王であるキリストC
【ルカ23:35-43十字架につけられる】
今日は王であるキリストの祝日です。今の世界の中で王様、女王様、天皇陛下のような方々がいますが、私達の毎日の生活に影響を感じることは少ないです。東京にいらっしゃる天皇陛下とその奥様皇后美智子様はやさしいご夫婦というイメージがありますす。美智子様はカトリックの聖心大学の教育を受けておられますので、すこし親近感があります。イギリスのエリザベス女王は九十歳を超えましたが今でも国民の為に力を尽くしています。チャールズ皇太子にはダイアナの問題があったときに一番つらかったといわれています。でも今ニュースで、エリザベス女王の孫(まご)、ウィリアム王子の奥様ケイト妃(ひ)はとても人気ですね。明るくてきれいなファッションで、家族のためのいい模範を表しています。昔、王様のイメージは厳しく、絶対的な権力を持っていましたので、怖かったのですが、ケイト妃はとても可愛らしい、愛情深いイメージを表しています。
王様は、大変厳しい井マージから、もっと優しいイメージに変わったのは、今日の王であるキリストと関係があります。この祝日は始まったのは、1925年からです。
その時に、ヨーロッパで二つの新しい勢力がありました。ソ連の共産主義とドイツのナショナリズムです。この二つの考え方の共通のポイントは、人々は自由な生活ではなく、偉い人々の考えの下に生活するということです。これに反対することは犯罪になります。この大変な雰囲気の中で、教皇様ピオ11世は王であるキリストの祝日を定めました。
その目的は、信者たちの一番大切な導きの王様はイエス様であるということを忘れないためです。最近、自由を奪いたいまた新しい政治的な勢力が現れています。テロです。シリアから生まれて、テロリストのグループが暴力を使い、人々に自分の考えを押し付けています。最近フランスで沢山の人が亡くなったり、シリアとその他イスラム諸国からたくさんの難民が溢れています。ですから、現在に生きている私達も、王であるキリストの祝日に希望と平和を祈ります。
わたしたちは、誰を取り上げても、完璧な立派な生き方をしていると、人前で自慢できる人はいないのではないでしょうか。限りなく“アバウト”に生きています。それだけに相手の“アバウトな生き方”にも、理解を示すことができます。事実はそうなんですが、ときどき「変な虫」が動き出すのです。
「利己主義」という虫です。相手をこき下ろし、自分を、なにがなんでも正当化していく「強烈な虫」です。 このような現実を抱えているわたしたちであっても、イエスさまからの救いへの招きに応えるのに、遅すぎるということはないのです。命があるということは、その実、応答する機会をいただき続けている事の証明でもあるからです。
ある時を見逃してしまったとしても、次のチャンスを期待し、回ってきたときに応答すればいいのです。 ルカが伝えようとしているイエスさま像(メシア)は、このことではないでしょうか。つまり、死を目の前にしたぎりぎりの瞬間でも、回心するのであれば、イエスさまはその人を「思い出してくださる」のです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。
問題はわたしたちの方です。神が忍耐強く、あわれみ深い方である一方で、わたしたちがゆるしを求めるのに「倦(あぐ)む」ことです。神は倦むことなくわたしたちをゆるして下さいますが、わたしたちはゆるしを求めることに「飽きてしまう」のです。「あわれみ深いかた」ということがどのような内容を示されるのか、じっくりと知る必要があります。 神とわたしたちの縦の軸と横の軸の真ん中にイエスさまがいて、その視線とあわれみの心のまなざしは、360度に展開されます。
王であるイエスさまの権威をもって、豊かさ、愛(いと)しみを遺憾なく発揮してくださいます。その視線の範囲の中で、わたしたちは救いへの機会をもらい続けているのです。真の王は、威張るのではなく、まさに、じっと「待ってくださる」方なのです。
“王であるキリスト”の祝日は、キリストが王であること、そして私たちがキリストの教えて下さったその“王職”に与ることをもう一度思い出す祝日です。そしてもうひとつは収穫に対しての感謝、また、「1年間ありがとうございました」という心を表すという意味を持っています。
イエス様はどのような王様だったのでしょうか。それについて簡単に要約してみます。 まず、“一致”の王様です。一致の意味は?“ひとつになる”こと、国は王の下に一つになるでしょう。 どのようにひとつであることを一致と言いますか? キリスト教が“一致”と言う時には、その中に必ず“十字架”があります。イエス様が一致の為に見せてくださった十字架があります。あらゆる団体や共同体を見てみましょう。家族の崩壊、家庭の崩壊がどの国においても見られます。夫婦が別(わか)れ、子供たちがばらばらになって、帰るところさえ探すような時代になっています。兄弟が兄弟らしくなく、色々な分裂のかたちがすぐ目に入ります。それは何故でしょうか。国がばらばらになり、社会がばらばらになり、家庭がばらばらになる。それはどういうことでしょうか。イエス様が見せて下さった一致の意味が分からないからそうなるのです。その一致を求めるには、必ず十字架を覚悟しなければならないのです。父親が父親らしく、自分に与えられる十字架を背負うべきです。母親も同じです。子供も同じです。しかしお互いにその重荷を、その十字架を拒もうとするから、いつも分裂が生じるわけです。イエス様が最後の印として見せて下さった、その十字架の意味を皆様は一回ぐらい聞いたことがあると思います。 私たちは、洗礼を受ける時に、“キリストの王職に与る”という言葉を聞いたと思います。自分はその十字架をどのくらい、喜びながら、希望を持ちながら負っているのか振り返ってみましょう。もし、皆様がご家庭の中で、色々な騒ぎやざわつく心があったら、まず自分の十字架を振り返ってみて下さい。いつも相手のことばかりを攻めようとする心があったら、結局それは自分の十字架を完全に軽んじている証拠です。 皆様よく考えてみましょう。この共同体、この教会は色々な国籍、色々な違いを持っている人々がひとつの共同体を作っています。その中で、一番きれいに一致の道を歩める方法は、各自、自分に与えられている十字架、その意味をまず分かって、そして感謝しながらその十字架を背負う心、それが一番必要であることをもう一回考えてみましょう。
Sunday, March 24, 2013
33 per annum C
年間第33主日 C
ルカ21・5-19
人々は、神殿の外装の美しさに心を奪われ、神殿の主である神を忘れてしまっている。移り変わる世の中、あらゆる物事が崩壊していく中で、見つめるべきことは「神のはからい」なのでしょう。
大切なことは、神殿が美しく飾られている栄光のとき、神殿が破壊されるとき、物事がどのように激動のうちに変化したとしても、神は常に変わることのない愛情を私たちに注いでおられます。その愛情にこそ、目をむけるようにとイエスは人々に語りかけます。パウロも「落ち着いて仕事をしなさい」と述べています。つまり、目先のことで必要以上に歓び舞い上がったり、逆に、どうにもならないと落ち込んだりするのではなく、日々の生活を心こめて、神の変わらぬいつくしみに信頼し、毎日を淡々と真心こめて生きることがキリスト者の生き方なのだと云いたいのでしょう。マラキの預言で言われているように、滅びゆく悪と罪の状態の真っ只中にあって、「義の太陽が昇ります。」神のいつくしみと公平な恵みだけが確かなものとしてこの世を照らすのです。神のいつくしみは、いつも変わることなく、あまねくあらゆる人々を照らし暖めているのです。sese07
人生には苦労も多い場合があります。国、公務員にとっては、大したことでなくても庶民には響きます。世の中には一見不都合なことが多すぎます。戦争とテロ、民族間の対立、疫病と飢餓、地球上のあるところでは日常茶飯的に起こっています。これでも神さまはいるの?といいたくなります。姫路で小さな女の子が殺された。命に関わる事件ともなりますと、精神状態までもがおかしくなります。このような状況にある人に向かって、今日のイエスさまのメッセージは意義深いと思います。
現実的にこうした苦しい状況からわたしたちは逃れることはできないのです。信仰者にとっても、神の深い愛の手の中に包まれている人にとっても、幸せの崩壊、苦しみを味わう体験はいつか来るのです。どうしてでしょうか?イエスさまがそのような中での生き方をわたしたちに見せてくださったのです。真の人間の崇高さ、幸せはどこにあるのか?こうした現実の苦しみの中にあっても、神に信頼を置いて生き抜くところに、人の価値があり、それが永遠の幸せにつながるのです、と言われます。ここに、生きていることの真の意味があります、ということでしょうか。
けれども失敗したり、挑戦もしないでいてあきらめてしまうのが、また、人間です。努力しても結果はすぐに出てきませんし、話しかけても返事は返ってこないし、・・・・・。それでも行き続けることに真の幸せを見出します。実感が湧いてきません。それでも生き続けるのです。これは人間にしかできないことだから。いつも挑戦する心と姿勢をわが身に携えましょうということでしょう。 http://mr826.net/yz/seisyo_message/archives/message/2004/0404/041114/
何か災害が起こる前に、その災害から少しでも逃れたい、それに対処する用意をしたい、あるいは、せめて心の準備をしたいと思うのは当然です。大地震が日本にいつか来るということは、避けられないことです。ですから、そのために被害をできるだけ少なくするために、その大地震がくる前の前兆を知りたい、地震予知というのが、地震学の重要なテーマだろうと思います。
弟子達がこの時、聞いたというのは、やはり自分たちがいち早くその前兆を知って自分たちは逃れたいという思いがあったから、聞くことになったのではないかと思われます。
イエスはそれに対してなんと答えたでしょうか。この21章の全体は、イエスがこの世の終わりについて述べた箇所ですが、ここはどう読んでも、はっきりしないのです。終末の前兆があるのかないのか、はっきりしないのです。
人々は「先生、では、いつそんなことが起こるのでしょうか。またそんなことが起こるような場合には、どんな前兆がありますか」と問うたのです。そこからイエスの終末についての教えが始まったのです。人々がその前兆を知りたいというとき、その前兆を知って、その災害が起こる前になんとか逃れる道をみつけておきたい、その心がまえをしておきたいというところから、「先生、ではいつそんなことが起こりますか」と尋ねたのです。つまり人々がこの世の終わり、終末ということで考えていたことは、大地震が起こるとか、戦争が起こるとか、そういう人間の歴史そのものが混乱すること、あるいは、ただ人間の世界だけでなく、この宇宙全体が破壊すること、それが終末だと思っていたのです。流れ星、隕石(いんせき)が地球に落ちるとか。
終末の前兆はあるのか、というのが人々の問いでした。人々がそのように前兆を知りたがるのは、終末というものがただなにか悲惨なことが起こる日と考えているから、その悲惨さから逃れようとして、その前兆をしりたがるのです。しかし主イエスは、終末というのは、この世の滅亡のあとに本当に救いが始まる時なのだというのです。それならば、ずるがしこく、その前兆を知ろうとするのではなく、絶えず目を覚まして神の救いの日を待ち望みたいと思うのです。そのために祈りたいと思うのです。
「神殿は、当時のユダヤ人にとては、私たちが考える以上に大事なものであり、神殿が立派であれば神の栄光が輝いている、本当に神の宮であり、神の家だというふうに考えられていた。しかし、見える面に一生懸命になれば、見えない面において貧しくなるものです。物質というものと、精神というものは特別な関係にあるものです。なにか共存しにくい面があると思う。そこに古来から宗教家が簡素な生活をして来た理由があると思います。キリスト教には修道院があり、仏教には出家ということがあるように、人間生活を厳しくすることに努めることによって、精神的な面で豊かにされていくという関係があるように思います。
イエスは、神殿がどんなに立派であっても(私たちが住んでいる社会はどんな立派であっても)、つぶれる時があると言われた。預言者エレミヤもまた同じことを言った。すなわちエルサレムの滅亡を、またその神殿の壊滅を叫んだ。そのために彼は捕らえられ、殺されそうになった。それほどまで神殿は神聖視していた環境の中で、イエスの言動は勇気の要ることであった。事実イエスが十字架に付けられたとき、この人は「神殿を打ち壊して三日のうちに建てる」(マタイ27・40)と言ったことが訴える理由になっていた。
それでは、神殿がくずされるのはいつですかと、人々は聞いた。私たちが死ぬことはわかっている。しかし私たちにその日がいつであるかは知らされていない。それは神の憐れみだと思います。(あわてる。絶望するだろうから)。それと同様に、世の終わりがあることは分かっていても、それはいつであるかはイエスは言われなかった。そこに私たちが仕方がなくしいられる信仰生活でなく、自分が信じていく、言うならば私たちが責任を持って、神の前に生きていく生活があります。いつ来るかわからない終末を、きょう終末がある、そしてきょう神の前に立つかのように生きていくところに、キリスト者の終末信仰がある。」(榎)
歴史(あるいは、人生)の中で、歴史を、なんとなく、流れに乗って生きていくのではなくて、この歴史を見据えて、神の働きの中に、恵みの働きの中に、生きる信仰者として歴史を見据え、その中に神の時の徴を見る目を与えられたいと願いながら、しかしその時の徴、具体的には地震や、戦争などが起こってくるかも知れないけれども、その先に、神がイエス・キリストにおいて約束しておられることが、神の恵みの下における世界の完成だ。破壊や、破滅ではなくて、世の終りが来て破滅するぞということではなくて、それは、まだ前の徴、前触れの徴に過ぎない。終りは、耐え忍ぶ者には、命が与えられる、命を得るということです。
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年間33主日C
終末の徴
【ルカ21:5-19 】
紀元前550年ころ、イスラエルはバビロンに征服され、ソロモンの造った神殿は破壊。主だった人々もすべて遠くバビロンに連れ去られました(バビロン捕囚)。そのユダヤ人。ペルシアにより解放され、50年ぶりに故郷の地に戻ります。そこで始めたのが神殿の再建でした。こうして新しい、しかしソロモンのものと比べると小さい、第2神殿が出来上がりました。
この第2神殿を倍に拡張し、立派なものに造り直したのが、イエス様が生まれたとき、ベツレヘム一帯の赤ちゃんを殺したヘロデ大王です。このヘロデの神殿。すべての側面が厚い金で覆われ、太陽が昇ると燃え盛る炎のような輝きを反射させた。また遠くから見ると、金の板金(ばんきん)で覆われていない箇所が純白(じゅんぱく)だったため、頂きに雪をかぶった山のように見えたと記録されています。
ヘロデ大王。実は、エドム人という軽蔑された民族の出で、残酷で、自分の子ども二人さえ、王位を狙っていると思い殺しています。奥さんもです。当然嫌われていました。しかしこの輝かしい神殿を造ったということでは、人々もヘロデを評価せざるを得ませんでした。
この神殿を、ユダヤ人は自分たちと共に永遠にあると信じていました。この崩壊をイエス様は予言し、それはやがて現実のものとなるわけです。とにかくこの話を聞いた時、ユダヤ人はとても、嫌な思いで聞きました。民族の終わり、世の終わりを感じ取ったわけです。ちょうど私たちが「南海大地震、関東大地震 必ず来る」。そう言われたときの衝撃と怖さです。「そんな時、いつ来るんでしょう」。私たちも問いたくなるでしょう。
20世紀、世の終わりを思わせる悲劇がたくさんありました。広島と長崎での原爆、ユダヤ人が600万人も虐殺されたこと、東京でサリンガスがまかれた事件、ルワンダ内戦で80万人の人が残酷に殺されたこと。ニューヨークのテロ事件、ツイン・ビル崩壊。
世の終わりを思わせるような悪に、すべて覆い隠されてしまう。そんな絶望的な中でも、イエス様の言葉にとどまり続けることのできた人がいました。
誰もが自分のことしか考えなくなっていたアウシュビッツで、身代わりとなって、人間としての尊厳を示したコルベ神父。ルワンダで自分の親兄弟を殺した人に対し、ゆるしの言葉を述べたイマキュレー・イリバギザ。
こうして絶望的な悪の中でも、人間の希望は、愛は、完全に根こそぎされることはありませんでした。イエス様は「戦争や暴動のことを聞いてもおびえるな。人間性を失うな」と言います。
こうして長崎も、ルワンダも、まったくの絶望、地獄の状況から復興してきました。
神様の愛は、悪に負けるということはあり得ません。イエス様のために憎まれ、殺されることがあるかもしれない。しかしそれでも髪の毛一本失われないとイエス様は断言します。
「殺されても髪の毛一本決してなくならない」。矛盾した言い方です。しかしイエス様は約束します。万が一、殺されるようなことがあっても、それでもイエス様を信じてとどまれ。忍耐と希望のうちにとどまれ。そうすれば確実に、永遠の命を勝ち取ることができる。
世の終わりを感じさせること。それは今も心のどこかにあります。地球規模での環境汚染。テロの世界的な拡大。原水爆、生物兵器、大量破壊兵器がテロリストの手に渡る恐れ。しかしこれからもどんなに絶望的な中でも、イエス様の徹底的な愛とゆるしを思い起こし、愛と平和、尊厳を保ち続ける人たちが、たとえ少数であってもいるでしょう。
私たちがそのようなものでありますように。けっして復讐や怒りにとらわれてしまうことがありませんように。愛と平和を保っていられますように。なぜならイエス様、マリア様がそのことを実践されたからです。そうして忍耐によって、永遠の命をかち取ることができますように。
(4) 末期ガンなどのターミナル・ケア(終末医療)への取り組みが盛んになる中で、「クオリティ・オブ・ライフquality of life」ということが言われるようになりました。迫り来る死を前にした時、いかに命の長さを伸ばすか、という「生命の量」の問題よりも、残された日々をいかに充実したものとして生きるか、という「いのちの質」が問われる、という考えです。
キリスト信者にとって「クオリティ・オブ・ライフ」の根源的なモデルは、イエスご自身の地上での最後の日々でしょう。イエスは死を目前にして最後までどう生きたか、そのイエスのいのちの輝きを見つめたときに、人はパウロとともにこう確信することができるようになるのです。
「愛は決して滅びない。…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13章8、13節)
わたしたちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けています。その終わりに向かってどう生きるかをきょうの福音は、そしてイエスの生き方はわたしたちに問いかけているのです。
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七五三の由来
日本では古来より、
3歳になると剃っていた髪をのばしはじめる「髪置の式〔かみおき〕」という儀式を
5歳には男の子が碁盤の上で吉方に向けて初めて袴を着ける「袴着の式〔はかまぎ〕」という儀式を
7歳は女の子の着物が、それまでの付け紐を取り去り、着物の脇をふさいで帯を締める「帯解の式」 「紐落し」、「帯解き〔おびとき〕」という儀式を行っていたことに由来します。
江戸中期、呉服屋がこの3つの行事を商業政策として取り入れ、1つにまとめ、江戸の町で宣伝しました。これが今日の七五三の原型だと言われています。そして武家や有力商人などの間で流行したものが、明治以降庶民に普及しました。
昔は医療1衛生的に未発達で乳幼児の死亡率が高く、成長する子供は幸運とされていました。そのため「七つ前は神のうち」といわれ、7歳未満の子はまだ神に属するものとされ、神がその運命を決めると考えられていました。そこで人々は数々の儀礼を行うことで、子供の無事な成長を祈りました。そして7歳の祝いはその不安定な時期を乗り越えた節目の儀礼であったため、特に7歳の祝いを重視する地方は多かったようです。
なぜ11月15日?
これにはいくつかの説があります。
旧暦では11月は冬祭りのシーズンに入り、次の新年に改まる直前のお祭りで、子供たちが大き<飛躍することを祈願するのにふさわしい折り目であったから、と言う説。
徳川綱吉将軍の子、徳松の成長のお祝いを行なったのが11月15日で、それが庶民にも定着したという説。
中国から伝えられた日の吉凶を占う二十八宿という方式では、11月15日は「鬼宿目」という日にあたり婚礼以外のすべ'ての物事をする日として最良の日とされていたから、という説。
など様々です。
ですが現在ではあまりしきたりにとらわれず、11/15日の前後の祝日や、お天気の良い吉日の日等、都合の良い日に行われています。
32 per annum C
年間32主日 C
【IIマカ7:1f、9-14 七人兄弟の殉教】
年間32主日 C
【わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である】
年間第9水
マルコ12:18-27
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、「ヤーウェ」という御名が啓示される前から用いられた神の名であって、イスラエルの民にとって最も古くて親しみ深い御名である。この御名の中にすでに、神が死者を復活させる方であることが示されているというのである。死者の復活の信仰はイスラエルの歴史の最後の時期になってようやく成立したものであるとされているが、イエスのような聖書理解によれば、その啓示はイスラエルの歴史の最初からすでに与えられていたことになる。それはイスラエルの盲目の故に隠されていただけで、いま神の命に直結して生きておられるイエスによって覆いが除かれ、聖書の全体が死者を復活させる神の啓示となる。
神が燃える柴の中からモーセに語りかけた時、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに死んでいた。もし神が彼ら父祖たちを復活させないで死の中に放置する神であれば、その神は「死んだ者たちの神」となる。神が命の根源であり、生命そのものである以上、神は死んだ者たちの頭ではありえない。神は生きている者たちの生命の源泉、生きている者たちの頭である。その神が「アブラハムの神」と名のられる以上、アブラハムはその神に属する者として生きていなければならない。
神様は、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神だった」とおっしゃったのではなく、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」とおっしゃったのです。
すでに死んだアブラハムが生きているというのは、彼の霊魂が存続しているという意味ではない。イスラエルにはギリシャ人のような霊魂不滅の考え方はない。生きるというのは、あくまで体をそなえた命の活動である。したがって、アブラハムが生きているということは、アブラハムの復活を前提とした表現である。神はモーセに「アブラハムの神」と名のられることによって、ご自身が死者を復活させる者であることを啓示しておられるのである。さらに、もし父祖たちが死の中に放置されるのであれば、彼らに与えると約束された神の約束は実現できない空約束になってしまう。約束に対する神の信実という観点からも、「アブラハムの神」という御名はアブラハムの復活を前提として含んでいることになる。
このように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という言葉は、伝承されたイエスの言葉(ロギオン)の中でも最も重要な言葉の一つである。このような根源的な神理解がイエスの聖書全体の理解を貫き、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という御名を復活の啓示と理解させるのである。このような理解は聖書の言葉の小手先の解釈技術から生まれるのではない。イエスが神の霊、神の力に満たされて生きておられた現実から流れ出るのである。たしかに当時の黙示文学には、復活にあずかる者たちは天使のようになり、結婚も飲食も必要でなくなるというような記述も見られる。しかし、ここに示されているような、最も古い神の名を、ひいては聖書全体を復活の啓示とするような理解はユダヤ教に類例がない。これはイエスだけが達しえた境地であろう。
この段落は、死者の復活を宣べ伝える初代教団が、それを否定する者たちとの論争を、イエスとサドカイ派との論争という形で提示したものであるという解釈がよく見られる。しかし、ここには初代教団の復活理解や表現の痕跡がないことから、イエスご自身のものとする方が適切である(エレミアス)。一歩譲って、ここに初代教団とユダヤ教側との聖書解釈についての論争の形式が認められるとしても、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」というロギオンと、そこから出る聖書理解はイエスのような方だけにふさわしいものと考えられる。われわれもイエスのこの言葉に基づいて、「死者を復活させる神」を信じ、聖書全体をこの神の啓示として理解するのである。
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あるアンケートによると、「来世も今の相手と結婚したい」と答えている男性が52%だそうです。しかし女性のほうは、「来世は今の相手とは結婚したくない」と答えている人が67.6%と、7割近くに上っています。こういう場合は、復活の時にはどうなるのか。
また、亡くなった方の棺桶(ひつぎ)の中に、家族が故人の愛用していたメガネや補聴器のイヤホンを入れたりします。故人があの世でも困らないように、という思いがあって入れるのでしょう。それはとても優しい心で、大切にしたいと思います。しかしこれもよく考えてみれば、復活の時には、やはり目は近視や老眼で、耳は遠いのか。天国でもそうなのか。
私たちには分からないわけです。神と直接に顔と顔を合わせてお会いすると書いているだけで、それ以上のことは何も分からないのです。「天使のようになるのだ」と言われても、そもそもその天使というものがどういうものなのかよく分からないし、聖書にもそのようなことは書かれていません。正直言って分からないのです。
主キリストが、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」とおっしゃるのです。それは私たちの想像を超えてすばらしいことになるに違いないのです。十字架にかかられて死んだイエスさまが、復活をなさるという、人間の想像を超えたすばらしい出来事が起こったように、です。 ですからわたしたちは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」というみことばを、希望のみことばとして受け止めることができます。私たちの神様の力は、私たちが想像する以上にすばらしいことをなさってくださるのであると。 「神よ、あなたは先に私たちを愛して下さいました。この愛に支えられる私たちが、いつも心から兄弟に仕えることができますように」(本日の集会祈願、年間週日16参照)。
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人間的な思いに囚われる私たちに、主はこう呼びかけているのではないでしょうか。下と後は見るな。前にいる私だけ見てついて来なさい。どこまで来たのか思わずに、私だけを見ていれば良い。ゆっくり ゆっくりバランスをとって一歩一歩歩けば良い。私だけ見てついて来なさい。過去に、未来に心を奪われることなく、今この瞬間私たちのために祈りながら待っている主に向かって一歩一歩進むことができますように。
年間第33土
ルカ20・27-40
大事なのは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」と言う言葉です。「人はみな神に生きるものだから」という言葉です。これはつまりすべては「神を中心にして生きなさい、神を中心にして考えなさい」ということです。すべてを神を中心にして考えるならば、神は死んだものを死にぱなっしになどは決してなさらないだろう、神を中心にして考えるならば、死人の復活は当然信じられることだし、神に生きるということを考えれば天国での生活の仕方も、この世の生活の仕方とは当然ちがったものになるだろう、だから、この世的な考えで、めとったり、とついだりする世界をかの世の世界に持ち込めないということになると思います。
復活とか、死んでからのいく世界、天国のことを考える時に、私たちはこの世的な思いを捨てて、神を中心にして考えていかないといけないということです。
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カゲロウとバッタの話があります。一日を楽しく遊んだ後、バッタがカゲロウに言いました。明日また会おうね。カゲロウはわかりませんでした。明日ってなに?今度は、バッタがカエルとある夏を一緒にすごし、カエルがバッタに言いました。来年までお元気でね…バッタは理解できませんでした。
来年、来年、らいねーんが有るのか?サドカイ派の人々も私たちも、復活を経験した人はいません。唯一経験したイエスだけが、私たちを復活へと導くことができるのです。
復活へのゆるぎない希望のうちに、今日、イエスに従うことができますように。sese06
年間32主日 C
【IIマカ7:1f、9-14 七人兄弟の殉教】
第1朗読ではただ豚肉を食べてはいけないと言うユダヤの教えを守るために、次々殺されていく7人の兄弟たち、そしてそれを見届ける母の姿が描かれます。
信仰の力強さを感じ、これに共感する人もいるでしょう。しかしこんなふうにはとてもなれない。いくら信仰とは言え、ちょっと違うんじゃないかなと嫌悪感を持つ人もいるのではないでしょうか。
私は成人洗礼で、ずっと宗教と言うものには距離を置いてきた人間でした。ですからどちらかと言えば、こういう話には警戒します。恐らく一般的な日本人は、そう感じるのではないのかと思います。明治時代、天皇を神と信じさせられて、人間天皇のために命を捨てていった若者たちの記憶。そして別の宗教への聖戦を呼びかけ、そのために死ねば、すぐ天国に入れると訴える宗教指導者。自分の信じる正義のために妻子がいながらも、自分の命を捨てて自爆テロを実行する原理主義者。
こうしたことが、宗教への警戒を日本人に植え付けます。キリスト教もイスラム教も天国を信じます。この世の生がすべてでないことを教えます。このことはよく働くときには、献身的な愛を生み出します。しかし悪く働くときには、神の名のもとで、人間のこの世の命をあまりに粗末にする結果となります。これは狂気です。宗教が、正常な感覚、この世で幸福に生きたい、人間の命は大切だという当たり前の感覚を、麻痺させてしまっているように思えるのです。
キェルケゴールと言う哲学者がいました。彼は生涯をかけて「そのために生き、そのために死んでもいい」。そのような真理を見つけようとしました。
日本人は、そのために死んでもいいような真理に警戒をします。天皇と言う神様、イスラム原理主義、多くの殉教者を出したキリスト教。そして宗教全般。しかしそうしたものを警戒した結果、「そのために生きる」。そのような真理も失ってしまいました。そしてその代わりになるものを探してきたのが戦後の日本社会だったように思えます。金や物の豊かさ、学歴、会社での出世、性的な快楽。しかしそれらはすべて、そのために生きるようなものではなく、またそのために死んでもいいようなものでもなかったのです。逆に虚しさばかりです。金儲けのため、出世のため一所懸命努力した。でもそれは何のためだったのか。その先がないのです。場合によってはそのために家族の団欒が壊されていきました。孤独になっていきました。敵ばかり増えました。真理ではなかったのです。
人間は過ちを犯します。宗教的指導者も過ちからまぬがれることはできません。
東西ドイツが一つになる前、東独の国境警備隊は、法律と命令で、西独への逃走者は銃殺せよと言われました。しかし東西ドイツが統一されたあと、その命令に従って、銃殺をした人が、裁判にかけられることになりました。彼は法律に従った忠実な警官であり軍人でした。しかしどうして、ただ西ドイツに行きたいだけの普通の市民を殺したのか。それは人間としてはいけないことだった。せめて狙いを外すくらいの憐れみをすべきだったと、統一ドイツによって裁かれたのです。
人間には「そのために生き、そのために死んでもいい」、つまり生きる目的であり、死ぬ目的。そのようなものが絶対、必要なのです。法律とか政治家、宗教家の言うこと。それ以上の確かなものが、です。
キリスト教は「何のために生きる」と教えていたのでしょうか。それは人間を創った『神を知り、神と人を愛し、神と隣人に仕え、永遠の幸福(生命)を得るため』 でした。
その神様を心の奥底から認め礼拝しましょう。キリスト教の神は、抽象的な、目に見えないものでありません。イエス様の中に具体的に姿を表しています。「私を見たものは神を見た」。
貧しくひっそりと生まれ、自分の利益を求めようとせず、人間の救いのために身代わりになって死んだイエス様。それだけでなく、復活し、永遠の命を得、また復活しても自分を憎んだ敵を呪ったりせず、限りなく愛し、赦そうとした。神様とはこのような姿だと私たちにははっきり示されています。報復とか、正義のために人を殺していいとか、そのような発想はここにはまったくありません。
イエス様に現れている人間を生かす神。それこそ私たちが、そのために生き、そのために死んでもいい、本当の真理であり、道であり、命です。それを本当に認め、イエス様の内に現れされている神様を、その教えを、明日を担う子どもたちに、自信を持って、最大の宝として伝えましょう。それが私たちの義務です。
【IIマカ7:1f、9-14 七人兄弟の殉教】
年間32主日 C
【わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である】
年間第9水
マルコ12:18-27
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、「ヤーウェ」という御名が啓示される前から用いられた神の名であって、イスラエルの民にとって最も古くて親しみ深い御名である。この御名の中にすでに、神が死者を復活させる方であることが示されているというのである。死者の復活の信仰はイスラエルの歴史の最後の時期になってようやく成立したものであるとされているが、イエスのような聖書理解によれば、その啓示はイスラエルの歴史の最初からすでに与えられていたことになる。それはイスラエルの盲目の故に隠されていただけで、いま神の命に直結して生きておられるイエスによって覆いが除かれ、聖書の全体が死者を復活させる神の啓示となる。
神が燃える柴の中からモーセに語りかけた時、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに死んでいた。もし神が彼ら父祖たちを復活させないで死の中に放置する神であれば、その神は「死んだ者たちの神」となる。神が命の根源であり、生命そのものである以上、神は死んだ者たちの頭ではありえない。神は生きている者たちの生命の源泉、生きている者たちの頭である。その神が「アブラハムの神」と名のられる以上、アブラハムはその神に属する者として生きていなければならない。
神様は、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神だった」とおっしゃったのではなく、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」とおっしゃったのです。
すでに死んだアブラハムが生きているというのは、彼の霊魂が存続しているという意味ではない。イスラエルにはギリシャ人のような霊魂不滅の考え方はない。生きるというのは、あくまで体をそなえた命の活動である。したがって、アブラハムが生きているということは、アブラハムの復活を前提とした表現である。神はモーセに「アブラハムの神」と名のられることによって、ご自身が死者を復活させる者であることを啓示しておられるのである。さらに、もし父祖たちが死の中に放置されるのであれば、彼らに与えると約束された神の約束は実現できない空約束になってしまう。約束に対する神の信実という観点からも、「アブラハムの神」という御名はアブラハムの復活を前提として含んでいることになる。
このように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という言葉は、伝承されたイエスの言葉(ロギオン)の中でも最も重要な言葉の一つである。このような根源的な神理解がイエスの聖書全体の理解を貫き、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という御名を復活の啓示と理解させるのである。このような理解は聖書の言葉の小手先の解釈技術から生まれるのではない。イエスが神の霊、神の力に満たされて生きておられた現実から流れ出るのである。たしかに当時の黙示文学には、復活にあずかる者たちは天使のようになり、結婚も飲食も必要でなくなるというような記述も見られる。しかし、ここに示されているような、最も古い神の名を、ひいては聖書全体を復活の啓示とするような理解はユダヤ教に類例がない。これはイエスだけが達しえた境地であろう。
この段落は、死者の復活を宣べ伝える初代教団が、それを否定する者たちとの論争を、イエスとサドカイ派との論争という形で提示したものであるという解釈がよく見られる。しかし、ここには初代教団の復活理解や表現の痕跡がないことから、イエスご自身のものとする方が適切である(エレミアス)。一歩譲って、ここに初代教団とユダヤ教側との聖書解釈についての論争の形式が認められるとしても、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」というロギオンと、そこから出る聖書理解はイエスのような方だけにふさわしいものと考えられる。われわれもイエスのこの言葉に基づいて、「死者を復活させる神」を信じ、聖書全体をこの神の啓示として理解するのである。
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あるアンケートによると、「来世も今の相手と結婚したい」と答えている男性が52%だそうです。しかし女性のほうは、「来世は今の相手とは結婚したくない」と答えている人が67.6%と、7割近くに上っています。こういう場合は、復活の時にはどうなるのか。
また、亡くなった方の棺桶(ひつぎ)の中に、家族が故人の愛用していたメガネや補聴器のイヤホンを入れたりします。故人があの世でも困らないように、という思いがあって入れるのでしょう。それはとても優しい心で、大切にしたいと思います。しかしこれもよく考えてみれば、復活の時には、やはり目は近視や老眼で、耳は遠いのか。天国でもそうなのか。
私たちには分からないわけです。神と直接に顔と顔を合わせてお会いすると書いているだけで、それ以上のことは何も分からないのです。「天使のようになるのだ」と言われても、そもそもその天使というものがどういうものなのかよく分からないし、聖書にもそのようなことは書かれていません。正直言って分からないのです。
主キリストが、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」とおっしゃるのです。それは私たちの想像を超えてすばらしいことになるに違いないのです。十字架にかかられて死んだイエスさまが、復活をなさるという、人間の想像を超えたすばらしい出来事が起こったように、です。 ですからわたしたちは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」というみことばを、希望のみことばとして受け止めることができます。私たちの神様の力は、私たちが想像する以上にすばらしいことをなさってくださるのであると。 「神よ、あなたは先に私たちを愛して下さいました。この愛に支えられる私たちが、いつも心から兄弟に仕えることができますように」(本日の集会祈願、年間週日16参照)。
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人間的な思いに囚われる私たちに、主はこう呼びかけているのではないでしょうか。下と後は見るな。前にいる私だけ見てついて来なさい。どこまで来たのか思わずに、私だけを見ていれば良い。ゆっくり ゆっくりバランスをとって一歩一歩歩けば良い。私だけ見てついて来なさい。過去に、未来に心を奪われることなく、今この瞬間私たちのために祈りながら待っている主に向かって一歩一歩進むことができますように。
年間第33土
ルカ20・27-40
大事なのは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」と言う言葉です。「人はみな神に生きるものだから」という言葉です。これはつまりすべては「神を中心にして生きなさい、神を中心にして考えなさい」ということです。すべてを神を中心にして考えるならば、神は死んだものを死にぱなっしになどは決してなさらないだろう、神を中心にして考えるならば、死人の復活は当然信じられることだし、神に生きるということを考えれば天国での生活の仕方も、この世の生活の仕方とは当然ちがったものになるだろう、だから、この世的な考えで、めとったり、とついだりする世界をかの世の世界に持ち込めないということになると思います。
復活とか、死んでからのいく世界、天国のことを考える時に、私たちはこの世的な思いを捨てて、神を中心にして考えていかないといけないということです。
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カゲロウとバッタの話があります。一日を楽しく遊んだ後、バッタがカゲロウに言いました。明日また会おうね。カゲロウはわかりませんでした。明日ってなに?今度は、バッタがカエルとある夏を一緒にすごし、カエルがバッタに言いました。来年までお元気でね…バッタは理解できませんでした。
来年、来年、らいねーんが有るのか?サドカイ派の人々も私たちも、復活を経験した人はいません。唯一経験したイエスだけが、私たちを復活へと導くことができるのです。
復活へのゆるぎない希望のうちに、今日、イエスに従うことができますように。sese06
年間32主日 C
【IIマカ7:1f、9-14 七人兄弟の殉教】
第1朗読ではただ豚肉を食べてはいけないと言うユダヤの教えを守るために、次々殺されていく7人の兄弟たち、そしてそれを見届ける母の姿が描かれます。
信仰の力強さを感じ、これに共感する人もいるでしょう。しかしこんなふうにはとてもなれない。いくら信仰とは言え、ちょっと違うんじゃないかなと嫌悪感を持つ人もいるのではないでしょうか。
私は成人洗礼で、ずっと宗教と言うものには距離を置いてきた人間でした。ですからどちらかと言えば、こういう話には警戒します。恐らく一般的な日本人は、そう感じるのではないのかと思います。明治時代、天皇を神と信じさせられて、人間天皇のために命を捨てていった若者たちの記憶。そして別の宗教への聖戦を呼びかけ、そのために死ねば、すぐ天国に入れると訴える宗教指導者。自分の信じる正義のために妻子がいながらも、自分の命を捨てて自爆テロを実行する原理主義者。
こうしたことが、宗教への警戒を日本人に植え付けます。キリスト教もイスラム教も天国を信じます。この世の生がすべてでないことを教えます。このことはよく働くときには、献身的な愛を生み出します。しかし悪く働くときには、神の名のもとで、人間のこの世の命をあまりに粗末にする結果となります。これは狂気です。宗教が、正常な感覚、この世で幸福に生きたい、人間の命は大切だという当たり前の感覚を、麻痺させてしまっているように思えるのです。
キェルケゴールと言う哲学者がいました。彼は生涯をかけて「そのために生き、そのために死んでもいい」。そのような真理を見つけようとしました。
日本人は、そのために死んでもいいような真理に警戒をします。天皇と言う神様、イスラム原理主義、多くの殉教者を出したキリスト教。そして宗教全般。しかしそうしたものを警戒した結果、「そのために生きる」。そのような真理も失ってしまいました。そしてその代わりになるものを探してきたのが戦後の日本社会だったように思えます。金や物の豊かさ、学歴、会社での出世、性的な快楽。しかしそれらはすべて、そのために生きるようなものではなく、またそのために死んでもいいようなものでもなかったのです。逆に虚しさばかりです。金儲けのため、出世のため一所懸命努力した。でもそれは何のためだったのか。その先がないのです。場合によってはそのために家族の団欒が壊されていきました。孤独になっていきました。敵ばかり増えました。真理ではなかったのです。
人間は過ちを犯します。宗教的指導者も過ちからまぬがれることはできません。
東西ドイツが一つになる前、東独の国境警備隊は、法律と命令で、西独への逃走者は銃殺せよと言われました。しかし東西ドイツが統一されたあと、その命令に従って、銃殺をした人が、裁判にかけられることになりました。彼は法律に従った忠実な警官であり軍人でした。しかしどうして、ただ西ドイツに行きたいだけの普通の市民を殺したのか。それは人間としてはいけないことだった。せめて狙いを外すくらいの憐れみをすべきだったと、統一ドイツによって裁かれたのです。
人間には「そのために生き、そのために死んでもいい」、つまり生きる目的であり、死ぬ目的。そのようなものが絶対、必要なのです。法律とか政治家、宗教家の言うこと。それ以上の確かなものが、です。
キリスト教は「何のために生きる」と教えていたのでしょうか。それは人間を創った『神を知り、神と人を愛し、神と隣人に仕え、永遠の幸福(生命)を得るため』 でした。
その神様を心の奥底から認め礼拝しましょう。キリスト教の神は、抽象的な、目に見えないものでありません。イエス様の中に具体的に姿を表しています。「私を見たものは神を見た」。
貧しくひっそりと生まれ、自分の利益を求めようとせず、人間の救いのために身代わりになって死んだイエス様。それだけでなく、復活し、永遠の命を得、また復活しても自分を憎んだ敵を呪ったりせず、限りなく愛し、赦そうとした。神様とはこのような姿だと私たちにははっきり示されています。報復とか、正義のために人を殺していいとか、そのような発想はここにはまったくありません。
イエス様に現れている人間を生かす神。それこそ私たちが、そのために生き、そのために死んでもいい、本当の真理であり、道であり、命です。それを本当に認め、イエス様の内に現れされている神様を、その教えを、明日を担う子どもたちに、自信を持って、最大の宝として伝えましょう。それが私たちの義務です。
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年間第33主日C年 ホミリア(ルカ21・5–19)
長田弘(おそだ・ひろし)という詩人がこんな詩を書いております。
「はじまりというのは、何かをはじめること。そう考えるのがほんとうは順序なのかもしれません。しかし、実際はちがうと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何かをやめるということが、いつも何かのはじまりだと思えるからです」
つまり、何かを始めるということは、常に何かをやめることとつながっている。そして、その詩人は続けてこう言います。
「子どものときから、はじめたことよりも、やめたことのほうが、人生というものの節目、区切り目として、濃い影のように、心の中にのこっています」と。
私たちの人生も、似たようなものかもしれませんね。
失敗や断念、やめざるをえなかったこと、苦しい経験――それらの中に、新しい何かが始まる瞬間があります。
そして、今日の福音に出てくるイエスの言葉も、まさにそういう目で私たちに語りかけています。
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当時の人々は、神殿の外装の美しさに心を奪われ、神殿の主である神を忘れがちでした。
美しい神殿がいつまでも続くと思っていたのです。でも、イエスさまは「神殿はつぶれる」と言われます。
その言葉は、目に見えるものにばかり心を奪われる私たちへの警告でもあります。
栄光の中でも、破壊の中でも、見つめるべきは「神のはからい」――変わらぬ神の愛なのです。
私たちも、人生の中で、思い通りにならないことや、やめざるを得ないこと、苦しみを経験することがあります。
戦争や災害、事故や病気、そして失敗や別れ……。
そんな時、つい「なぜ私だけが」と思い、心が沈みます。
でも、イエスさまは、その「やめざるをえなかったこと」や「失敗の影」の中にこそ、命が生まれ、信仰が深まる瞬間があると示してくださいます。
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弟子たちも、神殿の崩壊や世の終わりを聞いて、こう尋ねました。
「先生、いつそんなことが起こるのでしょうか。前兆はありますか?」
つまり、彼らは"どうやって避けられるか""どう備えればよいか"を知りたかったのです。
私たちも、災害や困難から逃れたい、と思うのは自然なことです。
しかし、イエスさまの答えは違います。
終末の日時や前兆を知ることではなく、
「絶えず目を覚まして、日々を神のもとで生きる」ことにこそ意味がある、と教えておられるのです。
それは、恐れから逃れることではなく、神の愛に信頼して、毎日を全うすること――まさに"やめざるをえない中から始まる生き方"です。
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詩人が言うように、「やめること、断念すること」が、新しいはじまりの影を作ります。
人生の苦しみや失敗、避けられない困難の中で、私たちは新しい信仰の一歩を踏み出すのです。
神殿が崩れるような激動の中でも、神の愛は変わりません。
そして、私たちの小さな日常の中で、信頼し続ける生き方こそ、神に生かされる歩みです。
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ですから、今日からも、日々の生活の中で小さな節目や「やめざるをえなかったこと」を思い返してください。
それは決して失敗ではありません。
その一つひとつが、私たちの信仰の土台となり、神の恵みの中で命が育まれていくのです。
終末や困難を恐れるのではなく、
その前触れの中でも、神に信頼して生きること――それがキリスト者の歩みです。
神は、栄光のときも、困難のときも、変わらぬ愛で私たちを抱きしめてくださいます。
私たちは、日々の中で神の愛に心を向け、信頼して歩み続けることができます。
そしてその歩みこそ、
「やめざるをえなかったこと」から始まる、新しい命のはじまりなのです。
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33rd Sunday in Ordinary Time, Year C – Homily (Luke 21:5–19)
There is a poet named Hiroshi Osada, who lived from 1939 to 2015 and is considered one of Japan's representative postwar poets. He wrote about the essence of life and the small discoveries in everyday life. He has a poem that begins with these words:
"A beginning is to start something. That might seem like the proper order. But I think differently. A beginning, I believe, is always about stopping something. It is always in stopping something that a new beginning can be born."
In other words, starting something is always connected to letting something go. The poet continues, saying,
"From my childhood, I remember more clearly the things I stopped than the things I began. Those moments, like deep shadows, remain in my heart as the real milestones of my life."
And sometimes, it is not even that we choose to stop, but that we are forced to stop—circumstances compel us to give up. And yet, even in that giving up, something new begins.
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Our lives are similar. There are moments when we cannot go on as we wish—when we must let go, when we fail, when we face suffering. In those very moments, new life and new insight can begin. And today's Gospel speaks to us precisely in this way.
The people of Jesus' time were captivated by the outward beauty of the temple, and they often forgot the Lord, who is the true master of the temple. They believed that as long as the temple was magnificent, it would last forever. Yet Jesus says, "The temple will be destroyed." His words were not meant to frighten but to teach that the things we see and rely on are fragile. What truly matters is God's providence—God's unchanging love.
Even in times of glory or in the midst of destruction, God's love does not change. Paul tells us, "Be steady in your work." We are called neither to get carried away by fleeting joy nor to sink into despair, but to live each day with trust in God's mercy, doing what we can, and loving sincerely. That is what it means to live as a follower of Christ.
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In our own world, suffering is everywhere. There is war, terrorism, disease, famine, natural disasters. There are events that shake us to the core. When tragedies happen, it is natural to ask, "Where is God in all this?"
But Jesus shows us how to live even in such circumstances. True happiness is not avoiding suffering, but trusting in God and living faithfully through it. That is where human dignity and eternal joy are found.
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The disciples asked Jesus, "Teacher, when will these things happen? Are there any signs?" They wanted to know how to protect themselves, how to prepare, how to escape. We ask the same questions. It is natural to want to avoid danger, to know the signs before disaster strikes.
Yet Jesus' answer is different. He does not give us dates or signs. Instead, he calls us to watch, to live in faith each day, to trust God's love amid uncertainty. The focus is not on escaping fear, but on living faithfully and courageously, even when circumstances force us to let go or endure.
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As the poet said, "It is in stopping, in giving up, that a new beginning emerges." Likewise, our difficulties, our failures, and the things we cannot control can become the soil for new life, the moments where faith grows. Even when the temple falls, even when our lives feel shattered, God's mercy is unshakable. And in our everyday lives, living with trust and devotion nurtures life in God's grace.
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So, I invite you to reflect on the times in your own life when you had to stop, when you had to give up, when circumstances forced you to let go. Those are not failures. They are the starting points for new life.
We may fear the end, fear suffering or change, but even in the prelude to those trials, God's grace is at work. Faithful endurance opens the way to life. God's love is constant, whether in times of glory or in times of collapse.
As we go forward, may we keep our hearts open to God's love, living each day in trust, prayer, and care. And may we recognize that it is precisely in those moments when we must let go that a new beginning is born.
31 per annum C
年間31主日 C
【ルカ19:1-10 ザアカイの回心】
「今日、救いがこの家を訪れた」
【ルカ19:1-10 】
ザアカイは徴税人の頭でした。当時のユダヤでは国内の神殿のために使われる神殿税と、そしてユダヤを支配するローマに納める人頭税・関税がありました。徴税人はこのローマに納める関税を担当していました。徴税人はならローマの役人かといえばそうでもありません。たとえばこんなふうにして徴税人の役職を手に入れたのです。
ローマに集まり、たとえば長崎地区から集める税金を競争入札します。「私は長崎地区から1億集める」「私は2億集められる」。こうして一番高い金を提示した人が徴税人の頭の地位を得ます。2億を提示した人は、あらかじめローマに2億円を差し出します。こうして税金を取り立てる権利を得ますが、その後は、いくら税を取り立ててもかわまない。2億円で徴税人の頭の地位を得たのですから、4億円を集めれば2億円もの儲け。その代わり1億5千万しか集めることができなければ、5千万の損失です。当然一所懸命税を取り立てることになります。
祖国を裏切りローマに仕える者、さらに金に執着し、自分の民からだまし取って私服を肥やそうとする。そのために罪人と扱われていたわけです。
(2) ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いも感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の人々の目を気にしていたのかもしれません。それ以上に、自分のような罪びとがイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのかもしれません。
それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が「罪びとを招いて、一緒に食事までしている」(ルカ15章2節)といううわさを聞いていたのかもしれません。そして、この人だったら、自分のどうにもならない思いを受け止め、理解してくれて、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。
(3) 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊まる」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。
なお、この「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)は、「今日、わたしはどうしてもあなたの家に泊まらなければならない」とか「今日、わたしはあなたの家に泊まることになっている」とも訳せる箇所です。これは、そのことが神の救いの計画の中にあることだから必ず実現するはずだということを示す表現です。
(4) ヨハネ福音書4章7節で、イエスはサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。ここでもイエスはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。どんなに罪びとのレッテルを貼られた人であっても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。イエスのいう「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)という言葉は、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」ということです。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪びとではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪びとのレッテルを貼られたまま生きていかなくてはならないでしょう。でも彼はもはや「神に見捨てられた罪びと」ではなく、「神に愛された罪びと」なのです。
(5) 別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2章14節にはこういう話がありました。「(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
イエスは、ザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。ザアカイは徴税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意するのです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。
きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5,9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのあることばです(ルカ2章11節、4章21節、23章43節など参照)。「今日」とは、今まさに人が神の愛とゆるしに出会うその時であり、今まさに神の救いが実現しているその時なのです! わたしたちも、神の救いが実現している「今日」を感じることがあるでしょうか?
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あなたは、友人とおしゃべりしている時も、街の雑踏の中を歩いてにいる時も、仕事や勉強に追われている時も、ひとり自分の部屋にいる時も、何かしらふっと、「自分はひとりばっちだ‥‥」「たまらなく寂しい‥‥」「人は何のために生きているのだろう‥‥」という思いに満たされ、孤独感に陥ってしまうようなことがありませんか。そんなことは、どなたも経験することだと思います。家事や育児に追われている家庭の主婦の方も、未来に希望を持てないお年よりの方も、勉強で疲れている子どもたちも、職場でコツコツと働いている働き盛りの男性も、ビルの窓外の春の青空(いや、スモッグの灰色の空かも‥)を仰ぎながら、そんな思いに浸ることがおありではありませんか?
●「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。‥‥‥」(ルカの福音書19:1~)。
ルカの福音書19章1~10節には、このような書き出しで始まる非常に興味深く、心に残る出来事が記されています。私は、聖書の中にいろいろな人物を見い出すのですが、非の打ち所のない立派な人物(たとえば、ヨセフとか、ダニエル)もすばらしいのは当然ですが、罪深い人や欠点弱点の多い人物に、何かしらとても親しみを覚え、言葉では表せない安心感のようなものを感じることがあります。ここに記されている「ザアカイ」という人物もその中の一人なのです。それから、イエス様の弟子のペテロもそうです。それが何故なのかは分かりませんが、自分自身がそのような欠点が多く、罪深い人間だからではないかと思っています。そして、そのような欠点や弱点の多く罪深い一人の人間がイエス様に出会って変えられて行く過程にとても興味があり、また神の大きな愛と慈しみに深い感動を覚えるのです。
さて、かつて、ユダヤのエリコの街にザアカイという大変孤独な人が住んでいました。ザアカイの職業は取税人のかしらでしたが、彼は、子供の頃から背が小さくて、「や~い!チビのザア~カイ!」といじめを受けながら成長して大人になったのではないかと思います。「ザアカイ」という名前の意味は、「正しい」とか「聖よい」という意味があります。ザアカイが誕生した時に、その家の跡継ぎができたことで両親は大変喜んだことでしょう。そして、心の正しい人間になってもらいたいとの親の願いを込めて、日本語流に分かりやすく言えば、「ただし」または「きよし」と命名されました。さて、当時ユダヤの国は、ローマの属国であり、ローマの支配下にあったのですが、「取税人」というのはローマ政府から委託されて税金を徴収する仕事で、しかも、その取税人のかしらですから、税務署の署長さんのような立場であったかもしれません。
ところが、当時の「取税人」というのは、当然集めるべきお金よりも多くをだまし取って、ごまかして、着服していたことが多かったと言われています。ザアカイも、他の取税人と同じようにお金をだまし取っていました。彼はローマ政府から委託され使役されて税金を徴収する取税人のかしらになりました。そして、集めたお金をごまかして、着服していました。ですから、日々良心の呵責を感じて過ごしていました。彼はお金を貯めることに人生の価値を見出したように感じるようになったのですが、彼の心は空虚で、どんなにお金を貯めても、立派な邸宅を建てても、それで心が満たされることはなかったのです。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい。」(伝道者の書5:10)とソロモンが言っている通りであったのです。
それから、ザアカイは幼少時から劣等感を持って悩んでいました。人間は誰でも、多かれ少なかれ、コンプレックスを持っているものです。劣等感には、四つの種類があるとあるクリスチャンから聞いたことがあります。(1)肉体的劣等感。(2)性格的劣等感。(3)能力的劣等感。(4)社会的劣等感。‥‥の四つです。そして、ザアカイには、このどれもがあったのではないかと推測することができます。まず、彼は背が低かったことが書かれていますから、彼には「肉体的劣等感」があったのです。また、背が低かったザアカイは小さい時から友だちもなく孤独な少年時代を過ごし、性格的にも卑屈でひねくれた人間になり、「性格的な劣等感」を持っていた可能性もあります。また、彼は背が低いために普通の人ができることができないという「能力的劣等感」があったことも推測できます。そして、彼の職業のゆえに、同胞からは売国奴のように言われ、「社会的劣等感」があったであろうと思われます。
さて、ザアカイがそのような心が満たされない孤独な日々を送っていた時に、イエス様がエリコの街をお通りになったのです。彼はイエス様がどんな方か見ようとして、家を飛び出し、群集がいる方向に向かって走って行きました。しかし、彼は背が低くて、群集のためにイエス様を見ることができなかったのです。それで、イエス様を見るために、前方に走って行き、いちじく桑の木に登りました。大の大人が、見栄も外聞も捨てて、木に登ってイエス様を見ようとした彼の純朴さに感動します。そして、イエス様は、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と。ザアカイは、今まで一度もイエス様にお会いしたことがありませんでしたが、自分のことを知っていて、ザアカイの名前をお呼びになられたことに非常に驚きましたが、木から急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えたのです。
ここで、「ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとして」(4)と、「イエスは、ちょうどそこに来られて、」(5)に、「ちょうど」という言葉が二回でて来ます。このことから、人生のあらゆる出来事には、”偶然”ということがないことを教えられます。すべての出来事の背後には神の摂理と導きがあるのです。私がクリスチャンになった最初のきっかけは、ほんとうに些細な出来事であったのですが、あとで考えてみると、あれは間違いなく神の導きであったのだと確信することができました。神の導きとか摂理は、あとになって、初めて分かるということが度々あります。そして、この箇所の記事で、イエス様は、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは。あなたの家に泊まることにしてあるから。」(5)と、イエス様がおっしゃったのには、深い意味があります。「‥‥泊まることにするから」ではなく、「あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われたのです。これは、すべてをご存じのイエス様は、ザアカイの家に泊まることを最初から計画しておられたことを意味しています。
そして、イエス様はその晩、ザアカイの家に招かれてお泊りになられ、親しくお交わりになられました。宇宙を創造された偉大な神の御子イエス・キリストが、罪深い一介の取税人の家にお泊りになられたことは何と驚くべきご謙遜ではないでしょうか?そして、ザアカイとねんごろにお交わりになられたイエス様の愛によって、ザアカイの頑固で冷たい心は、太陽の熱に解かされる氷のように砕かれ、自らの罪を悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れ、その日の夜に回心したのです。神から迷い出て孤独になり、生きる意味を見失ってしまった一人の人間が、神の御子イエス・キリストに見出されて、愛なる神様のみもとに帰り、その懐(ふところ)に抱かれて平安を見出し、その孤独な人生からも解放されたたすばらしい見本がここにあります。
彼は、お金もちになって、自分をいじめた奴らを見返してやろうと考えたのかもしれません。しかし、彼の空虚な心はお金によっては決して満たされることはありませんでした。彼はユダヤ人でしたが、ローマの手先となって税金を取り立てていたので、売国奴のように言われ、大人になっても、やっぱり孤独で、だれも友だちになってくれませんでした。彼の心は満たされず、孤独感から解放されることはありませんでした。でも、イエス様は彼の孤独な心の中をすべて知っておられました。また、同時に、彼が罪を犯していたこともご存じでした。その日、ザアカイはイエス様を自分の家に招き、悔い改めて、イエス様を救い主と信じて救われたのです。あなたも、このザアカイのように、キリストを信じてに神に帰えり、孤独な人生から解放されて下さい。イエス様は、あなたの救い主となってくださるばかりでなく、真の友となってくださる方なのです。
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Lo sguardo di Gesù libera l'uomo
XXXI Domenica
Tempo ordinario - Anno C
Zaccheo ha un handicap (la bassa statura) e un desiderio (vedere Gesù) e, a questo conflitto tra due forze che potrebbero annullarsi, risponde con creatività e coraggio, diventando figura di tutti coloro che, anziché chiudersi nei loro limiti e arrendersi, cercano soluzioni, inventano alternative senza timore di apparire diversi. Nella vita avanza solo chi agisce mosso dal desiderio e non dalla paura.
Allora corse avanti e salì su di un albero. Correre, sotto l'urgenza del richiamo di cose lontane, seguendo il vento del desiderio che gonfia le vele. Avanti, verso il proprio oggetto d'amore, verso un Dio che viene non dal passato, ma dall'avvenire. Sull'albero, in alto, come per leggere se stesso e tutto ciò che accade da un punto di vista più alto. Perché il quotidiano è abitato da un oltre.
Gesù passando alzò lo sguardo. Lo sguardo di Gesù è il solo che non si posa mai per prima cosa sui peccati di una persona, ma sempre sulla sua povertà, su ciò che ancora manca ad una vita piena. La sua parola è la sola che non porta ingiunzioni, ma interpella la parte migliore di ciascuno, che nessun peccato arriverà mai a cancellare. Zaccheo cerca di vedere Gesù e scopre che Gesù cerca di vedere lui. Il cercatore si accorge di essere cercato, l'amante scopre di essere amato, ed è subito festa: Zaccheo, scendi, oggi devo fermarmi a casa tua.
«Devo» dice Gesù, devo fare casa con te per un intimo bisogno: a Dio manca qualcosa, manca Zaccheo, manca l'ultima pecora, manco io. Se Gesù avesse detto: «Zaccheo, ti conosco bene, se restituisci ciò che hai rubato verrò a casa tua», Zaccheo sarebbe rimasto sull'albero. Se gli avesse detto: «Zaccheo scendi e andiamo insieme in sinagoga», non sarebbe successo nulla. Il pubblicano di Gerico prima incontra, poi si converte: incontrare uno come Gesù fa credere nell'uomo; incontrare un uomo così rende liberi; incontrare questo sguardo che ti rivela a te stesso fa nascere.
Scese in fretta e lo accolse pieno di gioia. Sono poche parole: fretta, accogliere, gioia, ma che dicono sulla conversione più di tanti trattati. Apro la casa del cuore a Dio e la gioia e la vita si rimettono in moto.
Infatti la casa di Zaccheo si riempie di amici, lui si libera dalle cose: «Metà di tutto è per i poveri e se ho rubato...». Ora può abbracciare tutta intera la sua vita, difetti e generosità, e coprire il male di bene...
Oggi mi fermo a casa tua. Dio viene ancora alla mia tavola, intimo come una persona cara, un Dio alla portata di tutti. Ognuno ha una dimora da offrire a Dio. E il passaggio del Signore lascerà un segno inconfondibile: un senso di pienezza e poi il superamento di sé, uno sconfinare nella gioia e nella condivisione.
【ルカ19:1-10 ザアカイの回心】
「今日、救いがこの家を訪れた」
【ルカ19:1-10 】
ザアカイは徴税人の頭でした。当時のユダヤでは国内の神殿のために使われる神殿税と、そしてユダヤを支配するローマに納める人頭税・関税がありました。徴税人はこのローマに納める関税を担当していました。徴税人はならローマの役人かといえばそうでもありません。たとえばこんなふうにして徴税人の役職を手に入れたのです。
ローマに集まり、たとえば長崎地区から集める税金を競争入札します。「私は長崎地区から1億集める」「私は2億集められる」。こうして一番高い金を提示した人が徴税人の頭の地位を得ます。2億を提示した人は、あらかじめローマに2億円を差し出します。こうして税金を取り立てる権利を得ますが、その後は、いくら税を取り立ててもかわまない。2億円で徴税人の頭の地位を得たのですから、4億円を集めれば2億円もの儲け。その代わり1億5千万しか集めることができなければ、5千万の損失です。当然一所懸命税を取り立てることになります。
祖国を裏切りローマに仕える者、さらに金に執着し、自分の民からだまし取って私服を肥やそうとする。そのために罪人と扱われていたわけです。
(2) ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いも感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の人々の目を気にしていたのかもしれません。それ以上に、自分のような罪びとがイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのかもしれません。
それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が「罪びとを招いて、一緒に食事までしている」(ルカ15章2節)といううわさを聞いていたのかもしれません。そして、この人だったら、自分のどうにもならない思いを受け止め、理解してくれて、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。
(3) 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊まる」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。
なお、この「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)は、「今日、わたしはどうしてもあなたの家に泊まらなければならない」とか「今日、わたしはあなたの家に泊まることになっている」とも訳せる箇所です。これは、そのことが神の救いの計画の中にあることだから必ず実現するはずだということを示す表現です。
(4) ヨハネ福音書4章7節で、イエスはサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。ここでもイエスはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。どんなに罪びとのレッテルを貼られた人であっても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。イエスのいう「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)という言葉は、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」ということです。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪びとではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪びとのレッテルを貼られたまま生きていかなくてはならないでしょう。でも彼はもはや「神に見捨てられた罪びと」ではなく、「神に愛された罪びと」なのです。
(5) 別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2章14節にはこういう話がありました。「(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
イエスは、ザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。ザアカイは徴税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意するのです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。
きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5,9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのあることばです(ルカ2章11節、4章21節、23章43節など参照)。「今日」とは、今まさに人が神の愛とゆるしに出会うその時であり、今まさに神の救いが実現しているその時なのです! わたしたちも、神の救いが実現している「今日」を感じることがあるでしょうか?
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あなたは、友人とおしゃべりしている時も、街の雑踏の中を歩いてにいる時も、仕事や勉強に追われている時も、ひとり自分の部屋にいる時も、何かしらふっと、「自分はひとりばっちだ‥‥」「たまらなく寂しい‥‥」「人は何のために生きているのだろう‥‥」という思いに満たされ、孤独感に陥ってしまうようなことがありませんか。そんなことは、どなたも経験することだと思います。家事や育児に追われている家庭の主婦の方も、未来に希望を持てないお年よりの方も、勉強で疲れている子どもたちも、職場でコツコツと働いている働き盛りの男性も、ビルの窓外の春の青空(いや、スモッグの灰色の空かも‥)を仰ぎながら、そんな思いに浸ることがおありではありませんか?
●「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。‥‥‥」(ルカの福音書19:1~)。
ルカの福音書19章1~10節には、このような書き出しで始まる非常に興味深く、心に残る出来事が記されています。私は、聖書の中にいろいろな人物を見い出すのですが、非の打ち所のない立派な人物(たとえば、ヨセフとか、ダニエル)もすばらしいのは当然ですが、罪深い人や欠点弱点の多い人物に、何かしらとても親しみを覚え、言葉では表せない安心感のようなものを感じることがあります。ここに記されている「ザアカイ」という人物もその中の一人なのです。それから、イエス様の弟子のペテロもそうです。それが何故なのかは分かりませんが、自分自身がそのような欠点が多く、罪深い人間だからではないかと思っています。そして、そのような欠点や弱点の多く罪深い一人の人間がイエス様に出会って変えられて行く過程にとても興味があり、また神の大きな愛と慈しみに深い感動を覚えるのです。
さて、かつて、ユダヤのエリコの街にザアカイという大変孤独な人が住んでいました。ザアカイの職業は取税人のかしらでしたが、彼は、子供の頃から背が小さくて、「や~い!チビのザア~カイ!」といじめを受けながら成長して大人になったのではないかと思います。「ザアカイ」という名前の意味は、「正しい」とか「聖よい」という意味があります。ザアカイが誕生した時に、その家の跡継ぎができたことで両親は大変喜んだことでしょう。そして、心の正しい人間になってもらいたいとの親の願いを込めて、日本語流に分かりやすく言えば、「ただし」または「きよし」と命名されました。さて、当時ユダヤの国は、ローマの属国であり、ローマの支配下にあったのですが、「取税人」というのはローマ政府から委託されて税金を徴収する仕事で、しかも、その取税人のかしらですから、税務署の署長さんのような立場であったかもしれません。
ところが、当時の「取税人」というのは、当然集めるべきお金よりも多くをだまし取って、ごまかして、着服していたことが多かったと言われています。ザアカイも、他の取税人と同じようにお金をだまし取っていました。彼はローマ政府から委託され使役されて税金を徴収する取税人のかしらになりました。そして、集めたお金をごまかして、着服していました。ですから、日々良心の呵責を感じて過ごしていました。彼はお金を貯めることに人生の価値を見出したように感じるようになったのですが、彼の心は空虚で、どんなにお金を貯めても、立派な邸宅を建てても、それで心が満たされることはなかったのです。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい。」(伝道者の書5:10)とソロモンが言っている通りであったのです。
それから、ザアカイは幼少時から劣等感を持って悩んでいました。人間は誰でも、多かれ少なかれ、コンプレックスを持っているものです。劣等感には、四つの種類があるとあるクリスチャンから聞いたことがあります。(1)肉体的劣等感。(2)性格的劣等感。(3)能力的劣等感。(4)社会的劣等感。‥‥の四つです。そして、ザアカイには、このどれもがあったのではないかと推測することができます。まず、彼は背が低かったことが書かれていますから、彼には「肉体的劣等感」があったのです。また、背が低かったザアカイは小さい時から友だちもなく孤独な少年時代を過ごし、性格的にも卑屈でひねくれた人間になり、「性格的な劣等感」を持っていた可能性もあります。また、彼は背が低いために普通の人ができることができないという「能力的劣等感」があったことも推測できます。そして、彼の職業のゆえに、同胞からは売国奴のように言われ、「社会的劣等感」があったであろうと思われます。
さて、ザアカイがそのような心が満たされない孤独な日々を送っていた時に、イエス様がエリコの街をお通りになったのです。彼はイエス様がどんな方か見ようとして、家を飛び出し、群集がいる方向に向かって走って行きました。しかし、彼は背が低くて、群集のためにイエス様を見ることができなかったのです。それで、イエス様を見るために、前方に走って行き、いちじく桑の木に登りました。大の大人が、見栄も外聞も捨てて、木に登ってイエス様を見ようとした彼の純朴さに感動します。そして、イエス様は、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と。ザアカイは、今まで一度もイエス様にお会いしたことがありませんでしたが、自分のことを知っていて、ザアカイの名前をお呼びになられたことに非常に驚きましたが、木から急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えたのです。
ここで、「ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとして」(4)と、「イエスは、ちょうどそこに来られて、」(5)に、「ちょうど」という言葉が二回でて来ます。このことから、人生のあらゆる出来事には、”偶然”ということがないことを教えられます。すべての出来事の背後には神の摂理と導きがあるのです。私がクリスチャンになった最初のきっかけは、ほんとうに些細な出来事であったのですが、あとで考えてみると、あれは間違いなく神の導きであったのだと確信することができました。神の導きとか摂理は、あとになって、初めて分かるということが度々あります。そして、この箇所の記事で、イエス様は、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは。あなたの家に泊まることにしてあるから。」(5)と、イエス様がおっしゃったのには、深い意味があります。「‥‥泊まることにするから」ではなく、「あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われたのです。これは、すべてをご存じのイエス様は、ザアカイの家に泊まることを最初から計画しておられたことを意味しています。
そして、イエス様はその晩、ザアカイの家に招かれてお泊りになられ、親しくお交わりになられました。宇宙を創造された偉大な神の御子イエス・キリストが、罪深い一介の取税人の家にお泊りになられたことは何と驚くべきご謙遜ではないでしょうか?そして、ザアカイとねんごろにお交わりになられたイエス様の愛によって、ザアカイの頑固で冷たい心は、太陽の熱に解かされる氷のように砕かれ、自らの罪を悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れ、その日の夜に回心したのです。神から迷い出て孤独になり、生きる意味を見失ってしまった一人の人間が、神の御子イエス・キリストに見出されて、愛なる神様のみもとに帰り、その懐(ふところ)に抱かれて平安を見出し、その孤独な人生からも解放されたたすばらしい見本がここにあります。
彼は、お金もちになって、自分をいじめた奴らを見返してやろうと考えたのかもしれません。しかし、彼の空虚な心はお金によっては決して満たされることはありませんでした。彼はユダヤ人でしたが、ローマの手先となって税金を取り立てていたので、売国奴のように言われ、大人になっても、やっぱり孤独で、だれも友だちになってくれませんでした。彼の心は満たされず、孤独感から解放されることはありませんでした。でも、イエス様は彼の孤独な心の中をすべて知っておられました。また、同時に、彼が罪を犯していたこともご存じでした。その日、ザアカイはイエス様を自分の家に招き、悔い改めて、イエス様を救い主と信じて救われたのです。あなたも、このザアカイのように、キリストを信じてに神に帰えり、孤独な人生から解放されて下さい。イエス様は、あなたの救い主となってくださるばかりでなく、真の友となってくださる方なのです。
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Lo sguardo di Gesù libera l'uomo
XXXI Domenica
Tempo ordinario - Anno C
Zaccheo ha un handicap (la bassa statura) e un desiderio (vedere Gesù) e, a questo conflitto tra due forze che potrebbero annullarsi, risponde con creatività e coraggio, diventando figura di tutti coloro che, anziché chiudersi nei loro limiti e arrendersi, cercano soluzioni, inventano alternative senza timore di apparire diversi. Nella vita avanza solo chi agisce mosso dal desiderio e non dalla paura.
Allora corse avanti e salì su di un albero. Correre, sotto l'urgenza del richiamo di cose lontane, seguendo il vento del desiderio che gonfia le vele. Avanti, verso il proprio oggetto d'amore, verso un Dio che viene non dal passato, ma dall'avvenire. Sull'albero, in alto, come per leggere se stesso e tutto ciò che accade da un punto di vista più alto. Perché il quotidiano è abitato da un oltre.
Gesù passando alzò lo sguardo. Lo sguardo di Gesù è il solo che non si posa mai per prima cosa sui peccati di una persona, ma sempre sulla sua povertà, su ciò che ancora manca ad una vita piena. La sua parola è la sola che non porta ingiunzioni, ma interpella la parte migliore di ciascuno, che nessun peccato arriverà mai a cancellare. Zaccheo cerca di vedere Gesù e scopre che Gesù cerca di vedere lui. Il cercatore si accorge di essere cercato, l'amante scopre di essere amato, ed è subito festa: Zaccheo, scendi, oggi devo fermarmi a casa tua.
«Devo» dice Gesù, devo fare casa con te per un intimo bisogno: a Dio manca qualcosa, manca Zaccheo, manca l'ultima pecora, manco io. Se Gesù avesse detto: «Zaccheo, ti conosco bene, se restituisci ciò che hai rubato verrò a casa tua», Zaccheo sarebbe rimasto sull'albero. Se gli avesse detto: «Zaccheo scendi e andiamo insieme in sinagoga», non sarebbe successo nulla. Il pubblicano di Gerico prima incontra, poi si converte: incontrare uno come Gesù fa credere nell'uomo; incontrare un uomo così rende liberi; incontrare questo sguardo che ti rivela a te stesso fa nascere.
Scese in fretta e lo accolse pieno di gioia. Sono poche parole: fretta, accogliere, gioia, ma che dicono sulla conversione più di tanti trattati. Apro la casa del cuore a Dio e la gioia e la vita si rimettono in moto.
Infatti la casa di Zaccheo si riempie di amici, lui si libera dalle cose: «Metà di tutto è per i poveri e se ho rubato...». Ora può abbracciare tutta intera la sua vita, difetti e generosità, e coprire il male di bene...
Oggi mi fermo a casa tua. Dio viene ancora alla mia tavola, intimo come una persona cara, un Dio alla portata di tutti. Ognuno ha una dimora da offrire a Dio. E il passaggio del Signore lascerà un segno inconfondibile: un senso di pienezza e poi il superamento di sé, uno sconfinare nella gioia e nella condivisione.
30 per annum C
年間30主日 C 全国修道女一般研修会(聖トマス大にて)
【ルカ18:9-14】
私たちが今日の福音書を聞いて感動し、また慰められるのは、おそらく、自分を徴税人のひとりになぞらえるからではないかと思います。自分もまた神の前に出たら、徴税人と同じだ、ただ神の前に頭を垂れる以外にないと思う、しかしこういう徴税人を神は喜んでくださる、義としてくださるのだ、そう思って私たちは慰められるのです。
しかし私たちはこの徴税人の祈りを本当に祈ることができるだろうか。私たちはもうこの徴税人の祈りは祈れなくなってしまっているのではないか。
というのは、この聖書の箇所について、キルケゴールという思想家の有名な言葉があります。それは、われわれはこの徴税人の祈りをするときに心のどこかに、「神よ、わたしはこのファリサイ派の人のような人物でないことをあなたに感謝します」と祈っているのだというわけです。ファリサイ派の人が「わたしがこの徴税人のような人間でないことを感謝します」と祈っているように、私たちは「わたしはこのファリサイ派の人のように傲慢でないことを感謝します」と祈っているのではないかというのです。そして私たちがイエスのいわれた通りに末席(まっせき)につこうとするのは、本当の謙遜からではなく、傲慢からでたことなのだというのです。
私はもうファリサイ派の人のような祈りをする人はおそらくいないと思います。この主イエスの話は、もともとはファリサイ派の人が主題で、徴税人はこのファリサイ派の人を批判するために持ち出された話です。主イエスの言いたいことは、もともとは「自分を義人だと自任して、他人を見下げている人たちに対して」語ろうとしているのですが、今の私たちは、この徴税人の祈りを真似しながら、自分はファリサイ派の人でないことを感謝しますと祈ることによって、もっとファリサイ派的な傲慢さに陥ってしまっている者に向けられたみことばとしてここを読まなくてはならないと思うのです。
ですから、もうこの徴税人の祈りを私たちはできなくなっているのではないか。
そして本当は今の私たちができなくなっているだけでなく、イエスの時代の時からこういう祈りをした人はいないのではないか。なぜなら、この徴税人は実際に存在した徴税人ではなく、主イエスが話された中に登場してくる人物ではないかと。そう考えますと、聖書の中で私たちが感銘を受ける人物、この徴税人にせよ、あの強盗に襲われた者を親切に介抱したよきサマリヤ人にせよ、それらの人は実際に存在した人物ではなく、みなイエスが話された人物、イエスがこういう人がいたらいいなと想像した人物なのだということは、かんがえられないでしょうか。
パウロは、「わたしたちはどう祈ったらいいかわからないが、聖霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしをしてくださる」と言っております。そのようにして聖霊は弱いわたしたちを助けてくださるというのです。
「どう祈ったらよいかわからない」ということは、もう祈ることがができなくなったということです。その時に聖霊がいっしょになって言葉にならないうめきをもってとりなしてくださって、そしてはじめて祈れるようになるというのです。
ある人の話に、自分がなにか大変悪いことをして、人を傷つけて、電車に乗った。すし詰め電車だった。途中で誰かに思い切り足を踏まれた。その時に、ひとつも怒る気にはなれなかったというのです。自分はこのようにして足を踏まれても何にも文句が言えない罪人だと思いながら、その電車に乗っていたというのです。
この時の徴税人はまさにそのような心境だったのではないか。だから、彼は祈るために神殿に上りながら、神の前に立たされた時に、もう祈れなくなった。ただ、遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸をうちながら、それでも神に向かって、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と言ったのです。聖書はファリサイ派の人のほうは「こう祈った」と記しておりますが、徴税人については、祈ったという言葉はなく、「胸を打ちながら言った」と記すのです。もう自分は祈れないと思った、だからただ「言った」だけなのです。
わたしは祈りについ書かれた文章で印象に残っているのが二つあります。一つは小塩節(おしお たかし)という人が書いている文章です。自分の子が重い病気になった。必死に祈ったというのです。しかしそのうちに祈れなくなった。祈っても祈っても子どもの病はよくなってこなかったからです。だから、夫婦で食事の前に祈る時には、「主の祈り」をふたりして唱えた。そのうちにその主の祈りも祈れなくてなったというのです。なぜなら、「主の祈り」のなかには、「みこころの天になるごとく、地になさせたまえ」とあるからです。なんとしてでも子どもの病気をいやしてもらいたい、そういう時に神のみこころのままになさってくださいなどとはとても祈れなくなってしまったというのです。だから、もう「主の祈り」も祈れなくなって、食事の前に夫婦で黙祷しようと言って、しばらく黙祷して食事をしたというのです。
もう一つの文章は、これも主の祈りと関係してくる文章ですが、竹森満佐一(たけもりまさいち)の書いた「主の祈り」の文章で、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」という祈りをめぐってのところですが、第一次世界大戦の時、ドイツ軍がベルギーに攻め入って、多くの町を破壊した。その次の日曜日にある町で、こわれた会堂の中で礼拝が行われた。
しかしいつものように、「主の祈り」を祈る時になって、この句のところにきた時に、みんな黙ってしまった。その時に、みんながドイツ人が自分達に対してしたことを思い出して、それを考えるととてもゆるす気にはなれなかった。だからだれも「われらがゆるすごとく」とは祈れなかった。そして少し時がたって、だれからともなく、「われらの罪をゆりしたまえ」と祈りつづけたというのです。
自分の罪を考えたら、とても祈れなくなってしまった徴税人。
祈りというものは、そのようにして一度祈れなくなってしまって、どう祈ったらよいかわからなくなってしまって、言葉にならないうめきのようになってしまって、それでも神にしか助けを求めざるをえなくなって、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と小さな声でうめく、それが祈りなのではないか。
それが、というよりは、それも、祈りなのではないか。
しかしあのファリサイ派の人の祈りは、決して祈りなんかではないのです。ど自分の義を神に主張しているだけです。
しかしあの徴税人も、本当は祈っているとはいえないのです。なぜなら、彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしていないからです。つぶやくように、「神様」と呼びかけているだけです。彼のこのつぶやきを祈りに導いてくれたのは、主イエスです。「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この徴税人であった」という主イエスの言葉です。
私たちは神に義とされようとして、この徴税人の祈りを真似ることはもうゆるされないのです。この時徴税人は、神に義とされるなんてことは、夢にも思わなかったのです。ただ「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と、つぶやくように言っただけでなのです。イエスがその徴税人を神に義とされた者として私たちに紹介してくださった。だから私たちは、このような祈りしかできない者を神が義としてくださる、神がゆるしてくださる、だから私たちはこのような祈りをすることができるようになるのです。
義とされようとして、このような祈りをするのではなく、義とされた者として、もう赦された者としてこのような祈りをすることができるということなのです。そして、今度はしっかりと目を天に向けて祈れるようにならなければならないのです。
主イエスはこのたとえ話をする前に、「人の子が来るとき、地上に信仰がみられるであろうか」と、嘆いているのです。あのファリサイ派の人の祈りはもちろん信仰ではないのです。そしてこのように祈る徴税人もまたまだ信仰をもっているとはいえないのです。彼が信仰をもてるようになるのは、「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この徴税人であって」というイエスの言葉を聞いてから、彼の信仰が始まるのです。目を天に向けられないで、うなだれたままでは決して信仰とはいえないのです。
私たちが義とされるために教えていただいた祈りといえば、それは「私たちに負い目のある人をゆるします(ように)から、私たちの負い目をもおゆるしください」(マタイ6・12)なのです。アウグスティヌスが言うように(「神の国」XIX・27)この世においては、正しさは完全な徳よりもむしろ罪のゆるしにあるのです。
「この祈りは、その信仰が業(行い)をともなわないで死んでいる人にとっては効果が無く、その信仰が愛によって働いている人にとってに効果がある。」「このような祈りは正しい人にとって必要なのである。」
なぜなら、「神は高ぶる者を(敵とし)退け、へりくだる(謙遜な)者に恵みを与える」(ヤコブ4・6;1ペトロ5・5;箴言3・24)。
「福音的勧告に従って完全な愛徳(perfectae caritatis)を追求することは、神なる師の教えと模範にその起源を持ち、天の王国の輝かしいしるしである」(第二ヴァティカン公会議、「修道生活に関する教令」冒頭)
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke66.htm
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(3) イエスの言葉は、わたしたちの自己評価に挑戦してきます。わたしたちが、「自分はチャンとやっている」と感じているとするならば、それは他の人と比べてのことではないでしょうか。「自分はぜんぜんダメだ」と感じているならば、それも人と比較してのことではないでしょうか。わたしたちはあまりにも「比較と競争」の世界に毒されているのかもしれません。
この社会は、人を果てしない競争へと駆り立てる社会です。その中でわたしたちはどれほどストレスを抱えていることでしょうか、そしてどれほど多くの人が行き詰ってしまっているでしょうか。確かに「社会は競争なのだから、生きていくためにこの競争を降りることはできない」という人は多いでしょう。かと言って、人生が競争だけになれば、人生はまったく悲惨なものになってしまうでしょう。「競争よりももっと大切なものがある、それを見失わないこと」きょうの福音はそう呼びかけているのではないでしょうか。
わたしは神の前に立つ。どうしようもなく限界や弱さを抱えているけれども、神がそのわたしを愛し、生かしてくださっているのを感じる。そのとき、優越感と劣等感の間でもがき苦しむところから解放されていく。わたしたちの中にそういう体験があるでしょうか。
(4) 祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すことです。そこでは人との比較は役に立ちません。「あの人もしていたから、わたしもこうしました」とか「この人にはかなわないけれど、別の人よりはましです」そういうことは何の意味もない世界なのです。「自分の小ささを認めて神の前にへりくだるとき、神は本当に自分を受け入れ、愛してくださる」。そういう祈りの体験がありますか。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」の「へりくだる」は、直訳では「自分を低くする」です。「自分を低くする」とはどういうことでしょうか。それは表面的に謙遜を装うということではないでしょう。また、「自分なんか何の価値もない。生きるに値しないダメな人間だ」と思い込むことでもないでしょう。むしろ、自分のありのままの姿を見つめるということではないでしょうか。それは決して簡単なことではありません。わたしたちの中に、本当の自分以上に自分のことをよく思いたいという部分がありますが、それは幻想の中を生きることです。逆に本当の自分以下にしか、自分の価値を見いだせず、自尊心を見失い、異様に低い自己評価を持っているとしたら、それも幻想です。自分自身のありのままを認めることは、わたしたちが、神の前に自分を置いてみるときに初めて可能になるのではないでしょうか。
(5) 「罪人(びと)であるわたし」という言葉にどんな現実感があるでしょうか。もちろん、自分に特別大きな罪があると思っているならば、自然にそう感じられるかもしれません。この徴税人にはそういう罪意識がありましたが、わたしたちは自分がそれほど悪いことをしているという意識がない場合も多いのです。そのわたしを罪びとだと感じるのは難しいでしょうか。「罪」とは、神から離れることです。神から遠く離れてしまっている自分を感じること、神の前に立つのにふさわしくないという感覚、それが「罪の感覚」だと言えるかもしれません。そして、それは漫然と生活しているだけでなく、本気で神に近づこう、キリストに従っていこうとした時にこそ感じることだとも言えるでしょう。
29 per annum C
年間29主日C
【やもめと裁判官の譬え】
ルカ18:1ー8
「失望しないで祈るように」と、今日の福音書でイエスは希望について語っています。人生は、希望によって支えられています。
希望の学びやとしての祈り
(教皇ベネディクト16世 回勅 『希望による救い』、2007年、カトリック中央協議会訳)
32 希望を学ぶための第一の根本的な場は祈りです。だれもわたしに耳を貸さないときにも、神はわたしに耳を傾けてくださいます。だれと話すこともできず、だれに呼びかけることもできないときにも、わたしはいつも神に語りかけることができます。人間が希望できることを超えた必要や望みに関して、だれもわたしを助けてくれないときも、神はわたしを助けてくださいます。わたしが徹底的な孤独のうちに追いやられても:::、もし祈るならば、わたしは完全に独りではありません。故グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿(一九二八-二〇〇二年)は、十三年間投獄され、そのうち九年間は独房で過ごしました。ヴァン.トゥアン枢機卿は『希望の祈り』という、小さいながら貴重な本を残してくださいました。獄中での十三年間、まったく絶望的に思われる状況の中で、神に耳を傾け、神と語ることができることが、ヴァン・トゥアン枢機卿の希望の力を強めました。この希望の力によって、ヴァン.トゥアン枢機卿は、釈放後、世界中の人々に対して希望の証人となることができました。この偉大な希望は、孤独の夜の中でも消えることがないからです。
33 聖アウグスチヌスは、ヨハネの手紙一についての説教の中で、祈りと希望の密接な関係をみごとな形で明らかにしています。聖アウグスチヌスは、祈りとは望みの実践だといいます。人間は偉大な存在である神ご白身のために創造されました。それは、神に満たされるためです。しかし、人間の心はあまりに狭く、人間が目指している偉大なものを受け入れることができません。ですから、心を広げなければなりません。「神は(ご自分のたまものを)遅らせることによって、一わたしたちの一望みを強めます。神は望みによって魂を広げ、魂を広げることによって一神を受け入れる一力を与えます」。アウグスチヌスは聖パウロを例に挙げます。
聖パウロは来るべきものに全身を向けるといっているからです(フィリピ3.13参照)。次いでアウグスチヌスはたいへん美しいたとえを用いて、人問の心が広げられ、整えられる、この過程について述べます。「神があなたを蜜[みつ](蜜は神の優しさといつくしみの象徴です)で満たそうと望んでいると考えてください。しかし、もしあなたが酢で満たされていたら、どこに蜜を入れることができるでしょうか」。あなたの心という器をまず大きくし、次に清めなければなりません。すなわち、酢とその味がなくなるようにしなければなりません。これは辛い労苦を必要とします。けれども、このようにして初めて、わたしたちは自分たちが目指すものにふさわしいものとなることができるのです{26}。アウグスチヌスは直接には、神を受け入れる能力についてのみ述べています。とはいえ、このことは明らかです。すなわち、わたしたちは、酢とその味をなくす努力を通じて、神に対して開かれた者となるだけでなく、他の人に対しても開かれた者となります。実際わたしたちは、神の子となることによって初めて、共通の父をもつことができます。祈るとは、歴史を離れ、私的な空間に引きこもり、自分の幸せを求めることではありません。祈りの正しい方法は、内的な清めを行うことです。内的な清めを行うことによって、わたしたちは神を受け入れることができ、そこから、人々をも受け入れることができるようになります。わたしたちは祈りの中で、何を本当に神に求めることができるか、すなわち、何が神にふさわしいことかを学ばなければなりません。わたしたちは、他人に敵対しながら祈ることができないことを学ばなければなりません。わたしたちは、今このときに欲しい、表面的な快適さを祈り求めることができないことを学ばなければなりません。このような誤った小さな望みは、わたしたちを神から遠ざけるからです。わたしたちは自分の望みと希望を清めなければなりません。わたしたちは、自分白身を偽るような隠れた嘘から自由にならなければなりません。神はこのような嘘を見通されます。また、神の前に出れば、わたしたちもこの嘘を認めざるをえません。詩編作者は祈ります。「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください」(詩編19.13)。自分の罪を認めることができなかったり、自分が無実であると錯覚していたとしても、それで自分を正当化することはできませんし、それが自分を救うことはありません。なぜなら、良心が麻痺したり、自分をありのままに認めることができないことは、わたしの責任だからです。神が存在しなければ、わたしはこれらの嘘に逃れ場を求めなければなりません。わたしをゆるすことができる者がだれもいないからです。だれも真の基準となってくれないからです。しかし、神との出会いは、わたしの良心を呼び覚まします。こうして良心は自分を正当化しようとしなくなります。また、良心は、自分や、自分の意見を左右する同時代の人間の反映ではなくなります。良心は善であるかた白身に耳を傾けることのできる力となるのです。
34 このような清めの力を深めるために、祈りはまず個人的なものとならなければなりません。わたしの内面と、神との、それも生きた神との出会いとならなければなりません。同時に、教会と聖人の優れた祈り、また典礼の祈りがこの祈りをつねに導き、照らさなければなりません。こうした祈りの中で、主は正しく祈ることを教え続けてくださるからです。グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿は、黙想の書の中でいいます。その人生の中で、枢機卿は長い間祈ることができませんでした。そして枢機卿は、教会の祈りのことばを唱え続けました。すなわち、主の祈り、聖母マリアヘの祈り、典礼の祈りです(27)。祈りはつねにこうして公的な祈りと個人的な祈りを組み合わせて行わなければなりません。このようにしてわたしたちは神に語りかけることができます。また、このようにして神はわたしたちに語りかけることができます。こうしてわたしたちは清めを行います。清めを通してわたしたちの心は神に開かれたものとなり、人々に奉仕するよう整えられます。こうしてわたしたちは偉大な希望を受け入れることができるようになり、そこから、他の人のために希望に奉仕する者となります。キリスト教的な意味での希望は必ず、他の人のための希望です。それは生き生きとした希望です。わたしたちはこの希望によって、すべてが「誤った終わり」(カント)に向かうことがないよう戦うからです。それは生き生きとした希望です。なぜなら、わたしたちは世をいつまでも神に開かれたものとするからです。このようにして初めて、希望は真の意味で人間らしいものとなることができるのです。
(26) 聖アウグスティヌス『ヨハネの手紙一講解』(S. Augustinus, In Ioannis epistulam ad Parthos tractatus 4, 6: PL 35, 2008s) 参照。
(27) グェン・ヴァン・トゥアン『希望のあかし』(Nguyen Van Thuan, Testimono della speranza, Citta’ Nuova 2000, 156s)。
年間 第32土曜日??
??「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」
ルカ18・1-8
? 私たちの現実の中で、神の言葉は必ず成就するのだと信じて、生きていくために、どうしても必要なことは祈りである。祈りとは、私たちが神に求めていくものだと考えがちである。もちろんその祈りも大事であるが、祈りの根本は、願いや求めではなく、神の言葉に従って生きていこうとする者の、直面する困憊(こんぱい)や、不安の中から生まれる叫びだと想う。これでよいのですか、こんなことをしていてだいじょうぶですかという叫びだと思う。パウロも次のように証言している。「十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」(コリントI.2.2ー3)。イエスの十字架だけで生きようとしたとき、彼もまた非常に不安を感じたのである。そのように神に信頼をおけばおくほど、私たちは不安を感じ、その中から叫びが出てくる。私たちが信仰生活をしていくとき、不安を感じてこないのは、神の言葉をまともに聞いていないからである。イエスの祈りはどうであったろうか。「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」(ヘブル・5・7)とあるが、それは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」-すなわち「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ・27・46)に見られる。このときだけ、ただ祈ったというのでなく叫んだと書かれてある。神に祈っているのか、人に聞いてもらっているのか、神様感謝いたしますという最後の言葉がなければ、祈りかなにかわからないあいさつのような祈りをする人がいます。祈りは、祈る言葉とか、祈る時が問題ではなく、私たちが神に対してどのような生き方をしているかが問われるのである。神への深い信頼と真実の生き方からだけ叫びの祈りは生まれてくる。(榎本)
年間 第27木曜日
ルカ11・5-13
? このたとえ話は、祈りの福音書とも言われ、祈りについてもっとも多く語っているルカだけのものです。祈りについて大切な二点が述べられています。第一は、「根気よく」、第二に、「心の触れ合いのもとに」、「親しさのもとに」、祈るということです。それによって祈りは必ず聞き入れられます。ごく親しい友人同士でなければ、真夜中行ってパンを貸してくれと言ったりはしないでしょう。
神に向ける祈りの条件は、ただ長い時間をかけて願うということではなく、なによりも日頃から深い心の触れ合いのある友人同士なので、迷惑をかけても承知の上で、大胆にしつこいほど頼んでもいいということです。イエスの祈りはどうだったでしょうか。オリーブの山で、「父よ、み旨なら、この杯を私から取り去って下さい。しかし、私の思いではなく、み心が行われますように」といのりました。イエスの祈りは聞き入れられました。しかし、その場ですぐに苦しみが取り除かれたのではなく、その苦しみを通して、イエスが本当に望んでおられたことが実現したのです。
私たちが人間の小さな頭で考えて望んだことよりも、もっとすばらしい方法で、私たちの望みが実現すると保証されています。(ネメシュ)
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難しい現実に立ち向かおうとする時、私たちは、キリストの視点に立つことが大切です。どんなに時間がかかっても、無駄に思えてもキリストの生き方に従う力を、願い求める人々に聖霊を約束してくださった神から頂くよう祈りたい。??
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「求めるものには」、「探すものには」、「門をたたく者には」ということばを、条件と受け取ってはいないでしょうか。父である神は、無条件にわたしたちを大切にして下っています。与えられないのは、見つからないのは、開かれないのはヒョッとしたら与えられているのに気付かず、目の前にあるのに見ようとせず、開いているのに別のところをたたいているのかもしれません。
主よ、わたしの思いではなく、あなたの思いを悟らせてください。sese
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ホミリア(世界宣教の日)和泉教会 19/10/2025
兄弟姉妹の皆さん、
今日は「世界宣教の日」です。全世界の教会が、祈りと関心、そして具体的な支援をもって、福音をすべての人々に告げ知らせるという使命を新たに心に刻む日です。
第一朗読の出エジプト記では、アマレクとの戦いの場面が描かれました。モーセが手を上げて祈るとイスラエルが優勢になり、手を下ろすと劣勢になる。そこでアロンとフルが両側から支えて、モーセの手を上げ続けさせました。ここには、神の民が勝利するために「祈り」と「支え合い」が不可欠だという深い真理が示されています。宣教も同じです。前線で福音を告げ知らせる宣教師だけでなく、祈りによって、また具体的な援助によって彼らを支える人々がいてこそ、教会は共に神の働きにあずかることができます。
第二朗読、2テモテへの手紙では、パウロが「聖書にとどまりなさい」と呼びかけます。神の言葉は「教え、誤りを正し、義に導く」力を持っています。そして彼は若い弟子に「みことばを宣べ伝えなさい」と勧めます。これはまさに今日、世界宣教の日に響く御言葉です。宣教の原動力は私たちの工夫や力ではなく、神の言葉そのものです。私たちがその言葉に養われ、心に燃えるものがあるとき、それが外にあふれていくのです。
福音書では、やもめが裁判官にしつこく訴え続け、ついには願いを聞き入れられるというイエスのたとえが語られました。これは「絶えず祈りなさい」という教えです。宣教もまた、祈りの中で神にしがみつくような粘り強さが求められます。宣教は人間の事業ではなく、神ご自身の業だからです。私たちが諦めずに祈るとき、主は必ず働かれます。
兄弟姉妹の皆さん、
宣教は、遠い国に行く人だけのものではありません。モーセの両手を支えたアロンとフルのように、祈りと小さな献げものによって、私たちは宣教に深く関わることができます。そして身近な家庭や職場で、聖書の言葉に根ざして生きること自体が、力強い宣教の証しとなります。
この世界宣教の日にあたり、私たちがもう一度、「福音をすべての人に」という教会の普遍的な使命を自分のものとして受け止めましょう。祈りをもって宣教師を支え、日々の生活の中で神の言葉を証しし、そして心からのささやかな献げ物によって、世界中の兄弟姉妹とつながりましょう。
最後に、今日の御言葉を一つにまとめるならこうです。
「祈りによって支え合い、みことばに根ざし、粘り強く主に信頼して、福音を世界に告げ知らせなさい。」
One way of viewing all that, however, is that God has a high opinion of us, higher than we have of ourselves. HE believes we can do things that WE don't believe we can. (And in truth, a life without significant challenges would be a boring life.) So even as we feel the immense gap between what we can do and what we think needs to be done, we can also recognize that we're in training for something we can't really imagine. The kind of perfect peace, illumination, love that God originally intended for us.
C.S. Lewis called this the "weight of glory," a great phrase that reminds us that we are going to be weighed down by challenges so that we can rise up – a typical paradox of Christianity.Lewis describes this as "a load so heavy that only humility can carry it, and the backs of the proud will be broken."
What we're faced with today is the re-conversion of our whole society, something like how the early Christians converted the Roman Empire. We know that Christians practiced conspicuous charity, caring for the elderly, the sick, the poor, the marginalized, those in prison, babies no one wanted. Many came to Christianity because of those corporal works of mercy and love. You are continuing that tradition.
こちらを日本語に訳しました。なるべく原文のリズムやニュアンスを保ちつつ、自然な日本語になるようにしています。
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とはいえ、別の見方をすれば、神は私たちをとても高く評価しておられる、私たち自身が自分を思う以上に高く評価しておられる、ということです。神は、私たち自身ができないと思っていることを、私たちができると信じてくださっているのです。(実際、重大な挑戦のない人生など、退屈な人生でしょう。)だから、自分ができることと、やらねばならないと感じることとの間に大きな隔たりを感じながらも、同時に、私たちは自分では想像もできないような何かに備えて訓練されているのだと認識することができます。神がもともと私たちのために意図された、完全な平和、光明、愛のようなもののために。
C.S.ルイスはこれを「栄光の重み」と呼びました。すばらしい表現であり、それは、私たちが挑戦によって重く負わされることで、むしろ高く引き上げられるという、キリスト教特有の逆説を思い起こさせます。ルイスはこれを「謙遜だけが担うことのできるほどの重荷であり、傲慢な者の背を折るほどのものだ」と述べています。
今日、私たちが直面しているのは、社会全体の再回心という課題です。それは、初期のキリスト者たちがローマ帝国を回心へと導いたことに似ています。キリスト者たちは顕著な慈善を実践しました。高齢者、病人、貧しい人、疎外された人、囚人、望まれなかった赤ん坊を世話しました。そのような肉体的な慈善と愛のわざを通して、多くの人々がキリスト教に惹かれていったのです。そして、あなたがたはその伝統を今も引き継いでいるのです。
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28 per annum C
年間28主日 C
ルカ17:11-19
重い皮膚病を患っている十人の人をいやす
復活節 第3月
ヨハネ6・22-29
つまりどんなに大きな奇跡を経験していても、それがイエス・キリストが「神から遣わされた者」であることを読み取るしるしにはなるとは限らないのです。見ることと、見抜くことは違う、あるいは見ることと見分けることは違うということです。見てはいても見抜くことができない。あるいは見分けることができない。イエス・キリストは別のところでイザヤの言葉を引いて「あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」(マタイ13:14、イザヤ6:5)とも言われました。
これは今日の私たちにもあてはまることではないでしょうか。私たちも、時々不思議な出来事に遭遇いたします。その時に、同じ経験をしていても、ある人はそれを単なる偶然と見ますし、ある人はそこに何らかの神様の働きを見ます。いい出来事があった時に、ある人はそれを単にラッキーと喜ぶだけですが、ある人はそこに神様の恵みを覚えて、感謝をします。逆に悪いことが起こった時にも、そ
れをただ不運と見るのか、あるいはそこに神様の何かしらの警告を見るのか。「神も仏もあるものか」と思うか、あるいは「どうして神様はこのようなことをなさるのか」と深く考えるか。そこに違いが出てくるのではないでしょうか。http://www.km-church.or.jp/index.html
年間 第32水曜日・パウロ会 96/11/13????? ルカ17・ 11-19 ?
「健康さえあれば恐いものなし」と思っている人々はたくさんいますが、しかし体の健康よりも心の健康の方が大切であることを改めて学ぶ必要があると思います。らい病を患っていた人々は病気のときにグループとして行動し、助け合っていたが、元気になったとたん、ばらばらになりました。自分たちの心の病気に目を止めていなかったからでしょう。(ステファニ)イエス様はこの人々のいのちを助けて上げたけれども、決して恩きせはしません。完全に彼らの自由にまかせます。困った時に、助けを求めますが、よくなりますと、(のどもとを過ぎれば熱さわすれる)恩を忘れて平気な顔をします。信仰生活の場合もそうですが、困っているとき神の助けを求めますが、一応問題が解決しますとイエスの言うことを聞かなくなります。恩着せがましい神様に従った方がいいなのでしょうか?自由にしてくださる神様に従うことにどのような意味があるのでしょうか?
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わたしが患っている重い皮膚病は何か。わたしを他者から隔ててしまう心の傷、エゴイズム、偏見、プライド・・・。その重さにわたしは気付いているだろうか。声を張り上げて、「イエスさま、憐れんでください」と叫ぶことができるだろうか。実際に私たちは既に、イエスの血と水によって清くされた。その事実を見ようとしているだろうか。
主よ、敏感な心をお与えください。日々あなたに癒して頂いていることに気付き、感謝のうちに生きていけますように。
聖書では救われるということは、ただ自分の問題が解決されることではなく、その自分の問題を解決してくださったかたが誰であるかを知って、そのかたを信じるようになること、そのかたと交わるようになることだというのです。
自分が本当に救われるためには、ただ自分が幸福になることではなく、自分を幸せにしてくれるかたと交わること、自分以外の人に目を向けることなのではないか。自分だけに向けられていた目を、他の人にも向けるということです。
ナアマンは預言者エリシャのところに彼のほうから出かけていって、「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。これからはただイスラエルの神、ヤハウェだけにひれ伏します」と言って、預言者エリシャに感謝をするのであります。
この記事は、われわれが本当に救われるためには、あまりきれいでもないヨルダン川に七度自分の身を清める、そういうへりくだるという行為をしないとわれわれは救われないのだということをよく示している記事であります。彼は将軍ですから、英雄的なかっこうのいいことなら、喜んですることができるのです。
しかし神を信じるというこは、そういうことではなく、神の前に身を低くすることであります。神の前にひれ伏して、砕けた魂を捧げることなのであります。そういう信仰をわれわれがもてないならば、われわれの病は一時的にはいやされても、われわれの体の根源にあるわれわれの罪は清められることはない、救われることはないのであります。
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年間第6主日B
マルコ1・40-45
「重い皮膚病」は聖書の中で以前は「らい病」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止を契機に新約聖書・新共同訳で「重い皮膚病」と訳されることになりました。差別的なニュアンスのある「らい病」という言葉を避けるためであり、また、聖書の中のこの病気が現代医学の「ハンセン病」と同じだとは言い切れないからです。しかし、「重い皮膚病」と言ってしまうとあまりに漠然としていて、古代から続くハンセン病の患者たちの大きな苦しみを感じることができなくなってしまうかもしれません。
最近のハンセン病の国家賠償請求訴訟の報道で、元患者さんたちがマスコミの前に堂々とお出になるようになりました。比較的後遺症の軽い方々がテレビに登場されたのですが、それでも、顔の表情が変わってしまわれたり、手の指が失われていたり、関節が曲がったままになっていらしたり、歩けなくなる方もいる。症状が進むと、失明もするのです。そうするとここを「重い皮膚病」と訳すのは、やはりこれもまた十分ではない。だいたい現代では、「重い皮膚病」と言えば、ハンセン病のことを連想する人はまずいないでしょう。むしろほとんどの人は、「アトピー性皮膚炎」を連想することでしょう。
しかしいずれにしても、十分な訳語が見つからないこともまた事実でありまして、それがまたこの問題の歴史を表しているようなものなのです。
さて「らい病」と判定された者は一般社会から隔離された所に住み、普通の人と交わることはもちろん、近づくことさえ許されていなかった。人が近くに来ると、「汚れた者、汚れた者」と叫んで、その存在を知らせなければならなかった。ただ神だけがらい病を清めることができるとされ、らい病人の清めはメシヤがもたらす終末的な祝福の一つとされたいた。
洗礼者ヨハネが弟子を遣わして、「『来るべきかた』はあなたですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と訊ねた時、イエスはこう答えておられる。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」また、イエスは十二弟子を宣教に派遣するにあたって、こう言っておられる。「 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」(マタイ一〇・七~八)。これらの箇所で「らい病人の清め」が他の病気の癒しとは別の種類の業として扱われていることが注目される。それは「清める」という動詞が示唆しているように、単なる身体の病気の治癒ではなく、「汚れた者」として神の民の交わりから断たれていた者が「清い者」として再び神の民の交わりに迎え入れられることを意味している。「らい病人を清める」ことは、「死人を生き返らせる」ことと並んで、終末時の神の業として特別の意義を持っているので、マルコは一人のらい病人の癒しを他の多くの癒しの業の中に埋没させることなく、詳しく伝えるのである。
やはり、ここでらい病は罪を背負っている人間の状態を描くシンボルだと思われます。神も隣人も愛せない人間がらい病患者のようなものだ、そのような恐ろしい難病にかかっているようだ、というわけです。
さて、イエスがガリラヤのある町におられた時、「ひとりのらい病人がイエスのもとに来て、ひざまずいて願って言った」。らい病人は人に近づくことも許されていなかった。彼がその律法の枠の中に止まっていたならば、救われることはなかったであろう。彼が癒されたいという切なる願いと、イエスに対する信頼とによって、律法という隔ての垣根をあえて踏み超えて、イエスのもとに来てひれ伏した時、救いが始まったのである。イエスも律法を超えてらい病人を受け入れておられる。イエスのもとにひざまずくらい病人、そこはすでに律法を超えた場である。
「あなたはわたしを清めることもできるかたです」と彼は言っている。らい病人を清めることが神の終末的な業であることを考えると、本人は自覚していたかどうかはわからないが、この告白はイエスを終末的メシヤと告白する重大な意味を持つものになる。とにかく彼は人間の力が絶する所でただイエスの中に働く神の力だけに頼り、「それがあなたの意志であれば」と言って、自分の死生をイエスの意志に委ねて、その足元にひれ伏したのであった。
この一言にこの人の、すべての思いが語られているように思えるのです。なんというすばらしい信仰告白の言葉でしょうか。誰にも解決できない、治すこともできない、そして言われなき差別と偏見、そして自ら「汚れた者」と言わなくてはならない屈辱の中に生きてきた。しかしこの人は言葉を発しました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」‥‥イエスさまならいっさいを解決することがおできになりますと。
すると、イエスさまは手を差し伸べて、その人に触れました。イエスさまは病気をおいやしになるとき、いつも手を触れたわけではありません。言葉だけで命じて、病気をいやされたことも多いのです。しかしこの時は、手を差し伸べて、この人に触れました。これを見ていた人はどんなに驚いたことでしょうか。誰も触れない、いや触れてはならない病気にかかった人、その人に主イエスは手を伸ばして触れられたのです。群衆の目が、そのイエスさまの手に釘付けにされたことでしょう。
そして主は言われました。「よろしい。清くなれ。」そしてその人のらい病はいやされてしまいました。
これがキリストの奇跡です。イエスさまの奇跡は、愛の奇跡です。ただ人を驚かすだけの奇跡ではありません。そんなものは奇跡ではないのです。誰も触れることのなかったところに手を伸ばして触れられ、いやして下さる方です。これが私たちの主です。この方が、私たちのためにも十字架にかかってくださったのです。この方が、私たちの生涯の主です。私たちと共に歩まれる方です。感謝ですね。
常識の世界に住んでいる人間が、信仰の青空を見上げると、そこに奇跡という雲がかかっていて、理解を妨げているように見えます。信仰のある人にとっては、奇跡は当り前かもしれません。しかし又、信仰を求めていながらまだ得られない人にとって、奇跡は実にやっかいなもので、天国の門前にいるお鬼のようなものです。奇跡が信仰を生むのか、信仰が奇跡を生むのか。どちらが先か分からない問題の例として「たまごが先か、にわとりが先か」というのがあります。しかし、信仰は人間の産物ではなくて、神の賜物だとすると、奇跡が分からないと言って思い悩むのではなく、信仰を与えて下さいと願い求めることが大切です。そしてその信仰は、復活のキリストに出会うという経験によるのです。生けるキリストに出会って倒される。そして彼に起こされる。すると倒される前の自分と、起こされてからの自分とでは本質的に全く異なっている自分を発見するのです。復活のキリストとの出会いという最大の奇跡を経験すると、他のもろもろの奇跡は、いかにもイエスにふさわしいものに見えてくるから不思議です。
このらい病人は神の力を体験した喜びのあまり、自分の身に起こった事を語らないではおれなかったのであろう。彼がこの事を言い広めたので、ユダヤ教当局からイエスはメシヤを自称して民衆を扇動する者ではないかと疑われるようになり、町に入り会堂で公に宣教することができなくなり、町の外の寂しい所で教えるようになった。これまでは「諸会堂に入り、福音を宣べ伝え」ておられたのに、これ以後は会堂での宣教はごく僅かになり、おもに海辺や家の中、山辺や旅路で語られることになる。それでも、イエスが行かれる所にはいつも律法学者たちがいて、イエスの言動を監視し、批判し、論争するようになる。
福音書のテーマの一つは、イエスに対する人間の無理解があります。親しい少数の弟子たちですら、聖霊降臨の経験を得るまで、十字架のイエスを理解していません。まして一般の民衆たちは、奇跡を行ない、病気を治してくれるイエスを崇め敬いますが、世の罪を負って十字架に向かうイエスには無関心です。イエスは病気の治療を使命の一つとして引き受けながらも、神を愛して十字架の道を歩むことを教えるという、真の救済に至る福音には程遠いことを感じて、口止めしたのではないでしょうか?
主よ、
自分の利益だけを求めようとする
心の病を癒してください。
あなたの愛をもっと深く知り、
あなたのように愛する恵みを
お与えください。
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病を癒された十人のうち、感謝のためにイエスのもとに戻ってきた者は、たった一人だったのです。その一人に対してイエスはあなたの信仰があなたを救った、と宣言されます。今日の物語のテーマはここにあります。病が癒されたことに救いをみるのではなく、感謝のために戻ってきたということに救いをみています。今日ここで、感謝の心と救いの関係を確かめてみたいと思います。
まず、十人のらい病に苦しんでいる人々のことを考えてみましょう。彼らは、自分の悲しい現実を、本当に苦しんでいたと思います。治るみこみのない病気。当時はそう考えられていました。体は徐々に徐々にむしばまれていきます。人々の助けと支えを必要としているにもかかわらず、村の共同生活から追放されます。村に入るときには鈴をつけて自分の存在を知らせなければなりません。人々の白い目、冷たい視線をおびながら、孤独の中に、病気を耐えていかなければならなかった人々。どうしようもないやみの中にとざされ、すべてをあきらめなければならなかった人々。そうした人々の心に、イエスのうわさはどのように伝わったかわかりません。おそらく、おぼれる者がわらをもつかむような思いで、イエスとの出会いを首を長くして待っていたのではなかと思います。
彼らはイエスが自分たちの近くの村においでになったと知った時、この機会を逃がすまいと、遠くから、声を限りにイエスに向かって叫びました。その叫びは、自分のどうしようもない状態に、力強い助けを求める呼びかけであると同時に、みんなから捨てられてしまった人々が必死に、あたたかな合いの手を求める叫びでもあったのです。
自分で自分を支えきれない弱さと悲しさ、そして他人の助けと支えを求めざるをえないという状態、それは形こそちがうでしょうが、私たちすべての人間に共通なことです。人間存在そのものが、他人の愛と力を求めているのです。聖書の中に登場する病んだ人々は、ときとして私たちそのものです。実際、私たちは弱く、病んでいるのです。私たちは自分の力では生きていけないものです。
考えてみてください。私たちは生まれたその瞬間から、私たちをあたたかく受けとってくれる両親を必要としています。食べるものをはじめとして、生きていくためのすべてを与えられなければ、存在を続けることさえできないのです。それは成人したあとも同じことです。他者の力を借りず、自分一人で生きていける、生きていると思っている人は傲慢であり、大変な錯覚の中にいるのです。(商売をする人は、お得意さんを必要としています。会社がなければ仕事できない)。
衣食住だけではありません。精神的な支えにおいても、私たちは、他人のあたたかな心を必要としています(差別されている人に聞いてください)。現代の心理学者たちは、人間の魂は、愛という栄養分を求めていると言い切っています。食べ物だけでは心は育たないということです。あたたかな好意にみちた愛につつまれるのでなければ、人間の心は成長しないのです。つまり、私たち人間が生きていくことができるのは、私たちの上に神のあたたかな愛の力がそそがれているからです。しかもその愛と力は、無償で与えられるのです。私たちは、愛と力を要求できる権利も資格も価値もありません。すべては恵みです。恵みの中で、私たちの人生があるのです。これからの人生も、恵みの中にあるのです。この事実に目覚めること、そこに感謝が生まれます。感謝が生まれれば、より深く、神の愛とつながることになります。そのつながりが私たちに安定を与えます。
いやされたことに気が付いた感謝のためにもどってきた男に向かって、イエスはいわれます。
「あなたの信仰があなたを救った」と。
感謝のためにもどってきた男は、イエスの愛と力に、より深く、より確かにつながれたのです。彼の心に、より深くイエスが入ってこられたのです。それが彼の救いとなったのです。後の九人は、病がいやされても、このあとも自分勝手、自分中心な孤独な生活を続けたのではないかと思います。
ルカ17:11-19
重い皮膚病を患っている十人の人をいやす
復活節 第3月
ヨハネ6・22-29
つまりどんなに大きな奇跡を経験していても、それがイエス・キリストが「神から遣わされた者」であることを読み取るしるしにはなるとは限らないのです。見ることと、見抜くことは違う、あるいは見ることと見分けることは違うということです。見てはいても見抜くことができない。あるいは見分けることができない。イエス・キリストは別のところでイザヤの言葉を引いて「あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」(マタイ13:14、イザヤ6:5)とも言われました。
これは今日の私たちにもあてはまることではないでしょうか。私たちも、時々不思議な出来事に遭遇いたします。その時に、同じ経験をしていても、ある人はそれを単なる偶然と見ますし、ある人はそこに何らかの神様の働きを見ます。いい出来事があった時に、ある人はそれを単にラッキーと喜ぶだけですが、ある人はそこに神様の恵みを覚えて、感謝をします。逆に悪いことが起こった時にも、そ
れをただ不運と見るのか、あるいはそこに神様の何かしらの警告を見るのか。「神も仏もあるものか」と思うか、あるいは「どうして神様はこのようなことをなさるのか」と深く考えるか。そこに違いが出てくるのではないでしょうか。http://www.km-church.or.jp/index.html
年間 第32水曜日・パウロ会 96/11/13????? ルカ17・ 11-19 ?
「健康さえあれば恐いものなし」と思っている人々はたくさんいますが、しかし体の健康よりも心の健康の方が大切であることを改めて学ぶ必要があると思います。らい病を患っていた人々は病気のときにグループとして行動し、助け合っていたが、元気になったとたん、ばらばらになりました。自分たちの心の病気に目を止めていなかったからでしょう。(ステファニ)イエス様はこの人々のいのちを助けて上げたけれども、決して恩きせはしません。完全に彼らの自由にまかせます。困った時に、助けを求めますが、よくなりますと、(のどもとを過ぎれば熱さわすれる)恩を忘れて平気な顔をします。信仰生活の場合もそうですが、困っているとき神の助けを求めますが、一応問題が解決しますとイエスの言うことを聞かなくなります。恩着せがましい神様に従った方がいいなのでしょうか?自由にしてくださる神様に従うことにどのような意味があるのでしょうか?
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わたしが患っている重い皮膚病は何か。わたしを他者から隔ててしまう心の傷、エゴイズム、偏見、プライド・・・。その重さにわたしは気付いているだろうか。声を張り上げて、「イエスさま、憐れんでください」と叫ぶことができるだろうか。実際に私たちは既に、イエスの血と水によって清くされた。その事実を見ようとしているだろうか。
主よ、敏感な心をお与えください。日々あなたに癒して頂いていることに気付き、感謝のうちに生きていけますように。
聖書では救われるということは、ただ自分の問題が解決されることではなく、その自分の問題を解決してくださったかたが誰であるかを知って、そのかたを信じるようになること、そのかたと交わるようになることだというのです。
自分が本当に救われるためには、ただ自分が幸福になることではなく、自分を幸せにしてくれるかたと交わること、自分以外の人に目を向けることなのではないか。自分だけに向けられていた目を、他の人にも向けるということです。
ナアマンは預言者エリシャのところに彼のほうから出かけていって、「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。これからはただイスラエルの神、ヤハウェだけにひれ伏します」と言って、預言者エリシャに感謝をするのであります。
この記事は、われわれが本当に救われるためには、あまりきれいでもないヨルダン川に七度自分の身を清める、そういうへりくだるという行為をしないとわれわれは救われないのだということをよく示している記事であります。彼は将軍ですから、英雄的なかっこうのいいことなら、喜んですることができるのです。
しかし神を信じるというこは、そういうことではなく、神の前に身を低くすることであります。神の前にひれ伏して、砕けた魂を捧げることなのであります。そういう信仰をわれわれがもてないならば、われわれの病は一時的にはいやされても、われわれの体の根源にあるわれわれの罪は清められることはない、救われることはないのであります。
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年間第6主日B
マルコ1・40-45
「重い皮膚病」は聖書の中で以前は「らい病」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止を契機に新約聖書・新共同訳で「重い皮膚病」と訳されることになりました。差別的なニュアンスのある「らい病」という言葉を避けるためであり、また、聖書の中のこの病気が現代医学の「ハンセン病」と同じだとは言い切れないからです。しかし、「重い皮膚病」と言ってしまうとあまりに漠然としていて、古代から続くハンセン病の患者たちの大きな苦しみを感じることができなくなってしまうかもしれません。
最近のハンセン病の国家賠償請求訴訟の報道で、元患者さんたちがマスコミの前に堂々とお出になるようになりました。比較的後遺症の軽い方々がテレビに登場されたのですが、それでも、顔の表情が変わってしまわれたり、手の指が失われていたり、関節が曲がったままになっていらしたり、歩けなくなる方もいる。症状が進むと、失明もするのです。そうするとここを「重い皮膚病」と訳すのは、やはりこれもまた十分ではない。だいたい現代では、「重い皮膚病」と言えば、ハンセン病のことを連想する人はまずいないでしょう。むしろほとんどの人は、「アトピー性皮膚炎」を連想することでしょう。
しかしいずれにしても、十分な訳語が見つからないこともまた事実でありまして、それがまたこの問題の歴史を表しているようなものなのです。
さて「らい病」と判定された者は一般社会から隔離された所に住み、普通の人と交わることはもちろん、近づくことさえ許されていなかった。人が近くに来ると、「汚れた者、汚れた者」と叫んで、その存在を知らせなければならなかった。ただ神だけがらい病を清めることができるとされ、らい病人の清めはメシヤがもたらす終末的な祝福の一つとされたいた。
洗礼者ヨハネが弟子を遣わして、「『来るべきかた』はあなたですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と訊ねた時、イエスはこう答えておられる。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」また、イエスは十二弟子を宣教に派遣するにあたって、こう言っておられる。「 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」(マタイ一〇・七~八)。これらの箇所で「らい病人の清め」が他の病気の癒しとは別の種類の業として扱われていることが注目される。それは「清める」という動詞が示唆しているように、単なる身体の病気の治癒ではなく、「汚れた者」として神の民の交わりから断たれていた者が「清い者」として再び神の民の交わりに迎え入れられることを意味している。「らい病人を清める」ことは、「死人を生き返らせる」ことと並んで、終末時の神の業として特別の意義を持っているので、マルコは一人のらい病人の癒しを他の多くの癒しの業の中に埋没させることなく、詳しく伝えるのである。
やはり、ここでらい病は罪を背負っている人間の状態を描くシンボルだと思われます。神も隣人も愛せない人間がらい病患者のようなものだ、そのような恐ろしい難病にかかっているようだ、というわけです。
さて、イエスがガリラヤのある町におられた時、「ひとりのらい病人がイエスのもとに来て、ひざまずいて願って言った」。らい病人は人に近づくことも許されていなかった。彼がその律法の枠の中に止まっていたならば、救われることはなかったであろう。彼が癒されたいという切なる願いと、イエスに対する信頼とによって、律法という隔ての垣根をあえて踏み超えて、イエスのもとに来てひれ伏した時、救いが始まったのである。イエスも律法を超えてらい病人を受け入れておられる。イエスのもとにひざまずくらい病人、そこはすでに律法を超えた場である。
「あなたはわたしを清めることもできるかたです」と彼は言っている。らい病人を清めることが神の終末的な業であることを考えると、本人は自覚していたかどうかはわからないが、この告白はイエスを終末的メシヤと告白する重大な意味を持つものになる。とにかく彼は人間の力が絶する所でただイエスの中に働く神の力だけに頼り、「それがあなたの意志であれば」と言って、自分の死生をイエスの意志に委ねて、その足元にひれ伏したのであった。
この一言にこの人の、すべての思いが語られているように思えるのです。なんというすばらしい信仰告白の言葉でしょうか。誰にも解決できない、治すこともできない、そして言われなき差別と偏見、そして自ら「汚れた者」と言わなくてはならない屈辱の中に生きてきた。しかしこの人は言葉を発しました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」‥‥イエスさまならいっさいを解決することがおできになりますと。
すると、イエスさまは手を差し伸べて、その人に触れました。イエスさまは病気をおいやしになるとき、いつも手を触れたわけではありません。言葉だけで命じて、病気をいやされたことも多いのです。しかしこの時は、手を差し伸べて、この人に触れました。これを見ていた人はどんなに驚いたことでしょうか。誰も触れない、いや触れてはならない病気にかかった人、その人に主イエスは手を伸ばして触れられたのです。群衆の目が、そのイエスさまの手に釘付けにされたことでしょう。
そして主は言われました。「よろしい。清くなれ。」そしてその人のらい病はいやされてしまいました。
これがキリストの奇跡です。イエスさまの奇跡は、愛の奇跡です。ただ人を驚かすだけの奇跡ではありません。そんなものは奇跡ではないのです。誰も触れることのなかったところに手を伸ばして触れられ、いやして下さる方です。これが私たちの主です。この方が、私たちのためにも十字架にかかってくださったのです。この方が、私たちの生涯の主です。私たちと共に歩まれる方です。感謝ですね。
常識の世界に住んでいる人間が、信仰の青空を見上げると、そこに奇跡という雲がかかっていて、理解を妨げているように見えます。信仰のある人にとっては、奇跡は当り前かもしれません。しかし又、信仰を求めていながらまだ得られない人にとって、奇跡は実にやっかいなもので、天国の門前にいるお鬼のようなものです。奇跡が信仰を生むのか、信仰が奇跡を生むのか。どちらが先か分からない問題の例として「たまごが先か、にわとりが先か」というのがあります。しかし、信仰は人間の産物ではなくて、神の賜物だとすると、奇跡が分からないと言って思い悩むのではなく、信仰を与えて下さいと願い求めることが大切です。そしてその信仰は、復活のキリストに出会うという経験によるのです。生けるキリストに出会って倒される。そして彼に起こされる。すると倒される前の自分と、起こされてからの自分とでは本質的に全く異なっている自分を発見するのです。復活のキリストとの出会いという最大の奇跡を経験すると、他のもろもろの奇跡は、いかにもイエスにふさわしいものに見えてくるから不思議です。
このらい病人は神の力を体験した喜びのあまり、自分の身に起こった事を語らないではおれなかったのであろう。彼がこの事を言い広めたので、ユダヤ教当局からイエスはメシヤを自称して民衆を扇動する者ではないかと疑われるようになり、町に入り会堂で公に宣教することができなくなり、町の外の寂しい所で教えるようになった。これまでは「諸会堂に入り、福音を宣べ伝え」ておられたのに、これ以後は会堂での宣教はごく僅かになり、おもに海辺や家の中、山辺や旅路で語られることになる。それでも、イエスが行かれる所にはいつも律法学者たちがいて、イエスの言動を監視し、批判し、論争するようになる。
福音書のテーマの一つは、イエスに対する人間の無理解があります。親しい少数の弟子たちですら、聖霊降臨の経験を得るまで、十字架のイエスを理解していません。まして一般の民衆たちは、奇跡を行ない、病気を治してくれるイエスを崇め敬いますが、世の罪を負って十字架に向かうイエスには無関心です。イエスは病気の治療を使命の一つとして引き受けながらも、神を愛して十字架の道を歩むことを教えるという、真の救済に至る福音には程遠いことを感じて、口止めしたのではないでしょうか?
主よ、
自分の利益だけを求めようとする
心の病を癒してください。
あなたの愛をもっと深く知り、
あなたのように愛する恵みを
お与えください。
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病を癒された十人のうち、感謝のためにイエスのもとに戻ってきた者は、たった一人だったのです。その一人に対してイエスはあなたの信仰があなたを救った、と宣言されます。今日の物語のテーマはここにあります。病が癒されたことに救いをみるのではなく、感謝のために戻ってきたということに救いをみています。今日ここで、感謝の心と救いの関係を確かめてみたいと思います。
まず、十人のらい病に苦しんでいる人々のことを考えてみましょう。彼らは、自分の悲しい現実を、本当に苦しんでいたと思います。治るみこみのない病気。当時はそう考えられていました。体は徐々に徐々にむしばまれていきます。人々の助けと支えを必要としているにもかかわらず、村の共同生活から追放されます。村に入るときには鈴をつけて自分の存在を知らせなければなりません。人々の白い目、冷たい視線をおびながら、孤独の中に、病気を耐えていかなければならなかった人々。どうしようもないやみの中にとざされ、すべてをあきらめなければならなかった人々。そうした人々の心に、イエスのうわさはどのように伝わったかわかりません。おそらく、おぼれる者がわらをもつかむような思いで、イエスとの出会いを首を長くして待っていたのではなかと思います。
彼らはイエスが自分たちの近くの村においでになったと知った時、この機会を逃がすまいと、遠くから、声を限りにイエスに向かって叫びました。その叫びは、自分のどうしようもない状態に、力強い助けを求める呼びかけであると同時に、みんなから捨てられてしまった人々が必死に、あたたかな合いの手を求める叫びでもあったのです。
自分で自分を支えきれない弱さと悲しさ、そして他人の助けと支えを求めざるをえないという状態、それは形こそちがうでしょうが、私たちすべての人間に共通なことです。人間存在そのものが、他人の愛と力を求めているのです。聖書の中に登場する病んだ人々は、ときとして私たちそのものです。実際、私たちは弱く、病んでいるのです。私たちは自分の力では生きていけないものです。
考えてみてください。私たちは生まれたその瞬間から、私たちをあたたかく受けとってくれる両親を必要としています。食べるものをはじめとして、生きていくためのすべてを与えられなければ、存在を続けることさえできないのです。それは成人したあとも同じことです。他者の力を借りず、自分一人で生きていける、生きていると思っている人は傲慢であり、大変な錯覚の中にいるのです。(商売をする人は、お得意さんを必要としています。会社がなければ仕事できない)。
衣食住だけではありません。精神的な支えにおいても、私たちは、他人のあたたかな心を必要としています(差別されている人に聞いてください)。現代の心理学者たちは、人間の魂は、愛という栄養分を求めていると言い切っています。食べ物だけでは心は育たないということです。あたたかな好意にみちた愛につつまれるのでなければ、人間の心は成長しないのです。つまり、私たち人間が生きていくことができるのは、私たちの上に神のあたたかな愛の力がそそがれているからです。しかもその愛と力は、無償で与えられるのです。私たちは、愛と力を要求できる権利も資格も価値もありません。すべては恵みです。恵みの中で、私たちの人生があるのです。これからの人生も、恵みの中にあるのです。この事実に目覚めること、そこに感謝が生まれます。感謝が生まれれば、より深く、神の愛とつながることになります。そのつながりが私たちに安定を与えます。
いやされたことに気が付いた感謝のためにもどってきた男に向かって、イエスはいわれます。
「あなたの信仰があなたを救った」と。
感謝のためにもどってきた男は、イエスの愛と力に、より深く、より確かにつながれたのです。彼の心に、より深くイエスが入ってこられたのです。それが彼の救いとなったのです。後の九人は、病がいやされても、このあとも自分勝手、自分中心な孤独な生活を続けたのではないかと思います。
27 per annum C
年間27主日 C
【ルカ17:5-10 取るに足りない僕】
年間27主日 C
2010-10-03 15:07:36 | Weblog
年間27主日 C
【ルカ17:5-10 取るに足りない僕】
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正直言って、今日の話を聞いて、途惑いを感じますす。
畑を耕し羊を買う僕がいます。やっと仕事が終わり疲れて帰って来ます。その僕に主人は言います。「さあ、今度は夕食を作れ」。僕は主人のために、疲れた体で、やっと食事を作り終えました。それに対して主人の返す言葉はこうです。「お前は当たり前のことをしただけだ。取るに足りない僕だと言え」。
この譬え話で僕とは人間です。主人とは神様です。これはおかしな話ではないですか。人間はこのように神様にひたすら仕えろというのです。聞きなれているから当たり前と聞き流すのでなく、どうして神様はこんなひどいことを言うのか。この譬えには神様の愛の一かけらも感じられないと、視点を変えなければなりません。それがあって初めて、聖書を深く読み、理解し、行動することが可能になるのです。
キリスト教は一人ひとりを大切にしてくださる神様の愛を教える宗教だったのではないですか。そしてイエス様はこの私の愛のゆえに、私を救おうと、十字架にかかったはずです。それなのにどうしてこんな話が出てきたのでしょう。
私は確かに神様からかけがえのない人間として選ばれたものです。ある意味で主人公です。しかしそのことは、すべて自分の思う通りになることではないことも、はっきりと知らなければなりません。神様はけっして人間の都合どおりには動かない。神様が人間に仕えるのではありません。人間が神様に仕えるのです。
それなのに私たちはとかく神様を自分の僕にしてしまいがちです。困ったとき、神様に何とかしてもらおうと願います。うまくいかないと腹をたて、「神などいない。神がいるならどうして」と言ってしまいがちです。つまり自分が大切で主人公と言う気持ちは大切ですが、しかし間違うと神様を自分に仕える僕にしてしまう傾向があるのです。
面白い一例をとりあげてみましょう。たとえば「てるてる坊主」という歌があります。皆さんも一度ぐらい聞いたことがあるでしょう、何気なく歌われる歌ですが、けっこうこわい歌詞です。
てるてる坊主てる坊主、明日天気にしておくれ
いつかの夢の空のよに、晴れたら金の鈴あげよう
私の願いを聞いたなら 甘いお酒をたんと飲ましょう
それでも曇って泣いたなら そなたの首をちょんと切るぞ
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てるてる坊主を正立させた状態で軒先などに飾ると、明日の天気が晴れになるという。
一部の地域などでは逆に倒立させた状態(いわゆる逆さ吊)で飾ると、明日の天気が雨になるとされている。
いわゆる人類の原始的な歴史より行われてきた、呪術信仰に基調がある。具体的事例をあげるとするならば、縄文時代の土偶(どぐう)の原理と同じである。つまり、ある主体を犠牲にすることで、別の主体を改善するという等価交換の原則に基づいた風習であるといえる。
てるてる坊主の起源は中国にある。長雨などで河川の氾濫が起こったり作物に甚大な被害が発生したりする場合に、古来中国の人々は、幼い児童を集団で痛めつけ無理やり涙を流させた。そして最終的に彼らを軒下などに吊るし上げて殺害した。このとき「生贄」になった児童の涙や、暴力によって欝血した体より流れ出たおびただしい量の血液、もしくは殺害の方法が絞殺であるがゆえに生じる流れ出る唾液や糞尿が、「雨」の代わりであるとして、晴天への希望を託したのが、てるてる坊主の起源である。ちなみにこの行動を行えど晴天にならない際には、複数の児童を「てるてる坊主」にしたという記述もある。
後にこの風習は日本にも伝えられ、同様のことが行われた。しかし、中国にしろ日本にしろ、てるてる坊主の内容は「人の代わりに人形を吊るす」といったものに移行していった。しかしながら、人形は何も流さないため、壊滅的な雨量がもたらされる場合はやはり人間の子供を「てるてる坊主」にすることがあった。
日本では、江戸時代中期ごろに既に飾られていたようで、『嬉遊笑覧』という本には、晴天になった後は、瞳を書き入れて、川に流すと記されている。これは、かつての風習により生じた死体の処理方法が、雨の後の水かさが増した川に投げ入れたという合理的な行動に起因するものとされる。
[編集] 童謡
作詞浅原鏡村(浅原六朗)、作曲中山晋平による同名の童謡は有名である。1921年(大正10年)に発表され、教科書にも掲載されていた。3番の歌詞は、「晴れにならなければ首をちょん切る」といった内容が記されている。これは大量の児童を生贄にささげ、それでも雨が止まらない場合、児童の死体の首を切り落として、流れ出た児童の血液を雨の代わりとしたという行動に基づいたものであるとされる。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%A6%E3%82%8B%E5%9D%8A%E4%B8%BB
3番の歌詞は、「晴れにならなければ首をちょん切る」といった残酷な内容であるため、現在放送する際はカットすることが多い[要出典](「おばけなんてないさ」の影響である)。
「てるてる坊主」
浅原鏡村(あさはら・きょうそん)作詞・中山晋平(なかやま・しんぺい)作曲
てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに(注)
晴れたら金の鈴(すず)あげよ
てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
私の願(ねがい)を 聞いたなら(注)
あまいお酒を たんと飲ましょ
てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
それでも曇(くも)って 泣いたなら(注)
そなたの首を チョンと切るぞ
<object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/reLSYByhJ7c?fs=1&hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param></object>------
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要するに、私の願いを叶えたら、金の鈴をあげ、大切にお祭りするけれど、そうでなければ、打ち首だというわけです。
人間の気まぐれ。自分の都合によって、神様を評価し、価値を決める。神様を自分の奴隷にする傾向。こうした日本的な考え方に対し、そうではないと神様は語ります。
だから「困って神様に何とかしてもらいたいと叫ぶ。しかし自分の願いがかなわない」。そんな時、ただ腹をたて「神はどうして何もしてくれないのだ。神などいない。自分は見捨てられた」。そう言って、せっかくもらった信仰を捨て、神様から離れることのないようにしましょう。
そのために、神の計らいを辛抱して待ち続ける忍耐を、神様への絶対的な信頼を持ちましょう。十字架にかかったイエス様と共に留まりましょう。すぐに「神の子なら十字架から降りてみよ」と奇跡を要求することのないようにしましょう。
「この世の人間的な幸福」。そのようなものは、イエス様もマリアも、他のすべての聖人も、必ずしも与えられてはいないのです。悲惨な死、別れ、この世の不幸といつも一緒でした。そんな中で、いつも神様のみ旨は何なのか、思いめぐらしながら歩んでいました。こうして苦しみをも神様のみ旨として受け止めながら、聖人たちも歩んだのでした。神様から愛された人間だから、この世で楽に過ごせる。そんな約束は、最初からなかったのです。イエス様もマリアもどんなにこの世の苦しみと立ち向かいつつ歩んだことでしょうか。
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(1) からし種は1~2ミリの小さな種で、本当に小さなもののたとえです。桑の木が海に生えるというのは大きなことのたとえです。なぜそんな小さな信仰で大きなことが可能になるのでしょうか。ただ頭で考えるよりも、みことばを自分の体験と照らし合わせてみることが大切でしょう。「信仰があれば不可能なことは何もない」と感じたことがありますか。それはどんなときですか。逆に「信じてもうまくいかなかった」という体験もあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。
(2) 「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエスは「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。 福音書の中で「神を信じる」というのは「神は存在すると思っている」ということではありません。イエスの出会った人、イエスの周りにいた人は、だれも神の存在を疑っていませんでした。神を信じるとは「神の存在についての考え方」の問題ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうかという生き方」の問題だったのです。
(3) 信仰の世界は、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げた、という世界ではありません。神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていく、という世界です。だから自分は何もしなくていい、というのではなく、だから自分にできる精一杯のことをしていこう、ということになるのです。本気でそう思えば、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と言えるのでしょう。
わたしたちは自分の力でなんとかしなければならない、という世界に生きています。「能力と努力がすべてを可能にするはずで、うまくいかないのは能力や努力が足りないからだ」、と考えるような世界です。しかし、そういう考えはどれほど多くの人を行き詰らせてしまっているでしょうか。人間は、自分の能力と努力で生まれてきたのではありません。生まれた子どもは自分の能力と努力で育っていくのではありません。むしろ、周囲の人々の愛の中で、そしていのちの与え主である神の愛の中で生き、成長していくのです。
(4) 1-10節で、別々の伝承がつなぎ合わされているのだとすると、そもそも、なぜ使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と言ったのかは分からないことになります。しかし、わたしたちも同じような言葉を言いたくなることがあるのではないでしょうか。それはどんなときでしょうか。自分たちの状況、自分たちの直面している問題に当てはめながら、この箇所を読んでみることもできるでしょう。
3-4節の「ゆるし」のテーマとつなげて考えることも一つのヒントになるかもしれません。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦(ゆる)してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、ゆるしてやりなさい」。こう言われても、実際には非常にむずかしいと感じることがあるでしょう。そして、この「ゆるせない」ことを「信仰が足りない」ことだと感じることもあるのではないでしょうか。だとすると、イエスの答えは、大きな信仰があればゆるせるはずだ、というよりも、ゆるしの力は神から来る、その神の力を信頼の心をもって受け取ることが大切なのだ、という意味になるのではないでしょうか。
さらに「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです」という言葉も、人が人をゆるす、ということと関連づけて受け取ることができるかもしれません。わたしたちは神にゆるされ、だからこそゆるし合うことができるのだとすれば、人が人をゆるすということは、まさに「しなければならないことをしただけ」ということになります。
(5) 「人が人をゆるす」ということはどんなときに可能なのでしょうか。いくつかのヒントをあげてみます。思い当たることがありますか。
(a) 自分に対して罪を犯した人間が、その罪の痛みを本当に感じていると分かったとき。心からの謝罪をしていると感じたとき(逆に言えば、悪いことをした人が、反省も痛みもなく平気で生きていることがゆるしがたいわけです)。
(b) 相手の弱さを感じたとき。その人がしたことはとんでもないことだが、その人がなぜそれほど悪いことをしたかを理解できるとき。その人が過去にどんな傷を受けてきたかとか、その中でどんなふうに人格がゆがんで、ああいう行動に走ったのかというようなことが理解できると思えたとき。
(c) ひどいことをした人に対して、それでもその人との関係を持ち続けたいと願うとき。
(d) 罪びとである自分自身が本当に神にゆるされていると感じる体験をしたとき。他にもあるかもしれません。現実には「ゆるす」ことは難しいに決まっています。でも、「ゆるせない」と嘆いてばかりいるよりも、「ゆるせた」「ゆるしてもらった」という体験を分かち合ったほうが、たぶん何倍も役に立つに違いありません。
黙想のヒント
弟子たちはイエスから「悔い改めようとする兄弟を何度でも赦しなさい」と言われたとき、自分たちの弱さを感じて「私たちの信仰を増して下さい」と願います。
信仰とは何でしょう。信仰は、無償で神から頂いた賜物です。そうであればそれが足りないものだと言えるでしょうか。イエスは、弟子たちの願いに、たとえで答えます。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」
信仰によって人は、自分が人間として生まれ、神の愛のゆえに造られたことを知るようになります。そして、自分のほうから、その愛に応えるために、愛を持って、神に従おうとします。さらに、そうすることによって、取るに足りない僕としての自分を知ることになるでしょう。
僕は、主人に要求することなく、むしろ、主人から任された仕事、与えられた役割を果たして、忠実に生きるほかはないと知るのです。
「高慢な者の心は正しくありえない、しかし、神に従う人は信仰によって生きる」と教えられているからです。
(ハバクク2・2-4)
パウロもテモテに書きます。「神の賜物を再び燃え立たせるように進めます」私たちが、人間社会の価値観だけにとらわれるようになると、プライドや名誉、権力を求め、目に見えることだけを優先させて、目に見えないものを後回しに考えます。
しかし、神に従う人は、神のことばを聞き、それに力を見つけ、自分の弱さを誇るようになります。そしてその人は、神に愛され、
照らされ、その光と喜びを持って、神の言葉を広め、証人として歩むことができるのです。
【ルカ17:5-10 取るに足りない僕】
年間27主日 C
2010-10-03 15:07:36 | Weblog
年間27主日 C
【ルカ17:5-10 取るに足りない僕】
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正直言って、今日の話を聞いて、途惑いを感じますす。
畑を耕し羊を買う僕がいます。やっと仕事が終わり疲れて帰って来ます。その僕に主人は言います。「さあ、今度は夕食を作れ」。僕は主人のために、疲れた体で、やっと食事を作り終えました。それに対して主人の返す言葉はこうです。「お前は当たり前のことをしただけだ。取るに足りない僕だと言え」。
この譬え話で僕とは人間です。主人とは神様です。これはおかしな話ではないですか。人間はこのように神様にひたすら仕えろというのです。聞きなれているから当たり前と聞き流すのでなく、どうして神様はこんなひどいことを言うのか。この譬えには神様の愛の一かけらも感じられないと、視点を変えなければなりません。それがあって初めて、聖書を深く読み、理解し、行動することが可能になるのです。
キリスト教は一人ひとりを大切にしてくださる神様の愛を教える宗教だったのではないですか。そしてイエス様はこの私の愛のゆえに、私を救おうと、十字架にかかったはずです。それなのにどうしてこんな話が出てきたのでしょう。
私は確かに神様からかけがえのない人間として選ばれたものです。ある意味で主人公です。しかしそのことは、すべて自分の思う通りになることではないことも、はっきりと知らなければなりません。神様はけっして人間の都合どおりには動かない。神様が人間に仕えるのではありません。人間が神様に仕えるのです。
それなのに私たちはとかく神様を自分の僕にしてしまいがちです。困ったとき、神様に何とかしてもらおうと願います。うまくいかないと腹をたて、「神などいない。神がいるならどうして」と言ってしまいがちです。つまり自分が大切で主人公と言う気持ちは大切ですが、しかし間違うと神様を自分に仕える僕にしてしまう傾向があるのです。
面白い一例をとりあげてみましょう。たとえば「てるてる坊主」という歌があります。皆さんも一度ぐらい聞いたことがあるでしょう、何気なく歌われる歌ですが、けっこうこわい歌詞です。
てるてる坊主てる坊主、明日天気にしておくれ
いつかの夢の空のよに、晴れたら金の鈴あげよう
私の願いを聞いたなら 甘いお酒をたんと飲ましょう
それでも曇って泣いたなら そなたの首をちょんと切るぞ
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てるてる坊主を正立させた状態で軒先などに飾ると、明日の天気が晴れになるという。
一部の地域などでは逆に倒立させた状態(いわゆる逆さ吊)で飾ると、明日の天気が雨になるとされている。
いわゆる人類の原始的な歴史より行われてきた、呪術信仰に基調がある。具体的事例をあげるとするならば、縄文時代の土偶(どぐう)の原理と同じである。つまり、ある主体を犠牲にすることで、別の主体を改善するという等価交換の原則に基づいた風習であるといえる。
てるてる坊主の起源は中国にある。長雨などで河川の氾濫が起こったり作物に甚大な被害が発生したりする場合に、古来中国の人々は、幼い児童を集団で痛めつけ無理やり涙を流させた。そして最終的に彼らを軒下などに吊るし上げて殺害した。このとき「生贄」になった児童の涙や、暴力によって欝血した体より流れ出たおびただしい量の血液、もしくは殺害の方法が絞殺であるがゆえに生じる流れ出る唾液や糞尿が、「雨」の代わりであるとして、晴天への希望を託したのが、てるてる坊主の起源である。ちなみにこの行動を行えど晴天にならない際には、複数の児童を「てるてる坊主」にしたという記述もある。
後にこの風習は日本にも伝えられ、同様のことが行われた。しかし、中国にしろ日本にしろ、てるてる坊主の内容は「人の代わりに人形を吊るす」といったものに移行していった。しかしながら、人形は何も流さないため、壊滅的な雨量がもたらされる場合はやはり人間の子供を「てるてる坊主」にすることがあった。
日本では、江戸時代中期ごろに既に飾られていたようで、『嬉遊笑覧』という本には、晴天になった後は、瞳を書き入れて、川に流すと記されている。これは、かつての風習により生じた死体の処理方法が、雨の後の水かさが増した川に投げ入れたという合理的な行動に起因するものとされる。
[編集] 童謡
作詞浅原鏡村(浅原六朗)、作曲中山晋平による同名の童謡は有名である。1921年(大正10年)に発表され、教科書にも掲載されていた。3番の歌詞は、「晴れにならなければ首をちょん切る」といった内容が記されている。これは大量の児童を生贄にささげ、それでも雨が止まらない場合、児童の死体の首を切り落として、流れ出た児童の血液を雨の代わりとしたという行動に基づいたものであるとされる。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%A6%E3%82%8B%E5%9D%8A%E4%B8%BB
3番の歌詞は、「晴れにならなければ首をちょん切る」といった残酷な内容であるため、現在放送する際はカットすることが多い[要出典](「おばけなんてないさ」の影響である)。
「てるてる坊主」
浅原鏡村(あさはら・きょうそん)作詞・中山晋平(なかやま・しんぺい)作曲
てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに(注)
晴れたら金の鈴(すず)あげよ
てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
私の願(ねがい)を 聞いたなら(注)
あまいお酒を たんと飲ましょ
てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
それでも曇(くも)って 泣いたなら(注)
そなたの首を チョンと切るぞ
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要するに、私の願いを叶えたら、金の鈴をあげ、大切にお祭りするけれど、そうでなければ、打ち首だというわけです。
人間の気まぐれ。自分の都合によって、神様を評価し、価値を決める。神様を自分の奴隷にする傾向。こうした日本的な考え方に対し、そうではないと神様は語ります。
だから「困って神様に何とかしてもらいたいと叫ぶ。しかし自分の願いがかなわない」。そんな時、ただ腹をたて「神はどうして何もしてくれないのだ。神などいない。自分は見捨てられた」。そう言って、せっかくもらった信仰を捨て、神様から離れることのないようにしましょう。
そのために、神の計らいを辛抱して待ち続ける忍耐を、神様への絶対的な信頼を持ちましょう。十字架にかかったイエス様と共に留まりましょう。すぐに「神の子なら十字架から降りてみよ」と奇跡を要求することのないようにしましょう。
「この世の人間的な幸福」。そのようなものは、イエス様もマリアも、他のすべての聖人も、必ずしも与えられてはいないのです。悲惨な死、別れ、この世の不幸といつも一緒でした。そんな中で、いつも神様のみ旨は何なのか、思いめぐらしながら歩んでいました。こうして苦しみをも神様のみ旨として受け止めながら、聖人たちも歩んだのでした。神様から愛された人間だから、この世で楽に過ごせる。そんな約束は、最初からなかったのです。イエス様もマリアもどんなにこの世の苦しみと立ち向かいつつ歩んだことでしょうか。
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(1) からし種は1~2ミリの小さな種で、本当に小さなもののたとえです。桑の木が海に生えるというのは大きなことのたとえです。なぜそんな小さな信仰で大きなことが可能になるのでしょうか。ただ頭で考えるよりも、みことばを自分の体験と照らし合わせてみることが大切でしょう。「信仰があれば不可能なことは何もない」と感じたことがありますか。それはどんなときですか。逆に「信じてもうまくいかなかった」という体験もあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。
(2) 「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエスは「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。 福音書の中で「神を信じる」というのは「神は存在すると思っている」ということではありません。イエスの出会った人、イエスの周りにいた人は、だれも神の存在を疑っていませんでした。神を信じるとは「神の存在についての考え方」の問題ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうかという生き方」の問題だったのです。
(3) 信仰の世界は、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げた、という世界ではありません。神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていく、という世界です。だから自分は何もしなくていい、というのではなく、だから自分にできる精一杯のことをしていこう、ということになるのです。本気でそう思えば、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と言えるのでしょう。
わたしたちは自分の力でなんとかしなければならない、という世界に生きています。「能力と努力がすべてを可能にするはずで、うまくいかないのは能力や努力が足りないからだ」、と考えるような世界です。しかし、そういう考えはどれほど多くの人を行き詰らせてしまっているでしょうか。人間は、自分の能力と努力で生まれてきたのではありません。生まれた子どもは自分の能力と努力で育っていくのではありません。むしろ、周囲の人々の愛の中で、そしていのちの与え主である神の愛の中で生き、成長していくのです。
(4) 1-10節で、別々の伝承がつなぎ合わされているのだとすると、そもそも、なぜ使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と言ったのかは分からないことになります。しかし、わたしたちも同じような言葉を言いたくなることがあるのではないでしょうか。それはどんなときでしょうか。自分たちの状況、自分たちの直面している問題に当てはめながら、この箇所を読んでみることもできるでしょう。
3-4節の「ゆるし」のテーマとつなげて考えることも一つのヒントになるかもしれません。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦(ゆる)してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、ゆるしてやりなさい」。こう言われても、実際には非常にむずかしいと感じることがあるでしょう。そして、この「ゆるせない」ことを「信仰が足りない」ことだと感じることもあるのではないでしょうか。だとすると、イエスの答えは、大きな信仰があればゆるせるはずだ、というよりも、ゆるしの力は神から来る、その神の力を信頼の心をもって受け取ることが大切なのだ、という意味になるのではないでしょうか。
さらに「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです」という言葉も、人が人をゆるす、ということと関連づけて受け取ることができるかもしれません。わたしたちは神にゆるされ、だからこそゆるし合うことができるのだとすれば、人が人をゆるすということは、まさに「しなければならないことをしただけ」ということになります。
(5) 「人が人をゆるす」ということはどんなときに可能なのでしょうか。いくつかのヒントをあげてみます。思い当たることがありますか。
(a) 自分に対して罪を犯した人間が、その罪の痛みを本当に感じていると分かったとき。心からの謝罪をしていると感じたとき(逆に言えば、悪いことをした人が、反省も痛みもなく平気で生きていることがゆるしがたいわけです)。
(b) 相手の弱さを感じたとき。その人がしたことはとんでもないことだが、その人がなぜそれほど悪いことをしたかを理解できるとき。その人が過去にどんな傷を受けてきたかとか、その中でどんなふうに人格がゆがんで、ああいう行動に走ったのかというようなことが理解できると思えたとき。
(c) ひどいことをした人に対して、それでもその人との関係を持ち続けたいと願うとき。
(d) 罪びとである自分自身が本当に神にゆるされていると感じる体験をしたとき。他にもあるかもしれません。現実には「ゆるす」ことは難しいに決まっています。でも、「ゆるせない」と嘆いてばかりいるよりも、「ゆるせた」「ゆるしてもらった」という体験を分かち合ったほうが、たぶん何倍も役に立つに違いありません。
黙想のヒント
弟子たちはイエスから「悔い改めようとする兄弟を何度でも赦しなさい」と言われたとき、自分たちの弱さを感じて「私たちの信仰を増して下さい」と願います。
信仰とは何でしょう。信仰は、無償で神から頂いた賜物です。そうであればそれが足りないものだと言えるでしょうか。イエスは、弟子たちの願いに、たとえで答えます。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」
信仰によって人は、自分が人間として生まれ、神の愛のゆえに造られたことを知るようになります。そして、自分のほうから、その愛に応えるために、愛を持って、神に従おうとします。さらに、そうすることによって、取るに足りない僕としての自分を知ることになるでしょう。
僕は、主人に要求することなく、むしろ、主人から任された仕事、与えられた役割を果たして、忠実に生きるほかはないと知るのです。
「高慢な者の心は正しくありえない、しかし、神に従う人は信仰によって生きる」と教えられているからです。
(ハバクク2・2-4)
パウロもテモテに書きます。「神の賜物を再び燃え立たせるように進めます」私たちが、人間社会の価値観だけにとらわれるようになると、プライドや名誉、権力を求め、目に見えることだけを優先させて、目に見えないものを後回しに考えます。
しかし、神に従う人は、神のことばを聞き、それに力を見つけ、自分の弱さを誇るようになります。そしてその人は、神に愛され、
照らされ、その光と喜びを持って、神の言葉を広め、証人として歩むことができるのです。
26 per annum C
年間26主日 C
【ルカ16:19-31 金持ちとラザロ】
年間26主日 C
2010-09-26 16:42:02 | Weblog
年間26主日 C
【ルカ16:19-31 金持ちとラザロ】
今日の話から導かれることは2つあります。 先週の富の使い方と同じで、富を自分のものだけにして、貧しい者への施しを怠るなら、必ず天の裁きがある。だから先延ばしせず、今すぐ回心し、富を良い目的のため用いなさい。惜しみなく施しなさいと言う意味です。 さらにもう一つの意味があると思います。今日の譬え話は、めずらしく名前が登場しています。「ラザロ」です。わざわざ名前が登場するからには、それなりの意味があると思います。 ラザロは、新約聖書に実際に登場する人物です。だからこの譬え話が語られ、「ラザロ」の名が出たとき、人々は実際のラザロのことを思い起こしつつ、この譬えを聞いたのです。 聖書中のラザロは、イエス様がたびたび身を寄せた、マルタとマリアという姉妹をもった善良な人でした。譬え話のラザロは貧しいですが、実際のラザロは金持ちだったと思われます。そしてこの譬え話が語られたとき、ラザロは元気でしたが、間もなく病気になり、死んでしまいます。イエス様はこのラザロの死を目の当たりにしたとき、涙を流してもいます。
ラザロが死んで墓に入ってからもう4日も経った。そんな絶望的な状況の中で、奇跡が行われ、墓の中から、布で巻かれたまま蘇ったのでした。しかしこの死からの蘇りも、イエス様にとっては良い結果をもたらしませんでした。なぜならまさにこの奇跡のゆえ、衆議会はイエス様の死刑を議決したからです。聖書にこう書かれています。 「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる』……
この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。(ヨハ11:44-48,53) つまりこの譬え話のもう一つのメッセージ、「モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。それは、実際に起こったのです。ラザロが死から蘇ったのを見ても、祭司長、ファリサイ派の人びとは、イエス様が神の子であることを信じることができません。逆に、このままではイスラエルの民全部がイエス様をメシアと信じるようになると憤慨し、そうなる前に、イエス様を殺すと決めたのです。 イエス様が行った最大の奇跡も、イエス様が神の子であると信じさせる結果にはなら、かえって完全な敵対関係に入っていきました。それはイエス様自身の復活のときも同じでした。何を見ても、聞いても、神が偉大な業をなしても、頑なに心は閉じていくばかり。何ら回心の助け、信じることにならず、逆に自分たちの無力さを意識し、憤慨するばかりです。 このように回心するものとしないものの間には、大きな溝があって、お互いどうしても越えることができない。それが現実です。この大きな淵の原因は、神様の罰でも、神様の冷酷さにあるのでもありません。人間の頑なさが原因です。 だから目を見張るような奇跡がないから、あっと驚くような神の力を見ることがないから、神様を信じられない。こうした心情には注意が必要です。恐らくそう言う人は仮に、奇跡を見てキリスト教を一時的に信じたとしても、今度挫折にあったとき、うまくいかないことが起こったとき、すぐ信仰を捨てることになるでしょう。 それが2000年前に起きたのでした。イエス様を賛美して迎えた人が、数日後には、十字架の道を歩み始めたと言って、罵詈雑言(バリゾウゴン、口きたない、ののしり)を浴びせたのです。「自分も救えないでどうして神の子か。神の子なら自分を救ってみろ。そうしたら信じる」。 奇跡を行わない神など信じられない。でも神の言葉を受け入れることのできない人は、たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることはけっしてない。かえって憤慨し溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
キラキラ輝いても過ぎ去る富と本当の富、価値あるものの区別、さらに日常生活は永遠のいのちにつながっていること、そして毎日のように私たちの読んでいる「モーセと預言者」(みことば)から来る光(キラキラ輝くこの世の富に目を取られて)を見分けることができなかったら、たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることにつながらない。かえって溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
そこには越えることのできない「深い淵」があり「境界線」がある。しかし人間の引いた境界線と神の引かれた境界線とは異なっています。神の引かれた境界線は私たちの思いを遥かに越えている。救いの内と外を分ける境界線は内と外とが逆転しているのです。ネガフィルムのように白黒が反転している。人の思いと神の思いは異なっています。
この金持ちは生きているとき、いつもラザロを見ていた。しかし金持ちはラザロとの間で大きな淵を作り、まったく無関心を装っていた。人間がほんとうに幸せになれないのは、自分の世界に閉じこもり、自分の満足だけを求めて、他の世界に無関心であることから来るのです。他人を無視し、あるいは犠牲にして、自分だけが幸福であるということは、けっしてありえないのです。そこにあるのは孤独・孤立した自分なのです。
---------------------------------
幸福の4つのレベルの定義
レベル1
物理的材料、快楽から得られた幸福。この幸福は最も基本的なレベルであり、おいしいチョコレートを食べてから来ることができる、スポーツ車を運転し、暑い日に涼しいプールで一泳ぎをする。レベル1の幸福は良いのですが制限されます。 それらは提供する喜びはすぐおこるが、寿命の短い断続的なものである。また、浅いものであり、考える必要もないが、自己を超えて拡張されません。
レベル2
個人の業績とエゴの満足から派生した幸福。レベル2幸福を感じるのは、人々が賛辞してくれるとき、あなたの人気と権限を認めるとき、スポーツで勝つとき、あなたのキャリアで先に進むときです。 レベル2の幸福はたいてい比較(相対)的です。エゴは他人より優位性の面で成功したからである。 他人よりカッコいいで、または他よりも重要で魅力のある人として見られるときに満足しているし、比較ゲームでまけるときは不幸を感じる。 レベル2の幸福は短期的および希薄です。あなたは今日は勝ったと幸せを感じるが、明日はまけるかもしれないという不安を持つでしょう。 レベル2の幸福感は本質的に悪いではありません。なぜなら、すべての人は、人生で良いことを達成するために、成功、自尊心、尊重を必要としているからです。 しかし、レベル2の幸福、つまり自己プロモーションは、あなたの唯一の目標になれば、自己中心につながり、嫉妬、失敗の恐れ、侮辱、孤立、そして皮肉に変わります。
レベル3
他人のために良いことをする、世界をより良い場所にすることから派生した幸福です。レベル3の幸福は 、より持続的である。なぜなら、愛、真実、善、美、一致という人間の望みに向けているからです。 レベル2の幸福は人々に分裂に導くのに対し、レベル3の幸福は、共通の利益を追求し、人々を一体させ、感激大きな成果を上げることができます。レベル3は自己中心ではなく、共感的であり、他人には欠点ばかりではなく、長所を見る。 また、人生(生活)を機会として冒険として見、克服しなければならない無限のシリーズの問題として見ていない。人々には限界があるから、レベル3の幸福にも限界があります。私たちの誰もが完璧ではないので、他の人々の中に完璧な満足を見つけることができない。
レベル4
究極の、完璧な幸福。他人々は理想を下回るとき、または私たち自身が理想に達しないとき、われわれは失望してしまう。 この失望は、超越性と完全性への普遍的な人間の憧れを指しています。我々は、単に愛、真実、善、美、と団結を望むだけではなく、我々は、これらのものをすべて究極の、完全で、終わることのない形で望みます。すべての人々は、心理学者は「超越への意欲」と呼んでいるこの究極性を望んでいる。これが大宇宙への接続という感覚を提供します。ある人は、この望みを霊性と宗教的な信仰を通じて表明する。 ある人は、芸術を通して、あるいは哲学で、あるいは科学的な努力によっていのちと宇宙の謎を解くために、同じあこがれを表現します。
The Four Levels of Happiness Defined
http://www.spitzercenter.org/html/our-approach/the-four-levels-defined.php
Level 1
Happiness derived from material objects and the pleasures they can provide. This is the most basic level of happiness, and it can come from eating fine chocolate, driving a sports car, a cool swim on a hot day, or other forms of physical gratification. Level 1 happiness is good but limited. The pleasure it provides is immediate but short-lived and intermittent. It is also shallow; it requires no reflection, and it doesn’t extend beyond the self in any meaningful way.
Level 2
Happiness derived from personal achievement and ego gratification. You feel Level 2 happiness when people praise you; when they acknowledge your popularity and authority; when you win in sports or advance in your career. Level 2 happiness is usually comparative because the ego measures success in terms of advantage over others. You’re happy when you’re seen as smarter, more attractive, or more important than others, and you’re unhappy when you lose the comparison game. Level 2 happiness is short-term and tenuous. You can be happy that you won today, and then anxious you might lose tomorrow. Level 2 is not inherently bad because we all need success, self-esteem, and respect to accomplish good things in life. But when Level 2 happiness ? self-promotion ? becomes your only goal, it leads to self-absorption, jealousy, fear of failure, contempt, isolation, and cynicism.
Level 3
Happiness derived from doing good for others and making the world a better place. Level 3 happiness is more enduring because it is directed toward the human desire for love, truth, goodness, beauty, and unity. It is capable of inspiring great achievements because it unites people in pursuit of the common good, whereas Level 2 happiness divides people. Level 3 is empathetic, not self-absorbed, and it looks for the good in others, not their flaws. It sees life as an opportunity and an adventure, not an endless series of problems to overcome. Because people have limits, Level 3 happiness also has its limits. None of us are perfect, so we can’t find perfect fulfillment in other people.
Level 4
Ultimate, perfect happiness. When others fall short of our ideals, or we fall short ourselves, we’re disappointed. This disappointment points to a universal human longing for transcendence and perfection. We don’t merely desire love, truth, goodness, beauty, and unity; we want all of these things in their ultimate, perfect, never-ending form. All people have this desire for ultimacy, which psychologists call it a desire for transcendence ? a sense of connection to the larger universe. Some express this desire through spirituality and religious faith. Others express the same longing through philosophy, through art, or through scientific efforts to solve the mysteries of life and the universe.
【ルカ16:19-31 金持ちとラザロ】
年間26主日 C
2010-09-26 16:42:02 | Weblog
年間26主日 C
【ルカ16:19-31 金持ちとラザロ】
今日の話から導かれることは2つあります。 先週の富の使い方と同じで、富を自分のものだけにして、貧しい者への施しを怠るなら、必ず天の裁きがある。だから先延ばしせず、今すぐ回心し、富を良い目的のため用いなさい。惜しみなく施しなさいと言う意味です。 さらにもう一つの意味があると思います。今日の譬え話は、めずらしく名前が登場しています。「ラザロ」です。わざわざ名前が登場するからには、それなりの意味があると思います。 ラザロは、新約聖書に実際に登場する人物です。だからこの譬え話が語られ、「ラザロ」の名が出たとき、人々は実際のラザロのことを思い起こしつつ、この譬えを聞いたのです。 聖書中のラザロは、イエス様がたびたび身を寄せた、マルタとマリアという姉妹をもった善良な人でした。譬え話のラザロは貧しいですが、実際のラザロは金持ちだったと思われます。そしてこの譬え話が語られたとき、ラザロは元気でしたが、間もなく病気になり、死んでしまいます。イエス様はこのラザロの死を目の当たりにしたとき、涙を流してもいます。
ラザロが死んで墓に入ってからもう4日も経った。そんな絶望的な状況の中で、奇跡が行われ、墓の中から、布で巻かれたまま蘇ったのでした。しかしこの死からの蘇りも、イエス様にとっては良い結果をもたらしませんでした。なぜならまさにこの奇跡のゆえ、衆議会はイエス様の死刑を議決したからです。聖書にこう書かれています。 「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる』……
この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。(ヨハ11:44-48,53) つまりこの譬え話のもう一つのメッセージ、「モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。それは、実際に起こったのです。ラザロが死から蘇ったのを見ても、祭司長、ファリサイ派の人びとは、イエス様が神の子であることを信じることができません。逆に、このままではイスラエルの民全部がイエス様をメシアと信じるようになると憤慨し、そうなる前に、イエス様を殺すと決めたのです。 イエス様が行った最大の奇跡も、イエス様が神の子であると信じさせる結果にはなら、かえって完全な敵対関係に入っていきました。それはイエス様自身の復活のときも同じでした。何を見ても、聞いても、神が偉大な業をなしても、頑なに心は閉じていくばかり。何ら回心の助け、信じることにならず、逆に自分たちの無力さを意識し、憤慨するばかりです。 このように回心するものとしないものの間には、大きな溝があって、お互いどうしても越えることができない。それが現実です。この大きな淵の原因は、神様の罰でも、神様の冷酷さにあるのでもありません。人間の頑なさが原因です。 だから目を見張るような奇跡がないから、あっと驚くような神の力を見ることがないから、神様を信じられない。こうした心情には注意が必要です。恐らくそう言う人は仮に、奇跡を見てキリスト教を一時的に信じたとしても、今度挫折にあったとき、うまくいかないことが起こったとき、すぐ信仰を捨てることになるでしょう。 それが2000年前に起きたのでした。イエス様を賛美して迎えた人が、数日後には、十字架の道を歩み始めたと言って、罵詈雑言(バリゾウゴン、口きたない、ののしり)を浴びせたのです。「自分も救えないでどうして神の子か。神の子なら自分を救ってみろ。そうしたら信じる」。 奇跡を行わない神など信じられない。でも神の言葉を受け入れることのできない人は、たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることはけっしてない。かえって憤慨し溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
キラキラ輝いても過ぎ去る富と本当の富、価値あるものの区別、さらに日常生活は永遠のいのちにつながっていること、そして毎日のように私たちの読んでいる「モーセと預言者」(みことば)から来る光(キラキラ輝くこの世の富に目を取られて)を見分けることができなかったら、たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることにつながらない。かえって溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
そこには越えることのできない「深い淵」があり「境界線」がある。しかし人間の引いた境界線と神の引かれた境界線とは異なっています。神の引かれた境界線は私たちの思いを遥かに越えている。救いの内と外を分ける境界線は内と外とが逆転しているのです。ネガフィルムのように白黒が反転している。人の思いと神の思いは異なっています。
この金持ちは生きているとき、いつもラザロを見ていた。しかし金持ちはラザロとの間で大きな淵を作り、まったく無関心を装っていた。人間がほんとうに幸せになれないのは、自分の世界に閉じこもり、自分の満足だけを求めて、他の世界に無関心であることから来るのです。他人を無視し、あるいは犠牲にして、自分だけが幸福であるということは、けっしてありえないのです。そこにあるのは孤独・孤立した自分なのです。
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幸福の4つのレベルの定義
レベル1
物理的材料、快楽から得られた幸福。この幸福は最も基本的なレベルであり、おいしいチョコレートを食べてから来ることができる、スポーツ車を運転し、暑い日に涼しいプールで一泳ぎをする。レベル1の幸福は良いのですが制限されます。 それらは提供する喜びはすぐおこるが、寿命の短い断続的なものである。また、浅いものであり、考える必要もないが、自己を超えて拡張されません。
レベル2
個人の業績とエゴの満足から派生した幸福。レベル2幸福を感じるのは、人々が賛辞してくれるとき、あなたの人気と権限を認めるとき、スポーツで勝つとき、あなたのキャリアで先に進むときです。 レベル2の幸福はたいてい比較(相対)的です。エゴは他人より優位性の面で成功したからである。 他人よりカッコいいで、または他よりも重要で魅力のある人として見られるときに満足しているし、比較ゲームでまけるときは不幸を感じる。 レベル2の幸福は短期的および希薄です。あなたは今日は勝ったと幸せを感じるが、明日はまけるかもしれないという不安を持つでしょう。 レベル2の幸福感は本質的に悪いではありません。なぜなら、すべての人は、人生で良いことを達成するために、成功、自尊心、尊重を必要としているからです。 しかし、レベル2の幸福、つまり自己プロモーションは、あなたの唯一の目標になれば、自己中心につながり、嫉妬、失敗の恐れ、侮辱、孤立、そして皮肉に変わります。
レベル3
他人のために良いことをする、世界をより良い場所にすることから派生した幸福です。レベル3の幸福は 、より持続的である。なぜなら、愛、真実、善、美、一致という人間の望みに向けているからです。 レベル2の幸福は人々に分裂に導くのに対し、レベル3の幸福は、共通の利益を追求し、人々を一体させ、感激大きな成果を上げることができます。レベル3は自己中心ではなく、共感的であり、他人には欠点ばかりではなく、長所を見る。 また、人生(生活)を機会として冒険として見、克服しなければならない無限のシリーズの問題として見ていない。人々には限界があるから、レベル3の幸福にも限界があります。私たちの誰もが完璧ではないので、他の人々の中に完璧な満足を見つけることができない。
レベル4
究極の、完璧な幸福。他人々は理想を下回るとき、または私たち自身が理想に達しないとき、われわれは失望してしまう。 この失望は、超越性と完全性への普遍的な人間の憧れを指しています。我々は、単に愛、真実、善、美、と団結を望むだけではなく、我々は、これらのものをすべて究極の、完全で、終わることのない形で望みます。すべての人々は、心理学者は「超越への意欲」と呼んでいるこの究極性を望んでいる。これが大宇宙への接続という感覚を提供します。ある人は、この望みを霊性と宗教的な信仰を通じて表明する。 ある人は、芸術を通して、あるいは哲学で、あるいは科学的な努力によっていのちと宇宙の謎を解くために、同じあこがれを表現します。
The Four Levels of Happiness Defined
http://www.spitzercenter.org/html/our-approach/the-four-levels-defined.php
Level 1
Happiness derived from material objects and the pleasures they can provide. This is the most basic level of happiness, and it can come from eating fine chocolate, driving a sports car, a cool swim on a hot day, or other forms of physical gratification. Level 1 happiness is good but limited. The pleasure it provides is immediate but short-lived and intermittent. It is also shallow; it requires no reflection, and it doesn’t extend beyond the self in any meaningful way.
Level 2
Happiness derived from personal achievement and ego gratification. You feel Level 2 happiness when people praise you; when they acknowledge your popularity and authority; when you win in sports or advance in your career. Level 2 happiness is usually comparative because the ego measures success in terms of advantage over others. You’re happy when you’re seen as smarter, more attractive, or more important than others, and you’re unhappy when you lose the comparison game. Level 2 happiness is short-term and tenuous. You can be happy that you won today, and then anxious you might lose tomorrow. Level 2 is not inherently bad because we all need success, self-esteem, and respect to accomplish good things in life. But when Level 2 happiness ? self-promotion ? becomes your only goal, it leads to self-absorption, jealousy, fear of failure, contempt, isolation, and cynicism.
Level 3
Happiness derived from doing good for others and making the world a better place. Level 3 happiness is more enduring because it is directed toward the human desire for love, truth, goodness, beauty, and unity. It is capable of inspiring great achievements because it unites people in pursuit of the common good, whereas Level 2 happiness divides people. Level 3 is empathetic, not self-absorbed, and it looks for the good in others, not their flaws. It sees life as an opportunity and an adventure, not an endless series of problems to overcome. Because people have limits, Level 3 happiness also has its limits. None of us are perfect, so we can’t find perfect fulfillment in other people.
Level 4
Ultimate, perfect happiness. When others fall short of our ideals, or we fall short ourselves, we’re disappointed. This disappointment points to a universal human longing for transcendence and perfection. We don’t merely desire love, truth, goodness, beauty, and unity; we want all of these things in their ultimate, perfect, never-ending form. All people have this desire for ultimacy, which psychologists call it a desire for transcendence ? a sense of connection to the larger universe. Some express this desire through spirituality and religious faith. Others express the same longing through philosophy, through art, or through scientific efforts to solve the mysteries of life and the universe.
25 per annum C
年間25主日 C
【ルカ16:1-13 「不正な管理人」のたとえ】
年間25主日 C
【ルカ16:1-13 「不正な管理人」のたとえ】
年間第31金
ルカ16・1-8
要するに友達を作っておけば、いざというときに役に立つよ、ということぐらいでいいと思います。
ただここで主イエスが言わんとしていることは、案外はっきりしております。それは富の奴隷になってはいけないが、富を敬遠してはいけない、富に対して賢くふるまわなてはならないということを、光の子、弟子達に語っているということであります。それでも主イエスがここで、「不正な富をもちいてでも、友達をつくれ」といわれた時、それはお金をばらまいて、友達をつくれと、ただいわれたのではなく、その人の借金をゆるすことにそのお金を用いて友達をつくれといわれていることは大事なことだと思います。主イエスがいつも人を裁いてはいけない、いつも人のあやまちを許しなさい、そうしたら天の父もあなたのあやまちをゆるしてくださると繰り返しいわれているのがこういうところにもあらわれているのではないかと思います。友達をつくるということは、その根底にはその友達のあやまちを許す、罪を赦すということによってしか、友達をつくることはできないということであります。それも大変難しいことだけどそうしなさいということであります。不正な富をもちいてでも、そのようにして友達をつくりなさいというのであります。天国への賢い入り方は、他人の負担を軽くすることである。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
年間第31土
ルカ16・9-15
握っている物を手放さなければ、他の物をとることは出来ません。人生は手放すことの連続ではないでしょうか。私達が従いたいと願っているイエスは、名声・富…あらゆるものを手放され、最後は十字架上で命を手放されました。それは、神と罪人である私たちへの愛を選び取られたからでした。手放すことには痛みが伴うものですが、今、私達には、その痛みに共に耐え、支えてくださるイエスがいます。
イエスよ、この世の富よりあなたに従おうとする私達の歩みを助け、強めて下さい。sese05
------------------------
『クリスマス・キャロル』 (原題:A Christmas Carol) は、英国の文豪ディケンズの中編小説。1843年12月17日(12月19日ともされる。参照)に出版。「クリスマス・ブックス」の第1作。
『クリスマス・キャロル』 (A Christmas Carol):1999年、アメリカ映画、監督:デビッド・ヒュー・ジョーンズ
『クリスマス・キャロル』 (Christmas Carol The Movie):2001年、アニメ映画、監督:ジミー・T・ムラカミ
『Disney'sクリスマス・キャロル』 (A Christmas Carol):2009年、3DCGアニメ映画、監督:ロバート・ゼメキス
作品の主人公は、エベネーザ・スクルージScroogeという初老の商人で、冷酷無慈悲、エゴイスト、守銭奴(しゅせんど)で、人間の心の暖かみや愛情などとは、まったく無縁の日々を送っている人物である。ロンドンの下町近くに事務所を構え、薄給(はっきゅう)で書記のボブ・クラチットを雇用し、血も涙もない、強欲で、金儲け一筋の商売を続け、隣人からも、取引相手の商人たちからも蛇蝎(ダカツ・へびとさそり)のごとく嫌われている。
明日はクリスマスという夜、事務所を閉めたあと自宅に戻ったスクルージは、かつての共同経営者で、七年前に亡くなったマーレイ老人の亡霊の訪問を受ける。マーレイの亡霊は、金銭欲や物欲に取り付かれた人間がいかに悲惨な運命となるか、自分自身を例としてスクルージにさとし、スクルージが悲惨な結末を回避し、新しい人生へと生き方を変えるため、三人の精霊がこれから彼の前に出現すると伝える。
スクルージを訪ねる三人の精霊は、「過去のクリスマスの霊」、「現在のクリスマスの霊」、そして「未来のクリスマスの霊」である。
過去の精霊は、スクルージが忘れきっていた少年時代に彼を引き戻し、孤独のなかで、しかし夢を持っていた時代を目の当たりに見せる、また青年時代のスクルージの姿も見せ、金銭欲と物欲の塊となる以前のまだ素朴な心を持っていた、過去の姿を示す。
三人の精霊
次に出現するのは現在のクリスマスの精霊である。現在の精霊は、スクルージをロンドンの様々な場所に導き、貧しいなか、しかし明るい家庭を築いて、ささやかな愛で結ばれたクラチットの家族の情景を示す。クラチットの末子ティムが、脚が悪く病がちで、長くは生きられないことを示す。
現在の精霊と共に世界中を飛び回って見聞を広めたスクルージは、疲れ切って眠る。そして再度目覚めると、そこには真っ黒な布に身を包み、一本の手だけを前に差し出した、不気味な第三の精霊・未来のクリスマスの精霊がスクルージを待っている。
スクルージは、評判の非常に悪い男が死んだという話を聞くが、未来のクリスマスには自分の姿がない。評判の悪い男のシーツに包まれた無惨な死体や、その男の衣服まではぎとる日雇い女。また、盗品(とうひん)専門に買い取りを行う古物商の老人や、その家で、盗んできた品物を売りに老人と交渉する三人の男女の浅ましい様などを見る。ここでスクルージは、その死んだ男が誰なのかを確認することはできなかった。
また、クラチットの末子ティム少年が、両親の希望も空しく世を去ったことを知る。そして草むし荒れ果てた墓場で、見捨てられた墓石の表に記されていたみずからの名をスクルージは読む。
スクルージは激しい衝撃に襲われる。しかし、夜明けと共に、彼が経験した悪夢のような未来が、まだ変えることができる可能性があることを知る。
クリスマスキャロルという有名な映画があります。ケチで人間嫌いで孤独な老人。自分の過去と現在と寂しい孤独な未来の夢を見ます。このまま誰からも嫌われたまま一人寂しく死んで良いのか。そして回心します。一人溜め込んできた財産を投げ捨てて、プレゼントをして廻ります。そうして誰からも愛されるようになり、本当にサンタクロースのように慕われ、幸せな満足感のまま帰天します。この老人は確かに、人生の最後の土壇場で、自分の持っている財産をもっともよく使う方法を見つけ出したのでした。天国泥棒と批判するのは簡単です。しかしこの人は、本当にたくさんの人に感謝され、そして自分自身も、幸せな満足感のまま人生を終えることができた。そして愛に目覚めたこの人は、確かに天国に迎え入れられたと、確信できるのではないでしょうか。
この人のように、神のあわれみに信頼するからこそ、恐れずに今、回心し、実際に償いの業を行う勇気をもつこと。神様の愛に気づき、愛に生きることに目覚めること。それを神様は呼びかけておられるのです。
------------------
.病者の塗油
1.聖書的由来と発展
(1)聖書的由来
病者の塗油の秘跡は、マルコ福音書6章13節の「油を塗って多くの病人を癒した」という言葉や、ヤコブ書5章の「オリーブの油を塗り、祈ってもらいなさい」という言葉に由来しています。ヤコブ書からは、癒しのために共同体が共に祈り合うことの大切さが分かります。
(2)発展
このような形での病者に対する塗油の習慣は、死ぬ間際の人に食事を与えるというローマの文化から影響を受けた臨終の聖体拝領の儀式と結びつき、しだいに死ぬ間際の病人に対して司祭から1回だけ行われる塗油の儀式へと発展していきました。そのため、第二バチカン公会議以前には「終油の秘跡」とも呼ばれていました。
(3)現代における実践
現代では、病のために危険な状態にある人、医師から重態だと判断された人だけでなく、危険な手術を受ける前の人、老衰のために死が近づいていると思われる人も司祭から病者の塗油を受けることができます。回数も、1回だけには限定されておらず、必要があれば何回でも受けることができます。
2.恵み
病者の塗油によって、次のような恵みが与えられます。
(1)聖霊による救霊のための恵み…その人の魂の救いのために、聖霊から与えられる恵みです。
(2)悪霊の誘惑や死の恐怖への抵抗力…病の床にある人は、自分が神様から愛されていないのでは ないかとか、神様が存在しないのではないかという疑問に襲われたり、死への恐怖にさいなま れたりすることがあります。病者の塗油は、そのような誘惑や恐怖と戦う力を与えてくれます 。
(3)病苦と戦う力…病気は多くの場合に苦しみを伴いますが、その苦しみと戦う力が病者の塗油に よって与えられます。
(4)救霊のために必要であれば、肉体の回復…もしその人の魂の救いのために肉体の回復が必要で あれば、肉体が病から回復する恵みが与えられます。どんな場合でも必ず肉体の回復の恵みが 与えられるわけではありません。
(5)罪のゆるし…ゆるしの秘跡を同時に受けることができない場合には、塗油によってその人の犯 したすべての罪がゆるされます。
3.病苦の意味
病の床にある人を苦しめる最も大きな疑問の一つは、「なぜわたしがこんな目に合わなければならないのか」ということでしょう。この疑問は、自分の人生の意味への疑いや、神様の愛への疑いを生む深刻な疑問です。この疑問に対して、わたしたちはどう答えることができるのでしょうか。
この問いに対するキリスト者の答えは、コロサイ書1章24節のパウロの言葉「キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって充たす」に凝縮されています。この言葉を参照しながら、第2バチカン公会議の教会憲章は、病で苦しんでいる人たちに対して「すすんで自分をキリストの受難と死に合わせ、神の民の善に寄与する」(11)ように勧めています。教皇ヨハネ・パウロ2世も使徒的書簡『サルヴィフィチ・ドローリス』の中で、人間は病苦などによって苦しむとき、神秘的な形でイエスの十字架上での苦しみに結ばれると述べています。
イエスの苦しみはそれ自体として十分なものでしたが、その苦しみをイエスだけに苦しませておくのはよくありませんね。病苦を通してイエスと苦しみを共にするときに、わたしたちはイエスの受難により深く結ばれるのでしょう。イエスの受難に深く結ばれることによって、わたしたちはイエスの救いの業に協力することができ、さらにはイエスの復活にも固く結びつけられるのだと思います。
病者の塗油は、病で苦しむ人たちに、彼らが今十字架上のイエスと共にその苦しみを苦しんでいるのだということを思い起こさせ、病苦は決して無意味なものではないと彼らに告げる秘跡だと言えるかもしれません。
《参考文献》
・『カトリック教会のカテキズム』、カトリック中央協議会、2002年。
・『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986年。
・『カトリック儀式書 ゆるしの秘跡』、カトリック中央協議会、1978年。
・『カトリック儀式書 病者の塗油』、カトリック中央協議会、1980年。
・『使徒的書簡 サルヴィフィチ・ドローリス』、サンパウロ、1988年。
http://www.rokko-catholic.jp/Training/tuesdayclass/tuesdayclass-rejime-11-18.htm
【ルカ16:1-13 「不正な管理人」のたとえ】
年間25主日 C
【ルカ16:1-13 「不正な管理人」のたとえ】
年間第31金
ルカ16・1-8
要するに友達を作っておけば、いざというときに役に立つよ、ということぐらいでいいと思います。
ただここで主イエスが言わんとしていることは、案外はっきりしております。それは富の奴隷になってはいけないが、富を敬遠してはいけない、富に対して賢くふるまわなてはならないということを、光の子、弟子達に語っているということであります。それでも主イエスがここで、「不正な富をもちいてでも、友達をつくれ」といわれた時、それはお金をばらまいて、友達をつくれと、ただいわれたのではなく、その人の借金をゆるすことにそのお金を用いて友達をつくれといわれていることは大事なことだと思います。主イエスがいつも人を裁いてはいけない、いつも人のあやまちを許しなさい、そうしたら天の父もあなたのあやまちをゆるしてくださると繰り返しいわれているのがこういうところにもあらわれているのではないかと思います。友達をつくるということは、その根底にはその友達のあやまちを許す、罪を赦すということによってしか、友達をつくることはできないということであります。それも大変難しいことだけどそうしなさいということであります。不正な富をもちいてでも、そのようにして友達をつくりなさいというのであります。天国への賢い入り方は、他人の負担を軽くすることである。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
年間第31土
ルカ16・9-15
握っている物を手放さなければ、他の物をとることは出来ません。人生は手放すことの連続ではないでしょうか。私達が従いたいと願っているイエスは、名声・富…あらゆるものを手放され、最後は十字架上で命を手放されました。それは、神と罪人である私たちへの愛を選び取られたからでした。手放すことには痛みが伴うものですが、今、私達には、その痛みに共に耐え、支えてくださるイエスがいます。
イエスよ、この世の富よりあなたに従おうとする私達の歩みを助け、強めて下さい。sese05
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『クリスマス・キャロル』 (原題:A Christmas Carol) は、英国の文豪ディケンズの中編小説。1843年12月17日(12月19日ともされる。参照)に出版。「クリスマス・ブックス」の第1作。
『クリスマス・キャロル』 (A Christmas Carol):1999年、アメリカ映画、監督:デビッド・ヒュー・ジョーンズ
『クリスマス・キャロル』 (Christmas Carol The Movie):2001年、アニメ映画、監督:ジミー・T・ムラカミ
『Disney'sクリスマス・キャロル』 (A Christmas Carol):2009年、3DCGアニメ映画、監督:ロバート・ゼメキス
作品の主人公は、エベネーザ・スクルージScroogeという初老の商人で、冷酷無慈悲、エゴイスト、守銭奴(しゅせんど)で、人間の心の暖かみや愛情などとは、まったく無縁の日々を送っている人物である。ロンドンの下町近くに事務所を構え、薄給(はっきゅう)で書記のボブ・クラチットを雇用し、血も涙もない、強欲で、金儲け一筋の商売を続け、隣人からも、取引相手の商人たちからも蛇蝎(ダカツ・へびとさそり)のごとく嫌われている。
明日はクリスマスという夜、事務所を閉めたあと自宅に戻ったスクルージは、かつての共同経営者で、七年前に亡くなったマーレイ老人の亡霊の訪問を受ける。マーレイの亡霊は、金銭欲や物欲に取り付かれた人間がいかに悲惨な運命となるか、自分自身を例としてスクルージにさとし、スクルージが悲惨な結末を回避し、新しい人生へと生き方を変えるため、三人の精霊がこれから彼の前に出現すると伝える。
スクルージを訪ねる三人の精霊は、「過去のクリスマスの霊」、「現在のクリスマスの霊」、そして「未来のクリスマスの霊」である。
過去の精霊は、スクルージが忘れきっていた少年時代に彼を引き戻し、孤独のなかで、しかし夢を持っていた時代を目の当たりに見せる、また青年時代のスクルージの姿も見せ、金銭欲と物欲の塊となる以前のまだ素朴な心を持っていた、過去の姿を示す。
三人の精霊
次に出現するのは現在のクリスマスの精霊である。現在の精霊は、スクルージをロンドンの様々な場所に導き、貧しいなか、しかし明るい家庭を築いて、ささやかな愛で結ばれたクラチットの家族の情景を示す。クラチットの末子ティムが、脚が悪く病がちで、長くは生きられないことを示す。
現在の精霊と共に世界中を飛び回って見聞を広めたスクルージは、疲れ切って眠る。そして再度目覚めると、そこには真っ黒な布に身を包み、一本の手だけを前に差し出した、不気味な第三の精霊・未来のクリスマスの精霊がスクルージを待っている。
スクルージは、評判の非常に悪い男が死んだという話を聞くが、未来のクリスマスには自分の姿がない。評判の悪い男のシーツに包まれた無惨な死体や、その男の衣服まではぎとる日雇い女。また、盗品(とうひん)専門に買い取りを行う古物商の老人や、その家で、盗んできた品物を売りに老人と交渉する三人の男女の浅ましい様などを見る。ここでスクルージは、その死んだ男が誰なのかを確認することはできなかった。
また、クラチットの末子ティム少年が、両親の希望も空しく世を去ったことを知る。そして草むし荒れ果てた墓場で、見捨てられた墓石の表に記されていたみずからの名をスクルージは読む。
スクルージは激しい衝撃に襲われる。しかし、夜明けと共に、彼が経験した悪夢のような未来が、まだ変えることができる可能性があることを知る。
クリスマスキャロルという有名な映画があります。ケチで人間嫌いで孤独な老人。自分の過去と現在と寂しい孤独な未来の夢を見ます。このまま誰からも嫌われたまま一人寂しく死んで良いのか。そして回心します。一人溜め込んできた財産を投げ捨てて、プレゼントをして廻ります。そうして誰からも愛されるようになり、本当にサンタクロースのように慕われ、幸せな満足感のまま帰天します。この老人は確かに、人生の最後の土壇場で、自分の持っている財産をもっともよく使う方法を見つけ出したのでした。天国泥棒と批判するのは簡単です。しかしこの人は、本当にたくさんの人に感謝され、そして自分自身も、幸せな満足感のまま人生を終えることができた。そして愛に目覚めたこの人は、確かに天国に迎え入れられたと、確信できるのではないでしょうか。
この人のように、神のあわれみに信頼するからこそ、恐れずに今、回心し、実際に償いの業を行う勇気をもつこと。神様の愛に気づき、愛に生きることに目覚めること。それを神様は呼びかけておられるのです。
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.病者の塗油
1.聖書的由来と発展
(1)聖書的由来
病者の塗油の秘跡は、マルコ福音書6章13節の「油を塗って多くの病人を癒した」という言葉や、ヤコブ書5章の「オリーブの油を塗り、祈ってもらいなさい」という言葉に由来しています。ヤコブ書からは、癒しのために共同体が共に祈り合うことの大切さが分かります。
(2)発展
このような形での病者に対する塗油の習慣は、死ぬ間際の人に食事を与えるというローマの文化から影響を受けた臨終の聖体拝領の儀式と結びつき、しだいに死ぬ間際の病人に対して司祭から1回だけ行われる塗油の儀式へと発展していきました。そのため、第二バチカン公会議以前には「終油の秘跡」とも呼ばれていました。
(3)現代における実践
現代では、病のために危険な状態にある人、医師から重態だと判断された人だけでなく、危険な手術を受ける前の人、老衰のために死が近づいていると思われる人も司祭から病者の塗油を受けることができます。回数も、1回だけには限定されておらず、必要があれば何回でも受けることができます。
2.恵み
病者の塗油によって、次のような恵みが与えられます。
(1)聖霊による救霊のための恵み…その人の魂の救いのために、聖霊から与えられる恵みです。
(2)悪霊の誘惑や死の恐怖への抵抗力…病の床にある人は、自分が神様から愛されていないのでは ないかとか、神様が存在しないのではないかという疑問に襲われたり、死への恐怖にさいなま れたりすることがあります。病者の塗油は、そのような誘惑や恐怖と戦う力を与えてくれます 。
(3)病苦と戦う力…病気は多くの場合に苦しみを伴いますが、その苦しみと戦う力が病者の塗油に よって与えられます。
(4)救霊のために必要であれば、肉体の回復…もしその人の魂の救いのために肉体の回復が必要で あれば、肉体が病から回復する恵みが与えられます。どんな場合でも必ず肉体の回復の恵みが 与えられるわけではありません。
(5)罪のゆるし…ゆるしの秘跡を同時に受けることができない場合には、塗油によってその人の犯 したすべての罪がゆるされます。
3.病苦の意味
病の床にある人を苦しめる最も大きな疑問の一つは、「なぜわたしがこんな目に合わなければならないのか」ということでしょう。この疑問は、自分の人生の意味への疑いや、神様の愛への疑いを生む深刻な疑問です。この疑問に対して、わたしたちはどう答えることができるのでしょうか。
この問いに対するキリスト者の答えは、コロサイ書1章24節のパウロの言葉「キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって充たす」に凝縮されています。この言葉を参照しながら、第2バチカン公会議の教会憲章は、病で苦しんでいる人たちに対して「すすんで自分をキリストの受難と死に合わせ、神の民の善に寄与する」(11)ように勧めています。教皇ヨハネ・パウロ2世も使徒的書簡『サルヴィフィチ・ドローリス』の中で、人間は病苦などによって苦しむとき、神秘的な形でイエスの十字架上での苦しみに結ばれると述べています。
イエスの苦しみはそれ自体として十分なものでしたが、その苦しみをイエスだけに苦しませておくのはよくありませんね。病苦を通してイエスと苦しみを共にするときに、わたしたちはイエスの受難により深く結ばれるのでしょう。イエスの受難に深く結ばれることによって、わたしたちはイエスの救いの業に協力することができ、さらにはイエスの復活にも固く結びつけられるのだと思います。
病者の塗油は、病で苦しむ人たちに、彼らが今十字架上のイエスと共にその苦しみを苦しんでいるのだということを思い起こさせ、病苦は決して無意味なものではないと彼らに告げる秘跡だと言えるかもしれません。
《参考文献》
・『カトリック教会のカテキズム』、カトリック中央協議会、2002年。
・『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986年。
・『カトリック儀式書 ゆるしの秘跡』、カトリック中央協議会、1978年。
・『カトリック儀式書 病者の塗油』、カトリック中央協議会、1980年。
・『使徒的書簡 サルヴィフィチ・ドローリス』、サンパウロ、1988年。
http://www.rokko-catholic.jp/Training/tuesdayclass/tuesdayclass-rejime-11-18.htm
24 per annum C
年間24主日 C
【ルカ15:1-10 見失った羊+無くした銀貨のたとえ】
年間24主日 C
【ルカ15:1-10 見失った羊+無くした銀貨のたとえ】
今日の譬え、何度も耳にした譬えだと思います。徴税人、罪人がイエス様のところに話を聞こうと集まってきた。ファリサイ派や律法学者は、罪人と交わるイエス様に文句を言う。しかしイエスは、その批判に対して論議や説明をしようとはしません。かえって、生活の中にありうるたとえ話で、人々に考えさせます。
そこでイエス様はこうはっきり宣言されたわけです。
「私は羊飼い。私は、見失った1匹の羊のためなら、99匹を残して捜し回る。そしてその1匹を見つけたなら、大喜びし、皆と喜びを分かち合う。そういう羊飼いなのだ」。
私たちはすぐ思ってしまいます。1匹のために99匹を残していたら、放って置かれた99匹はどうするのか。理想だけれど、現実的には難しい話だと。それは私も学校で働いていますのでたくさん経験しました。99匹を守るためには、1匹は犠牲にしなければならないことがあるのではないか。一人のために学校が大変なことになっているとき、その一人をやはり追い出さなければならないのではないか。それが社会の常識でしょう。そして1匹の羊を大切にする理想が、カトリックの学校で行われているかと言えば、なかなかそうはいっていないのも事実だと思います。
しかしこの常識に、イエス様は立ち向かいます。「私はそれでもその1匹をくまなく捜し回る羊飼いなのだ」。
私たちは99匹の側に立つことが多いのです。
何といっても「弱肉強食」の社会ですからね(ルネ・ジラール著, 身代りの山羊, 織田年和, 富永茂樹訳 東京 : 法政大学出版局 , 1985.12 Le bouc emissaire参照)。
だからつい「それは理想だけど……」と言ってしまいがちです。でももしも私が、その迷った1匹の羊だと本当に思えたならば、本当にその1匹の羊になったことがあるなら、これは本当にありがたい話になります。自分自身がそのような迷った1匹であったこと。そういう体験って誰にでもあるのではないでしょうか。
ここは失われたものを見つけるという話が中心ではなく、それを見つけた時に、みんなと一
緒になって喜ぶではないかという、その後の喜びが中心なのです。
一人の罪人が悔い改めて神のもとに帰ってきたならば、神は自分ひとりで喜ぶのではなく、
仲間を集めて共に喜ぶということなのです。天にある大いなる喜びというのは、天には天使
たちがたくさんいて、神はその天使たちを集めて喜び祝うということです。神はひとりの人
間が悔い改めた時に、神おひとりで喜ぶのではなく、みんなを集めて共に喜ぶということな
のです。
----------
2008年9月26日 ... 阪神タイガース優勝に伴う経済波及効果は約767億円. 大学院会計研究科 宮本勝浩教授らが推定. このたび関西大学会計専門職大学院の宮本勝浩教授らが、2008年プロ野球阪神タイガース優勝の. 経済効果を推定しました。
www.kansai-u.ac.jp/global/guide/pressrelease/2008/No22.pdf
天国のGDP 国内総生産は増える。
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サル研究のメリットは高く評価したい。しかし、そのようにサルから学ぶことが多くあることを認めつつも、「チンパンジーを見ていると、人間のどこが特別なことなのかと疑問がわいてきます」という科学者の感想には首をかしげざるをえない。(中略)科学や学問の営為は、つまるところ人間が自らを理解し、自らを実現するため、つまりより充実した意味で「人間となる」ためのものではなかったのか。思い上がりではなく、まさしく人間のどこが特別なのかを自覚させてくれない学問は自己抹殺的な学問というべきではないだろうか。(中略) それにつけても、どうしてサルに向けられるのと同じ程度の学問的関心が天使に向けられないのか、不思議だといわざるをえない。というのも、もしも「サルからヒトへの進化」という問題が学問的関心の対象になりうるのなら、人間は将来どのようなより完全な存在へ進化するのかという問題も当然学問的関心の対象になってよいのではないか、と思われ、そのさい人間がそれへと向かって進化してゆく高次の存在としての天使を考えることはそれほど見当違いではないように思われるからである。じっさい、われわれが進化について本当に真剣に考えているのであれば、目を過去あるいは後方だけに向けるのは不十分であって、これからの進化がめざす未来あるいは前方をできるかぎり見きわめようとする試みが要求されるであろう。進化の目標についてのヴィジョンを欠いた進化論は、私には科学の名を借りた独断か偏見のようなものとしか思えないのである。(P34-35)
「サル学」というのが、昨今あまりにもクローズアップされていて、ほとんどの結論が「人間とサルはそんなに違わないじゃないか」となってましてあまりにも馬鹿げたそうした論調には、日頃から憤っていたものです(^^;。
正しい学問的関心があるならば、なぜ人間は、現在の愚かしい状態も含めて、まさに、サルではなく人間なのかということを問うべきだと思います。そして、人間は、そうした愚かしさをどのように克服して、新たな進化の段階へと進むべきなのか。そういう可能性の学問でなくて、なにが学問だ!といいたいわけです。サルから学ぶものはそれはそれでけっこうだけど、それで人間がわかったなどと思う愚かしさにだけは陥ってはならない。そう思うのです。 (稲垣/良典【著】天使論序説 講談社学術文庫 講談社 1996)
---------------
主イエスがここで言おうとしていることは、一人の人間が自分の罪を悔いたならば、共に一
緒になって、喜ぶのが当たり前ではないかということです。どうしてお前たちにはそれがで
きないのかということです。パリサイ派の人々は自分たちだけが救われればいいと考えてい
るのです。自分たちが天国にいければいいと考えていたのです。
できることならば、救われる者はできるだけ少ないほうがいい、それのほうが有難味が増す
というものなのです。彼らの考える救いというのは、結局はそのようにきわめて利己
的なもの、自分だけが救われれればいいという自己中心的なものだったということでありま
す。そんなものは神の救いではないと主イエスはここで語ろうとしておられるのであります。
-----------------
何でもないようなものを見つけ出すのにほぼ一日を費やすこともあります。
今日の福音書の神様の様子はそれに似ています。「悔い改める見込みのある人を必死で捜し
出すこと」とまとめてることができると思います。百匹の羊を持っている人がいて、その一
匹を見失った時に考えたことは、まだそんなに時間も経ってないし、捜せば見つかる見込み
があると判断したのだと思います。時価五千円相当の銀貨も、まだ旦那にばれていないし(
「へそくりがね」だと仮定しての話ですが)、どう考えても外に持って出た覚えはない。だ
としたら、捜せば見つけ出す見込みがあると考えたのだと思います。
私はこの、「見込みがある」と考えたことに必死で努力することが、今日の朗読からの学び
なのではないかと思っています。イエス様は直接「見込みのある努力をしなさい」とか「見
込みのないことからは手を引きなさい」と仰っているわけではありませんが、そこでわたし
たちの生活に目を向けたいのですが、実はわたしたちの教会(共同体)のなかには、手を付
ければまだ見込みのある部分がたくさん残されているのではないかと思うようになります。
羊を持った人のたとえ話では、「九十九匹を野原に残して」とありました。あと一人、教会
に足を向ける見込みのある人がいるとすれば、それは必死に努力する価値があるということ
です。そのあと一人二人が、教会に来ない理由は何なのでしょうか。
または、教会運営に手を貸してくれない人がいるかも知れません。そういう人が何人もいる
として、あの人とあの人は、きっかけがあればまた足を向けてくれるのだなあということも
あるでしょう。では、どんなきっかけがあればいいのか、必死で考えてみることでしょう。
イエス様は、立ち返る人が一人でもいれば、天使たちの間に喜びがある、それだけの価値が
あると仰っているのです。
【ルカ15:1-10 見失った羊+無くした銀貨のたとえ】
年間24主日 C
【ルカ15:1-10 見失った羊+無くした銀貨のたとえ】
今日の譬え、何度も耳にした譬えだと思います。徴税人、罪人がイエス様のところに話を聞こうと集まってきた。ファリサイ派や律法学者は、罪人と交わるイエス様に文句を言う。しかしイエスは、その批判に対して論議や説明をしようとはしません。かえって、生活の中にありうるたとえ話で、人々に考えさせます。
そこでイエス様はこうはっきり宣言されたわけです。
「私は羊飼い。私は、見失った1匹の羊のためなら、99匹を残して捜し回る。そしてその1匹を見つけたなら、大喜びし、皆と喜びを分かち合う。そういう羊飼いなのだ」。
私たちはすぐ思ってしまいます。1匹のために99匹を残していたら、放って置かれた99匹はどうするのか。理想だけれど、現実的には難しい話だと。それは私も学校で働いていますのでたくさん経験しました。99匹を守るためには、1匹は犠牲にしなければならないことがあるのではないか。一人のために学校が大変なことになっているとき、その一人をやはり追い出さなければならないのではないか。それが社会の常識でしょう。そして1匹の羊を大切にする理想が、カトリックの学校で行われているかと言えば、なかなかそうはいっていないのも事実だと思います。
しかしこの常識に、イエス様は立ち向かいます。「私はそれでもその1匹をくまなく捜し回る羊飼いなのだ」。
私たちは99匹の側に立つことが多いのです。
何といっても「弱肉強食」の社会ですからね(ルネ・ジラール著, 身代りの山羊, 織田年和, 富永茂樹訳 東京 : 法政大学出版局 , 1985.12 Le bouc emissaire参照)。
だからつい「それは理想だけど……」と言ってしまいがちです。でももしも私が、その迷った1匹の羊だと本当に思えたならば、本当にその1匹の羊になったことがあるなら、これは本当にありがたい話になります。自分自身がそのような迷った1匹であったこと。そういう体験って誰にでもあるのではないでしょうか。
ここは失われたものを見つけるという話が中心ではなく、それを見つけた時に、みんなと一
緒になって喜ぶではないかという、その後の喜びが中心なのです。
一人の罪人が悔い改めて神のもとに帰ってきたならば、神は自分ひとりで喜ぶのではなく、
仲間を集めて共に喜ぶということなのです。天にある大いなる喜びというのは、天には天使
たちがたくさんいて、神はその天使たちを集めて喜び祝うということです。神はひとりの人
間が悔い改めた時に、神おひとりで喜ぶのではなく、みんなを集めて共に喜ぶということな
のです。
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2008年9月26日 ... 阪神タイガース優勝に伴う経済波及効果は約767億円. 大学院会計研究科 宮本勝浩教授らが推定. このたび関西大学会計専門職大学院の宮本勝浩教授らが、2008年プロ野球阪神タイガース優勝の. 経済効果を推定しました。
www.kansai-u.ac.jp/global/guide/pressrelease/2008/No22.pdf
天国のGDP 国内総生産は増える。
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サル研究のメリットは高く評価したい。しかし、そのようにサルから学ぶことが多くあることを認めつつも、「チンパンジーを見ていると、人間のどこが特別なことなのかと疑問がわいてきます」という科学者の感想には首をかしげざるをえない。(中略)科学や学問の営為は、つまるところ人間が自らを理解し、自らを実現するため、つまりより充実した意味で「人間となる」ためのものではなかったのか。思い上がりではなく、まさしく人間のどこが特別なのかを自覚させてくれない学問は自己抹殺的な学問というべきではないだろうか。(中略) それにつけても、どうしてサルに向けられるのと同じ程度の学問的関心が天使に向けられないのか、不思議だといわざるをえない。というのも、もしも「サルからヒトへの進化」という問題が学問的関心の対象になりうるのなら、人間は将来どのようなより完全な存在へ進化するのかという問題も当然学問的関心の対象になってよいのではないか、と思われ、そのさい人間がそれへと向かって進化してゆく高次の存在としての天使を考えることはそれほど見当違いではないように思われるからである。じっさい、われわれが進化について本当に真剣に考えているのであれば、目を過去あるいは後方だけに向けるのは不十分であって、これからの進化がめざす未来あるいは前方をできるかぎり見きわめようとする試みが要求されるであろう。進化の目標についてのヴィジョンを欠いた進化論は、私には科学の名を借りた独断か偏見のようなものとしか思えないのである。(P34-35)
「サル学」というのが、昨今あまりにもクローズアップされていて、ほとんどの結論が「人間とサルはそんなに違わないじゃないか」となってましてあまりにも馬鹿げたそうした論調には、日頃から憤っていたものです(^^;。
正しい学問的関心があるならば、なぜ人間は、現在の愚かしい状態も含めて、まさに、サルではなく人間なのかということを問うべきだと思います。そして、人間は、そうした愚かしさをどのように克服して、新たな進化の段階へと進むべきなのか。そういう可能性の学問でなくて、なにが学問だ!といいたいわけです。サルから学ぶものはそれはそれでけっこうだけど、それで人間がわかったなどと思う愚かしさにだけは陥ってはならない。そう思うのです。 (稲垣/良典【著】天使論序説 講談社学術文庫 講談社 1996)
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主イエスがここで言おうとしていることは、一人の人間が自分の罪を悔いたならば、共に一
緒になって、喜ぶのが当たり前ではないかということです。どうしてお前たちにはそれがで
きないのかということです。パリサイ派の人々は自分たちだけが救われればいいと考えてい
るのです。自分たちが天国にいければいいと考えていたのです。
できることならば、救われる者はできるだけ少ないほうがいい、それのほうが有難味が増す
というものなのです。彼らの考える救いというのは、結局はそのようにきわめて利己
的なもの、自分だけが救われれればいいという自己中心的なものだったということでありま
す。そんなものは神の救いではないと主イエスはここで語ろうとしておられるのであります。
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何でもないようなものを見つけ出すのにほぼ一日を費やすこともあります。
今日の福音書の神様の様子はそれに似ています。「悔い改める見込みのある人を必死で捜し
出すこと」とまとめてることができると思います。百匹の羊を持っている人がいて、その一
匹を見失った時に考えたことは、まだそんなに時間も経ってないし、捜せば見つかる見込み
があると判断したのだと思います。時価五千円相当の銀貨も、まだ旦那にばれていないし(
「へそくりがね」だと仮定しての話ですが)、どう考えても外に持って出た覚えはない。だ
としたら、捜せば見つけ出す見込みがあると考えたのだと思います。
私はこの、「見込みがある」と考えたことに必死で努力することが、今日の朗読からの学び
なのではないかと思っています。イエス様は直接「見込みのある努力をしなさい」とか「見
込みのないことからは手を引きなさい」と仰っているわけではありませんが、そこでわたし
たちの生活に目を向けたいのですが、実はわたしたちの教会(共同体)のなかには、手を付
ければまだ見込みのある部分がたくさん残されているのではないかと思うようになります。
羊を持った人のたとえ話では、「九十九匹を野原に残して」とありました。あと一人、教会
に足を向ける見込みのある人がいるとすれば、それは必死に努力する価値があるということ
です。そのあと一人二人が、教会に来ない理由は何なのでしょうか。
または、教会運営に手を貸してくれない人がいるかも知れません。そういう人が何人もいる
として、あの人とあの人は、きっかけがあればまた足を向けてくれるのだなあということも
あるでしょう。では、どんなきっかけがあればいいのか、必死で考えてみることでしょう。
イエス様は、立ち返る人が一人でもいれば、天使たちの間に喜びがある、それだけの価値が
あると仰っているのです。
23 per annum C
年間23主日 C
【ルカ14:25-33 自分の持ち物を一切捨て】
年間第31水
ルカ14・25-33
聖書でいっている、自分を捨てる、ということは、仏教的な意味での、自分を捨てる、自分
を無にする、無我の境に立つ、そういう悟りを得るということとは違います。それでしたら
、まだ自分中心的な生き方となるのです。
「自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ」ということ、ただ自分を捨
てればいいというのではなく、イエスに従う、神に従うということが大事なのです。
自分を何もかも中心にすえて生きるのではなく、神を中心に据えて生きる、それは具体的
にはイエスに従って生きるということなのです。ですから、それは無我の境の悟りを開くと
いうようなことではなく、神に従う、常に神のみこころは何かということ、それに耳を傾け
ながら、神に従順になろうとして生きるということなのです。
自分が自分みずからの決断で負う十字架というものも、果たしてそれがその人にとって「自分の十字架」といえるかどうかです。それは自分で選んだ十字架であって、結局は自分が好んだ十字架であって、主イエスが求めたように、「わたしの思いではなく、あなたのみこころに従って」ということにはならないのではないかと思います。
この二つのたとえ話と、その結論、「それと同じように」というつなぎの言葉がどのようにつながれるのか不思議であります。自分の十字架を担い切れなかったら、担わなくてもいいというのではないのです。
自分の十字架を担いきれそうもなかったら、それが現実に担い切れるまで力をためなさいというのです。じっくりと待ちなさい、また他の誰かの助けも借りなさい、そうして自分を捨てなさい、とイエスは勧めているのです。自分の十字架を負うということは、やみくもに負うということではない、その十字架を自分が負えるのかどうか、自分ひとりで負いきれるものかどうか、まず座ってじっくり考えて、ある意味では計算をして、決断しなさいということです。
この十字架を負うということが、殉教者気取りの英雄主義的な十字架でないことは、場合によっては、敵に対して降参してしまいなさい、とイエスが勧めていることでよくわかります。これは今の問題でいえば、たとえば、老人介護の問題でしたら、家族だけで担いきれないならば、公的なサービスを進んで利用しなさいというようなことでしょうか。誰かにの助けを求めることは決して恥じではないのだということです。
大事なことは、イエスに従うというとです。イエスの「前」に行く必要はひとつもないのです。われわれはしばしば神よりも完璧主義者になるのです。神よりも、イエスよりも先きんずる必要はないのです。主イエスに従っていけばいいということなのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
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長田弘(おさだ・ひろし)という詩人がこんな詩を書いております。「はじまりというのは、
何かをはじめること。そう考えるのがほんとうは順序なのかもしれません。しかし、実際は
ちがうと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何か
をやめるということが、いつも何かのはじまりだと思えるからです」という言葉で始まる詩
であります。
何かを始めるということは、常に何かをやめるということだ、何かをやめることが何かの
始まりだというのであります。そしてその詩人はこういうのです。「わたしの場合、子ども
のときから、はじめたことよりも、やめたことのほうが、人生というものの節目、区切り目
として、濃い影のように、心の中にのこっています」と歌うのです。
そしてそのあと、その詩人がいっていることは、やめるということよりは、やめさせられ
たということ、断念せざるをえなくて、やめて、やめさせられて、何かが始まったというの
です。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
3週間前は、キリストを信じたら家庭がばらばらと言う話でした。2週間前は、救われる者は少ない、狭い戸口から入れ。先週は謙そんになりなさい。そして今週は「家族や自分の命を憎み、十字架を背負いなさい」です。こんな暗い話はもうたくさん。もっと良い話を聞きたい。楽しい話をしたいと、心の中で叫びます。折角お休みの時間を割いてミサに来てもらっているのに、十字架のイエス様を見て「自分の持ち物を一切捨てなければ」など書かれているパンフレットを見て、そんなミサに与って、あぁ今日ミサ来て良かったねなんて、思うんでしょうか。もし私が求道中だったら、そんな教会からは逃げ出してしまうんではないかと思います。
でもそんなことを思っていたら、かえって今日の聖書の箇所をそのとおりと思ってしまいました。「自分の嫌なことをすすんでしなければ、イエス様の弟子にはなれない。好きな聖書の箇所ばかり説教しているようでは、司祭でない」と言う今日のメッセージの真実さです。
人間には自分の思い通りに行かないことのほうが多いのです。やりたいことだけやればいい。そんなことは絶対ありえない。弟子たちの誤解していたのはまさにその点です。イエス様に従っていれば、偉くなれるだろう。尊敬されるだろう。そんな期待をもっていた弟子たちでした。だからこそ十字架を受け入れられなかった。そんなことあってはいけないとイエス様に忠告したのです。そして十字架につけられたイエス様を見て、すっかり失望し、逃げてしまったのでした。私たちの思っていた神は、こんな姿であるはずがないと、自分たちで勝手にイエス様を定義していたのです。
しかし自分の思い以上に神様の思いがある。死すべき人間の考えは浅はかで思いは不確か。神様の計画は探り出せないもの。そう第1朗読にはっきり書かれています(知恵9:13f)。「自分の思いや願いはすべて捨て去り、打ち捨てよ」。それが自分の十字架を背負うことの一つの意味かもしれません。
そう考えつつ十字架のイエス様の顔を見ていたら「そうだ、イエス様もつらかったんだ」と改めて思い起こしました。ゲツセマネで弟子たちにそばにいて共につらい夜を過ごしてほしいと願ったイエス様がいました。死ぬほど、血の汗を流すほど苦しんだイエス様がいました。できるならこの杯を取り除いてくださいと叫んだイエス様がいました。弟子たちの裏切り、十字架の痛み・屈辱。神に従えば楽ばかりでないことは、イエス自身の生涯が見事に語っているのです。
しかしなぜ、いやな十字架をイエス様は担いでいったのでしょう。第2朗読の年老いたパウロがイエス様の囚人として監禁されたように、イエス様も神様の囚人になっていたのです。ふつう囚人は裁判にかけられ、仕方なく囚人になるのです。しかしイエス様やパウロは違います。自ら進んで、イエス様は神様の、パウロはイエス様の囚人になったのです。ではなんで自ら好き好んで囚人なんかになったのでしょう。それは神様が、イエス様が大好きだったからです。だからこそ自分の意思や思いを捨てても、神様のみ旨、イエス様のみ旨を、果たそうとしたのです。
とても凡人にはまねできないと考えてしまいがちな私たちです。でも待ってください。私たちは好きな異性のためなら、自ら進んで囚人になろうとするではないですか。自分を与え尽くそうと思うではないですか。自分の持ち物すべてを捨てようとするではないですか。家族の反対を押し切っても、財産のある自分の家を捨てても、何も持たずに飛び込もうとするではないですか。好きだからこそ自分を捨てて、囚人になるのです。好きになったこと。これもある意味で十字架です。喜びと苦しみが一つになった、重くもあり軽くもある十字架です。イエス様が担いだ十字架も、そのような十字架だったのです。
異性への愛と言っても移ろいやすいものです。しかしそんな人間の愛に対してでさえ、それほどのことができる私たち。それなら絶対で変わることのない神様に、同じことが、それ以上のことが、どうしてできないのでしょう。本当に神様が好きだったら、異性にするように、それ以上に、自分の持ち物を捨てるでしょう。激しい愛を本当に神様に、イエス様に持っているのか。捨てる気などないとき、残念ながら、イエス様のことをそれほどは愛していないことが逆に分かります。
「その程度の愛なら、私に従うのはやめときなさい。途中で裏切って逃げ出して、振り返って後悔するだけだから」。こうイエス様に従おうとついてきた大勢の群集に語ったのが、今日の箇所と言うことになります。
もちろんこの世で生きているキリスト者です。家庭を持っていれば、家庭のための持ち物は必要です。でも本当に神様・イエス様を愛し、教会に毎週来ているのかどうかくらいは、自分に問うても良いのではないでしょうか。ただの義務からですか。習慣からですか。それならばあまり意味はないのです。大切なのは神様への感謝と愛です。
ではなぜ神様を愛し、感謝するのでしょう。実は私たちより先に、私たち以上に、はるかに神様がこの私を、とても大切に思い焦がれ、選び取ってくださっていたからです。そしてこの私をなんとしても救おうと、私のためすでに十字架にかかってくださったからです。それほどまで神様はこの私に愛を示してくださっていた。なのに私は、その愛を感じない。感じ取ることができず、毎日の生活の中でうまくいかないことばかり上げつらい、不平ばかり言っている。すべて知ってくださっている神様がいながら、誰も分かってくれないとぼやいている。あるいは神様のことをわざと思い出さないようにしている。
私を愛し、救い、守ってくださった神様。私の罪を負ってくださったイエス様。その神様への感謝と愛のためにこそ、教会に集っている。その原点をもう一度しっかり確認しましょう。そして神様への狂わしいほどの感謝と愛という十字架を背負いながら、この世を生きていきましょう。
【ルカ14:25-33 自分の持ち物を一切捨て】
年間第31水
ルカ14・25-33
聖書でいっている、自分を捨てる、ということは、仏教的な意味での、自分を捨てる、自分
を無にする、無我の境に立つ、そういう悟りを得るということとは違います。それでしたら
、まだ自分中心的な生き方となるのです。
「自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ」ということ、ただ自分を捨
てればいいというのではなく、イエスに従う、神に従うということが大事なのです。
自分を何もかも中心にすえて生きるのではなく、神を中心に据えて生きる、それは具体的
にはイエスに従って生きるということなのです。ですから、それは無我の境の悟りを開くと
いうようなことではなく、神に従う、常に神のみこころは何かということ、それに耳を傾け
ながら、神に従順になろうとして生きるということなのです。
自分が自分みずからの決断で負う十字架というものも、果たしてそれがその人にとって「自分の十字架」といえるかどうかです。それは自分で選んだ十字架であって、結局は自分が好んだ十字架であって、主イエスが求めたように、「わたしの思いではなく、あなたのみこころに従って」ということにはならないのではないかと思います。
この二つのたとえ話と、その結論、「それと同じように」というつなぎの言葉がどのようにつながれるのか不思議であります。自分の十字架を担い切れなかったら、担わなくてもいいというのではないのです。
自分の十字架を担いきれそうもなかったら、それが現実に担い切れるまで力をためなさいというのです。じっくりと待ちなさい、また他の誰かの助けも借りなさい、そうして自分を捨てなさい、とイエスは勧めているのです。自分の十字架を負うということは、やみくもに負うということではない、その十字架を自分が負えるのかどうか、自分ひとりで負いきれるものかどうか、まず座ってじっくり考えて、ある意味では計算をして、決断しなさいということです。
この十字架を負うということが、殉教者気取りの英雄主義的な十字架でないことは、場合によっては、敵に対して降参してしまいなさい、とイエスが勧めていることでよくわかります。これは今の問題でいえば、たとえば、老人介護の問題でしたら、家族だけで担いきれないならば、公的なサービスを進んで利用しなさいというようなことでしょうか。誰かにの助けを求めることは決して恥じではないのだということです。
大事なことは、イエスに従うというとです。イエスの「前」に行く必要はひとつもないのです。われわれはしばしば神よりも完璧主義者になるのです。神よりも、イエスよりも先きんずる必要はないのです。主イエスに従っていけばいいということなのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
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長田弘(おさだ・ひろし)という詩人がこんな詩を書いております。「はじまりというのは、
何かをはじめること。そう考えるのがほんとうは順序なのかもしれません。しかし、実際は
ちがうと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何か
をやめるということが、いつも何かのはじまりだと思えるからです」という言葉で始まる詩
であります。
何かを始めるということは、常に何かをやめるということだ、何かをやめることが何かの
始まりだというのであります。そしてその詩人はこういうのです。「わたしの場合、子ども
のときから、はじめたことよりも、やめたことのほうが、人生というものの節目、区切り目
として、濃い影のように、心の中にのこっています」と歌うのです。
そしてそのあと、その詩人がいっていることは、やめるということよりは、やめさせられ
たということ、断念せざるをえなくて、やめて、やめさせられて、何かが始まったというの
です。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
3週間前は、キリストを信じたら家庭がばらばらと言う話でした。2週間前は、救われる者は少ない、狭い戸口から入れ。先週は謙そんになりなさい。そして今週は「家族や自分の命を憎み、十字架を背負いなさい」です。こんな暗い話はもうたくさん。もっと良い話を聞きたい。楽しい話をしたいと、心の中で叫びます。折角お休みの時間を割いてミサに来てもらっているのに、十字架のイエス様を見て「自分の持ち物を一切捨てなければ」など書かれているパンフレットを見て、そんなミサに与って、あぁ今日ミサ来て良かったねなんて、思うんでしょうか。もし私が求道中だったら、そんな教会からは逃げ出してしまうんではないかと思います。
でもそんなことを思っていたら、かえって今日の聖書の箇所をそのとおりと思ってしまいました。「自分の嫌なことをすすんでしなければ、イエス様の弟子にはなれない。好きな聖書の箇所ばかり説教しているようでは、司祭でない」と言う今日のメッセージの真実さです。
人間には自分の思い通りに行かないことのほうが多いのです。やりたいことだけやればいい。そんなことは絶対ありえない。弟子たちの誤解していたのはまさにその点です。イエス様に従っていれば、偉くなれるだろう。尊敬されるだろう。そんな期待をもっていた弟子たちでした。だからこそ十字架を受け入れられなかった。そんなことあってはいけないとイエス様に忠告したのです。そして十字架につけられたイエス様を見て、すっかり失望し、逃げてしまったのでした。私たちの思っていた神は、こんな姿であるはずがないと、自分たちで勝手にイエス様を定義していたのです。
しかし自分の思い以上に神様の思いがある。死すべき人間の考えは浅はかで思いは不確か。神様の計画は探り出せないもの。そう第1朗読にはっきり書かれています(知恵9:13f)。「自分の思いや願いはすべて捨て去り、打ち捨てよ」。それが自分の十字架を背負うことの一つの意味かもしれません。
そう考えつつ十字架のイエス様の顔を見ていたら「そうだ、イエス様もつらかったんだ」と改めて思い起こしました。ゲツセマネで弟子たちにそばにいて共につらい夜を過ごしてほしいと願ったイエス様がいました。死ぬほど、血の汗を流すほど苦しんだイエス様がいました。できるならこの杯を取り除いてくださいと叫んだイエス様がいました。弟子たちの裏切り、十字架の痛み・屈辱。神に従えば楽ばかりでないことは、イエス自身の生涯が見事に語っているのです。
しかしなぜ、いやな十字架をイエス様は担いでいったのでしょう。第2朗読の年老いたパウロがイエス様の囚人として監禁されたように、イエス様も神様の囚人になっていたのです。ふつう囚人は裁判にかけられ、仕方なく囚人になるのです。しかしイエス様やパウロは違います。自ら進んで、イエス様は神様の、パウロはイエス様の囚人になったのです。ではなんで自ら好き好んで囚人なんかになったのでしょう。それは神様が、イエス様が大好きだったからです。だからこそ自分の意思や思いを捨てても、神様のみ旨、イエス様のみ旨を、果たそうとしたのです。
とても凡人にはまねできないと考えてしまいがちな私たちです。でも待ってください。私たちは好きな異性のためなら、自ら進んで囚人になろうとするではないですか。自分を与え尽くそうと思うではないですか。自分の持ち物すべてを捨てようとするではないですか。家族の反対を押し切っても、財産のある自分の家を捨てても、何も持たずに飛び込もうとするではないですか。好きだからこそ自分を捨てて、囚人になるのです。好きになったこと。これもある意味で十字架です。喜びと苦しみが一つになった、重くもあり軽くもある十字架です。イエス様が担いだ十字架も、そのような十字架だったのです。
異性への愛と言っても移ろいやすいものです。しかしそんな人間の愛に対してでさえ、それほどのことができる私たち。それなら絶対で変わることのない神様に、同じことが、それ以上のことが、どうしてできないのでしょう。本当に神様が好きだったら、異性にするように、それ以上に、自分の持ち物を捨てるでしょう。激しい愛を本当に神様に、イエス様に持っているのか。捨てる気などないとき、残念ながら、イエス様のことをそれほどは愛していないことが逆に分かります。
「その程度の愛なら、私に従うのはやめときなさい。途中で裏切って逃げ出して、振り返って後悔するだけだから」。こうイエス様に従おうとついてきた大勢の群集に語ったのが、今日の箇所と言うことになります。
もちろんこの世で生きているキリスト者です。家庭を持っていれば、家庭のための持ち物は必要です。でも本当に神様・イエス様を愛し、教会に毎週来ているのかどうかくらいは、自分に問うても良いのではないでしょうか。ただの義務からですか。習慣からですか。それならばあまり意味はないのです。大切なのは神様への感謝と愛です。
ではなぜ神様を愛し、感謝するのでしょう。実は私たちより先に、私たち以上に、はるかに神様がこの私を、とても大切に思い焦がれ、選び取ってくださっていたからです。そしてこの私をなんとしても救おうと、私のためすでに十字架にかかってくださったからです。それほどまで神様はこの私に愛を示してくださっていた。なのに私は、その愛を感じない。感じ取ることができず、毎日の生活の中でうまくいかないことばかり上げつらい、不平ばかり言っている。すべて知ってくださっている神様がいながら、誰も分かってくれないとぼやいている。あるいは神様のことをわざと思い出さないようにしている。
私を愛し、救い、守ってくださった神様。私の罪を負ってくださったイエス様。その神様への感謝と愛のためにこそ、教会に集っている。その原点をもう一度しっかり確認しましょう。そして神様への狂わしいほどの感謝と愛という十字架を背負いながら、この世を生きていきましょう。
22 per annum C
年間22主日 C
【ルカ14:1,7-14 高ぶる者は低くされ】
あいさつ
「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)というのはもちろん、神からの報いがあるということです。ここには、人からの報いを期待しないという面があります。
お盆の行事にお中元(道教の行事)があり、年の暮れにお歳暮という習慣があります。そのほかにも、わたしたちは普段の生活の中で、プレゼントやそのお返しにずいぶん気を使いながら生きているのではないでしょうか。人からの報いや人へのお返しが当たり前の社会に生きているわたしたちにとって、イエスの言葉は非常に強烈な問いかけです。「これだけのことをしてあげたら、これだけのことはしてもらえるだろう」「これだけのことをしてもらったから、これくらいはしてあげなければならない」というだけの世界では、自分の本当の生き方を見いだすことはできないのです。自分の生き方を人からの報いではなく、神との関わりの中で選び取るということは大切なことです。
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8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。…むしろ末席に行って座りなさい。」
このイエス様の勧めは、ずいぶん具体的で計算高い教えです。上座につくと、もっと偉い人が来ていたら恥をかく。末席につけば、もっと上座を勧められ面目をほどこすというのです。イエス様にしては本当に俗っぽい、打算的な勧めです。このことはイエス様が、けっして世事(せじ)や世間的考えにうとくなかったことを示しています。むしろ世間の人以上に、世間の人間の計算高さをご存じだったのです。
むしろ世間の人間は世間の中に生まれ、その中にどっぷりつかっているために、かえって世間が見えないのです。しかしイエス様は神の目で、世間を世間の外から見ることのできる唯一の方です。人はなるべく恥を受けないように、また少しでも偉く見られるように細かく配慮し、巧妙に計算して行動します。そういう人のずるさを、イエス様はよくご存じでありながら、それを醜いとはとりません。
人々の中でそれだけ計算するように、宗教(信仰)において、つまり神との関係においても、十分賢明でありなさいと説いているのです。イエス様の教えは、単なる道徳訓話ではなく、常に信仰的な意味があると考えるべきです。
この世の価値観では、宴会の上席に座る人は必ず偉い人なのです。ですから日本においても、皆が少しでも上席に座ろうとねらい競争するのです。有名な大学の席を、会社の部長・課長の椅子を求めて争い、それを得た人が立派な人と認められます。でも最高の席はたった一つしかありません。ですから自分こそそこに座ろうとするのです。
そしてそれが最高の名誉であり、最高の出世なのです。そのためには人間性を切り捨ててさえ、それを得ようとするのです。権力のためには、スキャンダル、権謀術数(けんぼうじゅっすう)、裏取り引き、暴力、脅迫、裏切りなど、ありとあらゆることが使われるのです。そしてこの世の価値観では、少々あくどいことをしても、上座についてしまえば、すべてがゆるされてしまうのです。
しかし人の前で栄誉あることが、必ずしも神の前でも栄誉だとは限らないのです。いやむしろ、価値が逆転すると言っていいと思います。人間の間であがめられていることは、神の前ではむしろ嫌われるのです(ルカ16、15)。「権力ある者を、その座からおろし、低い人々を高め、飢えた者をよいものでみたし、富むものを空手でかえされる」というのは、神の絶対に変わらないなさり方のようです。神の前で価値あることは、身分ではなく人間性そのものなのです。ですから人間の世で賢くあるように、神の前で賢くなければ真に賢いとは言えません。
切磋琢磨(せっさたくま)し合って、上座に近づくことは優れた文化につながります。それは、自分の力で神に近づこうとするようなものです。トップ(神)に近い席に近づけるのは立派な人だけだと思われています。そして文化は人が立派になることを求めます。しかし、信仰の世界では逆です。神のみが立派なのです。神の立派さをあまりにも強く知るので、とても自分が立派だとは思えないことなのです。神の美しさをはっきり見るので、まさか自分が美しいとは信じられないのです。自分を立派だと思う人は、そうではない人と自分を比較して、相手を裁きがちです。自分の立派さを信じられない人は、人を裁きません。自分をこそ裁くからです。自分が立派だと思う人は、他人に対しては冷たく厳しい人です。自分の立派さを信じられない人は、自分に厳しく、人には優しくて明るい人です。
人間の宴会で末席(まっせき)につく人は、上席に呼ばれるかもしれない、という下心があります。しかし神の宴会に招かれる人は、下心があって末席につくのではないのです。自分こそ末席にふさわしい人間だ、と本気で思い込んでいる人なのです。喜んで末席につく人こそ、心の低い、少しも高ぶらない人なのです。それは見せかけの謙遜でも、装ったへりくだりでもないのです。ですから人間の中の末席こそ、神に一番近い席と言えるのです。なぜなら最上席が本当の意味で一番ふさわしいイエス様が、人間の中で末席についてくださったからです。普通、上席は奉仕を要求する席で、末席は奉仕をする席です。しかし、イエス様は、「仕えられるためではなく、仕えるためにきた」と。奉仕をすることを通して、人類の末席を祝福してくださったのです。(静)
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11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
集まりで上席を求めて落ち着かない人々を見て、イエスは大胆に、神のなさり方を説明されます。神はへりくだる者を高めるという、聖書の基本的な真理を宣言されます。「権力ある者を、その座からおろし、低い人々を高め、飢えた者をよいものでみたし、富むものを空手でかえされる」というのは、神の絶対に変わらないなさり方のようです。おそらく、人と人との関係でも、そうではないかと思います。お互いの中に謙遜さがなければ、真実の交わりは生まれてこないのではないでしょうか。真実の友情(友達)があるとすれば、そこにはお互いを尊敬し、評価するへりくだりの心が必ずあると思われます。もし、自分を高く評価し、自慢しようとするならば、友情はたちどころに冷えてしまうのではないでしょうか。
上席を求め、社会的な地位を誇示(こじ)しようとする人々の間には、真の友情はありえないはずです。野心があり、「虎視眈眈」(こしたんたん)〔易経。虎が鋭い目で見渡すこと。たんたとは恐ろしい目をした虎が下を見下ろしているさま。餌食を狙うトラ〕として隙間をねらうような気持ちで集まっているような所では、互いに心の中で警戒を深めていくだけです。たとえ、表面的に評価し合ったと
しても、うちは用心深く、互いに閉ざされています。安らぎはなく、孤独感が残るだけです。真の友情は、真の交わりは、自分のありのままを開きあうことを土台とし、その土台の上に発展していきます。
神との交わりでも同じことです。真実を土台とします。自分の真実な姿を知る心には、へりくだりが生まれます。
私たちの真実、それは、まず与えられた存在であるということです。この存在、この命は、自分の力で作り育ててきたものではない、ということです。人々の愛、そして神の愛がなければ、けっして存在しなかったのです。この私たちの生命を愛し、そのために食べ物を与え、養ってくれる親や、周りの人々がいなかったならば、今の自分はいなかったはずです。しかも、私たちはそうした愛を受けるだけの価値と資格があるとはいえないのです。むしろ、反対です。人々に迷惑をかけ、負担を与え、人々を苦しめるだけの欠点だらけの人間です。ときには、人々の心を傷つけ、悲しませろことをしかねない存在です。
私たちが愛され、つつまれ、受け入れられたということは、報いを求めない無償の行為によるのです。それは、神が、一方的に無償で、私たちに愛を注がれたからです。
謙遜な心は、自分の存在の根拠が他者、つまり神と人の無償の愛であると認めることから生まれます。このような謙虚な心のあるところに、本当に気持ちのよい、落ち着いた、ゆらぐことのない交わりが生まれてきます。この謙遜を土台にして、神や人に対する真の友情、真の愛が育っていくのです。(森)
【ルカ14:1,7-14 高ぶる者は低くされ】
あいさつ
「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)というのはもちろん、神からの報いがあるということです。ここには、人からの報いを期待しないという面があります。
お盆の行事にお中元(道教の行事)があり、年の暮れにお歳暮という習慣があります。そのほかにも、わたしたちは普段の生活の中で、プレゼントやそのお返しにずいぶん気を使いながら生きているのではないでしょうか。人からの報いや人へのお返しが当たり前の社会に生きているわたしたちにとって、イエスの言葉は非常に強烈な問いかけです。「これだけのことをしてあげたら、これだけのことはしてもらえるだろう」「これだけのことをしてもらったから、これくらいはしてあげなければならない」というだけの世界では、自分の本当の生き方を見いだすことはできないのです。自分の生き方を人からの報いではなく、神との関わりの中で選び取るということは大切なことです。
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8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。…むしろ末席に行って座りなさい。」
このイエス様の勧めは、ずいぶん具体的で計算高い教えです。上座につくと、もっと偉い人が来ていたら恥をかく。末席につけば、もっと上座を勧められ面目をほどこすというのです。イエス様にしては本当に俗っぽい、打算的な勧めです。このことはイエス様が、けっして世事(せじ)や世間的考えにうとくなかったことを示しています。むしろ世間の人以上に、世間の人間の計算高さをご存じだったのです。
むしろ世間の人間は世間の中に生まれ、その中にどっぷりつかっているために、かえって世間が見えないのです。しかしイエス様は神の目で、世間を世間の外から見ることのできる唯一の方です。人はなるべく恥を受けないように、また少しでも偉く見られるように細かく配慮し、巧妙に計算して行動します。そういう人のずるさを、イエス様はよくご存じでありながら、それを醜いとはとりません。
人々の中でそれだけ計算するように、宗教(信仰)において、つまり神との関係においても、十分賢明でありなさいと説いているのです。イエス様の教えは、単なる道徳訓話ではなく、常に信仰的な意味があると考えるべきです。
この世の価値観では、宴会の上席に座る人は必ず偉い人なのです。ですから日本においても、皆が少しでも上席に座ろうとねらい競争するのです。有名な大学の席を、会社の部長・課長の椅子を求めて争い、それを得た人が立派な人と認められます。でも最高の席はたった一つしかありません。ですから自分こそそこに座ろうとするのです。
そしてそれが最高の名誉であり、最高の出世なのです。そのためには人間性を切り捨ててさえ、それを得ようとするのです。権力のためには、スキャンダル、権謀術数(けんぼうじゅっすう)、裏取り引き、暴力、脅迫、裏切りなど、ありとあらゆることが使われるのです。そしてこの世の価値観では、少々あくどいことをしても、上座についてしまえば、すべてがゆるされてしまうのです。
しかし人の前で栄誉あることが、必ずしも神の前でも栄誉だとは限らないのです。いやむしろ、価値が逆転すると言っていいと思います。人間の間であがめられていることは、神の前ではむしろ嫌われるのです(ルカ16、15)。「権力ある者を、その座からおろし、低い人々を高め、飢えた者をよいものでみたし、富むものを空手でかえされる」というのは、神の絶対に変わらないなさり方のようです。神の前で価値あることは、身分ではなく人間性そのものなのです。ですから人間の世で賢くあるように、神の前で賢くなければ真に賢いとは言えません。
切磋琢磨(せっさたくま)し合って、上座に近づくことは優れた文化につながります。それは、自分の力で神に近づこうとするようなものです。トップ(神)に近い席に近づけるのは立派な人だけだと思われています。そして文化は人が立派になることを求めます。しかし、信仰の世界では逆です。神のみが立派なのです。神の立派さをあまりにも強く知るので、とても自分が立派だとは思えないことなのです。神の美しさをはっきり見るので、まさか自分が美しいとは信じられないのです。自分を立派だと思う人は、そうではない人と自分を比較して、相手を裁きがちです。自分の立派さを信じられない人は、人を裁きません。自分をこそ裁くからです。自分が立派だと思う人は、他人に対しては冷たく厳しい人です。自分の立派さを信じられない人は、自分に厳しく、人には優しくて明るい人です。
人間の宴会で末席(まっせき)につく人は、上席に呼ばれるかもしれない、という下心があります。しかし神の宴会に招かれる人は、下心があって末席につくのではないのです。自分こそ末席にふさわしい人間だ、と本気で思い込んでいる人なのです。喜んで末席につく人こそ、心の低い、少しも高ぶらない人なのです。それは見せかけの謙遜でも、装ったへりくだりでもないのです。ですから人間の中の末席こそ、神に一番近い席と言えるのです。なぜなら最上席が本当の意味で一番ふさわしいイエス様が、人間の中で末席についてくださったからです。普通、上席は奉仕を要求する席で、末席は奉仕をする席です。しかし、イエス様は、「仕えられるためではなく、仕えるためにきた」と。奉仕をすることを通して、人類の末席を祝福してくださったのです。(静)
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11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
集まりで上席を求めて落ち着かない人々を見て、イエスは大胆に、神のなさり方を説明されます。神はへりくだる者を高めるという、聖書の基本的な真理を宣言されます。「権力ある者を、その座からおろし、低い人々を高め、飢えた者をよいものでみたし、富むものを空手でかえされる」というのは、神の絶対に変わらないなさり方のようです。おそらく、人と人との関係でも、そうではないかと思います。お互いの中に謙遜さがなければ、真実の交わりは生まれてこないのではないでしょうか。真実の友情(友達)があるとすれば、そこにはお互いを尊敬し、評価するへりくだりの心が必ずあると思われます。もし、自分を高く評価し、自慢しようとするならば、友情はたちどころに冷えてしまうのではないでしょうか。
上席を求め、社会的な地位を誇示(こじ)しようとする人々の間には、真の友情はありえないはずです。野心があり、「虎視眈眈」(こしたんたん)〔易経。虎が鋭い目で見渡すこと。たんたとは恐ろしい目をした虎が下を見下ろしているさま。餌食を狙うトラ〕として隙間をねらうような気持ちで集まっているような所では、互いに心の中で警戒を深めていくだけです。たとえ、表面的に評価し合ったと
しても、うちは用心深く、互いに閉ざされています。安らぎはなく、孤独感が残るだけです。真の友情は、真の交わりは、自分のありのままを開きあうことを土台とし、その土台の上に発展していきます。
神との交わりでも同じことです。真実を土台とします。自分の真実な姿を知る心には、へりくだりが生まれます。
私たちの真実、それは、まず与えられた存在であるということです。この存在、この命は、自分の力で作り育ててきたものではない、ということです。人々の愛、そして神の愛がなければ、けっして存在しなかったのです。この私たちの生命を愛し、そのために食べ物を与え、養ってくれる親や、周りの人々がいなかったならば、今の自分はいなかったはずです。しかも、私たちはそうした愛を受けるだけの価値と資格があるとはいえないのです。むしろ、反対です。人々に迷惑をかけ、負担を与え、人々を苦しめるだけの欠点だらけの人間です。ときには、人々の心を傷つけ、悲しませろことをしかねない存在です。
私たちが愛され、つつまれ、受け入れられたということは、報いを求めない無償の行為によるのです。それは、神が、一方的に無償で、私たちに愛を注がれたからです。
謙遜な心は、自分の存在の根拠が他者、つまり神と人の無償の愛であると認めることから生まれます。このような謙虚な心のあるところに、本当に気持ちのよい、落ち着いた、ゆらぐことのない交わりが生まれてきます。この謙遜を土台にして、神や人に対する真の友情、真の愛が育っていくのです。(森)
21 per annum C
年間21主日 C
【ルカ13:22-30神の国の宴会の席】
年間 第十二火曜日
「狭い門から入りなさい」
マタイ7・6、12-14
神を本気で信じていくとき、道は広くない。わいわい騒いでいる人たちといっしょに行きたいと思っていたのでは、命に通じる道に行くことはできない。神はないかもわからない、なくて
もよいではないか、と周りの人々から言われる。私はそれでも神を信じて生きるのであると、神にいっさいをささげ、生涯をかけていくことが大事である。その道を見いだす人は少ない。そこに信仰者の闘いがある。同じ信仰者からも批判、誤解、嫉妬、排斥などを受けるかも知れない、信じない人から迫害、敵意などを受けることがある。
そういうせっぱ詰まった中で生きていかなければならない。しかし、どんなに厳しい道であろうと。「主はわたしの牧者、私は欠けることがない」(詩篇23・1)と歌うことができるのである。
平坦な道を行っているとき、羊飼いは何もしないが、険しい道になれば彼は一匹ずつ抱いて広いところへ連れていく。草原がなくなれば必死になって緑の牧場をさがし、水ぎわに羊たちを連れていく。そのとき、羊飼いがどのように私のことを思っていてくれるかがわかる。広いところにいたらそのことはわからない。狭い門から入ってはじめてわかるのである。(榎本)
---------------
一般社会では、「狭い門」ということば、新聞などでは受験の競争率が激しいことに対して用いられている。大学受験の狭い門、就職の狭い門などと使います。つまりエリートになるためには、狭い戸口を突破しなければならない、という使い方です。そうだとするならば、天国へ入るためには霊的エリートにならなければなりません。たくさんの人が入れない狭い戸口に、競争に勝って入ることによって自分だけは救われる、という霊的エゴイストになってしまいます。
しかし、イエスが用いた本来の意味では、「それを見出す者は少ない」(14)ということばからわかるように、だれもが殺到するのとは逆に人目に付かないような小さな門のことだと言われている。
当時のユダヤ人は、イエスが語った、悔い改めと信仰によって救われるという福音などは、あまり人々の注目を引くことがなかった。それに対してほとんどの人はこの世的な力、勢力に期待を寄せていた。その道は大勢の人々が行きますので「広い道」、「大きい門」でした。それは「滅びに至る」道であった。しかし、この世の中では滅びの道を教える者の方が人々の人気を集め、それに従う人の方がはるかに多いのです。(山口)
人々はキラキラと輝くものに引かれ、そのトリコになりやすい。ところが本当に価値あるものが、小さなもの、地道のもの、謙虚なものにあるかもしれない。「人々がほしがるものは、少ない人々(エリート)によってしか所有されえないようなもの、それは分配されれば、価値が減ってしまいます。さらに持っている部分を楽しむことによって満足させるよりも、持っていない部分が欠けていることによって、いっそう悲しみをおぼえるのです。でも、本当に価値あるのものは、減ったりしないで、羨望も伴わない、すべての人が同時に所有することができて、だれも自分の意に反して失うことのできないようなものでなければならない」(パスカル、425)。
------------------------
天国にはいり、また神さまにお会いしたいのだけれども、それは難しくて、人よりも厳しい修行をしなければ入ることができない、多くの善行を積まなければならない、そうでなければ入れない、だから狭い門である、ということなのでしょうか?
イエスさまは、すべての人が救われるために十字架におかかりになったのです。一部のエリートだけが救われるのではないはずです。どんな罪人でも、救われる。天の神にお会いすることが出きる。それがイエスさまの十字架です。ですから、イエスさまの門は、本当は「広い門」のはずです。
ところがここでは、「狭い門から入りなさい」と言われている。これはなぜか?
それは、門を狭くしてしまっているのは、イエスさまではなく、私たちなのです。イエスさまは、大きく門を開けて、手を広げて入るのを待っておられる。ところが、その前を素通りしてしまうのです。 例えば、園田(尼崎)教会の門の前で毎日たくさんの人々が通っています。
ある神学者が、「教会は天国の出張所だ」と言われた。しかしこの小さな教会が天国の出張所のようには見えないのです。そんな感じがしないのです。それでみんな違う方へ行くのです。そのように、それらしきところ、多くの人が行くところ、そういうところに行けば無難だろうと思っているでしょう。まさに、イエスさまは大きく手を開き、門を開けているのに、まさかそんなところに天国の出張所があるとは思わないで通り過ぎていくのです。
そのように、実は誰でも通ることのできる広い門であるのに、「狭い門」にしてしまっているのは、私たち人間のほうであると言うことができます。(nibanmati) 日常の雑多な出来事の中から狭い門を見いだすことのできる恵みを願います。
-------------
神様はこのように不寛容で、厳しい方なのだといっているのでは決してありません。だってイエス様はすべての人を救いたくて、十字架にかかったのです。すべての人です。
---------
そのうえ、イエス様に「私はお前を知らない」と言われる危険性もあるのです。「いっしょに食事をしました」とか「教えてくださいました」などということは通用しないというのです。つまりどんなコネでも役に立たないのです。先祖代々信者だとか、父母は信心深いとか、若い時はよく教会へ通ったとか、そういう過去のことは一切関係ないのです。今の私自身の身についたものだけしか役に立たないのです。現在の私と神との関係が問われるのです。過去が罪人であったとしても、今回心していればよいのです。昔義人であったとしても、今そうでなければどうにもならないのです。今を大切にしないと、後で歯ぎしりして悔やんでも後の祭りなのです。
【ルカ13:22-30神の国の宴会の席】
年間 第十二火曜日
「狭い門から入りなさい」
マタイ7・6、12-14
神を本気で信じていくとき、道は広くない。わいわい騒いでいる人たちといっしょに行きたいと思っていたのでは、命に通じる道に行くことはできない。神はないかもわからない、なくて
もよいではないか、と周りの人々から言われる。私はそれでも神を信じて生きるのであると、神にいっさいをささげ、生涯をかけていくことが大事である。その道を見いだす人は少ない。そこに信仰者の闘いがある。同じ信仰者からも批判、誤解、嫉妬、排斥などを受けるかも知れない、信じない人から迫害、敵意などを受けることがある。
そういうせっぱ詰まった中で生きていかなければならない。しかし、どんなに厳しい道であろうと。「主はわたしの牧者、私は欠けることがない」(詩篇23・1)と歌うことができるのである。
平坦な道を行っているとき、羊飼いは何もしないが、険しい道になれば彼は一匹ずつ抱いて広いところへ連れていく。草原がなくなれば必死になって緑の牧場をさがし、水ぎわに羊たちを連れていく。そのとき、羊飼いがどのように私のことを思っていてくれるかがわかる。広いところにいたらそのことはわからない。狭い門から入ってはじめてわかるのである。(榎本)
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一般社会では、「狭い門」ということば、新聞などでは受験の競争率が激しいことに対して用いられている。大学受験の狭い門、就職の狭い門などと使います。つまりエリートになるためには、狭い戸口を突破しなければならない、という使い方です。そうだとするならば、天国へ入るためには霊的エリートにならなければなりません。たくさんの人が入れない狭い戸口に、競争に勝って入ることによって自分だけは救われる、という霊的エゴイストになってしまいます。
しかし、イエスが用いた本来の意味では、「それを見出す者は少ない」(14)ということばからわかるように、だれもが殺到するのとは逆に人目に付かないような小さな門のことだと言われている。
当時のユダヤ人は、イエスが語った、悔い改めと信仰によって救われるという福音などは、あまり人々の注目を引くことがなかった。それに対してほとんどの人はこの世的な力、勢力に期待を寄せていた。その道は大勢の人々が行きますので「広い道」、「大きい門」でした。それは「滅びに至る」道であった。しかし、この世の中では滅びの道を教える者の方が人々の人気を集め、それに従う人の方がはるかに多いのです。(山口)
人々はキラキラと輝くものに引かれ、そのトリコになりやすい。ところが本当に価値あるものが、小さなもの、地道のもの、謙虚なものにあるかもしれない。「人々がほしがるものは、少ない人々(エリート)によってしか所有されえないようなもの、それは分配されれば、価値が減ってしまいます。さらに持っている部分を楽しむことによって満足させるよりも、持っていない部分が欠けていることによって、いっそう悲しみをおぼえるのです。でも、本当に価値あるのものは、減ったりしないで、羨望も伴わない、すべての人が同時に所有することができて、だれも自分の意に反して失うことのできないようなものでなければならない」(パスカル、425)。
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天国にはいり、また神さまにお会いしたいのだけれども、それは難しくて、人よりも厳しい修行をしなければ入ることができない、多くの善行を積まなければならない、そうでなければ入れない、だから狭い門である、ということなのでしょうか?
イエスさまは、すべての人が救われるために十字架におかかりになったのです。一部のエリートだけが救われるのではないはずです。どんな罪人でも、救われる。天の神にお会いすることが出きる。それがイエスさまの十字架です。ですから、イエスさまの門は、本当は「広い門」のはずです。
ところがここでは、「狭い門から入りなさい」と言われている。これはなぜか?
それは、門を狭くしてしまっているのは、イエスさまではなく、私たちなのです。イエスさまは、大きく門を開けて、手を広げて入るのを待っておられる。ところが、その前を素通りしてしまうのです。 例えば、園田(尼崎)教会の門の前で毎日たくさんの人々が通っています。
ある神学者が、「教会は天国の出張所だ」と言われた。しかしこの小さな教会が天国の出張所のようには見えないのです。そんな感じがしないのです。それでみんな違う方へ行くのです。そのように、それらしきところ、多くの人が行くところ、そういうところに行けば無難だろうと思っているでしょう。まさに、イエスさまは大きく手を開き、門を開けているのに、まさかそんなところに天国の出張所があるとは思わないで通り過ぎていくのです。
そのように、実は誰でも通ることのできる広い門であるのに、「狭い門」にしてしまっているのは、私たち人間のほうであると言うことができます。(nibanmati) 日常の雑多な出来事の中から狭い門を見いだすことのできる恵みを願います。
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神様はこのように不寛容で、厳しい方なのだといっているのでは決してありません。だってイエス様はすべての人を救いたくて、十字架にかかったのです。すべての人です。
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そのうえ、イエス様に「私はお前を知らない」と言われる危険性もあるのです。「いっしょに食事をしました」とか「教えてくださいました」などということは通用しないというのです。つまりどんなコネでも役に立たないのです。先祖代々信者だとか、父母は信心深いとか、若い時はよく教会へ通ったとか、そういう過去のことは一切関係ないのです。今の私自身の身についたものだけしか役に立たないのです。現在の私と神との関係が問われるのです。過去が罪人であったとしても、今回心していればよいのです。昔義人であったとしても、今そうでなければどうにもならないのです。今を大切にしないと、後で歯ぎしりして悔やんでも後の祭りなのです。
20 per annum C
年間20主日 C
【ルカ12:49-53分裂をもたらす】
「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言います。すでにイエスの誕生の場面で、天使たちはこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)。イエスのもたらすものは本来、平和であるはずです。この平和は人と人とが深く尊重し合って生きるような、神から来る平和だと言うことができるでしょう。これに対して、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」という時の「平和」は争いが避けられ、表面的に平穏が保たれているだけの状態だということになるでしょう。イエスの到来とそのメッセージは、人々にはっきりとした態度の決断を求めるものでした。それは、イエスによって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断です。そこでは表面的な平穏さを保つだけではすまないのです。
戦後68年目の夏。私たちは「何か」を、なかったことにしたがっているようだ――いったい、何を? そして、なぜ? 戦後日本が大切に紡いできた「平和と繁栄」の物語の読み直しに挑んでいる、社会思想史家の白井聡さんに聞いた。『中国や韓国にいつまで謝り続けなきゃならないのか』という不満に対して、最近の調査によりますと、韓国人の98%と中国人の78%が、日本はまだ十分誤っていないと考えています。
また、「昨今の領土問題では、『我が国の主権に対する侵害』という観念が日本社会に異常な興奮を呼び起こしています。中国や韓国に対する挑発的なポーズは、対米従属状態にあることによって生じている『主権の欲求不満』状態を埋め合わせるための代償行為です。それがひいては在特会(在日特権を許さない市民の会)に代表される、排外主義として表れています。『朝鮮人を殺せ』と叫ぶ極端な人たちには違いないけれども、戦後日本社会の本音をある方向に煮詰めた結果としてあります。彼らの姿に私たちは衝撃を受けます。しかしそれは、いわば私が自分が排泄(はいせつ)した物の臭いに驚き、『俺は何を食ったんだ?』と首をひねっているのと同じです」(朝日新聞デジタル:(2013参院選)「敗けた」ということ 「永続敗戦」を提起している、白井聡さん - ニュース 2013/7/8)
これはとても平和な状態と言いにくいでしょう。
イエスのエルサレムに向かう旅の段落の中で、ずっと語られているのは「神の国」についての教えです。この神の国には、「今すでに始まっている」という面と、「世の終わりに現れ、完成する」という面があります。終末における完成ということの中には、神に反するすべてのものが滅ぼされる「裁き」の面があります。先週の箇所(ルカ12章32-48節)もその裁きについての警告の言葉でしたが、きょうの箇所にも、非常に厳しい警告の内容を持つイエスの言葉が集められていると考えたらよいようです。
平和は、神の国の到来と深い関係があって、人間の力で作れるものではない。家族でさえ、自力で平和になるようなものではない。神を無視して、本当の平和は来ない。実際にこの言葉が語られて以来、数え切れないキリスト者が、自分のいる家庭を犠牲にしてきたのです。
たとえばフランシスコが、イエスに従って歩み始めようとしたとき、商人の父と激しく対立しなければなりませんでした。貴族のクララもやはり親に何も言わないまま、逃げるように家を出て、フランシスコたちのもとに行き、髪を切ったのでした。クララのこのような出家については、クララほどの聖人が、このような形で家を出たのは嘆かわしいことだなどと、評論する人がいるくらいです。聖人でさえも、こんな悲しい親不孝をしなければ、いけなかったのです。
しかしフランシスコもクララも本当に大切なものをつかんだのでした。神様のすべての人間を救いたいという深い愛であり、永遠の命であり。その時にもう、他のものはどうでもよくなってしまったのでした。
修道者の存在自体が神の国を指し示すのです。確かに人間としてみればおよそ不可能なことです。親、家族などの自然のつながりを捨て、特定の人を愛する執着から離れ、むしろその愛を広げ、独身で神に仕え切る。そうして教会の中で、新しく父母を見出し、兄弟姉妹として共に生き、子どもたちを愛していく。こうして本当にすべての人間の救いのために人間となったイエス様にならいながら、自分を捨てて働く。それが修道者の生き方で、その人たちの存在自体が、やがて来るべき神の国のあり方を指し示すのです。
自分自身はまだ十分そのような存在になり切れていません。迷いはたえず共にあり、苦しみもあります。しかしそんな自分の十字架を思うとき、まったく同じように壁にぶつかりながらも、乗り越えてきた多くの信仰の証し人や、兄弟姉妹のことを思います。
なぜこの道に留まっているのか。結局は、自分の神体験を、イエス様のことを伝えたいからです。その喜びのほうが、勝っているから。こんなちっぽけな私でも、それでもキリスト者として生きようとする、修道者として仕えようとする人間が一人でもいるなら、その存在が人々に、神様・イエスの存在を指し示すに違いないと確信するから。そのために苦しみを乗り越えていきます。その果てに、イエスを伝えられることの喜びが生まれます。何もない寂しさも、すべて捨ててきた喜び、そこから得られる実りと表裏一体であることも実感します。
このことはしかし修道者のことだけではもちろんありません。キリスト者は世からみれば躓きであり、気が狂ったとさえ思われることもあって。しかし信念として、証しとなる生き方を、選ばなければならない時があるのです。その結果、大切な家庭を、仕事を、時に命さえも犠牲にすることもありえます。もっと大切なもの、永遠の命を知っているから。
だからいつも問うのです。第1朗読のエレミヤも、故郷の人から恨まれた人です。その中でたくさん神様に問うた人です。「どうして、こんなに弱い私を選んだのですか」。「こんな私に何ができるのですか」。「どうしたらこの苦しみを乗り越えることができるのですか」。「信仰のない私をどうか強めてください」。そうぶつぶつつぶやきながらも、長い、しかし永遠と比べればはるかに短い人生の道
のりを、イエスを見つめ、イエスと共に全力で走りぬいていく。それがキリスト者すべての生き方です。
「世間離れ」(晴佐久神父)
子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会う必要があると心理学者たちは言います。自立できない人は「マザコン」、「ファザコン」と言われます。今日の福音書を見ますと、イエス様はちゃんと親離れができていたと言えます。この観点から解釈できると思います。
子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を愛するようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのではないでしょうか。
人間にとって家族ほど大事な人間関係はないと言われますが、それを正しく位置づけるために、いったんそれを相対化しなければなりません。家族より大切なもの、つまり神様の観点から位置づける必要があります。国も同じことでしょう。
【ルカ12:49-53分裂をもたらす】
「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言います。すでにイエスの誕生の場面で、天使たちはこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)。イエスのもたらすものは本来、平和であるはずです。この平和は人と人とが深く尊重し合って生きるような、神から来る平和だと言うことができるでしょう。これに対して、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」という時の「平和」は争いが避けられ、表面的に平穏が保たれているだけの状態だということになるでしょう。イエスの到来とそのメッセージは、人々にはっきりとした態度の決断を求めるものでした。それは、イエスによって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断です。そこでは表面的な平穏さを保つだけではすまないのです。
戦後68年目の夏。私たちは「何か」を、なかったことにしたがっているようだ――いったい、何を? そして、なぜ? 戦後日本が大切に紡いできた「平和と繁栄」の物語の読み直しに挑んでいる、社会思想史家の白井聡さんに聞いた。『中国や韓国にいつまで謝り続けなきゃならないのか』という不満に対して、最近の調査によりますと、韓国人の98%と中国人の78%が、日本はまだ十分誤っていないと考えています。
また、「昨今の領土問題では、『我が国の主権に対する侵害』という観念が日本社会に異常な興奮を呼び起こしています。中国や韓国に対する挑発的なポーズは、対米従属状態にあることによって生じている『主権の欲求不満』状態を埋め合わせるための代償行為です。それがひいては在特会(在日特権を許さない市民の会)に代表される、排外主義として表れています。『朝鮮人を殺せ』と叫ぶ極端な人たちには違いないけれども、戦後日本社会の本音をある方向に煮詰めた結果としてあります。彼らの姿に私たちは衝撃を受けます。しかしそれは、いわば私が自分が排泄(はいせつ)した物の臭いに驚き、『俺は何を食ったんだ?』と首をひねっているのと同じです」(朝日新聞デジタル:(2013参院選)「敗けた」ということ 「永続敗戦」を提起している、白井聡さん - ニュース 2013/7/8)
これはとても平和な状態と言いにくいでしょう。
イエスのエルサレムに向かう旅の段落の中で、ずっと語られているのは「神の国」についての教えです。この神の国には、「今すでに始まっている」という面と、「世の終わりに現れ、完成する」という面があります。終末における完成ということの中には、神に反するすべてのものが滅ぼされる「裁き」の面があります。先週の箇所(ルカ12章32-48節)もその裁きについての警告の言葉でしたが、きょうの箇所にも、非常に厳しい警告の内容を持つイエスの言葉が集められていると考えたらよいようです。
平和は、神の国の到来と深い関係があって、人間の力で作れるものではない。家族でさえ、自力で平和になるようなものではない。神を無視して、本当の平和は来ない。実際にこの言葉が語られて以来、数え切れないキリスト者が、自分のいる家庭を犠牲にしてきたのです。
たとえばフランシスコが、イエスに従って歩み始めようとしたとき、商人の父と激しく対立しなければなりませんでした。貴族のクララもやはり親に何も言わないまま、逃げるように家を出て、フランシスコたちのもとに行き、髪を切ったのでした。クララのこのような出家については、クララほどの聖人が、このような形で家を出たのは嘆かわしいことだなどと、評論する人がいるくらいです。聖人でさえも、こんな悲しい親不孝をしなければ、いけなかったのです。
しかしフランシスコもクララも本当に大切なものをつかんだのでした。神様のすべての人間を救いたいという深い愛であり、永遠の命であり。その時にもう、他のものはどうでもよくなってしまったのでした。
修道者の存在自体が神の国を指し示すのです。確かに人間としてみればおよそ不可能なことです。親、家族などの自然のつながりを捨て、特定の人を愛する執着から離れ、むしろその愛を広げ、独身で神に仕え切る。そうして教会の中で、新しく父母を見出し、兄弟姉妹として共に生き、子どもたちを愛していく。こうして本当にすべての人間の救いのために人間となったイエス様にならいながら、自分を捨てて働く。それが修道者の生き方で、その人たちの存在自体が、やがて来るべき神の国のあり方を指し示すのです。
自分自身はまだ十分そのような存在になり切れていません。迷いはたえず共にあり、苦しみもあります。しかしそんな自分の十字架を思うとき、まったく同じように壁にぶつかりながらも、乗り越えてきた多くの信仰の証し人や、兄弟姉妹のことを思います。
なぜこの道に留まっているのか。結局は、自分の神体験を、イエス様のことを伝えたいからです。その喜びのほうが、勝っているから。こんなちっぽけな私でも、それでもキリスト者として生きようとする、修道者として仕えようとする人間が一人でもいるなら、その存在が人々に、神様・イエスの存在を指し示すに違いないと確信するから。そのために苦しみを乗り越えていきます。その果てに、イエスを伝えられることの喜びが生まれます。何もない寂しさも、すべて捨ててきた喜び、そこから得られる実りと表裏一体であることも実感します。
このことはしかし修道者のことだけではもちろんありません。キリスト者は世からみれば躓きであり、気が狂ったとさえ思われることもあって。しかし信念として、証しとなる生き方を、選ばなければならない時があるのです。その結果、大切な家庭を、仕事を、時に命さえも犠牲にすることもありえます。もっと大切なもの、永遠の命を知っているから。
だからいつも問うのです。第1朗読のエレミヤも、故郷の人から恨まれた人です。その中でたくさん神様に問うた人です。「どうして、こんなに弱い私を選んだのですか」。「こんな私に何ができるのですか」。「どうしたらこの苦しみを乗り越えることができるのですか」。「信仰のない私をどうか強めてください」。そうぶつぶつつぶやきながらも、長い、しかし永遠と比べればはるかに短い人生の道
のりを、イエスを見つめ、イエスと共に全力で走りぬいていく。それがキリスト者すべての生き方です。
「世間離れ」(晴佐久神父)
子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会う必要があると心理学者たちは言います。自立できない人は「マザコン」、「ファザコン」と言われます。今日の福音書を見ますと、イエス様はちゃんと親離れができていたと言えます。この観点から解釈できると思います。
子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を愛するようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのではないでしょうか。
人間にとって家族ほど大事な人間関係はないと言われますが、それを正しく位置づけるために、いったんそれを相対化しなければなりません。家族より大切なもの、つまり神様の観点から位置づける必要があります。国も同じことでしょう。
19 per annum C
年間19主日 C
【ルカ12:32-48 目を覚ましている僕】
主婦の中には、ご主人がどんな時間に帰って来ても、ちゃんと起きて待っている方もいらっしゃるでしょうし、さっさと先に寝てしまう方もあるでしょう。人はだれでも自分のことを、人から認めてもらいたいと思っています。ですからだれも認めてくれなければ、さっさと寝てしまった方がいいですし、もし認めてもらえるなら、起きて待っていてもいいでしょう。人から認められないと、がっかりしてしまい、その行動に価値がないように感じてしまいます。つまり私たちの行動の大部分は、人の評価を気にして成り立っていると言えます。
しかしよく考えてみると, 人の評価はいいかげんなものです。気分によって変わったりします。私たちはむしろ、神の評価をこそ気にすべきだと、今日の福音書は教えています。それは変わるこののない、絶対的な評価なのですから。ですからこのたとえ話の中の主人は、人間の主人ではなく、神を表しています。
しかし、神の評価を恐れて生きるという意味ではありません。口うるさい主人(社長、先生)がいれば、良いところを見せようとしてよく働く人は、また主人(社長、先生)がいなくなれば、ここぞとばかり羽を広げて怠けるでしょう。神がうるさい、何でもお見通しの主人だから、怠けずに働こうとするのでもありまっせん。主人の顔色をうかがうことは、一種の取り引きでしょう。よく思われたい、という下心があって、一生懸命働くからです。これは奴隷根性です。もちろん私たちは、ある意味では、神の奴隷です。だからこそ奴隷根性をもってはいけないのだと思います。
言ってしまえば、人は本来的に怠け者です。ですから怖い主人がみていれば働き、いなければ怠けるでしょう。しかし、本当は、主人のいるいないに関係なく、自分で自分をコントロールできることが成熟した人間です(自営業、勉強の好きな学者)。主人を恐れて働くのではなく、何の下心もなく、好きで、ただでも、ボランティアできたらすばらしいことです。それは私のセルフコントロールから生まれた、自由で自発的な贈り物だからです。何の報いも期待しない、無償のささげものです。これは信仰の世界です。
ペトロが質問しました。「このたとえ話は私たちのためですか、それとも皆のためですか」。つまりペトロは、自分たちと他の人々とを別のものとして比較しました。
文化は人との比較ですが、信仰は神との比較です。人と比較すると、私たちはついあの人は、この人は、と考えてしまいます。しかし人の問題ではなく、私は私なのです。それは人を無視したり、勝手気ままにふるまうこととは違います。人には寛大に、自分には厳しくなるのは大前提。
私は私としていただいた使命(責任)を果たすことに集中すべきで、それに全力を投入しろということでしょう。人のことをあれこれ批判して、時間とエネルギーを無駄にするな、ということでしょう。もちろん人の良い点を見て、あるいは「人のふりを見てわがふり直せ」、自分も負けまいと思うことは大切なことでしょう。人からたくさんのことを学べるのですから。しかし学べるから、人が大切なので
はなく、人が大切だから、多く学べるのです。
イエス様は「天に宝を積め」と言われます。天とはいったいどこでしょう(ガガーリン)。天とは、永遠の価値観の通用するところでしょう。人の評価が 即 神の評価ではないように、この世の価値が、即天の価値というわけではありません。この世の価値が、そのまま永遠の世界に通用するものでもないようです。
盗人も近寄らず、虫が食い荒らすこともないのが天の価値です。この世の価値は往々にして、あまりにも空しい価値です。ですからこの世の価値を、天の価値に両替しなければなりません。この世の紙幣(お金)を、あの世の紙幣に交換しなければなりません。この世の円やドルを、永遠の円やドルに換金しなくてはなりません。その換金のためには、天のレート(相場)があるようです。
この世で認められ、人から大いに評価されたものは、天の国ではどうも安くなってしまうようです。逆にこの世であまり認められず、あまり評価されなかったものが天の金額では高価なものになるようです。この世で報われてしまうと、天の宝としては、どうも安っぽくなってしまうようです。
もちろんこの世で報われることもあるでしょう。その報いを、ことさら断る必要はいささかもありません。報われるのでしたら、喜んで報いを受け取っていいのです。天の宝が減るからと計算して、受けとりたくないと考える必要もありません。報いてくださるのは神であって、私が報いを計算してはいけないからです。報いを決めるのは私ではなく、神なのです。神が自由に決めることなのです。神が報いをくださったら、喜んで受ければいいのです。報いをくださらなかったら、それを喜んで受ければいいのです。私がいつも目覚めていて、主人の帰りを待ちながら、主人の望みを果たそうと務めるのは、報いがあるなしに関係なく、私が神にささげる、私のほんの少しの、心ばかりのつたないささげものなのですから。
【ルカ12:32-48 目を覚ましている僕】
主婦の中には、ご主人がどんな時間に帰って来ても、ちゃんと起きて待っている方もいらっしゃるでしょうし、さっさと先に寝てしまう方もあるでしょう。人はだれでも自分のことを、人から認めてもらいたいと思っています。ですからだれも認めてくれなければ、さっさと寝てしまった方がいいですし、もし認めてもらえるなら、起きて待っていてもいいでしょう。人から認められないと、がっかりしてしまい、その行動に価値がないように感じてしまいます。つまり私たちの行動の大部分は、人の評価を気にして成り立っていると言えます。
しかしよく考えてみると, 人の評価はいいかげんなものです。気分によって変わったりします。私たちはむしろ、神の評価をこそ気にすべきだと、今日の福音書は教えています。それは変わるこののない、絶対的な評価なのですから。ですからこのたとえ話の中の主人は、人間の主人ではなく、神を表しています。
しかし、神の評価を恐れて生きるという意味ではありません。口うるさい主人(社長、先生)がいれば、良いところを見せようとしてよく働く人は、また主人(社長、先生)がいなくなれば、ここぞとばかり羽を広げて怠けるでしょう。神がうるさい、何でもお見通しの主人だから、怠けずに働こうとするのでもありまっせん。主人の顔色をうかがうことは、一種の取り引きでしょう。よく思われたい、という下心があって、一生懸命働くからです。これは奴隷根性です。もちろん私たちは、ある意味では、神の奴隷です。だからこそ奴隷根性をもってはいけないのだと思います。
言ってしまえば、人は本来的に怠け者です。ですから怖い主人がみていれば働き、いなければ怠けるでしょう。しかし、本当は、主人のいるいないに関係なく、自分で自分をコントロールできることが成熟した人間です(自営業、勉強の好きな学者)。主人を恐れて働くのではなく、何の下心もなく、好きで、ただでも、ボランティアできたらすばらしいことです。それは私のセルフコントロールから生まれた、自由で自発的な贈り物だからです。何の報いも期待しない、無償のささげものです。これは信仰の世界です。
ペトロが質問しました。「このたとえ話は私たちのためですか、それとも皆のためですか」。つまりペトロは、自分たちと他の人々とを別のものとして比較しました。
文化は人との比較ですが、信仰は神との比較です。人と比較すると、私たちはついあの人は、この人は、と考えてしまいます。しかし人の問題ではなく、私は私なのです。それは人を無視したり、勝手気ままにふるまうこととは違います。人には寛大に、自分には厳しくなるのは大前提。
私は私としていただいた使命(責任)を果たすことに集中すべきで、それに全力を投入しろということでしょう。人のことをあれこれ批判して、時間とエネルギーを無駄にするな、ということでしょう。もちろん人の良い点を見て、あるいは「人のふりを見てわがふり直せ」、自分も負けまいと思うことは大切なことでしょう。人からたくさんのことを学べるのですから。しかし学べるから、人が大切なので
はなく、人が大切だから、多く学べるのです。
イエス様は「天に宝を積め」と言われます。天とはいったいどこでしょう(ガガーリン)。天とは、永遠の価値観の通用するところでしょう。人の評価が 即 神の評価ではないように、この世の価値が、即天の価値というわけではありません。この世の価値が、そのまま永遠の世界に通用するものでもないようです。
盗人も近寄らず、虫が食い荒らすこともないのが天の価値です。この世の価値は往々にして、あまりにも空しい価値です。ですからこの世の価値を、天の価値に両替しなければなりません。この世の紙幣(お金)を、あの世の紙幣に交換しなければなりません。この世の円やドルを、永遠の円やドルに換金しなくてはなりません。その換金のためには、天のレート(相場)があるようです。
この世で認められ、人から大いに評価されたものは、天の国ではどうも安くなってしまうようです。逆にこの世であまり認められず、あまり評価されなかったものが天の金額では高価なものになるようです。この世で報われてしまうと、天の宝としては、どうも安っぽくなってしまうようです。
もちろんこの世で報われることもあるでしょう。その報いを、ことさら断る必要はいささかもありません。報われるのでしたら、喜んで報いを受け取っていいのです。天の宝が減るからと計算して、受けとりたくないと考える必要もありません。報いてくださるのは神であって、私が報いを計算してはいけないからです。報いを決めるのは私ではなく、神なのです。神が自由に決めることなのです。神が報いをくださったら、喜んで受ければいいのです。報いをくださらなかったら、それを喜んで受ければいいのです。私がいつも目覚めていて、主人の帰りを待ちながら、主人の望みを果たそうと務めるのは、報いがあるなしに関係なく、私が神にささげる、私のほんの少しの、心ばかりのつたないささげものなのですから。
18 per annum C
年間18主日 C
【ルカ12:13-21「愚かな金持ち」の譬え】
叶えられた祈り
(ニューヨーク大学リハビリセンター「Rusk Institute」の 建物に刻まれている作者不詳の詩)
I asked God for strength, that I might achieve, I was made weak, that I might learn humbly to obey.
自ら成し遂げるために 強さを与えてほしいと、神に求めたのに
私は弱さを与えられた 神に従う謙虚を学ぶようにと
I asked for health, that I might do greater things, I was given infirmity, that I might do better things.
もっと偉大なことができるように 健康を求めたのに
私は病気を与えられた もっと善いことができるようにと
I asked for riches, that I might be happy, I was given poverty, that I might be wise.
幸せになれるように 富を求めたのに
私は貧困を与えられた 賢明になれるようにと
I asked for power, that I might have the praise of men, I was given weakness, that I might feel the need of God.
人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
私は弱さを与えられた 神の手助けを望むようにと
I asked for all things, that I might enjoy life, I was given life, that I might enjoy all things.
人生を楽しめるように あらゆるものを求めたのに
私は命を与えられた あらゆることを喜べるようにと
I got nothing I asked for. but everything I had hoped for.
求めたものはひとつとして与えられなかったが
私の願いはすべて聞き届けられた
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
わがままばかりを望んだにもかかわらず
言葉にできなかった祈りはすべて叶えられた
I am among men most richly blessed.
私はあらゆる人の中で
もっとも豊かに恵みを受けたのだ
------- 昨日の新聞で読んだことだが、名古屋家庭裁判所で、去年受け付けられた遺産相続にまつわる訴訟は650件でした。一日に二件です。
遺産相続の問題で、兄弟が争いをくりひろげるというのは、イエスの時代でも、今の私たちの時代でも、そう変わりはないようです。なぜなら、富や財産への執着は、いつの時代にも変わりなく、人間本性からくるものだからです。たしかに富や財産は、環たちたち人間にとっては大変魅力あるものです。「のどから手がでる」ほど、人が求めるものです。人生は財産の有無によって、右にも左にも大きくゆれます。財産がないということは、私たちに生きることへの不安を与えます。あす、どうやって食べていけばよいのか、困ってしまいます。みじめな思いに耐えながら毎日を生きていくことになります。
ところが、富に恵まれれば、どうでしょう。心は落ち着きます。安らぐことができます。余裕もでてきます。富の力で自分の望みもかなえられます。人生のいろいろな可能性もひらかれてきます。富のあるところには人もよってきますから、寂しい思いをすることもありません。富の力で社会的地位も上がります。「地獄の沙汰も金次第」とあるように、金は、人生を生きていくうえでの、現実的な力です。だれもみな、金の魅惑にひかれます。「黄金は鉄のような男の心をとかす」ということわざのとおりです。
旧約聖書の世界は、貧困と富とが形作る社会の現実を、鋭くありのままに観察しています。
「富は多くの友人をつくるが、貧しい人は友人に見捨てられる」(箴言19・5)
「金持ちが足を滑らすと友達が支えるが、身分の低い人が倒れると、友達ですら彼を見捨てる」金持ちが滑ると助ける人は多く、ばかなことを話しても、人はもっともなことだという。しかし、身分の低い人が滑ると、人々は彼を責め、たとえ賢いことを話しても、なんの注意もはらわない」(シラ書13・21-22)。
金持ちがおだてられて、丁寧にもてなされる。これは、今の時代でも同じです。富に恵まれれば、どんな愚か者も賢者にみえ、どんなに汚れた娼婦も貴婦人になる、というようなことを、シェークスピアがどこかで皮肉交じりに書いていました。人は富によって人生の表面をきれいに飾り、自分の醜さや愚かさの覆いをかけることができます。
しかし、人間の本質そのものを変えることはできません。人間の弱さ、もろさ、はかなさ、有限性は貧富の差なく、すべての人につきまとうものです。それを変える力は、人間にはありません。富も才能にもその力はないのです。
人間の有限性、病、老い、死は例外なくすべての人の人生を襲ってきます。特に死は、すべての人に公平です。重い病気を患うことなく、老いの苦しみも知らないまま、人生を終える人はいるでしょう。しかし、死を避けることのできる人はいません。どんな偉大な政治家であれ、どんな金持ちであれ、死は、例外をゆるしません。たとえこれから、科学のすばらしい発展があっても、人間の寿命がどんなに延びても、人間が死を避ける力を獲得することは不可能です。死は絶対です。死を迎える時、財産のすべてはこの世界に残ることになります。裸で神の御前に立つのです。「私は安心できるようになった。これからこの財産で安心に生きられる、というその日でも、その安心がいつまで続くものか知らず、それを他人に残して死ななければならない」(シラ書11・19)
神の御前に富も財産ももっていくことはできません。神の御前には、人間は生まれた時と同じように裸です。
「母の胎内からでてきた時のまま、裸にかえって、彼は去る」(コヘレト5・14)
生まれた時は裸でも、その裸をおおい、守り、かばってくれる人がいました。しかし、死の時、神の御前で、だれひとり、守り、かばってくれる人はいません。この世界で得た富も名声も、神の御前でははなんの力にもなりません。そんなものは、神の御前ではちりあくたのようなもの。キリストは、財産を蓄え、現実の生活を楽しむことだけにきゅうきゅうとした人のことを、「愚か者」と呼んでいます。
私たちの人生の旅路の果てに、父なる神が待っておいでになる。人生は神との出会いのための準備であるという自覚(感覚)をもって生きていく人こそ、真の賢者といえるのです。
【ルカ12:13-21「愚かな金持ち」の譬え】
叶えられた祈り
(ニューヨーク大学リハビリセンター「Rusk Institute」の 建物に刻まれている作者不詳の詩)
I asked God for strength, that I might achieve, I was made weak, that I might learn humbly to obey.
自ら成し遂げるために 強さを与えてほしいと、神に求めたのに
私は弱さを与えられた 神に従う謙虚を学ぶようにと
I asked for health, that I might do greater things, I was given infirmity, that I might do better things.
もっと偉大なことができるように 健康を求めたのに
私は病気を与えられた もっと善いことができるようにと
I asked for riches, that I might be happy, I was given poverty, that I might be wise.
幸せになれるように 富を求めたのに
私は貧困を与えられた 賢明になれるようにと
I asked for power, that I might have the praise of men, I was given weakness, that I might feel the need of God.
人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
私は弱さを与えられた 神の手助けを望むようにと
I asked for all things, that I might enjoy life, I was given life, that I might enjoy all things.
人生を楽しめるように あらゆるものを求めたのに
私は命を与えられた あらゆることを喜べるようにと
I got nothing I asked for. but everything I had hoped for.
求めたものはひとつとして与えられなかったが
私の願いはすべて聞き届けられた
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
わがままばかりを望んだにもかかわらず
言葉にできなかった祈りはすべて叶えられた
I am among men most richly blessed.
私はあらゆる人の中で
もっとも豊かに恵みを受けたのだ
------- 昨日の新聞で読んだことだが、名古屋家庭裁判所で、去年受け付けられた遺産相続にまつわる訴訟は650件でした。一日に二件です。
遺産相続の問題で、兄弟が争いをくりひろげるというのは、イエスの時代でも、今の私たちの時代でも、そう変わりはないようです。なぜなら、富や財産への執着は、いつの時代にも変わりなく、人間本性からくるものだからです。たしかに富や財産は、環たちたち人間にとっては大変魅力あるものです。「のどから手がでる」ほど、人が求めるものです。人生は財産の有無によって、右にも左にも大きくゆれます。財産がないということは、私たちに生きることへの不安を与えます。あす、どうやって食べていけばよいのか、困ってしまいます。みじめな思いに耐えながら毎日を生きていくことになります。
ところが、富に恵まれれば、どうでしょう。心は落ち着きます。安らぐことができます。余裕もでてきます。富の力で自分の望みもかなえられます。人生のいろいろな可能性もひらかれてきます。富のあるところには人もよってきますから、寂しい思いをすることもありません。富の力で社会的地位も上がります。「地獄の沙汰も金次第」とあるように、金は、人生を生きていくうえでの、現実的な力です。だれもみな、金の魅惑にひかれます。「黄金は鉄のような男の心をとかす」ということわざのとおりです。
旧約聖書の世界は、貧困と富とが形作る社会の現実を、鋭くありのままに観察しています。
「富は多くの友人をつくるが、貧しい人は友人に見捨てられる」(箴言19・5)
「金持ちが足を滑らすと友達が支えるが、身分の低い人が倒れると、友達ですら彼を見捨てる」金持ちが滑ると助ける人は多く、ばかなことを話しても、人はもっともなことだという。しかし、身分の低い人が滑ると、人々は彼を責め、たとえ賢いことを話しても、なんの注意もはらわない」(シラ書13・21-22)。
金持ちがおだてられて、丁寧にもてなされる。これは、今の時代でも同じです。富に恵まれれば、どんな愚か者も賢者にみえ、どんなに汚れた娼婦も貴婦人になる、というようなことを、シェークスピアがどこかで皮肉交じりに書いていました。人は富によって人生の表面をきれいに飾り、自分の醜さや愚かさの覆いをかけることができます。
しかし、人間の本質そのものを変えることはできません。人間の弱さ、もろさ、はかなさ、有限性は貧富の差なく、すべての人につきまとうものです。それを変える力は、人間にはありません。富も才能にもその力はないのです。
人間の有限性、病、老い、死は例外なくすべての人の人生を襲ってきます。特に死は、すべての人に公平です。重い病気を患うことなく、老いの苦しみも知らないまま、人生を終える人はいるでしょう。しかし、死を避けることのできる人はいません。どんな偉大な政治家であれ、どんな金持ちであれ、死は、例外をゆるしません。たとえこれから、科学のすばらしい発展があっても、人間の寿命がどんなに延びても、人間が死を避ける力を獲得することは不可能です。死は絶対です。死を迎える時、財産のすべてはこの世界に残ることになります。裸で神の御前に立つのです。「私は安心できるようになった。これからこの財産で安心に生きられる、というその日でも、その安心がいつまで続くものか知らず、それを他人に残して死ななければならない」(シラ書11・19)
神の御前に富も財産ももっていくことはできません。神の御前には、人間は生まれた時と同じように裸です。
「母の胎内からでてきた時のまま、裸にかえって、彼は去る」(コヘレト5・14)
生まれた時は裸でも、その裸をおおい、守り、かばってくれる人がいました。しかし、死の時、神の御前で、だれひとり、守り、かばってくれる人はいません。この世界で得た富も名声も、神の御前でははなんの力にもなりません。そんなものは、神の御前ではちりあくたのようなもの。キリストは、財産を蓄え、現実の生活を楽しむことだけにきゅうきゅうとした人のことを、「愚か者」と呼んでいます。
私たちの人生の旅路の果てに、父なる神が待っておいでになる。人生は神との出会いのための準備であるという自覚(感覚)をもって生きていく人こそ、真の賢者といえるのです。
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