自身の生き方とイエスの生き方とを比べてみると、まったく逆の現実が見えてきます。私たちの場合は、相手を確実には救えない、にせのよろこびのなかで自分勝手に生きている、傲慢にも相手を従えて利用しようと、もくろんでいる。反省させられます。同時に、主イエスに助けを求めて回心していきたいと願います。主よ、あなたに従う真実の喜びに入ることができるよう、自分の小ささを謙虚に受け入れる恵みを与えてください。sese06
生活の中での愛の実践。生活の具体的な場でのやさしさ、おもいやり、いたわり。それを救い主イエスと出会う最高の準備として、もう一度真剣に考えなおしてみたいものです。
2 advent C
待降節第2主日 C
ルカ3:1ー6
今日の福音は、洗礼者ヨハネの登場と、イザヤの言葉の引用で、私たちにクリスマスの準備を促しています。これからの一週間、私たちの心の準備に当てていく何かをつかむことにいたしましょう。
この福音書を書いたルカは、最初のところで、二つの動きを紹介しています。一方は、この世の権力者の名前を挙げて、この世がどれほど権力を欲しがっている世の中だったかを描き、もう一方では、荒れ野という、この世の権力争いとは無縁の場所で、神の言葉が伝えられていくところです。
神の言葉は、権力と支配がすべてという場所に降ることなく、しかしそれと同じ時代に、神の言葉はヨハネが活動の場に選んだ荒れ野に降ったのです。権力は何と魅力的なことか、神を信じることに、どれほどの意味があるだろうか。権力者が力を見せびらかしていたその時に、権力争いから離れた場所で神の言葉が降り、活動し始めるのです。
あるいはそれは、ほかのいろいろな疑いを持っている時代に、神の言葉が降ったと言ってもいいでしょう。たとえば、命は、大切だろうか、命の大切さをいったい誰が、どこで教えてくれるだろうか。そう疑っている現代にも神の言葉は降る。そう言い直しても構いません。
政治がよくなれば、日本は良くなると考えている人がたくさんいます。それはそうかも知れませんが、政治家が世の中を動かして、たとえばゆとりのある教育を押し進めたとしても、命の大切さを、本当に教えることができるようになったかと言ったら、そうでもないのです。神の言葉が降って、神の言葉を受けいれた人が、神の思いを忠実に受けとめなければ、たとえば命の大切さも、本当の意味では伝わらないのです。
学校では、特定の宗教を取り上げることはできません。ですから、「いのちは神が与えてくださったものだから、大切なんだ」という、この一言を言いたくても言えないのです。「かけがえのない命」とは言えても、神が造られたから命は大切なんだ。たったこれだけのことが言えないのです。
だからこそ、神の言葉はザカリアの子ヨハネに降り、伝えよと言われたことをそのまま伝えます。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。(中略)人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と。残念ながら、政治の舞台も教育の現場も、神の言葉を神の言葉として語れないのです。そんな行き詰まりの中にある社会に、宗教だけが、神を信じる集いだけが、神の言葉を神の言葉として聞き、学び、伝えて回ることができるのです。そしてその神の言葉が、まもなく人となっておいでになるのです。今私たちはその日を待ち、喜び迎えようとしているのです。そう思って、一日一日を過ごしていただきたいのです。
次に、洗礼者ヨハネの口を通して語られた、イザヤ預言者の言葉をもう少し考えてみましょう。引用された言葉に共通するのは、「~される」という言い回しです。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに(「される」ということでしょう)なり」。
洗礼者ヨハネの呼びかけを聞いて、あーそうだ、私たちは救い主をお迎えするために、あわただしい生活のなかに、落ち着いた場所を用意しないといけない。そう感じた人たちが、呼びかけに答えて神に立ち直るとき、時間に追われ、落ち着きを失っている私たちにも、神様が宿る場所、平らな場所が与えられるわけです。
それは、呼びかけに答える私たちと、実際にその歩みを完成してくださる神様との、共同の働きです。神が、谷を埋め、山と丘を低くし、曲がった道をまっすぐにしてくださるのです。こうして、イエスを迎える準備の時から、神が私たちの準備を助け、完成してくださると気付いていただきたいのです。
神が、人となっておいでくださる。権力争い、支配欲などでドロドロになっている世の中であっても、神は伝えたいことがたくさんあって、おいでくださる。命がなおざりにされ、物とか力で他人を支配しようとする世の中に、神は命の大切さをみずから知らせにおいでになるのです。
国や政治、あるいは法律が、命の大切さを決めるでしょうか。今宿ったこの命は守り育てるけれども、あの命は事情があって守ってあげられない。現に法律がそれを許しているのだからと考える人がいますが、日本の法律はなぜすべての命を大切にしてくれないのでしょうか。あの人はまだ生きていて良いが、この人はかわいそうだから、国の定めた条件に合えば死んでよい、とでも言うのでしょうか。
神だけが、命の尊さ、生きる意味について正しく教えてくださいます。そのことをはっきり教えるために、神がまもなく、人となっておいでくださるのです。ある国で安楽死の法律が決まっても、いのちに権限を持っておられるのは神です。その国にとっても、イエスの誕生は、まことの命の意味を知るために必要なのです。
神だけが知っておられ、神のみが教えることのできる真理を、私たちは必要としています。そういう思いで今年も主の降誕を待つことにしましょう。教会にみなで集まってイエスを待ち、生活にあっては祈りの時間を持つことで、この社会にイエスがおいでくださる必要があるということを証ししていきましょう。
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私たちは先週から、こらから来られるキリストのために心の準備を始めました。この準備のために、今日の福音は良いヒントを与えてくださっています。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る』
人は、みな誰かを出迎えようとする時に、その道がデコボコだったり、整えられていない山道だったりしたら、相手の方が、少しでも速く来やすいように道を整えて準備をします。
車が走りやすいように、カーブを減らし、高速道路のようになるべく真っ直ぐな道にします。道を真っ直ぐにするということは、曲がった道を走るより、目的の場所に速く到着するということです。
それでは、その道を私たちの心に例えてみますと、正直で曲がっていない心には、キリストは最も早く来られます。曲がった心にもキリストは来て下さいますが、そのスピードは快速とはいえません。車は渋滞し、なかなか進みません。また、新幹線も、高い山を登らずにトンネルをくぐり、深い谷を下らずに橋を渡って走ることにより、真っ直ぐ走ることができ、スピードが出せます。この山と谷を人間の心や生活に対比させてみると、山は元気すぎる時(奢り高ぶる心や金持ちにあこがれる生活)、谷は失望する時(鈍い心や貧しさを嘆く生活)ではないでしょうか。私たちは、深い谷を少しずつ埋めることによって、高い山を低くしていかなければならないでしょう。つまり、両方の極端な状態を平均的にしていくことにより、その状態は、穏やかになります。
キリストは柔和な心の人、公平な心の人の中に、真っ直ぐ豊かな恵みをもって宿ります。この山と谷は、私たちの日常生活を見回してみても思い当たることが一杯あるのではないでしょうか。人間関係の中で「あなた」と「私」の間に、いろいろな妨げがある時、それは、それぞれが心に抱えている曲がった道です。ベルリンの壁が崩壊したときに、ヨハネ・パウロ2世教皇様は、「"壁"ではなくて"橋"を作りましょう」と強くおっしゃいました。これはイザヤのような預言と言えるでしょう。私たちの心の中にある曲がった道(壁)を避けて通るのではなく、道を整えて"橋"を、「あなた」と「私」の間に架けましょう。お互いを信じ、信頼し、お互いにチャンスを与え会話をすること。そうすれば、「あなた」の中にいらっしゃるキリストを、「私」は優しく迎えることができるのです。しかし、このことは、私たちの力だけではできません。そのために神様に"祈り"ます。『神様、力を与えてください』と。
国連のデータによると、今、この世界で飢えている人々が、10億24万人いるそうです。また、6秒おきに栄養失調の子どもが死亡しているそうです。12月2日に、アメリカのオバマ大統領がアフガニスタン支援のための増兵を正式に発表しました。そのために年間300億ドル(約2兆6000億円)の費用がかかるそうです。そのお金の少しでも飢えている人々に使えたら、大きな"橋"になるのではないでしょうか。
クリスマスは、平和と一致の季節です。国と国の間、私たち一人ひとりの間にその心を持つことが出来るように神様に願うことは、とても大切なことです。
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◇私たちはいつの間にか、自分だけが正しい。他の人は自分の都合のよいように変わるべき。そのような自分中心の悪の原理主義に犯されがちです。家族の間でどうでしょう。いつも相手に期待し、相手が自分の都合のいいように変わるよう願っている。しかし自分は絶対に変えない。変わるつもりがまったくない。強情を貫き通している。
ある孤独な老人は、自分のことを振り返ってこう語りました。「自分の人生は結局は、人に変われということばかりだった。しかしその結果、みんな自分の周りから去ってしまった。たったひとり。今最後になって思う。本当は、自分が変わらなければいけなかった。そのことに気づくのにあまりに遅かった」。
第2朗読でパウロの祈りを読みました。「知る力と見抜く力とを身に着け、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(フィリ1:9f)と。
いつも愛が十分に働いているか。そのことを基本の原理とすること。愛のために、本当に、自分のなすべきことを見つめること。本当に大切なことを、大切にしているかをしっかり見極めること。それが大事です。イエス様は、自分の枠に閉じこもり、自分を守ろうとする狭い心で、人を裁いてばかりいる私たち一人ひとりに、回心を呼びかけるのです。
◇ある家庭の妻は、飲んだくれのご主人をかかえて困りぬいていました。毎晩のように飲んでは暴れる。ある時、子どもと二人で、酔っている夫の首を、ネクタイで絞めようとしたほどだったそうです。そんなある時、「愛はあなたを変える」という教会の案内を手にしました。「そうだ、キリスト教なら夫を変えてくれるかもしれない」とかすかな希望をいだき、様子を見に、まず自分が教会を訪れました。しかし出席するにつれ、「夫が変われば」と思っていたのが、「変わらなければならないのはこの私だ」と気づき始めました。こうして妻が変わりました。「私に愛がなかったばっかりに…」と夫に謝りました。妻の変わりように夫も教会に行き、イエス様を信じてすっかり変わり、家中がすっかり明るく変わってしまった。この変化は「まず自分が変わらなければ」と妻が自覚した時から始まりました。
夫婦の間で、けんかがあるのは当然です。そうやって言いたいことを言いわなくなったら、それも不幸な、家庭の中の冷戦状態です。そうではなく互いの違いを、間違いとして拒絶するのでなく、理解しあい、受け入れる関係をたえず作っていく。これこそが大事です。
家族の中で、学校で会社で、「誰々が悪い」と初めから決め付けて、その人をただ批判するのではない。自分が変われば相手が変わるといつも確信して疑わないこと。
自分は正しい。それを大きな声で相手に無理やり押し付けたりしないこと。互いに自分の感じ方を伝えながら、互いが分かり合っていくよう努力すること。
相手のいいところを見つけたらほめ、自分がいいなと思ったらそれを率直に伝えましょう。
会話のときには、「私」を主語にして話しましょう。「あなたがうるさい」「あなたは間違っている」というのでなく、「私はうるさいと感じる」「私はあなたが間違っていると思う」という言い方にかえていく。こうして決め付けた言い方をやめて、「本当は違うかもしれないけれど、少なくとも私は思う・感じる」、そのような余韻を残しつつ、相手に受け入れやすい表現を多くしていきましょう。
そういうことを一つ一つ重ねて、自分絶対主義から、神様の愛の原理主義に回心して近づいていけるよう努力しましょう。
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さて、「悔い改め」、「回心」というと、一般には「自分の生活を改めること」と考えられています。しかし、これは皆さんも御存知でしょうが、「メタノイア」という言葉に「生活改善」の意味はありません。
「生活改善」の意味の「改心」は、別に単語があるのです。「メタノイア」は「心を神様の方向に向けること」、だからこそ、教会で「カイシン」は、「改める心」ではなく、「回す心」と書くんですね。「心を神様に向ける」、今日の福音の後半、イザヤさんの預言の引用で、「道」というものを、ことさら強調しているのも、うなずける気がします。一本道を歩く時、私たちは後ろ向きに歩くことはしませんし、よそを向いて歩けば転んで怪我をする恐れがあります。道を歩く時、私たちは、まっすぐ前を向いて歩くのです。まっすぐ、終着点を見つめて。その終着点が山や丘に遮られて、ジャンプしても見えなければ、意気込みもそんなに大きくはないでしょうが、神様はヨハネを通して、視界を遮る山や丘を平らにされ、しかも、私たちが歩きやすいように、曲がった道をまっすぐにし、でこぼこの道を整えて下さいます。
終着点におられる方、それは言うまでもなくイエス・キリストです。初めは見えないキリスト、しかしイエス様はそこにおられます。洗礼者ヨハネは、このイエスキリストを、人々がはっきりと見、遂には一致し、キリストを「着る」までになるために、「悔い改め」の洗礼を授けたのです。今日の第一朗読と第二朗読には、それぞれ、「義の衣を身にまとい」、「栄光の冠を身につけよ」、「知る力と見抜く力とを身につけて」、と記されています。私たちは「身につける」という言葉を使う時、文字通りに「着る」という意味でも使いますが、同時に、「習得する」、「自分の力とする」という意味でも使います。私たちはキリストと一致し、キリストを「着る」ことによって、キリストを「自分の力とする」のです。
私たちは、神様が整えて下さった道を進みます。そしてイエス様もその道を、私たちの方へ歩いて来られます。私たちもイエス様も、お互いを求めているのです。クリスマスまでの 3 週間、私たちが更に、キリストを求める心を燃え立たせることができますように、そして、クリスマスに、その心を一気にスパークさせることができますように、共に祈りましょう。
1 advent C
待降節第1主日 C
ルカ21:25ー28,34-36
今日、「生活の煩(わずら)いで心が鈍くならないように注意しなさい」。また「いつも目を覚まして祈りなさい」という聖書の言葉が読まれました。人間の一生は先が分かりません。だからこそ心配し、備え、煩いがつきまといます。それでも先を煩わず、いつも目を覚まして祈りなさい、と言うのです。でも逆に言えば、先が分かりさえすれば、人間は煩わずにすむのでしょうか。人間には未来のことはわからないが、もし分かっていればやりやすくなるでしょうか。
この頃DVDで同じ映画が何回も見ることが出来ますので、私たちはそのストリーの過去も未来の出来事も、お見通しと言うことになります。例えば、若い娘が彼氏と恋愛し、結婚したくて仕方なくて、それで両親の反対にあって もめている部分が流されます。実はその先、二人はめでたく結婚します。ところが旦那さんは、人を助けるために、死んでしまうのです。でも、若い娘は、彼と一緒になりたい……そういう場面が再放送で、また流れるわけです。
そういう先の展開の分かっている私は、「あぁ、そうやって苦労して結婚したって、あとで、悲しい思いをするだけなんだよ」と思って、声をかけてあげたくなる。でも、もしも、私が神になりすまして、本当に声をかけたとしても、「結婚したって間もなく死んじゃうんだから、やめときなさい」と声かけたとしても、きっと彼女は、そんな声を信じるわけないだろう。むしろ「そんな未来知りたくも信じたくもない。神様黙れ」と激怒するんじゃないかとと思うのです。
人間は未来を知りたくて仕方なくて、占いに頼ったりして、未来を解き明かそうとします。でも未来が本当にすべて分かったら、未来に希望をなくし、ハラハラドキドキすることもなく、つまらない人生を生きるのだろうな、と思います。
神の思いは、この若い娘の好きだという感情の前では、奥に引っ込まざるを得ない。神様は限りない愛をもって、彼女に、「別れなさい」なんて言えるのでしょうか。神様が人間の生活に介入しないのはそのためでしょう。
でもそうは言っても、次の疑問が生まれます。神様は何で、旦那さんが死ぬのをそのまま、分かっていながら放置するのか。この答えは恐らく、神様が放置したのでなく、そういうように、その人間の生き方がその道に導いてしまうのでしょう。この旦那さんは、優しい人だから、自分を犠牲にしても人間を助けたいと言うことを自分の意志によって決めて、そのために死んでしまう。またそのような人だからこそ、彼女は、好きになるのではないでしょうか。
それでもまだ納得いかないことがあります。ではなぜわざわざ神様は、そんな悪い結末をゆるすのか?なぜ神は自然の災害をゆるすのか?なぜ、あの問題は解決しあにのか?なぜ、あの人は変わらないのか?なぜ、なぜ?人間が生きていく上では、この「なぜ」がつきまといます。生活の煩いの一部です。そのなぜばかり繰り返し、自分の不運を嘆き、また他人を責めてばかりしていると、心は鈍くなり、生き生きとした、明るい心がなくなっていきます。
「なぜ」の答が全部 分かったとき、そのとき、すっかり未来は明らかになる。でもそうしたらやはり、この「私」という人間の生きる意義が、すっかりなくなるのではないでしょうか。それが全部分かったら、ただあらかじめ定められた地図と年表に従って、ノルマを果たしていくだけの「ロボット」のようなものに成り下がるしかないのではないでしょうか。
人間は先が分からないからこそ、自分で決定し、自分で責任をとり、自分であることができる。
たとえば、今日はこの人と知り合って、数年後その人が自分を裏切る。
もしそんなのがすべて分かっていたら、まったく面白くないし、人生に対して、生きる意味をなくして、すっかり悲観論になって、生きる目的を失います。
神様は、この世と人間を創造したあと、ほったらかして、傍観している神ではありません。いろいろな営みをしている人間の歴史を限りない憐れみと愛をもって眺め、そんな人間一人ひとりの歩みを、ある時は神の存在に気づかせ、回心させ、ある時は忘れることを赦しながらも、いつもそれでも限りない愛のまなざしで見守って共にいてくれている。いつも来てくれる、きて下さる。私たちはそれを待つのです。未来を知ってコントロールしようという生き方と、来られる方を待つという生き方は大分違うと思いますが、今日はその違いについて考えるように呼びかけられています。
人間は先が分からないからこそ、自分で選択し、自分で決断し、その時その時を大切にしていくことができる。そして自分の過去も、自分のこれまでの人生の歩みも、今の時も、これから起こることも「すべて、恵みであり、これでよし」と感謝し、前向きに受け取るのがキリスト者の生き方ではないでしょうか。
「いつも目を覚まして祈りなさい」とは、人生の一時一時を、大切に、自分で精一杯、選択し、責任を取りながら、またいつも感謝しながら過ごす、そういうことだと思います。
待降節。このように私たちの自由を、歩みを大切に見守って下さっている神様が、ただ眺めているのではなく、本当に人間を救いたくて仕方ないのだ。そのことを明らかにするため、人間の歴史の中にイエス様として登場して下さるのを待ち望む、新しい季節が始まりました。この誕生を待ち望む新しい季節の始まりを、大切に、感謝して過ごしたいと思います。moseos
目先の快楽や自分の生活の安定、損得勘定にはとても敏感なのがわたしたちの日常だと言えるかもしれません。しかし、それよりももっと大切なことに心を向けさせるのが「祈り」なのです。
「起ころうとしているこれらすべてのこと」、すなわち、現実の悲惨さや絶望的な状況、迫り来る「終わり」を突き抜けて、神に心を向けることが「祈り」です。
27節にもある「人の子」は栄光のうちに再び来られるキリストのことですが、キリストが愛によってすべてを完成させる時に向けてふさわしく生きるようにさせてくれるのも「祈り」なのです。パウロは「そのときには、顔と顔を合わせて見る」(Ⅰコリント13・12)と言います。このキリストとの決定的な出会いを意識し、「来られるキリスト」に目を向けていることが「祈り」だと言ったらよいのではないでしょうか。hinto
ニセ救世主、戦争、暴動、地震、飢饉、疫病、天変‥‥。福音は、人生の苦しみや悩みに目をつぶっ
た非現実的な楽天主義ではなく、世の終わりまで続く人間社会の困難を知った上での、イエスの愛と
命と希望のメッセージです。
様々な暗いニュースに沈みがちな心を奮い立たせながら、この世の現実のまっ只中に共にいて、闇に
光をもたらしてくださる神の愛を、今日も信じて生きることができますように。sese04
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Wednesday, October 17, 2012
Sermon 1
https://www.evernote.com/shard/s23/sh/3b41bab7-f578-443a-aede-f94fc6646047/faa005d378986c289b51d15e58bed9ce
Tuesday, October 16, 2012
29 domingo per annum B
1. LEITURA
http://www.lectionautas.com.br/leitura-orante/134-lectio-divina-domingo-21-de-outubro-de-2012-29o-domingo-do-tempo-comum--ano-b
Que diz o texto?
Pistas para leitura
Queridos irmãos:
O texto que acabemos de ler encontra-se imediatamente depois do terceiro anúncio da Paixão que Jesus faz no Evangelho segundo São Marcos (10,32-34). É realmente surpreendente perceber como os discípulos do Senhor não entendem nada do que está acontecendo. Jesus fala de sua paixão, e eles não captam nada disto, estão em outra sintonia…
Tudo começa com o pedido de Tiago e João, filhos de Zebedeu. Aproximam-se do Senhor e pedem-lhe o favor de colocar-se um à direita e outro à esquerda, quando Jesus estiver em seu reino poderoso. Os discípulos ainda pensam que Jesus é um “messias” político ou social, que vem fazer uma “revolução” política segundo os critérios do mundo. Não compreenderam que a “revolução” de Jesus é profundamente espiritual. É por isso que o Senhor lhes responderá: “Vocês não sabem o que estão pedindo…”.
Contudo, imediatamente, o Senhor pergunta-lhes se estão ou não dispostos a sofrer a mesma coisa que acontecerá com ele. Eles, muito seguros de si, dizem que sim. Jesus retoma-lhes a palavra e ratifica que vão sofrer muito, mas esclarece também que é o Pai quem decide a respeito de quem fica à direita ou à esquerda no Reino de Jesus.
Parece que os outros discípulos participaram da conversa. Irritam-se com os dois irmãos Zebedeu… Contudo, por que se zangam? Por que o pedido dos irmãos não tem sentido, ou por que eles almejariam também os referidos lugares? O texto não o esclarece mas, a partir da explicação posterior de Jesus, dada a “todos”, pareceria que os outros dez não estavam muito longe dos propósitos de Tiago e João.
Jesus fará, então uma excelente catequese sobre o tema do poder e da autoridade. Os chefes governam com uma autoridade absoluta e não deixam espaço para mais ninguém; impõem arbitrariamente a própria autoridade… Entre os discípulos do Senhor, porém, não deve acontecer assim: quem quiser estar no centro do poder e da autoridade deverá ter a atitude do servidor, do escravo… Quem é o exemplo e o modelo desta atitude? O próprio Senhor, o Filho do Homem, que não veio para que o sirvam, mas para servir e resgatar do pecado seus irmãos.
Para levar em conta: Juntamente com Pedro, os irmãos Tiago e João aparecem muitas vezes juntos, os três, acompanhando Jesus em momentos muito intensos e particulares de seu ministério. Por exemplo: Mc 1,19; 1,29; 3,17; 5,37; 9,2; 13,3; 14,33.
Outros textos bíblicos a serem comparados: Mt 20,20-28; Lc 22,24-27.
Para continuar o aprofundamento destes temas, pode-se olhar o Índice Temático de A Bíblia de Estudos. Deus fala hoje, o verbete: “Filho do Homem”.
Perguntas para a leitura
Quem se aproxima de Jesus no começo do relato?
O que perguntam ao Senhor? O que lhe pedem?
Como Jesus reage? Que lhes responde?
Que “contrapergunta” lhes faz o Mestre?
Que respondem Tiago e João?
Como o Senhor conclui o diálogo começado com os filhos de Zebedeu?
Que acontece em seguida?
Qual é o sentimento e a atitude dos outros dez discípulos com respeito a Tiago e a João?
Por que os outros dez ficam irritados?
Que faz Jesus?
Para quem fala: para os dois irmãos ou para todos os discípulos?
Que lhes diz? Qual é o conteúdo de sua explicação, de sua catequese?
Que comparação faz o Senhor?
Quem é o modelo e exemplo absoluto de entrega e de serviço para as demais pessoas?
2 – MEDITAÇÃO
O que me diz? O que nos diz?
Perguntas para a meditação
Que coisas peço a Jesus?
Como é, hoje, minha oração de petição ao Senhor?
Peço ao Senhor coisas que não convêm, como o fazem neste texto Tiago e João?
Penso, como Tiago e João, que ser discípulo do Senhor implica um “privilégio” segundo os critérios deste mundo?
Gosto de buscar sempre “os primeiros lugares”?
Tendo a “acomodar-me” para dar-me bem?
Sou amável com os que têm poder, a fim de conseguir benefícios particulares a qualquer preço?
Que penso da resposta de Jesus aos irmãos Zebedeu? Como me atinge, hoje, esta resposta, de acordo com minha própria situação?
Irrito-me com as atitudes imaturas e incorretas dos demais? Em que aspectos me afetam? Se me enervo, por que o faço?
Sinto-me parte daqueles “todos” (versículo 42) a quem Jesus chama para fazer-lhes a catequese?
Que acontece hoje em dia com os que nos governam? Ocorre algo parecido com o que o Senhor descreve? Em que coisas sim e em que coisas não?
Existem hoje o “autoritarismo” e o abuso de autoridade? Em que âmbitos? De que maneira?
O abuso de autoridade: acontece também em minha vida? Em nossa vida?
Como se exerce a autoridade em minha família? Entre meus amigos? Em meu grupo? Na Igreja? A autoridade é exercida com humildade e em atitude de serviço ou com autoritarismo?
Como exerço eu a pouca ou muita autoridade que posso chegar a ter em minha vida, segundo minhas próprias responsabilidades? Busco que se sobressaiam a entrega, o serviço e a humildade? Ou deixo-me “contagiar” pelos critérios do mundo?
Tomo Jesus, o Senhor, como modelo de entrega e de serviço?
3 – ORAÇÃO
O que lhe digo? O que lhe dizemos?
Para nossa oração a Deus que prepara o exercício do último passo da Lectio Divina, que é a ação, propomos-lhes um número do Documento de Aparecida, do Episcopado Latinoamericano e do Caribe.
Documento de Aparecida 14b
Aqui está o desafio fundamental que enfrentamos: mostrar a capacidade da Igreja para promover e formar discípulos e missionários que respondam à vocação recebida e comuniquem por toda parte, transbordando de gratidão e alegria, o dom do encontro com Jesus Cristo. Não temos outro tesouro a não ser este. Não temos outra felicidade nem outra prioridade senão a de sermos instrumentos do Espírito de Deus na Igreja, para que Jesus Cristo seja encontrado, seguido, amado, adorado, anunciado e comunicado a todos, não obstante todas as dificuldades e resistências. Este é o melhor serviço - o seu serviço! - que a Igreja deve oferecer às pessoas e nações.
Destacamos a frase final deste parágrafo, visto que é ali onde se insiste na atitude de serviço que a Igreja deve ter e, portanto, é a atitude de todos os discípulos missionários.
4 – CONTEMPLAÇÃO
Como interiorizo a mensagem? Como interiorizamos a mensagem?
Para favorecer a contemplação com este texto bíblico, pode ser útil tomar a segunda parte do versículo 43, recriando-o da seguinte maneira, na primeira pessoa do singular:
Se quero ser importante, terei que servir aos demais…
Se quero ser importante, terei que servir aos demais…
Se quero ser importante, terei que servir aos demais…
Repeti-lo ritmicamente e pensando nas situações de vida que surgiram à luz da meditação e da oração.
5 – AÇÃO
A que me comprometo? A que nos comprometemos?
Proposta pessoal
Escolher uma atitude de serviço para com os irmãos: simples, habitual e realizável. Assumir o compromisso de realizá-la sempre que o Senhor puser esta situação no horizonte de nossa vida.
Proposta comunitária
Fazer um encontro com seus amigos jovens para dialogar e confrontar este tema da autoridade no mundo atual. Conversar sobre o que se vê no mundo circundante e o que se percebe no próprio ambiente juvenil… Quão distantes estamos da propostas de Jesus…?
Monday, October 15, 2012
31 per annum B
年間31主日 B
【マコ12:28ー34】
われわれが愛について学ぶのは、愛されて始めて、愛する事を学ぶ事ができるのであります。子供は親から愛を一杯受けて、人を愛する事を学んでいくのであります。親から自分が全面的に受け入れられ、肯定され、愛されている事が身体ごとでわかって、子供は始めて自分で自分を受け入れることができ、そして自分から解放され、他人をも愛せるようになるのではないでしょうか。ですから、親とかそれに代わる人から、愛されないで育った子供はどこか不安定で、ゆがんだ形で、愛を執拗に求めるようになるのではないでしょうか。あるがままの自分が誰かによって、赦され、しっかりと受け入れられていないと、われわれは自分で自分を受け入れることは難しいのであります。
それは「主なるわたしたちの神はただひとりの主である」という前置きであります。神は唯一の神である、神はひとりしか存在しないという事であります。それはわれわれが神を選べないという事であります。日本のように、やおろずの神、たくさんの神様がいるという信仰に立つならば、こちらで自分の都合で神を選べるわけです。商売繁盛の場合にはこの神、受験の時は、これといって自分の都合で選べるわけです。しかし神はただひとりしかいないという事は、こちらで神を選ぶ事はできない。むしろこの神様に自分が選んでもらわなくてはならないのであります。少なくともこちらが主体になって、どちらの神様がいいかと選べるわけにはいかないという事であります。ただひとりの人を愛するという事は何か品物をどれにしようかと、とっかえひっかえして選ぶという事はできないと いう事であります。
神をただひとりのかたとして愛するというのは、こちらが自分勝手に選ぶのではない、選べるのではないという事であります。最初はこちらが選んだつもりかも知れませんが、そのうちに神の愛がわかり、自分が愛するかたはこのかた以外にないという事が分かると、自分が神を選んだのではなく、神様の方で自分を選んでいただいたのだという事がわかってくるのであります。その時に自分の都合で、自分の好き勝手で神を愛するのてばなく、この神に仕えていく、相手が主人なのであって、その主人に奴隷が仕えるようにして、誠意をつくして、仕えていく、そういう愛を注ぐようになるという事であります。
年間第9木
マルコ12:28b-34
神を愛することなしに、本当に人を愛することはできるか
ヨハネ第一の手紙4:7にこのように書かれています。“愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。”
愛は神から出るものだ、と書かれています。「神様を信じなくても、キリストを知らなくても隣人を愛することができる」と思う人がいます。しかし人間の感情というものほどうつろいやすく、また勝手なものはありません。最近、マスコミでよく取り上げられている問題の一つとして、「家庭内暴力」、つまり夫婦同士、あるいは親子同士で起こる暴力、がある。それを見ると、今ものすごく愛した人を、次の瞬間には殺してやりたいほど憎む、という
ことがあるのです。神様を愛して、キリストさまを愛して、愛をいただかなければ、隣人を愛することができないのです。
私たちに対してイヤなことを言ったりしたりする人、さらに私たちのことを憎んだり、悪口を言ったりする人を愛することは難しいのです。私たちは、私たちの悪口を言う人がいれば、その10倍の悪口を言いふらしたくなるものです。ですから、私たちに対して悪口を言ったり、イヤなことを言う人を
愛することはほんとうに難しいのです。
だいたい、ふつうはそんな人を愛そうなどとは思いません。私たちの悪口を言ったりする人がいれば、逆に10倍の悪口を言いふらして、あとは関わらないようにするでしょう。だから、そんな人を愛そうなどとは決して思わないことでしょう。しかしなぜ、そんな人を愛そうとすることになるかと言えば、それはただ、神さまが、そしてイエスさまが、「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃっておられるからという他はありません。神さまが、イエスさまがそう命じておられるから、私たちは初めて、イヤな人でも愛する、ということを考えざるをえなくなるのです。そして、その難しさに頭を抱(かか)え、愛することのできない自分を発見するのです。
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「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
私たちが普通「愛」ということを考えるとき、それは心で愛するものだと考えます。つまり、ハートの問題であって、頭の問題だとはあまり考えないような気がします。むしろ頭だけで愛することは、心のこもらない愛のようにも思えます。
心(カルディア)をつくし、というのは心のときめき、心臓の鼓動(こどう)[脈拍(みゃくはく)]を通してといういみでしょう。精神(プシケー)をつくし、とは魂の底、人間の存在の根底からという意味でしょう。力(イスキュオス)をつくし、とは日常の具体的な行動で表現して、という意味でしょう。思い(ディアノイア、知性)をつくしとは、頭脳を傾けて、知性を総動員してという意味でしょう。心と知性は自転車の車輪、魂は車の原動力、力は行動で実際に車が走ることを表しています。
この四つの能力をつねに回転させておくことは、ボケないためにも大切なことです。愛することはイエス様が考えてくださった、私たちのボケ対策かもしれません。
Sunday, October 14, 2012
29 per annum B
年間29主日B
【マコ10:35ー45】
今日の福音には、ヤコブとヨハネの情けなさが描かれています。私がまず感じるのは、聖書にはかなり弟子たちの情けない姿が描かれていること。ここにまず感銘を受けます。
ヨハネはヨハネ福音と黙示録を書いた使徒です。ヤコブと共にイエス様の変容や、最後の晩餐の後、ゲツセマネでのイエス様の最後の晩餐の後の祈りにも呼ばれた、イエス様が最も愛し、最もそばにいて欲しかった弟子たちです。そのヤコブとヨハネが他の弟子たちを差し置いて、こっそりと高い身分をイエス様にあらかじめ求めたというのですから、本当に意外な話に思えます。
イエス様はこのすぐ前に、三度も自ら十字架にかかって死ぬことを告白していました。ところがその後、ヤコブとヨハネはこの世で天下を取ったときに、特別の地位につけてくださいと願うのです。本当に何も分かっていないし、タイミングも悪い。
しかしまた、そのヤコブとヨハネが、最も信頼されるキリストの使徒として活躍していた、まさにそのときにこそ聖書が形作られていった。その際、このような恥ずかしい逸話を消し去ることを求めなかった二人の態度にも敬服(けいふく)します。
考えてみれば聖書に書かれていることすべてが、情けない使徒たちの記録でもあります。しかしその弟子たちが、情けないまま終わらず、最後にはなぜか殉教の死を選ぶほどに変わったこと。これも事実です。それこそが、逆に、イエス様の復活を初めとする聖書の記載の真実性を否応なく高めています。このヤコブは43年頃ヘロデ・アグリッパ王により殺され、ヨハネも迫害と流刑を体験します。
ヤコブとヨハネの情けなさ。しかしそれにもかかわらず、聖書に自らの醜態(しゅうたい、ぶざま)を書くのを許し、そしてついに殉教するまでになっていった生き方。聖書の真実性。これがまず第一に感銘を受けた点です。
◇さらに感じたこと。私たちは、ヤコブとヨハネのように重要な地位を求めるほど野心家でもなければ力もないかもしれない。でも他の使徒と同じように、イエス様が十字架を予告しているその最中にあっても、そんな中でも、同じように、出し抜こうとしたヤコブとヨハネを見たなら、きっと同じように嫉妬心にかられ、腹を立て、仲間割れしてしまったろう。自分もそのようなつまらない人間でしかないということ。仕える心、自分をすべて捧げ尽くす心、そういう心に欠けた、自分の心の狭さに気づくはずです。それに第二に気づいていきます。
◇しかしさらにまた深く読んでいると、気づきます。自分は野心家のヤコブやヨハネのようではないと思っていたけれど、しかし同じようにやはり自分も、やはり報いを求めて生活している、それは絶対否定できないだろうということです。ただ惨めなまま、誰からも理解されないまま終わることなど望んでいない。自分も結局はヤコブとヨハネと同じで、同じように、大きな報いをもらいたいと野心を持っている。しかしそんな自分にさえ気づかない、そのような人間でしかないと言うことに第三に気づきます。
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使徒たちは12人だったが、その中で一人が裏切り者ユダがいました。単純な計算をすると、弟子の中で8.3%が裏切り者でした。ペトロも肝心な時にイエスを裏切ったと言えるでしょう。合わせると16.6%になります。ヨハネとヤコブが野心家で出世思考で、16.6%で、合わせて、弟子の33,2%は裏切り者や野心家だったと言えるでしょう。残りの60何%は、少なくとも、ヤキモチをやく、嫉妬をする連中でした。
現在はどうでしょう。使徒たちの後継者である司教はどうでしょう。教皇ベネディクト16世は、司教を叙階するたびに、出世のために司教になるのはよくないとか、支配するために、権力をふるうためになるのではない、というふうにしょっちゅう警告しておられることから判断すると、やはり現在でも同じような問題があるといえるでしょう。つまり、現在の司教の中(全世界で5000人ほどいますが)で、16.6%は裏切り者で、16,6%は野心家、ほかに嫉妬する人間がいる、ということになります。(最近、カトリック新聞などマスコミでも取沙汰されたが、パパ様の執事[しつじ]が、内部の秘密文書を盗んで外部に流したという事件がありました。おそらく、パパ様を困らせたい人々がいると専門家は分析しています)。神父はというと、まぁおそらく大して変わらない比率でしょう。信徒はどうでしょうか。その中で良い子ぶっている人いるでしょうし、涼しい顔をしているひとも多いでしょうが、ヴェールをはがしてしまえば、結局同じ現実があるでしょう。ただ、認めたくないだけ。信者でない方が教会に近づくと、ほとんどの場合は、そこにややこしい人間関係を感じるとよく言います。つまり、ベネディクト16世は繰り返しおっしゃっているように、教会は一般の人々に、信仰へのアクセスを提供する使命もったものですが、現実には、教会自体は信仰へ近づきたい人々への最大の邪魔になっている。
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そういう私たちという人間に、イエス様は言うわけです。「あなたは何を願っているのか。私の杯を飲むことができるのか」。
「報い、それを私・イエスは約束しない」。これはきわめて突き放した言い方に聞こえます。しかしそこにこそキリスト者の生き方があるのです。報いを求め、天国に入るため生きるというのではない。ただ神の子イエス様がそのようにしたから、自分もそれに倣って生きていく。仕えるものとして、自らを献げ物として生きていく。その生き方を生涯をかけて全うしたとき、神様からの恵みとして、結果として何かいただけることもある。そういうことです。そうでなければ簡単には「従います」とは言えなくなります。失望します。いやになります。
しかしまさにそのことを十分理解し、失望した上で、「それでも従う」と本当に言えるとき。そこにこそキリスト者としての生き方、イエス様の十字架の道に従う道が開けてくる。そこからキリスト者としての本当の生き方が始まるのです。
私自身、まだスタート地点に立ったばかりのような気もします。しかし確かにイエス様がそういう方であったことを確信するとき、あの憶病で弱虫のまったく頼りない使徒たちが結局はやり遂げたことを思うときに、「きっとできる」とも思います。
聖書というのは、立派なイエス様のことばかり書いてあるのではなく、確かにそういう弱点ばかり持った使徒たちが私たちを励ますための書、と言えるからです。
その励ましは第二朗読に示されているとおりです。
「大祭司・イエスは、弱さに同情できない方ではなく、あらゆる点において、同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくため、大胆に恵みの座に近づこう」(ヘブ4:15f)。
(5) マルコは生き方全体から死だけを切り離して、そこに意味があるというのではなく、イエスの死を「仕える」というイエスの生き方の頂点として示しています。このことは大切です。だからこそ、マルコはイエスのなさったこと一つ一つをていねいに伝え、わたしたちがその生き方をしっかり見つめるように促しているのだ、と言えるでしょう。
「仕える」「僕になる」という生き方は、現代では流行(はや)らない生き方でしょうか。わたしたちの社会は、「人は皆、平等であり、皆、上昇志向があり、だから競争に勝つことが大切で、結局勝った者が得をする」という社会だと言えるかもしれないからです。イエスはそのような考え方、生き方に挑戦してきます。「仕える者になる」「僕になる」という生き方の中にこそ、もっと豊かな神とのつながり、人とのつながりがあるのだ・・・。わたしたちはこのイエスの言葉をどのように生きることができるのでしょうか?
Saturday, September 15, 2012
XXIV Domenica Tempo ordinario Anno B
XXIV Domenica Tempo ordinario Anno B
Mc 8,27-35
Tu sei il Cristo… Il Figlio dell’uomo deve molto soffrire.
La gente, chi dice che io sia? Il Signore ci educa alla fede attraverso domande; in principio Dio creò il punto di domanda e lo depose nel cuore dell'uomo, come sorgente di sapienza. Gesù insegnava con le domande, con esse stimolava la mente delle persone per spingerle a camminare dentro di sé per trasformare attivamente la loro vita, non da spettatori passivi. Era un maestro dell'esistenza, e voleva i suoi pensatori e poeti della vita.
La gente dice che sei Elia o il Battista. Ma a Gesù non basta, lui non è un uomo del passato, fosse pure "il più grande tra i nati da donna".
E cambia la domanda, la fa esplicita e diretta: Ma per te, chi sono io? Pietro risponde, primo dei credenti: Tu sei il Cristo. Eppure non basta ancora, non è sufficiente un passato che ritorna (sei un profeta), non basta neppure il presente (sei il Messia). Gesù è una fede in cammino, e ciò che sta per accadere capovolgerà radicalmente l'immagine di Dio e, di conseguenza, anche l'immagine dell'uomo. Dio viene dal futuro più inatteso: cominciò a insegnare loro che il Figlio dell'uomo doveva soffrire molto, venire ucciso e poi risorgere.
Soffrire molto. Parole che entrano in conflitto frontale con tutto ciò che l'uomo si aspetta per il senso della propria esistenza e persino per il senso di Dio. Tutti cercano un Dio vincitore, che ci risolva i problemi, che trovi la soluzione, che sciolga i nodi, non uno che si faccia uccidere. Non un Messia sconfitto.
Noi cerchiamo di vincere con la forza, invece Dio vince attraverso la debolezza; noi vogliamo imporci con la violenza, Dio si propone con l'amore, anzi con un crocifisso amore, disarmato amore.
Volete sapere davvero qualcosa di me e al tempo stesso di voi? Vi do un appuntamento: un uomo in croce. Uno che è posto in alto. Che è bacio a chi lo tradisce, che non spezza nessuno, spezza se stesso. Prima ancora, giovedì, l'appuntamento sarà un altro: uno che è posto in basso. Che cinge un asciugamano e si china a lavare i piedi ai suoi. Chi è il Dio? Il mio lavapiedi. In ginocchio davanti a me. Le sue mani sui miei piedi. Davvero, come dice Paolo, il cristianesimo è scandalo e follia. E poi un terzo appuntamento a Pasqua, quando ci prende dentro, ci cattura tutti dentro il suo risorgere e ci trascina in alto con sé.
Chi sono io per te? Attorno a questa domanda si gioca la fede di ciascuno. Come Pietro ogni discepolo è chiamato personalmente ad amare questa domanda, come acqua sorgiva. Io l'ho molto amata, le ho dato molte risposte, sempre incompiute. Oggi, Signore, ti confesso felice che Tu sei per me quello che la primavera è per i fiori, quello che il vento è per l'aquilone. «E col tuo fiato m'apri spazi al volo» (G. Centore).
(Letture: Isaia 50, 5-9a: Salmo 114; Giacomo 2, 14-18; Marco 8, 27-35)
Il Vangelo A cura di Ermes Ronchi Avvenire
Monday, August 20, 2012
聖母の被昇天
聖母の被昇天
ルカ1・39-56
【聖母マリア】
マリアは生涯をキリストと共に歩み、いつも、苦難の時も、絶えずもっとも近くあずかり、キリストの救いの業の始めから終わりまで、思いと行動を共にしていました。イエス様は死を克服し、復活し、天に挙げられたのですが、今度はこのキリストにマリアも似たものとなって、イエスと共にあるのが当然の報いということになります。マリアが死んだ後は、霊も体も共にイエス様から一時も離れず、共にいるのは当然のことだからです。
また原罪に、また生涯にわたってあらゆる罪に勝利したマリアは、罪の結果である肉体の死に対しても勝利し、栄光を受けるはずで、マリアの救いは確実だからです。
それで普通の人のように、世の終わり、最後の審判の日を待つまでもなく、マリア様の場合、この世の肉体における生を全うしたすぐ後に、どの他の人間よりも早く、時間的に先に、亡くなってすぐ体の復活、イエスと同じ栄光の体を身に帯びることができ、天にあげられた。そのことを祝っているのです。
【人間の代表】
但しこの被昇天は、すべての人間について起こり得ることです。と言うのは世の終わりに、すべての人間は霊魂と共に体も復活し、罪の浄めを受けた後、天にあげられ、天国に迎え入れられ、天の栄光に入ることになります。だから、被昇天はマリアのみの特権ではありません。
私たちも、死んですぐと言うわけではなくても、神から離れずに生活するなら、終わりの日に、同じように体ごと復活し、天に引き上げられることになるわけです。
(「無原罪」のように「神の母」になるものとして、マリアのみに与えられた特別の恵みとは意味が異なる)
【マリア・神の婢 はしため】
今日の福音で読まれたマリア、無原罪の特権を与えられ、神の母となったほどのマリアの生き方の特徴。それは徹底的に、神の僕として小さく生きたことにあります。
いわゆる世間で偉大な人は、時に不正な手段でよい席を奪って、隣人を踏み台にし、人や組織の富を奪って自分自身を肥やし、精神的に、時に物理的にも人を殺すことさえしかねないものです。だから時に権力をもっていることも犯罪と悪行の結果であることがあります。そのような人が最高権力の座にあるとき、自分の利益のため戦争さえ引き起こしかねないことになります。しかしまた自分の犯した悪が大きければ大きいほど、恐怖に囚われ、裏切りにおびえ、自分の家族や親族さえ信じられず、恐れと孤独の内に亡くなっていく。これもよくある歴史的な事実です。
マリア様はこれに対し、善良さ、正直、慈悲、愛の内に生きました。その生涯は外から見て、決して楽なものではありませんでした。神の子を宿した時には、婚約者ヨセフに疑われ、石打ちにされることも覚悟したでしょう。馬小屋で神の子を産まざるを得ず、幼い子供を抱え知らないエジプトで避難民として貧しく過ごしました。ヨセフとの早い死別や、わが子イエスのむごただしい死……。しかしそれでも神に従うことで、欲望の奴隷としての惨めな生活から解放され、もっと自由に、安心と信頼の心で、誇り高く生きることができたのです。そしてすべてを得て、永遠の冠・栄光を受けることができました。これこそ無原罪であり、被昇天の恵みを受けるにふさわしい生き方です。私たちキリスト信者もこのマリアに倣って、生きていくのです。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_040.htm
死者 (お盆、泉南91)
今日は終戦の記念日でもあります。戦争でたくさんの人々が死んだ。
不幸に亡くなった人のために、どのように供養してあげたらいいのか、教会にも死者のための供養がありますかと聞かれたことがあっります。「供養」ということばの意味もさまざまでしょうが、成仏(ジョウブツ)しきれずにさまよっている霊を慰めるということになると思います。
教会では、亡くなった方々は今どういう状態にあるのかを知るよしもありませんと言うことになっています。一人ひとりの生涯と、心に秘めた思いをご存じなのは、ただ神様おひとりですから、私たちはただ神の慈しみ深いみ手に、亡くなった人をお委ねするよりほかありません。でも、亡くなった先祖や家族の人々のことを大切にするのはとても美しい習慣だとおもいます。これはキリスト教的にもおおに奨励(ショウレイ)すべきことです。キリスト教では、すでにこの世を去った人も、まだ世に在る人も、神の一つの家族として時間と空間を越えて結ばれていること、神において互いに交わり、神のいのちをともにし、恵みを分かちあったり、助け合ったりすることを信じて、これを「生徒の交わり」と呼んでいます。とくにカトリック教会で、聖母マリアをはじめ諸聖人たちへの尊敬を大切にしているのは、その理由です。これは、お盆に行なわれるさまざまな習慣の心につながると思います。
実は、死者の冥福のために祈るという教会の伝統的な信心は、本当に深い意味を持っています。今私たちが生きていることと、明治や大正時代の人たちと、どう関係するのか考えてみたことがありますか。その時代の人たちの苦労や、つらい労働が、今の私たちを生かすことに、大きな働きがあったのです。ですから、明治・大正時代に生きてきた、まったくしらない人であっても、今の私たちと、深いかかわりがあるのです。その人たちのためにも、キリスト信者はお祈りします。それは、神様を通して、感謝するためです。そしてその人たちが、神様のもとで、安らかにやすめるように、報いられるようにと、お祈りするとともに、私たちもいつかその人たちと出会えるようにと希望をあらわすわけです。私たちは、未来のことを前向きにとらえ、死後の世界に対しても希望をもつことのできるオプティミストであるか、あるいは未来を否定して、すべては死によって無に帰すると考えるペシミストであるかによって、特に中年期からの人生は大きく左右されます。私たちはどちらのタイプといえば、やはり「ぜひ天国に行きたいな」というタイプでありたいですね!誰しも、いつかは、必ず死ななければならない、この大前提に立って、今まで大切だと思ってきた物事が、本当に価値あるものかどうかを考え直すきっかけが与えられます。もし死がすべての終わりで、もう愛する者と再び会うことがないということなら、人生のさまざまの苦労や犠牲は本当に慰めのないものだろう。(たとえすべては滅びるのだという諦観(テイカン)に達したとしても結果は同じです)キリスト教も死別についてこのようにしか考えられないでしょうか、そうではない、イエススは十字架上で死んでから、三日目に復活され、弟子たち会われたのです。これが復活の事実です。主イエスが復活したのだから、私たちも必ず復活すると言ったのはイエス様ご自身でした。私たちは人生において愛する人を失うときにも「また会う日まで」と歌うように、主イエスのうちに慰めと力を見いだすのではありませんか?
ルカ1・39-56
【聖母マリア】
マリアは生涯をキリストと共に歩み、いつも、苦難の時も、絶えずもっとも近くあずかり、キリストの救いの業の始めから終わりまで、思いと行動を共にしていました。イエス様は死を克服し、復活し、天に挙げられたのですが、今度はこのキリストにマリアも似たものとなって、イエスと共にあるのが当然の報いということになります。マリアが死んだ後は、霊も体も共にイエス様から一時も離れず、共にいるのは当然のことだからです。
また原罪に、また生涯にわたってあらゆる罪に勝利したマリアは、罪の結果である肉体の死に対しても勝利し、栄光を受けるはずで、マリアの救いは確実だからです。
それで普通の人のように、世の終わり、最後の審判の日を待つまでもなく、マリア様の場合、この世の肉体における生を全うしたすぐ後に、どの他の人間よりも早く、時間的に先に、亡くなってすぐ体の復活、イエスと同じ栄光の体を身に帯びることができ、天にあげられた。そのことを祝っているのです。
【人間の代表】
但しこの被昇天は、すべての人間について起こり得ることです。と言うのは世の終わりに、すべての人間は霊魂と共に体も復活し、罪の浄めを受けた後、天にあげられ、天国に迎え入れられ、天の栄光に入ることになります。だから、被昇天はマリアのみの特権ではありません。
私たちも、死んですぐと言うわけではなくても、神から離れずに生活するなら、終わりの日に、同じように体ごと復活し、天に引き上げられることになるわけです。
(「無原罪」のように「神の母」になるものとして、マリアのみに与えられた特別の恵みとは意味が異なる)
【マリア・神の婢 はしため】
今日の福音で読まれたマリア、無原罪の特権を与えられ、神の母となったほどのマリアの生き方の特徴。それは徹底的に、神の僕として小さく生きたことにあります。
いわゆる世間で偉大な人は、時に不正な手段でよい席を奪って、隣人を踏み台にし、人や組織の富を奪って自分自身を肥やし、精神的に、時に物理的にも人を殺すことさえしかねないものです。だから時に権力をもっていることも犯罪と悪行の結果であることがあります。そのような人が最高権力の座にあるとき、自分の利益のため戦争さえ引き起こしかねないことになります。しかしまた自分の犯した悪が大きければ大きいほど、恐怖に囚われ、裏切りにおびえ、自分の家族や親族さえ信じられず、恐れと孤独の内に亡くなっていく。これもよくある歴史的な事実です。
マリア様はこれに対し、善良さ、正直、慈悲、愛の内に生きました。その生涯は外から見て、決して楽なものではありませんでした。神の子を宿した時には、婚約者ヨセフに疑われ、石打ちにされることも覚悟したでしょう。馬小屋で神の子を産まざるを得ず、幼い子供を抱え知らないエジプトで避難民として貧しく過ごしました。ヨセフとの早い死別や、わが子イエスのむごただしい死……。しかしそれでも神に従うことで、欲望の奴隷としての惨めな生活から解放され、もっと自由に、安心と信頼の心で、誇り高く生きることができたのです。そしてすべてを得て、永遠の冠・栄光を受けることができました。これこそ無原罪であり、被昇天の恵みを受けるにふさわしい生き方です。私たちキリスト信者もこのマリアに倣って、生きていくのです。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_040.htm
死者 (お盆、泉南91)
今日は終戦の記念日でもあります。戦争でたくさんの人々が死んだ。
不幸に亡くなった人のために、どのように供養してあげたらいいのか、教会にも死者のための供養がありますかと聞かれたことがあっります。「供養」ということばの意味もさまざまでしょうが、成仏(ジョウブツ)しきれずにさまよっている霊を慰めるということになると思います。
教会では、亡くなった方々は今どういう状態にあるのかを知るよしもありませんと言うことになっています。一人ひとりの生涯と、心に秘めた思いをご存じなのは、ただ神様おひとりですから、私たちはただ神の慈しみ深いみ手に、亡くなった人をお委ねするよりほかありません。でも、亡くなった先祖や家族の人々のことを大切にするのはとても美しい習慣だとおもいます。これはキリスト教的にもおおに奨励(ショウレイ)すべきことです。キリスト教では、すでにこの世を去った人も、まだ世に在る人も、神の一つの家族として時間と空間を越えて結ばれていること、神において互いに交わり、神のいのちをともにし、恵みを分かちあったり、助け合ったりすることを信じて、これを「生徒の交わり」と呼んでいます。とくにカトリック教会で、聖母マリアをはじめ諸聖人たちへの尊敬を大切にしているのは、その理由です。これは、お盆に行なわれるさまざまな習慣の心につながると思います。
実は、死者の冥福のために祈るという教会の伝統的な信心は、本当に深い意味を持っています。今私たちが生きていることと、明治や大正時代の人たちと、どう関係するのか考えてみたことがありますか。その時代の人たちの苦労や、つらい労働が、今の私たちを生かすことに、大きな働きがあったのです。ですから、明治・大正時代に生きてきた、まったくしらない人であっても、今の私たちと、深いかかわりがあるのです。その人たちのためにも、キリスト信者はお祈りします。それは、神様を通して、感謝するためです。そしてその人たちが、神様のもとで、安らかにやすめるように、報いられるようにと、お祈りするとともに、私たちもいつかその人たちと出会えるようにと希望をあらわすわけです。私たちは、未来のことを前向きにとらえ、死後の世界に対しても希望をもつことのできるオプティミストであるか、あるいは未来を否定して、すべては死によって無に帰すると考えるペシミストであるかによって、特に中年期からの人生は大きく左右されます。私たちはどちらのタイプといえば、やはり「ぜひ天国に行きたいな」というタイプでありたいですね!誰しも、いつかは、必ず死ななければならない、この大前提に立って、今まで大切だと思ってきた物事が、本当に価値あるものかどうかを考え直すきっかけが与えられます。もし死がすべての終わりで、もう愛する者と再び会うことがないということなら、人生のさまざまの苦労や犠牲は本当に慰めのないものだろう。(たとえすべては滅びるのだという諦観(テイカン)に達したとしても結果は同じです)キリスト教も死別についてこのようにしか考えられないでしょうか、そうではない、イエススは十字架上で死んでから、三日目に復活され、弟子たち会われたのです。これが復活の事実です。主イエスが復活したのだから、私たちも必ず復活すると言ったのはイエス様ご自身でした。私たちは人生において愛する人を失うときにも「また会う日まで」と歌うように、主イエスのうちに慰めと力を見いだすのではありませんか?
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神の母の眠り
ロシア・イコン
個人蔵 16世紀
聖母の被昇天の祭日に、イコン伝統の「神の母の眠り」を観賞することはとても意味深い。なによりも、死の床に横たわるマリアのところにキリストが立ち、その魂と体を意味する白い小さなマリアを手に抱えているという描き方のうちに、マリアの生涯の完成のイメージが、厳かに、かつ愛らしく表現されているからである。以下、事典的な確認になるが、重要なことなので記しておこう(この日の『聖書と典礼』8ページでも簡単に紹介している)。「被昇天」と訳されるラテン語はアスンプシオで、文字どおりには「取り上げられること」を意味する。ここから、生涯を終えたマリアが神によって受け入れられ、神のもとに上げられたことをいうことになり、その意味で、天に上げられたこと、つまり被昇天と訳されている。
聖母の被昇天の祭日としての起源は東方にある。東方教会では8月15日に、マリアが死の眠りについたことを記念する祝日があった。御眠りはギリシア語で「コイメーシス」という。しかし、マリアが死の眠りに就くことは、すなわち、神に全面的に受け入れられたという理解のもと、神に「取り上げられること」を意味する「アナレープシス」というギリシア語で表されるようになった。この祝日が西方に入ってきたときに、当初は、死の眠り(就寝)を指すラテン語の「ドルミティオ」で呼ばれていた。やがて、天に上げられたことを指す「アナレープシス」との名称と理解が伝わってくると、そのラテン語として「アスンプシオ」と呼ばれるようになり、現代に至る。1950年にマリアの被昇天が信ずべき事柄つまり教理として宣言されたときに明確化されたのは、マリアが体も魂もともに天の栄光に上げられたという点にあった。「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、体も魂も、ともに天の栄光に上げられました」と、この日の集会祈願が告げる通りである。
このような経緯をもつ祭日であるので、やはり「神の母の眠り」のイコンは、重要である。このようなタイプの聖画像が登場したのは11世紀頃で、すでに、臨終の床に横たわるマリア、マリアの魂を取り上げるキリスト、周りの使徒たち、天使たちという基本型が定着する。後には、さらにキリストの頭上に天にあげられつつあるマリアの姿が描かれるものも出てくる。
きょうのイコンの場合は、全体が背景の色も含めて、神の栄光のイメージである金色で満ちているところが天上の次元、神の次元の趣として印象深い。キリストの姿の光背は、緑色の濃淡を伴って幾重にも深まっていく。そこにキリストの神秘が現されていると言えよう。キリストの頭上にいるのは、イザヤ6章などで「聖なるかな」と神を賛美するセラフィムであって、これもキリストのいる次元の聖性を強調している。
床にいて既に死んでいるマリアの姿は、白い布の上でくっきりと目立たされる。その同じ白がイエスに抱かれる小さなマリアの姿になっている。ここから、この白のうちにキリストとともに生きた母の死と復活、地上の命の終焉と、天上の命の始まりが含蓄されていることに気づかされる。眠りの床にいるマリアの頭のほうにいる使徒たちの一番手前にいるのがペトロ(献香をしている)、足元で身をかがめているのがパウロ(頭が特徴的)であろう。他の使徒たちも集う一群の背後には、十字架の模様が入ったオモフォリオン(肩衣)をまとった主教たちもおり、後ろには女性たちがいる。その姿勢と表情は、マリアへの深い敬愛の気持ちであふれている。われわれもそれを眺めているだけで、聖母への崇敬へと引き込まれる。
構図全体を通して、人間の次元が横(水平のライン)、神の次元が縦(垂直のライン)で交わっている。また背景には建物で示される地上の世界の真ん中に、神の次元(キリストの光背に包まれる姿)が、その中に突如、現出しているようでもある。ここにも、いつもともにいるキリストの神秘がある。このような神と人、天と地の交わる光景に、イコンのもつ深みがある。
奉献文の取り次ぎの祈りのところで常に筆頭に名を告げられるマリアは、今、天上の教会の中心にいる。そのマリアの天におけるいのちの始まりを祝う、被昇天の祭日は、聖母を自らの目指す姿として仰ぐ教会(『教会憲章』53参照)、すなわち我々の生き方を顧み、黙想する日となる。きょうの聖書朗読=第1朗読の黙示録(11・19a 、12・1-6、10ab) 、第2朗読の一コリント書(15・20-27a)、福音朗読のルカ(1・39-56)を通じて思いを巡らせよう。
Monday, August 13, 2012
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Wednesday, July 25, 2012
18 per annum B
年間18主日B【ヨハ6:24-35 イエスは命のパン】
主日のミサの聖書朗読は3年周期になっていて、今年(B年)の年間主日では、主にマルコ福音書が読まれます。しかしその途中、先週の年間第17主日から5週の間は、ヨハネ福音書6章が読まれることになっています。先週の福音は、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与えたという話でしたが、きょうはその翌日の話です。パンをめぐるイエスと群衆の対話の中で、何が「命のパン」か、すなわち、何がほんとうに人を生かすものであるかが問われ、そして、明らかにされていきます。
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私たちの関心は、今を生きること、現実の食べ物にあります。家族を養い、育てるために、どうしてもパンのために働くことが大切です。たとえ今やっている仕事が、自分に合っている仕事であっても、「楽しいから、自分の天職と思えるから」、そんなことだけでは通用しない現実があるからです。
大体企業の論理は、利益をあげることにあります。今は、国際化されたグローバリゼーションの時代に入っていて、利益を得るためならば、地球上すべての地域がその対象になっています。前だったら日本の中で適当にやることもできました。しかし今は、簡単に外国の企業が入り込み、負け、下手すれば買収されてしまいます。だから会社の利益のため、仕事のため、いろいろな犠牲を外に強いざるをえない。それが現実です。
しかしそのような私たちの現実の歩みに対し、イエス様は言います。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。この世の富や地位、一所懸命しがみついた会社なんて、簡単に朽ちるものだ。永遠の命にいたる食べ物のためにこそ働きなさいと。
1923年にシカゴで世界で最も成功した金融家9人が会合をしました。その後、この9人はどうなったでしょう。ひどい結末です。自殺したもの3人、発狂したもの1人、逃亡中に死亡したもの2名、借金暮らしをしいられ後に死亡した者1名、老齢と病気のため刑務所から特赦されたもの1名、釈放された者1名。
日本でもかつてはぶりのよかった人が今貧乏暮らしをしている。その体験を語るといったテレビ番組があります。かつてそう言えば有名だった金持ちが、その後、破産して、今はこんな暮らしをしているのか。それにびっくりすることがあります。朽ちる食べ物のために働くことのむなしさがよく表れていると思います。
どうせ一生をかけて、自分をすり減らして働くなら、永遠の命のため、永遠の命を手に入れるために働きたい。そのような憧れも、一方で私たちにはあります。そのような神の業を行うために、ではいったい現実に何をすべきなのでしょう。
その問いに対し、イエス様は答えます。
「神がお遣わしになった者、つまり私を信じること、それが神の業である」と。
これは不思議な答えです。神様のため、永遠の命のために働く道。それは今ある仕事をやめ、家族を捨て、神様だけに仕える。けっしてそのような行為を大切にしているのではないからです。むしろ信じることが、神の業なのだというのです。そして永遠の命にいたるためには、イエス様、のちにはっきりしてくるご聖体がもう与えられているのです。神の業を行う、永遠の命のために働く、それは別に、すべてを捨てて修道院に入るとか、そんなことを言っているのではない。そのためにはご聖体をいただけばいい。それに生かされて、神様の言葉をより確かに信じ、行動することが大事だ。そのようにイエス様はおっしゃるのです。
しかし信じ続けるとき、行いを起こす必要に迫られることがあるのも、事実です。
今与えられている仕事、今の職務を誠実に果たしていく。しかしどうしても、その仕事をしていく中で、イエス様の教えと反するものが出てきたらどうするのか。不正があり、ごまかしがあり、社会的な悪が潜んでいたことを知ったなら…。そのときに初めて私たちは、会社のためでなく、社会的な正義のため、神様の真理のために、むずかしい決断を迫られることもあるかもしれません。
ある人は、自分の属する団体の不正を知ります。このことを社会に公表すれば、大変なことになると容易に分かります。当然自分も仕事を、そして今まで社会に貢献してきたという生活の誇りを失います。ある意味で、今までの人生を失います。家族がいれば、苦しみはいっそう募ります。たいていの場合、自分自身もその犯罪に手を染めている一員であることから、不正を見ない振りをします。不正をむしろ隠す側に回ります。しかし中には、勇気をもって、社会の正義のために、人をこれ以上不幸にさせてはいけないという善のために、告発する人もいます。そのような勇気ある行動によって、社会の不正は、悪は、少しずつ浄化されてきたのも確かです。そしてそのような浄化をされることがない結束した団体であっても、結局は、隠しとおされることはないのです。大手の会社であっても、だからこそ信用を失ったときの影響は大きく、あっという間に名門として誰にも知られていた会社がこの世から消える。そんなことも実際にあるのです。
だから私たちはいつもイエス様の言葉を信頼し、信じて従わなければなりません。それこそがイエス様を信じ、朽ちない食べ物のために働くことになるのだ。そのことを信じ、忘れずに、歩んでいくようにしましょう。
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「衣食足りて、礼節を知る」「人は、物質的に不自由がなくなって、初めて礼儀に心を向ける余裕ができてくる。(大辞林)」という意味だ。生活が豊かになって初めて、道徳心が高まって礼儀を知るようになる(広辞苑)。
以前、ある人が次のように言っていました。「人間はまずパンのために働かなければならない。信仰は、働いて余裕ができてからでよい」
確かに現代を生き抜いていくためには、高学歴、高収入といった、人間が経済的に豊かになるための手段が必要であるといわれます。しかし、このような生き方は表面的であり、人間の外側を立派に見せることはできても、人間の内面で豊かにするとは限りません。
そこで、今日の福音を読んでみると、現代の私たちの姿が、イエスの追(お)っかけをしていた群衆の姿に重なる部分が見えてきます。イエスの後を追っていた群衆が求めていたものは、人間を真に生かすパンではなく、おなかを満たすためのパンだったと、ヨハネは記しています。私たちは信仰生活の中で、命のパン、価値ある食べ物が南であるか知っています。神のみことば、そして聖体の秘跡、これらが信仰の糧であると分かっています。そして、主イエスが「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と教えていることも知識として知っています。
さらに日本の社会で、物質的な豊かさだけで人間は満たされないということも多くの人が気づいていることです。このように言われてずいぶん年月がたちますが、いまだに私たちは、経済的豊かさの追求に人生の大部分の時間をかけているような気がします。中学、高校、大学の受験は、将来の就職を考えてのことですし、またそれは職業によって得られる収入や地位が、現実の人生の幸福を左右する決め手であると信じていることの現れといえます。
しかし、人間の幸福は、生活の糧であるお金をいかに多く稼ぐかということだけで得られるのでしょうか。人間は神の望みに生きようとする過程において、それぞれ違った道に召されていきます。これを取り違えることによって、私たちは、時としてイエスが示された真理の道を見失ってしまうのです。それが現実の家庭や学校で子供たちの姿にさまざまな問題として現れてきます。
私たちは本物の価値あるパンを見失い、満たすことのできないパンのために働くようになっていないでしょうか。エコノミック・アニマルとして、この世の命に終わるパンのために、ほとんどのエネルギーをつかっていないでしょうか。
「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」(論語、泰伯)。人民を為政者の方策に従わせることはできるが、その理由を理解させることは難しい。俗に(誤った解釈だが)、人民はただ従わせればよく、理由や意図を説明する必要はない(広辞苑)。
私たちは、なぜ経済的に豊かにならなければならないのか、その本当の理由は知らされているのでしょうか。それだったら、私たちは自由に生きているのではなく、飼いならされているのではないでしょうか。飴と鞭で働かされているのでないでしょうか。
物質的に豊かになるのは、人間らしくなるためでしょうか。それだったら、一番人間らしい生き方、価値観、生きがいを教えているのはキリストではないでしょうか。その点を考え直す必要があるかもしれません。もしかすると、私たちは、まことの食べ物、まことの飲み物である主キリストを生活とかけ離れた第三者にしているかもしゅれません。おなかを満たすパンを人生の生きがいの中心にするのではなく、人間を心底(しんてい)満たしうるまことの命のパンを得るために働くよう心がけたいものです。
Monday, July 16, 2012
16th Sunday B
16TH SUNDAY IN ORDINARY TIME YEAR B
Gospel reading: Mark 6:30-34
Introduction to the Celebration
The desire to be in the presence of the Lord and to listen to his teaching is what draws us together each time we assemble as a church — just as we are doing now. Today we hear of early groups of people who also had the desire to be with Jesus and how he took pity on them 'because they were like sheep without a shepherd, and he set himself to teach them at some length'. Let us set the tone for our celebration by thinking about our need to listen to the teachings of Jesus so that they can bring light into our lives.
Gospel: Mk 6:30-34
Today's passage is the prologue to the story of the feeding of five thousand men with five loaves and two fish (6:30-44) — a story whose perfect form is found in Mark. As the prologue, it is there to establish the reason why the people were there and in need of feeding. As a distinct element within the story, it shows us Mark combining the images of shepherd (one who guides and protects), teacher (one who feeds understanding and guides) and the one who cares (feeds with food and looks out for the people) in the person and work of Jesus.
The opening verses of this passage 'come away ... and rest awhile' have launched a thousand retreats — but with scarce respect for the actual meaning of Mark's text. The whole point of Mark's story is that while it might be nice for Jesus and the disciples to have time 'away from it all', that is not to be for the simple reason that there is a people in need of pity which manifests itself in teaching.
Homily Notes
1. The gospel is so simple that it seems hardly worth preaching about it. Living in an age of celebrity we are used to the idea that people like to go and see where the 'action' is. Everyone who sets themselves up as having answers or a 'lifestyle guide' — no matter how bizarre — has a following. And one of the ways you show that someone is unusual, special, a curiosity, or a 'star' is to make sure that the 'groupies' get to each photo opportunity and that the paparazzi are anxious to be there all the time. Could it be that this is what we have just read — and that Mark is just glad that Jesus had such groupies?
2. On a practical level there is nothing remarkable about the scene: it all takes place over distances of just a couple of miles along the shore of a small lake and there were plenty of lonely places just behind the small village settlements that are referred to in the gospels as 'cities'. Moreover, we are so used to hearing of miracles or healings or exorcisms — all of which can cause us to wonder 'what was that really like' or which make us feel uneasy; or hearing bits of Jesus's preaching we find hard to apply to our own lives, that we are apt to dismiss something like today's gospel as an irrelevance!
3. However, the fact that 'Jesus took pity on them ... and set himself to teach them at some length' contains a lesson for us that is of the first importance. This is what we must explore in the homily today.
4. It is very easy to think of Jesus taking pity on people. Sinners, poor people, sick people, hungry people, people in mourning, paralytics, outcasts such as Zacchaeus (or some other tax-collector), people possessed by evil spirits: in each of these cases we can think of Jesus taking pity and then either doing something about it or teaching us about our duties of pity. He pitied sinners and forgave them; he pitied the sick and healed them; he pitied the widow and raised her son to life; he had pity for outcasts and made them welcome at his table; and he preached that we, his disciples, should take pity on the hungry, the poor, and those who are suffering. But the pity he shows today does not fit this pattern. He takes pity on the whole people — rich and poor, healthy and sick — and the form that his pity takes is teaching.
5. The idea that Jesus takes pity on people because they are like 'sheep without a shepherd', and the idea that teaching could be an expression of pity / mercy, are two ideas that are very alien to us. On the one hand, we do not like the idea that we need to be taught: we are in love with the notion of our own autonomy. This is expressed in the atheist sentiment: don't walk in front, I may not follow; don't walk behind, I may not lead; let's just walk beside each other! On the other hand, teaching conjures up someone who knows what we do not and tells us — implicitly showing up our imperfection — and teaching also seems to be just a technical skill: imparting boring skills be they how to cook, do arithmetic, a language, or car-maintenance. Teaching is no more than 'transferring skills' — to use modern educational jargon.
6. But these notions of autonomy and of our human need to be taught are incompatible with the basis not just of Christianity, but all monotheistic belief. It is our belief that the universe — be it the outer universe of atoms or galaxies or the inner universe of our human existence — cannot be understood without reference to God. God is the maker of all that is, seen and unseen, and without thinking about God and the divine origin and purpose of the universe, there is something lacking in our understanding, in our judgements on how we should act, and in the depths of our hearts. As Augustine said: 'You, 0 God, have made us for yourself and our hearts are restless without you.'
7. Yet, modern society tries to live in a God-free zone and make out that the divine is an optional extra, no more than a personal choice. While, at the same time, the'body, mind, spirit' shelves of bookshops groan under the number of books by lifestyle consultants that promise happiness by a mix of diets, mind-games, and ways of re-arranging the furniture in your home. The God-free zone is also a happiness-free zone.
8. We only become fully human when we recognise that there is more to life than the sum of the bits we can manage, the bits we can cope with, and the bits we can see. This recognition is rarely a blinding flash of understanding that there is a 'God-shaped aperture' in our existence, rather it is, more often than not, a painful discovery that we would almost be glad to avoid. Yet in this discovery we need also to appreciate the wisdom who teaches us — here lies the mission of Jesus the prophet and teacher. He teaches us to become aware of the deeper needs of our humanity: to see ourselves as the Father's children, to work together to build the kingdom, and the need to journey through life towards our true home. Jesus both teaches us of our fundamental dependency on God, and of the love that God constantly offers us.
9. We as a community continue that teaching: not just transferring skills such as how to pray or how to help the poor, but teaching in the sense of bringing people to wisdom. This is the wisdom that knows that our lives are incomplete without acknowledging who we are as creatures within a God-given universe.
10. The people hurried after him, and he set about teaching them at length. Here is a hard question: are we willing to sit as students (the same word as 'disciples' except it is less pious) at the feet of Jesus — and be taught at length?
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http://www.catholicireland.net/homilies
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