Wednesday, April 20, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)⑦

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)⑦

14  行為遂行的言葉

神のみ言葉が典礼全体に行き渡るように、ミサ全体にも浸透している。書簡や福音書、または主の祈りのような、ミサのある最も荘厳な部分において述べられるみ言葉が、大きな箇所が切り取られたかのように、丸ごと聖書からとられたものである。
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訳注: 典礼において朗読されるために聖書から選ばれた抜抄は、専門用語としてpericope (ペリコペ)と呼ばれる。これは、ギリシア語の言葉で、「切り取る」という意味である。あたかも、生きた身体から一部分は切り取られるかのようなイメージ。
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  入祭唱、奉納唱、集祷文などは、聖書の各書からとられた文で構成され、その日のミサのテーマを強調させる。書簡と福音書のつながりを示す昇階誦と詠唱についても同じことが言える。
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訳注:  昇階曲(しょうかいきょく;昇階唱あるいはグラドゥアーレとも。英: Gradual、羅: graduale)は、カトリック教会のミサ曲の1つ。第二朗読(使徒書)を読んだり歌ったりした後のアレルヤ唱(四旬節中は詠唱[Tractus])の前に歌われる。昇階曲はミサに固有であり、ミサの音楽の項目が集積されている本(ラテン語でGraduale Romanumと呼ばれる)に参照できる。
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最後に、ミサの様々な祈りにおいて、先行する朗読箇所からの言葉や参照は繰り返し唱えられ、それらの聖なる力で全体を強化する。
  ミサの心臓部である聖変化となると、主の言葉が格別な性格をもっている。パンとぶどう酒は聖祭のために準備される奉納の儀に続いて、すべてより最も重要な祈りがある。奉献文(ローマ典文)である。
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訳注: 現在のミサで「第一奉献文」と呼ばれる祈りは、ラテン教会の最も古い奉献文であり、以前のミサでは唯一使われたものである。三、四世紀に遡り、13世紀に最終的な形を受け取った。
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  奉納の上に唱えられる教会の最後の祈り、聖変化をこい願うQuam oblationem (このささげものを)の後、次の言葉がある。

「主イエズスは受難の前夜、とうとい手にパンを取り、天に向って全能の神 ―その父― あなたを仰ぎ、感謝を捧げて祝福し、割って弟子に与えて仰せになりました。皆、これをとって食べなさい。これはあなたがたのために渡される私の体である。食事の終わりに同じように、とうとい手に杯を取り、また、感謝を捧げて祝福し、弟子に与えて仰せになりました。皆、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる、新しい永遠の契約の血である。これを私の記念として行いなさい。」

以上の言葉は、福音書の報告と第一コリントの手紙からとられている。これらの言葉は、出典のように、それら以上に印象的に、制定当時の起こったことを伝えている。
  けれども、注意深くみると、言い回しのちょっとした変化に気づく。司祭が聖書の記述を読みあげることによって、起こったことを報告するだけではなく、起こったことを行うのである。司祭の言葉が聖書の表現、「感謝を捧げて」に限るものではない。今や、こうなった。「天に向って全能の神 ―その父― あなたを仰ぎ、感謝を捧げて」。実は、神に言葉が向けられている。そして、司祭が「パンを取り」と言いながら、祭壇の上にあるホスチアを実際に持ち上げ,「感謝を」という言葉で頭を下げる。こういうわけで、肝心な文「これは私の体である」と「これは私の血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる、新しい永遠の契約の血である。これを私の記念として行いなさい」は新たな性格を持つようになる。
  文全体が過去から現在へ、報告から実行へと移行する。単なる敬虔な記憶でなくなり、生き生きとした現実となった。カリスの聖別という時点で、我々は特命のために準備されていた、「信仰の神秘」。初代教会では、司祭がエウカリスティアを定める言葉を小さい声で述べていた間は、助祭は声を上げて敬虔に「用心!信仰の神秘!」と呼びかけた。我々はこの意味で、主の言葉を受け止めなければならない。けれども、主の言葉が命をもってはね返る完全な意義がもっともはっきりとするのは、最後の文においてである。「これを[行う度に]私の記念として行いなさい。」
ここでもまた、聖書の言葉に何かが起こる、書簡や福音書、主の祈りや栄光の讚歌には起こらないこと。後者の場合、聖書の神のことばは朗読され、宣言され、聴かれる。司祭と会衆はそれを受け止め、神への祈りとして送り返す。聖変化では、言葉が生きた現在となる。かつて、キリストによって語られた言葉が、新たに語られる。それは、ある一定の時間から生まれる新しい言葉、従ってその時と共に過ぎ行く言葉としてではなく、来歴のある、キリストゆかりの言葉として、新たにされ、現在の一部分となった言葉としてである。
  この「記念」は、かつて主が使徒たちに話されたことを会衆は思い出すことではない。主の言葉を生かし、具体的に効果のあるものにすることである。
  後ほど詳しく論じる予定であるが、論点は非常に重要なので繰り返しになっても問題ないと思う。イエスがこの言葉で達成したことは、彼の神的全能性の他のすべての証明と異なる。ここでイエスは、神の国への奉仕のために天地創造の力を起こしただけではなく、受肉と復活のように、新しい創造の土台をおいていたのである。
   これらの言葉が、かつて宇宙を存在に呼び出したのと等しいものである。ところが、その創造的役割は、一回のみ話された夜にだけではなく、そこからいつまでも、あるいはパウロが言うよう「主が来られるときまで」(一コリ11・26)、続くことを許すのは主のみ心であった。この言葉が、最初に働いたことを達するために、時間がある限り幾度も折々歴史全体に響き渡るように発せられたのである。このために、キリストはこの言葉を弟子たちに残した時に、次のように命じた。「これを[行う度に]私の記念として行いなさい。」
  従って、司祭が言葉を口に出すとき、単なる報告ではなく、言葉自体が昇り、創造する。このところで当然、我々は単に人の話を聞いているわけではない。確かに、言葉を述べるのは司祭であるが、言葉自体は彼のものではない。司祭が持参人に過ぎない。しかも、彼が言葉を持参するのは、彼個人の信仰ゆえに、あるいは敬虔さゆえに、道徳的強さのゆえにではなく、職務を通して、主の指示に従うための職務を通してである。真の発話者がキリストであり続ける。キリストのみがその様な言葉を語ることができる。司祭が、単に自らの声、心、意志、自由を主に貸してあげている。司祭が演じる役割は、洗礼の水に似ている。洗礼において新しく生まれることが、水の自然的性質によってではなく、キリストの力によってもたらされる。洗礼を授けるのはキリストであるように、ミサの場合も話すのはキリストである。
   我々の態度はこれに合わせるべきである。ただ単に敬虔に聞くとか、受け止めるとかの様な問題ではない。また、文字通り達成され売る様なことでもない。前者は物足りないが、後者は明確に身にあまる。聖なる言葉が述べられる間に助祭によって発声られる、感嘆詞のような言葉が当を得たヒントをあたえている、「信仰の神秘!」。この呼びかけは、最も深い真剣さの展開、神の最愛を宣言し、我々から進んで信仰を奮い起こし、それを承諾し参与するようにせまるのである。
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付録

言語行為(げんごこうい、英: Speech act)は、言語学および言語哲学における専門用語である。
ジョン・L・オースティンの『言語と行為』などの研究成果により、哲学者は宣言的な言語使用以外にも目を向けるようになった。彼が導入した用語(「発語行為; locutionary act」、「発語内行為; illocutionary act」、「発語媒介行為; perlocutionary act」)は後の「言語行為論; speech-act theory」で重要な役割を担うこととなった。しかし、広い意味での「言語行為」を扱ったのはオースティンが最初というわけではない。初期の研究として、秘跡に関連した教父やスコラ学者の業績がある。
発語内行為の興味深い例として、オースティンが遂行的(performative)と称した発語内行為がある。例えば、「私は、ジョンを大統領に任命する」、「禁固10年を命じる」、「必ず返しますから」などの発話である。遂行文では一般に、文に記述(宣告、約束)された行為はその文を発話することそのものによって行われる。

オースティンの言によれば、「発語内行為」とは「何かを言うことで何かを行う」ことであり、聖職者が結婚式で「私は今、あなたがたを夫婦と宣言する」と言うようなことを指す。

挨拶、謝罪、何かを描写すること、質問に答えること、質問したり命令すること、約束することなどが、典型的な「言語行為」ないし「発語内行為」の例である。
「注意しろ、地面が滑り易くなっているぞ」 - 他人に注意するよう警告する言語行為
「夕食に間に合うよう全力を尽くすよ」 - 帰宅時間を約束する言語行為
「紳士淑女のみなさん、ご静粛に」 - 聴衆を静かにさせようとする言語行為
「あそこの建物で、私と競争しませんか?」 - 挑戦する言語行為

参考文献
How to Do Things with Words, (Harvard University Press, 1962).
『言語と行為』坂本百大訳、大修館書店、1978年。ISBN 4469210722


「キリスト教は単なる『よい知らせ』ではありません。すなわち、単にこれまで知られていなかった内容を伝えることではありません。現代の用語でいえば、キリスト教のメッセージは『情報伝達的』なだけでなく、『行為遂行的』なものでした。すなわち、福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです」 (ベネディクト16世回勅『希望による救い』2)

Sunday, April 10, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)➅

13  啓示のことば

ミサ聖祭は行為ではあるが、無言のままで行われるのではなく、することと話すこととを組み合わせたものである。様々な異なった種類の言葉を含み、それらの違いに気づき、それぞれの使われ方の区別を学ぶことは、ミサに対する理解だけではなく、典礼における効果的な参加にも助けとなるだろう。
  まず第一に、啓示[聖書]からの言葉がある。それらの言葉で神が自らの姿を示し、神がこの世をどのように見ておられるかを教える。ご自分のみ旨を示し、約束を与えてくださる。それらは聖書に含まれる言葉であり、主の記念の聖祭において我々はいたるところそれらに直面する。ミサの前半は、まさにほとんど話で構成されている。行為は、最も単純な動き、一定のジェスチャーと立ち位置、または象徴的な場所から別の場所に移動することに限られている。
  書翰と福音書の朗読箇所は、直接に聖書から取られている。前者の呼び名が示唆するように、使徒たちの書翰だけではなく、使徒言行録と旧約の諸文書から選ばれたものである。後者も、呼び名の通り、主の生涯の報告書、つまり諸福音書から取られている。聖書朗読の延長戦に説教がある。説教は、神のみ言葉を解説し、詳しくつながりを述べ、適応し、生き方に当てはめるためにある。神のみ言葉を直接にではなく、むしろ説教の担当者の個人的な意見や人間的な考え方を表している分は、説教はその本質的性格を失うだろう。
  神のみ言葉は偉大なる神秘である。み言葉を通して神ご自身は語るが、その語り方は人間達の話し言葉においてである。これとは異なる、もう一つのコミュニケーションの形態があると思われる。所謂、「純粋に神的」な形態。それで神が、話し言葉という媒介を通してではなく、内面からのみ動かす思い、音にならないが直接に把握される思いを通して、魂を照らし導く形態である。
  このようなタイプのお便りは、他人に伝達されることはない。それを受けた人だけに当てはまるのである。啓示と言われるものは、それとは異なる。啓示は、あらゆる時代のあらゆる人間のためにある。従って、人間の精神世界を成り立たせる形態、つまり話し言葉という形態をとる。啓示も、すべての話し言葉のように、思いと音との、純粋に人間的な混成物である。神の知恵が、人間コミュニケーションのこうした手段に置かれたのである。いかなる時でも、そこから取り出して吟味され得るのである。その時、神の知恵とそれを含む言葉が有機的統一物として扱う必要があある。
  単なる自然的言葉でさえ、聞こえる音から切り離して、それだけで扱うことはできない。なぜなら、霊魂は身体にしがみ付いているように、言葉もその音にしがみ付いている。
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訳注: 「言は肉となった」(ヨハネ1・14)参照。
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この統一物は、今や言わば新たな「霊魂」、つまり神的なもの、の身体となる。それは、霊魂身体をすでに持った人間が恩恵で満たされるのと似ている。恩恵はその人間を新たにし、より高度な存在者にさせる。聖パウロに描かれた「新しい創造」または「霊的人」である。
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原注:  一コリ2・15, エフェソ2・15。
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  神のみ言葉は、形色と音調を備えた丸ごとの言葉としてとらえる必要がある。その言葉が表す理解可能な概念にのみ注目することは愚かなことである。根のない草のような知的理論に成り下がってしまう。実は、言葉というのは驚くべき現実である。形色と内容、意義と愛、理解と心、深みのある生き生きとした丸ごとである。我々はそれを省察し、知識として受け取る不毛な情報ではない。人格のレベルで出会うべき現実である。我々は、み言葉をこの世のものとしてその性格を丸ごと受け止め、その独自のスタイルと心像をも受け止め保存しなければならない。そのようにしてみると、その力が発揮される。種まきの譬えにおいて主ご自身が、み言葉をよい土を求める種に譬えている。命を生み出し、発展させ、成長させる力を持っている。従って、我々はアイディアを把握するように知性でではなく、土が麦の粒を受けるように、受け取らなければならない。
  世界は、神の言葉によって創造されたと聖書は言う。神は言われた「…あれ」と。我々もその言葉によって創られている。啓示において神が与える言葉を聴くことのできる存在者として創られた。また、み言葉を聴くことによって新しい始まり、恩恵の新しいいのちに招かれるものとして創られた。み言葉に出会うたびに、我々は神の創造する力に出会う。み言葉を受け入れることは、可能性の聖域に入ることであり、新しい人間、新しい天と新しい地が始まろうとしている瞬間に立つことである。
  概念を受け止め、掟を理解するだけでは不十分である。彼方からやってくる他力に心もマインドも開かれる必要がある。
  神のみ言葉が、従って、知性にだけではなく、人間全体に向けられている。神のみ言葉には人間的側面があり、それは人間のマインドと血、魂と身体と生きた統一物になろうと求めている。人間が、人間全体が神のみ言葉の意義全体、形と口調全体、ぬくもりと力全体を受け入れなければならない。種まきの譬えが求めているのはそういうことである。
  聖なる言葉は、「読書される」のではなく、「読んで聞かせる」ものでなければいけない。色と形式は、話に置き換えてではなく、眼を通して我々に届くように、聖なる言葉は眼を通してではなく、耳を通して我々に届くようになっている。届き方と内容は切り離すことはできない。活字となって黙って読書される言葉は、音質をもった丸ごとの新鮮な言葉とは異なる。活字を黙って読む言葉は縮小してしまう。活字は、鳴り響く丸ごとの言葉の乏しい代行物にすぎない。典礼における聖書朗読は、読書会のようなものと考えるならば、読書会らしく参加者は皆、司祭も信徒も、同じ書物を手に持ち、黙って文書読みに没頭する。結果は、読書会の会員共同体となる。ミサの聖書朗読は、これに成り下がることは珍しいことではない。本来は、そうなってはいけない。み言葉は、朗読書から、朗読者の唇に踊り上がり、そこから辺り一面に響き渡り、注意深い耳に聞き取られ、熱心な心によって受け止められる、ということになっている。
  以上のことに対して、典礼は外国語(ラテン語)で祝われていて、そうはいかないではないかと反論されるだろう。その支障を乗り越えるために、説教の前に書翰と福音書は国語で読み直される。が、それは一時しのぎで、主日にのみなされるのが現状である。週日や多くの主日には、参列者は祈祷書を頼りにしなければならないきらいがある。み言葉はミサ聖祭の始めから、聴衆全体に同時に届くのは本来のあり方である。が、今日の典礼の事情では、それは不可能となっている。
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訳注: グアルディーニはこれを書いているのは、第二ヴァティカン公会議の25年前(1939年)で、当時のミサ典礼はラテン語であった。
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  にもかかわらず、現状を生かすように手を尽くすべきである。何よりもまず、国語で朗読される時に、注意深いマインドと受容力のある心と魂で聴く必要がある。聴く言葉は何回も聴いたことのあることは多いので、このような心構えはますます必要になって来る。耳にタコができたほどの状態なので、簡単に印象づけられることはないだろう。我々は、例えば山上の説教やイエスの譬え話やパウロの書翰についてよく知っていると確信しているので、朗読されるときは、「結構だ、結構だ、よし分かった」と、あたかもそういうようになってしまいがちである。我々は、こういう態度を乗り越えなければ、我々の魂は、無数の足や車輪が通った舗装されていない道、極めて硬くなって種の一粒たりとも受け容れることのできない道のようになってしまうのである。
  毎日変わる、季節固有または祭日固有(入祭唱、奉納唱、拝領唱)の聖書引用は、短くてその意味は受け取りにくいかもしれない。それらはより広い箇所(たいてい、詩篇からだが、聖書の他の部分からもある)から取られていて、それらを調べ、全体を黙想することがためになる。書翰と福音書もより広い箇所で読み、文脈を把握し、難解のところについて注釈を考慮に入れるべきである。聖書の箇所は聖堂で声を出して朗読されるときに、我々は極力注意深く聴くようにすべきである。口から出る言葉には、インクの言葉より力強さがある。
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付録

(森一、『神のやさしさの中で』, 女子パウロ会、1985年、27ページ以下、一部変化)

Sunday, April 3, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)⑤

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)⑤

12   聖なる行為    

時空の聖なる次元の考察に続いて、その次元において行われることを、つまりミサという行為自体を、この時点で取り上げるのは理にかなったことであろう。しかし、ミサについて本書の第二部で詳しく考察する予定であるから、ここでその一側面だけ、つまり行為の本質を取り上げれば足りるだろう。
  敬神的(religious)行為はさまざまな起源を持ちうる。現代人としては我々は最も望んでいるのは、直接的な体験であろう。一定のグループの人々は、死にそうな危険から、たった今救われたとしよう。彼らは内なる促しによって、じっとして動かない、脱帽をしたり、あるいはそれに似たような真剣なジェスチャー[お辞儀]をするだろう、神に尊敬または感謝を表すだろうということは想像に難くない。彼らの行為は、その時点でのみ、彼らに限って可能、彼らの体験に対する直接的な表現である。別の場で繰り返されるならば、直ちに不自然で恥ずかしいことになるだろう。
  敬神的行為は、定期的に起こること、意義のある出来事の意識からも生じうる。例えば、放課後、さまざまな出逢い、一日の中の摂理的な出来事、死という長い夜の先触れである睡眠という暗闇に入る前に。これらの瞬間に、立ち止まって、我に帰って、自らの創造者の手に自分をゆだねるのは自然なことである。このような内的促しに気づくことを学んだ人であれば、誰でもそうするだろう。一日の始めにも似たような促しがある。朝起きる時も人は何か敬神的なことをする必要を感じる。しっかり立ち、来たる一日の中で神から期待されることを受けて立つような気持ち。年末年始にも同じような、やや強化された気持ちが起こる。このような行為は、状況が変わっても、さまざまな条件のもとで繰り返されうるのである。なぜなら、それらは、たった一回の体験からではなく、実生活の再起するリズムから湧き出るからである。
  最後に、敬神的行為は制度化されうる。つまり、一定の行為は妥当な義務とされうる。権威を持つ者だけが、正真正銘な妥当性を制定することができる。神は、エジプトからの脱出の時に、奴隷制からの解放は年毎に過越祭に記念されるべきと命じた時に、そのようなことをなさったわけである。
  キリストは、最後の晩餐で過越祭の記念の間に、第二の記念、ご自分の死の記念を制定した。キリストのおん父のみ旨との一致、その生き方と救いの定め、その生きたメシア的使命、これらすべてがパンとぶどう酒の上に語られたことば、そして食べ物の分かち合いに、ことごとく表現されている。それから、彼は弟子にこれをいつまでも繰り返すように指導した。「これらのことをするたびに、私の記念としてそれをしなさい」。これは、まさに制定である。キリスト教的礼拝の核心である。
  神が過越を記念することを定めた時に、エジプトからの以前の解放を記念する祭りに定まった日にいけにえを捧げるように命じた。この行為は、人間に可能な事柄のうちであるが、その真の意義は神的指導から受けている。
  キリストによって制定された行為の本質は異なる。キリストは、「毎年、決まった日に集まり、友情のうちに食事をしなさい。その際、長老たちはパンとぶどう酒を祝別し、私を思い出すだろう」とは言わなかった。そのような行為は、人間に可能な事柄のうちであり、神からのものが祝われる出来事だけであり、つまり過越祭に似たものとなる。
  キリストは違うことを仰った。「これをしなさい」は、「つい先に私がやったこと」を意味する。けれども、キリストがやったことは、人間に可能な事柄のうちではない。それは、神の行為であり、創造の行為又は受肉の行為のように、不可思議に神の愛と全能性から湧き出た行為である。そのような行為をキリストが人に託すのである。「そういうことが出来るようになるために神に祈りなさい」と言わずに、単に「しなさい」と仰る。こうして、神だけ満たすことのできる行為を人間の手に任せるのである。この神秘は、すでに考察された聖なる時間と空間の神秘に似ている。人間が行為する。しかし、その人間的な行為の中に神の行為がある。それは、人間の営みすべてに神が現存し、我々の現実、生きるための知恵と力、志しは全てが神から来る、というような一般論的な意味だけではない。それは、特殊的な、特定の歴史の中の行為である。ここで、「制定」という言葉にはユニークな、特別な意義がある。神が決定し、宣言し、制定した。人間の方は実施する立場である。人間はそれを行うたびに、神がその行いをもって、神にしか出来ないものにする。
  行為の神的本質に対して、人間側に欠かせない一定の姿勢、一定の態度がある。最初の体験の新鮮さが伝わるために、個々人が何が起こっているかを意識しなければならない、そしてそれを表現する活気を持たなければならない。その表現には信憑性、気力、正真正銘性がなければならない、言葉と身振りにおいて迫力がなければならない。行為は定期的にもどる時と季節と有意義的関連させられるために、参加者はその関連の本来性とその背景にある神秘を感じなけれなならない。時のあらゆる変化を通じて、妥当であり続ける表現を持たなければならない。
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訳注: 修道院などの平日のミサは、たいてい朝早く行われるが、主の晩餐の「晩餐性」という性格を持たせる必要がある。復活祭は春分に近い満月と関係があるが、南半球においては秋となる。
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行為が制定された行為となるために、もう一つが必要。創造的経験や繰り返され得る表現ではなく、日常生活においてその意義を絶えず実現化することでもなく、制定した方のみ旨に聞き従うことである。人間の役割は、主に聞き、その命令に従うことである。それは、奉仕である。個人の経験のいかんやその意義に対する理解のいかんに依存しない奉仕である。人間の自立した人間的行為ではなく、神的企ての引き受けである。その神的企て自体が、この世における場を準備し、この世における協力体制を組み立てる。言葉の最も深い意味で、
「無私」の行為である。が、それを通して人間が真の自己に到達する。それがために、ミサという行為は、何回でも、ありとあらゆる状況、一般的状況であれ個人的状況であれ、霊的豊かさの時も、霊的危機の時も、苦しい時や悲しい時、あるいは自由を味わう時、喜びの時、いつでも繰り返すことができるのである。