17 会衆と正された不正
[典礼における]「会衆(congregation)」という言葉は、信心深くてうやうやしい人々であっても、多くの人々の集まりを意味しない。なぜなら、真なる会衆の本質、つまり同時に力づけ、誠意を込めた、一致させる性質が、そのグループに欠けているかもしれないからである。キリストは会衆を次にように定義した。「二人または三人がわたしの名によって集まるところは、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18・20)使徒言行録は、聖霊降臨の後の日々についての記述でより詳しく述べている。「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」(使徒2・46-47)
こう言うことであるから、会衆は成立するのは、信仰によって導かれ、キリストの神秘体のメンバーであることを意識する人々は、聖なる神秘を祝うために集うときである。この条件が揃っているときでさえ、成立は自動的ではない。自動的に見える幾つかの例外がある。例えば、圧迫されるニードや強烈な喜びが自発的にすべての人々の心を満たし、一致させるようなことである。
ーーーーーー
訳注: 例えば、地震が起こると、皆一致団結して助け合う。阪神タイガースが勝つと、ファン全員が喜ぶ。
ーーーーーー
あるいは、ある先生の気の利いた言葉が聴衆の心を動かし、本物のキリスト教的一致を起こす。そのとき、ばらばらの個々人が、同じ原動力に動かされ、同じ目標に向かう一つの大きな体となる。例外はあっても、原則として会衆が成立するのは、各自がそれを欲するときのみである。
助けとなることがたくさんある。会場の荘厳性、オルガンの音楽、神の言葉の力強さ、聖なるセレモニーの熱心さと神秘性などなど。ところがこれらが助けに過ぎない。自動的に働くことではない。個人の責任という観点から言えば、それらは肝心なことでさえ保証できない。なぜなら、以上のような助けがなくても、会衆の成立が可能なはずであるからである。パッとしない環境、最も貧弱な音楽、あるいは音楽なし、下手な聖書朗読、すべての可能な人間の欠点が付きまとう奉仕などでも、会衆の成立が可能である。なにより、会衆が成立するためには、信者は会衆とは何かを知る必要がある。そして、知った上でそれを望み、それに達するために積極的に努力しなければならない。
山上の説教において主キリストが次のようにおっしゃる。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタイ5・23ー24) これは意味するのは、あなたがミサに行くとき誰かに対して不正を行ったと思い出して、そしてその人はあなたに対して恨みを持っているなら、あなたは別に何もないかのように、ただ単に教会に入ることはできない、ということです。なぜならば、その場合あなたは入っていくのは、建物だけであり、会衆ではないからである。会衆はあなたを受け入れないだろう。なぜなら、あなたはそこにいるだけで会衆を破壊するからである。
会衆は、人と人をむすび、同時にまた神と人をむすび、人と神をむすぶ聖なる結束性である。会衆は、キリストにおける一致、聖霊の交わりの中で、キリストの御父のみ顔の前で、「人々の間に」生きるキリストにおける一致である。けれども、もしあなたが兄弟に悪事を行ったならば、そして彼があなたに対して恨みを抱いているなら、二人の間で壁が立ちはだかって、あなたを一致から排除してしまう。あなたの立場から見ると、会衆は成立しなくなる。会衆を回復させるのは、あなたの責任である、兄弟との妨害を無くすことで。
あなたは、山上の説教の神的単純さによる勧めに従うのは簡単ではないと思うかもしれない。ただ単にすべてをさて置いて、悪事を正すためにその人のところに行き、それから戻ってくる。これは単純すぎる、と直ちに思ってしまうべきではない。我々が思うよりもはるかに多くを行うことができるはず。我々はより頻繁に信じる心の単刀直入に従って行動すれば、我々のブルジュアー的な信仰生活、水増しされた信仰生活はより強くなるだろう。ただ行って、愛と悔い改めと広い心が求めることを行えば、どこに問題があるというのか。軽率さを勧めるつもりはないが、ただよく考えることは、時と場合によってむしる行うべき善の障害となり得る、ということだけ言いたい。多くの場合は、必要な、真に自由に導く行為は可能であるのは、最初の衝動のパワーと勢いによってのみである。
ともかくも、誰かに恨みを持たれていると知っている人は誰であれ、一つできることがある。彼は自分自身に約束することができる、できるだけ速やかに不正を正すという約束を。正直な意図は、兄弟の間の壁を壊すために十分である。すると、直ちに一致させるエレメントは解放されて、新たにすべての当事者に触れることができるようになる。孤立させる不正は正されるや否や、会衆は回復される。
イエスの言葉は、逆にとることもできる。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟に対して反感を持っているなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」という風にとることができる。この場合、不満を持つのはあなたである。今や、あなたははるかに直接的に行動することができる。この場合、肝心なことは、疎外された当事者による実際の合意に依存することなく、たった一つの条件、あなたのゆるしにかかっているのである。あなたが恨みを持ち続ける限り、その恨みの妥当性は如何様なものであれ、あなたの立場からすると、真なる会衆は成立しない。正直に誠実にゆるしてあげなさい、すると、聖なる和は再び成立する。おそらくこれは、一度にすべてのことはうまいことに行くと限らない。ときには、失望と反感はすぐに本物のゆるしを可能にするために、大きすぎるかもしれない。その場合、あなたができる限りのゆるしを与え、それからゆるす心を増してくださるように神に願いなさい。
実は、本物のゆるしを与えるのは人間ではない。敵をゆるす掟は、次のように言い換えることができる。「あなたがあなたの敵をゆるせるのは、キリストが十字架上でご自分の敵をゆるしたからである、と思い知りなさい。あなたのゆるす心を創るのはキリストである」、と。
主キリストが求めるゆるしは、人間のゆるしとは異なる。人間のゆるしとは、打算に過ぎないかもしれない。「ほっておけ、役に立たない」。または、無関心からくるかもしれな。「(それは)何が問題なのだろう」。あるいは、偽りの好意かもしれない。そのタイプの好意は敵意のうらにすぎないのだが。それとも、戦い抜く自信のない臆病などなど。キリストのゆるしは異なる。それは、神の愛が我々の中に足がかりを得て、そこから神の子供たちの間で新しい秩序を創造されることである。従って、あなたが神のために、そして神の諸秘儀のために愛の掟に従おうとするとき、神の愛に根ざした人々の会衆が花を咲かせるように、神が可能にしてくださる。
ーーーーーーー
付録
「捧げものをしようとしているときに、あなたの兄弟に恨みがあると気づいたら、捧げものを祭壇の前に置きなさい」(マタイ5:23-24)
アウグスティヌス。ここで言われていることは文字通りとるなら、兄弟は立ち会っているときにこうすべきであると、誰かが思うかもしれない。というのは、「祭壇の前に置きなさい」と命令されているからには、長く先にのばすことできない。もし兄弟は不在なら、それは海の彼方にいるかもしれないので、祭壇の前で置いた後に、海を渡って大陸を渡ってから神に捧げものをすると思うのは不条理である。この不条理をさけて理解するために、霊的意味に訴えるべきである。従って、祭壇の意味を霊的にとって、信仰であると考えることができる。神へのいかなる捧げもの、学問、祈り、その他何であれ、信仰なしには神に喜ばれることはない。従って、もし兄弟を傷つけたなら、和解に向かうべきである。それは、体の足でではなく、魂の運動で、捧げものを捧げるべき方の御前で、謙虚で心を込めて兄弟の前でひざまずく。こうして、兄弟が立ち会っているかのように、見せかけではないように傷を宥めることができる。そして、「戻ってきて」つまり、し始めたことに注意を向き直し、捧げものを捧げることができる。(トマス・アクィナス著、Catena aurea: glossa continua super Evangelia, 第 1 巻、caput 5, lectio 14)