Friday, January 25, 2013

寒天に暖景なくば 梅麦なにをもって花を生ぜん

寒天に暖景なくば 梅麦なにをもって花を生ぜん

「冬天暖景」     総本山金剛峯寺座主 高野山真言宗管長 松長有慶猊下
 (前文省略
 「冬天(とうてん)に暖景(だんけい)なくば、梅麦(ばいばく)なにをもってか花を生ぜん」。
これはお大師さまが奈良の元興寺の僧、中璟(ちゅうけい)の罪を赦しを乞い、朝廷に提出し
た文の一節です。
 冬の厳しい寒さの中でも、わずかに暖かい光が差し掛けるからこそ、春になれば美しい花
も咲くのです。
 このようなお大師さまの温かいお言葉に接すると、他の人を責めることだけに血道を挙げ

金岡秀友 これは奈良元興寺の中璟が戒を持さず、宮中の一女官と不義をした時、空海が嵯峨天皇に少し違う種類の例文としては坳「元興寺の僧中璟が罪を赦されんことを請う表」がある。行の入国を許すのである。家であることを知り、代筆を頼む。そして空海の ...




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Tuesday, January 22, 2013

1 lent C


007-02-23 10:31:04カテゴリー: Weblog

四旬節第1主日 C 芦屋教会(黙想会)
ルカ4・1-13

イエスは悪魔によってさまざまな試みに遭います。
 ところで試みと言うのは、その人にその傾きがあるから試みになるのです。たとえばタバコが嫌いな人にとって、タバコがそこにあるからといって、それはなんの誘惑にもなりません。酒が飲めない人にとって、酒が身近にあろうと、それはまったく誘惑になりません。
 イエス様が試みられた誘惑は、その意味で、イエスが救い主だからこそ、意味ある誘惑となりました。イエス様にとって、石をパンにすること。それは確かに救い主として、陥りやすい傾きだったのです。
 人間には、お腹がすいたんだったら石をパンに変えればいいと悪魔に言われても、何の誘惑にもなりません。石をパンにすることなどできるわけないと分かりきっているからです。ところがイエス様には、石をパンにする能力がありました。だからこそ誘惑になったのです。メシアとして陥りやすい誘惑。たくさんの飢えた貧しい人々。食べ物がなくて今にも死にそうな人々。この人々を目の前にして、救い主は当然救いたいのです。実際イエス様が、パンを増やしたり、水をぶどう酒に変えたりしたことも、確かにあるのです。でももしもいつもそのようにして、飢えた人がいるたびにイエス様が介入して、神様の力が働いて、貧しさをなくすのならば、人間は思うでしょう。「ああ、食べ物がない。だったらイエス様のところに行って来なさい。神様に頼んでくればいいでしょう」。しかしもしいつもそうだったなら、どこに人間の自立と自由があるでしょう。Moseos

こう考えると「水戸黄門」を思い出します。
 水戸黄門は、ご承知のように徳川の「先の副将軍」であるのですが、その身分のままでは気ままな旅ができないので、「越後のちりめん問屋の隠居・三右衛門(さんえもん)」と名を変え姿を変えてお忍びで、格さん助さんを従えて旅をします。そして肝心な時には、いよいよその本来の身分をあらわして、葵(あおい)の紋(もん)をかざして「頭が高い!(ずがたかい)」とやるわけです。「ザ・権力」です。 この場合は、あくまでも「町人の振り」をしているまでです。本当に町人になったのではない。見せかけです。

ですからイエスさまは、ここでは、石をパンに変えて自分の腹を満たすということはなさらないのです。神がここに私を導いたのだから、神がちゃんと私を守って下さる。飢え死にしないでもすむようにして下さる。神の言葉はそれほどに力がある。神が備えて下さる。‥‥そういうことです。神への信頼です。その神への深い信頼の言葉です。

 19世紀、イギリスで、ジョージ・ミュラーという人が孤児院を始めました。何も財産があったわけではありません。ただ、町に孤児があふれ、路頭に迷っているのを見て、聖書の言葉から、孤児院を始めるのが神の御心であるとの召命を受けて、自分の持っているものをすべて売り払って始めたのです。
 最初は建物を借りて始めました。その時、ミュラーたちは、孤児院を運営する規則を作りました。
 その中に次のようなものがありました。‥‥「いっさい募金を頼んで回らない。ただ神さまに祈って神さまにお願いする。」また、「寄付をしてくれた人の名前と金額を発表して、人の名誉心をあおるようなことはしない。それぞれの寄付者には、ひそかに感謝する。」‥‥そのようなことを決めたのです。そして彼らはただ、神に祈ることによって、孤児院を運営していったのです。そしてすぐに孤児がたくさん預けられていきました。
 これはだれが見ても、無茶な冒険です。頼まないし、寄付者の名前を発表しない、つまり名誉心をあおらないで、いったいどこから寄付が集まるというのでしょうか?すぐに孤児院は行き詰まって、つぶれてしまうのではないでしょうか?‥‥神を信じないものが見たら、そうなのです。
 しかしミュラーは、「これは神さまの命令で始めた事業なのだから」と信じて、ただ神さまを頼りにしたのです。時には、明日孤児たちに食べさせるものがいよいよなくなってしまった、ということもあったそうです。しかしそういうときミュラーたちはどうしたか?ひざまずいて祈ったそうです。
祈って神さまにお願いしたのです。そうすると不思議にも、食べ物を届けてくれる人が現れたり、資金を援助する申し出があったりして、孤児たちの食事は一日も欠かされることがなかったそうです。
 しかも建物は次々と建ち、孤児たちは十分な食物と衣服を与えられ、2000人以上の孤児を収容するようになったのです。  神さまを信頼する
 『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 この聖書の言葉は、「武士は食わねど高楊枝」というようなやせ我慢の言葉ではありません。神さまに信頼するならば、神さまがちゃんと私たちを生かしてくださる、必要なものを備えてくださる‥‥そういう神を信じることへの招きの言葉です。 すばらしい言葉です。主をほめたたえましょう。 nibannmati

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2013年園田


今話題になっているスポーツ関係の体罰で見てみます。日本のお家芸(おいえげい)となっている柔道のオリンピック代表チームに、監督は大きなプレッシャーをかけながら力を注いできました。オリンピックは、建前は別として、参加するだけではなく、いくつ金銀銅のメダルが取れるか。それに向かって監督は自分の力量が問われ、「日の丸を背負って」国際舞台に花をそなえようと必死に練習を重ねてきました。が、あせりもあってか、説得だけでまどろっこしい。カツを入れるとか、執念、忍耐を持たせるなど、多少は体罰は必要ではないかと容認するようになったいきさつは、やはり、「石からパン」というふうになるわけです。本来のあり方より短絡(たんらく)的な手段を選ぶ誘惑に負けるわけです。
 家族を幸せにすると思うときも、地位、名誉、お金を得ることが一般的であり、そのために家族と一緒に団らんするのは多少犠牲にしてしまうことはあります。
 教会の中での人間関係でも似たような現象は見られます。自分のタレントを重要視し、利害関係のある他人のタレントをなかなか受け入れたくないという競争原理が働き、自分が中心になりたいという願望に押しつぶされ(負けるのはイヤ)、共同体の益となるようなことは、あまりにも現実でないような理想と思われ、キリストの望んだ共同体のあり方に目をつぶってしまう。
 要するに、神の望んでおられるやり方ではなく、自分勝手な短絡的な手段を選んでしまう。私たちは多くの誘惑に負けやすい。誘惑に負けるのは日常茶飯事的なことではないかと、今日の福音書は教えています。
 教会で祈っていたら、社会の様々な問題は解決されない。祈りではなく、社会問題に取り組むべき。これも、「石かパン」という短絡的な手段になりうるわけです。
キリストでさえ、神が望んでおられたやり方に従わないといけえない立にあったのに、私たちは結果を出せばいいのではなかと、手段を択ばない権利があると思い込んでいます。身の程を知らないのかと今日の第一朗読は言っています。


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次に、悪魔はイエスさまを聖なる都に連れて行きました。神殿は人々が神を礼拝する場所です。神殿におおぜいの人々が神を礼拝するために集まってくる。その神殿のてっぺんに悪魔はイエスさまを立たせて、ここから飛び降りてごらんなさいと誘ったのです。「人々が簡単にあなたを信じるようになる方法がある」 神殿の屋根の高さは約14メートルあったようです。おおぜいの人の注目を集めることは確実です。そして悪魔の言う通り、飛び降りたイエスさまを天使があらわれて助けたとしたらどうでしょうか。人々は、驚き、驚嘆の声を上げることでしょう。そしてイエスさまが、神から来た方であることを認めることでしょう。そうすれば、イエスさまはいちやく有名になり、持ち上げられ、わざわざ苦労しなくてもイエスはキリストであると人々は信じるようになるのではないか。
‥‥悪魔が誘ったのは、そういうことなのです。私たちと同じ人としてこの地上を歩まれることを決断なさったイエスさまに対して、「そんな面倒な道を歩まなくともよいではないですか、あなたを神の子として信じさせることは簡単ではないですか、この神殿の屋根から飛び降りて天使があなたを助けるのを見させればよいのです」と誘ったのです。
 しかも悪魔はちゃんと聖書の言葉を引用して言っているのです。前回、イエスさまは悪魔の最初の誘惑に対して、旧約聖書のみことばを引用して反論しました。すると今度は、悪魔も旧約聖書のみことばを引用して誘ったのです。なんとも巧みではないですか。相手の言葉の端をつかむようにしてたたみかけてくるのです。「あなたが今私に反論したその聖書にこのように書いてありますよ。」と。

それは詩篇の第91篇の言葉でした。
 私はこの誘惑をとても他人事とは思えないのです。私たちも同じように考えることがあるのではないかと思うからです。‥‥たとえば、もしこの芦屋の教会の上に、天からキリストがあらわれて、まばゆいばかりの光で照らしたとしたらどうであろうか、と。もしそういうことがなされれば、芦屋の町の人々はみな、芦屋教会に駆けつけてくるのではないか、と。
 あるいはこんなのはどうでしょうか。キリストを信じる人が自由に空を飛べたり、海の上を歩いて見せたりしたら、みんな驚いて神を信じるようになるのではないか‥‥。そうすれば、何も私たちは苦労をしないではないか、と。
 悪魔の言ったことはまさにそのような誘いなのです。
 人々をあっと驚かすような摩訶(まか)不思議なことをして、人々を集めれば、簡単に人は神とキリストを信じるようになるではないか。確かにそう思いたくもなるのです。
 しかし同時に思うのです。「そのようにして人が神を信じるようになったとして、それを『信仰』と言うのであろうか?」と。
、『あなたの神である主を試してはならない』という旧約聖書の申命記の6:16の言葉です。すなわち、神に主導権があるのです。神さまが必要なものを与え、神さまが導いて下さる。その神に信頼するように、との言葉です。
 イエスさまにとっては、天の父なる神さまが、「神殿の屋根から飛び降りろ」と言わないのにそのように飛び降りることは、まさに「神を試す」ことであったのです。 神を従わせるのではなく、神に従う 。‥‥「私がここから飛び降りるから、神さま、御使いをおくって助けて下さい。そうすれば、見ている人々は皆びっくりして、神を信じるようになるでしょう。」「神さま、私の言う通りにして下さい。そうすれば、成功するんです。」‥‥イエスさまが問いたいのは、そういうものを信仰というのだろうか、ということです。
 「神さま、あなたのやり方はまどろっこしくて間違っています。神さま、あなたは私の指示通りに動いて下さい。私の言う通りにすれば、皆キリストを信じるようになります。」‥‥。「神さま、私が商売をしますから、私の言う通りにもうけさせて下さい」と言うでしょう。

神が主人であり、私たちはしもべです。これがキリストの信仰です。
 人は、反対に、自分が神の主人であって、神を自由に動かせるようになることを願うかも知れません。「どんな御利益があるのか?」と言って。人がキリスト教につまづく原因の多くがここにあるのです。つまり、「神を自分の思い通りにコントロールできない」ということに。
 しかし私たちは確認しなければなりません。→私たちの平安の根拠は、神が私たちの思い通りに動くということにあるのではない、と。そうではなくて、私たちの平安の根拠は、神が私たちの主人であるということにあるのです。そしてその主人である神さまが、ちゃんと私たちを守り、導いてくださるということにあるのです。
 私たちは、つぶやきます、「なぜ、私の思うとおりにしてくれないのか?私の思うとおりにしてくれれば、人々もキリストを信じるようになるのに」と。
手品ではなく、十字架によって救う  神が主であり、私たちはしもべです。そして主イエス・キリストもしもべとなられました。私たちが神に命令して動かすのではなく、私たちが神に従う道です。

世の中のものをすべてあなたにあげる、と。それにはたった一つの条件があると悪魔は言いました。

「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら‥‥」という条件です。実に簡単な条件です。
 その誘惑の声の主が、悪魔であると気がつけば、少し心がとがめることでしょう。「悪魔に心を売り渡しても良いのか?」と。しかし、次の瞬間このように思うのではないでしょうか。「いや、形だけでも一度でよいのだから、ここは悪魔をひれ伏して礼拝し、まず世界をいただこう。そして世界が自分のものになってから、よい政治を行えば良いではないか。そのほうが結局は人々のためになる」と。「この世を救うために、悪魔を礼拝して、世界を手に入れよう」と。
 イエスさまが受けた誘惑は、まさにこのようなものであったと言えるでしょう。 もちろん悪魔は、イエスさまが、自分の欲望のために言うことをきかれる方ではない、ということを知っていたでしょう。ですから悪魔がそのように誘惑したとき、悪魔は、「あなたにこの世を差し上げますから、あなたはこれを自分のものにして、それから世を救えばよいではないですか?」と誘ったのです。実にもっともらしい言葉です。
 人の子としてこの世を歩み始めているイエスさまです。さまざまな困難や試練が待っているのです。そして、イエスさまの行く道には、十字架があるのです。「そんなことよりも、今悪魔を礼拝して、この世を手に入れればよいではないか。それから世を救えば良いではないか。そのほうが近道ではないか。」‥‥ サタン、すなわち悪魔です。なぜイエスさまはそこで、それがサタンであることを見抜かれたのか。‥‥それはサタンが言った言葉にあります。「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら」という言葉です。その言葉は、神ではないものを拝めという要求なのです。 神以外のものを拝めと要求するその声こそ、サタンなのです。それは露骨です。この3番目の誘惑の声までは、「石をパンに変えてみなさい」とか、「宮の頂上から飛び降りてみなさい」という、正体を隠した誘いでした。
それにしても悪魔の言った言葉は、あまりにも魅力的です。 私たちはここでもう一度よく考えなくてはなりません。それは、「サタンがここで言っていることは、果たして本当なのだろうか?」 ということです。
 サタンは、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。しかし、待って下さい。サタンは、世界の国々、その栄華を果たして本当に所有しているのだろうか、と。世界は本当にサタンのものなのでしょうか。サタンが、自由に誰かにあげることができるものなのでしょうか。 私たちが心にとめておかなければならないのは、「悪魔はうそつきである」ということです。サタンはうそつきです。そこに落とし穴があるのです。サタンは世界を所有していません。本当は世界は主なる神さまのものです。サタンに世界の支配者であるような地位を与えるのは、人間なのです。悪魔とは何か? わかりにくければ、この「サタン」という言葉を、神さま・イエスさま以外の言葉に置き換えて見ればおわかりになると思います。サタンという言葉の代わりに、「富」や「お金」という言葉が入るかも知れません。あるいは、「地位」や「名声」という言葉が入るのかも知れません。‥‥神ではなく、富や名声を第一に拝め。それを手に入れたら何でもできるのだ、と。

自ら見捨てられたような人間になり、十字架に架けられた神の独り子でした。罪人となって、十字架にかかり、何一つ最期に持つことのできなかった神の子。
 そんなにも神に愛され、大事にされ、そしてイエス様によって贖われた私だからこそ、神様の愛に立ち戻って、神様を忘れて生活をしてきたこと、神様からせっかく清められたにもかかわらず、自ら汚してしまったこの自分を、再びきれいにしてもらうこと。そのために、この四旬節の季節があるのです。

2 lent C


2007-03-04 08:18:16

四旬節第2主日 C年
ルカ9・28b-36

あいさつ

イエスは「祈るために」(28節)山に行き、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)と言われます。イエスの祈る姿をよく伝えるのはルカ福音書の特徴です。受難予告の導入にあたるルカ9・18にも「イエスがひとりで祈っておられたとき」という言葉があります。祈りとは、特別に神との親しい時を過ごすことです。イエスの地上での歩みは受難と死に向かう道でした。しかし、イエスは祈りの中で、それを神の大きな救いの計画の中にあることとして受け止め、そして自分のすべてを神の計画に委ねていったと言ってもよいのではないでしょうか。きょうの箇所でも、だからこそイエスの姿は祈るうちに光り輝いたのだ、と言えるかもしれません。
 祈りの中で神に心を向け、祈りの中で自分の思いを越えた神の救いの計画を受け止め、そこから自分の現実を見つめなおす。そのとき、目の前の困難や苦しみを超えた救いの世界を、祈りの中で受け取ることができる…。だとすれば、きょうのイエスの姿は、四旬節の時を過ごすわたしたちにとって大きな励ましだといえるでしょう。
 実はルカ福音書の中には弟子たちの祈る姿は表れません。弟子たちは、イエスの復活と聖天の後、祈り始めることになります(使徒言行録1・14)。弟子たちを、最後までイエスに従う者へと変えていくのは、この「祈り」だと言うこともできるのではないでしょうか。hinto


 柳田邦夫という有名な民俗学者は『「死の医学」への序章』の最初にこう書きます。ガンの末期患者の日記を読んで、皆それぞれ違う生き方、違う仕事したが、共通した要素があると指摘しています。(「多くのガンとの闘病記を読んで気づいたことの一つは、死に直面した人々の手記には、ほとんど偶然の一致ともいうべき光への感動、目に映る世界への感動がうたわれているということだった」)。突然世界が輝いて見えてくる。たとえばある患者がこう記します。転移が発見されていよいよ明日再入院という日、家族と共に心を癒しに別荘に出かけたときのことです。「私は乾してある布団に仰向けになった。秋とはいえ海辺の陽光はギラギラと強烈だ。どこまでも青い太平洋。白い小さな波。はるか沖合いを白い船体の舟が航行してゆく。上空高く東から西へジェット旅客機が飛んで行く。エンジン音は地上までは届いてこない。大きく深呼吸する。かすかな潮の香りを感じた。 数々の思い出が私の脳裏をかすめ去った。不愉快な記憶、悲しい記憶、いやな記憶が、どれも懐かしく美しいものにさえ感じられる。 私はいま、生きることのすばらしさを感謝している。いままで私には何故、このすばらしさを感じとれなかったのか。妻は床を掃(し)き、テーブルを拭き、風呂に水を張って忙しく立ち働いている。忙しく動き回っている妻の姿は美しかった」。

 これを柳田邦夫は次のように分析するのです。「光と風景に対するこうした感度の高さは、『もっと光を』と、美の表現の本質を光に求めたモネやルノアールなどフランス印象派の画家たちの世界を連想させる。確かに印象派の絵には不思議な光があります。また、詩人のとらえる現実にも輝きがあります。「古池や蛙飛びこむ水の音」というように、何でもないことをうまく言葉化するとそこまで見えなかったものは見えてくる。だが、しかし、西川医師の文章をじっくりと読んでみると、それは単なる風景描写や美の探求というよりは、生きる事への感動の投影としての光に満ちた情景、とりわけ親しい人間への限りないいとおしみから湧き出た心象風景というべきものであることが分かってくる」。

 それまでは何気なく当たり前のものとして過ごしていた日々の生活が、一つひとつの人間関係が突然当たり前ではなくなる。かけがえのないもの、尊いものに思え、輝いて見えてくるのです。それは、来るべき終わりを明確に意識することによって、そこに密度の高い生が開始されたということでありましょう。

<主の変容>

 今日は「変容主日」です。ルカ9:51に記されているように、イエスのエルサレムに向けての十字架の歩みが始まる。ご承知のように、十字架は最も惨めで最も苦しい極刑でした。神の栄光などつゆほども感じられない悲惨な十字架上での死の中に、しかし不思議なことに、神の栄光が隠されていたというのです。フィリピ書の2章には、神に等しいお方、み子なる神が僕の身分となり、十字架の死に至るまで徹底して自分を低くされたというキリスト賛歌が記されていますが、これは本当に不思議な事柄です。神の栄光が十字架の悲惨の中に隠されていた。

神の救いが、十字架の上のみ子の「わが神わが神、なにゆえ私をお見捨てになられたのですか」という悲痛な叫びと、神の完全な沈黙との中で完成されたというのですから。

 主の変容の記事はそのような神の思い、神の然りがイエスに与えられていたということを弟子たちに証ししています。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が神の現臨(臨在)を表す「雲」の中から響きます。神の声は主が洗礼を受けられたときにも与えられていたことを思い起こしてください。聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ったとき天からの声がします。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と(ルカ3:22)。神の声は、洗礼の時は二人称でイエスに向けられ、山上の変貌の時には三人称で弟子たちに向けられています。主のご生涯でこのように二度、明白なかたちで神の然りが与えられています。

<救いへの「突破口」>

 モーセとエリヤはここで律法と預言者の代表として立ち現れています。興味深いことにマルコとマタイ福音書はモーセとエリヤとイエスが語り合っていた内容については記していませんが、ルカだけがそれを記している。それが31節です。「エルサレムで遂げようとしておられる最後」とは、もちろん十字架の死を意味しています。しかし注意したいのはこの「最後」と訳されている言葉は exodus、つまり「死」という意味だけでなく、「出発」または「出口、突破口」という意味を持つ語が用いられているということです。出エジプトの出来事もExodus と呼ばれました。€ek とは「~から外に」、hodus とは「道」という意味です。そこから「旅立ち」「出口」「突破口」「脱出路」という意味になります。ここでルカは、マルコもマタイも用いていないこの exodus という言葉を用いることによって、エルサレムにおける十字架の死は「最後」であるだけでなく、新しい「出発」であり、死からの「突破口」であり、栄光への「脱出路」なのだということを言おうとしているのです。

 エルサレム(「神の平和」)のゴルゴダの丘の上に立つ十字架。ここに神からの新しい出エジプトの道、救いの道が開かれたのだとルカは力強く訴えている。それは、人間の闇の中に与えられた光への突破口、死のただ中に与えられた命への突破口、罪のただ中に与えられた赦しへの突破口であり、悲しみのただ中に与えられた喜びへの突破口、裏切りのただ中に与えられた愛への突破口、不信仰な、神なき世界に与えられた神への突破口なのです。私たちは主によってこのような突破口を通って神の栄光へと導き入れられている。

 私はこの主の変容の出来事が、自分の死を明確に意識させられた者たちが多く言葉にする「光への言及」と重なり合っているように思えてなりません。キリストのみ姿がモーセとエリヤと共に真っ白に輝いて見えたということは、ご自分の死を明確に意識したキリストの目に映った生きることの尊さ、かけがえのなさ、いとおしさというものが「真っ白な輝き」の中に示されており、またそれがそこにいた弟子たちにも感ぜられたのかもしれない。十字架の道をこれから歩み出そうとする主イエスのまなざしには神がこの世に備えられた命の輝きが見えていた。そして実はそこから、山上の変貌の記事は、私たち自身の命の中に隠されているまぶしいばかりの輝きを示しているのではないかとも思えてくるのです。「輝け、命の日々」という、そのような隠された輝きへの突破口、栄光への突破口を主はあの十字架の上に開いてくださったのではないでしょうか。

<みそしるの中に込められた愛~私たち自身の変容>

 先の患者の言葉の中では、病いも進んだある日、お見舞いに山口からかけつけて来た知人に語られた言葉が一番深く私の心に残りました。「痛みがひどく、このまま死んでしまいたいと思うことがある。窓から飛び降りたらと、自殺を何度も考えた。けれども死ねなかった。何故だと思う? 私が君に送る最後の言葉だよ。それは愛だよ。友人がみそ汁を作って来てくれる。君が遠いところから来てくれる。そんな愛が、今の僕を支えていてくれる。がんばっておくれ。幸せにならなければならないよ」(『「死の医学」への序章』p255)。

 苦しみの中で私たちの命を輝かすもの、それは「愛」なのだと西川医師ははっきりと言うのです。愛だけが命に大きな意味を与え、究極的な価値を与える。私たちはパウロの「信仰、希望、愛。その中で最も大いなるものは、愛である」(1コリント13:13)という言葉を思い出します。真実の愛こそが、自分を与えてゆくキリストのの愛こそが、それがどんなに苦しいものであったとしても、私たちの人生を意味あるものにしてくれるのです。

 私たちの人生は主イエス・キリストの十字架によってあがなわれている。私たちの日常生活はキリストのご自身のすべてを捧げてゆかれた愛のゆえに輝くものとされている。ちょうど主のみ顔が輝き、み衣が真っ白く変容したように、私たち自身のありふれて色あせた毎日の生活は、キリストの愛のゆえに真っ白にまぶしく輝くものとされているのだと思います。私たち自身の苦しみや悲しみは、また絶望や闇は、キリストによって輝くものに変えられてゆくのです。そのことを覚えつつ、主が命がけで開いてくださったこの栄光への突破口をご一緒にくぐって参りたいと思います。お一人おひとりの上に主の祝福が豊かにありますように。 アーメン。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/3.htm

3 lent C

四旬節3主日C

【ルカ13:1-9「実のならないいちじくの木」のたとえ】


ピラトががリラヤの人々を残酷に殺しました。シロアムの塔が倒れて18人の人が死にました。
今日の福音書のでだしは、ごく日常的なできごとから始まります。それは現代の私たちの生活のなかでも見ることのできるものです。
 このまえ、アルジェリアで日本人十人を含む大勢の人はテロリストによって殺害されました。登(と)山者が遭難して何人が死んだ。暴走した車がバス停に突っ込んで、バスを待っていた児童が死んだ。二階が崩れ落ちて映画を見ていた一階の観客が重傷を負ったなどなど、とつぜん思いがけず襲ってくる不幸は、イエスの時代もいまも変わりないようです。なぜこの人がこんな目にあわなければならないかと、私たちは説明を求めがちです。前世の因縁(いんねん)という人もいます。前の世での行いが悪かったと考える人もいます。運命だからあきらめなくてはならないとか、悪いことをしたための天の罰だと考えてしまう人もいます。いつまでもその不幸なできごとを忘れることができず、それを嘆き続け、失意のまま一生をおくる人々もいます。
 しかし、こうした考えは、いずれも健全的な考えと言い難いと思います。福音書は、シロアムの塔の下敷きになった人々の事故は、彼らの罰のせいだという考えを否定します。運命論、あきらめ、天罰という考え方はキリスト教には無縁のものです。

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 たとえば突然の地震や事故を体験すると、人は言うものです。神様がいるなら、どうしてそのような悪を止めなかったのか。しかし同じように言う人はほとんど、地震のない日常、事故のない電車に乗り合わせるとき、それは当たり前と思い、感謝する心を起こしません。
 カール・バルトと言う有名な神学者は強盗にあったときに、次のように感謝したそうです。 今まで強盗に会わなかったことに感謝します。取られたのが金であって命でなかった。命は大丈夫だったことに感謝します。すべてのものを奪われたがそれほどではなかったことに感謝します。私が盗む側でなかったことに感謝します、と。
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 よく考えてみれば、なんだかんだと言いつつも当たり前に日常を送っている。実はそれだけで、とてつもない神様の大きな恵みの結果なのです。ところがうまくいかなくなると、突然、神様、どうしてと思ってしまう。そうでなく、当たり前の日々を送りながら、感謝もせずにいる自分。そういう自分を反省し、感謝と賛美、また自分への反省の気持ちを忘れず過ごしていきましょう。

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いちじくの木が実を結ぶまで忍耐深く待ってくれる農夫がいるように、神は忍耐深く待っていてくださいます。しかし、実を結ばない木が根こそぎ切られてしまうように、もし私たちが、時のあるうちに回心しなければ、救いを逃がしてしまうことになるのです。

生(なま)のものを美味しくいただくためには、賞味期限というものがあります。どんなに冷蔵庫にいれても、保存しても、それは新鮮な味は失われてしまうものであればしようがありません。愛も生きたものであるならば、それに応答するのに、遅すぎてしまうということがあるのです。親孝行をしようと思ったら、もう親はいないということがあるのです。

神と私達との間に、もう遅すぎるということがあるのだ。そのことをここでよく知っておかなくてはならない。もう遅すぎるということがあるのは、まさに愛の世界においてである。眠っているような愛、どうでもよいような愛、機械的にしか反応しない愛、マンネリ化してしまった愛は煮ても焼いても食えないものです。知らん顔をしている神になってしまう。われわれは眠るわけにはいかない。神の愛が呼んでいる。神の愛が呼び覚まそうとしている。眠るわけにはいかない。今、目を覚ませと、主イエスは声をかけておられる」と、言っております。
愛に応えるためには、遅すぎてはならないというのです。愛には遅すぎるということがある。遅すぎてしまったら、もう取り返しのつかないことになってしまうのです。生きた愛というのは、機械のようなものではないのです。タイミングというものがある、それに応えるという切迫さというものがあるということです。
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いつまでも神の愛とあわれみに甘えつづけていることはゆるされません。時のあるうちに、つまり、いますぐにという場合もあるでしょう。あすはわたしたちにとって確かではないからです。いますぐに、わたしたちを救おうとしておられる神に愛に目覚め、思い切ってそこに身を投げ入れていくことです。
 私たちはどのような不幸がやってくるかわかりません。あすにでも死が訪れてくるかもしぇれません。死がこうようが、不幸が訪れようが、神の愛にしっかりとつながれてしまえば、もはや恐ろしいものはなくなるはずです。神の愛を信じて生きる、これこそ運命や諦念、という暗い考えを乗り越える道です。

聖書によれば、人は神によって生かされているものであり、神とのつながりを失えば滅びるしかない存在です。ですから、神から離れた生き方をしている人間は神によって罰せられるというよりも、その生き方そのものが滅びに至るものなのだと言ってもよいのでしょう。

シャーデンフロイデ(独: Schadenfreude)とは、他者の不幸、悲しみ、苦しみ、失敗を見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情。ドイツ語で「欠損のある喜び」「恥知らずの喜び」の意味である。日本語で言う「様を見ろ」の感情であり、日本でのシャーデンフロイデの類義語としては「隣(他人)の不幸は鴨(蜜)の味」、同義の「メシウマ((他人の不幸で)飯が美味い)」が近い物として挙げられる。


Jesus faces down exactly the same problems of imagination amongst his listeners. 
They are idolatrously reassured in their linking of disasters with God’s will and issues 
of morality. Such  thinking enables stagnation, and a refusal to search for the real 
causes of such things. Unless we change our minds and heart (for that is what “repent” 
means), our desire and imagination, then we will remain within exactly the same 
enclosed world as those comforted by its deathly familiarity. Jesus has a horror of the 
ease with which we sacralize violence. How to get us out of it? A curve-ball thrown at 
our imagination. 
Step one: get people to identify God with a master coming to visit a fig tree in a 
vineyard – Isaiah and Joel help him to start with a familiar image. Step two: have the 
master do something utterly against Leviticus 25, and the law of  ‘Orlah – to demand 
fruit during the first three years. No fruit can be demanded for three years. Even in the 
fourth year, it is only first fruits, not profits, that are available. The demanding master 
who wishes to foreclose the entire operation by cutting down the tree cannot be God. 
Terrified imaginations think of God as the one foreclosing. In fact, foreclosing is 
directly against God’s law, and thus God’s imagination. Step three: perhaps our 
imaginations can be nudged towards thinking of God as more like the gardener who 
begs the master to repent, to change his mind and heart, and cease to foreclose. Then 
the gardener, not ashamed to get his hands dirty with dung, can perhaps nudge the tree 
into producing the first fruits in the fourth year. Step four: hint at Joel. Joel 1, 12 tells of a barren fig tree, a huge repentance by the people is demand of a barren fig tree, a huge repentance by the people is demanded, and then in Joel 2, 
22 the fig tree gives its full yield. All along, what God wants is people to receive 
abundance, for which he begs us to allow him to train our imaginations away from 
fear, scarcity and the violence that is their sacred mantle.

http://jamesalison.co.uk/pdf/eng70.pdf



4 lent C



四旬節4主日C 尼崎

【ルカ15:1-3,11-32〕


あいさつ

今日の福音は、放蕩息子のたとえ話です。私たちはたびたび神の愛に背き、罪を犯してしまいます。ときには弟のように欲望に目がくらみ、ときには兄のように嫉妬にかられて神の愛を否定します。けれども、お父さんである神は、いずれの場合も愛をもって迎えに来てくださるのです。

「徴税人や罪人たちが皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」
立派な人の周りには、立派な友人たちが集まります。偉い人々と知り合いであれば、その人も偉い人と思われます。偉い友人をもつことは人の誇りでしょう。そしてまた立派な人が集まる人を、私たちは立派な人として評価します。立派な人の近くには、そうでない人は近づきにくいものです。立派であればあるほど、有名な人しか近づけません。貧しい人、名もない人、弱い人々は立派な人に近づきませんし、近づけません。
 ところが、イエス様のところには、差別された人、病人、罪人たち、卑しいと思われていた仕事の人々が近づきました。宣伝したり招いたりする以前に、その人たちが進んで、自発的にイエス様に近づいたのです。イエス様の人格の不思議さを感じられます。イエス様を、自分たちと同じ罪人だと感じたのなら、わざわざ話を聞きに来ることもないでしょう。特別偉い先生だと感じたのなら、遠くから敬遠して近づくことはないでしょう。話を聞きに行くということは、何かを学べるということでしょう。近づけたということは、自分たちのように卑しめられた人間でも近づいていい、と思っただけではなく、近づきかたっかからでしょう。
 今の教会には「貧しい人の優先、谷間に置かれた人々、小さくされた人々」という看板を掲げているいるが、ちょっとボケているのではないかと思ったりします。旗を振って貧しい者に向かうのは、大きな矛盾ではないかと。教会が貧しい者に近づく、と考えることが、もう大きくなってしまったことを証明するのです。イエス様は何も看板をあげません。それなのに、いや、それだからこそ小さくされた人々の方から、イエス様に近づけたのです。イエス様は本当に偉大な方だったからこそ、最も小さな人になれたのでしょう。そして最も小さな人だったからこそ、小さい人々が自然に、安心して吸い寄せられたのです。
 今私は、小さい人々を安心して引き寄せる存在なのでしょうか。偉大な人ばかり追いかけているでしょうか。

父なる神の掟に従って生活をしているように見えながら、そこに喜びを感じることなく、実はいやいやながら、いつも不満を持ちながら。そのために神様からの恵みを与えられた人を見ると、嫉妬しか感じない。父なる神様の寛容さを批判し、神様が受け止めた人さえ受け入れない。そのような狭さがないでしょうか。

「ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」

私たちは、友達を選ばなければならい。友達が悪ければ、必ずといっていいほど悪に染まってしまいます。悪い友達を善に引き戻すより、こちらが悪に引きずられるのです(朱と交われば赤くなる)。人の心は元来悪に傾いており、善よりも悪に染まりやすくなっているのです。私たちは悪いことを、ほとんど友達から教わるのではないでしょうか。
しかし、イエス様は違います。悪い人たちを迎えて、回心させるために友達になりました。一緒に食事までしていることは、彼らの仲間であることを表しています。イエス様は、けっして悪人の悪に染まりませんでした。かえって、悪い友達を善人に変える、唯一の人でした。悪い人を見捨てるのは簡単です。つき合わないことも、かんたんです。しかし、友達として付き合いながら、その人に染まらずに、かえって回心させるのは至難のわざです。イエス様だけにしか、そしてイエス様からその使命を受けた人々にしか、できないことです(第二朗読参照)。
イエス様は私たちを捨てず、かえって友人となってくださって回心させてくださる方なのです。

朱と交わっても、どうやって赤くならないのか、これが私たちの課題といえるでしょう。

イエス様は進んで罪人を招き入れ、歓迎し、受け入れてくださいました。もしイエス様は義人だけを招くなら、それは義人の教会になります。しかし、義人の教会はまた、人を裁く教会でもあります。自分の正しさを証明するために、正しくない人を必要とするからです。しかし神は正しい人を必要としないのです。なぜならご自分こそ、もっとも正しい方なのです。イエス様の教会では、正しい人は救われないのです。かえって罪人が呼ばれ、迎え入れられるのです。つまり、罪人の教会のです。
 罪人の教会は、ゆるしの教会でもあります。そこでは人を裁きません。自分こそゆるされるべき存在だとわかるので、各自が自分を裁くのであって、人をさばくのではない。人を裁いているひまがないのです。イエス様が、正しい人でなく罪人を招いてくださったからこそ、だれでも恐れなくイエス様に近づけるのです。正しくなってからではなく、罪人のままで受け入れてもらって初めて、罪人は真に改心できるからです。(静)



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2007-03-18 08:32:00カテゴリー: Weblog

四旬節4主日C  園田(黙想会)

【ルカ15:1-3,11-32「放蕩息子」のたとえ】


この弟は要するに親から自立したいということだったのかもしれません。そして自立するこということは、親から離れないと、親から遠いところまでいかないと自立はできないと思っていたようなのです。

 しかし自立するということはそういうことなのだうろか。ここでたとえられているのは、父なる神とわれわれ人間ということなのですが、われわれは人間が自立するためには、神などはいらないと思うことだと考えるかも知れません。いつまでも神に頼って生きるなんてこと成熟した人間がやることではない、成熟した社会ではもう神などという存在は必要はないということで、「神は死んだ」といいだしたのであります。神には死んでもらわなくて困ると言い出して、神を自分達の思考範囲(生活)から追い出したのです。

 しかしそれによって人間は自立できたのだろうか。それは結局は、この放蕩息子のようにただ自分のしたい放題のことをするだけなのではないか、そしてやがてはせっかく手にした財産を全部失うことになるのではないか。

人間は神を追い出して、自分達だけの知恵とはからいで生きるのだと考え始めて、何がおこったかというと、自分達の欲望、そしてそれは言葉を換えていえば、自分の便利さということにつきるのではないかと思いますが、その人間の欲望を際限なく追求し始めたということになります。そしてその欲望は結局は強い者が、お金をもっている人間が手に入れる欲望にすぎないのであって、強いもの、権力のあるものだけが、自分のしたい放題のことをする、そして弱い者の虐げがはじまったのではないか。
そして自立するということは、自分のしたい放題のことをやること、自分達の欲望を自由に手に入れることだと考え始めた時に、今度は人間は自分達の欲望の奴隷になっていったのではないか。神のしもべになるのを拒否して、つまり神から自立しようとして、神から自由になろうとして、結局は今度は自分の欲望に振り回されることになったのではないか、それを聖書は「罪の奴隷になった」というのです。

自立するということは、自分のしたい放題のことをすることではなく、自分の人格を認めてもらうということ、自分を一人前として認めてもらうということであります。そしてそれはまたどんな人の前にたっても、自分が卑屈にならない、恐れないということでもあります。

自分を失わないということ、それが自立するということなのではないかと思います。 親の存在、親の権威を一切否定するということが自立するということではないはずです。

確かに親と子の絆というのは大変強いですから、その親から自立するためには、ある時期がきたら、親から経済的な支配から自立し、住むところを離れないと、自立できないということはあると思います。しかしそのようにして子供はだんだん自立してきますと、大人になりますと、今度は親と対等につき合えるようになって、親の人格というものを尊重できるようになるのではないかと思います。その時に子供は親から本当に自立したということになるのであります。親の立場を重んじるようになれないならば、いつまでたっても親に反抗するということでは、親から自立したとは到底言えない筈です。

息子が「帰ろう」と思ったときに、「父の所ではたくさんパンがある」というのがきっかけです。
  われわれが神を求めようという気持ちになるのも、結局はその動機はこの息子とあまりかわらないのではないかと思うのです。つまり御利益的なものであります。もちろんわれわれはそうあからさまに神を信じたら商売が繁盛するとか、病気が治るとかということは求めないかもしれません。しかしなんらかの意味で平安を得たい、安心を得たいということから、神を求めはじめるのではないかと思います。そのようにして聖書を読み始める、教会に通いはじめる、そしてそれを聖書はやはり悔い改めとして見ている、少なくともそれは悔い改めの第一歩だといっているのではないかと思います。

なぜなら、悔い改めるという言葉の意味は、もともとは方向転換する、向きを変えるということだからであります。彼は少なくも父親の方に向きを変えて歩み出したのであります。食にありつきたいという自分にむけての思いというものをかかえながらでも、父親のほうに体の向きを変えたということが悔い改めの第一歩なのだということです。

まだ心は自分に向かっているのです、自分の腹を満たしたい、自分が幸福になりたいという自分中心という思いはまだ自分に向かっているのです、しかしからだは父親のほうに、つまり父なる神のほうに向かっている、これがわれわれの悔い改めの姿ではないかと思います。これ以外の悔い改めの姿はあり得ないのです。

 しかしそれならば、どうして父親は息子が去っていった時に、彼を捜しにいかなかったのだろうか。イエスは羊飼の時には、迷い出た羊のために他の九十九匹をおいておいて探し求めたという話をなさったのに、ここでは息子を捜しにいかないで、ただ待っている父親の姿を描くのです。
 
ある人がこの父親の姿を「この父親はこの子が悔い改めて帰ってくるのを今か今かと待っている。自分の気持ちに負けて、子供を取り扱う父親ではない」といっております。それが父なる神の姿だというのです。
 
息子のほうで、「われに返って」、それがどんな不十分な悔い改めでも、ともかく足を父親のいる方向に向け始める、それまでは父親は待ち続けるというのであります。それが動物の羊だったならば、羊飼いのほうから探し求めるかもしれない。しかし相手は人間なのです。それならば、その放蕩息子の人格を、意志を、自由意志を、父親はあくまで尊重して待ち続けるということです。


 もし、悔い改めた後の父親と息子との関係が雇い人の一人としての関係になったならば、それは結局はギブ、アンド、テイクの関係、つまりこちらが働いたからその代わりの報酬として食物をもらうという関係、権利と義務という関係にすぎないことで、それは恵みによって救われるという関係ではなくなってしまう、父と子という人格関係でなくなってしまうのであります。
 

兄は、これはまさにパリサイ派の人々、律法学者の神に対する考えであります。自分たちはきちんとまじめに律法を守っている、だから、自分は救われる資格も権利もある、あなたにはわたしを救ってくれる義務があると神に要求しているのであります。それなのにあのだらしのない罪人とか取税人とあなたは一緒に食事をしている、それはどうしてなのか、と彼らはイエスに文句をいったのです。
 
 父親のほうは「わたしのものは全部あなたのものだ」というのであります。
決してキブアンドテイクという関係、もののやりとり、権利と義務という関係ではないというのです。お前はいつもわたしと一緒にいながらどうしてそのことがわからないのか、どうして神との関係を雇い人の関係でしかとらえられないのか、ということです。もしかしたら、私たちも神とはそういう関係でしか考えていないかもしれない。
 
けれども、父なる神はそのような関係を求めてはいないのです。あくまで父と子の関係の中にわれわれを招こうとしているのであります。そのためには、われわれのほうでその関係を心から望むまで、父なる神は忍耐強く、われわれを待ち続けてくださるのであります。この神にわれわれは気がつきたいと思うのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke58.htm

J.タイガーがこのような詩を書いています。(カトリック生活2002年9月)
「もし放蕩息子が / 父よりも先に兄と出会ったとすれば / 果たして家に入る勇気がもてただろうか
 私たちも気をつけよう
 父の家に戻ろうとしている兄弟姉妹たちが / 私たちの態度を見て / 助けられ、招かれるどころか
 逆に妨げられてしまうことのないように
 兄の態度は私たちに次のことをおしえている
 罪が徳を装い / 敵対心が穏やかな忠実さの中に / 身を隠すこともありうるのだと」

 父なる神の掟に従って生活をしているように見えながら、そこに喜びを感じることなく、実はいやいやながら、いつも不満を持ちながら。そのために神様からの恵みを与えられた人を見ると、嫉妬しか感じない。父なる神様の寛容さを批判し、神様が受け止めた人さえ受け入れない。そのような狭さがないでしょうか。
 兄のように正しい人なら、毎日、毎時間、神様と共に守られている喜びを実感しながら、感謝の祈りを捧げましょう。神様といつも共にある喜びを、多くの人を与らせたいと願いましょう。そうするなら、どん底まで落ちながら、やっと回心した弟。傲慢を打ち砕かれ、今はひたすら謙そんな姿で神様に回心するようになった弟の苦しみ。寛大な父を信頼することを選んだ勇気。やっとの思いで戻ってきた弟を、兄の立場からでなく、神様の立場から、一緒に喜べるようになるはずです。moseos

7 per annum C



年間第7主日C
【ルカ6:27-38 敵を愛せ】


主の祈りをとなえるたびに思うことは、「われらに罪を犯すものを赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という言葉の鋭さです。これは私たちの実存に深くメスを入れてくる主の言葉です。赦せないという気持ちをどこかで曖昧にしてごまかそうとしている私たちに、それは真正面から挑んでくる言葉でもあります。人間に自らの罪の姿、自分は赦されたいのに人は赦そうとしない自分勝手な罪の姿をつきつけてくる言葉なのです。しかしこの祈りがなければ主の祈りもこれほどの深みを持たなかったのではないかと思われる言葉でもあります。

2002年「世界平和の日」教皇メッセージ 正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません

1.ことしの「世界平和の日」は、あの9月11日の悲惨な出来事が投げかけた、暗い影のうちに迎えることになってしまいました。あの日、恐ろしい犯罪が発生しました。ほんの短い時間の間に、(...)数千人の罪もない人々が殺りくされたのです。それ以来、世界中の人々が(..)将来への新たな恐れを抱くようになってしまいました。このような状態が広がる中にあっても、教会は希望をあかししようとしています。それは、よこしまな悪が、人間世界において最高権威をもっているはずがないことを確信しているからです。(…)
 これは教会が2002年の初めに抱いている希望です。悪の力がまたしても優位に立っているように思える世界が、神の恵みによって人間の最も高貴な望みがかなえられ、真の平和が勝利する世界へと本当につくり変えられることへの願いです。 (…)

教皇がご自分の青年時代を思い起こしながらこう続けます。
 ナチスと共産主義の独裁体制によって引き起こされた、民族や個人が経験したとてつもない苦しみが―その中にはわたし自身の友人や知人も少なからず含まれていましたが―わたしの思いや祈りから離れたことはひとときもありません。わたしはしばしば、絶えることのない疑問に思いをめぐらしてきました。これほどまでに恐ろしい暴力に襲われているときに、どのようにして道徳的、社会的秩序を回復することができるのでしょうか? 省察と聖書の啓示によって次第に得られたわたしの確信は、破壊された秩序を完全に回復できるのは、ゆるしを伴った正義による応答だけだということです。

真の平和の柱は、正義と、その愛の形であるゆるしです。

3.しかし現在のような状況の中で、どのようにして、正義とゆるしが平和の源であり条件だと言うことができるでしょうか? このことがいかに困難であろうとも、そしてこの困難が正義とゆるしが両立し得ないと考えてしまう傾きからくるにしても、わたしたちにはそれができるし、そうしなければならない、というのがわたしの答えです。ゆるしは怒りや復讐とは対立するものですが、正義と対立するものではありません。実に、「正義が造り出すものは」(イザヤ32・17)真の平和なのです。(…)1500年以上もの間、カトリック教会は、このことについて聖アウグスチヌスの教えを繰り返してきました。聖人がわたしたちに思い起こさせてくれるのは、この世界で築き上げることが可能で、また築き上げなければならない、正しい秩序のある平和、すなわち、tranquillitas ordinis、秩序の静けさ(安定、安泰)(『神の国』19巻13章参照)です。
 ですから、真の平和は、正義の実りである。(…)しかし人間による正義は、いつももろく不完全で、個人やグループの持つ限界や利己主義にさらされるために、乱された人間関係をその基礎からいやし、再構築するゆるしによって、強められ、ある意味では補完されなければなりません。こうしたことは、個人またはより広いレベルで、また国際社会の規模にまでいたる状況においても言えることです。ゆるしは決して正義と対立するものではありません。ゆるすことは、損なわれた秩序を回復する当然の必要を見過ごすことを意味しないからです。ゆるしはかえって、秩序の静けさへと続く正義に満ちた状態へ向かっています。その静けさは、もろく一時的な敵意の中断ではなく、人の心の底を流れている深い傷をいやすものです。このようないやしには、正義とゆるしがともに欠けてはならないのです。
 このような平和がもつ二つの側面を、このメッセージで考えていきたいと思います。(…)
テロ行為の実体4.
正義とゆるしに基づくはずの平和そのものが今、国際テロの攻撃を受けています。(…)
5.ですから、テロ行為に対する自衛権が存在するのです。それはいつも、目的と手段の選択において、人道的かつ法的制限を尊重しつつ行使されねばならない権利です。犯人の特定は正しく行われねばなりません。犯罪の責任はいつも個人的なものであり、テロリストが属する国家や民族グループ、または宗教にまで拡大されるようなことがあってはなりません。またテロ活動に対抗するための国際的協力は、特に政治的、そして外交的、経済的努力をも要し、テロリストたちの企みを加速させる抑圧や疎外といった状況を解決するための勇気と決意を伴わねばなりません。テロリストを募ることは実際、権利が踏みにじられ、不正義が長い間まかり通ってきたような状況では、比較的容易になります。
 それでも、はっきりと強調しなければならないのは、世界に存在する不正義をテロ行為の言い訳に使ってはならないということです。さらには、テロ行為が狙っている秩序の根底からの破壊で犠牲になるのは、だれよりも、国際的連帯の崩壊に持ちこたえられるだけの蓄えがない、数え切れないほどの人々なのです。わたしが言っているのは、発展途上にある地域に住み、すでに生きていくのがやっとの状態で暮らしていて、世界規模の経済的、そして政治的混乱で最も悲惨な影響をこうむることになる人々のことです。貧しい人々のための行動だとするテロリストたちの主張は、明らかな偽りです。

神の名により殺してはならない!6.テロ行為によって人を殺す人たちは、人類に対するさげすみの感情を増殖させ、いのちと未来に対する絶望感を明らかに示しています。(…)テロ行為は、ただ人々を道具にしてしまうだけでなく、神をも道具として、自分たちの目的のために偶像にまでおとしめています。

7.ですから、いかなる宗教指導者も、テロ行為に寛容な姿勢を示すことはできず、ましてやそれを推奨することなどあり得ません。神の名によって自らをテロリストと宣言することは、宗教を冒涜する行為です。テロによる暴力は、人を創造し、人をいつくしみ、愛してくださる神への信仰と矛盾するものです。そして特に、弟子たちに「わたしたちの負い目をゆるしてください、わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたように」(マタイ6・12)と祈るよう教えられた主イエス・キリストへの信仰に反するものです。
 イエスの教えと模範に倣い、キリスト者は、あわれみ深い者となることが、わたしたちのいのちの真理を完全に生きることを意味していると確信しています。わたしたちは、あわれみ深い者になることができますし、またそうならなければなりません。(…)

ゆるしの必要8.
しかし具体的には、ゆるすとは何を意味するのでしょうか? そしてなぜゆるすのでしょうか? ゆるしについて省みるとき、こうした問いを避けることはできません。ここで、1997年の世界平和の日のメッセージ(「どうかゆるし合ってください、そして平和を手にしてください」)でわたしが書いたことに立ち返り、再確認したいことは、ゆるしは社会で現実となる前に、人々の心のうちに生まれるものだということです。倫理とゆるしの文化が保障されて初めて、「ゆるしの政治」にも期待できるようになるのであって、それは社会の姿勢や法制に表れ、それによって正義が人間らしい表情を見せるようになるのです。
 実際、ゆるしは何よりも個人的な選択であり、感情のおもむくままに悪に対して悪をもって返そうとする傾きに対する心の決断でもあります。この決断の基準は、神の愛に置かれています。神はわたしたちの罪にもかかわらず、わたしたちを受け入れてくださいます。それは、キリストが十字架上で、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)と祈られた、至高なるゆるしの模範に示されています。
 ですから、ゆるしは神からのもので、神の尺度によるものです。これは、その意味が人間の理性に基づく考察に照らすことで理解し得ないということではありません。そしてなによりもまず、人間が過ちを犯したその経験にかかわることなのです。そこで、人は自らの弱さに気づき、他の人から寛容に接してもらうことを望むようになるのです。それではなぜ、他の人を自分がしてもらいたいように扱わないのでしょうか? すべての人がその内面に、いのちの道へと立ち返り、自らが犯した過ちや罪に囚われた状態から永遠に解放されたいという望みを抱いています。彼らは皆、あらためて未来に目を向け、信頼と責任を伴う新しい展望を見いだしたいと願っています。

9.人による行いという意味では、ゆるしは何よりも、隣人との関係において、個人の心から自発的に出てくるものです。しかしながら人は、本質的に社会的側面をもっていますので、このことによって社会的な関係が組織化され、その中で個人が表現されることになります。それはいつも良く表れるとは限らず、残念ながら、悪く出ることもあります。この結果、社会的なレベルでも、ゆるしが必要になるのです。家庭やグループ、国家が、そして国際社会そのものも、ゆるしに開かれている必要があり、それは、損なわれた関係の回復や、不毛な非難の応酬がもたらしている状況の克服、抗議する機会さえ与えずに他者を排除したいという傾きに打ち勝つために必要なのです。ゆるすことのできる度量は、より公正で連帯を伴う未来の社会を築こうとするどんな計画にも、基礎として必要なものです。
 その逆に、ゆるすことができないとしたら、特にそのことで紛争の継続が避けられなくなってしまう場合には、人々の発展にとって多大な損失をもたらすことになります。資源は、軍備増強への路線を維持し、戦争に使われる費用、経済的報復の結果に対応するために使われます。このようにして、発展や平和、正義を促進するために必要な財源は、なくなってしまうことになります。ゆるすことを知らないということが、どんなにか人類を苦しめることになるでしょう! ゆるしを知らないことで、どんなにか進歩が遅れることでしょう! 平和は発展への条件ですが、真の平和はゆるしを通してだけ可能になるのです。

ゆるしこそが本道10.ゆるしを申し出てもすぐに理解され、または受け入れられるものではありません。確かにそれは逆説的なメッセージなのです。実際、ゆるすことはいつも、目に見える短期的な損失を伴いますが、それは長期的には確かな利得を保証するものです。暴力はこれとは正反対に、目に見える短期的な利益を得ることはできますが、長い目で見ると、実質的で永続的な損失を受けることになります。ゆるしが弱さと思えることがあるかもしれませんが、実際には、ゆるしを与えるにせよ、受けるにせよ、何事にも屈しない、非常に強い精神力と人道的な勇気が必要とされるのです。ゆるしはわたしたちを弱くするどころか、より完全でより豊かな人間性に向かわせ、創造主なる神の輝きをより明るく照らし出すものとしてくれます。
 福音への奉仕というわたしの職務は、ゆるしの必要性を説くことがわたしの務めであることを深く意識させ、また同時にそうする力を与えてくれます。わたしはきょうもそうしていますが、それはこのテーマに関する真剣で成熟した考察を呼び覚ますことができるという希望に支えられ、一人ひとりの心のうちに、そして地球上の民族の関係のうちに、すべてが刷新されることを願っているからです。

(…)
13.いかなる所においても、また一切の例外なく、罪もない人々を故意に殺害することが、重大な罪であるという人道的真理を共にあかししていく上で、世界の宗教指導者たちは、人道的に正しい世論を形成する助けとならねばなりません。これは、正義と自由のうちに秩序の静けさを追求できるような国際的市民社会を築き上げていくために必要な条件です。
 宗教によるこのような決意は、相互理解と尊重、信頼へと続く、ゆるしへの道を進むことを要求します。平和のために、そしてテロに対抗するために、宗教ができる奉仕は、まさにゆるしを教えることにつきます。ゆるしを与える人、ゆるしを受ける人は、より偉大な真理があることと、その真理を受け入れることで、自身の限界を乗り越えることができることを知っているからです。

平和への祈り14.(…)平和のために祈ることは、神のすべてを新たにされる力の到来に、人の心を開くことを意味します。神はそのいのちにあふれた恵みの力で、障害と行き詰まりばかりが明らかな場合にも、平和への道を開くことがおできになります。神は、分裂と戦いの長い歴史があろうとも、人類家族の連帯を強め、広げることもおできになるのです。平和のために祈ることは、正義のために祈ることでもあり、国家内と国家間の関係に適切な秩序を祈ることでもあります。またそれは、自由を願い求めることで、特に、すべての人の基本的な、そして市民としての権利である信教の自由を祈ることです。平和のために祈ることは、神からのゆるしを願い、それと同時に、受けた攻撃をゆるすために必要な勇気を願い求めることです。
 (…)
15.正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません。これはわたしが、このメッセージの中で、神を信じる人と信じていない人、人類家族の幸福と将来を案じているすべての善意の人々に伝えたいことです。
 正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません。これはわたしが、人類共同体の行く末を握っている人々に思い起こしてほしいことで、その重大で困難な決断が、共通善を視野に入れつつ、人間の真の利益に照らして行われるよう願うものです。
 正義なしに平和はなく、ゆるしなしに正義はありません。さまざまな理由をつけては、その内面に、憎しみまたは復讐心、破壊への願望をかき立てている人々に対して、わたしはこの勧告をあくことなく繰り返していきます。
 この「世界平和の日」に、すべての神を信じる人の心から、テロ行為の犠牲となった方々、その悲劇に打ちひしがれている遺族の方々、そしてテロ行為と戦争によって、今も傷つけられ、苦しめられているすべての人々のために、より強い祈りがささげられますように。わたしたちの祈りの光が、その情け容赦ない行為で、神と人に対して重大な攻撃をしかけている人々にさえも及び、彼らが、自分たちが引き起こしたことに思いを向けて、その悪に気づくことで、すべての暴力的意図を捨て去るよう突き動かされ、ゆるしを願うまでになりますように。この多難な時に、全人類家族が、真の永続的な平和を見いだすことができますように。そうした平和は、正義とあわれみの出合いからだけ生まれるものです。

(2001年12月8日、バチカンにて、教皇ヨハネ・パウロ二世)
(翻訳 カトリック中央協議会事務局) 

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5 lent C

四旬節5主日 C年 

【ヨハ8:1-11 姦通の女(姦淫の女)】




この話は感動的です。たしかに、この物語はヨハネ福音書に後から挿入された物語かもしれませんが、恩恵の支配を説かれたイエスの姿を実に感動的に伝えています。イエスはここでは恩恵の支配を言葉で説かれるのではなく、身をもって示しておられます。女の側にかがみ込んで地面に何かを書いておられるイエスは、その行動によって女を身をもってかばっておられるのです。群衆がその女に石を投げるならば、そばでかがみ込んでいるイエスに当たることは避けられないでしょう。女に石を投げることは、イエスに石を投げることになります。イエスは律法を守れない女と同じ立場に身を置き、その女と一つになって、違反者に対する律法の裁きを受ける場に留まられます。そして、この聖なる人イエスに石を投げることができず、群衆が一人また一人と立ち去った後、ただ一人裁くことができるイエス御自身が、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されます。ここには、父の恩恵が人間の罪を包み込み、乗り越えている現実が、見事に物語られています。

(2)  古代イスラエルにおいて「姦通」とは、男性が他人の妻(または婚約者)と性的関係を結ぶことでした。逆の場合、つまり、男性が自分の妻以外の独身の女性と関係することは「姦通」ではありませんでした(これが姦通とされるのは、キリスト教になってからのことです。マルコ10・11-12参照)。律法は姦通を厳しく禁じていました。たとえば、レビ記20章10節。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(なお、「姦淫」は不道徳な性行為全般を指す言葉ですので、「姦通」も行為としては「姦淫」の一部ということになります)。
 もちろん、男も女も同罪ですが、今日の福音の物語では女性だけが捕らえられています。男は逃げてしまったのでしょうか?あるいは男のほうは見逃されたのでしょうか?男女同罪のはずなのに、社会は昔から女性のほうに厳しかったようです。

  (3) いずれにせよ、イエスがもしこの女をゆるせば、律法を無視したことになり、「石で打ち殺せ」と言えば、神のゆるしを告げてきたイエスの生き方とメッセージに反することになります。どう答えてもイエスは窮地に追い込まれることになるのです。
 人々はこの女性とイエスを取り囲んでいます。彼女は姦通の罪を犯したことで人々の裁きの前に立っていますが、イエスもこの女性をどう扱うか、ということで、人々に裁かれる側に立たされていると言えるのではないでしょうか。なお、このときイエスが地面に何を書いていたか、いろいろな想像がありますが、どれも想像の域を出ません。ただ、かがみこんでいるイエスの姿は印象的で、どこか弱々しく感じられるかもしれません。
 人々は裁く側、イエスと彼女は裁かれる側。この構図を一変させたのは、7節のイエスの言葉でした。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。この一言によって、そこにいたすべての人は神の裁きの前に立たされます。そして、自分が神の前で罪人(つみびと)であることを認めざるをえなくなるのです。

  (4) 人々は去っていき、イエスとその女性だけが残りました。「わたしもあなたを罪に定めない」とイエスは言います。「罪に定めない」というのは、その人の行為を良しとしているのではありません。あなたの罪にもかかわらず、わたしはあなたの死を望まない、あなたが生きることを望んでいるということです。彼女は自分が神の裁きの前というよりも、もっと大きな神の愛とゆるしの前に立っていることに気づいたはずです。
 きょうの福音がわたしたちに問いかけていることはなんでしょうか。1つには「わたしたちは皆、神の前に罪人である」ということを本気で受け取ることができるかどうか、ということでしょう。人を裁く前に、自分も神の前に罪人であり、その自分が神のあわれみによって生かされている、と感じること。そこから自分以外の罪人に対してどう関わるかが問われてくるのです。罪人を、社会を害する迷惑な存在であり、抹殺すべき対象と見るか、自分と同じように弱い兄弟姉妹であり、立ち直って生きることを願うか。
 もう1つはこの女性のように、ゆるされたことの重み(=はかりしれない恵みの大きさ)を本気で受け取れるかどうか、ということでしょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」というイエスの言葉は、「まあまあなかったことにして、見逃してあげよう」という言葉ではありません。「これからゆるしを受けた者として、まったく新たな生き方を始めていきなさい」ということなのです。

昔と違って、今日はこんなことがいわれます。「1回限りの人生だから、自分を抑え、後悔を残したまま一生を過ごしてしまうよりは、自分に素直に、本当に後悔しない人生を生きたほうがいい」。 「自分の人生だから、自分で自由に決めればいい。後悔することになってもそれは自分が選んだ道なのだし、そのことから学べばそれでいい。逆に自分を豊かに大きく成長させる機会になる」。 「好きでもなくなった人と生涯を共にして嘘を貫くより、本当に好きな人ができたなら、その人と一緒になったほうが誠実な生き方だ」。

これは、現代人にとって大変な魅力をもったことばですが、多くの人々がそのために傷つき、涙ながらに苦しんだ現実を見たとき、絶望の淵に立たされた状況をみたとき、これはそんなのんきな問題ではない、本当に命がかかわる深刻な問題だと、考えるべきです。

マザーテレサがこのようなことを言っています。
 「あなたの思いに気をつけなさい。さもないと言葉になるから。あなたの言葉に気をつけなさい。さもないと行いになるから。あなたの行いに気をつけなさい。さもないと習慣になるから。あなたの習慣に気をつけなさい。さもないとあなたの人格になるから。あなたの人格に気をつけなさい。さもないとあなたの運命になるから」。

“Watch your thoughts, for they become words.
Watch your words, for they become actions.
Watch your actions, for they become habits.
Watch your habits, for they become character.
Watch your character, for it becomes your destiny.”

まずはすべて「思い」から始まります。姦通も盗も、この異性・この物にひかれるところから起こります。ひかれることは誰にもあるので、思いだけでは実際には罪にはなりません。しかしすべて罪の始まりがあります。

もちろん過ちを犯したとしても、神は赦すものです。しかし神様は本当に、人間の人生を大事に思っているからこそ、そのような危険を冒すなとおっしゃってくださっているのだということも忘れないようにしましょう。

神様はよい人の上にも、悪い人の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる。この四旬節の残りにそうした神の心を学びたいと思います。

Wednesday, January 2, 2013

il Natale del Signore illumina ancora una volta Udienza 2 gennaio

il Natale del Signore illumina ancora una volta con la sua luce le tenebre che spesso avvolgono il nostro mon- do e il nostro cuore, e porta speran- za e gioia. Da dove viene questa lu- ce? Dalla grotta di Betlemme, dove i pastori trovarono «Maria e Giusep- pe e il bambino, adagiato nella man- giatoia» (Lc 2, 16). Di fronte a que- sta Santa Famiglia sorge un'altra e più profonda domanda: come può quel piccolo e debole Bambino avere portato una novità così radicale nel mondo da cambiare il corso della storia? Non c'è forse qualcosa di mi- sterioso nella sua origine che va al di là di quella grotta?
Sempre di nuovo riemerge così la domanda sull'origine di Gesù, la stessa che pone il Procuratore Pon- zio Pilato durante il processo: «Di dove sei tu?» (Gv 19, 29). Eppure si tratta di un'origine ben chiara. Nel Vangelo di Giovanni, quando il Si- gnore afferma: «Io sono il pane di- sceso dal cielo», i Giudei reagiscono mormorando: «Costui non è forse Gesù, il figlio di Giuseppe? Di lui non conosciamo il padre e la madre? Come dunque può dire: "Sono di- sceso dal cielo?"» (Gv 6, 42). E, po- co più tardi, i cittadini di Gerusa-
lemme si oppongono con forza di fronte alla pretesa messianicità di Gesù, affermando che si sa bene «di dov'è; il Cristo, invece, quando ver- rà, nessuno saprà di dove sia» (Gv 7, 27). Gesù stesso fa notare quanto sia inadeguata la loro pretesa di cono- scere la sua origine, e con questo of- fre già un orientamento per sapere da dove venga: «Non sono venuto da me stesso, ma chi mi ha mandato è veritiero, e voi non lo conoscete» (Gv 7, 28). Certo, Gesù è originario di Nazaret, è nato a Betlemme, ma che cosa si sa della sua vera origine?
Nei quattro Vangeli emerge con chiarezza la risposta alla domanda «da dove» viene Gesù: la sua vera origine è il Padre, Dio; Egli proviene totalmente da Lui, ma in un modo diverso da qualsiasi profeta o inviato da Dio che l'hanno preceduto. Que- sta origine dal mistero di Dio, "che nessuno conosce", è contenuta già nei racconti dell'infanzia dei Vangeli di Matteo e di Luca, che stiamo leg- gendo in questo tempo natalizio. L'angelo Gabriele annuncia: «Lo Spirito scenderà su di te, e la poten- za dell'Altissimo ti coprirà con la sua ombra. Perciò colui che nascerà sarà santo e chiamato Figlio di Dio» (Lc 1, 35). Ripetiamo queste parole ogni volta che recitiamo il Credo, la Professione di fede: «Et incarnatus est de Spiritu Sancto, ex Maria Virgi- ne», «per opera dello Spirito Santo si è incarnato nel seno della Vergine Maria». A questa frase ci inginoc- chiamo perché il velo che nasconde- va Dio, viene, per così dire, aperto e il suo mistero insondabile e inacces- sibile ci tocca: Dio diventa l'Emma- nuele, "Dio con noi". Quando ascol- tiamo le Messe composte dai grandi maestri di musica sacra, penso per esempio alla Messa dell'Incoronazione di Mozart. notiamo subito come si soffermino in modo particolare su questa frase, quasi a voler cercare di esprimere con il linguaggio universa- le della musica ciò che le parole non possono manifestare: il mistero gran- de di Dio che si incarna, si fa uomo.

Osservatore 3 gennaio 2013


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