Friday, August 23, 2013

2 lent B

Genesi 22

Il punto più emozionante del dialogo — a cui si aggiunge Dan, un amico giornalista ebreo e ateo — giunge con il disvelamento del sacrificio di Abramo. Al Dio (Elohim, nel testo ebraico) che sembra esibire un’arbitrarietà pu- ra, perché si presenta ad Abramo chiedendogli il sacrificio del fi- glio, si contrappone un altro Dio (Yhwh, nel testo ebraico) che gli trattiene la mano, segnando la fi- ne dei sacrifici cruenti. Tutto l’episodio viene di conseguenza interpretato come una sorta di vaccinazione spirituale, così de- scritta da Simon: «La Genesi racconta che si può arrivare al vero Dio credendo in quello fal- so, e che un po’ alla volta si può passare dal sacrificio assurdo all’alleanza di vita».

un libro della psicanalista francese Marie Bal- mary, uscito nel 2005 (Paris, Édi- tions Albin Michel) e nel 2008 pubblicato in Italia dalle Paoli- ne: Il monaco e la psicanalista.

Osservatore romano 24 agosto 2013


wə·hā·’ĕ·lō·hîm, וְהָ֣אֱלֹהִ֔ים  God

mal·’aḵ מַלְאַ֤ךְ  the angel  Yah·weh יְהוָה֙ of the LORD


創世記 / 22章 1節

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
2
神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

11:創世記 / 22章 11節

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
12:
御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
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四旬節第二主日B 
創世記(22:1-2,9a,10-13,15-18)
使徒ペトロの手紙(Ⅰ3:18-22)
マルコ(9:2-10) 
これは不思議な出来事です。福音には不思議なことが多いが、病人が癒される、目の見えなかった人の目が開かれ、おおぜいの人をわずかのパンで養われ、といったことですが、これらの不思議なわざと比べれば、なにか違う不思議さです。読み方によっては、なにかおとぎ話でも見ているかのような、かぐや姫が月に帰っていくような、そんな感じの不思議さを覚える人がいると思います。 
どうして聖書にこんなことが書かれているのだろう、という疑問がわいてきます。どうしてこんなことが書かれているかと言えば、それはこの出来事が確かに起こったから書かれているのだということになります。しかしやはりその不思議さから、聖書の解説を書いている本の中には、「実際はこんな出来事は起こらなかったのだ」と書かれている本もあります。それによると、それがなぜ書かれているかというと、「イエスが神の子であることを教えようとして」このような話を作り上げたのだ、と考える人もいます。しかしそれはもちろん、人間が勝手に「そんなことはありえない」と思うだけであって、聖書にはたしかに記されているのです。それに、ペトロの驚きぶり、あわてぶりには、生々しいものがあります。モーセとエリヤがイエスさまと共に現れた時、ペトロは「わたしがここに小屋を三つ建てましょう」などと、取り乱したようなわけの分からないことを言っています。リアルにですね。またイエスさまが神の子であることを宣伝しようというのなら、むしろこのようなおとぎ話のような、あまりにも現実とかけ離れた出来事を聖書に書き記すというのは、かえって逆効果のように思われます。 
 そうすると、わたしたちはこの出来事が確かに起こった出来事として受けとめた時、ではいったいこの出来事は何を意味しているのだろうか、という疑問を持ちます。 

ペトロ、ヤコブとヨハネを連れて、山に登ったイエス様。3人の弟子たちの前で、変えられていきます。顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなる。そこにモーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていたと言うのです。いったいどんな話をしていたのでしょう。並行するルカ福音ではエルサレムで遂げようとする最期について語りあっていたと記されています。
 
イエス様とエルサレムでの最期について語り合っていたこの二人の預言者と、ではどんなふうに語り合ったのでしょう。
 神様の命令に従ってエジプトの魔術師との戦いに勝って、エジプト脱出を指導したモーセ。神と顔と顔を合わせて見たと言われるモーセでしたが、兄や姉の妬みを買い(民数12)、神の御心を人に伝えるにあたっては、いつも民の頑なさと反抗に遭い続けなければなりませんでした。エジプトから逃れた喜びより、「まだエジプトの奴隷生活のほうがましだ」という不平を聞き続けなければなりませんでした。それでもなんとか約束の地にまで導くことのできたモーセでしたが、モーセ自身は、民の罪の身代わりとしてか(民数20:12)、ついに自分はその地に入ることができないまま、死んでしまいます(申命34)。
 
一方エリヤがいる。バアル神に仕えていた450人もの偽預言者とカルメル山で、生け贄を捧げた薪(たきぎ)に火がつくかどうかで戦いました。この戦いに勝って、偽預言者たちを滅ぼしたエリヤ。しかしこのことで命を狙われます。いつも神と共にいて、偽預言者たちと戦い、打ち勝ったエリヤ。そのエリヤさえ、この時は恐れて逃げ回るだけです。そして自分の命が絶えるのを願ってつぶやきます。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」(I列王19:4)。これが450人もの偽預言者と戦って勝ったエリヤの、人に知られない一面でした。死なないまま火の戦車に乗って天に挙げられた(II列王2)と言われるエリヤの孤独な姿でした。
 
モーセもエリヤも、もう神に従うのはつらい、こんな思いをするくらいなら、死んだほうがましと思うほど、人間としての自らの弱さを抱えた人でした。そしてまた群集のうつろいやすさ、すぐに心変わりをしてしまう人間の心の弱さを、よく体験した人でもありました。イエスも人間となった以上、人間としての弱さと無縁ではありませんでした。そのイエスが、同じ体験を人間としていやと言うほど受けたモーセやエリヤから励まされたとしても、けっしておかしなことではありません。
 
 ペトロは変容した姿、太陽のように輝く顔、光のように白くなった服にごまかされました。この白く光り輝く3人を記念して、幕屋を建てようと思いました。このようにペトロはまだ知りませんでした。この光り輝いた服を着た3人が、それぞれの形で、苦難を通ったものである、これから通るべきものであることを。
 
黙示録にはこう記されています。
「長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたし が、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難 を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」。(黙示7:13f)
 
モーセとエリヤとイエスの変容。そのためには、血で自らを洗う必要がありました。そしてモーセもエリヤもイエスも、恐るべき闇と裏切りと絶望と血の中を通って、やっとこの栄光に辿り着いたのでした。
 イエスはペトロたちに言います。「ペトロ、お前はこの栄光に辿り着くまでの私たちのことをまだ何も知らない。それは恐るべき裏切りと死と、それに打ち勝つ復活によってやっと辿り着くものなのだ。だから軽々しく人には話すな。ペトロ、お前が本当にこの栄光の私たちのことを分かるのには、まだまだ本当に自分のことを知って、絶望し、そして赦されることが必要なのだ。そのことをまだお前は何もわかっていないのだから。そして私がペトロ、お前に知っておいてほしいのは、『起きなさい。恐れることはない』ということなのだ。いつかお前は本当の自分の姿を知り、打ちひしがれて、絶望するだろう。しかし恐れるな。私はお前の信仰がなくならないように祈っている」。
 
私たちもまだペトロのように、ただの栄光、輝きに惑わされがちなものです。神に最もよく従ったこれらの白い衣を着た者たちほどの苦難は、まだ体験していないのだと思います。だからこそ、聖人たちの取次ぎを願いながら、楽な道ばかりでない、回心の歩みをしていきましょうと今日の福音書は促していると思います。

病気になる、あるいは事故などで突然入院するということは、幼子のような弱い立場に置かれるということでもあります。自分の無力さに歯がゆい思いをすることもあるでしょう。そこでは自分で自分を支えることができなくなる。自立した存在であることができなくなる。人々のお世話にならざるを得ないことを自覚する。自分が何の役にも立っていない、周りに迷惑ばかりかけている、恥ずかしい存在でしかないということをはっきりと自覚させられる。
日常生活の中の葛藤・悩み・痛み・十字架を背負う時、すべてを神の御手に委ねるなら、御変容の輝きが見えてきます。毎日の生活の中での「タボール山」、「高い山」は神の無償の恵みです。私たちの信仰を強め、希望を生かし、愛を燃え立たせるためです。私たちが神から慰めを受けることによって、兄弟・周りの人々を慰めることができるようになります。私たちが力を失うことなく、また、マンネリに陥ることのないように、今日、キリストの変容の中に神の国の前触れ、永遠のいのちを味わうことができますように祈りたいと思います。




Monday, August 5, 2013

主の変容 B

主の変容 B (2006/8/6 マルコ9・2-10)

これはわたしの愛する子。これに聞け (マルコ9・7より)

 主の変容
  イコン  フェオファン・グレク作
   モスクワ トレチャコーフ美術館 14世紀末

<今週の表紙絵から> 
  フェオファン・グレク (1330頃-1415)はビザンティン帝国で活躍し、後にロシアに移住。ノヴゴロドで活躍した。伝統的な形式に従いながらも、静寂(せいじゃく)主義と呼ばれる東方神秘主義の深い精神性をこめた多くの作品を残した画家である。
   この変容のイコンも基本型に従いつつ、とりわけ「光」の神秘に対する深い感覚を示している。一見して目を引くように、白色の微妙な濃淡を含む球形の光輪とその鋭角的な閃光の重なりがイエスの姿を包んでいる。この発光色と区別がつかない色合いでイエスの衣が描かれ、なおかつ衣のひだも細かく描き分けられている。「服が真っ白に輝き」の描写のもとに、これほどに繊細に神の栄光を表現した画家の目の深さと技の高さを思わずにはいられない。イエスの背後の光から三人の弟子に光線が向かっている。イエスを仰ぎ見ている弟子がペトロである。イエスの右側はモーセ(十戒の石板を抱えている)、左がエリヤ(洗礼者ヨハネの描き方と似ている)であろう。両人の上の雲の中には小さく天使が描かれている。二人が神から遣わされたことを強調するものと思われる。二人の立つ岩山の下にイエスが三人の弟子たちの山を上る場面(左)と降りる場面(右)が描き込まれていることも興味深い。http://www.oriens.or.jp/Fnext.htm

モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとこの2人が話し合っていた内容は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9・31)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきを明確にしています。
 ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、この光景のあまりの素晴らしさが消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょう。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光のときではなく、受難に向かうときだからです。マルコ福音書は、ここで弟子の無理解を描こうとしているのでしょうか。

ペトロは感激と興奮のあまり、あわてふためいて、この3人のために仮小屋を三つ建てましょう、と言いました。わたしたちも、モーセやエリヤが自分の家に訪ねてきたら、驚き感激し、「とりあえずお上がり下さい」と言い、よければ「泊まっていってください」と言うでしょう。ペトロは正直な人ですね。そしていろいろ会話を交わしたいでしょう。
 ところがそのペトロの願いは空しく、たちまち光り輝く雲が3人を覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者、これに聞け」という声がしました。父なる神の声のようです。そして、気がつくと主イエスしかおられなかった。つまり、神は、ご自分の愛する子であるイエスさまに聞けばそれで足りる、とおっしゃったのです。
http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat112.html

  (4) 雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40・34-38参照)。雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1・11)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエスは、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。この受難の道も神の愛する子としての道であることが示されるのです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18・15参照)。受難予告で「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8・34)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。

  (5) イエスの変容の姿は、受難をとおってイエスが受けることになる栄光の姿でした。それはイエスの受難と栄光を実際に経験する前の弟子たちには理解できないことだったでしょう。弟子たちがこの出来事の意味を理解できるようになったのは、復活後のことでした。ところで、今のわたしたちにとっては、イエスの受難も栄光も、もうすでに知っていることです。苦しみの先に栄光が待っていると知っているから、わたしたちは今の苦しみを耐えていくことができるのでしょうか。それだけでなくむしろ、どんな苦しみの中でも、神とのつながり・イエスとのつながりを感じることができる、だからこそ、イエスと共に「神の愛する子」としての道を歩むことができる、とも言えるでしょう。
 八月は、かつての戦争の悲惨な出来事を思い起こす時期になりました。そして今もこの世界の平和を脅かすさまざまな出来事があって、人々の心を不安にさせているかもしれません。そんな中でわたしたちは、「これ(イエス)に聞け」という言葉をどこまで深く受け取ることができるかが問われているのではないでしょうか。
http://tokyo.catholic.jp/cgi-bin/MT/archives/2006/08/index.html