Friday, April 26, 2019

Summa Contra Gentiles Bokk II 16 (932-943)


16
神は万物の存在は無から想像されたこと


932

以上のことから、神は物事を存在に産出したのは、もとの材料(質料)として先在するものからではない、ということは明白である。[1]


933

神から出た効果に先在するものがあるか、あるいは先在するものはないか、どちらかである。先在するものがなければ、上記の命題は然りとなる。つまり、何も先在することなしに、神は何らかの効果を産出する。ところが、先在するものがあれば、無限の系列に遡るか、ただしそれは哲学者〔アリストテレス〕が『形而上学』第2巻(994a1-b31)で証明しているように、自然的原因において不可能である。あるいは、何も別の前提をもたない何か第一のものにたどり着くか、どちらかである。しかし、その第一のものは、神自身以外はありえない。実際、第一巻(第17章)で示されたように、神は何かのもとの材料ではない。そして先(前章)で示されたように、神以外のもので、神がそれの存在原因ではないものはない。残るは、神の産出する効果には、先在する材料、それをもとに働きかけるものはない、ということである。

934

いかなる質料も、形相を受けることによって、一定の種に限られるようになる[2]。従って、先在するものから働きかけ、何らかの形相を持たせる動者は、一定の種に限られる動者であることは明らかである[3]。ところが、こういう動者は特殊的な動者である。原因は結果に比例するから。従って、そこから働きかけるために先在する材料を必要としている動者は、特殊的な動者である。ところが、神は、先に(前章)示されたように、存在の普遍的原因として働きかけている。従って、神は働くために何も先在するものを必要としない。

935

さらに、ある結果が普遍的であればあるほど、その固有の原因は高度でなければならない。なぜなら、原因は系列に高ければ高いほど、その能力はより多くのものに及ぶからである[4]。さて、存在は運動よりも普遍的である。自然哲学者も教えているように、石など不動の存在者もあるから。従って、運動させ変化させるしかできない諸原因の上に、存在させる原理となるあの原因があるはずである。ところが、そのような原因は神こそであると示してきた(前章)。従って、神は働くのは、運動させ変化させるに限らない。しかし、先在する材料なしに、物事に存在を与えることはできない諸現実は、運動させ変化させるしかしない。質料から何かを作りだすのは、何らかの運動か変化を通じてであるから。従って、先在する質料なしに、物事を存在に産出することは不可能ではない。

936

また、運動させ変化させるしか働かないものは、存在することの普遍的原因に適しない。実際、運動や変化を通じて、非存在から端的に存在は出てこない。むしろ、非乙から乙が出てくるのである[5]。ところが、先に(前章)示されたように、神は存在することの普遍的原理である。従って、運動させ変化させるしか働かないことは、神には適しない。従ってまた、何かを作りだすときに、先在する材料を必要とすることも、神に適しないのである。

937

「すべての作用者は、何らかの方法で自らに似たものを作る」[6]。しかし、作用者は、現実態にある限り、作用するのである。したがって、何らかの方法で材料に形相を内在させることによって効果を生み出すことは、その作用者全体によってではなく、それに固有の形相によって実現態にある作用者に適切である。こうして、哲学者〔アリストテレス〕は、『形而上学』第7巻(1033b10)で、物質の中に形相を持っている物質的なものは、それ自体として実在する形相によってではなく、物質の中に形相を持つ物質的な作用者によって生成されることを証明している[7]。しかし、神は、神に内在する何かを通してではなく、上で(第一巻第2223章)証明されたように、全体的な実体を通して、行動している存在である。それゆえに、神の行動の正しい様式は、単なる内在する実体、すなわち物質における形相ではなく、存在するもの全体を生み出すことである。さて、その行動に材料を必要としないすべての動者はこのように振る舞う。その結果、神の行動において、神は既存の事柄を必要としない。

938

そしてまた、物質はその作用者から始まる作用の受動者として、作用者に関して成り立つ[8]。実際、作用は、作用者に属するのは、出発点としてであり、受動者に属するのは、内在的なものとしてである。したがって、物質は、それがその作用者の行為を受けることができるためにその作用者から要求される。受動者の内在で受け止められる作用者の行動は、受動者の実際の実態であり、その中にある形相、または形相の始まりである。しかし、上で(本巻第89章)証明されたように、神の行動は自らの実体であるので、受動者に受け入れられなければならない行動ではない。したがって、神は効果を生み出すために既存の事柄を必要としない。

939

また、その行為が物質の以前の存在を必要とするすべての作用者はその行動に比例した物質を所有しているので、作用者の可能性はすべて物質の力の範囲内にあるものである[9]。さもなければ、作用者はその有効な力の範囲内にあるもの全てを実現することができず、それゆえ、それが実現できないことに関しては、その力を無駄に持つことになる。しかし、物質はそのような神との比例関係にはない。 哲学者〔アリストテレス〕は、『自然学』第3巻(206b15-27)で指摘しているように、特定の量に対するポテンシャルは存在しない[10]。これに対して、第一巻(第23章)で証明されたように、神の力は絶対的に無限である。それゆえに、神の行動のための必要な根拠として、神は既存の事柄を要求されない。

940

さらに、それぞれ異なるものには異なった質料がある。なぜなら、霊(精神)的な事柄は物体的な事柄の質料と同じではなく、天体の質料も腐敗しやすい物体の質料と同じではないからである。確かに、これは、物質の性質である受容性がこれらの存在者において同じ性質ではないという事実から明らかである。霊的なことへの受容性は、その性質上理解可能である。こうして、知性は、それらの物質的存在ではないが、理解可能なものの種を受け取る。天体は新しい地位を獲得するが、下部の存在者がそうであるように、新しい存在を受けない。それゆえ、普遍的な存在に潜在的なものは何一つもない。しかし、神は物事の総体的存在(totius esse)に関して普遍的に生産的である。それで、比例した方法で、神に対応するいかなる質料もない。それゆえに、神は質料を必要としない。

941
さらに、諸事物の間に相互の比例関係や秩序が見いだされる場合、それらのもののうちの1つは他のものから、または両方は第三者のあるものから派生させる必要がある[11]。秩序は他のものに対応することによって設立されなければならないからである。さもなければ、秩序や比例は偶然の結果となろう。しかし、それは物事の第一原理では許されない。なぜなら、それを認めるとそれから尚のこと他のすべてが偶然であるという結論になってしまうから。であるから、神の行動に比例した質料が存在するのであれば、それは一方が他方から派生したものであるか、または両方とも第三者のものから派生したものであるか、どちらかである。しかし、神が最初の存在であり最初の原因であるので、神は物質から出た効果であることはできず、また神が自分の存在を第三者の原因から引き出すこともできない。それゆえ、神の行動に比例した質料が存在するのであれば、神ご自身がそれの原因であるということに変わりはない。

942

さらに、最初に存在するものは、必然的に存在するものの原因である[12]。なぜなら、それらが引き起こされていないのであれば、先(941)示したように、最初から存在するものに秩序付けられないからである。さて、現実態と可能性の間で得られる順序は次のとおりである。一つの同じことにおいて、時々現実態であったり可能態にあったりするが、時間的には現実態より可能態は先在する。本性的には現実態は可能性よりも前にあるはずであるが。それにもかかわらず、絶対的に言えば、現実態は必然的に可能性の前にある。これは、実際に存在していること以外には可能性が実現されていないという事実から明らかである。しかし、物質は潜在的にしか存在しない。であるから、純粋な現実である神は、絶対的に物質の前にいなければならないし、その原因でなければならない。それで、物質は必ずしも神の行動のために前提とされない。

943

また、ある意味で第一質料[13]は存在する。それが潜在的に存在するからである。しかし、神は上(前章)に示されたように、すべての原因である。それゆえに、神は第一質料の原因であり、第一質料以前には何も存在しない。それゆえ、神の行為は既存の性質を必要としない。聖書はこの真実を承認している。「初めに神は天と地を創造された」(創世記11)。実際、創造するということは、既存の物質なしに何かを存在に産出することに他ならない。この真理は、物質には何の原因もないと主張した古代の哲学者の誤りに反論している。彼らは、特定の動者の行動には、常にその行動の根底にある先行する何かがあると認識していたからである。そしてこの観察から、彼らはすべてに共通の見解を仮定した。つまり、「無から何もならない」。さて、確かに、これは特定の動者に当てはまる。しかし、古代の哲学者たちは、全存在の生産者である普遍的な動者の知識にまだ達していなかった、そしてこの普遍的動者の行動には何も前提をおく必要はないのである。




[1] 本章には、11の論点が論じられる。最後の論点以外、creatio(創造)ということばは使われていない。
[2] たまごを材料に、ゆで卵、ハムエッグ、ニラ玉、炒め卵、などが創ら得る。
[3] 卵を産むのは鶏、卵を料理に使うのは料理人。
[4] 行政において、県の公務員は市の公務員よりも広い働きができる。
[5] 「非オムレツ」であるたなごから、「オムレツ」が出てくる。
[6] “Omne agens agit simile sibi”。スコラ哲学の基本命題の一つ。上掲、48, 270, 393, 413, 907参照。以下、964, 977, 986, 992, 1004, 1067, 1173, 1176, 1201, 1220, 1225, 1233, 1286, 1562, 1736, 1830, 1833, 2007, 2035, 2292, 2449, 2452, 2825参照。
[7] 「なるほど、青銅の球としての存在は我々によって作りだされる、すなわち我々はこれを青銅と球とから作り出す。というのは、これこれ〔の質料〕のなかにこれこれの形相を作りこんで、そしてそこに作られてあるこれが青銅の球なのであるから。しかし、もし一般に球なるもの〔球の本質〕に生成があるとすれば、これもまた或るものから或るものという仕方で生成するのであらねばならない。なぜなら、生成するものは常に部分を有するものであらねばならず、そしてその一つの部分はあれであり他はこれである、すなわち、一つは質料で他は形相であらねばならない。そこで、もし〔球の本質が生成しうるものであり我々の作りうるものだとすれば、そして〕この球なるものが「その球面のすべての点がその中心から等距離にある図形」であるとすれば、これの一つの部分は我々の作ろうとしているこのもの〔球なるもの〕がそれに包摂されるところのそれ〔すなわち類としての図形〕であり、他の部分はそれに包摂されるところのもの〔種差としての等距離性〕であり、そしてその全体はこれらから生成したもの〔球そのもの〕で、さきの例で言えば「青銅の球」に比せられるものである。さて、上述からして明白なことは、まず(1)形相または実体〔形相としての実体〕の意味で言われるものは生成せず、生成するのは〔質料と形相との〕結合した実体(すなわち形相としての実体の名で呼ばれる具体的個物)であるということ、および(2)およそ生成した事物にはすべてそれに質料が内在しており、そしてその一部分はこれ〔質料〕であり他の部分はあれ〔形相〕であるということである。」(出隆(いで・たかし)訳、岩波文庫)
[8] 小麦粉はパンになっていくのは、パン屋さんの作用を通してである。
[9] 画家たちは、ウルトラマリンという色を作るために、ラピスラズリ―という物質を使ってきた。例えば、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」や、聖母マリアの衣装などは、ラピスラズリ―無しでは、制作することは不可能であったと言われている。
[10] 人間の身体は十倍になる可能性はない。
[11] リンゴの値段は、需要と供給の比例関係で決まる。天気の悪い場合は、供給は下がり、値段は上がる。
[12] エンツォ・フェラーリは、自動車メーカーフェラーリの創設者として、ある意味では存在するすべてのフェラーリの原因である。
[13] 全く質料をもたない純粋形相(神)に対する全く形相のない純粋質料という概念。現代の自然科学で言えば、すべての物質の根本(たとえば、「原子」や「量子(quantum)」に共通するエネルギーがあると考えているのに似ている。

Summa Contra Gentiles II 11-15 (905-931)


11
被造物との関係において神について語られる事柄について

905

能力はその結果との関係において神に帰せられるので、そして既述(前章)のように、能力は原理(原因)という意味合いをもち、原因は原因されたものとの関係で語られるために、神の働きの結果との関係で神に帰せられうる事柄があるとは明らかである。

906

また、甲は乙と関係していると言いながら、乙は甲と関係しているということは言えないことは考えられない。さて、物事は神と関係していると言われる。それは、まさに神からもらっている存在においてであり、上記(本巻第6章)のように、神に依存するからである。従って、逆に、被造物との関係で神について語られる事柄がある。

907

なお、似ていることは、関係の一種である。ところが、「作用者は自らに似せて作用するものである」[1]と言われるように、神も自らに似せて物事を造っている。従って、神との関係で語られる事柄がある。

908

さらに、知識は知られる事柄との関係において語られる。しかし、神は自分自身についてのみならず、他なる物事についても知識をもっている。従って、神と諸事物の関係について語られることがある。

909

また、動かす者は動かされる者との関係で語られる。動者がその結果との関係と同じように。上記のように(I13)、神は動者であり、動かす者である。したがって、神について関係は語られ得る。

910

また、「第一」とは何らかの関係を含んでいる。「最高」も同じである。ところが、第一巻(1341)で示されたように、神は第一存在であり、最高善である。

911

結論として、神についていろいろ関係的なことがらが語られるのは、明らかである。

12
被造物との関連で神に帰せられる諸関係は、実は神のうちにないこと

912

被造物との関連で神に帰せられる諸関係は、実際には神のうちにあることはできない。

913

実際それらは、主体に関わる諸偶有性のように、神にあることはできない。第一巻(第23章)で示されたように、神に何の偶有性もないからである。神の実体(本質)そのものであることもできない。なぜなら、哲学者〔アリストテレス〕は『範疇論』(6a36-37; b6-8; 8a39-b1)で言っているように、「関連するものごとは、その存在性において他なるものに関わる」からである。こうなれば、神の実体そのものは、別なるものとの関わりで語らなければならないことになろう。ところが、他なるものとの関連で語られるものは、その他なるものに依存することになる。それなしには、存在することも理解されることもできないからである[2]。従って、神的実体は外なるものに依存することになってしまう。こうなれば、第一巻(第15章)で示されたように、それ自体で「必然的に存在する」ことではなくなってしまうだろう。従って、上記の諸関係は実際には神のうちにはない。

914

また、第一巻(第13章)において、神はあらゆる存在者の第一尺度であることは示された。従って、神と他なる存在者との関係は、認識可能なあらゆるものと我々の認識との関係に比例している。我々の認識は認識対象の尺度であるから。なぜなら、哲学者の『範疇論』(4b8-10)に従って言えば、「事物が存在するかしないかによって、意見や命題の真偽は決まる」からである。ところが、理解可能とは認識に関して語られるが、その関係は実際は認識可能なものになく、認識においてのみ存在するのである。そのために、哲学者は『形而上学』第五巻(1021a29-30)において、理解可能と言われるものは、「自らにおいて他なるものへの関係をもっているからではなくて、他のものがこれらに対して関係的[相対的]である」から、そう言われるのである。従って、上記の諸関係は実際には神のうちにはない。

915

さらに、神に帰せられる諸関係は、現実態にあるものごととの関連だけではなく、可能態にある事物に関しても語られる。実際、神は後者について認識し、それらに対して第一存在者と最高善と言われる。ところが、現実態にあるものの現実態ではなく可能態にあるものとの諸関係は、実際の関係ではない。そうでなければ、同じ主体に無限の諸関係が現実態にあることになってしまう。例えば、2という数字を上回り、それと前後関係する数字は無限にあり得る[3]。神はもっている、現実態にあるものと可能態にあるものとの関係は、上述の関係とは変わらないだろう。神は産出した事柄から変えられることはないからである。従って、神は関連させられる事柄との関係は、実際に神の内にない。

916

それ上、何かに新しいことが起これば、それ自体によってか偶有的にかで、それは変わるのは必然的である。さて、神について、新たな関係が語られる。例えば、神は、初めて起こった新しい出来事の主とか主宰であると言われる。もし、神の内に実際に存在するものとして、何らかの関係性が語られるなら、神に何か新しいことが起こったということになってしまう。従って、神はそれ自体によってか偶有的にかで、変わることになってしまう[4]。しかし、それと反対のことは第一巻(第13章)で示されている。

1314[5]
神について述べられる上記の諸関係はどのように考えられるべきか

917

ところが、上記の諸関係は、いわば神の外にある何らかの事物であるかのように語られることはできない。

918

実際、神は第一存在者であり、さまざまな善の最高善であるため、神以外の存在者や善との関係は、事物のようなものであれば、その関係との関係を考えなければならない。また、この新たな関係は、事物のようなものであれば、第三のシリーズの諸関係を見付けなければならない。こうして、無限に進むことになる。従って、神以外の諸事物との関係は、神の外にあるものではない。[6]

919

また、何かが呼称的に述語されるには、二つのやり方がある。あるものが、そのものの外にあることから、例えば場所から、「ここやそこにある…」、あるいは時間から、「ある時にある…」と言われる。もう一つは、あるものに内在することから、例えば、白い色から「白い…」と言われる。さて、関係から、あたかも外からであるかのように、何かが述語されることはない。実際、「父親」と言われるのは、その人に内在する父性から他にないであろう。従って、神と被造物との諸関係は、あたかも神の外にあるかのような事物ではありえない。
上に示された(前章)から、つまり実際に神にある関係ではないのに、神について語られるから、次の結論しか残らない、神に帰せられるのは理解の仕方(述べられるintelligentiae modum)においてのみである。実際、我々の理解の仕方は、乙が甲と関係していると理解するときに、同時に甲と乙との関係をも把握するものであるが、必ずしも後者は実際にあると限らない。[7]

920

以上のことから、上記の諸関係は神に帰せられる仕方と、神ついてほかの属性の語り方は異なっていることは明らかになる。実際、知恵とか意志とかのほかの属性は、神の本質を表現している。被造物との諸関係はそうではない。帰せられるのは、我々の理解の仕方のゆえんのみである。だが、我々の理解の仕方は間違っているわけではない。なぜなら、神に由来する結果の関係が神自身にまで帰せられると我々の知性は理解している事実から、神自身ついて何か関係的な事柄を語っているからである。それは、理解可能なものを関係的に理解し、表現するのと同じである。なぜなら、知識というものは理解可能なものに関係しているからである。

921 (第14章)
さらに、神に帰せられる多様なの諸関係は神の単純性を損なわないことも明らかになる。神の本性にかかりなく、理解の仕方にかかわるからである。我々の理解力は、多様なものを理解し、それ自体として単純なものを複数の関係で考察することを許さないものはなにもない。単純なものは単純であればあるほど、多くの能力と原理をもち、従ってより多くの関連を持ちうるのである。例えば、[幾何学的な]点は、線よりも多くのものの原理となりうる。線もまた、面よりも多くのものの原理となる。神に多くの諸関係が帰せられるということ自体は、神の単純性を証ししているのである。[8]

15
神は万有の存在する原因である

922

神は、何らかの事物の存在の原因(原理)であると先に示された(本巻第6章)ので、残るは、神以外の存在者の存在は、神以外に何ものにも由来しないということを、さらに示すことである。

923

実際、ものごとに、それ自体として適合しないものは、そのものごとに適合するのは何らかの原因を通してである。例えば、人間に「白さ」が適合している場合。原因されていないものが、第一義的で直接的であり、そのあり方は自体によるものであり、必然的である。けれども、ある属性は、二つのものごとに、それら自体として、適合するのは不可能である。実際、あるものにそれ自体として帰せられる属性は、そのものを超え出ることではない。三つの内角は二つの直角に等しいことは、三角形を超え出ることではない。従って、ある属性は二つのものに適合するならば、両方ともそれ自体として帰せられることはない。従って、一つの属性は、原因に言及せずに、二つのものごとに帰されることは不可能である。一方は他方の原因でなければならない。例えば、火は混合体の熱の原因である。火も混合体も「あつい」といわれるが。あるいは、第三者は両方の原因でなければならない。例えば、二つのロウソクによる照明の原因は火である。
さて、「存在」とは万有について語られる。従って、二つの現実の内、一方は他方の原因であるか、あるいは両方は原因を通して存在を受ける以外はありえない。従って、何らかの形で存在する者すべては、原因されないものから存在を受けなければならない。しかし、上(第一巻第13章)に示されたように、原因されない存在者である。従って、いかなる仕方にもせよ、およす存在するところのものは、神に由来するのである。[9]ところが、「存在」とは、同音同義語(univocum)ではない、と反論されるかもしれない。その通りであるが、上記の結論には変わりはない。なぜなら、「存在」とは、多々について同音異義的に(aequivoce)語られるものでもなく、むしろ類似語(analogia[10]として語られるからである。従って、一つの原理に還元されるべきである。

924

あるものに、他の原因からではなく、本性から適合することが、そのものにおいて減ったり欠乏したりすることはできない。ある本性には本質的な何かが引かれたり加えられたりすると、別の本性になってしまう。数字においてのように、一つ足し算しても引き算しても、数字の種類は変わる。[11]ところが、本性や本質が変わらないで、あるものに何かが減ったり、欠乏したりしていると見られる場合は、変化は直接にその本性にではなく、別の現実に由来することは明らかである。その別の現実の欠如によって変化が起こるからである。従って、他なるものと比べて、より多くあるいはより少なく適合する属性は、本性によってではなく、別の原因によって適合している。従って、あらゆる類において、その類の属性は最高に適合する存在者がいて、その存在者はその類のあらゆるものの原因である。こうして、最高に熱いものは、あらゆるあついものの熱の原因であると思われる。また、最も明るいものは、すべての明るいものの原因である。ところが、第一巻(第13章)で示されたように、神は最高に存在するものである。従って、神は、それについて「存在」が語られるあらゆるものの原因である。

925

また、諸効果は諸原因に比例するので、諸原因の秩序は諸効果の秩序に対応するはずである[12]。従って、固有の諸効果の共通のものは共通の原因に還元されるように、固有の諸効果は固有の諸原因に還元されるべきである[13]。例えば、太陽は、あれこれの存在者の固有の産出を超えて、あらゆる産出の普遍的原因である。同じように、王国の統治の原因は国王であり、国王は諸副官や個々の諸都市を上回るのである。さて、森羅万象に共通しているのは「存在」である。従って、あらゆる原因の上に、「存在」を与える原因があるはずである。しかし、前に示された(第一巻第13章)ように、神は第一原因である。従って、存在するすべてのものごとは、神からでなければならない。

926

さらに、本質上言われている事柄は、参与ゆえに言われている事柄の原因である。例えば、火はすべての発火したもの、発火したものとしての原因である。ところが、神は、存在そのものであるから、本質上存在していると言われる。他の存在者は、むしろ、参与の故に存在者と言われる。何となれば、自らの存在である存在者は一つしかありえない、ということは第一巻(第42章)で示されている。従って、神は他のすべての存在者の原因である。

927

その上、存在することも、存在しないことも可能であるあらゆるものごとは、別の原因を持っている。存在する・しないことに関して中位にあるものごとは、どちらかに傾けさせる他なるものがなければならない。従って、無限に遡るのはできないから、存在することも、存在しないことも可能であるあらゆるものごとの原因である、ある必然的な現実がなければならない。ところが、必然的な現実のうち、その必然性の原因をもっているものもある[14]。ここも、無限に遡るのはできないから、本質上必然的な現実にたどり着く必要がある。こうしたものは、しかし、一つしかありえないことは、第一巻(第42章)で示されている。それは、神である。従って、神以外のすべての存在者の原因は神に因(よ)らなければならない。

928

先(本巻第7章)にみてきたように、神は物事の創造者(factivus)であるのは、現実態にある限りである。ところが、神はその現実性と完全性において、第一巻(第28章)で示されたように、万象のあらゆる完全性を含んでいる。従って、神は能力的にすべてのものであり、すべてを創造している。しかし、神以外のあるものは、もし神に因らずに存在しうるならば、これに反することになる[15]。実際、他者に因り、そして他者に因らない本性を持つものは何もない。もし、何かが他者に因らずして生まれたならば、それは自ら必然的存在であり、他者に因ることは一切ありえない。従って、神に因らないものなにもないのである。

929

また、動物の精液(semen)のように、不完全なものは完全なものから生じる。さて、第一巻(第2841章)で示されたように、神は最も完全な存在であり、最善である。従って、神は森羅万象の存在の原因である。上に示された(第一巻第42章)ように、第一原因は一つしかありえないと考えれば、なおさらである。

930

以上のことは、神的権威によって確証される。実際、詩編(1466)には、「天地を造り、海とその中にすべてのものを造られた神」とある。また、ヨハネ福音書(13)には、「万物は神によって成った。成ったもので、神によらずに成ったものは何一つなかった。」とある。さらに。ローマ書(1136)において、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。栄光は神に永遠にあれ。」とある。

931

このように、古代の自然哲学者たち[16]の誤謬は論駁される。彼らは、ある物体は存在原因をもっていないと主張していた。神は、天体の実体の原因ではなく、その運動のみの原因であると主張した人々も反駁される。



[1] 『形而上学』、(六、8 1033b29-32)参照。本書4巻において30回以上引用される。上記参照、48, 270, 393, 413, 907, 以下参照、937, 964, 977, 986, 992, 1004, 1067, 1100, 1162, 1173, 1176, 1201, 1220, 1225, 1233, 1286, 1562, 1736, 1830, 1883, 2007, 2035, 2292, 2449, 2452, 2825
[2] 手工品は職人に依存している。職人は人間であり、職人であることは人間の本質に属さない。従って、人間としての職人は、手工品との関係なしにも存在することはできるし、理解されることもあり得る。
[3] 「ヒルベルトの無限ホテル」のパラドックス参照。
[4] もし、私のいとこ違い(私の父母のいとこ)の子供に初めての子供ができたとしても、私にはそれほどの変化はないであろう。「背理法」(reductio ad absurdum)、帰謬法ともいう。例えば、ある窃盗事件の二人の容疑者a、bについて、次の事実が明らかになった。誰が犯人である、あるいは誰が犯人でないと結論できるか。(1)a,b以外に犯人はいない。(2)aが盗みをやるときは必ずbを相棒にする。解答。bは犯人である。証明の方法はいろいろあるが、背理法を使えば結論の否定を仮定してみる。bが犯人でないと仮定してみよう。そうすると、この仮定と前提(1)によりaが犯人でなければならない。しかしaが犯人なら、前提(2)によりbが犯人となり、結局bは犯人でありかつ犯人でないという矛盾が生じる。ゆえに仮定が偽であり、bは犯人である(内井惣七、『いかにして推理するか、いかにして証明するか』、ミネルヴァ書房、3ページ以下参照)。第一巻第1386番参照。
[5] トマスの直筆写本には第13章と第14章の区別は設けられていないが、のちの編集者による便宜上の区別だと思われる。
[6] 今、私が使っているこのコンピュータ(C)と私(A)との関係を「CA関係」と呼ぼう。もし、この関係は手に取れるようなものであれば、私と「CA関係」との関係(ACA関係)と「CCA関係」を考えなければならない。また、AACA関係とCCCA関係も考えなければならない。などなど。無限まで進むこの論じ方に明らかに問題がある。
[7] ある子供が大人の女性を「お母さん」と呼んでいる。そうすると、我々はその女性は産みに親と考えるが、もしかすると「養親」かもしれない。
[8] ここで、トマスは神の概念の非擬人化と非神話化を試みていると言える。
[9] 第一巻第15章参照。
[10] 第一巻第3234章参照。
[11] 1%の違いで「円高」になったり、「円安」になったりする。
[12] 食べ物の消化には、それぞれの器官(口、胃袋、腸など)の固有の働きと固有の効果がある。
[13] 日産自動車の「インフィニティ」と「ジューク」は、共通の原因として、「横浜工場」を持っている。横浜とイギリスで作られた日産自動車は、日産株式会社に共通の原因がある。
[14] 地球上に人間が生きていくために、必然的に空気がなければならない。空気が存在するために地球の引力がなければならない。地球の引力があるために、「古典力学」の運動法則がなければならない。
[15] 充足理由律(じゅうそくりゆうりつ、英:Principle of sufficient reason)とは、「どんな出来事にも原因がある」、「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」という原理。すなわちどんな事実であっても、それに対して「なぜ」と問うたなら、必ず「なぜならば」という形の説明があるはずだ、という原理のこと。なお、充足理由律とは「すべての真なる思考は根拠づけられているべきであるという法則である」とする見解もある。
「充足理由律」という名称を与えたのは17世紀のドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツである。ライプニッツは充足理由律という名称を作り、それを事実の真理を保障する為には充分な理由がなければならないとする原理とし、推理の真理を保障する矛盾律に対する、論理学の二大原理の内の一つとして扱った。なお、自然諸科学も、この原理を前提にしている。常識的に考えても、銀行口座からお金がなくなったとわかったら、「偶然になくなっただろうな」と考えずに、「誰か取った(おれ詐欺かな)」と考えるだろう。
[16] アリストテレスは『形而上学』A において、哲学の祖はミレトスのタレースであり、彼は万物の根源(アルケー)を水であるとしたと記している。アルケー(αρχη)とは、「はじめ、始源・原初・根源・原理・根拠」等のことであり、哲学用語としては「万物の根源」また「根源的原理」を指す。宇宙の起原である。それ以外にも、ヘラクレイトスは火を、ピタゴラスは数をアルケーとし、エンペドクレースは土・水・火・空気の四大からなるリゾーマタ、デモクリトスはアトモス(不可分体)が根源であるとした。アナクシマンドロスは、無限定者(無限定)(アペイロン)がアルケーであると考えた。
ヨハネ福音書は、その冒頭に「エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)と記されているが、代表的なラテン語訳である『ウルガータ聖書』では、この部分を、「In principio erat verbum 」と訳している。「principium」はラテン語では「はじめ」という意味以外に「原理」という意味があり、ここよりアルケーへの問いは「世界の根源原理」としての神への問いとして、中世のスコラ哲学に引き継がれた。