Monday, May 16, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)➉

17 会衆と正された不正

  [典礼における]「会衆(congregation)」という言葉は、信心深くてうやうやしい人々であっても、多くの人々の集まりを意味しない。なぜなら、真なる会衆の本質、つまり同時に力づけ、誠意を込めた、一致させる性質が、そのグループに欠けているかもしれないからである。キリストは会衆を次にように定義した。「二人または三人がわたしの名によって集まるところは、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18・20)使徒言行録は、聖霊降臨の後の日々についての記述でより詳しく述べている。「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」(使徒2・46-47)
  こう言うことであるから、会衆は成立するのは、信仰によって導かれ、キリストの神秘体のメンバーであることを意識する人々は、聖なる神秘を祝うために集うときである。この条件が揃っているときでさえ、成立は自動的ではない。自動的に見える幾つかの例外がある。例えば、圧迫されるニードや強烈な喜びが自発的にすべての人々の心を満たし、一致させるようなことである。
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訳注: 例えば、地震が起こると、皆一致団結して助け合う。阪神タイガースが勝つと、ファン全員が喜ぶ。
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あるいは、ある先生の気の利いた言葉が聴衆の心を動かし、本物のキリスト教的一致を起こす。そのとき、ばらばらの個々人が、同じ原動力に動かされ、同じ目標に向かう一つの大きな体となる。例外はあっても、原則として会衆が成立するのは、各自がそれを欲するときのみである。
  助けとなることがたくさんある。会場の荘厳性、オルガンの音楽、神の言葉の力強さ、聖なるセレモニーの熱心さと神秘性などなど。ところがこれらが助けに過ぎない。自動的に働くことではない。個人の責任という観点から言えば、それらは肝心なことでさえ保証できない。なぜなら、以上のような助けがなくても、会衆の成立が可能なはずであるからである。パッとしない環境、最も貧弱な音楽、あるいは音楽なし、下手な聖書朗読、すべての可能な人間の欠点が付きまとう奉仕などでも、会衆の成立が可能である。なにより、会衆が成立するためには、信者は会衆とは何かを知る必要がある。そして、知った上でそれを望み、それに達するために積極的に努力しなければならない。
  山上の説教において主キリストが次のようにおっしゃる。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタイ5・23ー24) これは意味するのは、あなたがミサに行くとき誰かに対して不正を行ったと思い出して、そしてその人はあなたに対して恨みを持っているなら、あなたは別に何もないかのように、ただ単に教会に入ることはできない、ということです。なぜならば、その場合あなたは入っていくのは、建物だけであり、会衆ではないからである。会衆はあなたを受け入れないだろう。なぜなら、あなたはそこにいるだけで会衆を破壊するからである。
  会衆は、人と人をむすび、同時にまた神と人をむすび、人と神をむすぶ聖なる結束性である。会衆は、キリストにおける一致、聖霊の交わりの中で、キリストの御父のみ顔の前で、「人々の間に」生きるキリストにおける一致である。けれども、もしあなたが兄弟に悪事を行ったならば、そして彼があなたに対して恨みを抱いているなら、二人の間で壁が立ちはだかって、あなたを一致から排除してしまう。あなたの立場から見ると、会衆は成立しなくなる。会衆を回復させるのは、あなたの責任である、兄弟との妨害を無くすことで。
  あなたは、山上の説教の神的単純さによる勧めに従うのは簡単ではないと思うかもしれない。ただ単にすべてをさて置いて、悪事を正すためにその人のところに行き、それから戻ってくる。これは単純すぎる、と直ちに思ってしまうべきではない。我々が思うよりもはるかに多くを行うことができるはず。我々はより頻繁に信じる心の単刀直入に従って行動すれば、我々のブルジュアー的な信仰生活、水増しされた信仰生活はより強くなるだろう。ただ行って、愛と悔い改めと広い心が求めることを行えば、どこに問題があるというのか。軽率さを勧めるつもりはないが、ただよく考えることは、時と場合によってむしる行うべき善の障害となり得る、ということだけ言いたい。多くの場合は、必要な、真に自由に導く行為は可能であるのは、最初の衝動のパワーと勢いによってのみである。
  ともかくも、誰かに恨みを持たれていると知っている人は誰であれ、一つできることがある。彼は自分自身に約束することができる、できるだけ速やかに不正を正すという約束を。正直な意図は、兄弟の間の壁を壊すために十分である。すると、直ちに一致させるエレメントは解放されて、新たにすべての当事者に触れることができるようになる。孤立させる不正は正されるや否や、会衆は回復される。
  イエスの言葉は、逆にとることもできる。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟に対して反感を持っているなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」という風にとることができる。この場合、不満を持つのはあなたである。今や、あなたははるかに直接的に行動することができる。この場合、肝心なことは、疎外された当事者による実際の合意に依存することなく、たった一つの条件、あなたのゆるしにかかっているのである。あなたが恨みを持ち続ける限り、その恨みの妥当性は如何様なものであれ、あなたの立場からすると、真なる会衆は成立しない。正直に誠実にゆるしてあげなさい、すると、聖なる和は再び成立する。おそらくこれは、一度にすべてのことはうまいことに行くと限らない。ときには、失望と反感はすぐに本物のゆるしを可能にするために、大きすぎるかもしれない。その場合、あなたができる限りのゆるしを与え、それからゆるす心を増してくださるように神に願いなさい。
  実は、本物のゆるしを与えるのは人間ではない。敵をゆるす掟は、次のように言い換えることができる。「あなたがあなたの敵をゆるせるのは、キリストが十字架上でご自分の敵をゆるしたからである、と思い知りなさい。あなたのゆるす心を創るのはキリストである」、と。
  主キリストが求めるゆるしは、人間のゆるしとは異なる。人間のゆるしとは、打算に過ぎないかもしれない。「ほっておけ、役に立たない」。または、無関心からくるかもしれな。「(それは)何が問題なのだろう」。あるいは、偽りの好意かもしれない。そのタイプの好意は敵意のうらにすぎないのだが。それとも、戦い抜く自信のない臆病などなど。キリストのゆるしは異なる。それは、神の愛が我々の中に足がかりを得て、そこから神の子供たちの間で新しい秩序を創造されることである。従って、あなたが神のために、そして神の諸秘儀のために愛の掟に従おうとするとき、神の愛に根ざした人々の会衆が花を咲かせるように、神が可能にしてくださる。
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付録

「捧げものをしようとしているときに、あなたの兄弟に恨みがあると気づいたら、捧げものを祭壇の前に置きなさい」(マタイ5:23-24)
アウグスティヌス。ここで言われていることは文字通りとるなら、兄弟は立ち会っているときにこうすべきであると、誰かが思うかもしれない。というのは、「祭壇の前に置きなさい」と命令されているからには、長く先にのばすことできない。もし兄弟は不在なら、それは海の彼方にいるかもしれないので、祭壇の前で置いた後に、海を渡って大陸を渡ってから神に捧げものをすると思うのは不条理である。この不条理をさけて理解するために、霊的意味に訴えるべきである。従って、祭壇の意味を霊的にとって、信仰であると考えることができる。神へのいかなる捧げもの、学問、祈り、その他何であれ、信仰なしには神に喜ばれることはない。従って、もし兄弟を傷つけたなら、和解に向かうべきである。それは、体の足でではなく、魂の運動で、捧げものを捧げるべき方の御前で、謙虚で心を込めて兄弟の前でひざまずく。こうして、兄弟が立ち会っているかのように、見せかけではないように傷を宥めることができる。そして、「戻ってきて」つまり、し始めたことに注意を向き直し、捧げものを捧げることができる。(トマス・アクィナス著、Catena aurea: glossa continua super Evangelia, 第 1 巻、caput 5, lectio 14)

Wednesday, May 11, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)⑨


16  祈願の言葉

賛美の祈りと比べて、祈願の祈り(羅 oratio[オラティオ])は特殊なコントラストをなしている。主に三箇所に見出される、栄光の讚歌の後の集会祈願、奉納の後の奉納祈願(訳注: トリエントのミサで、oratio secreta [密祷])、そして聖体拝領後の拝領祈願。祈願的な祈りはローマ典文、聖変化前後の様々なリクエスト及び主の祈りの後にも現れるが、本章で上記の三箇所をとりあげる。
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ラテン語のオラティオは、もともとは公衆の前での演説や講話を意味したが、典礼的祈願は神の前で神に向けて朗唱されるものである。ローマ典礼の祈願は、一般のオラティオの伝統を受け継ぎ、ラテン語詩文の規則や抑揚規則を採用しているので、荘重な文体と朗唱形式をもっている。
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   これらの三箇所は重要なところだとは、その前に出てくる言葉と身振りから、すぐわかる。まず、司祭が祭壇に接吻する。これは、神の臨在を象徴するところとの密接なコンタクトを表している。それから、司祭が人々に振り向き、厳粛で儀礼的な身振りをしながら言う、「主は皆さんとともに」。会衆、または侍者は答える、「また、あなたの霊とともに」。これは、前にとりあげた叙唱前句と同じで、集中させ、強化する言葉である。それから、司祭は「祈りましょう」と言う。続いて、集会祈願が唱えられる。奉納祈願の前置きはそれ以上に荘厳である。まず、司祭が「兄弟たちよ、祈れ」と言う。それから、「このささげものを、全能の神である父が受け入れてくださるように」と続く。これに侍者が、「神の栄光と賛美のため、また全教会とわたしたち自身のために、司祭の手を通しておささげするいけにえをお受けください」と答える。この準備の後に、司祭が祭壇の上にある奉納に向って[沈黙のうちに]祈りを唱える。
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訳注: トリエント典礼では、奉納祈願は奉納の歌と重なっていたので、沈黙のうちに、または小さい声で唱えられていた。
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  以上全ての祈りにおいて印象深い特徴がある、その厳密な儀礼性。古ければ古いほど、簡潔で厳格なものである。手の込んだ思想もなければ、感動するイメージも、感情のほとばしりもない。透明性のある、簡潔な、わずかの文章だけ。
  一例として四旬節第一月曜日の集会祈願をとってみよう。Convérte nos, Deus, salutáris noster : et, ut nobis jejúnium quadragesimále profíciat, mentes nostras cæléstibus ínstrue disciplínis. 「我々を改心させ給え、救いをもたらす我々の神よ。そして、四旬節の断食が我々に役立つように、天上のしつけによって我々の知性を教え給え。」そして、同じミサの奉納祈願は、Múnera tibi, Dómine, obláta sanctífica : nosque a peccatórum nostrórum máculis emúndet. 「主よ、あなたに捧げられた供えものを聖なるものとしてください。そして、我々を罪の染みから清めてください。」最後に拝領祈願は、Salutáris tui, Dómine, múnere satiáti, súpplices exorámus : ut, cujus lætámur gustu, renovémur efféctu. 「主よ、あなたの救いの賜物で満たされてへりくだって祈ります。我々は、その参加を喜びながらも、その効果によっても新たにされることができますように。
  以上の語調は、最初の印象として、我々とは縁遠く感じるかもしれない。我々の普段の祈りは言葉数がより多いだろう。もっと感情が込められ、遥かに私的なものであろう。勿論、ミサの全ての祈りはこのように厳格なものではない。以上の祈りは古くから伝えられて、大体同じような傾向をもっている。主観性の多いものほど、近代に近い時代に作られ、自制を失っている。
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訳注: 典礼における祈願は、その源流を、聖書(特に詩編)およびユダヤ教の礼拝(シュモネー・エスレーなど)にもっている。
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  初代の祈りは、個人の経験からではなく、共同体の意識から、もっと正確に言えば、教会共同体から湧き出た。しばしば、語源の意味での公式的(official)なものである。つまり、職務または公務から出たものである。古代ローマの明晰性と客観性が支配的な役割を果たしている。性格の違う時代に生きている我々に冷たいものと感じられ、人間的暖かみのないもの、信心深くないとさえ、捉えられてしまうことがある。けれども、この捉え方には問題がある。なぜなら、このような祈りには強力で深い信心性が詰まっている。形式だけは、我々は慣れているものとは異なる。実は、[ドイツ人にとって]中国の儀式のように異質的なものではない。もし、我々は中国の儀式を真剣に行おうとしても、心に響くことなく、精神的に一致することはないだろう。初代キリスト教の祈願は我々の文化の一部であり、深い根っことなっている。我々の生活の向こう側にあって、我々はまともな人格になるためには必要である。的外れのことやあまりにも自己中し的なことに没頭しがち我々にとって、祈願のきちんと整った、客観的な霊性はバランスを取り戻すために重要である。
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日本語で、「祈願」といっても、キリスト教的な祈願は、単に現世的な願い事をする祈りではなく、あくまで、神の救いへの賛美と感謝をもっている「記念」に基づき、未来に至る救いの広がりと完成に向けての神の働きを願い求めるものである。従って、祈願は、典礼の各行為を通して、教会が神の救いの営みに参画する姿を現すものと言える。
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  かなり努力しないと、我々はこのテキストの意義を把握できないだろう。深い集中の結果であるから。目の覚めた現実感覚でもって人生を見つめることと、くもりのない心が本質を認め把握したこと、および正確で強烈な表現力とがこのテキストの徹底したシンプルさを可能にした。初代教会の数世紀の歴史がこれらのテキストの基盤を形作った、熟練した現実感覚をなにより示している。年の浅い教会が、まず腐敗しつつあった古代の官能的な贅沢と、それから諸民族の大移動の混乱から生まれた諸勢力および中世時代の夜明けと、英雄的戦わなければならなかった。
  我々が思うかもしれない、これらのテキストは自明の文章ではない。それらが生まれ出た状況は、生まれ出される前に沈黙の祈りのうちに把握され尽くされた。我々は、導入をなす呼びかけ、「祈りましょう」を十分真剣に受け止めていないかもしれない。
  手順は次のようにすべきである。司祭は手を広げて、「祈りましょう」と言う。それからしばらく沈黙がある。その間、個々人がその日に祝われる神秘をテーマに、自らの意向と会衆の意向のために祈る。この静かで多様ないのりが、司式司祭によって集められ、集会祈願のわずかの文章でもって表現される。短い文章が、そのすぐ前に静かに神に上げられたものの活力すべてで満たされるように。今や、その簡潔さが物足りないものではなく、むしろ豊かな要約と感じられる。
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訳注: 例えば、自転車に乗るために必要な力(角加速度)は、古典力学では下記のように表される(運動の第二法則),
F=d2 θ/d t2
これは簡潔に、出勤することも、買い物に行くことも、レジャーで出かけることも、競輪場のことなどなども表している。自転車の具体的な乗り方の事例は様々であるが、抽象すればこのようになる。さて、抽象作業を行うと、豊かな感覚事実は失われるかのように感じる。けれども、よく考えてみると、上記の方程式に含まれる認識は感覚で捉えることはできない。この認識は、我々の普段の認識に上乗せされる。つまり、豊かにされる。抽象作業は、必ずしも現実を乏しくすると限らない。視点を変えれば、現実を豊かにすることもある。(B. Lonergan, Insight: A Study of Human Understanding, University of Toronto Press, 1997, pp. 111-112 参照)。
同じように、抽象的な集会祈願は、個々人の祈りを豊かにすることができる。
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前もって集会祈願を吟味すると、それを我々の祈りの乗り物にすることができる。これは、それらの本来の役割である。
  この祈りにおける祈りの方向づけが意義深いものである。カテキズムが述べているように、「祈りとは心を神に上げること」である。なぜなら、神は我々を超えていて、神への道は上の方へ導く。ところが、神は我々の内にもおられるので、神への道は内的神殿を通る、ということもある。神へ向かう歩みはどのように成り立つだろうか。何か導きの糸や方法があるだろうか。
    すべての集会祈願は、その内容はどうであれ、注目すべき文章でもって終わる。「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。」
   ここに、我々は求めていた方向づけがある。ここに、目標と道のりの適切な関係と、その道を歩むための原動力が示されている。目標とは父なる神であり、祈りはその御顔を慕い求めることである。道とは、キリストである。原動力は、聖霊。上記のワン・センテンスは典礼的祈りの法則全体を含んでいる。祈りの方法は、神的三位一体によって、我々の救済に使用された方法と同じである。森羅万象は父から出て、父へと戻る。父はロゴスにおいて天地を創造した。人間が父に逆らった後、キリストは世界に送られ、世界を救助し父へ復帰させる。
   永遠ある御子が人となり、その使命を果たした力は、聖霊であった。その同じ霊の力、父が御子の名において送ってくださった霊の力でもって、キリストの道を辿って御父という実家に我々は戻るのである。我々はキリスト信者であるのは、キリストにおいてである。我々の新しいいのちは、「エン・キリスト」、キリストにおける命である。従って、キリスト教的祈りは、キリストにおける祈りである。
  ここまで来たら、油断のない読者は気づいたであろう。典礼はほんとんど例外なく、御父に向かって進む、ということ。御父に、すべての言葉、すべての行為は向けられている。まれに、当然のことでもあるが、御子に向きかえることがある。例えば、栄光の参加において、三位一体の位格が次々呼びかけられるとき。あるいは、平和の賛歌のとき、そこで司祭の目があたかも、自分自身をいけにえとして献げている救い主の目と合うのである。
  時代が下るにつれて、祈願はキリストに向けられる傾向が見られるが、しかし、我々は何とかそれらは順不同であることを一度に感じる。典礼の言葉は向けられている顔は、御父の御顔である。けれども、あらゆる時点で、顔合わせがなされるのは、キリストの生きた場であり、辿っていくのはキリストの道である。どこに目を当てても、見えてくるのはキリストの啓示における真理である。キリストの生き方、死と復活が、すべてを新たな次元に引き上げる原動力である。キリストの生きた現実が、聖性の生き方のモデルであり、物腰である。我々はそれにゆだね、それにおいて生きるべき、ものの本質である。聖霊は、キリストとの一致と御父への動向、両方を遂げるための原動力であり、そのために我々に送られているのである。
  以上のことは極めて重要である。キリスト教的生き方の原理そのものである。それは特に意識時に自分自身を強制しないほど真であり、基本的なことである。我々はほとんどそれに気づくことない、誰かがいつかそれらを作成する必要性を感じた、後の時代の祈りに目を向けるまでは。だが、突然我々は窮屈に感じる、最も重要な事柄は人目につかない。最も重要な事柄が、空気や光、空間と時間の配置や我々が立っている地点、また我々の特定の出発点からゴールへの道(訳注:  方向感覚)が、生活の先験的な部分であり、それについて考えることなく、我々はそのうちに生活している。それらが、どれほど本質的であるか、それらを失うまで気がつかない。
  上記のキリスト教的生き方の原理はこれに似ている。ただ、桁違いに大きいものであり、より大きく聖性にかかわるものである。これが神ご自身が生きておられ、創造し、贖ってくださる原理であり、神の真理と愛が働く原理である。神が我々に勧めているのはこれである。我々の祈り方は、この聖なる法則を満たすようにならなければならないことになっている。
  

Wednesday, May 4, 2016

When is the future

Even though the future starts later, the way to succeed is to make the future feel connected to the present, thus requiring immediate and persistent action.
- homework
- good grades
- go to school
- staying healthy
- saving for retirement 年金の保険料

Monday, May 2, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)⑧

15 賛美の言葉

我々はまず、書簡と福音書および説教に見られる啓示の言葉を検討し、それから聖変化における主の命令を満たす、遂行する言葉を取り上げた。残るは、祈りの言葉である。その本質の大部分は知られているが、論じるべきいくつかの点がある。
  ミサにおいて祈りは現れるのは第一義的に、賛美や讚歌という印象的に形態である。開祭の少し後にある「栄光の讚歌」と呼ばれる大頌栄(しょうえい),または名誉の讚歌もその一つである。ベツレヘムの生誕に対する天使たちの賛美で始まり(ルカ2・14)、神の栄光を誉める言葉で続き、それから連禱のようなものに切り替え、神的三位一体の至聖の位格、特にキリスト、が嘆願される。そして、三一の神のみ名の荘厳な賛美で終わる。
  「叙唱」と呼ばれるミサの部分も賛美である。これは、ミサの最も重要な祈り、聖変化を含む典文への導入である。叙唱の荘厳さを思わせるのは、その前句である。そこで、司祭と会衆が交互して、相互の霊的高揚を刺激し、強めるのである。叙唱そのものが、天の父への敬意で始まる。その敬意は、いつも独特のもので、それぞれの祝日で祝われる神秘によって異なる。また、神の威光をたたえる天使の聖歌隊に加わった後に、「聖なるかな」の礼拝で終わる。「聖なるかな」という祈りの前半は、ケルビムの唇から聞いた、イザヤ預言者の幻からとられている(イザヤ6・3)。後半は、エルサレム入城するイエスを描く福音書からとられている。そこで、子供達は歓喜して道でイエスにその言葉を大声で叫んだ(マタイ21・9)。
  ある祝日においては、セクエンツィア(「続唱」)と呼ばれる、さらなる賛美が使われる。これらは書簡と福音書の間にはさみ込まれる。これは、祝日の中心的出来事の讚歌的宣言である。主な続唱は、復活祭、聖霊降臨の主日、ご聖体の主日に見られる。
  賛美は昇階誦にもよく見られ、時折、入祭唱、奉納唱、集祷文(短いアレルヤの点在する祈り)のある形式にも現れる。これらの祈りは書簡と福音書のテーマと絡み合っている。
  これらの賛美は、詩篇書や旧約新約における賛美の歌の延長線上にある。霊気のある人間が、神の偉大さ、栄光、すごさ、愛と熱情の経験であふれ、神に憧れ、神を誉め、礼拝しながら、その全能性を宣言する。賛美する人は栄光のうちに行き、その特別な雰囲気において喜んでいる。賛美の動機は様々であるが、すべての共通点は霊的高揚と神的栄光の輝きにある。賛美において人間の祈りは日常生活の世界から最も遠いところにある。
  この高みの感覚は、叙唱の前句に特に現れる。そこで、司祭と会衆はいかなる低いもの、卑しいものから離れ、高く昇るように助け合っている。まず、お互いに神の力を望む。「主は皆さんとともに」と司祭は祈る。会衆は、「また、司祭とともに」と答える。
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訳注:  Et cum spiritu tuo. 直訳すれば、「また、あなたの霊と共に」となる。この短い対話形式(「主は皆さんとともに。またあなたの霊とともに」)はルツ記の2章4節とテモテへの第二の手紙4章22節から取られ、おそらくキリスト教徒はこの形式を直接シナゴーグから取ったのであろう。例えば、聖ヒッポリトス(100~165)の中に、キリスト教徒は非常に早い段階からこの受け答えをしていたという明確な証拠がある。
英語圏では会衆の挨拶が「またあなたとともに(And also with you)」から「またあなたの霊とともに(And with your spirit)」に変わらなければならなくなった。 英語圏では2010年11月の待降節から、よりラテン語規範版に忠実な翻訳となったミサ典礼書を使用している。ちなみに、ラテン語の「Et cum spiritu tuo」は世界の主要言語では以下のように翻訳されている。いずれも「spirit」を汲み取った訳になっている。

フランス語 "Et avec votre esprit."
イタリア語 "E con il tuo spirito."
スペイン語 "Y con tu espiritu."
ドイツ語  "Und mit deinem Geiste."
ロシア語  "И со духом твоим"
中国語   「也與你的心靈同在」

 日本語のミサ典礼書では該当箇所は「また司祭とともに」になっている。たしかに日本語として聞いた時に違和感を感じるものではないが、この日本語訳にはラテン語原文の面影は薄く、それ故に他の外国語の祈りとも共通点が見出しにくい。ミサの重要な会衆の応答句であるから、早く世界の流れに歩調を合わせた翻訳を日本のカトリック教会関係者に期待するという意見がある。

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  神がその民を力づけ、司祭の霊とともにいて下さるよう求められる。霊とは、この場合は知性ではない。同時に親密性と高揚であり、そこから愛と礼拝と熱意の動きが始まる。それから、司祭が呼びかける、「Sursum corda.  V. 心を高めよう。心を挙げよ。」会衆は答える、「Habemus ad Dominum.  R. 主を仰いでいます。」その上に新たな呼びかけが来る。「V. Gratias agamus Domino Deo nostro. V. 神に感謝を捧げましょう。我らの神なる主に感謝しよう。」答えは、「R. Dignum et justum est. R.それは、ふさわしく正しいことである。」叙唱の出だし自体はこの最後の言葉とつながる。
「まことにふさわしく、正しく、私たちの義務であります、聖なる主、全能の父、永遠の神よ、何時いかなる場所においても私たちの主キリストによってあなたに感謝をささげることは」。
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訳注:  現在の典礼では、「まことにとうといたいせつな務め」となっている。
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以上の数句においては、賛美の祈りの独特な味が特に明白である。感謝である。感謝される理由は、美しいもの、何か有用なギフトではなく、存在全体という祝福である。啓示によって正体を現した、神の栄光、神の公現に対する人間の応答である。
人間が森羅万象のゆえに創造主に感謝する、すべてが創造主からの賜物であるから。天地創造の贈り物である自然の命、贖いの贈り物である超自然的いのち。これらに対して感謝をささげるという態度ほど、狭さと自己中心性から最も離れたものはない。心の花を咲かせることであり、存在の幅全体、有り余るほどの真理を抱擁する愛である。
  「栄光の讚歌」において最も美しい表現がある、「主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る」。ラテン語の原文は "gratias agere"となっている。原意は「感謝する、尊敬する、好意を寄せる」ということである。ギリシア人とローマ人たちは、特に誉めたのはmagnanimitas (雅量、大度、広量)、自由な気高い生き方であった。その態度は、ここで神との関連で現れている。直訳すれば、「私たちは貴方の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る」となる。人間関係にでさえこういう感じ方が見られる。「あなたに感謝している、何かしてくれたからではなく、私のことを思っているからでもなく、あなたがいるだけでありがたいから」。このような愛は、不可思議な偉大さに至っている。実は、愛する者の存在に対する感謝は、別の方向に、その人の両親か神かに、向けるべきである。美しいナンセンスであるが、神に感謝を向けるというナンセンスは、実は最も意味深いことである。なぜなら、神は、存在そのものであり、「在りて在る者」(出エジプト3・14)であるからである。すべての存在者の中で、神の存在にのみ価値があり、愛の完全な表現だからである。人間は、神の栄光に揺さぶられて、その愛のゆえ感謝する。
  賛美の歌を通じて深い気持ちが流れている。個人的な経験から生じる気持ちとは違う。その気持ちの持参人は個人ではなく、全体であり、教会共同体である。教会とは、個々人の信者の総和以上のものであり、全員を包む巨大な制度以上ののものである。聖パウロと聖ヨハンは教えているように、教会とは強大な有機体であり、キリストの神秘体に生まれ変わった人類である。そこに個々人の信者は鼓動する細胞である。従って、讚歌においては語っているのは教会である。
  思い切って言うならば、賛美の歌は表している喜びが教会共同体だけのものではなく、神ご自身のものでもある、と言えるかもしれない。だって、聖パウロは聖霊ご自身が「言葉に表せないうめきをもって」(ローマ8・26)執りなしてくださる、と言うではないか。これは、すべての祈りに当てはまるのであれば、賛美の祈りに当てはまるのは間違いないであろう。旧約の詩編書は預言者的情熱から流れ出た。新約における詩編は聖霊降臨の火から流れ出た。使徒たちの言行録と第一コリントは、聖霊の嵐にような吹き方の力強さを証ししている。従来の思想と言語を乱すほどの力強さであった。こうして、どもりと叫びしか聞こえなくなった。ところが、パウロは別の箇所で、このような噴出的な表現を控えるように教えている。嵐とどもりよりも、真理と内的鍛錬によってコントロールされた透明な言葉の方が高く歌うのである。信仰者がみずからの情熱を「霊的な歌」(一コリ12、エフェソ5・19)に注ぐべきである,と。教会の賛美の歌はその様な霊的な歌から流れ出た。父なる神がキリストの名においておくってくださる喜びと霊的高揚感は躍進し、父に戻る。この聖なる高登りという感覚は、復活徹夜祭のロウソクを聖別するときに歌われる復活讚歌(Exultet[エクスルテット])を通じて、翼のように羽ばたいている。また、栄光の讚歌やその他の賛美の歌にも感じられる。
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訳注:  エクスルテットは、ラテン語では、高く飛び上がる、沸き上がる、にえたつ、はしゃぎ回る、歓声を上げる、という意味である。「天の天使たちの群れよ、すでに喜び踊らんことを、天主の神秘らよ、喜び踊らんことを、かくも偉大な王の勝利のために救いのラッパを響かせんことを!」天における天使たちのこの上ない喜びを、地上で真似するような設定となっている。『典礼聖歌』の復活賛歌は、大きく分けて4つの部分からなっている。
あいさつの前まで。復活の喜びを世界にのべ伝える部分。助祭と会衆の応答。
あいさつの後。神とキリストによる過越しの叙述。叙唱と同じ構造。助祭の独唱。
「この夜」で始まる4つの部分。過越しの夜の叙述。会衆の賛美。
以後、最後まで、過越しの叙述。神の愛による罪の清めと、ろうそくによる、キリストの光の賛美。助祭の独唱。最後は、栄唱と同じ構造による。
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  啓示する言葉が、我々に平静的に聴く態度と敬虔的な専心を求めている。聖変化の遂行する言葉が、恭(うやうや)しい態度と参与を求めている。賛美する言葉が、我々に求めているのは、我々自身のものとなることである。それに我々のベストを尽くすこと、あるいは我々自身を与えること。賛美に押し流されること。己の狭さとケチさを卒業出来るように真の祈りを学ぶことである。
  繰り返しになるが、前日に、またはミサが始まる前に、栄光の讚歌、昇階唱、叙唱などに目を通すことが、ミサ聖祭のための良い準備となる。これらの賛美の祈りは生きたものとなり、そこに含まれる高揚感を理解し、練習することができるようになるためである。
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付録

栄光という言葉は、旧約聖書の出エジプト記や詩編、イザヤ書、エゼキエル書などにとくに多く現れる。聖書全体では、367回現れる。この栄光という言葉の原語(ヘブライ語)は、カーボードという。原意は、「重い」という意味を持つ。聖書の内容は力あり、重みがある。
 澄み切った大空、夜空のきらめく星を見つめ、宇宙へと心を向けるとき、はるか古代から人々はそこに神の重みを実感してきた。人間においても子供や、大人であっても精神的に浅い人間は、軽く感じる。他方、人生の中で幾多の苦しみや困難を乗り越えてきた人には独特の重みを感じさせるものがある。その人には存在感がある、その存在感が認められる。
愛とは、正義とは、生きる目的とは、罪とは何か、また命とは何か、死とは、歴史とは創造とは、そして世界の終わりにはどうなるのか…等々の古代から最も深遠な思想家や宗教が問題にしてきたことがぎっしり聖書に詰まっているのである。
 そのような重みの背後にある、究極的な存在こそは、あらゆる深い経験や苦しみの彼方にある神ご自身であり、この世界や宇宙全体を創造された神はまことに何よりも重い存在である。命は地球より重いと言われることがあるが、地球どころか全宇宙そのものより重い存在、すべての人間の命を集めたものよりはるかに重い存在が、それらを創造された神にほかならない。
 このゆえに、つぎのように旧約聖書の詩集(詩編)で最も有名な詩の一つが、神の重み(栄光)を歌っているのである

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編一九編より)

 私たちの現代の言葉では、栄光と重みのあることとは全くといってよいほど関係していない。パウロのつぎの言葉も栄光と重みとが関連して述べられている。

わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる。(Ⅱコリント四・17)

 人間はいとも簡単に命を失う存在である。小さな鉄の球(弾丸)一発でも死ぬ。交通事故においても一瞬にして帰らぬ姿となってしまう。そのようなはかない、軽い存在であっても、神はここでパウロが述べているような、不滅のもの、永遠なる神の重み(栄光)を与えて下さるというのは、驚くべきかとである。私たちが苦しみを神への信仰によって乗り越え、導かれていくとき、そこに神の栄光の世界がどこまでも広がっていることであろう。