Sunday, April 20, 2014

Corpus Christi A

キリストの聖体A

【ヨハ6:51-58】

Trinity A

三位一体Α【

ヨハ3:16-18 イエスとニコデモ


三位一体の主日 A   伊丹  2008年5月18日

 
「父と子と聖翌のみ名に入れる洗礼を授け……」(マタイ28・19)

「三位一体論」などというと、人間の頭で神の神秘の内面を解き明かそうとする大(だい)それた企てであって、実際の信仰生活とはかかわりの薄いことだと思われるかもしれません。けれども古代の神学者のなかには、これを「ダンス」という具体的イメージでとらえた人もいました。三位一体とは、いわば「シャル・ウイ・ダンス?.」-
'96年に大ヒットを記録した周防正行監督作「Shall We ダンス?」。しがない会社員が社交ダンスに目覚め、ダンスを通して人生の意味を再発見していくさまを感動的に描いた本作が、ハリウッド・リメイク版で日本上陸! 日本版で役所広司が演じた冴えない会社員をリチャード・ギア、草刈民代が演じた美しきダンサーをジェニファー・ロペスがそれぞれ演じ、オリジナル版に忠実なストーリー展開の中にハリウッド版ならではのゴージャス感がただよう。まさに“本領発揮”といえるジェニロペの情熱的なラテン・ダンスは見ごたえ十分!
  
STORY● 妻と子ども二人と暮らす弁護士のクラーク(R・ギア)。家族に囲まれた平穏な暮らしを送りながらも、どこか人生に空しさを感じていた。そんなある日、クラークは通勤電車の中からダンス教室の窓辺にたたずむ美しい女性(J・ロペス)に目を留める。衝動的にダンス教室を訪れたクラークは、そのまま社交ダンスのレッスンに参加することに。

日本中に「社交ダンス」ブームを巻き起こしたあの名作。
父と子は、聖霊において互いに一つになりながら踊っておられる。神は、一人きりで働かれるのではなく、互いに歩調を合わせ、片方が行うことを他方がうけとり、舞うようにご自分のいのちを喜びつつ、それをまわりにもふりまいておられるというわけです。現代は、グローバル化が進み、宗教をはじめとする価値観も多様となり、ますます柔軟な考え方と態度が求められる時代です。物事を結局「我」中心に見てきた、これまでの私たちの硬直した生き方にも反省がうながされています。それが地球に生きる人間同士を切り離し、内向きさせ、恐れや冷たさとなって生命の流れを滞(とどこお)らせてきたことが明らかだからです。ですから、今私たちが求めていくべきは、人々が和解し、手をとり合って共に豊かになっていくための「交わり」でしょう。神が三位一体であるというのは、その神が愛の神、交わりの神だということだと思います。私たちの神は孤独で不動な機械のようなものではなく、いのちの結びつきを開花させる生きた方なのです。祝福のうちに万物を産み出し、私たちの身体と歴史の中に受肉し、そこに脈打ち、潤わせ、人間が互いのための者へと変わるよう、ご自分自身の愛の交わりの「縁(えにし・めぐり合わせ・因縁・ゆかり・よしみ・絆・つながり・よすが)」のうちへと私たちを巻き込む方であるわけです。
映画『シャル・ウイ・ダンス?』で描かれたのは、マンネリ化した日常生活の中に主人公がダンスの楽しみを見出し、自分の世界を拡げていく喜びでした。神もそのように、救いの世界の広さへと私たちを誘い出そうとしておられるのでしょう。さあ、私たちも神のダンスの輪の中へ、ご一緒に!
(光延(みつのぷ)一郎・イエズス会司祭)
三位一体の神とは、いったいどういう神なのでしょう。まず、人間の頭で理解することはできないことは確かです。しかしまた、まったく理解できないと考える必要もないと思います。神が人間に与えてくださった知恵を最大限に使って、あるいはこうも説明できる、という面も必ずあるはずです。もちろん一つの説明は一つの限定であり、説明してしまえば、もう本当の神の姿とかけ離れてしまうのではあってもです。ただおぼろげながら、ある一面からの黙想を試みてみたいと思います。まず創世記-章26-27節の「我々に似るように、我々のかたちに人を造ろう。……神はこのようにご自身のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」という文を手がかりに黙想してみたいと思います。神は愛だと言います。(一ヨハネ4・8)神がもし孤独なひとりぽっちの絶対者であるなら、どうして愛と言えるでしょう。完全者は自分だけですから、神は自分自身しか完全に愛せません。だとしたら、永遠におのれだけを愛し続けて、他の一切を必要としないナルシストでしかありません。もし愛であるなら、愛する相手を必要とします。しかも完全な愛をすべて受け止めることのできる、つまり全能の相手が必要になってしまいます。これでは完全者が二人必要になって、矛盾が生じます。しかし今は、哲学的矛盾を一応かっこに入れて考えてみましょう。第一の方を父、第二の方を子と呼ぶならぱ、父と子は違った存在でありながら(同じ存在なら自己愛になってしまいますので)、同じ大きさ、同じ全能の力を持つはずです。そして子は、父の全身全霊をこめた愛を、すべてガッシリ受け止められる方であり、その愛をすべてまた父にお返しできる方であるはずです。このお二方は完全に、相手のために自分のすべてを与え合っていらっしゃるのでしょう。しかし困ったことにそうであれぱ、やはり他者をまったく必要としなくなるのです。永遠からお互いに愛を交換し合っていて、他者はじゃま者になるのです。男女の愛も、まったく違った性を持ち、人として同じ大きさを持っているからこそ、愛の交換が可能なのです。人間と犬とであれば、違っていても同じ大きさではないので、人格をかけた愛とはなり得ないのです。ただ男女が愛し合う時、排他的なものになりがちです。第三者は、それが男であれ女であれ、二人の愛を壊す者として登場します。愛の博愛性と排他性の矛盾です。しかし人間の愛の場合、肉体を通しての排他性は正しいと思いますが、精神的には広く愛すべきでしょう。つまり二人が互いを見つめ合うだけでなく、二人が神の愛に目を向ける必要があります。神への愛、神からの愛の中で、二人の愛は正しいものであり、もっと確かなものとなるからです。ですから神の愛の中での霊的な博愛性は、やはりあるべきなのです。男女の愛の場合にも、愛は一体化を目指します。しかしそこには、知らず知らずのうちに、子どもの存在が前提とされています。つまり、二人の愛の具体的な形としての子どもです。この子どもは第三者として現れるのですが、二人の愛を壊すどころか、さらに強く結びつける存在として登場します。二人と違った存在、しかし人として同じ大きさを持ち(赤子といえども)、父母の愛を受け取って返せる存在なのです。お父さんの部分もお母さんの部分も持ち、またまったく違った人格なのです。お父さんが赤ちゃんを愛することは、お母さんを愛すかことと同じですし、お母さんが赤ちゃんを愛するのは、お父さんを愛することと同じなのです。しかしまた、自分の赤子だけが他の赤子と違ってかわいいのも事実です。つまり肉体的に考えたら、家族愛というものも排他的なのですが、その愛が神に向かう時のみ、広い愛、社会的な愛、博愛に広がるのです。家族愛でも自分の家族のことしか考えない愛は、閉じた愛であって、本当の愛ではないと思います(家族エゴ)。しかし三位一体は、肉体を持っていません。純粋に霊的な存在です。ですから父と子の排他的愛というのはあり得ません。父と子の愛は、霊的具体としての第三者、つまり聖霊に向かいます。聖霊は父の霊でもあり、子の霊でもあります。^ヨハネー5・26、父からでる真理の御霊〔私は真理である〕)父と子とは違った存在で、父の愛も子の愛もすべてを受け取ることのできる、父と子と同じ大きさを持った方であるはずです。「聖霊は私のものを受けて、あなた方に知らせるからです。父が持っておられるものは皆私のものです。ですから私は、御霊が私のものを受けて、あなた方に知らせると言ったのです」という言葉は、これを示しているようです。「マリアは聖霊によってイエスを宿す」ということも、聖霊を通して父と子の愛が人間に、そして人間を通して全被造物にあふれ出ることを示しているようです。聖霊は愛の拡散の原理のような気がします。もちろん神がみ言葉によって全世界を創造なさったことも確かですが。つまり三位の愛は、お三方がそれぞれ違ったペルソナでありながら、互いにおのれを完全に与え合う自己放棄、自己否定によって完全に一つであり、その愛はつねに外に向かってあふれ出ている、と言っていいのでしょうか。もちろん外というのも変な表現ですが、人間の言葉では表現できませんので…。しかしこのような想像を絶する三位の愛と、人間は対等に愛し合うことは不可能だと思います。なにせ大きさが全然違うのですから。神が本気で人間を愛しても、人はまったく受け取れないでしょうし、受け取ろうとすれば、人は一瞬にして焼け焦げてしまうでしよう。そこでその三位の愛が、神の子であり人の子であるイエスの内に、聖霊を通して輝き出るのではないでしょうか。つまり三位の燃える愛を、人の子イエスに翻訳してくださったような気がします。私たち人間は、人間イエスを愛することを通して、ある意味で三位と対等に愛し合えるのだと。
三位の愛は太陽のように、ダイナミックな愛の交換によって、その愛の熱をすべて被造物に放射しているのでしょう。三位一体は、私たち人間が目指すべき、あるべき家族の姿であり、やがて全被造物が大きな家族として結ばれるべき源泉であり、原動力なのだと思います。(静)

Pentecost A

聖霊降臨A

【ヨハ20:19-23】

6. 日本人の「道」の思想
内田樹氏の『日本辺境論』(新潮新書)を読んでいて、日本人の「道」についての面白い論述があった。日本人はどんな技術も「道」にしてしまう。柔道、剣道、茶道、華道、香道。この何でも道にしてしまう思想の本質は何か。要するに、道の思想とは、この道の果てに「完全」があるという思想で、今はわたしは「道の途中」にあるという現状認識である。「日暮れて道遠し」とか、「学ならぬままで死んでも、悔いなし」という価値意識である。この場合重要なことは「道上にいる」ということ、「途上」とか「途中」ということで、これからのことはよく分からないし、先の方は見通しがついていないが、とにかく一歩づつ進めば、完成にに至るという信念である。その信念さえあれば、現在の自分がいかに未完でも、未熟でも、あるいは先のことが理解できなくても正当化できる。この道の思想は師弟関係において具体化される。弟子は師に勝らない。弟子が不出来でも師は完全である。わたしにはわからないことがたくさんあるが、先生はすべてを理解している。
ここで論じられている道の思想は聖霊論と重なる。師はもちろんイエス・キリストである。わたしたちはイエス・キリストを目標として生きているが、キリストのことを理解している訳ではない。そこに到達する道が「霊の導き」である。霊に導かれて一歩一歩進めが、たとえ牛歩のような歩みでも、必ずいつかはイエス・キリストに到達できる。たとえ、到達できないで死んでも、悔いはない。重要なことはその道の上にいるかどうかということである。

Ascension A

主の昇天 A


【マタ28:16-20 弟子たちを派遣する】

7 easter A

復活節7主日A

ヨハネ17、1-11a

6 easter A

復活節6主日A
【ヨハ14:15-21 聖霊を与える約束】
今日の箇所、要するに、神様はいつもこの私と共にいてくださるということです。
最後の晩餐の席で、イエスは、聖霊を弟子たちには約束しますが、世に対しては、はっきりと否定的な表現をします。「この世は、そのかたを見ようとも知ろうともしないので、受けることができない」。聖霊を約束された弟子たちと拒絶されるこの世。弟子たちとこの世、どこがちがうのでしょうか。弟子たちに何があったから彼らは聖霊を受けることができたのでしょうか。あるいは逆に、この世には何が欠けていたから、聖霊を受けることができなかったのでしょうか。
それをみきわめることは、とても重要なことです。なぜかといいますと。弟子たちは、この聖霊を受けることによって、新しい活動を始め、教会をつくり、育てていくことができたからです。もし、この聖霊が与えられなければ、教会は誕生することができなかったともいえるのです。聖霊は、教会の原動力であり、魂ともいえるのですから、聖霊を受けられる、受けられないということは、教会の死活問題ともいえるのです。
したがって、聖霊を受けるための心がまえを確かめ、それを学び取ることは、教会を育てていかなければならない私たちにとっても、重大な課題です。
さて、それではこの世と比べて、弟子たちが聖霊を受けられたのは、彼らが聖人であり、完全な人だったからでしょうか。
そうではなかったはずです。最後の晩餐の時点では、弟子たちはじつに弱い弱い、ごく平凡な人々でありました。
誰が一番偉いかと議論しあうほど、俗っぽい人であり、イエスの神秘をほとんど理解していません。また、ユダの手引きによってイエスは捕らえられたときは、イエスを捨てて、逃げ去ってしまう人々です。「あんたもあの人の仲間だろう」と問われれば、誓ってまで自分の師との関係を否定します。弟子たちは、互いに競争心が強く、俗っぽく、卑怯で、自分勝手な人でした。おせじにもりっぱな人とはいえません。(現代、教会に通っている平均な人に似ているのでしょうか)。
彼らの隠れていた弱さや醜さを徹底的にあばきだしたのが、十字架の出来事でした。十字架は弟子たちに、そのやみと弱さをつきつけたのです。弱さとやみがあるということに関するかぎり、弟子たちとこの世の間には大した違いがありません。
イエスご自身も弟子たちの弱さ、醜さには驚かれなかったはずです。弟子たちが気がつく以上に、イエスは弟子たちのやみを知り、その悲しい姿を知っていたはずです。それを知るがゆえに、イエスは、人間を救おうと手をさしのべ、自ら十字架につけられた方です。そのためにこの世に来たと言います。
イエスにふれ、イエスと一つになるためには、人間の弱さは妨げにならないのです。罪があるということも、イエスと私たちとの間の壁にはならないのです。やみがあるところに、明るさを伝えていくのが光の特質だからです。
イエスと私たちとの間に壁をつくるものがあるとすれば、それは、ごうまんな心でしょう。ごうまんとは、弱さがあるのにそれに気がつかず、やみの中にいるのに光の中にあると思う錯覚の心です。罪をおかしているのにそれを正当化し、ゆるしと救いを求めなければならないのに、その自覚のない心です。この世と弟子たちを区別する心とは、まさに、ここにあるのではないでしょうか。
弟子たちは、自分の弱さと罪の現実を、十字架を通してみつめてしまったのです。そして自分の底なしのやみのなかで、ゆるしを求め、救いを求めて涙を流すのです。救いに飢え渇き祈る心を学んだのです。やみの中で光に向かってひらかれた、謙虚な心があったのです。
光に向かってひらかれた謙虚な心に、聖霊が惜しみなくそそがれていくのです。謙虚に、飢え渇き祈る心のすみずみにまで聖霊は浸透し、あたため、照らし、強め、導いていくのです。謙虚な祈りのあるところには聖霊による生命があふれ、おごりのあるところには生命が枯渇(こかつ)していくのです。(森)

 私たちはいつも今という時間の中で生きています。だから、いつも今の問題がとてつもなく大きな問題として振りかかってきます。そしていつも、とてもこんな大きな問題、立ち向かっていけないと弱音(よわね)を吐きます。そして神さまに不満を言います。どうしてこんな目にあわせるんですか。私はとてもこんな中やっていけない……。
 しかし私たちはまた知っています。10年前、あれほどまでに悩んだことが、今はもう何ともない。何とでもなっている。あの時、あれほどまで悩んだことはなんだったのだろうか。
 そうなのです。いろいろ降りかかってくる今のとてつもない大きな問題。しかししょせんすべては小さなことなのです。とりわけ永遠という時間、永遠の命、神様のもとでは、です。私たちには、いつも共にいてくださる神様がいます。思い悩みはすべて神様のもとに放り投げてみましょう(Iペト5:7思い悩みは神に委ねよ)。そして幸せ探しをしてみましょう。不幸の中から幸福を探すことをしてみましょう。
 まだたった4歳の子どもがいました。彼は手話を使ってじょうずに話すことができます。身障者でした。手術をしました。しかし失敗して、一層手足が動けなくなってしまいました。しかし手話で「神様ありがとう、僕には目、口、耳があるから」と示したのです。ないものでなく、あるものを考える心がこんな小さな子どもにもあるのです。
 またある方の一人息子が、白血病で亡くなったとき、お母さんに、「僕、感謝することがこんなにたくさんあるよ」。「お父さんお母さんとブランコ遊びしたね。お誕生会をしてお友だちがたくさん来たよ。ディズニーランドにも行ったね……」。こうして感謝することがなんと60にもなり、「疲れたから僕寝るよ」。そう言って亡くなっていきました。この子どもの残した言葉は、残された両親にとって、最大の報いとなり、今もこころに残り続けているのです。
 ある信者の奥さんが不知の病のためいよいよ死を迎えるとき、そのだんなさんが言いました。自分も洗礼を受ける。それは奥さんが本当に望んでいたことでした。それを聞いたとき奥さんは、「私が死ぬのにも意味があった。永遠、永遠」と繰り返し言いながら、天に帰っていきました。
  まったく逆にあるご婦人は、46歳で乳がんで亡くなりました。口癖のように二人の娘たちに、何度も何度も「私が死んでパパが再婚したら、継母(けいぼ)にうんと意地悪するのよ」と言ったそうです。愛の表現ではあったとしても、いったいこの娘たちは、どんな印象をもって、母を見送ったのか心配になります。

 自分の側ばかり見ているときには、不幸しか見つかりません。しかし神様を信頼し、神様の目から見たときに、自分に与えられているものを見ることが出来るようになります。心を上に向けましょう。たとえ八方ふさがりにみえても、上には、神には、道が開けているのです。神様は決して見捨てられません。神様は今私に、人が価値を認めず、自分自身が意気消沈(しょうじん)しているまさにそのような時にこそ、この私に価値を認め、引き上げようとしてくださっているのです。私たちがその神様の声を、拒みさえしなければ。
 私たちには確かにたくさんの不幸があります。そして神様は、その苦しみを理解されない方ではありません。イエス自身が、どうして私を見捨てられるのかと叫ぶほどの苦しみを負ったのです。親友ラザロの死を前に、蘇らせると分かっていながらも、はらわたが煮えくり返る苦しみを味わい、思わず涙したイエス様が、共にいます。それほどの苦しみを知っているイエス様・神様が、どうしてこの私の、人間の、悲しみを理解しないでしょうか。
 「どうせ私の気持ちなど分かるわけない。誰も分かってくれない」。時々そう人間はぼやきます。でも、そうやって人の助けを拒んでいるから、人は助けられないのです。あなたが心を開けば、小さな助けの声を聞きだすことができます。不幸探しはやめ、幸福探しの旅を始めてみましょう。たとえ今がどんなに苦しくても、神様がいつも必ずついていてくださるのですから。

 信じる者たちよ。なぜあなたは喜ぶ代わりに、悲しむのか。 なぜ暗い予想に従うのか。
 誰があなたに、あなたの不満の冬が、雪とひょう、さらに深い雪、さらに重い失望の嵐に進展すると教えたか。
 あなたは知らないか。夜は昼に、冬は春と夏に変わることを。
 だからいつも希望を持ちなさい。神は決してあなたを捨てない。Moseos

  

5 easter A

復活節5主日A

【ヨハ14:1-12 道・真理・命】

4 easter A

 復活節第4主日 A  伊丹教会  2008
ヨハネ10:1-10
イエス様は自分を羊飼いに、そして人間を羊にたとえます。
昔英語を習ったとき、羊はsheepと言って、単数でも複数も同じだということを学んだことがあると思います。群れという漢字も羊という字から成り立っています。羊はそれほど群れを成したがる、個性のないと思われる動物です。実際、羊の群れの中から一匹一匹を見分けるのは難しいことでしょう。ところがイエス様のたとえ方では、その一匹一匹を区別し、個性を大事にし、名をつけて、これは「メー子ちゃん」、これは「メリーさん」と、特別に大切なものとして扱うというのです。
私たちにはもっと分かりやすい例え方をすると、例えば入園したばかりの幼稚園児の集合写真をとるというのがあります。これは大変なことだそうです。ある子が落ち着けば、あの子が泣き出す。また別の子が走り回る。というわけでなかなかうまくいきません。長い時間をかければ、いっそう子供は飽きてしまいます。大変です。それでもそんな中、短い時間の中で全員がいい一枚の写真に収まるように、プロの写真家はおもちゃで気を引かせるなどして、一人ひとりすべてをベストショットを収め、集合写真を撮りあげます。イエス様はこのように集団の中でもしっかり一人ひとりを大切にする、そんなプロの写真家であるという例えです。
ザアカイのことを思い出します。ザアカイは、背が低く、徴税人として、人に軽蔑されるばかりでした。そのザアカイがイエス様を見ようと思って、木に登っていたとき、イエス様から突然、声をかけられました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まります」と。ザアカイは、このイエス様の呼びかけに答え、さっそく、イエス様に聞き従って行きました。せちがらい(世知辛い=打算的)この世の中で、自分のことを気にかけてくれる人がいる。驚きだったでしょう。そして喜びだったでしょう。その喜びは、その人が孤独であればあるだけ、強いでしょう。人間の孤独につけこんで、だまそうとする人がいると言うのも、現実です。話し相手のいない家に入り込んで、いろいろ話をしてくれる。それですっかり信じきって、自分の財産までまかせるケースがあります。しかしそれでもその孤独だった人は、たとえだますためであれ、話してくれる人が自分のために、費やしてくれた時間の方を大切に思うことがあります。それほど群れの中に埋没すること、自分を発見してもらえない、大事にしてもらえないというのは、人間にとって悲しいことなのでしょう。
イエス様は言います。「私は同じ顔に見える羊一匹一匹を見分ける羊飼いだ。私は集合写真の中でも一人ひとりをしっかり写す写真家だ。盗人は、盗み、屠(ほふ)り、滅ぼすために来るが、私は、魂の牧者、飼い主として、命を与えるため、それも豊かに与えるために来たのだ」と。
実際、イエス様のそのような一人ひとりを大切にする思いが、イエス様自身の利己的な利益のためではなく、本当に命を、すべての人に命を与えるためだというのは、イエス様に本当に聞き従い、行動した人たちの実りから分かるのです。
こういうふにイエス様がおっしゃっていることがすべて事実だと分かっている私たちは、それでも別の声を聴きたくなる弱さを持っています。イエス様の跡をついていくのに飽きて、わざとイエス様の見ていない隙間を狙って、別の道に行こうとするときがあります。しかしまた私たちは知っています。イエス様は、そんな道に迷いだした私を一所懸命、自ら探し回ってくれる羊飼いなのだ、決して迷ったままにしておかないという約束をして下さっています。こんな大変ありがたい、嬉しいことはほかにあるでしょうか。 Moseos

羊飼いと羊が声によって結び合わされているのです。羊飼いの声を信頼する羊。羊は目は近眼(きんがん、近くの物ははっきり見えない)であり、その反面音には大変敏感なのだそうです。羊飼いも自分のヒツジたちには一匹一匹名前を付けて呼びながら羊をまとめてゆくのだそうです。
復活したイエスは、目に見えないが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださる。このイエスとわたしたちの絆(きずな)は決して絶たれることがない。

私たちは、今ここに生きています。自分から望んで生まれてきた者はいないでしょう。それは、今この時代に、この私がここに生きる事を神がお望みになったからです。私は、神の永遠のご計画のうちに生きています。羊飼いは羊の名を知り、それぞれの個性を把握し、その羊にとっての最良の道を理解しています。
さらに神は私たち一人ひとりの想い、わずらい、強さも弱さも、通るべき道も全てご存知です。み手の中で平安のうちに憩い、たとえ暗闇の中にあっても、主への光を見失わないように希望と勇気を与えてくださいます。神の大きな愛に包まれている私は、主の呼びかけを聴きたいと願います。
しかし多くの物質に囲まれ、豊富な情報が、多様な価値観が渦を巻いています。目先の利益に流されそうです。本当に大切なもの、本当に守るべきもの、伝えていかなければならないものを見分けたいものです。毎日の出来事の中に込められた温かい神の配慮、それは必ずしも私にとって都合の良いことばかりではないでしょう。むしろ悲しみや苦しみ、多くの困難を伴うものかもしれません。神のご計画は計り知れません。喜びのときも悲しみのときも、神の愛を信じましょう。羊飼いの声を聞き分け、永遠の命をいただきたいと思います。
主よ、あなたの声を聞き分けられる良い耳をください。出来事にこめられた深い配慮に気づき、あなたと喜びを共にすることができますよう御導きください。sese07
私たちは人生の中で羊飼いの声を聴いた体験を持っています。だからこそ、私たちはここにまで導かれてきているのだと思います。それは直接イエスさまの声を聴くという体験かもしれませんし、聖書を通して聴くということかもしれませんし、間接的に神父や宣教師や先輩の信仰者を通してイエスさまの声が届けられるということかもしれません。いずれにせよ、私たちは羊飼いの声によって導かれてきたのですし、これからも導かれてゆくのです。神父となるためにも召命感というものが問われてゆきますが、それは主の召し出しの声をどこに聞くかということなのです。
イエス様の言葉はこの世を作られた神様の言葉と同一だからです。裏切った弟子たちが、またイエスの群れに戻り、イエス様の言葉を伝えていった。そのように、わたしたちもこの絶対的な言葉に戻り、賭けていきたいと思います。神の子が確約した言葉だからこそ、私たちはこの言葉に戻るしかないのです。

私たちに向こう側から「おおい、きみ」と呼びかけてくださるお方がいる。耳を澄ませば、そのお方の声が聞えてきます。私たちは本日、ミサ聖祭に与ります。「すべて重荷を負うて苦労しているものはわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。私たちに呼びかけてくださるこの羊飼いの声に信頼し、このお方にすべてを委ねて、今日もご一緒にこの恵みの食卓に与りましょう。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/123.htm

  
 

3 easter A

復活節第3主日 A  百合学院オラトリオにて 2008・4・6
ルカ24:13-35

二人の弟子たちは、現実の厳しさにつまずいて希望を失ってしまいました。私たちも時々、同じような体験をすることはないでしょうか。二人の弟子たちは、確かにイエスという方に大きな希望をかけていました。けれどもイエスは殺されて、十字架は、彼らにとって希望の終わりになったのです。だからこそ、普通の旅人として自分たちの横に現れた人を、イエスだと認めることができなかったのです。
この二人の弟子たちは、希望を失った人が歩む逃避(幻滅)の道を歩いていました。それは、同時に、私たちの道でもあるかもしれません。責任を逃れようとしたり、人生への疑いに悩んだり、弱い希望しか持たず、神のたてられた計画に納得できず、傷ついた、そしてある意味で高慢な私たちが通る道です。しかし、人生は、私たちがどうしても歩まなければならない命への道なのです。
「彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」とあります。つまり復活ということは、われわれが人間の力で、人間的な知性とか理性とかをどんなに積み重ねても見ることはできないことで、復活ということは、自分の力で信じることができることではなく、神から信じさせてもらって始めて、われわれは主イエスの復活を受け入れ、信じることができるようになるということです。
 
 不思議なことに、この時イエスはなぜご自分が復活したのだということを彼らにただちに分からせようしなかったのか、イエスのほうから積極的に示そうとしなかったのか。ここをみますと、イエスは彼らが宿に入ろうとすると、イエスは彼らと離れて先に進もうとしているのですから、イエスは最後までご自分のことを明らかにしようとはしなかったということです。
 更に不思議なことは、彼らがそれがイエスだとわかったとたんに、イエスの姿は見えなくなったというのです。なぜイエスはこの時もっと親しく彼らと交わり、ご自分が復活の主イエスなのだと彼らに示そうとなさらなかったのか。
 
 どうして復活の主イエスは、この時、もっと単純にというか、端的にこのふたりの弟子達に「わたしはよみがえったのだ」と告げようししなかったのかということなのです。これはわれわれがイエスの復活という事実を受け入れ、それを信じるようになるためには、大事なことをわれわれに示そうとされていることなのではないかと思うのです。
つまりイエスはご自分がよみがえったということを、単なる一大奇跡のように弟子達に示そうとはしなかったということです。
 よく新興宗教の教祖が人々を驚かすようにして、空中に漂うというようなことをしてみせるとか、手品のような奇跡をしてみせるとかをいたしますが、イエスは、そんなことをして、自分が救い主であることを示そうとはしなかった。復活という奇跡はそんなふうにして人を驚かすような奇跡として受け取られたくなかったということです。

 イエスの復活を信じるということは、それだけを突出して、お前はイエスの復活を信じるか、と問うても何の意味もなさいないということなのです。そのようにして死人のよみがえりという奇跡を信じるかどうか、それを信じられないならば、お前の信仰はだめだ、偽物だというようなことではないということなのです。イエスの復活を信じるためには、それを正しく信じるためには、それがわれわれ人間が必要としている復活として信じるためには、聖書からずっと預言されていることを学び、特にキリストについて預言されていることを通して学び、そうしたうえで、神の子の十字架の死とその復活と言うことを理解し、信じるのでなければ、復活という奇跡を信じたことにはならないということなのです。
 聖書全体と切り離して、ただ死人のよみがえりがあったとかなかったとかいっても、どこかの教祖様が空中遊泳したということと同じことになってしまうということです。
 イエスはあのふたりの弟子に、ご自分が復活の主イエスだとは明らかにしようとはしなかったのです。聖書の話をなさった。特に聖書のなかでご自身について記している所を心をこめて説き明かされた。そのようにして、もう彼らから離れてもきっとあとで自分が復活の主イエスだったと思いつくに違いにないと確信していたと思います。だから、主イエスはいわば安心して彼らを宿に残し、自分は離れて先に進もうとしたのではないかと思います。
 しかし彼らは強いてイエスを引き留めた。彼らはもうその時には、この人はただの人ではないと思い始めていたのだろうと思います。それで無理に引き留めたのだろうと思います。
 そして一緒に食事をした。イエスがパンをさいて彼らに与えた。その時に彼らの目が開いたので、それがイエスだとわかったのです。 
 
 イエスの十字架の話は受け入れる(分かる)ことはできても、復活ということは信じられないとよくいいます。あるいは、一度は信じたつもりでも、またわからなくなるということもあると思います。 それは復活ということだけを切り離して信じようとしたりするからで、信じられないと思うからではないか。復活を信じるということは、聖書全体から信じようとしない限り信じられないということです。
 
イエスから直説に説き明かされている時には、自分たちの心が燃えていたとは気がつかなかつたようなのです。あとから思いだしてみると、心が燃えていたというのです。この感激の仕方というのも面白いと思います。
 信仰というものは、あとでじわじわとわかってくるというわかりかたではないか。もちろん、熱狂的に感激することもあるかもしれませんが、このふたりのように、あとになってそういえば、あの時、心が熱くなったね、と思いだすというわかりかた、感激の仕方というのも、なかなかいいものだと思います。
 イエスの語りかたというのは、人々にただ熱狂的に分からせようとするのではなく、人々が自分たちの心のなかで納得するまでじっと待ってくださる、そういう語りかたをするということではないかと思うのです。
 ある人が「人に話をする時に『説得』と『納得』という方法があると言っております。説得は相手に反論を許さない、説得されたからといって、納得したとは限らないということがある。納得していないのに、説得されたというのは、非常に不愉快なものだ。相手を説得するのではなく、相手に納得してもらうほうを自分は選びたい」といっております。
 イエスの語りかた、特に復活の主イエスがこのエマオ途上のふたりに語りかけるとき、復活という事実を彼らに分からせようとしたときに、主イエスは説得ではなく、納得してもらうまでじっと待っておられる、そういう納得という語りかけをなさったのだということではないかと思うのです。
 
 

2 Easter A

復活節2主日

【ヨハ20:19-31 弟子たちに現れるイエスとトマス】

Easter Sunday A

復活の主日


【ヨハ20:1-9】


イエス・キリストの復活を信じることは人間の力ではできない。すなわち、人間がどのように頑張っても、イエス・キリストの復活を信じることは出来ません。それは、死んだ人間が生き返るなんて今まで一度も無かったからです。人間は死ねば、それで終わりでした。一巻の終わりです。その後はないのです。もう二度と会えないのです。いくら立派な仕事をしても、いくら立派な人格者であっても、いくら善行を積んだとしても、死んでしまったら、二度と生き返ることはないのです。これは変えることの出来ない事実でした。ですから人間であるイエス・キリストが生き返る話は信じることが出来ないのです。

 

それでは、なぜキリストの復活がしんじられないのかを考えてみましょう。それは、人間の罪に原因があります。「罪の支払う報酬は死」とローマの信徒への手紙(6:23)に書いてあるように、罪の結果 は死であって、けして命ではありません。永遠の死は私たちの内にありますが、永遠の命は私たちの内にありません。したがって、私たちには死を考えることが出来ても、永遠の命を考えることが出来ないのです。私たちのうちに永遠の命に至る正しさがないからです。

 

復活が信じられない第二の理由は、どちらかといえば、心理的な反発からです。信じられないというよりも、信じたくないといった方がよいかもしれません。つまり、死によってこの世の苦しみから解放されたいと願う人たちにとっては、無意味な延命はごめんこうむりたいと願うことでしょう。復活してまで苦しい人生を続けたくはないという気持ち、この気持ちも人間として理解できないわけではありません。

 

弟子たちは素直に復活を信じたのかといえば、決してそうではありませんでした。イエスの墓が空っぽであったことを最初に発見した婦人たちの報告を聞いたとき弟子たちは「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)とはっきり聖書は記しています。

 

それでは、最初に空の墓を発見した婦人たちはどうだったのでしょう。マルコによる福音書の記事はとても印象的な終わり方をしています。

 

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8)

 

 恐ろしさのあまり、正気を失うほどの衝撃的な体験だったというのは、喜ばしい復活の出来事を書き表すにはあまりにも薄気味悪い表現です。報告を聞いた弟子たちが、婦人たちの言ってることが「たわ言のようの思われた」というのももっともだと感じられます。

 

 しかし、誰もが信じられないと思っていたところに、かえって「何かが起こったに違いない」という印象を強くされます。 さて、キリストの復活は事実であったのかという疑問もさることながら、もっと興味のあることは、聖書がそこでどんな意義を説き明かそうとしているのかということです。もし、その意義付けがなければ、キリストの復活を信じる意味が失われてしまいます。

 

復活は事実だと信じても、それが、もし、私たちにとって意味のないことであれば、いくら事実であっても、私たちの人生に何のインパクトもあたえません。

 

ところが、キリストが復活されたということは、死が終わりでないことを、私たちに教えてくれます。キリストの復活を信じる者たちも、やがて、復活にあずかることができるのです。もし、私たちの人生がこの世のものだけなら、生きているうちに好きなことをして、楽しめるだけ楽しんでおけば良いということになります。パウロの時代も、そうした生活をしている人が多くいたようで、パウロは、この手紙の32節で、その人たちのモットーを引用しています。「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」しかし、私たちは、死のかなたにも輝かしい将来があることを知っているので、正しい生活に励むことができるのです。キリストの復活によって、私たちは生活の方向を定めることが出来るのです。

 

パウロも、きょうのコロサイの手紙のなかで、天を見つめるように呼びかけます。「上にあるものを求めなさい、そこにはキリストが神のの右の座についておられます。地上のもではなく、上のものに心を向けなさい。

 

(祈り)

 

 父なる神さま、キリストの復活が無ければ、私たちの人生はどんなにか、無意味なものになっていたでしょうか。しかし、事実、キリストはよみがえられました。キリストは生きておられます。このキリストの復活の事実が、私たちの生活の中に働くように、私たちの信仰を、もういちど新しくしてください。人々が「キリストは生きておられる」ことを私たちの中に見いだすことができるまでに、私たちを導いてください。主イエスの御名で祈ります。

 

Friday, April 18, 2014

今となっては、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び

今となっては、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び
読み方:たえがたきをたえ、しのびがたきをしのび

昭和天皇による敗戦の宣言の一節です。

終戦の詔勅 しょうちょく(天皇の発する公式文書)(玉音放送)中の一節で、「我慢できないほどのもの(降伏)を、それでも我慢して」という意味とされる。日本の降伏を伝える玉音放送の中でも、特に象徴的な文言として著名である。

(ぎょくおんほうそう)とは、天皇の肉声(玉音)を放送することをいう

この一節でしか多くの人々には記憶されていない(いや、それすら知らない人の方が多いのかもしれません)、あの昭和天皇の、先例を破った肉声放送は、その後の日本の方向を暗示するかのように、極めて曖昧で難解な表現をとっていました。

あの「玉音放送」の文章を読んで即座に、日本が敗北し、無条件降伏するという意味をつかみ取ることは、たいへん困難でした。

そもそも、天皇は「敗北」とか、「降伏」などという表現は、その放送の中でも、まったく使っていません。「戦局必ズシモ好転セズ、世界ノ大勢マタ我ニ利アラズ」と述べているだけで、極めて巧妙な作文でした。この時点ですでに300万人以上が犠牲者となっています。

そこから、占領軍の上陸へと続きます。8月下旬、焼け野原、焦土(しょうど)と化した日本に上陸した占領軍兵士が徐々に見出していったのは、驚くべきことに、敗者の卑屈や憎悪だけではなく、平和な世界と改革への希望に満ちた民衆の姿でした。

 「敗戦の2、3日後には進駐軍があふれた。ほんの1週間前まで"鬼畜米英を倒せ"と刺(さ)し違(ちが)え死ぬつもりの私達(たち)はすっかり米兵の魅力にとりつかれ、お土産いっぱい持って毎日来るあの人達と仲良くなるのに時間はかかりませんでした」

敗戦後日本人の苦難の歩みを描いて,日本中に感動を巻き起こした,敗北を抱きしめて立ち上がった民衆の類まれな経験を語り尽くす.名著があります。









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Friday, April 11, 2014

十字架学

十字架学

飛行機に乗ると、酸素マスクの付け方が教えられています。まず、大人がつけて、次に子供につけてくださいと言われます。これは一つの知恵でしょう。先ず自分を助けて、後で他人を助ける。これは人間的知恵の特徴でしょう。

キリストは自分を救うことができなかったとあります。自分を助けることは知恵であれば、自分を助けることのできない状態は、一つの愚かさでしょう。自分を助けろことのできない子供に自動車の運転を任せますかね。十字架は神の愚かさを示しています。人間的な知恵とはとてもいえません。

例えかたが悪いかもしれないが、レストランに行ってメニューを見て、美味しそうな料理を注文したとしましょう。それで、持ってくるのは、なんと、ごめんなさいね、ウンチのかたまり。驚きますね。いただけません。

ユダヤ人たちが何百年メシア、救い主を待っていました。神様に熱心にお願いしていました。神の答えは、神の最高の知恵は十字架でした。自分を助けられない救い主。ユダヤ人たちにとっては、ウンチにようなものでした。

なぜ、人間の知恵と髪の知恵の間にこれだけのギャップがあるのか。
人間の知恵は素晴らしいことがあります。まあ、例えば携帯電話、スマートフォンのようなとても便利な技術があります。その反面、困った知恵もあります。例えば原子爆弾。原子爆弾は、先ず自分を助けるために作られて、他人は助からないのは止むを得ず、というような論理ですね。

神様には原子爆弾を上回る知恵があるはずのですが、それは原子爆弾より大きな力ではなくて、十字架のような愚かさです。神の愚かさは人間の知恵より強いとパウロは言いますね。

なぜでしょうか?これは


世の中は、食うか食われるかの世界と言われます。
十字架を勉強すれば、その通りだとわかります。
さらに、なぜそうなっているのか?
なぜ、そうなったのか。
誰がそうしたのか?
必ずしも、そうでなければならないのか、
あるいは別の世界も可能なのか。
十字架を勉強すればこれらのことは全部わかります。

草食動物と肉食動物




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