3th Sunday in Ordinary Time Year A
In today's Gospel, Jesus does two things as a follow-up to His message. First, He calls people to accept His message and come to the Light. "Repent," that is, reform your lives. This means: clear away any obstacles, so that the light can shine in, so that you can see its brilliance and feel its warmth, so that you can receive Christ's Light and live by it. Second, He calls people to continue announcing this message that the light, the Kingdom of heaven, has come. In other words, with His invitation to Peter and Andrew, James and John, Jesus begins to establish a church, which He intends to be a sign of God's Kingdom, a sign of the Light's Presence.
God's Word is alive and active and present now, among us. So, Jesus the Light is now coming to live, not in Capernaum, but in Amagasaki, to live in our homes, our hearts, yours and mine. He comes as the Light into our darkness and that twofold movement we noted in the Gospel happens all over again: He calls you and me to accept Him "Repent." He calls you and me to share in His mission by being active and authentic members of His church -- "Come after me and I will make you fishers of men."
Do you and I really accept Jesus as the Light dispelling our darkness? Are we honest enough to admit the darkness of our sinfulness and our need for light? Do we understand that Jesus' challenge: "Repent" is meant for us? What is the obstacle that keeps the Light from shining in, from shining through? Do you and I really accept Jesus' invitation to share His mission? "Who me?" we ask. "I'm not good enough, I'm not holy enough, I'm too ordinary." But notice who Jesus is calling in today's Gospel: four fishermen, very ordinary, earthy people -- like you and me! Do we really understand that sharing Christ's mission means trying to be signs of the Light in our ordinary everyday lives, trying to bring His Light and His Truth into daily life.
The light we bring has many forms and shapes: gentleness, compassion, firmness, honesty, forgiveness and fidelity to the Church's teachings. For example,
Yes, our efforts to bring the Light and be the Light are often fragmented and uneven because we are human and limited, but our efforts at least can point to the Light beyond us, to the Light that is Jesus Christ. That is why we prayed moments ago: " ... direct your love that is within us that our efforts in the name of your Son may bring mankind to unity and peace" (Opening Prayer).
Yes, there is much darkness all around us: within our hearts, among families and citizens, in our nation and world. Jesus calls us to be Light and to bring the Light into that darkness Light that signifies His Presence. With strength that comes from being one with Him in Holy Communion, let us accept His invitation and announce to others by the way we live: "The Lord is my light and my salvation" and He wants to be yours too!
By our baptism, we have received the light of Jesus and have thus been called to discipleship. In this regard, we have to begin with ourselves in the task of making the light of Jesus shine. We can do so by first uncovering the many dark areas within us — our selfishness, weaknesses, hurts, and inclinations to greed, power and fame — a life–long process. But as we continue to do so, we are also to bring that light to others. And just as Jesus' ministry blossomed in an unlikely place called Capernaum, we are not to look for an ideal place before we begin this task. We are to bear witness to our faith wherever we are — in our home, school, place of work, the marketplace — any where.
One spiritual writer's reflections on the details of making the sign of the cross on our forehead, on our lips and on our breast may help us prepare for and exercise our discipleship.
Making the sign of the cross on our forehead shows the readiness of our minds to listen and understand the Word of God. Obviously, this readiness to listen is not to be limited to the readings at Mass and the priest's homily. We have to reinforce this with our readings of Scriptures and other related materials, and then prayerfully reflect on them. Moreover, we have to relate our faith with what is happening to and around us.
Making the sign of the Cross on our lips signify that we do not receive the Word of God only for our personal salvation. Rather, we are to share it with others by word and deed.
Making the sign of the cross on our breast tells us that our proclamation will not be effective unless there is a loving heart behind it. People are to believe in us not because we can memorize bible texts or win in religious debates but because we care for them. It is for this reason, for example, that a person who speaks of the good qualities of others is more easily taken into our confidence than someone who spreads gossip. In short, we have to show that Christianity is above all a religion of love and concern for others.
If Jesus came to us as the "great light," we are to be "small lights" to others for the same task — to disperse the darkness that continues to envelope the world. This is what our following of Jesus should be about.
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Sunday, January 12, 2014
Saturday, January 11, 2014
18 per annum A
年間18主日 A
【マタ14:13ー21】
年間第18主日(A年)
マタイ14.13-21
残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった
(マタイ14・20より)
人々を満たすイエス
オットー三世朗読福音書
ミュンヘン バイエルン国立図書館 10世紀末
イエスが5000人を5つのパンと2匹の魚で満たし、パン屑は12の籠一杯になったというきょうの福音の出来事を描く。イエスが(向かって) 右側の弟子に2匹の魚を手渡し、真ん中に籠が12個描かれているところからわかる。4つの福音書すべてが伝える(きょうのマタイ14・13-21、マルコ6 ・30-44、ルカ9 ・10-17、ヨハネ6 ・1-14)。この話の興味深い点は、イエスが直接人々に食物を渡したのではなく、まず弟子たちに渡し、弟子たちがそれを人々に与えていったという点にある。食物を受け取る二人の弟子の姿は大変うやうやしく、救い主キリストへの礼拝心が強調されている。人々の群れは2つの層に分けて描かれている。籠の両側にいる人々は、イエスの教えに従っていく弟子たちのように見受けられる。下のほうには、向かって左端には赤ん坊に乳を与える女性、右端には赤ん坊を抱く女性、中央には杖をもつ人が見える。ほかにも手厚く保護されなくてはならない弱者たちが描かれているのだろう。そして、これらすべての人の目がこぞってイエスに向かっている。このまなざしの集まり方こそがこの絵の最も深い印象をかもし出している。キリストに仕え、キリストに従い、キリストにより頼む民の姿が写し出されているのである。
今日の奇跡物語は、新約聖書にある4つの福音書全部に記録されている出来事なのです。私たちの新共同訳聖書では、見出しに「五千人に食べ物を与える」と書かれていて、その左下の所のカッコの中に、他の福音書のどこにこの同じ出来事が書かれているかを親切にも書いてくれています。実は、4つの福音書全部に載っている事柄というのは、そんなに多くないのです。しかし、この五つのパンと二匹の魚の出来事は、すべての福音書に記されているのです。
皆さんはこの物語を読んで、どう思われますか? 私はこの箇所を読むと、ものすごい希望が与えられるのです。
4つの福音書すべてにこの出来事は書き留められている。イエスさまが天に帰られた後、弟子たちにとって、この出来事は常に励ましとなったのではないでしょうか。最初の教会。それは、12使徒と、その他の男女の弟子たちわずか120人だとされています。イエスさまは「出ていって全世界に福音を宣べ伝え」なさいと、弟子たちにお命じになりました。ペンテコステ(聖霊降臨)の前、120人の人々しかいなかった。それに対して、これから弟子たちが宣べ伝えようとする全世界には、いったい何人の人がいるというのでしょうか。1億でしょうか。2億でしょうか。いずれにしても、120人という数字は、まるでこの時の、5つのパンと2匹の魚のようなものです。それはまったくわずかです。その時、弟子たちはこの出来事を思い出したのではないでしょうか。
5つのパンと2匹の魚が、もしイエスさまの手に渡らなかったとしたら、それはやはり5つのパンと2匹の魚のままです。何事も起こりません。しかし、何の足しにもならないように思われるわずかのパンと魚であるが、それがイエスさまの手に渡されたとき、イエスさまはそれを感謝して受け取ってくださり、イエスさまの手の中で豊かに増え広がるのです。
わたしたちを用いられる主
「御子イエスさまのことだから、パンも魚も一つもなくても、人々を満腹にすることができたのではないか?」と思う人がいるでしょう。しかしそれは違うのです。イエスさまは、一人芝居をなさろうとはなさいません。全体から見たらわずかではあっても、その人が持っているものをすべてささげたときに、それを用いて事をなさるのです。
最初の教会は、たった120人でした。しかしその120人は、自分たち自身をそのままイエスさまにささげました。その結果、ペンテコステの日に聖霊が降って、その日教会は3000人になったと書かれています。
私たちが住んでいる社会を考えるときに、同じことが言えるでしょう。尼崎市のクリスチャンは、50万の尼崎市民から見たら、まことに少ない、わずかの人数かもしれない。しかし、イエスさまから見たら、少ないということは問題ではないのです。私たち自身を、イエスさまの前に差し出すか否か、ということです。私たち自身をイエスさまの手に渡したとき、主イエスは感謝してそれを受け取り、大きくお用いになるのです。それは奇跡なのです。私たちがするのではありません。イエスさまがなさるのです。nibanmati
現代の私たちは、この物語を聞いて、ここに書いてあることが文字通りおこったのであろうかと、とまどうかもしれません。 奇跡は史実であったか、そういう問題にだけとらわれると、福音書はこの物語を通して何を伝えたかったのかを見過ごしてしまいます。この物語に注意深く耳を傾けてみると分かりますように、中心点は弟子たちにあります。ここに登場するのは、群衆と弟子たちとイエス様ですが、群集は面前にでてきません。満腹した群集には、それがイエス様の奇跡であることが直接に知らされていません。ですから群集が感動したという表現もありません。それがイエスの力であることを直接知っているのは弟子たちです。彼らの動きが目立ちます。群集を見て心配するのはまず弟子たちです。食べ物がなかったら人間は倒れます。私たちの信仰は、自然の法則、この世の道理に直面するのです。そこで、弟子たちは、この世のことはこの世の道理や法則に従っていかねばと考え、「群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と言った。
私たちもそうではなでしょうか。キリストのことを知りたい人々はたくさんある。「神父さん、聖書を読みたくても時間がないのです」「難しいです」「分からない」という人がそこで問題としていることは、このところの弟子たちと同じです。この世の道理に信仰生活が当面したときに、信仰をやめ、この世に従うのです。けれども、そこにはキリストの力が感じられない。キリストの力は、この世の道理を突き抜けていくところにあるのです。
弟子たちにも人々の疲れやさびしさ、労苦や重荷が、ひしと伝わってきたことでしょう。手に取るようにわかっていたでしょうが、しかし、弟子たちにはその現実に対してなすべき手段がないのです。村に帰らせ、そこで食べ物を買わせましょうという普通の方法しか、考えられないのです。弟子たちは無力なのです。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」このことばによって、弟子たちは、よりはっきりと、自分たちの限界、無力さを自覚することになります。
「パン五つと魚二匹」しかもたない弟子たち。つまり、弟子たちは、人々の飢え、渇き、人々の労苦と重荷に対して、まったく力がないのです。社会問題を解決する力がないのです。救いという次元に関して弟子たちが完全に無力であることを自覚させようとするイエスの意図がここにあると思います。弟子たちは自分たちがなにかできると思ってはなならないのです。人々の労苦、重荷を背負い、救うことの出来る方は、イエスだけなのです。弟子たちではないのです。弟子たちはしっかりとイエスをみつめて、イエスから人々のための光りと力を引き出さなければならない立場です。弟子はイエスなくしては無力なのです。彼らが意味を持つのは、彼らが常にイエスをみつめ、イエスの心と一体となるときだけです。キリストの弟子たる私たちにも求められるのは同じことです。もっともっとイエスを信頼し、もっともっとイエスの神秘にふれ、イエスからもっともっと光りと力をくみとることなのです。
人を愛するとは具体的にどうすればよいのでしょうか?イエスと弟子たちの態度の違いから何が感じられるでしょうか?イエスは惜しみなく、自分から人に与えようとします。自分が問題とぶつかるとき、無力さしか感じられないときこそ、自分本位に判断することをとどまって、この日のイエスに問いかけてみたいものです。
どんなに無理な状態だと思えても、愛のちからで奇跡が行われるだろうことに信頼して、自分の持っているもの全てを差し出すことができますように。sese
【マタ14:13ー21】
年間第18主日(A年)
マタイ14.13-21
残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった
(マタイ14・20より)
人々を満たすイエス
オットー三世朗読福音書
ミュンヘン バイエルン国立図書館 10世紀末
イエスが5000人を5つのパンと2匹の魚で満たし、パン屑は12の籠一杯になったというきょうの福音の出来事を描く。イエスが(向かって) 右側の弟子に2匹の魚を手渡し、真ん中に籠が12個描かれているところからわかる。4つの福音書すべてが伝える(きょうのマタイ14・13-21、マルコ6 ・30-44、ルカ9 ・10-17、ヨハネ6 ・1-14)。この話の興味深い点は、イエスが直接人々に食物を渡したのではなく、まず弟子たちに渡し、弟子たちがそれを人々に与えていったという点にある。食物を受け取る二人の弟子の姿は大変うやうやしく、救い主キリストへの礼拝心が強調されている。人々の群れは2つの層に分けて描かれている。籠の両側にいる人々は、イエスの教えに従っていく弟子たちのように見受けられる。下のほうには、向かって左端には赤ん坊に乳を与える女性、右端には赤ん坊を抱く女性、中央には杖をもつ人が見える。ほかにも手厚く保護されなくてはならない弱者たちが描かれているのだろう。そして、これらすべての人の目がこぞってイエスに向かっている。このまなざしの集まり方こそがこの絵の最も深い印象をかもし出している。キリストに仕え、キリストに従い、キリストにより頼む民の姿が写し出されているのである。
今日の奇跡物語は、新約聖書にある4つの福音書全部に記録されている出来事なのです。私たちの新共同訳聖書では、見出しに「五千人に食べ物を与える」と書かれていて、その左下の所のカッコの中に、他の福音書のどこにこの同じ出来事が書かれているかを親切にも書いてくれています。実は、4つの福音書全部に載っている事柄というのは、そんなに多くないのです。しかし、この五つのパンと二匹の魚の出来事は、すべての福音書に記されているのです。
皆さんはこの物語を読んで、どう思われますか? 私はこの箇所を読むと、ものすごい希望が与えられるのです。
4つの福音書すべてにこの出来事は書き留められている。イエスさまが天に帰られた後、弟子たちにとって、この出来事は常に励ましとなったのではないでしょうか。最初の教会。それは、12使徒と、その他の男女の弟子たちわずか120人だとされています。イエスさまは「出ていって全世界に福音を宣べ伝え」なさいと、弟子たちにお命じになりました。ペンテコステ(聖霊降臨)の前、120人の人々しかいなかった。それに対して、これから弟子たちが宣べ伝えようとする全世界には、いったい何人の人がいるというのでしょうか。1億でしょうか。2億でしょうか。いずれにしても、120人という数字は、まるでこの時の、5つのパンと2匹の魚のようなものです。それはまったくわずかです。その時、弟子たちはこの出来事を思い出したのではないでしょうか。
5つのパンと2匹の魚が、もしイエスさまの手に渡らなかったとしたら、それはやはり5つのパンと2匹の魚のままです。何事も起こりません。しかし、何の足しにもならないように思われるわずかのパンと魚であるが、それがイエスさまの手に渡されたとき、イエスさまはそれを感謝して受け取ってくださり、イエスさまの手の中で豊かに増え広がるのです。
わたしたちを用いられる主
「御子イエスさまのことだから、パンも魚も一つもなくても、人々を満腹にすることができたのではないか?」と思う人がいるでしょう。しかしそれは違うのです。イエスさまは、一人芝居をなさろうとはなさいません。全体から見たらわずかではあっても、その人が持っているものをすべてささげたときに、それを用いて事をなさるのです。
最初の教会は、たった120人でした。しかしその120人は、自分たち自身をそのままイエスさまにささげました。その結果、ペンテコステの日に聖霊が降って、その日教会は3000人になったと書かれています。
私たちが住んでいる社会を考えるときに、同じことが言えるでしょう。尼崎市のクリスチャンは、50万の尼崎市民から見たら、まことに少ない、わずかの人数かもしれない。しかし、イエスさまから見たら、少ないということは問題ではないのです。私たち自身を、イエスさまの前に差し出すか否か、ということです。私たち自身をイエスさまの手に渡したとき、主イエスは感謝してそれを受け取り、大きくお用いになるのです。それは奇跡なのです。私たちがするのではありません。イエスさまがなさるのです。nibanmati
現代の私たちは、この物語を聞いて、ここに書いてあることが文字通りおこったのであろうかと、とまどうかもしれません。 奇跡は史実であったか、そういう問題にだけとらわれると、福音書はこの物語を通して何を伝えたかったのかを見過ごしてしまいます。この物語に注意深く耳を傾けてみると分かりますように、中心点は弟子たちにあります。ここに登場するのは、群衆と弟子たちとイエス様ですが、群集は面前にでてきません。満腹した群集には、それがイエス様の奇跡であることが直接に知らされていません。ですから群集が感動したという表現もありません。それがイエスの力であることを直接知っているのは弟子たちです。彼らの動きが目立ちます。群集を見て心配するのはまず弟子たちです。食べ物がなかったら人間は倒れます。私たちの信仰は、自然の法則、この世の道理に直面するのです。そこで、弟子たちは、この世のことはこの世の道理や法則に従っていかねばと考え、「群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と言った。
私たちもそうではなでしょうか。キリストのことを知りたい人々はたくさんある。「神父さん、聖書を読みたくても時間がないのです」「難しいです」「分からない」という人がそこで問題としていることは、このところの弟子たちと同じです。この世の道理に信仰生活が当面したときに、信仰をやめ、この世に従うのです。けれども、そこにはキリストの力が感じられない。キリストの力は、この世の道理を突き抜けていくところにあるのです。
弟子たちにも人々の疲れやさびしさ、労苦や重荷が、ひしと伝わってきたことでしょう。手に取るようにわかっていたでしょうが、しかし、弟子たちにはその現実に対してなすべき手段がないのです。村に帰らせ、そこで食べ物を買わせましょうという普通の方法しか、考えられないのです。弟子たちは無力なのです。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」このことばによって、弟子たちは、よりはっきりと、自分たちの限界、無力さを自覚することになります。
「パン五つと魚二匹」しかもたない弟子たち。つまり、弟子たちは、人々の飢え、渇き、人々の労苦と重荷に対して、まったく力がないのです。社会問題を解決する力がないのです。救いという次元に関して弟子たちが完全に無力であることを自覚させようとするイエスの意図がここにあると思います。弟子たちは自分たちがなにかできると思ってはなならないのです。人々の労苦、重荷を背負い、救うことの出来る方は、イエスだけなのです。弟子たちではないのです。弟子たちはしっかりとイエスをみつめて、イエスから人々のための光りと力を引き出さなければならない立場です。弟子はイエスなくしては無力なのです。彼らが意味を持つのは、彼らが常にイエスをみつめ、イエスの心と一体となるときだけです。キリストの弟子たる私たちにも求められるのは同じことです。もっともっとイエスを信頼し、もっともっとイエスの神秘にふれ、イエスからもっともっと光りと力をくみとることなのです。
人を愛するとは具体的にどうすればよいのでしょうか?イエスと弟子たちの態度の違いから何が感じられるでしょうか?イエスは惜しみなく、自分から人に与えようとします。自分が問題とぶつかるとき、無力さしか感じられないときこそ、自分本位に判断することをとどまって、この日のイエスに問いかけてみたいものです。
どんなに無理な状態だと思えても、愛のちからで奇跡が行われるだろうことに信頼して、自分の持っているもの全てを差し出すことができますように。sese
17 per annum A
年間17主日 A
【マタ13:44ー52「天の国」のたとえ】
年間 第17木曜日
マタイ13・47-53
イエスさまのたとえ話を読み続けています。その多くが「天の国は、次のようにたとえられる」、あるいは、「天の国は○○に似ている」というような語りだしで始まる、天の国のたとえ話。私たちは天の国のことを学び続けているのです。これはすごいことだと思うのです。理科や社会や数学は学校へ行けば教えてくれます。自動車の運転は、自動車学校へ行けばよい。料理が習いたいなら、料理教室へ行けばよい。あるいは、料理の上手な人に教えてもらえばよい。およそ世の中のことは何でも教えてくれるところがあり、教えてくれる人がいるものです。
しかし「天の国」のことは、どこに行けば教えてもらえるのか? 「教会だ」と言う人もいるでしょう。「教会ばかりではなく、宗教ならどこでも良い」と言う人もいることでしょう。なるほど、どんな宗教に行っても、それらしき話は聞けるような気がする。しかし、本当のことを言うと、「天の国」のことは、やはり「天の国にいた人」でなければ知らないはずです。「天の国」に行ったことがないのに、天の国の話をまことしやかにしたところで、それはまた聞きに過ぎないわけです。絵に描いた餅になってしまいます。あくまでも想像の世界、空想の世界になってしまいます。「本当にそうか?」と問われれば、「いや、そう言われると‥‥」とか、「そう書いてある」とかいうことになってしまうでしょう。
しかし天の国のことを、本当に天の国から来た人が語るのであれば、そして「天の国とは」と語るのであれば、それは初めて「本当の話」ということになるでしょう。そうすると私たちは、イエスさまというお方を、そういうお方だと信じている、あるいは信じたいと思っている人がここにいるわけですから、そのイエスさまのお語りになることというのは、口から出任せでもないし、作り話でもない。
本当に本当のこととして聞くことができるということです。
すなわち私たちは、「天の国のこと、神様のことは、どこに行ったら教えてくれるの?」という問いに対して、はじめて答えることが出来るわけです。「それは、イエスさまの所に行ったら良いのだ」と、初めてどこに行けばよいのか、わかったということです。これは本当にすごいことだと思うのです。考えれば考えるほど。そんなお方がこの地上に来られたということですから。ですから、「教会に行けば天の国のことが分かる」というのは正確ではない。正しくは、「イエスさまのみもとに来れば良い」ということです。もちろん、イエスさまは主イエスの名によって二人又は3人が集まるところにいてくださるのですから、私たち教会と共にいて下さるはずです。いつも私たちは、悔い改めて、ゆるしあって、心を一つにして、聖霊なるイエスさまが共にいて下さる教会でありたいですね。そうするとそこは、天の国が満ちあふれている教会、ということになるのです。
思い出してください。使徒ペトロと使徒アンデレ、そして使徒ヨハネと使徒ヤコブはどのようにして最初にイエスさまから声をかけられたのか。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」といって声をかけられたのではありませんか。(マタイ4:19)
えり好みをなさらない神さま
ですから、このたとえ話はやがて弟子たちがこの世に出かけていって、主イエス・キリストの福音を世界の人々に向かって宣べ伝える
、そのことを想像させたでしょう。したがって、海に投げられたこの網は、この世にキリストの福音が宣べ伝えられる伝道のことを指しているし、その中に入っていた魚とは、神によってとらえられ、教会へと導かれた人々のことを指していると考えても間違いではないでしょう。そうすると、その網の中にはすべての種類の魚が入っていた。
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年間 第17水曜日
マタイ13・44-46
わたしたちは、ともすると、信仰というのは「捨てる」ことではなくて、「加える」ことであると思ってしまうのではないでしょうか。
今までの自分の人生、それにさらに「天の国」を加えることである、と。つまり「+アルファ」であると。たとえば、私には囲碁という趣味があり、音楽という趣味がある。それにさらにもう一つ、「キリスト教」という趣味を加えたのだ、などということと同じように考えることはないでしょうか。このようなことはいろいろと考えられます。たとえば、地位があり、さらに名誉が与えられた。これにさら
に「キリスト教」というものを加えるのだ、と。キリスト教がステータスになるかどうかは別として、今までの自分はそのままで、さらに+アルファをする、という発想です。聖書が言っていることは、それとは違うように思われます。
昔、教会に来ているある青年が、クリスチャンではない友達に、「キリスト教は良い」と自慢しました。私はそれを聞いて、うれしくなったのですが、その続きがありました。それはなぜキリスト教は良いかというと、彼が言うには「キリスト教は安い」と言うのです。それを聞いて私は、複雑な思いになってしまいました。何が安いのか、葬儀の時の費用が安いということなのか、それとも彼は献金をあまりしていないということなのか、そのへんは話がそこで終わりましので、それ以上聞くこともしませんでしたが。
「わたし」を丸ごと神さまに差し出す
安いか高いか、ということであれば、もう論外でしょう。結論から言えば、主イエス様の天の国は今日のお話しにあるように、「持ち物すべてを売り払っても惜しくはない」というほどのものであると言えるでしょう。それどころか、主イエスの世界は、「献身」の世界です。財産どころの話ではない、自分自身を神様にささげるのです。一度しかない人生、一つしかない命、これを丸ごと神様にささげるのです。
「献金」はなにか「会費」のようなものとは全然違う。献金のお祈りで兄弟姉妹たちが祈られるように、私たちの献金は「献身のしるし」です。私たちが、すべて神様のものである、そのように私たちはイエスさまを通して神様に自分自身をささげた。私たちが神様のものである、というあかしですね。
もちろん、献金ばかりではない。私たちは時間を神様にささげます。このように日曜日の大切な時間を礼拝のために神様にささげている。教会の奉仕のための時間をささげる。また家に帰っても、聖書を読み、祈る時間をとる。時間というのは命そのものです。命は連続した時間から成り立っているからです。私たちの命が神様のものである、そのことをあかしし、時間を神様にささげているのです。
それ以上のものを与えてくださる神
そのように、私たちが主イエスを信じるとき、私というものを神様におささげするのです。言ってみれば、「捨てる」わけです。それは、「捨てる」ように見える。「神様この私をどうぞ、あなたの御心のままにお用い下さい」と祈る。神様に信頼してゆだねるわけです。そして神様が祝福してくださる。私たちの持ち物もそうです。いったん神様にすべておささげしている。その上で、神様が必要に応
じて与えて下さるのです。
きょうのたとえ話をご覧下さい。彼らは自分の持ち物を「捨てた」わけではない。代わりに、畑の中の宝を得た。あるいは、世界一の真珠を手に入れたのです。神様がそれほどすばらしいものを与えて下さったのです。この人たちは、喜んで売り払いました。無理に売り払ったのではないのです。喜び勇んで売り払った。言い換えれば、天の国、イエスさまを信じる世界は、それほどすばらしいものがあるということです。すべてに換えても良いほどの値打ちがあるということです。私たちはその値打ちに気がついているでしょうか。どうか多くの人が、この天の国のかけがえのない値打ちに気がつくように祈ります。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_mat94.html
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年間第十七主日 A
2005-07-20 17:23:14 | Weblog
年間第十七主日
マタイ13・44-52
きょうの福音書には、二つのたとえ語がならべておかれています。内容的にはまったく同じものです。そこには共通した特徴があります。
一つの共通点は、それぞれ、土地を掘る人、真珠を捜す人、つまり、それなりに求めている人がいるということです。もう一つの共通点は、宝も、真珠も隠されていたということ、もう一つは、発見した人はよろこびいさんで、すべてを捨ててそれを自分のものにしようとしたということです。
それでは・それぞれの共通点として指摘できるもののが、なにを意味しているのか確かめてみましょう。まず、掘り・捜す人。この人びとは、なにがそこに隠されているか知らないのです。彼らが見つけだすものが、あらかじめ、そこに現にあることを予想もしないのです。なにかあるだろうという期待感はあったでしょう。なにかを求めて努力していることは確かなのですが、それがなんであるかを明確にできないままでいるのです。ばく然とした期待感があるのですが、なにに出会うかは定かではないのです。つまり、イエズスは、この二人の主人公の中に、なにかに飢えているのですが、それが神に対する飢えであることをみきわめられない魂、絶対的なあわれみに渇いているにもかかわらず、その渇きがイエズスに向かっていることを知らずにいる魂をみているといってよいでしょう。
たしかに、わたしたちの周囲には無数の善意の人びとがいます。カトリック信者ではないにもかかわらず、信者以上に純粋で献身的な人びとがたくさんいます。あるいはまた、人生のさまざまな試練にうち倒されたり、信煩する人に裏切られて絶望し、その中でもう一度、希望をもって立ちあがりたいと願っている人びともいます。そうした人びとは、なにかに飢え、なにかを求めているのです。神に向かって祈り求めているとは知らずに、神に向かって祈っている人びとなのです。こうした人々に、キリストも神も隠されています。
「神はこの世を愛された」にもかかわらず、人々は、愛が消えたといって孤独に苦しんでいます。「苦労する者、重荷を負う者は私のもとにきなさい」といってすべての人々の労苦を背負うことのできるかたが、私のために与えられているにもかかわらず、だれも私にことばをかけず、だれもわたしに力をかしてくれないといって嘆き苦しむ人々がいます。
わたしはすでに世に勝っていると、復活したキリストが宣言しているにもかかわらず、病や死を前にして、不安と絶望に動揺しつづける人びとがいるのです。あなたの罪はゆるされたといって、その罪がどんなに深いものであっても、それをゆるすことのできるかたがいるにもかかわらず、自分のおかした罪の深さにおおわれてしまう人びとがいるのです。
キリストは、すべての人びとの求めに、願いに、こたえることができるだけの光と力と愛をもっている。ですから、もし、人びとがそれに気がつけば、それこそすべてを捨て、それを自分のものとするために努力するでしょう。見つけた宝や真珠のために全財産を捨てて、それを自分のものとするように、イエズスとの出会いをたいせつにすることでしょう。真実に飢え、渇いている者にとって、その出会いはこのうえもないよろこびであり、もはやそれなしには生きられないほど、決定的な意味をもつことになるはずです。しかし、現実には、残念ながら、人びとの飢え、渇きとイエズスとの出会いがなかなかおこらないのです。わたしたちの社会に、真実の愛に飢え、理想に渇いている善意の人が無数にいるのに、それがなかなかキリストと結びつかないのです。どうしてでしょうか。人びとの責任なのでしょうか。彼らの求め方が悪いというのでしょうか。わたしはそうは思いません。むしろ、キリストを紹介し、キリストを伝える人びとのほうに責任があるような気がいたします。現代の人びとの問題や課題に、キリストの光、キリストのメッセージを伝える努力と工夫が足りないような気がします。わたしたちは、もっともっと努力して、宝であリ真珠であるキリストを人々に伝えるならば、この世にもっともっと喜びと希望があふれることでしょう。(森)
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【マタ13:44ー52「天の国」のたとえ】
年間 第17木曜日
マタイ13・47-53
イエスさまのたとえ話を読み続けています。その多くが「天の国は、次のようにたとえられる」、あるいは、「天の国は○○に似ている」というような語りだしで始まる、天の国のたとえ話。私たちは天の国のことを学び続けているのです。これはすごいことだと思うのです。理科や社会や数学は学校へ行けば教えてくれます。自動車の運転は、自動車学校へ行けばよい。料理が習いたいなら、料理教室へ行けばよい。あるいは、料理の上手な人に教えてもらえばよい。およそ世の中のことは何でも教えてくれるところがあり、教えてくれる人がいるものです。
しかし「天の国」のことは、どこに行けば教えてもらえるのか? 「教会だ」と言う人もいるでしょう。「教会ばかりではなく、宗教ならどこでも良い」と言う人もいることでしょう。なるほど、どんな宗教に行っても、それらしき話は聞けるような気がする。しかし、本当のことを言うと、「天の国」のことは、やはり「天の国にいた人」でなければ知らないはずです。「天の国」に行ったことがないのに、天の国の話をまことしやかにしたところで、それはまた聞きに過ぎないわけです。絵に描いた餅になってしまいます。あくまでも想像の世界、空想の世界になってしまいます。「本当にそうか?」と問われれば、「いや、そう言われると‥‥」とか、「そう書いてある」とかいうことになってしまうでしょう。
しかし天の国のことを、本当に天の国から来た人が語るのであれば、そして「天の国とは」と語るのであれば、それは初めて「本当の話」ということになるでしょう。そうすると私たちは、イエスさまというお方を、そういうお方だと信じている、あるいは信じたいと思っている人がここにいるわけですから、そのイエスさまのお語りになることというのは、口から出任せでもないし、作り話でもない。
本当に本当のこととして聞くことができるということです。
すなわち私たちは、「天の国のこと、神様のことは、どこに行ったら教えてくれるの?」という問いに対して、はじめて答えることが出来るわけです。「それは、イエスさまの所に行ったら良いのだ」と、初めてどこに行けばよいのか、わかったということです。これは本当にすごいことだと思うのです。考えれば考えるほど。そんなお方がこの地上に来られたということですから。ですから、「教会に行けば天の国のことが分かる」というのは正確ではない。正しくは、「イエスさまのみもとに来れば良い」ということです。もちろん、イエスさまは主イエスの名によって二人又は3人が集まるところにいてくださるのですから、私たち教会と共にいて下さるはずです。いつも私たちは、悔い改めて、ゆるしあって、心を一つにして、聖霊なるイエスさまが共にいて下さる教会でありたいですね。そうするとそこは、天の国が満ちあふれている教会、ということになるのです。
思い出してください。使徒ペトロと使徒アンデレ、そして使徒ヨハネと使徒ヤコブはどのようにして最初にイエスさまから声をかけられたのか。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」といって声をかけられたのではありませんか。(マタイ4:19)
えり好みをなさらない神さま
ですから、このたとえ話はやがて弟子たちがこの世に出かけていって、主イエス・キリストの福音を世界の人々に向かって宣べ伝える
、そのことを想像させたでしょう。したがって、海に投げられたこの網は、この世にキリストの福音が宣べ伝えられる伝道のことを指しているし、その中に入っていた魚とは、神によってとらえられ、教会へと導かれた人々のことを指していると考えても間違いではないでしょう。そうすると、その網の中にはすべての種類の魚が入っていた。
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年間 第17水曜日
マタイ13・44-46
わたしたちは、ともすると、信仰というのは「捨てる」ことではなくて、「加える」ことであると思ってしまうのではないでしょうか。
今までの自分の人生、それにさらに「天の国」を加えることである、と。つまり「+アルファ」であると。たとえば、私には囲碁という趣味があり、音楽という趣味がある。それにさらにもう一つ、「キリスト教」という趣味を加えたのだ、などということと同じように考えることはないでしょうか。このようなことはいろいろと考えられます。たとえば、地位があり、さらに名誉が与えられた。これにさら
に「キリスト教」というものを加えるのだ、と。キリスト教がステータスになるかどうかは別として、今までの自分はそのままで、さらに+アルファをする、という発想です。聖書が言っていることは、それとは違うように思われます。
昔、教会に来ているある青年が、クリスチャンではない友達に、「キリスト教は良い」と自慢しました。私はそれを聞いて、うれしくなったのですが、その続きがありました。それはなぜキリスト教は良いかというと、彼が言うには「キリスト教は安い」と言うのです。それを聞いて私は、複雑な思いになってしまいました。何が安いのか、葬儀の時の費用が安いということなのか、それとも彼は献金をあまりしていないということなのか、そのへんは話がそこで終わりましので、それ以上聞くこともしませんでしたが。
「わたし」を丸ごと神さまに差し出す
安いか高いか、ということであれば、もう論外でしょう。結論から言えば、主イエス様の天の国は今日のお話しにあるように、「持ち物すべてを売り払っても惜しくはない」というほどのものであると言えるでしょう。それどころか、主イエスの世界は、「献身」の世界です。財産どころの話ではない、自分自身を神様にささげるのです。一度しかない人生、一つしかない命、これを丸ごと神様にささげるのです。
「献金」はなにか「会費」のようなものとは全然違う。献金のお祈りで兄弟姉妹たちが祈られるように、私たちの献金は「献身のしるし」です。私たちが、すべて神様のものである、そのように私たちはイエスさまを通して神様に自分自身をささげた。私たちが神様のものである、というあかしですね。
もちろん、献金ばかりではない。私たちは時間を神様にささげます。このように日曜日の大切な時間を礼拝のために神様にささげている。教会の奉仕のための時間をささげる。また家に帰っても、聖書を読み、祈る時間をとる。時間というのは命そのものです。命は連続した時間から成り立っているからです。私たちの命が神様のものである、そのことをあかしし、時間を神様にささげているのです。
それ以上のものを与えてくださる神
そのように、私たちが主イエスを信じるとき、私というものを神様におささげするのです。言ってみれば、「捨てる」わけです。それは、「捨てる」ように見える。「神様この私をどうぞ、あなたの御心のままにお用い下さい」と祈る。神様に信頼してゆだねるわけです。そして神様が祝福してくださる。私たちの持ち物もそうです。いったん神様にすべておささげしている。その上で、神様が必要に応
じて与えて下さるのです。
きょうのたとえ話をご覧下さい。彼らは自分の持ち物を「捨てた」わけではない。代わりに、畑の中の宝を得た。あるいは、世界一の真珠を手に入れたのです。神様がそれほどすばらしいものを与えて下さったのです。この人たちは、喜んで売り払いました。無理に売り払ったのではないのです。喜び勇んで売り払った。言い換えれば、天の国、イエスさまを信じる世界は、それほどすばらしいものがあるということです。すべてに換えても良いほどの値打ちがあるということです。私たちはその値打ちに気がついているでしょうか。どうか多くの人が、この天の国のかけがえのない値打ちに気がつくように祈ります。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_mat94.html
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年間第十七主日 A
2005-07-20 17:23:14 | Weblog
年間第十七主日
マタイ13・44-52
きょうの福音書には、二つのたとえ語がならべておかれています。内容的にはまったく同じものです。そこには共通した特徴があります。
一つの共通点は、それぞれ、土地を掘る人、真珠を捜す人、つまり、それなりに求めている人がいるということです。もう一つの共通点は、宝も、真珠も隠されていたということ、もう一つは、発見した人はよろこびいさんで、すべてを捨ててそれを自分のものにしようとしたということです。
それでは・それぞれの共通点として指摘できるもののが、なにを意味しているのか確かめてみましょう。まず、掘り・捜す人。この人びとは、なにがそこに隠されているか知らないのです。彼らが見つけだすものが、あらかじめ、そこに現にあることを予想もしないのです。なにかあるだろうという期待感はあったでしょう。なにかを求めて努力していることは確かなのですが、それがなんであるかを明確にできないままでいるのです。ばく然とした期待感があるのですが、なにに出会うかは定かではないのです。つまり、イエズスは、この二人の主人公の中に、なにかに飢えているのですが、それが神に対する飢えであることをみきわめられない魂、絶対的なあわれみに渇いているにもかかわらず、その渇きがイエズスに向かっていることを知らずにいる魂をみているといってよいでしょう。
たしかに、わたしたちの周囲には無数の善意の人びとがいます。カトリック信者ではないにもかかわらず、信者以上に純粋で献身的な人びとがたくさんいます。あるいはまた、人生のさまざまな試練にうち倒されたり、信煩する人に裏切られて絶望し、その中でもう一度、希望をもって立ちあがりたいと願っている人びともいます。そうした人びとは、なにかに飢え、なにかを求めているのです。神に向かって祈り求めているとは知らずに、神に向かって祈っている人びとなのです。こうした人々に、キリストも神も隠されています。
「神はこの世を愛された」にもかかわらず、人々は、愛が消えたといって孤独に苦しんでいます。「苦労する者、重荷を負う者は私のもとにきなさい」といってすべての人々の労苦を背負うことのできるかたが、私のために与えられているにもかかわらず、だれも私にことばをかけず、だれもわたしに力をかしてくれないといって嘆き苦しむ人々がいます。
わたしはすでに世に勝っていると、復活したキリストが宣言しているにもかかわらず、病や死を前にして、不安と絶望に動揺しつづける人びとがいるのです。あなたの罪はゆるされたといって、その罪がどんなに深いものであっても、それをゆるすことのできるかたがいるにもかかわらず、自分のおかした罪の深さにおおわれてしまう人びとがいるのです。
キリストは、すべての人びとの求めに、願いに、こたえることができるだけの光と力と愛をもっている。ですから、もし、人びとがそれに気がつけば、それこそすべてを捨て、それを自分のものとするために努力するでしょう。見つけた宝や真珠のために全財産を捨てて、それを自分のものとするように、イエズスとの出会いをたいせつにすることでしょう。真実に飢え、渇いている者にとって、その出会いはこのうえもないよろこびであり、もはやそれなしには生きられないほど、決定的な意味をもつことになるはずです。しかし、現実には、残念ながら、人びとの飢え、渇きとイエズスとの出会いがなかなかおこらないのです。わたしたちの社会に、真実の愛に飢え、理想に渇いている善意の人が無数にいるのに、それがなかなかキリストと結びつかないのです。どうしてでしょうか。人びとの責任なのでしょうか。彼らの求め方が悪いというのでしょうか。わたしはそうは思いません。むしろ、キリストを紹介し、キリストを伝える人びとのほうに責任があるような気がいたします。現代の人びとの問題や課題に、キリストの光、キリストのメッセージを伝える努力と工夫が足りないような気がします。わたしたちは、もっともっと努力して、宝であリ真珠であるキリストを人々に伝えるならば、この世にもっともっと喜びと希望があふれることでしょう。(森)
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16 per annum A
年間16主日 Α
【マタ13:24-43「毒麦」のたとえ】
年間 第十六土曜日
「両方とも育つままにしておきなさい」
マタイ13・24-30
親たちは子供に、「我慢しなさい。」とよく言うが、子供はそれを聞く度にむしろいやになってしまうだろう。その気持ちは理解できる。我慢とはあまりいい言葉ではないと思う。我慢する人は、いつも損をしているからである。我慢することとは結局、「仕方がないから、諦めよう。」といった、消極的な態度の現れだからである。忍耐は、これとは全く違うものである。忍耐は希望を生み出す。忍耐はとてもいい言葉だと思う。忍耐強い者は、試練を耐え忍び、強い者になる。忍耐強い者は常に期待している。人に欠けているところを見つけても落胆せず、むしろよくなる可能性を考え、許し、助ける優しい心を持っているのである。これが寛容であり、慈悲深い者の性質である。妥協とは根本的に違います。(ジラール)
パウロの言うように、「私たちは、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・3-5)。神は、「善い者の上にも、悪いものの上にも雨を降らせ、太陽を昇らせる」ではありませんか。
Posted by Andrea Bonazzi at Monday, November 14, 2011 No comments:
年間 17月
マタイによる福音(13:31-35)
からし種とパン種のたとえが天の国の不思議さを見せてくれます。自分を振り返ったとき、神の光にふさわしくない自分を感じ、力を失うこともあるでしょう。しかし、天の国が育つためには、ほんの小さな一歩でよいのです。その小さな種も神が与えてくださっています。主のもとに立ち返り、みこころのままに愛を注いでいただきましょう。私のうちにも小さな愛の思い・言葉・行いが動き出すでしょう。種は大きく成長します。想像をはるかに超えて葉は茂り、実がたわわに結ばれ、そこに集う者は憩い、豊かに養われます。
愛こそがわたしたちを養います。主のみ前に進み出て、わたしのすべてをさしだし、主の愛の中で育てていただきましょう。
年間 17火
マタイによる福音(13:36-43)
イエスをとりまく人々の群れには、イエスのメッセージの真実を見抜いた魂もあれば、イエスの求める心とはほど遠い魂もあったでしょう。人間的な打算、一時的な好奇心、地上的な成功を求める心などが、外側からは確かめられなくとも、その内側に隠されながら生きていたはずです。
イエスに従い、イエスの名を語る群れであっても、そこには本物と偽物、まことの信仰と偽りの信仰、持続する情熱と底の浅い群集心理、永遠への渇きと地上的な充足を求める心などが、互いに入り混じっているのです。しかし外見からその真偽を区別するのは無理なことです。
もしそこで弟子のだれかが、熱心の名のもとに自分の目で判断した毒麦を抜こうとすれば、よい麦をとりのぞいてしまう危険性もあります。自信のある人は、どうしても他人の信仰のあり方を、自分の枠組み、自分のはかりで量り、その行動を批判しがちです。それはいつのまにか狭く堅苦しい教会(共同体)にしてしまうことになりますし、枠組みに入らない人々は、教会に来にくくなってしまうことにもなります。
イエスは、人を裁くことの危険性を指摘したかったのだと思います。人間は心に中まで見分けることができないのです。それは神の領域のことです。口先だけの信仰か本物の信仰か、それを知る人は、ただキリストだけであり、それがあらわになるのは、終わりの時なのです。今、終わりではないのに、終わりだと思うには大きな過ちがある。
-------
人の子と悪魔が、私たちの世界に種を蒔いているようです。わたしの心に蒔かれた種はどんな芽を出しているでしょうか。人の子が蒔いた良い種は神の子にふさわしい愛に満ちた芽を生じさせているでしょう。毒麦は愛に反する思いや行いです。今、ここで、わたしの心の毒麦の芽を摘み取り、主のもとに立ち帰りましょう。主は今、ここで導いておられます。主はすべてにおいて優る方です。
罪を犯した者に対して、その悔い改めを待ち、決して見捨てることなく養ってくださいます。主は、わたしたちがこの世においても太陽のように輝くことを望み、導いておられます。主よ、私に透明な目をお与えください。勇気を持って悪の芽を捨て、良い麦を根付かせ、育てたいのです。どうぞわたしを憐れみ、きよめてください。世の終わりにあなたの光を受け、太陽のように輝くことができますように。
年間第16主日 (2014/7/20 マタイ13章24-43節)教会暦と聖書の流れ
似ていること
http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/kiyofu/kiyofu58dokumugi.htm
似ているというのは怖いことです。ガン細胞は健康な細胞とそっくりです。偽札とほんものの札を見分けるのは難しいです。圧制者や暴君は、始めは慈悲深い為政者の姿をまといます。野心家も謙虚な衣をまとって登場します。人を傷つけ幸せを奪う「愛」があり、人を救う愛があります。これらの例で共通するのは、似ていることは「同じ」ではなく、ちょうど正反対の性質を持っている場合があることです。これが「偽りと真理を見分ける」という大事な問題を呼び起こすのです。
ジョン・ミルトンというイギリスの詩人が「善と悪とは双子のように似て生まれてくる」と言っています。人の心には、善と悪とが絡み合って宿っていて、見分けることができないからです。人が何か「良いこと」をしようとする時には、それに反対する思いが必ず湧いてくるのはこのためです。はたしてそれがほんとうに「良い」のか? 自分にとって益となるのか? 疑問が生じてくるのはこのためです。何が正しくて、何が正しくないのか? 何が善で、何が悪なのか? 何が自分と人を益するのか? あるいは害するのか? これを見分けるのは必ずしも容易ではありません。特に、将来のことについて考える場合には、その真偽が判断できないからです。信仰者にとって最大の試練は、困難や苦しみではなく、何が正しくて何が間違っているのかが分からなくなることだ。こう言ったのは、確かキェルケゴールだったと思います。
http://www.uccjg.or.jp/index.php?%E6%AF%92%E9%BA%A6%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%88
良い種を蒔いた畑に毒麦が生えたように、この世界は神様が「良いもの」として造られたにもかかわらず、世界には様々な悪が、雑草のようにはびこっています。
「なぜ神様は、この世の悪を野放しにしているのか」と文句を言いたくなります。この世に悪がある。それは教会も同じです。マタイ福音書が書かれたのは、教会への迫害が盛んな時です。そのため教会には信仰を全うする者ばかりではなく、信仰を捨てる者や裏切る者も出てきて、例え話
の麦畑のように、教会の中に次々と毒麦が現われました。
良い種が蒔かれたのに、毒麦が現われる。これはマタイ福音書が書かれた時代に限ったことではありません。イエス様は12人の弟子をお選びになりました。しかし12弟子の中から、イエス様を裏切るユダが出てきました。ユダだけでなくペトロも、イザとなるとイエス様のことを「知らない」と言って逃げます。神様はイスラエルを神の民としてお選びになりましたが、イエス様を十字架につけたのは、他でもない神の民イスラエルです。
たとえ良い種として蒔かれ、良いものとして造られても、この世では常にサタン の誘惑に遭います。そして良いものの中からでも、悪いものが出てくる現実があり ます。その意味でこの世も教会も、例え話のように「良い麦と毒麦が共に育つ畑」だ と言えます。しかし畑の主人は、良い麦と毒麦が共に育っていることを知っており、その上で、「刈取りの時まで、そのまま一緒に育ててなさい」と命じていました。
これは、神様が悪を退治するのをヤメタと言うことではありません。畑の主人が毒麦を抜く時、他の麦も一緒に抜いてダメにすることよりも、刈入れの時まで麦を大切に育てることを選んだように、神様も今、悪を根こそぎ退治することよりも、 私達一人一人を天の国を受け継ぐ者として、終わりの日まで大切に育てていく ことを選んでくださったのです。
「終わりの日まで待つなんて、神様のやり方は手ぬるい」と思われるかもしれま せん。でもそれは「自分が毒麦ではない」と思っているからではないでしょうか。
マタイ福音書が、教会における毒麦と言っているのは、イエス様を受け入れようと しない不信仰な者たち、教会を破壊する反キリストのことです。しかし麦と毒麦の見分け方が難しいように、人の信仰が良いか悪いか、私達には判断ができません。 自分の信仰が神様の御心に適っているのかどうかさえ、私達には判断できません。パウロが教会を迫害していたように、自分の信仰は正しいと思っていても、それが本当に正しいかどうか定かでありません。第一、私達の中には良いものもあれば、 悪いものもあります。自分の中にキッチリ線引きして、「こっちは悪だから」と切り
捨てたら、恐らく私達は、自分のほとんどを失うことになるでしょう。
自分の信仰の正しさが、徹底的に打ち砕かれる体験をしたパウロは、「正しい者は いない。1人もいない」(ローマ3:10)と告白しています。イエス様が命じた唯一つの掟「互いに愛し合いなさい」、これにも従えない私達は皆、引き抜かれても仕方ない毒麦です。例え話では麦畑に毒麦が混ざっていましたが、実は畑一面、怪しい毒麦ばかりなのです。こんな状態で、どれを引き抜くと言うのでしょう。
どれが毒麦でどれが良い麦か、それを判断して刈取るのは、私達の仕事では なく、メシヤが遣わした天使の仕事です。私達の信仰を最後に判断して、善悪を見極めるのは、神様がなさることです。神様の領域を人間が犯してはなりません。
それゆえパウロは「主が来られる時までは、先走って何も裁いてはいけません」と警告してします(1コリント4:5)。教会は終わりの日に、すべてを見極めて、正しく審判を下される神様に固く信頼します。終わりの日の神様の審きに信頼します。
では、教会で何が起きても、ただ終わりの日を待つことしか出来ないのか。そう ではありません。先程も言ったように、世にある教会は、常にサタンの誘惑にさら されていますが、教会にいるのは、神様から呼び集められた大切な一人一人です。
「これらの小さな者が1人でも滅ぶことは、あなたがたの天の父の御心ではない」とイエス様は断言し、続く箇所で「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って2人だけの所で忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言っています(マタイ18:14-15)。
教会の誰もが、神様にとって失われてはならない大切な宝物です。たとえ信仰の道を誤った人や、意見が合わない人がいたとしても、教会がすべきことは、彼らを早々と毒麦として取り除くことではありません。終わりの日の神様の審判、天使の刈入れに信頼する教会がすべきことは、裁くことではなくて、1人でも多くの人が悔い改めて、神様に立ち帰れるよう、とりなして祈ることです。
パウロは教会のことで労苦していましたが、復活の主が終わりの日に、すべてを正してくださる希望に立って、同じように労苦していたテモテに命じています。
「御言を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、 励ましなさい。忍耐強く充分に教えるのです」(2テモテ4:2)。
終わりの日が来るまで、絶えずとりなして祈ること。そして絶えず御言を語り、 忍耐強く教えることによって、教会は迷っている人たちを主にある兄弟姉妹として迎え入れることができます。教会にそんな力があるのかと侮ってはなりません。
教会は主イエス・キリストの体です。私達がガンコな毒麦だと百も承知の上で、それでも私達を愛して、私達を天の国の住まわせるために、命を献げてくださった イエス様が生きて教会におられます。イエス様こそ、神様の喜ばれる良い麦です。
イエス様は、毒麦ばかりのこの世界に、奇跡的に生まれた唯一つの良い麦です。
教会には、本物の良い麦、イエス様が生きて働いておられます。終わりの日まで休むことなく、イエス様は働き続けておられます。私達の罪の毒気をご自分の血で洗い清めて、私達を包みこみ、私達と1つになるためです。そして終わりの日に、 私達を毒麦ではなく良い麦として、神様の前に立たせてくださるためです。 「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」
(ローマ8:1)
死を復活の希望に変えたように、イエス様には、毒麦を良い麦に変える力があり ます。ご自分の中に留まる者たちを、終わりの日の審きから守る力があります。
だから今日もイエス様は、1人でも多くの人がイエス様につながって、良い麦に育つのを忍耐強く待っていてくださいます。刈入れはまだですが、刈入れに向けて、 着々と天の国では準備が進んでいます。終わりの日に、私達を失うまいと、神様はこの世界に良い麦イエス様を植えてくださいました。そのイエス様がおられる教会に招かれ、イエス様が私達の成長を待っていてくださる幸いに感謝しましょう。
【マタ13:24-43「毒麦」のたとえ】
年間 第十六土曜日
「両方とも育つままにしておきなさい」
マタイ13・24-30
親たちは子供に、「我慢しなさい。」とよく言うが、子供はそれを聞く度にむしろいやになってしまうだろう。その気持ちは理解できる。我慢とはあまりいい言葉ではないと思う。我慢する人は、いつも損をしているからである。我慢することとは結局、「仕方がないから、諦めよう。」といった、消極的な態度の現れだからである。忍耐は、これとは全く違うものである。忍耐は希望を生み出す。忍耐はとてもいい言葉だと思う。忍耐強い者は、試練を耐え忍び、強い者になる。忍耐強い者は常に期待している。人に欠けているところを見つけても落胆せず、むしろよくなる可能性を考え、許し、助ける優しい心を持っているのである。これが寛容であり、慈悲深い者の性質である。妥協とは根本的に違います。(ジラール)
パウロの言うように、「私たちは、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・3-5)。神は、「善い者の上にも、悪いものの上にも雨を降らせ、太陽を昇らせる」ではありませんか。
Posted by Andrea Bonazzi at Monday, November 14, 2011 No comments:
年間 17月
マタイによる福音(13:31-35)
からし種とパン種のたとえが天の国の不思議さを見せてくれます。自分を振り返ったとき、神の光にふさわしくない自分を感じ、力を失うこともあるでしょう。しかし、天の国が育つためには、ほんの小さな一歩でよいのです。その小さな種も神が与えてくださっています。主のもとに立ち返り、みこころのままに愛を注いでいただきましょう。私のうちにも小さな愛の思い・言葉・行いが動き出すでしょう。種は大きく成長します。想像をはるかに超えて葉は茂り、実がたわわに結ばれ、そこに集う者は憩い、豊かに養われます。
愛こそがわたしたちを養います。主のみ前に進み出て、わたしのすべてをさしだし、主の愛の中で育てていただきましょう。
年間 17火
マタイによる福音(13:36-43)
イエスをとりまく人々の群れには、イエスのメッセージの真実を見抜いた魂もあれば、イエスの求める心とはほど遠い魂もあったでしょう。人間的な打算、一時的な好奇心、地上的な成功を求める心などが、外側からは確かめられなくとも、その内側に隠されながら生きていたはずです。
イエスに従い、イエスの名を語る群れであっても、そこには本物と偽物、まことの信仰と偽りの信仰、持続する情熱と底の浅い群集心理、永遠への渇きと地上的な充足を求める心などが、互いに入り混じっているのです。しかし外見からその真偽を区別するのは無理なことです。
もしそこで弟子のだれかが、熱心の名のもとに自分の目で判断した毒麦を抜こうとすれば、よい麦をとりのぞいてしまう危険性もあります。自信のある人は、どうしても他人の信仰のあり方を、自分の枠組み、自分のはかりで量り、その行動を批判しがちです。それはいつのまにか狭く堅苦しい教会(共同体)にしてしまうことになりますし、枠組みに入らない人々は、教会に来にくくなってしまうことにもなります。
イエスは、人を裁くことの危険性を指摘したかったのだと思います。人間は心に中まで見分けることができないのです。それは神の領域のことです。口先だけの信仰か本物の信仰か、それを知る人は、ただキリストだけであり、それがあらわになるのは、終わりの時なのです。今、終わりではないのに、終わりだと思うには大きな過ちがある。
-------
人の子と悪魔が、私たちの世界に種を蒔いているようです。わたしの心に蒔かれた種はどんな芽を出しているでしょうか。人の子が蒔いた良い種は神の子にふさわしい愛に満ちた芽を生じさせているでしょう。毒麦は愛に反する思いや行いです。今、ここで、わたしの心の毒麦の芽を摘み取り、主のもとに立ち帰りましょう。主は今、ここで導いておられます。主はすべてにおいて優る方です。
罪を犯した者に対して、その悔い改めを待ち、決して見捨てることなく養ってくださいます。主は、わたしたちがこの世においても太陽のように輝くことを望み、導いておられます。主よ、私に透明な目をお与えください。勇気を持って悪の芽を捨て、良い麦を根付かせ、育てたいのです。どうぞわたしを憐れみ、きよめてください。世の終わりにあなたの光を受け、太陽のように輝くことができますように。
年間第16主日 (2014/7/20 マタイ13章24-43節)教会暦と聖書の流れ
似ていること
http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/kiyofu/kiyofu58dokumugi.htm
似ているというのは怖いことです。ガン細胞は健康な細胞とそっくりです。偽札とほんものの札を見分けるのは難しいです。圧制者や暴君は、始めは慈悲深い為政者の姿をまといます。野心家も謙虚な衣をまとって登場します。人を傷つけ幸せを奪う「愛」があり、人を救う愛があります。これらの例で共通するのは、似ていることは「同じ」ではなく、ちょうど正反対の性質を持っている場合があることです。これが「偽りと真理を見分ける」という大事な問題を呼び起こすのです。
ジョン・ミルトンというイギリスの詩人が「善と悪とは双子のように似て生まれてくる」と言っています。人の心には、善と悪とが絡み合って宿っていて、見分けることができないからです。人が何か「良いこと」をしようとする時には、それに反対する思いが必ず湧いてくるのはこのためです。はたしてそれがほんとうに「良い」のか? 自分にとって益となるのか? 疑問が生じてくるのはこのためです。何が正しくて、何が正しくないのか? 何が善で、何が悪なのか? 何が自分と人を益するのか? あるいは害するのか? これを見分けるのは必ずしも容易ではありません。特に、将来のことについて考える場合には、その真偽が判断できないからです。信仰者にとって最大の試練は、困難や苦しみではなく、何が正しくて何が間違っているのかが分からなくなることだ。こう言ったのは、確かキェルケゴールだったと思います。
http://www.uccjg.or.jp/index.php?%E6%AF%92%E9%BA%A6%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%88
良い種を蒔いた畑に毒麦が生えたように、この世界は神様が「良いもの」として造られたにもかかわらず、世界には様々な悪が、雑草のようにはびこっています。
「なぜ神様は、この世の悪を野放しにしているのか」と文句を言いたくなります。この世に悪がある。それは教会も同じです。マタイ福音書が書かれたのは、教会への迫害が盛んな時です。そのため教会には信仰を全うする者ばかりではなく、信仰を捨てる者や裏切る者も出てきて、例え話
の麦畑のように、教会の中に次々と毒麦が現われました。
良い種が蒔かれたのに、毒麦が現われる。これはマタイ福音書が書かれた時代に限ったことではありません。イエス様は12人の弟子をお選びになりました。しかし12弟子の中から、イエス様を裏切るユダが出てきました。ユダだけでなくペトロも、イザとなるとイエス様のことを「知らない」と言って逃げます。神様はイスラエルを神の民としてお選びになりましたが、イエス様を十字架につけたのは、他でもない神の民イスラエルです。
たとえ良い種として蒔かれ、良いものとして造られても、この世では常にサタン の誘惑に遭います。そして良いものの中からでも、悪いものが出てくる現実があり ます。その意味でこの世も教会も、例え話のように「良い麦と毒麦が共に育つ畑」だ と言えます。しかし畑の主人は、良い麦と毒麦が共に育っていることを知っており、その上で、「刈取りの時まで、そのまま一緒に育ててなさい」と命じていました。
これは、神様が悪を退治するのをヤメタと言うことではありません。畑の主人が毒麦を抜く時、他の麦も一緒に抜いてダメにすることよりも、刈入れの時まで麦を大切に育てることを選んだように、神様も今、悪を根こそぎ退治することよりも、 私達一人一人を天の国を受け継ぐ者として、終わりの日まで大切に育てていく ことを選んでくださったのです。
「終わりの日まで待つなんて、神様のやり方は手ぬるい」と思われるかもしれま せん。でもそれは「自分が毒麦ではない」と思っているからではないでしょうか。
マタイ福音書が、教会における毒麦と言っているのは、イエス様を受け入れようと しない不信仰な者たち、教会を破壊する反キリストのことです。しかし麦と毒麦の見分け方が難しいように、人の信仰が良いか悪いか、私達には判断ができません。 自分の信仰が神様の御心に適っているのかどうかさえ、私達には判断できません。パウロが教会を迫害していたように、自分の信仰は正しいと思っていても、それが本当に正しいかどうか定かでありません。第一、私達の中には良いものもあれば、 悪いものもあります。自分の中にキッチリ線引きして、「こっちは悪だから」と切り
捨てたら、恐らく私達は、自分のほとんどを失うことになるでしょう。
自分の信仰の正しさが、徹底的に打ち砕かれる体験をしたパウロは、「正しい者は いない。1人もいない」(ローマ3:10)と告白しています。イエス様が命じた唯一つの掟「互いに愛し合いなさい」、これにも従えない私達は皆、引き抜かれても仕方ない毒麦です。例え話では麦畑に毒麦が混ざっていましたが、実は畑一面、怪しい毒麦ばかりなのです。こんな状態で、どれを引き抜くと言うのでしょう。
どれが毒麦でどれが良い麦か、それを判断して刈取るのは、私達の仕事では なく、メシヤが遣わした天使の仕事です。私達の信仰を最後に判断して、善悪を見極めるのは、神様がなさることです。神様の領域を人間が犯してはなりません。
それゆえパウロは「主が来られる時までは、先走って何も裁いてはいけません」と警告してします(1コリント4:5)。教会は終わりの日に、すべてを見極めて、正しく審判を下される神様に固く信頼します。終わりの日の神様の審きに信頼します。
では、教会で何が起きても、ただ終わりの日を待つことしか出来ないのか。そう ではありません。先程も言ったように、世にある教会は、常にサタンの誘惑にさら されていますが、教会にいるのは、神様から呼び集められた大切な一人一人です。
「これらの小さな者が1人でも滅ぶことは、あなたがたの天の父の御心ではない」とイエス様は断言し、続く箇所で「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って2人だけの所で忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言っています(マタイ18:14-15)。
教会の誰もが、神様にとって失われてはならない大切な宝物です。たとえ信仰の道を誤った人や、意見が合わない人がいたとしても、教会がすべきことは、彼らを早々と毒麦として取り除くことではありません。終わりの日の神様の審判、天使の刈入れに信頼する教会がすべきことは、裁くことではなくて、1人でも多くの人が悔い改めて、神様に立ち帰れるよう、とりなして祈ることです。
パウロは教会のことで労苦していましたが、復活の主が終わりの日に、すべてを正してくださる希望に立って、同じように労苦していたテモテに命じています。
「御言を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、 励ましなさい。忍耐強く充分に教えるのです」(2テモテ4:2)。
終わりの日が来るまで、絶えずとりなして祈ること。そして絶えず御言を語り、 忍耐強く教えることによって、教会は迷っている人たちを主にある兄弟姉妹として迎え入れることができます。教会にそんな力があるのかと侮ってはなりません。
教会は主イエス・キリストの体です。私達がガンコな毒麦だと百も承知の上で、それでも私達を愛して、私達を天の国の住まわせるために、命を献げてくださった イエス様が生きて教会におられます。イエス様こそ、神様の喜ばれる良い麦です。
イエス様は、毒麦ばかりのこの世界に、奇跡的に生まれた唯一つの良い麦です。
教会には、本物の良い麦、イエス様が生きて働いておられます。終わりの日まで休むことなく、イエス様は働き続けておられます。私達の罪の毒気をご自分の血で洗い清めて、私達を包みこみ、私達と1つになるためです。そして終わりの日に、 私達を毒麦ではなく良い麦として、神様の前に立たせてくださるためです。 「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」
(ローマ8:1)
死を復活の希望に変えたように、イエス様には、毒麦を良い麦に変える力があり ます。ご自分の中に留まる者たちを、終わりの日の審きから守る力があります。
だから今日もイエス様は、1人でも多くの人がイエス様につながって、良い麦に育つのを忍耐強く待っていてくださいます。刈入れはまだですが、刈入れに向けて、 着々と天の国では準備が進んでいます。終わりの日に、私達を失うまいと、神様はこの世界に良い麦イエス様を植えてくださいました。そのイエス様がおられる教会に招かれ、イエス様が私達の成長を待っていてくださる幸いに感謝しましょう。
15 per annum A
年間15主日 A 伊丹
【マタ13:1ー23種を蒔く人のたとえ】
最近見た新聞のマンガには、こういうストーリがありました。コボちゃん「鼻血が出たー」、お母さん「しばらくここをつまんでなさい」といって、その場を離れます。そこへお父さんが帰宅。コボちゃんが鼻をつまんでいるのを見てひと言。「そんなにくさいですか。すいませんね、エーエー飲んできましたよ」と。
おなじみの新聞の四コマ漫画です。四コマ漫画を読んでひとりで笑ってみたり、納得してみたり、よく考えられるものだと感心させられたり、楽しみにしているものの一つです。この日のお父さんは、酒を飲んで気分が大きくなって開き直っているのか、酒を飲んで帰宅すると、いつも何かを言われ、「意地悪な」ことをされているのか、ひがみっぽく子どものコボちゃんに絡んでいるようです。飲んで帰るといけないと自分でも思っているところがあり、ついついその心が表に出てしまうのでしょうか。そのような心の状態では、物事をまともに見、感じることは難しくなります。酔っているせいか、「斜め」に見えてきます。
最近新聞によく見かけることは、「自殺」をする人です。仕事上の悩み、この不景気による生きることへの失望感、マイナスのことを考えてしまうと、その中にはまり込み抜け道を見出せなかったといいます。家族の人もサインに気づかず、不幸な結果になりました。追い詰められると、孤独感、さらには孤立感へと誘導されていきます。自分でも何を考え、何をしようとしているのか判別がつかなくなるといわれます。仮に他者からの気遣い、応援があったとしても、かえってわずらわしくなってしまうのだそうです。
この「自意識」のないことが、本当はサインなのでしょうが、周囲の人には見えません。自分がどのような人なのかをしっかりと知ることは、情報交換、互いのコミュニケーションを持つために大切なことです。そこから新たな「自分」の発見ができるからです。
もっと正確に言うと、発見させていただくという心が尊いですね。イエスさまは、無駄だとわかっていても、人を差別することなく等しく同じことを伝えます。しかし、聞く側のわたしたちの状態によって、同じ質の話、会話も非常に変わってきます。
今日の福音はこのことをわたしたちに促します。まかれる種はみな同じです。種の威力が発揮されるのはよい土地に落ちたものだけです。「よい土地」の状態にいる人はそうそういるものではありません。よい土地にする仕方は知っていても、それを実践していない人がなんと多いことか。今「わたし」が信じている神を意識しましょう。そうすれば自分が見えてきます。究極的には神を相手にすることが「自意識」の芽生えの絶対的、確実な道なのです。そのために祈りのときを持つ、聖書を読み、現実の姿を神に訴え、最良の結果を希望するのです。そうできるようにも祈ります。神は悪がはびこることを望みませんが、存在することを受け止めています。であれば、人が悪から救われることをもっと望んでいるはずです。(第二朗読参照)
http://mr826.net/yz/seisyo_message/archives/message/2005/05-03/050710/
種には命があるということのが今日の話の大前提です。み言葉には命があるということが、イエスが言おうとしているメッセージです。
二千年の眠りから覚めた大賀ハスの話はご存知ですか。
大賀ハス(オオガハス、おおがはす)は、1951年(昭和26年)、千葉県で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)のこと。
大賀(おおが)一郎博士が発見したので、「蓮博士」と言われている。
エジプトのピラミッドの中で一つの壷が発見され、それがロンドンの博物館に飾られたが、掃除係りの人は落として壊してしまった。ところが中から何か小さいものが出てきたので鑑定に回した。それは小麦の種だった。何千年も前のものですっかり干(ひ)からびてはいたが、いのちがあったのです。蓮博士の話とよく似た話であるが、そういうように命があれば、それがどんなに古いものでも、そこから成長していく力を持っているのです。
聖書は二千年も前に書かれたものであると、昔話のように言う人がある。確かに聖書は二千年前のものです。だから、そのまま読んでいくと何も感じないと言っても無理のない話しです。二千年という時間や、日本とイスラエルという空間的隔たりがあるのに、いまここで起きていることのように読んでいくと、私たちの主観的な立場で曲解(きょっかい)することになりやすい。そういう意味では、聖書は確かに二千年前のもので、かびも生え、しわもあると思います。しかし問題はそこに生命があるかどうかということです。
種に命がなければ、水をやっても、肥料を施しても、そこからは何も成長してこない。イエスは「神の国」を語られるのに、種というものを繰り返し語られたのは、み言葉には命があるのだということであり、このことをまずしっかり覚えたいと思います。聖書の言葉には命がある。私たちがそれをしっかり受け止めていったならば、「み言葉には、あなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブ1・21)という言葉があるように、私たちの生活を変えてしまうような力が起きてくる。
マタイ福音書には、「悟る」という言葉がよく出てくるが、マルコ福音書には、これが「受ける、受け入れる」となっている。み言葉を受け入れることが悟るということである。私たちはそんなことは信じられないとか、そんなことをしていては大変だとか言って、常識によってみ言葉を軽く料理しやすいです。
み言葉によって私たちが料理されるのが、聖書の言う「受け入れる」ということです。これをしたらもうかるのにとか、これをしたら人から喝采(賞賛)を受けるのに、と思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないのが受け入れるということです。そういうふうに受けいらなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。種をどんなに観察してもそこから命を見ることはできない。命は受け入れたときに「ああ命があるんだ」ということを見ることができる。だから聖書の言葉がどんなにすばらしいものであるかは、ただ座って観察しているだけではわからない。聖書の知識はふえても、私と聖書のかかわりを見いだすことはできない。受け入れたとき、はじめて種の持っている命にふれることができるのです。
【マタ13:1ー23種を蒔く人のたとえ】
最近見た新聞のマンガには、こういうストーリがありました。コボちゃん「鼻血が出たー」、お母さん「しばらくここをつまんでなさい」といって、その場を離れます。そこへお父さんが帰宅。コボちゃんが鼻をつまんでいるのを見てひと言。「そんなにくさいですか。すいませんね、エーエー飲んできましたよ」と。
おなじみの新聞の四コマ漫画です。四コマ漫画を読んでひとりで笑ってみたり、納得してみたり、よく考えられるものだと感心させられたり、楽しみにしているものの一つです。この日のお父さんは、酒を飲んで気分が大きくなって開き直っているのか、酒を飲んで帰宅すると、いつも何かを言われ、「意地悪な」ことをされているのか、ひがみっぽく子どものコボちゃんに絡んでいるようです。飲んで帰るといけないと自分でも思っているところがあり、ついついその心が表に出てしまうのでしょうか。そのような心の状態では、物事をまともに見、感じることは難しくなります。酔っているせいか、「斜め」に見えてきます。
最近新聞によく見かけることは、「自殺」をする人です。仕事上の悩み、この不景気による生きることへの失望感、マイナスのことを考えてしまうと、その中にはまり込み抜け道を見出せなかったといいます。家族の人もサインに気づかず、不幸な結果になりました。追い詰められると、孤独感、さらには孤立感へと誘導されていきます。自分でも何を考え、何をしようとしているのか判別がつかなくなるといわれます。仮に他者からの気遣い、応援があったとしても、かえってわずらわしくなってしまうのだそうです。
この「自意識」のないことが、本当はサインなのでしょうが、周囲の人には見えません。自分がどのような人なのかをしっかりと知ることは、情報交換、互いのコミュニケーションを持つために大切なことです。そこから新たな「自分」の発見ができるからです。
もっと正確に言うと、発見させていただくという心が尊いですね。イエスさまは、無駄だとわかっていても、人を差別することなく等しく同じことを伝えます。しかし、聞く側のわたしたちの状態によって、同じ質の話、会話も非常に変わってきます。
今日の福音はこのことをわたしたちに促します。まかれる種はみな同じです。種の威力が発揮されるのはよい土地に落ちたものだけです。「よい土地」の状態にいる人はそうそういるものではありません。よい土地にする仕方は知っていても、それを実践していない人がなんと多いことか。今「わたし」が信じている神を意識しましょう。そうすれば自分が見えてきます。究極的には神を相手にすることが「自意識」の芽生えの絶対的、確実な道なのです。そのために祈りのときを持つ、聖書を読み、現実の姿を神に訴え、最良の結果を希望するのです。そうできるようにも祈ります。神は悪がはびこることを望みませんが、存在することを受け止めています。であれば、人が悪から救われることをもっと望んでいるはずです。(第二朗読参照)
http://mr826.net/yz/seisyo_message/archives/message/2005/05-03/050710/
種には命があるということのが今日の話の大前提です。み言葉には命があるということが、イエスが言おうとしているメッセージです。
二千年の眠りから覚めた大賀ハスの話はご存知ですか。
大賀ハス(オオガハス、おおがはす)は、1951年(昭和26年)、千葉県で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)のこと。
大賀(おおが)一郎博士が発見したので、「蓮博士」と言われている。
エジプトのピラミッドの中で一つの壷が発見され、それがロンドンの博物館に飾られたが、掃除係りの人は落として壊してしまった。ところが中から何か小さいものが出てきたので鑑定に回した。それは小麦の種だった。何千年も前のものですっかり干(ひ)からびてはいたが、いのちがあったのです。蓮博士の話とよく似た話であるが、そういうように命があれば、それがどんなに古いものでも、そこから成長していく力を持っているのです。
聖書は二千年も前に書かれたものであると、昔話のように言う人がある。確かに聖書は二千年前のものです。だから、そのまま読んでいくと何も感じないと言っても無理のない話しです。二千年という時間や、日本とイスラエルという空間的隔たりがあるのに、いまここで起きていることのように読んでいくと、私たちの主観的な立場で曲解(きょっかい)することになりやすい。そういう意味では、聖書は確かに二千年前のもので、かびも生え、しわもあると思います。しかし問題はそこに生命があるかどうかということです。
種に命がなければ、水をやっても、肥料を施しても、そこからは何も成長してこない。イエスは「神の国」を語られるのに、種というものを繰り返し語られたのは、み言葉には命があるのだということであり、このことをまずしっかり覚えたいと思います。聖書の言葉には命がある。私たちがそれをしっかり受け止めていったならば、「み言葉には、あなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブ1・21)という言葉があるように、私たちの生活を変えてしまうような力が起きてくる。
マタイ福音書には、「悟る」という言葉がよく出てくるが、マルコ福音書には、これが「受ける、受け入れる」となっている。み言葉を受け入れることが悟るということである。私たちはそんなことは信じられないとか、そんなことをしていては大変だとか言って、常識によってみ言葉を軽く料理しやすいです。
み言葉によって私たちが料理されるのが、聖書の言う「受け入れる」ということです。これをしたらもうかるのにとか、これをしたら人から喝采(賞賛)を受けるのに、と思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないのが受け入れるということです。そういうふうに受けいらなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。種をどんなに観察してもそこから命を見ることはできない。命は受け入れたときに「ああ命があるんだ」ということを見ることができる。だから聖書の言葉がどんなにすばらしいものであるかは、ただ座って観察しているだけではわからない。聖書の知識はふえても、私と聖書のかかわりを見いだすことはできない。受け入れたとき、はじめて種の持っている命にふれることができるのです。
12 per annum A
「イエスの仲間」
●聖書 マタイによる福音書10章32~33
「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」と主はおっしゃいました。
単に自分の心の中でイエスさまを信じているというだけではなく、人々の前で、イエスさまを信じていることを明らかにする。それが「イエスさまの仲間であると言い表す」ことです。そしてその人のことをイエスさまは、天の父なる神さまの前で、その人を自分の仲間であると言い表すとおっしゃいます。
迫害の時に主イエスを信じると告白する
イエスさまの仲間であることを表明するということは、そんなに難しいことには思えるときもあります。私自身のことを思い出します。高校生の頃、日曜日の朝どこに行っているのか、と友人に聞かれて、「教会に行っている」と言うことは、なるほど照れくさいことではありました。なぜ照れくさいかと言えば、私が教会に行っている、ということを言うと、「おお」というような、なんというか、ほめているのか馬鹿にしているのか分からないような反応が返ってくるからです。また中には、その後いろいろ尋ねてくる奴もいる。そういうことが面倒くさくて、「日曜日なにしている?」と聞かれて、「ちょっとね」と答えたこともあったように思います。しかしそれでも、もしこれが、「お前は、キリストの仲間か?」と聞かれたとしたら、「イヤ違う」とは答えなかったでしょう。その理由は、もちろんウソをつくことはいけないことだということもあるのですが、頭のどこかにきょうの御言葉があるからだと思います。‥‥「もし、自分がイエスさまの仲間ではないと言ったら、イエスさまも自分を知らないと言われる。そんなのはいやだ」‥‥そんな思いが、どこかにあるからだと思うのです。
もちろん、イエスさまの仲間であることを告白するということは、平時ならば、多少の照れくささ等があったとしても、何でもないことでしょう。しかし、これがもし、迫害の時代であったとしたらどうでしょうか? イエスを信じていることを告白することが、即迫害されることを意味する時代が現実にあったのです。そしてきょうの御言葉は、そういうことを想定して、言われている言葉なのです。
迫害というたいへん緊張した状態の中で、平時と同じように、やはり自分はイエスの仲間であることを言い表すことができるのか、ということです。やがて、ローマ帝国では、皇帝ネロや皇帝ドミティアヌス、あるいはディオクレティアヌスらがキリスト教会を迫害しました。その時、イエスさまを信じている、イエスさまの仲間であることを言い表すことによって、公職を追放されたり、だれも物を売ってくれなくなるという村八分にされたり、投獄されたり、あるいは見せしめとして競技場で猛獣によって食い殺されたり、首をはねられたりしました。すなわち、イエスの仲間であることを告白することが、死を意味する時代があったのです。そのような時にも、私たちは同じように主の仲間であることを言い表すことができるだろうか、あるいは、「イエスの仲間であるか?」と問われて、「そうです」と肯定することができるだろうか、ということです。
高山右近の答え
日本でも同じような時代がありました。戦国時代にキリスト教は急速に布教しましたが、秀吉が天下をほぼ手中に収めた時代になると、雲行きが怪しくなってきました。作家の浅田晃彦(あきひこ)さんの小説「高山右近」によると、秀吉はキリスト教そのものに危険を感じたと言うよりも、九州博多の地で、ポルトガルの船の大砲などの装備を見て、危機感を抱き、バテレン(宣教師)追放令を出します。宣教師は国外退去し、教会は破壊され、信徒は改宗を迫られることとなった。その時、秀吉に従って九州征伐(せいばつ)に同行していた、キリシタン大名高山右近も、キリスト教信仰を捨てることを迫られます。浅田晃彦さんによれば、右近への使者としてそれを伝えに来たのが、千利休でした。利休は秀吉からの伝言として、右近の領地没収と追放を伝えます。ただし、右近が改宗するならば、武士としての身分は保証し、佐々(ささ)成(なり)政(まさ)に仕えることを許すというものでした。
このとき高山右近は、利休に対してこのように答えたとあります。「そんな予感もしておりましたので、わたくしの回答は決まっております。キリシタンを邪教とは思っておりませんので、改宗のつもりはありませぬ。謹んで追放令をお受けいたします。」
こうして右近は、明石の領地を没収され、追放されます。そしてのちに、茶の湯の仲間であった、前田利家(としいえ)に迎えられることとなります。しかしその後、徳川家康の時代になってキリシタンたちは、さらに厳しい冬の時代を迎えることとなりました。その時には、ただキリシタンであるというだけで、死を強制されることになったのです。
弱い私たち
私たちが考えるのは、そのような時代になったとしても、同じように「イエスの仲間であるか?」と問われて、「はい、そうです」と答えることができるのかどうか、ということです。とても自信があるとは言えないのではないでしょうか。
そういうことが起こりうるということを前提にして、きょうのイエスさまの御言葉を読むと、これはまた何という厳しいお言葉なのだろうか、と思われます。思わず、「主よ」と叫びたくなってしまいます。「もしかしたら、自分のような弱い人間は、とても耐えられないかもしれない。主イエスを否認してしまうかもしれない‥‥」そんなことを考えざるを得ません。
イエスさまの弟子たちも弱かった
さて実は、私たちは聖書の中に、他にも弱い人々を見つけることができます。それは他でもない、このイエスさまのお話を目の前で聞いていた弟子たちです。そして、まさにこのときおっしゃったイエスさまの言葉のように、イエスの弟子でありながら、イエスさまのことを知らないと言った人がいるのです。それこそ、使徒ペトロです。
きょうの聖書の御言葉をペトロは確かに聞いておりました。しかし、やがて目の前で主イエスが逮捕され、「あなたもイエスの仲間だ」と問われたとき、「そんな人は知らない」と誓ったのです。ニワトリの鳴き声を聞いて、外に出て激しく泣いたのは、ペトロの自責の念からでしょう。自分の弱さに泣いたのです。
弱い者に教会を託された主
しかるにその後イエスさまは、十字架につけられ、墓の中に葬られ、そして三日目によみがえられましたが、その時イエスさまはどうなされたでしょうか?‥‥ペトロについて、「お前のような奴は知らん」と冷たくおっしゃったでしょうか? そう言われて当然です。ペトロには何の言い訳もできません。
ところが聖書を読むと、イエスさまがよみがえられた時、その復活のお姿を弟子たちの前に現されたのです。そしてヨハネ福音書20:19によれば、復活して弟子たちの前に姿を現された主イエスは、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったのです。続けて、「父が私をお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」とおっしゃいました。つまり、ご自分を見捨て、否認した弟子たちを、「お前たちのことを知らない」と言われたのではなく、反対に、この弱い弟子たちを福音宣教のため、イエスさまの代わりとして遣わすとおっしゃった。赦されたのです。そして、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」とおっしゃった。さらに、あのペトロに対しては、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃって、教会を託したのです。
あれだけ誓いながら、イエスのことを知らないと3度も人々の前で言ったペトロ。まさにきょうの聖書の個所で言えば、天の父の前で、イエスさまから「あなたなど知らない」と言われて当然なはずです。しかし主イエスは、ペトロの罪を赦したまいました。
意志の強い者が主イエスの弟子となっているのではない。意志も心も弱いが、赦されることのすばらしさを知っている者がイエスさまの弟子となっているのです。そして聖霊を受けているのです。19節に戻りますが、イエスさまのために総督や王たちの前に立たされたとき、何をどう言おうかと心配してはならないと主はおっしゃいます。その時、語るのはわたしたち自身ではなくて、私たちの中で語って下さる聖霊なのだと。
私たちは、赦されざる罪を赦してくださるイエスさま、そのイエスさまの愛を感謝します。そして、主の下さる聖霊にゆだねて、今日も明日も歩んでいくのです。
命を大切にすればこそ神を恐れる
主イエスは決して、「命を粗末にする」ことを教えておられるのではありません。キリストの福音のために命を率先して捨てなさい、とおっしゃっているのではない。むしろ、命を大切にするべきことを教えておられるのです。命を大切にしなければらないからこそ、神を恐れなさい、と述べておられるのです。神が命を与え、また命である魂を地獄で滅ぼすことのできる方だからだと。命を本当に大切にするからこそ、命を与えた神を恐れよ、とおっしゃるのです。
ところが神様は、ちゃんと知っておられる。それどころか、神様の許可がなければ、雀が地に落ちることもないというのです。世界中にいったいどれだけの数の雀がいるのでしょうか。その1羽1羽の雀を、神様は見守っておられ、助けておられるのです。驚くべきことです。何というすばらしい知恵でしょうか。しかも神様は、私たちの髪の毛も数まで知っておられる。私たちは自分の髪の毛の数を知っているでしょうか? 知らないと思います。これもすごいことです。
主イエスは決して、「命を粗末にする」ことを教えておられるのではありません。キリストの福音のために命を率先して捨てなさい、とおっしゃっているのではない。むしろ、命を大切にするべきことを教えておられるのです。命を大切にしなければらないからこそ、神を恐れなさい、と述べておられるのです。神が命を与え、また命である魂を地獄で滅ぼすことのできる方だからだと。命を本当に大切にするからこそ、命を与えた神を恐れよ、とおっしゃるのです。
ところが神様は、ちゃんと知っておられる。それどころか、神様の許可がなければ、雀が地に落ちることもないというのです。世界中にいったいどれだけの数の雀がいるのでしょうか。その1羽1羽の雀を、神様は見守っておられ、助けておられるのです。驚くべきことです。何というすばらしい知恵でしょうか。しかも神様は、私たちの髪の毛も数まで知っておられる。私たちは自分の髪の毛の数を知っているでしょうか? 知らないと思います。これもすごいことです。
主は私たちの弱さをご存じです。私たちの罪をご存じです。私たちの愚かさをご存じです。私たちが、主の十字架の愛に値しない人間であることをご存じです。しかしそれにもかかわらず、主はおっしゃるのです。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。そうおっしゃった主イエスは、そのお言葉の真実をあかしするために、私たちのために十字架へと上られ、私たちの命がいかに尊いものであるかを証明してくださったのです。感謝と言うより他にありません。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_home.htm
10 per annum A
年間10主日 A
【マタ9:9-13 マタイを弟子にする】
今日読まれた第1朗読のホセアは、私生活と預言者としての生活が見事に合致している預言者です。
というのも、ホセアは結婚していましたが、奥さんは、他の男性と関係を持ち続けます。こうして3人の子どもが生まれますが、誰の子どもか分かりません。そうした中で本当に苦しみます。しかし結局は妻と子どもを受け入れて生活します。
これがそのまま、祖国イスラエルへの預言活動となっていきます。当時イスラエルは、イスラエルの神を忘れ、土地の神、豊穣の神様、バアル神への礼拝へと傾いていました。つまり大きく言えば国全体が、神を裏切り、他の神々に仕えるという姦淫の罪を犯していたわけです。
そこでホセア(裏切りの妻を赦し、子どもを我が子として迎え入れたホセア)は、イスラエルの国に叫び続けるのです。他の神への偶像崇拝をやめ、イスラエルの神に立ち戻れと。
つまり妻に裏切られ、子供が実子か疑われ苦しむホセアは、自分の体験から、民の裏切りに同じように苦しむ神を見て取ります。そして民に回心を呼びかけるのです。ホセアは、自らの苦しみをとおして、神の苦しみを知り、そして人々への回心を呼びかける預言者となって働くのです。
イエス・キリストも同じようなところがあります。イエスは神の独り子ながら、まったく普通の人間になったのです。だから同じような人間としての弱さも限界も味わったのです。悪魔にも誘惑されました。飢えも乾きも感じました。神殿の腐敗には怒り、不幸な人を見れば腸が痛むほど苦しみ、友の死には泣きもしました。そして神から見捨てられる思いも味わいました。
ヘブライ書には次のように記されています。
「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです(ヘブ2:17f)」。
イエスは罪人ではありません。しかし罪の傾きを持つ弱い人間になったのです。だからこそ、まずもっとも人間としての弱さを持つ罪人のもとに行きます。病人のところに行きます。
徴税人はユダヤ人にとっては、自分たちを占領するローマのために、ユダヤ人から税を取り立て、また私腹を肥やす人間として軽べつされていました。しかしイエスはわざわざこのような罪人、汚れた人間とみなされている人の中から弟子を選び出しました。このようなことをなぜわざわざなさったのか。人間には理解できないことです。しかしイエスがこのような方であるので、私たちはますますそのようなものであるべきなのです。
「私に従いなさい」。罪人や病人を大切にしたイエスに従いなさい。今日の呼びかけは、罪人に話しかけられた言葉というよりも、まさに私たち自身に呼びかけた言葉として受け取るべきでしょう。
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今日はイエス様がマタイを弟子にする場面が読まれました。私たちはある意味で、聖書に慣れっこになってしまっていて、しかしそのために驚きと言うものを感じられなくなっていることがあります。今日の箇所も、本当に自分自身の今の生活に当てはめてみれば、わからなさに満ちた箇所だと思います。
公に知られている不正ばかりしてきた、その結果として金持ちとして知られている人を思い浮かべてみましょう。その人は、自分の国を裏切って、宗教も違う敵国のために働き、それで私腹を肥やしているのです。あらゆる点で、裏切り者としか思えないその悪人が、別に外面的に回心を表したわけでもなく、その同じ不正の仕事をしている、その場で、イエス様に呼びかけられたのです。それも共に食事をする。彼の仲間たちと一緒と言うわけです。
私たちが2000年前そこにいた普通のイスラエル人だとしたならば、この憎き人に対するイエスの態度を見てどう反応したでしょう。大体私たちは、自分の狭い見方でしか人を判断しません。自分より恵まれ、地位が高く、金持ちと見える人に対しては、いつもどこかで妬み、嫉妬する心が潜んでいます。だからイエス様に対しても、「金のあるものには何だかんだと言っても妥協してしまうのだ」。そう思って、裏切られたと疑いを抱くかもしれません。
しかしこう咎めた人々に対し、イエス様は言います。「医者を必要とするのは病人だ。私は正しい人でなく、罪人を招くために来た」。それはそうだけれど、しかしそれでイエスの行いに納得できる人は少ないと思います。
それでもイエス様はこういうことを行ったのです。イエス様はすべての人間の救いを願います。実際マタイはその後、イエス様の使徒として活躍したのですから、マタイがこのイエス様の呼びかけに対して、誠実に答え、回心して、歩みをしたことは確かでしょう。そのように決して今の生活で満足していない、神様に答えようとする心がマタイにはあると知っていたからこそ、イエス様は呼びかけたのでしょう。
神様の呼びかけと言うのは、このように時に人間の理解を超えることがあります。キリスト者を迫害していたパウロへの回心も、突然で、しかも強引なものでした。しかしパウロもそんな中から何が本当の神様の声かを聞き分け、逆にイエス様を命がけで伝える使徒に変わりました。パウロにも本当の神様に従うためなら、自分の地位を捨てても、そしてどんなに誤解される恐れがあっても、それでもかまわないと言う熱意があったからこそ、神様の介入も実を結び、迫害する側から宣教する側に変わったのでした。
このように神様の特別な呼びかけに答え、また続けて起こる出来事の中に神様の計らいを見て取って、ある人間が突然生き方を変える。そのようなことは、それ以後も今日にいたるまで歴史の中では、何度もありました。しかし神様の声を聞き分け、自分のそれまでのすべてを捨てても、神様に従って歩みたいという謙そんな心がなければ、そのような実は結ばなかったでしょう。もしもマタイが、パウロが、イエス様の呼びかけを謙虚に受け入れ、それによって自らが回心する心構えがなかったなら、呼びかけも無駄に終わったでしょう。しかしまた逆に、外面的にしか人のことを判断できない人間には、回心の余地などない非情な人間に思えても、実はその人が深く回心し、より完全な人間に変わることもありうるのです。
いつも神様の声を聞き分け、そして神様のみ旨が表れたと思える時に、それに従える心が持てるように。そして他人を表面で判断し裁くことのないように、誰に対しても愛することができる広い心が持てるように恵みをいただきましょう。
4 per annum A
幸せな人生の鍵 安食弘幸(61)
2017年1月23日14時19分 コラムニスト : 安食弘幸 印刷 Facebookでシェアする Twitterでシェアする 関連タグ:安食弘幸
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)
「世界の七不思議は何だと思いますか」と米国の小学校で生徒たちに問題が出されました。多くの生徒が書いたのが、1)エジプトのピラミッド、2)タージ・マハル、3)グランドキャニオン、4)パナマ運河、5)エンパイアステートビル、6)聖ペトロ大聖堂、7)万里の長城でした。
しかし、1人の少女は興味深いリストを作りました。「わたしの世界七不思議は、1)目が見えること、2)耳が聞こえること、3)手の感触、4)味覚、5)感情があること、6)覚えること、7)愛せることです」
この少女にとって、最も身近にある自分の能力が、不思議で仕方がなかったのです。
私たちは1回呼吸するたびに、それも神からの贈り物であり、私たちはこの一瞬も神によって生かされていることを感謝すべきなのです。しかし、物質的なことに心を奪われてしまうと、神の恵みに気付かないで過ごすことになるのです。
米国で60人以上の心理学者たちが数億円の予算を組んで、どうすれば人間性を向上させ、人が幸せになれるかを調査しました。その結果、自尊心、霊性、家族、良い結婚、友情などが幸せな人生への鍵であり、希望,生きがい、正しい目標を追い求めることも人に幸福感をもたらすという結果が出ました。
また、他人が幸せになるように手助けすることも、新しい人間関係、新しい希望を生み出し、幸福感を増すのです。そして何よりも感謝の心を持つことが、幸せな人生の大切な要素だと分かったのです。
日課のように頻繁に感謝する人は、より健康的で、ストレスも少なく楽観的で、他人を助ける傾向が強いのです。
「感謝の心」こそ、幸せな人生の鍵なのです。
1. 自分の存在を感謝する
雪の結晶を見ると感動します。決して偶然にできたものとは思えないほど美しいのです。誰かが模様や図案を考えたとしか思えません。雪の結晶は、天地創造の神によってデザインされたのです。
それと同時に私たち人間も、神によって選ばれて、愛されて、計画をもって創造されたのです。私たちは、神の創造の業の結果である自分の存在について、神に感謝をささげるのです。生きる力はそこから湧いて来るのです。
2. 感謝は最良の薬です
英国のジョン・ショウエット牧師は「感謝は、感染症を予防するワクチンであり、抗毒素であり、防腐剤だ」と言います。
つまり感謝は、不満が心に進入してくることを予防します。
感謝は皮肉、批判という毒の作用を抑える抗毒素です。また感謝は、弱った魂を癒やす防腐剤のようなものです。
3. 感謝はプライドを追い出します
心から感謝できる人は、高ぶったり、荒々しくなったり、神に対して逆らったりはしません。
神に感謝できる人は、傲慢(ごうまん)な心の罠から守られます。
4. どんな時にも感謝できます
感謝する生活が深まっていくと、人間性が成熟してきます。単に何か良きものに対して感謝できるだけではなく、乗り越えるべき障害や、その中で与えられた洞察や、新しく学ぶことができた体験や謙遜さが増したことや、苦難に耐える力がついたことや、他の人の気持ちが分かるようになったことなどを感謝できるようになるのです。
このように「感謝の心」は、私たちの人生を実に豊かに導いてくれるのです。
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3 per annum A
年間第3主日 A
【マタ4:12-23 イエスの活動開始】
イエスのこの世で生まれてから、30年が過ぎ、イエスの隠れた生活は終わり、やっと宣教活動が始まります。
宣教を開始するにあたって、イエスはまず自分の弟子を選ぶことになります。恐らくもうこの時には、イエスは自分の死や復活、その後はいっさいこの人たちにすべて任せることになる。そこまで考えていたのでしょう。
しかしこの弟子選びにも、神様の不思議が現れます。 雷の子らと呼ばれ、短気でおっちょこちょいの普通の性格で、特別に尊敬を受けているわけではない漁師の中から、まず弟子を選んだのです。
金持ちでも、尊敬されていた知識人でも、特別に性格が良いわけでもない。そのような人たちを神様は確かに選んだのです。神様のなさる業は、人間の常識的な考えを超えている。そのことを改めて思います。純朴で真っ白な子どもたちと違い、こういう人たちを教育することは、イエス様にとっても大変だったろうと思います。
人間の暗闇を照らす巨大な光
16節。「暗闇に住む民は大きな光を見」 「暗闇に住む」という言葉は、印象的です。「暗闇」は、「暗黒」とも訳すことができる。ギリシャ語では、「光が届かない」ところです。また、神さまから遮断されたという意味もあります。‥‥つまり、真っ暗闇のような絶望的な状態、神さまからかけ離れたと思われるような状態、喜びもなく感謝もない状態です。そしてそんなところに好き好んで住む人などいないはずですが、「住んでいる」。自分自身の力ではどうすることもできない状態です。八方ふさがりなのです。住みたいわけではないけれど、そんな絶望の中に住んでいる。あきらめです。
次の「死の陰の地」というのも悲惨です。死の陰さえ感じられる所です。夢も希望もなくなって、暗黒から抜け出せない、そればかりではなくもうあとは死を待つばかりだ。‥‥これ以上の絶望はない。全く無力です。
するとこうなります。‥‥「夢も希望も失い、神からも見離されたような暗黒の中から抜け出せないでいる人々が、巨大な光が昇ってくるのを見た」‥‥
希望の光の中を歩むためには?
そんなにすばらしい光、暗闇が暗闇でなくなり、死の陰さえ照らしてしまう巨大な光。そんな光がイエスさまです。
その光の中を歩むにはどうしたらよいのでしょうか。
そこでついにイエスさまの宣教の第一声が語られます。‥‥「悔い改めよ。天の国は近づいた」
いかがでしょうか。どこかで聞いたことのある言葉です。そうです。それは3:2で書かれている、洗礼者ヨハネが宣べ伝えた言葉と全く同じ言葉です。
何かがっかりしますか? ついにイエスさまの公式の、宣教の第一声が発せられた。私たちはマタイ福音書を読んできて、イエスさまの教えを宣べ伝える言葉の第一声を、固唾をのんで待ってきた。その言葉が、洗礼者ヨハネと全く同じだったのです。
しかし、私たちはここにある重大な真理を教えられるのです。‥‥それは私たちは、何か特殊な言葉によって救われるのではないということです。それは、たとえあまり変わり映えのしないような言葉であったとしても、もしそこに真理があるのなら、それが最もふさわしい言葉です。
ヨハネが言った言葉と、イエスさまが言った第一声の言葉は同じだった。‥‥それは言ってみれば、まさにそこに真理があるということです。
「悔い改めよ」‥‥すでに学んだように、これはまず自分の無力を知るということです。しかしきょうの所でいえば、「暗闇」の中に住んでいる人は、もうすでに自分の無力を知っているのです。ただ絶望があるのです。
そうすると、悔い改めのもう一つの意味、それは、「向きを変える」ということです。‥‥今まで暗闇ばかりを見てきた。絶望ばかりを見てきた。しかし今、昇ってきた巨大な光の方を向くのです。向きをそちらへ変えるのです。巨大な光を見るのです。
天国のほうから近づいてきた
「天国は近づいた」‥‥これはちょっとおもしろい言葉です。普通は「天国へ近づく」のではないでしょうか。‥‥「修行をして、天国に近づく」、「善人になるように努力をして天国に近づく」‥‥というふうに使う言葉です。
しかしここでは、天国のほうから私たちのほうへ近づいた、というのです。私が天国に近づくのではなく、天国のほうから私に近づいたのです。
聖書では、天国のほうから近づくのです。それはイエスさまのことです。天国の所有者がイエスさまだからです。
イエスさまという大きな光。もうどんな暗闇をも照らしてしまいます。希望が力強く与えられるのです。その、近づいてきた天国であるイエスさまの方を向く。
自分の弱さ、力のなさばかりを見つめたら、暗闇にしかなりません。顔の向きを変えて、イエスさまのほうを見るのです。そこに巨大な希望が与えられます。
さてこの有名なペトロの召命の出来事ですが、このマタイによる福音書を読むと、この時イエスさまは、初めてペトロにお会いになったかのように読めます。けれども、例えばヨハネによる福音書を読むと、この時よりも以前にペトロたちはイエスさまを知っていたかのように書いてあります。また、ルカによる福音書を読むと、ペトロが召命を受ける前に、イエスさまの言葉によって大量の魚が捕れたという奇跡の出来事があります。‥‥そうすると、ペトロたちは、この召命の言葉を受ける前にすでにイエスさまのことを知っていたということになります。
知っているということと、従っていくということは違う
しかし、マタイによる福音書はそういうことは省いています。ここに書かれているのは、イエスさまがガリラヤの海辺を歩いておられ、ペトロたちに出会う。そして、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」というこの召命の言葉をおかけになる。すると、彼らはすぐにイエスさまに従っていったという事実だけです。きわめて単純な事実だけを書いているのです。
このことは、とても大切なことではないでしょうか。‥‥すなわち、「イエスさまを知っている」ということと「イエスさまに従っていく」ということは違うということです。
ペトロたちは以前からイエスさまのことは知っていたでしょう。しかし、それはあくまでも「知っていた」ということに過ぎないのです。それは知識として知っていたということであって、信じてはいないのです。‥‥単に知識としてイエスを知っているというなら、クリスチャンでなくても良く知っている人はいます。‥‥クリスチャンではなくても聖書のこと、イエスについて詳しいという人は聖書学者ばかりではありません。ミッションスクールの生徒にも、知識として良く知っている学生はいるものです。 →知ってはいるけれども、それが単なる知識にとどまっている。‥‥この時のペトロやアンデレの状態です。そしてそれは私たち自身が生きていく上で直面していく問題です。
イエスさまの人選のふしぎ
主イエスは、最初の弟子として、漁師であったペトロとアンデレ、さらに同じく漁師であったヤコブとヨハネをお招きになりました。
これはまことに風変(ふうが)わりな招きと言わなくてはなりません。
なぜなら、この世のいったい誰が、大切な仕事を始めようとする時、イエスさまのような人選をなさるでありましょうか? 弟子と言えば、ご自分の事業をやがて継がせる存在です。
たとえば会社を興そうとするならば、あちこち調べたり面接して有能な人材を集め、また有名人を宣伝広告に使い、政財界の実力者に顔を売ってコネを作ることでしょう。
しかるに、イエスさまがなさろうとすることは、天国に人々を導こうとする大事業です。これ以上の大事業はないのです。‥‥ですからわたしたちが人間的に考えるには、最も有能な人、最も力がありそうな人、雄弁で、話をさせればたちどころに人を感銘させるような人、そして立派な人、その人を見れば誰もが「立派だ」と言い、感心して集まってくるような人を選ぼうとすることでしょう。ですから、そんなに大切な事業を始めるために人を集めるにあたっては、このような辺境の地であるガリラヤの海辺などではなく、首都であり大都会であるエルサレムの中心部に行って、顔の広い人に紹介してもらうか、各地の実力者に会って人を推薦してもらうかすることでしょう。
ところが、イエスさまはどうですか。最も偉大な神の国の住民として、そしてその働き人として選んだのは、このペトロやヤコブのような人たちでした。
彼らはまず、全く無名の人です。この世の地位も力も財産もありません。全くの庶民です。コネもないのです。
そして彼らは漁師でした。雄弁どころか、人にものを話すということにおいてはどちらかと言えば苦手な人たちでしょう。
ではせめて人格は優れていたかというと、それもまた違うのです。‥‥ペトロは、やがてイエスさまが十字架にかけられるために逮捕されるというときに、こともあろうに、自分も捕まるのではないかと恐れて、師であるイエスさまなど知らないと言って、裏切って見捨てた男です。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちを押しのけてでも神の国で高い位につこうと思った人たちです。‥‥つまり彼らは、人格的に優れていたわけでもない。むしろ、人間として弱い面をもった、また特にペトロはおっちょこちょいのどこか間が抜けたような男でした。
このようにしてみると、イエスさまは、いったい何を考えてこのような人選をなさったのか、全く理解できないのです。この世の目で見れば、どう見てもこれはミスキャストとしか言いようがない。
いったいどうしてイエスさまは、こんなに見栄えのしない人たちを第一に弟子としてお選びになったのか???
この私も招いてくださる
しかしこの問いは、まさにわたしにとっても自分自身への問いでもありました。‥‥つまり、「いったいどうして主は、わたしのような者を招かれたのか?」と。
この問いは、特にわたしが、宣教師の道を歩んで行くに連れてますます謎になります。‥‥失敗だらけです。神さまのために働こうと思うのに、実際は神さまの邪魔ばかりしているように思われて仕方がない。自分の無力を思い知らされます。‥‥そうすると、ますます「いったい主はどうして、こんなわたしのような者を招かれたのか?」と不思議でならないのです。「もっと他に、適当な人はたくさんいるではないか?」と。
もうただ、「自分にできることは、イエスさまにすがることだけです。それしか取り柄(とりえ)がない」としか言いようがなくなる。
それで思うのです。‥‥ペトロたちも同じだったのではないか。
なぜイエスさまはペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネをお選びになったのか。またイエスさまはなぜ、まずわたしたちをここに導いたのか。わたしたちの考えでは全く理解できない。
しかし、イエスさまには理由があったのです。なぜかそれははかりがたいことではあるけれど、地位も力もないし、欠けた所の多いペトロやこの人たちではならなかったという理由が。‥‥この時、ガリラヤ湖の岸辺には、他にも多くの人々がいたはずです。他にも多くの漁師がいたし、その付近には多くの人が生活をしていた。しかし主イエスは、今日ここに書かれた人たちに目を留め、お招きになった。
その理由は、イエスさまではなくては分からないことです。
そしてわたしたちは、それをもって満足すべきなのです。‥‥理由は分からない。しかしとにかく、主はこの弱いわたしたちに目を留められた、ということです。愛されているのです。
あなたはどうする?
希望する高校や大学に入ろうと思えば、勉強して試験にパスしなければならない。試験に落ちれば、どんなに入りたくても門はその人に閉ざされます。学校だけではない。会社もそうだし、この世の人生はすべてそういうものかも知れない。
しかし少なくとも、イエスさまは違います。神の国の門は、イエスさまによって誰にでも開かれている。この世の目から見れば、何の取り柄もないと言われるような者が、尊い者として映るのです。
なぜペトロたちはイエスさまにすぐに従ったのか、しかも漁師にとって命でもあった網と船を捨ててまで‥‥?‥‥しかし、聖書にはその理由まで書いてありません。もちろん、ペトロにも、アンデレにも、心を動かされる思いがそこにあったことだろうとは思います。けれども、聖書には彼らが従っていった理由まで書いてありません。
→ですから、私たちはその理由まで詮索しては聖書を読み間違えるのです。聖書が問いかけているのは、「あなたはどうなのか?」ということです。‥‥私たちはすぐに人のことを詮索したがるのです。「ペトロは何で網まで捨ててイエスさまに従ったのだろう?」「ヤコブとヨハネは、お父さんまでおいて、何を考えていたのだろう?」‥‥しかし、聖書がそういうことを書いていないのは、これを読んでいる私たちに語りかけているのです。「イエスさまの招きの声を今聞いたあなたはどうするのか?」と。教会(例えば、園田教会)に行くとこの人はなぜ信者になったのか。詮索したくなるのです。ところが、そういうことで勘違いして、一番肝心なことを見過ごしてしまいます。
「わたしについてきなさい」という言葉は、原文を見ますと、このようにも訳すことができます=「さあ、わたしのあとに!」
ですから、イエスさまに従うということは、イエスさまの先回りをしてイエスさまが頼みもしないのに勝手に良かれと思ったことをする、ということではありません。イエスさまの後について行くことです。
主イエスが責任をとってくださる
「さあ!わたしのあとに!」と言われるイエスさまの後について行くことです。自分が先頭に立つのではない。イエスさまが先頭に立っていってくださる。雨あられが降ろうとも、イエスさまが盾となってくださる。落とし穴があろうとも、危険が待ち受けていようとも、イエスさまが先頭です。イエスさまが責任をとってくださる。だから私たちも安心してついていくことができるのです。
【マタ4:12-23 イエスの活動開始】
イエスのこの世で生まれてから、30年が過ぎ、イエスの隠れた生活は終わり、やっと宣教活動が始まります。
宣教を開始するにあたって、イエスはまず自分の弟子を選ぶことになります。恐らくもうこの時には、イエスは自分の死や復活、その後はいっさいこの人たちにすべて任せることになる。そこまで考えていたのでしょう。
しかしこの弟子選びにも、神様の不思議が現れます。 雷の子らと呼ばれ、短気でおっちょこちょいの普通の性格で、特別に尊敬を受けているわけではない漁師の中から、まず弟子を選んだのです。
金持ちでも、尊敬されていた知識人でも、特別に性格が良いわけでもない。そのような人たちを神様は確かに選んだのです。神様のなさる業は、人間の常識的な考えを超えている。そのことを改めて思います。純朴で真っ白な子どもたちと違い、こういう人たちを教育することは、イエス様にとっても大変だったろうと思います。
人間の暗闇を照らす巨大な光
16節。「暗闇に住む民は大きな光を見」 「暗闇に住む」という言葉は、印象的です。「暗闇」は、「暗黒」とも訳すことができる。ギリシャ語では、「光が届かない」ところです。また、神さまから遮断されたという意味もあります。‥‥つまり、真っ暗闇のような絶望的な状態、神さまからかけ離れたと思われるような状態、喜びもなく感謝もない状態です。そしてそんなところに好き好んで住む人などいないはずですが、「住んでいる」。自分自身の力ではどうすることもできない状態です。八方ふさがりなのです。住みたいわけではないけれど、そんな絶望の中に住んでいる。あきらめです。
次の「死の陰の地」というのも悲惨です。死の陰さえ感じられる所です。夢も希望もなくなって、暗黒から抜け出せない、そればかりではなくもうあとは死を待つばかりだ。‥‥これ以上の絶望はない。全く無力です。
するとこうなります。‥‥「夢も希望も失い、神からも見離されたような暗黒の中から抜け出せないでいる人々が、巨大な光が昇ってくるのを見た」‥‥
希望の光の中を歩むためには?
そんなにすばらしい光、暗闇が暗闇でなくなり、死の陰さえ照らしてしまう巨大な光。そんな光がイエスさまです。
その光の中を歩むにはどうしたらよいのでしょうか。
そこでついにイエスさまの宣教の第一声が語られます。‥‥「悔い改めよ。天の国は近づいた」
いかがでしょうか。どこかで聞いたことのある言葉です。そうです。それは3:2で書かれている、洗礼者ヨハネが宣べ伝えた言葉と全く同じ言葉です。
何かがっかりしますか? ついにイエスさまの公式の、宣教の第一声が発せられた。私たちはマタイ福音書を読んできて、イエスさまの教えを宣べ伝える言葉の第一声を、固唾をのんで待ってきた。その言葉が、洗礼者ヨハネと全く同じだったのです。
しかし、私たちはここにある重大な真理を教えられるのです。‥‥それは私たちは、何か特殊な言葉によって救われるのではないということです。それは、たとえあまり変わり映えのしないような言葉であったとしても、もしそこに真理があるのなら、それが最もふさわしい言葉です。
ヨハネが言った言葉と、イエスさまが言った第一声の言葉は同じだった。‥‥それは言ってみれば、まさにそこに真理があるということです。
「悔い改めよ」‥‥すでに学んだように、これはまず自分の無力を知るということです。しかしきょうの所でいえば、「暗闇」の中に住んでいる人は、もうすでに自分の無力を知っているのです。ただ絶望があるのです。
そうすると、悔い改めのもう一つの意味、それは、「向きを変える」ということです。‥‥今まで暗闇ばかりを見てきた。絶望ばかりを見てきた。しかし今、昇ってきた巨大な光の方を向くのです。向きをそちらへ変えるのです。巨大な光を見るのです。
天国のほうから近づいてきた
「天国は近づいた」‥‥これはちょっとおもしろい言葉です。普通は「天国へ近づく」のではないでしょうか。‥‥「修行をして、天国に近づく」、「善人になるように努力をして天国に近づく」‥‥というふうに使う言葉です。
しかしここでは、天国のほうから私たちのほうへ近づいた、というのです。私が天国に近づくのではなく、天国のほうから私に近づいたのです。
聖書では、天国のほうから近づくのです。それはイエスさまのことです。天国の所有者がイエスさまだからです。
イエスさまという大きな光。もうどんな暗闇をも照らしてしまいます。希望が力強く与えられるのです。その、近づいてきた天国であるイエスさまの方を向く。
自分の弱さ、力のなさばかりを見つめたら、暗闇にしかなりません。顔の向きを変えて、イエスさまのほうを見るのです。そこに巨大な希望が与えられます。
さてこの有名なペトロの召命の出来事ですが、このマタイによる福音書を読むと、この時イエスさまは、初めてペトロにお会いになったかのように読めます。けれども、例えばヨハネによる福音書を読むと、この時よりも以前にペトロたちはイエスさまを知っていたかのように書いてあります。また、ルカによる福音書を読むと、ペトロが召命を受ける前に、イエスさまの言葉によって大量の魚が捕れたという奇跡の出来事があります。‥‥そうすると、ペトロたちは、この召命の言葉を受ける前にすでにイエスさまのことを知っていたということになります。
知っているということと、従っていくということは違う
しかし、マタイによる福音書はそういうことは省いています。ここに書かれているのは、イエスさまがガリラヤの海辺を歩いておられ、ペトロたちに出会う。そして、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」というこの召命の言葉をおかけになる。すると、彼らはすぐにイエスさまに従っていったという事実だけです。きわめて単純な事実だけを書いているのです。
このことは、とても大切なことではないでしょうか。‥‥すなわち、「イエスさまを知っている」ということと「イエスさまに従っていく」ということは違うということです。
ペトロたちは以前からイエスさまのことは知っていたでしょう。しかし、それはあくまでも「知っていた」ということに過ぎないのです。それは知識として知っていたということであって、信じてはいないのです。‥‥単に知識としてイエスを知っているというなら、クリスチャンでなくても良く知っている人はいます。‥‥クリスチャンではなくても聖書のこと、イエスについて詳しいという人は聖書学者ばかりではありません。ミッションスクールの生徒にも、知識として良く知っている学生はいるものです。 →知ってはいるけれども、それが単なる知識にとどまっている。‥‥この時のペトロやアンデレの状態です。そしてそれは私たち自身が生きていく上で直面していく問題です。
イエスさまの人選のふしぎ
主イエスは、最初の弟子として、漁師であったペトロとアンデレ、さらに同じく漁師であったヤコブとヨハネをお招きになりました。
これはまことに風変(ふうが)わりな招きと言わなくてはなりません。
なぜなら、この世のいったい誰が、大切な仕事を始めようとする時、イエスさまのような人選をなさるでありましょうか? 弟子と言えば、ご自分の事業をやがて継がせる存在です。
たとえば会社を興そうとするならば、あちこち調べたり面接して有能な人材を集め、また有名人を宣伝広告に使い、政財界の実力者に顔を売ってコネを作ることでしょう。
しかるに、イエスさまがなさろうとすることは、天国に人々を導こうとする大事業です。これ以上の大事業はないのです。‥‥ですからわたしたちが人間的に考えるには、最も有能な人、最も力がありそうな人、雄弁で、話をさせればたちどころに人を感銘させるような人、そして立派な人、その人を見れば誰もが「立派だ」と言い、感心して集まってくるような人を選ぼうとすることでしょう。ですから、そんなに大切な事業を始めるために人を集めるにあたっては、このような辺境の地であるガリラヤの海辺などではなく、首都であり大都会であるエルサレムの中心部に行って、顔の広い人に紹介してもらうか、各地の実力者に会って人を推薦してもらうかすることでしょう。
ところが、イエスさまはどうですか。最も偉大な神の国の住民として、そしてその働き人として選んだのは、このペトロやヤコブのような人たちでした。
彼らはまず、全く無名の人です。この世の地位も力も財産もありません。全くの庶民です。コネもないのです。
そして彼らは漁師でした。雄弁どころか、人にものを話すということにおいてはどちらかと言えば苦手な人たちでしょう。
ではせめて人格は優れていたかというと、それもまた違うのです。‥‥ペトロは、やがてイエスさまが十字架にかけられるために逮捕されるというときに、こともあろうに、自分も捕まるのではないかと恐れて、師であるイエスさまなど知らないと言って、裏切って見捨てた男です。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちを押しのけてでも神の国で高い位につこうと思った人たちです。‥‥つまり彼らは、人格的に優れていたわけでもない。むしろ、人間として弱い面をもった、また特にペトロはおっちょこちょいのどこか間が抜けたような男でした。
このようにしてみると、イエスさまは、いったい何を考えてこのような人選をなさったのか、全く理解できないのです。この世の目で見れば、どう見てもこれはミスキャストとしか言いようがない。
いったいどうしてイエスさまは、こんなに見栄えのしない人たちを第一に弟子としてお選びになったのか???
この私も招いてくださる
しかしこの問いは、まさにわたしにとっても自分自身への問いでもありました。‥‥つまり、「いったいどうして主は、わたしのような者を招かれたのか?」と。
この問いは、特にわたしが、宣教師の道を歩んで行くに連れてますます謎になります。‥‥失敗だらけです。神さまのために働こうと思うのに、実際は神さまの邪魔ばかりしているように思われて仕方がない。自分の無力を思い知らされます。‥‥そうすると、ますます「いったい主はどうして、こんなわたしのような者を招かれたのか?」と不思議でならないのです。「もっと他に、適当な人はたくさんいるではないか?」と。
もうただ、「自分にできることは、イエスさまにすがることだけです。それしか取り柄(とりえ)がない」としか言いようがなくなる。
それで思うのです。‥‥ペトロたちも同じだったのではないか。
なぜイエスさまはペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネをお選びになったのか。またイエスさまはなぜ、まずわたしたちをここに導いたのか。わたしたちの考えでは全く理解できない。
しかし、イエスさまには理由があったのです。なぜかそれははかりがたいことではあるけれど、地位も力もないし、欠けた所の多いペトロやこの人たちではならなかったという理由が。‥‥この時、ガリラヤ湖の岸辺には、他にも多くの人々がいたはずです。他にも多くの漁師がいたし、その付近には多くの人が生活をしていた。しかし主イエスは、今日ここに書かれた人たちに目を留め、お招きになった。
その理由は、イエスさまではなくては分からないことです。
そしてわたしたちは、それをもって満足すべきなのです。‥‥理由は分からない。しかしとにかく、主はこの弱いわたしたちに目を留められた、ということです。愛されているのです。
あなたはどうする?
希望する高校や大学に入ろうと思えば、勉強して試験にパスしなければならない。試験に落ちれば、どんなに入りたくても門はその人に閉ざされます。学校だけではない。会社もそうだし、この世の人生はすべてそういうものかも知れない。
しかし少なくとも、イエスさまは違います。神の国の門は、イエスさまによって誰にでも開かれている。この世の目から見れば、何の取り柄もないと言われるような者が、尊い者として映るのです。
なぜペトロたちはイエスさまにすぐに従ったのか、しかも漁師にとって命でもあった網と船を捨ててまで‥‥?‥‥しかし、聖書にはその理由まで書いてありません。もちろん、ペトロにも、アンデレにも、心を動かされる思いがそこにあったことだろうとは思います。けれども、聖書には彼らが従っていった理由まで書いてありません。
→ですから、私たちはその理由まで詮索しては聖書を読み間違えるのです。聖書が問いかけているのは、「あなたはどうなのか?」ということです。‥‥私たちはすぐに人のことを詮索したがるのです。「ペトロは何で網まで捨ててイエスさまに従ったのだろう?」「ヤコブとヨハネは、お父さんまでおいて、何を考えていたのだろう?」‥‥しかし、聖書がそういうことを書いていないのは、これを読んでいる私たちに語りかけているのです。「イエスさまの招きの声を今聞いたあなたはどうするのか?」と。教会(例えば、園田教会)に行くとこの人はなぜ信者になったのか。詮索したくなるのです。ところが、そういうことで勘違いして、一番肝心なことを見過ごしてしまいます。
「わたしについてきなさい」という言葉は、原文を見ますと、このようにも訳すことができます=「さあ、わたしのあとに!」
ですから、イエスさまに従うということは、イエスさまの先回りをしてイエスさまが頼みもしないのに勝手に良かれと思ったことをする、ということではありません。イエスさまの後について行くことです。
主イエスが責任をとってくださる
「さあ!わたしのあとに!」と言われるイエスさまの後について行くことです。自分が先頭に立つのではない。イエスさまが先頭に立っていってくださる。雨あられが降ろうとも、イエスさまが盾となってくださる。落とし穴があろうとも、危険が待ち受けていようとも、イエスさまが先頭です。イエスさまが責任をとってくださる。だから私たちも安心してついていくことができるのです。
2 per annum A
年間第二主日 A
(ヨハネ1・29-34)
「神の小羊-人類を救う偉大な方」
表面的に見れば、私たち人間は、砂粒のような小さな小さな存在です。満員電車の中で、もみくちゃにされ、職場では組織の一員となって働く姿からは、一人ひとりのかけがえのない価値は伝わってまいりません。会社などでは、だれかがいなくなれば、別のだれかがその役割を引き継いでしまっています。人間の尊厳と神秘を無視してしまっています。それが現代社会の恐ろしさです。 しかし、信仰の光で見れば、どんな 〈生まれ〉の人間であれ、すべての人間は、かけがえのない存在として神から生命を与えられ、その人にしかできない固有の役割を与えられて生かされています。一人ひとりの人生の絶対的な意義を理解するためには、人間の常識とは異なる、神の光に照らされた量りが必要です。
きょうの福音書の洗礼者ヨハネの言葉も、そのような視点からとらえるべきことのように思えます。
ヨハネは、自分の方に近づいてこられるイエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊を」と叫びます。しかし、この言葉を聞いた周りの者はびっくりしたに違いありません。イエスは、まだ、そのとき、説教や奇跡など、公の活動は何一つしておりません。全く無名の人です。人々の目にはナザレの村の平凡な男としてしか映っていなかったはずです。しかし、ヨハネは、何の変哲もない人間としての生活の奥に、神からゆだねられた神秘が現存していることを指摘したのです。
「神の小羊」という言葉は、イザヤ書五十三章の、人々の救いのために屠所に引きずられていく小羊を思い起こさせるものです。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。…屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。事実、イエスは、いけにえの小羊として、十字架の上で流された血によって、全世界の人々を救っていくのです(ヨハネ19・36)。
家柄、学歴、職歴、家族や職場での目に見える貢献度という常識的な評価基準にとどまる限り、十字架の死で終わるイエスの人生は、嫌悪すべきことであり、否定的にしか受け取れないでしょう。しかし、神の光の中で見るならば、人類を救うという偉大な力に包まれています。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」が新しい評価基準です。 「見よ、神の小羊を」という洗礼者ヨハネの呼び掛けは、人となられたイエスの神秘だけではなく、神の手の中にある私たち一人ひとりの人生にも、深い神秘と限りない意味があることを示す、呼び掛けでもあったのです。(みことばの調べ)
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