31 ミサ聖祭と契約思想
ご自分の記念を定めるためにイエスが使った言葉の中で、ミサについて勉強する時でも、ほとんど注目されない言葉、契約(Covenant)という言葉がある。聖マタイの福音書は次にように記している。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ26・27ー28)聖マルコは、次のようになっている。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコ 14・24)聖ルカによる福音書は、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ22・20)となっている。聖パウロのコリント教会への第一手紙(1コリ11・25)にも、契約について、ルカの記事と似たような言葉がある。
こうして、契約という考え方が、それに重点を置く教会にとって、どれほど重要であるか、我々は理解できるであろう。ミサの典文でのぶどう酒の聖別の時に、次の言葉がある。「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい契約の血である。」これは、正確に言って、どういう意味であろうか。
過越祭は記念の祝宴であった。記念された出来事についてすでに考察してきた。エジプトの支配者たちは、モーセのおどしと神の比較的に軽い災害にもかかわらず全く動かされず、捕虜となっていたヘブライ人の解放を頑固に拒否した。主なる神が恐ろしい疫病を送り、人間であれ動物であれ、すべての初生(しょせい)の死を起こした。誰が処罰されているのかを完全に明らかにするために、各ユダヤ人家庭のメンバーは、子羊を屠殺(とさつ)し、その血で家の扉を塗るよう命じられた。こうして、死の天使たちは彼らを通り過ぎ、彼らの迫害者たちだけが狙われたということを疑う余地はなかった。
その晩、家庭のメンバーが一致団結して喜びのうちにこう羊を摂取(せっしゅ)し、エジプトでの捕囚の終わりを記念する厳粛な祝宴として、それ以後毎年繰り返されるべく運びとなった。イエスご自身が毎年弟子たちと一緒に過ぎ越しを祝っていた。しかし、イエスは、祝宴に続く出来事として、すなわち解放というより、シナイ山での契約の締結を強調することによって、祭典に別の向きを与えた。出エジプト記は次にように語っている。
「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、
モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」(出エジプト24・3-8)
ミサの式文はこの箇所と平行していることは明らかである。シナイ山での媒介者(モーセ)は言う。「これは主があなたたちと結ばれた契約の血である(…)」、と。イエスは言う。。「これはわたしの血の杯、あなたがた(…)のために流されて、(…)新しい契約の血である。」
シナイの契約の背後には、神とアブラハムの間に以前に結ばれた契約がある。それも血で結ばれていた。太陽が沈んで暗い霧が上がった後、屠殺された犠牲動物の "半分"の間を、松明のような火が通り過ぎた。 「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」(創世記15・18)。さらに古く、人類史の始まりという薄暗い時、神とノアの間に結ばれた原始的契約が大きく不気味に見えてくる。それは、大洪水の後に、ノアが主にいけにえを捧げたときに締結された。「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥(なだ)めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも 寒さも暑さも、夏も冬も 昼も夜も、やむことはない。』」(創8・20-22)
「見よ、わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。(…) 更に神は言われた。『あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。』」(創9・9-13)
以上のテキストすべてが、血への言及を含んでいる。しばしば強調されることもある。これは我々に奇妙で非人道的な印象を与えるかもしれないが、時代錯覚で慌てて判断することを控えるべきである。すべての人種の意識の深いところに、血の力に対する認識が横たわっている。血は、その根本的かつ単純な形態での生命である。いけにえの血が、緊張を和らげ、怒りを鎮め、落ちる運命を避け、生命の流れを再開させる。どのようにそういうことができるかは、容易に言葉にならない。我々はできるのは、これの真実を感知することである。どういうわけか、血の流れることによって、新たな始まりが生まれ、その始まりが血の生命力によって神秘的に強化される。明らかに、血の原始的な意義はそのまま単純に、啓示(聖書)に適用できることではない。なぜなら、贖いを必要としているものがあれば、それはまさに血の暗黒な原始的力であるからである。ところが、被造物が変容されるとき、すべてのものが新たな光を浴びて、それらと共に血の力も明らかにされるであろう。
契約において血が特別な意義を持っているのは、生命の栄えと恐ろしさのシンボルとしてではなく、すべての生命の主である神に特別な意味で属するからである。旧約聖書における犠牲の流血は、神の主権を認めることにつながっている。他の宗教における犠牲が示すものとは正反対の意味をもっている。それは血の神秘主義のようなものではなく、自然界における神性の流出ではなく、幻想神域の力への呼びかけでもない。これらとは何の関係もなく、単に、神のみが主である!ということのありがたい認識に基づいている。
従って、究極の従順の表明としての流血という概念の上に、神がご自分の契約を立てた。ここでも、必要な区別を念頭に置くべきである。契約という言葉が、他の諸宗教のように、すなわち特定の部族との神の同盟を意味するものではない。そこには部族の秘密の活力があり、それ自体が神の現実を非媒介的に表現している。従って、部族と神の存在自体が相互依存しているほどである。部族が固有の神の力と保護を享受し、一方で、その神も部族の肥沃さと強さから生きている。両方の一致が犠牲のもとで行われる。供物を通して、人は自分の神の活力を強める。そして、供物を摂取することによって、人間は自分自身の神の力を得る。
旧約聖書には、そのような概念の痕跡はない。旧約の神は、この世の諸条件の故に、一定の民族や部族の神性ではない。活力と強さの神秘的な源ではなく、神的命令の自由によって力を起こす一者である。
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訳注: 天命(てんめい)とは、天から与えられた命令のことである。
天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令のこと。また、人がこの世に生を授けられる因となった、天からの命令のことである。命数。
なお『論語』には孔子の言葉として「五十而知天命」(五十にして天命を知る)という表現があるが、天命は使命と運命の両方の意味で用いられているので、論語のこの表現を巡って、《運命》や《宿命》(自分にはこれだけしかできない)ということを意味しているのか、それとも《使命》(自分は人生でこれだけはしなければならない)を意味しているのかで解釈が分かれているという。(日原利国 「天命」『世界大百科事典』 平凡社、1988年。)
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ところが、一者がそうしたのは、自分の存在のために人間的表明やこの世の確固とした活力を必要としていたからではない、ということは確かである。一者がヘブライ人をも、いかなる民族をも必要としない。なぜなら、一者は森羅万象の主であるから。特定の集団を選んだのは、彼らは他の種族よりもよい人々、敬虔で忠実であったからではない。それどころか、何度も何度も不従順で、心が頑なで、意思の定まらない連中であった。
神がヘブライ人と共に建てたものは、強力な神権国家でも、特定の人種を代表する宗教でもなかった。神は単に、彼らにご自分の言葉と法を託したのである。彼らは歴史を通じてそれらを担い、究極的には地球のすべての人に伝わるように託したのである。なぜこの仕事のためにヘブライ人を選んだのかは、神の命令の不可解なミステリーである。