寒天に暖景なくば 梅麦なにをもって花を生ぜん
「冬天暖景」 総本山金剛峯寺座主 高野山真言宗管長 松長有慶猊下
(前文省略
「冬天(とうてん)に暖景(だんけい)なくば、梅麦(ばいばく)なにをもってか花を生ぜん」。
これはお大師さまが奈良の元興寺の僧、中璟(ちゅうけい)の罪を赦しを乞い、朝廷に提出し
た文の一節です。
冬の厳しい寒さの中でも、わずかに暖かい光が差し掛けるからこそ、春になれば美しい花
も咲くのです。
このようなお大師さまの温かいお言葉に接すると、他の人を責めることだけに血道を挙げ
金岡秀友 これは奈良元興寺の中璟が戒を持さず、宮中の一女官と不義をした時、空海が嵯峨天皇に少し違う種類の例文としては坳「元興寺の僧中璟が罪を赦されんことを請う表」がある。行の入国を許すのである。家であることを知り、代筆を頼む。そして空海の ...
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2007-02-18 08:24:34
カテゴリー: Weblog
年間第7主日C
【ルカ6:27-38 敵を愛せ】
主の祈りをとなえるたびに思うことは、「われらに罪を犯すものを赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という言葉の鋭さです。これは私たちの実存に深くメスを入れてくる主の言葉です。赦せないという気持ちをどこかで曖昧にしてごまかそうとしている私たちに、それは真正面から挑んでくる言葉でもあります。人間に自らの罪の姿、自分は赦されたいのに人は赦そうとしない自分勝手な罪の姿をつきつけてくる言葉なのです。しかしこの祈りがなければ主の祈りもこれほどの深みを持たなかったのではないかと思われる言葉でもあります。
2002年「世界平和の日」教皇メッセージ 正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません
1.ことしの「世界平和の日」は、あの9月11日の悲惨な出来事が投げかけた、暗い影のうちに迎えることになってしまいました。あの日、恐ろしい犯罪が発生しました。ほんの短い時間の間に、(...)数千人の罪もない人々が殺りくされたのです。それ以来、世界中の人々が(..)将来への新たな恐れを抱くようになってしまいました。このような状態が広がる中にあっても、教会は希望をあかししようとしています。それは、よこしまな悪が、人間世界において最高権威をもっているはずがないことを確信しているからです。(…)
これは教会が2002年の初めに抱いている希望です。悪の力がまたしても優位に立っているように思える世界が、神の恵みによって人間の最も高貴な望みがかなえられ、真の平和が勝利する世界へと本当につくり変えられることへの願いです。 (…)
教皇がご自分の青年時代を思い起こしながらこう続けます。
ナチスと共産主義の独裁体制によって引き起こされた、民族や個人が経験したとてつもない苦しみが―その中にはわたし自身の友人や知人も少なからず含まれていましたが―わたしの思いや祈りから離れたことはひとときもありません。わたしはしばしば、絶えることのない疑問に思いをめぐらしてきました。これほどまでに恐ろしい暴力に襲われているときに、どのようにして道徳的、社会的秩序を回復することができるのでしょうか? 省察と聖書の啓示によって次第に得られたわたしの確信は、破壊された秩序を完全に回復できるのは、ゆるしを伴った正義による応答だけだということです。
真の平和の柱は、正義と、その愛の形であるゆるしです。
3.しかし現在のような状況の中で、どのようにして、正義とゆるしが平和の源であり条件だと言うことができるでしょうか? このことがいかに困難であろうとも、そしてこの困難が正義とゆるしが両立し得ないと考えてしまう傾きからくるにしても、わたしたちにはそれができるし、そうしなければならない、というのがわたしの答えです。ゆるしは怒りや復讐とは対立するものですが、正義と対立するものではありません。実に、「正義が造り出すものは」(イザヤ32・17)真の平和なのです。(…)1500年以上もの間、カトリック教会は、このことについて聖アウグスチヌスの教えを繰り返してきました。聖人がわたしたちに思い起こさせてくれるのは、この世界で築き上げることが可能で、また築き上げなければならない、正しい秩序のある平和、すなわち、tranquillitas ordinis、秩序の静けさ(安定、安泰)(『神の国』19巻13章参照)です。
ですから、真の平和は、正義の実りである。(…)しかし人間による正義は、いつももろく不完全で、個人やグループの持つ限界や利己主義にさらされるために、乱された人間関係をその基礎からいやし、再構築するゆるしによって、強められ、ある意味では補完されなければなりません。こうしたことは、個人またはより広いレベルで、また国際社会の規模にまでいたる状況においても言えることです。ゆるしは決して正義と対立するものではありません。ゆるすことは、損なわれた秩序を回復する当然の必要を見過ごすことを意味しないからです。ゆるしはかえって、秩序の静けさへと続く正義に満ちた状態へ向かっています。その静けさは、もろく一時的な敵意の中断ではなく、人の心の底を流れている深い傷をいやすものです。このようないやしには、正義とゆるしがともに欠けてはならないのです。
このような平和がもつ二つの側面を、このメッセージで考えていきたいと思います。(…)
テロ行為の実体4.
正義とゆるしに基づくはずの平和そのものが今、国際テロの攻撃を受けています。(…)
5.ですから、テロ行為に対する自衛権が存在するのです。それはいつも、目的と手段の選択において、人道的かつ法的制限を尊重しつつ行使されねばならない権利です。犯人の特定は正しく行われねばなりません。犯罪の責任はいつも個人的なものであり、テロリストが属する国家や民族グループ、または宗教にまで拡大されるようなことがあってはなりません。またテロ活動に対抗するための国際的協力は、特に政治的、そして外交的、経済的努力をも要し、テロリストたちの企みを加速させる抑圧や疎外といった状況を解決するための勇気と決意を伴わねばなりません。テロリストを募ることは実際、権利が踏みにじられ、不正義が長い間まかり通ってきたような状況では、比較的容易になります。
それでも、はっきりと強調しなければならないのは、世界に存在する不正義をテロ行為の言い訳に使ってはならないということです。さらには、テロ行為が狙っている秩序の根底からの破壊で犠牲になるのは、だれよりも、国際的連帯の崩壊に持ちこたえられるだけの蓄えがない、数え切れないほどの人々なのです。わたしが言っているのは、発展途上にある地域に住み、すでに生きていくのがやっとの状態で暮らしていて、世界規模の経済的、そして政治的混乱で最も悲惨な影響をこうむることになる人々のことです。貧しい人々のための行動だとするテロリストたちの主張は、明らかな偽りです。
神の名により殺してはならない!6.テロ行為によって人を殺す人たちは、人類に対するさげすみの感情を増殖させ、いのちと未来に対する絶望感を明らかに示しています。(…)テロ行為は、ただ人々を道具にしてしまうだけでなく、神をも道具として、自分たちの目的のために偶像にまでおとしめています。
7.ですから、いかなる宗教指導者も、テロ行為に寛容な姿勢を示すことはできず、ましてやそれを推奨することなどあり得ません。神の名によって自らをテロリストと宣言することは、宗教を冒涜する行為です。テロによる暴力は、人を創造し、人をいつくしみ、愛してくださる神への信仰と矛盾するものです。そして特に、弟子たちに「わたしたちの負い目をゆるしてください、わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたように」(マタイ6・12)と祈るよう教えられた主イエス・キリストへの信仰に反するものです。
イエスの教えと模範に倣い、キリスト者は、あわれみ深い者となることが、わたしたちのいのちの真理を完全に生きることを意味していると確信しています。わたしたちは、あわれみ深い者になることができますし、またそうならなければなりません。(…)
ゆるしの必要8.
しかし具体的には、ゆるすとは何を意味するのでしょうか? そしてなぜゆるすのでしょうか? ゆるしについて省みるとき、こうした問いを避けることはできません。ここで、1997年の世界平和の日のメッセージ(「どうかゆるし合ってください、そして平和を手にしてください」)でわたしが書いたことに立ち返り、再確認したいことは、ゆるしは社会で現実となる前に、人々の心のうちに生まれるものだということです。倫理とゆるしの文化が保障されて初めて、「ゆるしの政治」にも期待できるようになるのであって、それは社会の姿勢や法制に表れ、それによって正義が人間らしい表情を見せるようになるのです。
実際、ゆるしは何よりも個人的な選択であり、感情のおもむくままに悪に対して悪をもって返そうとする傾きに対する心の決断でもあります。この決断の基準は、神の愛に置かれています。神はわたしたちの罪にもかかわらず、わたしたちを受け入れてくださいます。それは、キリストが十字架上で、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)と祈られた、至高なるゆるしの模範に示されています。
ですから、ゆるしは神からのもので、神の尺度によるものです。これは、その意味が人間の理性に基づく考察に照らすことで理解し得ないということではありません。そしてなによりもまず、人間が過ちを犯したその経験にかかわることなのです。そこで、人は自らの弱さに気づき、他の人から寛容に接してもらうことを望むようになるのです。それではなぜ、他の人を自分がしてもらいたいように扱わないのでしょうか? すべての人がその内面に、いのちの道へと立ち返り、自らが犯した過ちや罪に囚われた状態から永遠に解放されたいという望みを抱いています。彼らは皆、あらためて未来に目を向け、信頼と責任を伴う新しい展望を見いだしたいと願っています。
9.人による行いという意味では、ゆるしは何よりも、隣人との関係において、個人の心から自発的に出てくるものです。しかしながら人は、本質的に社会的側面をもっていますので、このことによって社会的な関係が組織化され、その中で個人が表現されることになります。それはいつも良く表れるとは限らず、残念ながら、悪く出ることもあります。この結果、社会的なレベルでも、ゆるしが必要になるのです。家庭やグループ、国家が、そして国際社会そのものも、ゆるしに開かれている必要があり、それは、損なわれた関係の回復や、不毛な非難の応酬がもたらしている状況の克服、抗議する機会さえ与えずに他者を排除したいという傾きに打ち勝つために必要なのです。ゆるすことのできる度量は、より公正で連帯を伴う未来の社会を築こうとするどんな計画にも、基礎として必要なものです。
その逆に、ゆるすことができないとしたら、特にそのことで紛争の継続が避けられなくなってしまう場合には、人々の発展にとって多大な損失をもたらすことになります。資源は、軍備増強への路線を維持し、戦争に使われる費用、経済的報復の結果に対応するために使われます。このようにして、発展や平和、正義を促進するために必要な財源は、なくなってしまうことになります。ゆるすことを知らないということが、どんなにか人類を苦しめることになるでしょう! ゆるしを知らないことで、どんなにか進歩が遅れることでしょう! 平和は発展への条件ですが、真の平和はゆるしを通してだけ可能になるのです。
ゆるしこそが本道10.ゆるしを申し出てもすぐに理解され、または受け入れられるものではありません。確かにそれは逆説的なメッセージなのです。実際、ゆるすことはいつも、目に見える短期的な損失を伴いますが、それは長期的には確かな利得を保証するものです。暴力はこれとは正反対に、目に見える短期的な利益を得ることはできますが、長い目で見ると、実質的で永続的な損失を受けることになります。ゆるしが弱さと思えることがあるかもしれませんが、実際には、ゆるしを与えるにせよ、受けるにせよ、何事にも屈しない、非常に強い精神力と人道的な勇気が必要とされるのです。ゆるしはわたしたちを弱くするどころか、より完全でより豊かな人間性に向かわせ、創造主なる神の輝きをより明るく照らし出すものとしてくれます。
福音への奉仕というわたしの職務は、ゆるしの必要性を説くことがわたしの務めであることを深く意識させ、また同時にそうする力を与えてくれます。わたしはきょうもそうしていますが、それはこのテーマに関する真剣で成熟した考察を呼び覚ますことができるという希望に支えられ、一人ひとりの心のうちに、そして地球上の民族の関係のうちに、すべてが刷新されることを願っているからです。
(…)
13.いかなる所においても、また一切の例外なく、罪もない人々を故意に殺害することが、重大な罪であるという人道的真理を共にあかししていく上で、世界の宗教指導者たちは、人道的に正しい世論を形成する助けとならねばなりません。これは、正義と自由のうちに秩序の静けさを追求できるような国際的市民社会を築き上げていくために必要な条件です。
宗教によるこのような決意は、相互理解と尊重、信頼へと続く、ゆるしへの道を進むことを要求します。平和のために、そしてテロに対抗するために、宗教ができる奉仕は、まさにゆるしを教えることにつきます。ゆるしを与える人、ゆるしを受ける人は、より偉大な真理があることと、その真理を受け入れることで、自身の限界を乗り越えることができることを知っているからです。
平和への祈り14.(…)平和のために祈ることは、神のすべてを新たにされる力の到来に、人の心を開くことを意味します。神はそのいのちにあふれた恵みの力で、障害と行き詰まりばかりが明らかな場合にも、平和への道を開くことがおできになります。神は、分裂と戦いの長い歴史があろうとも、人類家族の連帯を強め、広げることもおできになるのです。平和のために祈ることは、正義のために祈ることでもあり、国家内と国家間の関係に適切な秩序を祈ることでもあります。またそれは、自由を願い求めることで、特に、すべての人の基本的な、そして市民としての権利である信教の自由を祈ることです。平和のために祈ることは、神からのゆるしを願い、それと同時に、受けた攻撃をゆるすために必要な勇気を願い求めることです。
(…)
15.正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません。これはわたしが、このメッセージの中で、神を信じる人と信じていない人、人類家族の幸福と将来を案じているすべての善意の人々に伝えたいことです。
正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません。これはわたしが、人類共同体の行く末を握っている人々に思い起こしてほしいことで、その重大で困難な決断が、共通善を視野に入れつつ、人間の真の利益に照らして行われるよう願うものです。
正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません。さまざまな理由をつけては、その内面に、憎しみまたは復讐心、破壊への願望をかき立てている人々に対して、わたしはこの勧告をあくことなく繰り返していきます。
この「世界平和の日」に、すべての神を信じる人の心から、テロ行為の犠牲となった方々、その悲劇に打ちひしがれている遺族の方々、そしてテロ行為と戦争によって、今も傷つけられ、苦しめられているすべての人々のために、より強い祈りがささげられますように。わたしたちの祈りの光が、その情け容赦ない行為で、神と人に対して重大な攻撃をしかけている人々にさえも及び、彼らが、自分たちが引き起こしたことに思いを向けて、その悪に気づくことで、すべての暴力的意図を捨て去るよう突き動かされ、ゆるしを願うまでになりますように。この多難な時に、全人類家族が、真の永続的な平和を見いだすことができますように。そうした平和は、正義とあわれみの出合いからだけ生まれるものです。
(2001年12月8日、バチカンにて、教皇ヨハネ・パウロ二世)
(翻訳 カトリック中央協議会事務局)
【ルカ6:27-38 敵を愛せ】
主の祈りをとなえるたびに思うことは、「われらに罪を犯すものを赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という言葉の鋭さです。これは私たちの実存に深くメスを入れてくる主の言葉です。赦せないという気持ちをどこかで曖昧にしてごまかそうとしている私たちに、それは真正面から挑んでくる言葉でもあります。人間に自らの罪の姿、自分は赦されたいのに人は赦そうとしない自分勝手な罪の姿をつきつけてくる言葉なのです。しかしこの祈りがなければ主の祈りもこれほどの深みを持たなかったのではないかと思われる言葉でもあります。
2002年「世界平和の日」教皇メッセージ 正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません
1.ことしの「世界平和の日」は、あの9月11日の悲惨な出来事が投げかけた、暗い影のうちに迎えることになってしまいました。あの日、恐ろしい犯罪が発生しました。ほんの短い時間の間に、(...)数千人の罪もない人々が殺りくされたのです。それ以来、世界中の人々が(..)将来への新たな恐れを抱くようになってしまいました。このような状態が広がる中にあっても、教会は希望をあかししようとしています。それは、よこしまな悪が、人間世界において最高権威をもっているはずがないことを確信しているからです。(…)
これは教会が2002年の初めに抱いている希望です。悪の力がまたしても優位に立っているように思える世界が、神の恵みによって人間の最も高貴な望みがかなえられ、真の平和が勝利する世界へと本当につくり変えられることへの願いです。 (…)
教皇がご自分の青年時代を思い起こしながらこう続けます。
ナチスと共産主義の独裁体制によって引き起こされた、民族や個人が経験したとてつもない苦しみが―その中にはわたし自身の友人や知人も少なからず含まれていましたが―わたしの思いや祈りから離れたことはひとときもありません。わたしはしばしば、絶えることのない疑問に思いをめぐらしてきました。これほどまでに恐ろしい暴力に襲われているときに、どのようにして道徳的、社会的秩序を回復することができるのでしょうか? 省察と聖書の啓示によって次第に得られたわたしの確信は、破壊された秩序を完全に回復できるのは、ゆるしを伴った正義による応答だけだということです。
真の平和の柱は、正義と、その愛の形であるゆるしです。
3.しかし現在のような状況の中で、どのようにして、正義とゆるしが平和の源であり条件だと言うことができるでしょうか? このことがいかに困難であろうとも、そしてこの困難が正義とゆるしが両立し得ないと考えてしまう傾きからくるにしても、わたしたちにはそれができるし、そうしなければならない、というのがわたしの答えです。ゆるしは怒りや復讐とは対立するものですが、正義と対立するものではありません。実に、「正義が造り出すものは」(イザヤ32・17)真の平和なのです。(…)1500年以上もの間、カトリック教会は、このことについて聖アウグスチヌスの教えを繰り返してきました。聖人がわたしたちに思い起こさせてくれるのは、この世界で築き上げることが可能で、また築き上げなければならない、正しい秩序のある平和、すなわち、tranquillitas ordinis、秩序の静けさ(安定、安泰)(『神の国』19巻13章参照)です。
ですから、真の平和は、正義の実りである。(…)しかし人間による正義は、いつももろく不完全で、個人やグループの持つ限界や利己主義にさらされるために、乱された人間関係をその基礎からいやし、再構築するゆるしによって、強められ、ある意味では補完されなければなりません。こうしたことは、個人またはより広いレベルで、また国際社会の規模にまでいたる状況においても言えることです。ゆるしは決して正義と対立するものではありません。ゆるすことは、損なわれた秩序を回復する当然の必要を見過ごすことを意味しないからです。ゆるしはかえって、秩序の静けさへと続く正義に満ちた状態へ向かっています。その静けさは、もろく一時的な敵意の中断ではなく、人の心の底を流れている深い傷をいやすものです。このようないやしには、正義とゆるしがともに欠けてはならないのです。
このような平和がもつ二つの側面を、このメッセージで考えていきたいと思います。(…)
テロ行為の実体4.
正義とゆるしに基づくはずの平和そのものが今、国際テロの攻撃を受けています。(…)
5.ですから、テロ行為に対する自衛権が存在するのです。それはいつも、目的と手段の選択において、人道的かつ法的制限を尊重しつつ行使されねばならない権利です。犯人の特定は正しく行われねばなりません。犯罪の責任はいつも個人的なものであり、テロリストが属する国家や民族グループ、または宗教にまで拡大されるようなことがあってはなりません。またテロ活動に対抗するための国際的協力は、特に政治的、そして外交的、経済的努力をも要し、テロリストたちの企みを加速させる抑圧や疎外といった状況を解決するための勇気と決意を伴わねばなりません。テロリストを募ることは実際、権利が踏みにじられ、不正義が長い間まかり通ってきたような状況では、比較的容易になります。
それでも、はっきりと強調しなければならないのは、世界に存在する不正義をテロ行為の言い訳に使ってはならないということです。さらには、テロ行為が狙っている秩序の根底からの破壊で犠牲になるのは、だれよりも、国際的連帯の崩壊に持ちこたえられるだけの蓄えがない、数え切れないほどの人々なのです。わたしが言っているのは、発展途上にある地域に住み、すでに生きていくのがやっとの状態で暮らしていて、世界規模の経済的、そして政治的混乱で最も悲惨な影響をこうむることになる人々のことです。貧しい人々のための行動だとするテロリストたちの主張は、明らかな偽りです。
神の名により殺してはならない!6.テロ行為によって人を殺す人たちは、人類に対するさげすみの感情を増殖させ、いのちと未来に対する絶望感を明らかに示しています。(…)テロ行為は、ただ人々を道具にしてしまうだけでなく、神をも道具として、自分たちの目的のために偶像にまでおとしめています。
7.ですから、いかなる宗教指導者も、テロ行為に寛容な姿勢を示すことはできず、ましてやそれを推奨することなどあり得ません。神の名によって自らをテロリストと宣言することは、宗教を冒涜する行為です。テロによる暴力は、人を創造し、人をいつくしみ、愛してくださる神への信仰と矛盾するものです。そして特に、弟子たちに「わたしたちの負い目をゆるしてください、わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたように」(マタイ6・12)と祈るよう教えられた主イエス・キリストへの信仰に反するものです。
イエスの教えと模範に倣い、キリスト者は、あわれみ深い者となることが、わたしたちのいのちの真理を完全に生きることを意味していると確信しています。わたしたちは、あわれみ深い者になることができますし、またそうならなければなりません。(…)
ゆるしの必要8.
しかし具体的には、ゆるすとは何を意味するのでしょうか? そしてなぜゆるすのでしょうか? ゆるしについて省みるとき、こうした問いを避けることはできません。ここで、1997年の世界平和の日のメッセージ(「どうかゆるし合ってください、そして平和を手にしてください」)でわたしが書いたことに立ち返り、再確認したいことは、ゆるしは社会で現実となる前に、人々の心のうちに生まれるものだということです。倫理とゆるしの文化が保障されて初めて、「ゆるしの政治」にも期待できるようになるのであって、それは社会の姿勢や法制に表れ、それによって正義が人間らしい表情を見せるようになるのです。
実際、ゆるしは何よりも個人的な選択であり、感情のおもむくままに悪に対して悪をもって返そうとする傾きに対する心の決断でもあります。この決断の基準は、神の愛に置かれています。神はわたしたちの罪にもかかわらず、わたしたちを受け入れてくださいます。それは、キリストが十字架上で、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)と祈られた、至高なるゆるしの模範に示されています。
ですから、ゆるしは神からのもので、神の尺度によるものです。これは、その意味が人間の理性に基づく考察に照らすことで理解し得ないということではありません。そしてなによりもまず、人間が過ちを犯したその経験にかかわることなのです。そこで、人は自らの弱さに気づき、他の人から寛容に接してもらうことを望むようになるのです。それではなぜ、他の人を自分がしてもらいたいように扱わないのでしょうか? すべての人がその内面に、いのちの道へと立ち返り、自らが犯した過ちや罪に囚われた状態から永遠に解放されたいという望みを抱いています。彼らは皆、あらためて未来に目を向け、信頼と責任を伴う新しい展望を見いだしたいと願っています。
9.人による行いという意味では、ゆるしは何よりも、隣人との関係において、個人の心から自発的に出てくるものです。しかしながら人は、本質的に社会的側面をもっていますので、このことによって社会的な関係が組織化され、その中で個人が表現されることになります。それはいつも良く表れるとは限らず、残念ながら、悪く出ることもあります。この結果、社会的なレベルでも、ゆるしが必要になるのです。家庭やグループ、国家が、そして国際社会そのものも、ゆるしに開かれている必要があり、それは、損なわれた関係の回復や、不毛な非難の応酬がもたらしている状況の克服、抗議する機会さえ与えずに他者を排除したいという傾きに打ち勝つために必要なのです。ゆるすことのできる度量は、より公正で連帯を伴う未来の社会を築こうとするどんな計画にも、基礎として必要なものです。
その逆に、ゆるすことができないとしたら、特にそのことで紛争の継続が避けられなくなってしまう場合には、人々の発展にとって多大な損失をもたらすことになります。資源は、軍備増強への路線を維持し、戦争に使われる費用、経済的報復の結果に対応するために使われます。このようにして、発展や平和、正義を促進するために必要な財源は、なくなってしまうことになります。ゆるすことを知らないということが、どんなにか人類を苦しめることになるでしょう! ゆるしを知らないことで、どんなにか進歩が遅れることでしょう! 平和は発展への条件ですが、真の平和はゆるしを通してだけ可能になるのです。
ゆるしこそが本道10.ゆるしを申し出てもすぐに理解され、または受け入れられるものではありません。確かにそれは逆説的なメッセージなのです。実際、ゆるすことはいつも、目に見える短期的な損失を伴いますが、それは長期的には確かな利得を保証するものです。暴力はこれとは正反対に、目に見える短期的な利益を得ることはできますが、長い目で見ると、実質的で永続的な損失を受けることになります。ゆるしが弱さと思えることがあるかもしれませんが、実際には、ゆるしを与えるにせよ、受けるにせよ、何事にも屈しない、非常に強い精神力と人道的な勇気が必要とされるのです。ゆるしはわたしたちを弱くするどころか、より完全でより豊かな人間性に向かわせ、創造主なる神の輝きをより明るく照らし出すものとしてくれます。
福音への奉仕というわたしの職務は、ゆるしの必要性を説くことがわたしの務めであることを深く意識させ、また同時にそうする力を与えてくれます。わたしはきょうもそうしていますが、それはこのテーマに関する真剣で成熟した考察を呼び覚ますことができるという希望に支えられ、一人ひとりの心のうちに、そして地球上の民族の関係のうちに、すべてが刷新されることを願っているからです。
(…)
13.いかなる所においても、また一切の例外なく、罪もない人々を故意に殺害することが、重大な罪であるという人道的真理を共にあかししていく上で、世界の宗教指導者たちは、人道的に正しい世論を形成する助けとならねばなりません。これは、正義と自由のうちに秩序の静けさを追求できるような国際的市民社会を築き上げていくために必要な条件です。
宗教によるこのような決意は、相互理解と尊重、信頼へと続く、ゆるしへの道を進むことを要求します。平和のために、そしてテロに対抗するために、宗教ができる奉仕は、まさにゆるしを教えることにつきます。ゆるしを与える人、ゆるしを受ける人は、より偉大な真理があることと、その真理を受け入れることで、自身の限界を乗り越えることができることを知っているからです。
平和への祈り14.(…)平和のために祈ることは、神のすべてを新たにされる力の到来に、人の心を開くことを意味します。神はそのいのちにあふれた恵みの力で、障害と行き詰まりばかりが明らかな場合にも、平和への道を開くことがおできになります。神は、分裂と戦いの長い歴史があろうとも、人類家族の連帯を強め、広げることもおできになるのです。平和のために祈ることは、正義のために祈ることでもあり、国家内と国家間の関係に適切な秩序を祈ることでもあります。またそれは、自由を願い求めることで、特に、すべての人の基本的な、そして市民としての権利である信教の自由を祈ることです。平和のために祈ることは、神からのゆるしを願い、それと同時に、受けた攻撃をゆるすために必要な勇気を願い求めることです。
(…)
15.正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません。これはわたしが、このメッセージの中で、神を信じる人と信じていない人、人類家族の幸福と将来を案じているすべての善意の人々に伝えたいことです。
正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません。これはわたしが、人類共同体の行く末を握っている人々に思い起こしてほしいことで、その重大で困難な決断が、共通善を視野に入れつつ、人間の真の利益に照らして行われるよう願うものです。
正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません。さまざまな理由をつけては、その内面に、憎しみまたは復讐心、破壊への願望をかき立てている人々に対して、わたしはこの勧告をあくことなく繰り返していきます。
この「世界平和の日」に、すべての神を信じる人の心から、テロ行為の犠牲となった方々、その悲劇に打ちひしがれている遺族の方々、そしてテロ行為と戦争によって、今も傷つけられ、苦しめられているすべての人々のために、より強い祈りがささげられますように。わたしたちの祈りの光が、その情け容赦ない行為で、神と人に対して重大な攻撃をしかけている人々にさえも及び、彼らが、自分たちが引き起こしたことに思いを向けて、その悪に気づくことで、すべての暴力的意図を捨て去るよう突き動かされ、ゆるしを願うまでになりますように。この多難な時に、全人類家族が、真の永続的な平和を見いだすことができますように。そうした平和は、正義とあわれみの出合いからだけ生まれるものです。
(2001年12月8日、バチカンにて、教皇ヨハネ・パウロ二世)
(翻訳 カトリック中央協議会事務局)