ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)⑦
14 行為遂行的言葉
神のみ言葉が典礼全体に行き渡るように、ミサ全体にも浸透している。書簡や福音書、または主の祈りのような、ミサのある最も荘厳な部分において述べられるみ言葉が、大きな箇所が切り取られたかのように、丸ごと聖書からとられたものである。
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訳注: 典礼において朗読されるために聖書から選ばれた抜抄は、専門用語としてpericope (ペリコペ)と呼ばれる。これは、ギリシア語の言葉で、「切り取る」という意味である。あたかも、生きた身体から一部分は切り取られるかのようなイメージ。
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入祭唱、奉納唱、集祷文などは、聖書の各書からとられた文で構成され、その日のミサのテーマを強調させる。書簡と福音書のつながりを示す昇階誦と詠唱についても同じことが言える。
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訳注: 昇階曲(しょうかいきょく;昇階唱あるいはグラドゥアーレとも。英: Gradual、羅: graduale)は、カトリック教会のミサ曲の1つ。第二朗読(使徒書)を読んだり歌ったりした後のアレルヤ唱(四旬節中は詠唱[Tractus])の前に歌われる。昇階曲はミサに固有であり、ミサの音楽の項目が集積されている本(ラテン語でGraduale Romanumと呼ばれる)に参照できる。
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最後に、ミサの様々な祈りにおいて、先行する朗読箇所からの言葉や参照は繰り返し唱えられ、それらの聖なる力で全体を強化する。
ミサの心臓部である聖変化となると、主の言葉が格別な性格をもっている。パンとぶどう酒は聖祭のために準備される奉納の儀に続いて、すべてより最も重要な祈りがある。奉献文(ローマ典文)である。
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訳注: 現在のミサで「第一奉献文」と呼ばれる祈りは、ラテン教会の最も古い奉献文であり、以前のミサでは唯一使われたものである。三、四世紀に遡り、13世紀に最終的な形を受け取った。
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奉納の上に唱えられる教会の最後の祈り、聖変化をこい願うQuam oblationem (このささげものを)の後、次の言葉がある。
「主イエズスは受難の前夜、とうとい手にパンを取り、天に向って全能の神 ―その父― あなたを仰ぎ、感謝を捧げて祝福し、割って弟子に与えて仰せになりました。皆、これをとって食べなさい。これはあなたがたのために渡される私の体である。食事の終わりに同じように、とうとい手に杯を取り、また、感謝を捧げて祝福し、弟子に与えて仰せになりました。皆、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる、新しい永遠の契約の血である。これを私の記念として行いなさい。」
以上の言葉は、福音書の報告と第一コリントの手紙からとられている。これらの言葉は、出典のように、それら以上に印象的に、制定当時の起こったことを伝えている。
けれども、注意深くみると、言い回しのちょっとした変化に気づく。司祭が聖書の記述を読みあげることによって、起こったことを報告するだけではなく、起こったことを行うのである。司祭の言葉が聖書の表現、「感謝を捧げて」に限るものではない。今や、こうなった。「天に向って全能の神 ―その父― あなたを仰ぎ、感謝を捧げて」。実は、神に言葉が向けられている。そして、司祭が「パンを取り」と言いながら、祭壇の上にあるホスチアを実際に持ち上げ,「感謝を」という言葉で頭を下げる。こういうわけで、肝心な文「これは私の体である」と「これは私の血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる、新しい永遠の契約の血である。これを私の記念として行いなさい」は新たな性格を持つようになる。
文全体が過去から現在へ、報告から実行へと移行する。単なる敬虔な記憶でなくなり、生き生きとした現実となった。カリスの聖別という時点で、我々は特命のために準備されていた、「信仰の神秘」。初代教会では、司祭がエウカリスティアを定める言葉を小さい声で述べていた間は、助祭は声を上げて敬虔に「用心!信仰の神秘!」と呼びかけた。我々はこの意味で、主の言葉を受け止めなければならない。けれども、主の言葉が命をもってはね返る完全な意義がもっともはっきりとするのは、最後の文においてである。「これを[行う度に]私の記念として行いなさい。」
ここでもまた、聖書の言葉に何かが起こる、書簡や福音書、主の祈りや栄光の讚歌には起こらないこと。後者の場合、聖書の神のことばは朗読され、宣言され、聴かれる。司祭と会衆はそれを受け止め、神への祈りとして送り返す。聖変化では、言葉が生きた現在となる。かつて、キリストによって語られた言葉が、新たに語られる。それは、ある一定の時間から生まれる新しい言葉、従ってその時と共に過ぎ行く言葉としてではなく、来歴のある、キリストゆかりの言葉として、新たにされ、現在の一部分となった言葉としてである。
この「記念」は、かつて主が使徒たちに話されたことを会衆は思い出すことではない。主の言葉を生かし、具体的に効果のあるものにすることである。
後ほど詳しく論じる予定であるが、論点は非常に重要なので繰り返しになっても問題ないと思う。イエスがこの言葉で達成したことは、彼の神的全能性の他のすべての証明と異なる。ここでイエスは、神の国への奉仕のために天地創造の力を起こしただけではなく、受肉と復活のように、新しい創造の土台をおいていたのである。
これらの言葉が、かつて宇宙を存在に呼び出したのと等しいものである。ところが、その創造的役割は、一回のみ話された夜にだけではなく、そこからいつまでも、あるいはパウロが言うよう「主が来られるときまで」(一コリ11・26)、続くことを許すのは主のみ心であった。この言葉が、最初に働いたことを達するために、時間がある限り幾度も折々歴史全体に響き渡るように発せられたのである。このために、キリストはこの言葉を弟子たちに残した時に、次のように命じた。「これを[行う度に]私の記念として行いなさい。」
従って、司祭が言葉を口に出すとき、単なる報告ではなく、言葉自体が昇り、創造する。このところで当然、我々は単に人の話を聞いているわけではない。確かに、言葉を述べるのは司祭であるが、言葉自体は彼のものではない。司祭が持参人に過ぎない。しかも、彼が言葉を持参するのは、彼個人の信仰ゆえに、あるいは敬虔さゆえに、道徳的強さのゆえにではなく、職務を通して、主の指示に従うための職務を通してである。真の発話者がキリストであり続ける。キリストのみがその様な言葉を語ることができる。司祭が、単に自らの声、心、意志、自由を主に貸してあげている。司祭が演じる役割は、洗礼の水に似ている。洗礼において新しく生まれることが、水の自然的性質によってではなく、キリストの力によってもたらされる。洗礼を授けるのはキリストであるように、ミサの場合も話すのはキリストである。
我々の態度はこれに合わせるべきである。ただ単に敬虔に聞くとか、受け止めるとかの様な問題ではない。また、文字通り達成され売る様なことでもない。前者は物足りないが、後者は明確に身にあまる。聖なる言葉が述べられる間に助祭によって発声られる、感嘆詞のような言葉が当を得たヒントをあたえている、「信仰の神秘!」。この呼びかけは、最も深い真剣さの展開、神の最愛を宣言し、我々から進んで信仰を奮い起こし、それを承諾し参与するようにせまるのである。
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付録
言語行為(げんごこうい、英: Speech act)は、言語学および言語哲学における専門用語である。
ジョン・L・オースティンの『言語と行為』などの研究成果により、哲学者は宣言的な言語使用以外にも目を向けるようになった。彼が導入した用語(「発語行為; locutionary act」、「発語内行為; illocutionary act」、「発語媒介行為; perlocutionary act」)は後の「言語行為論; speech-act theory」で重要な役割を担うこととなった。しかし、広い意味での「言語行為」を扱ったのはオースティンが最初というわけではない。初期の研究として、秘跡に関連した教父やスコラ学者の業績がある。
発語内行為の興味深い例として、オースティンが遂行的(performative)と称した発語内行為がある。例えば、「私は、ジョンを大統領に任命する」、「禁固10年を命じる」、「必ず返しますから」などの発話である。遂行文では一般に、文に記述(宣告、約束)された行為はその文を発話することそのものによって行われる。
オースティンの言によれば、「発語内行為」とは「何かを言うことで何かを行う」ことであり、聖職者が結婚式で「私は今、あなたがたを夫婦と宣言する」と言うようなことを指す。
挨拶、謝罪、何かを描写すること、質問に答えること、質問したり命令すること、約束することなどが、典型的な「言語行為」ないし「発語内行為」の例である。
「注意しろ、地面が滑り易くなっているぞ」 - 他人に注意するよう警告する言語行為
「夕食に間に合うよう全力を尽くすよ」 - 帰宅時間を約束する言語行為
「紳士淑女のみなさん、ご静粛に」 - 聴衆を静かにさせようとする言語行為
「あそこの建物で、私と競争しませんか?」 - 挑戦する言語行為
参考文献
How to Do Things with Words, (Harvard University Press, 1962).
『言語と行為』坂本百大訳、大修館書店、1978年。ISBN 4469210722
「キリスト教は単なる『よい知らせ』ではありません。すなわち、単にこれまで知られていなかった内容を伝えることではありません。現代の用語でいえば、キリスト教のメッセージは『情報伝達的』なだけでなく、『行為遂行的』なものでした。すなわち、福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです」 (ベネディクト16世回勅『希望による救い』2)