Wednesday, June 15, 2016

世界のうえで捧げるミサ

テイヤール・ド・シャルダン著作集5、『神のくに・宇宙讃歌』、宇佐美英治・山崎庸一郎訳、みすず書房、1968年、171頁以下

世界のうえで捧げるミサ
    
主よ、いまふたたび[…]、アジアの大草原のただなかで-パンも葡萄酒も祭壇もないままに、わたしはこれらの象徴を立ち超えて、実在そのものの浄らかな荘厳さへと高まりゆきたいと思います。私ほあなたの司祭として、地球全体を祭壇となし、そのうえで世界の営みと苦しみとをあなたに捧げたいと思います。
 かなた、明け初めた東の空のふちに陽の光りが輝きはじめました。ゆらめくその炎のたなびくしたで、地球の生ある表面はふたたびめざめ、おののき、怖ろしいほどのその労苦と取り組みはじめています。わが神よ、わたしの聖体皿(パテナ)のうえに、この新しい努力によって得られるはずの収穫をのせましよう。わたしの聖盃(カリス)のなかに、今日しばられるはずのすペての果物の汁を注ぎましょう。
 わたしの聖盃と聖体皿とは、いままさに地球のあらゆる地点から立ちのぼり、霊のほうへ集中してゆこうとするいっさいのエネルギーを迎え入れるために大きくひらかれた、一つの魂の深みにほかなりません。- 新しい一日のために光りがめざめさせつつある人びとへの想いと彼らの神秘的な現存とを、わたしのうちに来たらしめたまえ。
  ヽ
 主よ、わたしはいま、わたしの生涯の支えとして、またその自然の歓びとしてお与えくださった者たちの姿を、ひとりひとり思い浮かべ、彼らへの愛に満たされています。さらにまた、このうえなく多種多様な環境から出て、しだいに心情と学問的探究と思惟とによる結びつきをわたしのまわりにつくりあげてくれたもう一つのきわめて親しい家族の成員を、ひとりひとり数えあげています。またもっと漠然とではあっても、無名の群れをなして生ある者たちの数知れぬ集団を形づくっている人びとを、洩れなくすべて想い起こしています。すなわち、わたしのほうは面識もないのに、わたしを取り囲み、わたしを支えてくれている人びと。歩みきたり、歩み去ってゆく人びとを。なかんずく、真理のうちに、あるいは誤謬を突き抜けて、事務所や研究所や工場のなかで、事物の進歩を信じ、今日もまた情熱を傾けて光りを求めるであろう人びとを。
 混沌としていようと、あるいは判然としていようと、その厖大さがわたしたちに怖れをいだかせるざわめくこの多数 - 緩慢で単調なたゆたいがこのうえなく信仰の固い心情にも不安を投げ与えずにはおかないこの人間の大洋、わたしはいまの瞬間、わたしの存在がその深い潮騒に響きあうことをのぞみます。この一日を通じて、世界のなかで増大しようとしているいっさいのもの、また減退しようとしているいっさいのもの ー さらに死んでゆこうとしているいっさいのもの - 主よ、これこそあなたに捧げるために、わたしのうちに蒐(あつ)めようと努めているものなのです。
これこそわが犠牲(いけにえ)の供物、あなたがおのぞみになるただひとつの供物にほかなりません。かつて人びとは、あなたの神殿に、収穫(とりいれ)の初穂と家畜たちの最良のものを運び入れました。でも
あなたがほんとうに待っておいでになる奉献、あなたの飢えをしずめ、あなたの渇きを癒やすために、あなたが毎日ひそかに必要となさっている奉献はl宇宙の成長の流れに運ばれてゆく世界の成長にほかなりません。                 
  主よ、あなたのカによって引き寄せられる被造物が新しい夜明けに差し出すこのいっさいの生贄を受け入れたまえ。わたしたちの努力であるこのパンも、それ自体としては巨大な分解にすぎないことはわたしも知っております。わたしたちの労苦であるこの葡萄酒もまた、残念なことに、腐敗してゆく飲み物にほかなりません。しかしあなたは、この形をなさぬ集団の内奥に、信仰なき者から信仰あるものまで、こぞって、「主よ、われらを一つになしたまえ」と叫ばしめる、抗(あらがい)いがたい聖なるのぞみを宿してくださったのです。わたしはこのことを感じているがゆえに、はっきりと確信しております。       聖人たちの霊的熱心と至高の純粋さを欠くこのわたしに、おお神よ、あなたは幽暗な物質のなかに動くいっさいのものへの抗いがたい共感をお与えくださいましたために-またわたしは、癒やしがたく、おのれのうちに、天の子であるよりはるか他の子であることを認めておりますためにこの朝、わが母の希望と苦難とを担いつつ、思念のうちに高き場所のうえにのばりましょう。そして、わたしが信じていますように、あなたのみがお与えくださった司祭職に身を固め、人間の肉のなかで、のぼりつつある太陽のもとに生まれいでようとしているいっさいのもの、死におもむこうとしているいっさいのもののうえに、わたしは火*を呼ぶでしょう。

* 火を投ずるためにこの世に来られたキリストの火と、いけにえを焼き尽くすための火
[…]

さていまや、かかる努力のうえに、わたしの口を通じて、かの二つの有効な言葉を発したまえ。それなくしては、いっさいは、わたしたちの知恵と経験のなかで、揺らぎ、解体してしまうのです。
 また、それあってはじめて、いっさいは、わたしたちの宇宙にたいする黙想と接触とを通じて、見わたすかぎり相互に結ばれ、結合することになるのです。今日芽ばえ、成長し、花咲き、熟してゆくであろういっさいの生命のうえに、「これはわたしの体である」と繰り返したまえ。
 そして、蝕(むしば)まれ、なえしぼみ、生命を断ってゆくであろういっさいの死のうえに、(おお、霊妙な言葉の奥義よ!)「これはわたしの血である」と命じたまえ。


Tuesday, June 14, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私訳)

18 会衆と教会

教会に通う人たちは、神聖な境内に入るとき、彼らは皆特定の才能や状況、悩みや希望をもちあわせ、全くの個人として来る。それぞれが他の人に直面し、自分の立場をとる。それぞれがすべての感情によって他から隔離されている:無関心、ストレンジネス、不信感、優越、嫌い、敵意など。生存競争で、過去の善意が経験した失望によってできてしまったハード地殻となっている。
  以上は、教会聖堂に足を運び、立ったり座ったりひざまずいたりする平均的な信者の精神状態である。確かに彼・彼女には、「会衆のメンバー」という要素は、まだほとんどない。この状態が伴う愛のなさ、プライド、病んだ意志など、疑わしい、そして何と言っても良くない、これらの感情を今しばらくさておき、教会に注ぎ込まれるこの生々しい生活はどのようなものであるかを見てみよう。我々は、直面しているのは部屋いっぱいの人々、彼らのプライベート思考、感情、とそれぞれが目指すこと、つまり少し別々の世界の集合体である。立会いする彼らみんなの物腰は語るのは、「この私をどうしてくれるのか」、 またはせいぜい彼らの最も近い団体、家族、友人、扶養者の、「私たちを」というようなことである。けれどもこの「私たち」という広がりは、多くの場合、実際に広がった自尊心に過ぎないかのように見える。単数自我は生々しいグループのエゴに延伸され、まだまだ本物の会衆から程遠いものである。真の会衆は信仰と愛によって結ばれ、キリストに属する人々の集まり、神の聖なる民である。基本的に、それは、キリストのわざ、新しい創造の一種でないといけない。その新しい創造は、こんど参加者の物腰に現れるようになる。
  我々はこれを念頭においてミサの祈願を読んだとき、その中に"私は"という言葉は非常にめったになくて、決して特別な理由がない限り使われることはない、ということに気づく。各1本が自分の罪を認める場合には、祭壇の麓の祈りの中には非常に明確に発見されました。彼の個人的な責任を自覚し、個人が、神の啓示で彼の信念を公言クレド、中;すぐに原則として神聖Communion.9の前の祈りで、「私たち」が使用されます。私たちはあなたを崇拝する、私たちはあなたを賛美、あなたを賞賛します。私たちを許して、私たちを助け、私たちを啓発します。これは「私たちは "自発的ではなく、本物の会衆の慎重育て果実。
  以上のことを念頭に置いてミサの祈願を読むと、訳のある例外もあるが、ほとんど"私"という言葉が現れないということに気がつくだろう。例外は次の通り、祭壇に上がる前に一人一人が自らの罪を告白するところに明らかである。また、信仰宣言においては個々人が責任を持って、神的啓示に対する信仰を告白するところ。
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訳注: 二ケア・コンスタンチノープル信条の「われは信ず」,「私は信じます」を参照。
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そして、拝領前の信仰告白。
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原註: 以上の例外いずれもは最初からミサ聖祭にあったものではない。興味深いことに、これらのテキストは、後からいくつかの特定の、しばしば非常にマイナーな、イベントに関連して導入されている。
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原則として、「私たち」が使用される。私たちはあなたを崇拝する、私たちはあなたを賛美、あなたを賞賛します。私たちを許して、私たちを助け、私たちを照らしてください。この"私たち"は、自発的なものではなく、本物の会衆の慎重に育てた実りである。
  今、我々は肝心なところを見始める。我々は追求しているのは、何らかの共同 "経験"ではない。神の前で大勢の人が一致することにより、時折個人を押し流し、充填(じゅうてん)し、支えるかもしれない、その個人によるちょっと大げさな喜びや圧倒させる前触れ、でもない。すべての真の経験と同様に、それは与えられるか、保留されているかは、その時折の贈り物である。報いとして得られるようなものではない。ミサの場合は、経験の問題というより、身につけた技能である。与えられるというより、こちら側に必要な技能である。
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訳注: アイドルのコンサートなど、群衆心理が働くようなことではない。群衆になると暗示にかかりやすくなり、正確な判断力が失われてしまう上に心理的な感染が顕著になってくる。たくさんの人が集まる場所で火事などがおきると、一斉にパニック状態になって非常口がいくつかあるにも関わらず、同じ出口にみんなが殺到したりするケースなどがこれに該当する。
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以上の考察から教訓を得るために、共同体のメンバーといくら感じても、我々は基本的に深く自己に囚われている、徹底したエゴイストであることを考慮する必要がある。我々は共同体について語るとき、自己拡張ということになってしまうときが多い。我々は周りの総活力によって持ち上げられ、個人的な狭さから出て、にわかにいつもと違う強さや情熱を感じる。実際には、どんなに長く、どのくらいの頻度で人々が一緒になったとしても、彼らは基本的には孤独な個人である。
  コミュニティの本当の反対語は、個人とその個人主義ではない、エゴイストとそのわがままである。まず第一に克服しなければならないのは、これである。それは、しかし、頻繁にまたは長期的に集まることによってではない。心と意志を習得することによってである。つまり、他人をありのままに見て、他人を認め、受け入れること。他人の望みと心配事を我がものとし、他人のために控えめになる。そいうことによってのみ克服できる。
ところが、以上のことを遂げるためにソリチュードがなければならい。
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訳注: 孤独をおそれないで、一人で静かな時間を持つことがその人の生活を精神的に豊かなものにしてくれる。生きていくことは、時と場合によって辛いことである。しかし、辛さの中にも希望は必ずある。それに気づくことが大切である。「ロンリネスは寂しい感じにとどまりますが、ソリチュードは一人でありながら、かえって多くの深い喜びや静かな安らぎや安定感を与えてくれるものです。現代人の多くの不安と寂しさは、ソリチュードの時間がほとんどないとことからくる。いつも他人と共にいてソリチュードがないから、本当の自分を失って、本当のじぶんを分かち合うことができなくなってしまいます。一言で言えば、ロンリネスになるのはソリチュードがないからです。」   イシドロ・リバス『孤独を生き抜く』(講談社現代新書)参照。
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ソリチュードにおいてのみ我々は、自分自身を客観的に見つめ、自分の囚われから自由になれるからである。いつの日か、おそらくいくつかの特別な機会に、我々は「他の人」たちとの間に無関心、無視、敵意のどれほどの壁を作ってしまっているかを悟るだろう。ミサの前または入祭の歌の間に我々はその壁を打破するために本当に努力をしなければならない。今、我々は一緒に神のみ前にあることを覚える必要がある、会衆になるために。私と他人一般だけではなく、具体的なこの男、あそこの女の人、そして私の隣にある仲間、という風に考える必要がある。神の観点からすれば、この人たちは皆、私と同じように大切である。もしかすると、私より純粋、勇敢、より少なく利己的、気品のある、人を愛し、熱心な人たちである。私はその特長によってしか、そのジェスチャーだけ知っているこれらの人々の中で、もしかすると、偉大な、貴い魂がいるかもしれない。私は彼らと一緒にいるのは光栄ではないか。彼らの祈りは波のように押し寄せて、私を神の方に引っ張って行ってくれる。
  このようにして、我々は、我々の生活の内側の円の中に他の信者を入れて、彼らと我々の志向を関連させて、彼らと共に自分自身を神に捧げるようになる。我々は、意識的に、真剣に、典礼の「私たち」を祈る。会衆が形成されていくのは、そのような意識、真剣さからである。
    今まで、我々は神との出会いにおけるクリスチャンの「私たち」としての会衆について、つまり同じ信仰によって、相互愛によって結ばれるもののコミュニティについて話してきた。ただし、話はこれで尽きるわけではない。クリスチャンの考え方は、特定の建物の外にある人々、教会外にある人々でさえ抱いていなければならない。なぜなら、会衆とは、その人々と関係があるからである。
  会衆とは、独自の中心のある組織団体、閉鎖的なサークルではない。各会衆がいかなる日曜日の集会を超え、全体の一部である。それは、同じ都市で、同じ国で、地球全体にわたって、キリストを信じる者一人一人を包含する。いずれかの会堂で集まった会衆は、その固有の環境、奉仕、メンバーの気質、そして祝われる祭日によって影響を受けるのである。統一体であるが、開かれたものである。キリストと何らかの関連を持つ人々すべてが含まれていなければならない。

  その中心には祭壇があり、それはすべての教会すべての祭壇に当てはまる。同時に、その祭壇は世界の中心点でsる。キリストの食卓で、すべてのキリスト者が記憶され、そこに述べられる"私たち"は、すべてに属する。
  それにしても、まだ我々は底に至っていない。回心の祈りにおいて司祭と信者は自らの罪を告白する。その告白は第一義的に神に向けられている。それから、神のみ前でお互いにも向けられている。しかし、また神の母聖マリアにも、大天使ミカエル、洗礼者ヨハネ、使徒ペトロとパウロ、そしてすべての聖人にも向けられている。天の万軍のリーダーとして示されている大天使の背景には天使の世界が立っている。そして、「諸聖人」が意味するのは、通常の捉え方で歴史上の偉大な人物だけではなく、すべての救われた者たち、神の家に「帰宅」しているすべての人々である。また、ミサの他の部分でも、永遠の命に与っている人たちへの呼びかけがあり、聖変化の後に死者のための祈りのいて、未だに清めと祈りを必要としている人たちが記憶される。
    換言すれば、会衆とは、地球全体に広がるだけではなく、死の世界の境界をもはるかに超えて広がっていく。祭壇を中心に集まっている人たちの時間的地平と空間的地平は引き下がり、実際の支えとなる共同体としての、救われた人類全体を示すのである。
   完全な会衆とは、したがって、全世界の教会である。教会が礼拝という聖なる行為を支えている。ミサは、個人のプライベートな宗教的行為とは、全く異なることであるの当然と言えよう。けれども、同じ信念を共有するグループ(例えば、セクト)の礼拝行為をとってみても、比べものにならない。各ミサの背景に見え隠れするのは、普遍教会の幅全体である。その姿を心に思い浮かべ始めるために、聖パウロと聖ヨハネの言葉に耳を傾ける必要がある。そこで、この世のいかなる限界も消え、教会は救われた被造物全体と結ばれる。「新しい人」,「新しい天」,「新しい地」と呼ばれる。(エフェソ2・16; 4・24; 黙示録21・1)
   また、教会はすべての救われた者たちと森羅万象が組み合わさったようなものでもない。生きたものであり、支配しすべてに浸透する霊的キリストを中心に形成された有機体である。教会がキリストの教えを宣言し、その秘跡を授けるために完全な権限を持っている。教会に対する尊敬、または軽視に関しては神ご自身が関与してくる。ミサを支えるのは数知れない心と精神の大群だけではなく、すべての被造物の信仰と愛だけではなく、権能と責任を賦与された超自然的な社会でもある。
  我々の問題は、簡単ではないが、この様なものすごく大きな全体の中に自らの居場所を見つけることである。人間には、霊的親密性と排他性への傾向があり、以上のような偉大さや壮大さからひるむことになりがち。また、近代の宗教心による、実在的な意味での目に見える教会制度に対する抵抗もある。現代人は、宗教的職務や制度、権威や制定化に対して抵抗を感じる。我々は、いかにも主観的に傾斜し、真に宗教的と思うものは、個人の直接的な経験である。制度や権威に関しては暖まる思いを持つことはない。このあたりは、自己規律が特に必要になってくる。ミサのさまざまなテキストを分析すると、そこに「ローマ的」と呼ばれる特長が繰り返し現れてくる。その特長はまさに、正式的な制度団結、神によって与えられた権限、法と秩序の意識の上に成立する。我々は、これには違和感を持つかもしれない。以前、集会祈願を取り上げたときにも書いた様に、おそらく我々は、これは宗教心とは関係ないとさえ思うかもしれない。集会祈願は我々にとって、非常に重要な何かを表現している。我々はキリスト者として、「会衆」だけではなく、「救われた人類」だけでも、「新しい創造」だけでもなく、我々自身は「教会」でもある。したがって、我々はこの与えられた役割に同意し、それを果たすために自分自身を教育する必要がある。
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付録   世界のうえで捧げるミサ