Sunday, November 27, 2016

31 付録 2

31 付録 2


「人間は良心の奥底に法を見いだす。この法は人間がみずからに課したものではなく、人間が従わなければならないものである。この法の声は、常に善を愛して行ない、悪を避けるよう勧め、必要に際しては『これを行なえ、あれを避けよ』と心の耳に告げる。人間は心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳であり、また人間はそれによって裁かれる(ローマ21416参照)。良心は人間の最奥であり聖所であって、そこでは人間はただひとり神とともにあり、神の声が人間の深奥で響く。良心は感嘆すべき方法で、神と隣人に対する愛の中に成就する法をわからせる(マタイ223740; ガラテヤ514参照)。良心に対する忠実によって、キリスト者は他の人々と結ばれて、ともに真理を追究し、個人生活と社会生活の中に生じる多くの道徳問題を真理に従って解決するよう努力しなければならない。正しい良心が力をもてば、それだけ個人と団体は盲目的選択から遠ざかり、客観的倫理基準に従うようになる。」


(第二ヴァティカン公会議、『現代世界憲章』、16項)

Tuesday, November 22, 2016

31B

 31B


以上のことすべてが、契約という言葉の重みを完全に理解するために、明白でなければならない。とりわけ、この世的な持ちつ持たれつ、神性と部族の同盟、神的力と地上の力の融合、ある人種の歴史の中の神の歴史の始まり、これらはすべて論外であること。これらの概念がすべて消え去るまでは、想像もできないことは明らかにならない。絶対的な自由の中で、宇宙の主は人々を選び出し、彼らに語り、彼らを対応できるよう処理すること。主は忠誠心を誓い、彼らから忠誠を要求する。主が地上で神的仕事を始め、それに奉仕するために一定の部族に命じる。もし、その部族は神の命令に従うために、自らの自然的歴史的あり方を放棄するならば、部族としての達成感を直接に神の主権から受けるであろう。

   ところが、ヘブライ人は神の呼びかけを拒んだ。彼らは自らの人種意識にしっかりとしがみついて、その中に頑なになった。何世紀にも渡って予告されていた神の御子が、契約を成就し終えるようになると、神と人々の関係は再び契約の形をとっている。最初の契約の人々は、メシアを引き渡して彼を殺し、その不従順に冠をかぶせた。信仰と愛によって結ばれていたはずの二番目の契約は、今やイエス・キリストの犠牲である血によって結ばれることになる。

   救い主は、第一契約の不従順な人々によって準備された運命を受け入れ、それを第二契約の犠牲の捧げ物に変える。第二契約は、世界の主である父を新しい民に結びつける。しかし、新しい民は、人種的集団ではなくなり、地球のすべての種族が含まれ、信仰によって統一された霊的集団となる。

  だれでもキリストのメッセージに心を開き、彼を信じるところでは、その人は聖ペテロが最初の書簡で述べたように、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(ペテロ29

  新しい契約は、それがまったく別の次元に存在するため、あらゆる国民から何も取らず、どの国家の歴史をも邪魔することなく、神の民を招集するのである。

   契約という思想がキリスト教徒の意識からいかに完全に消滅したかは、奇妙なことである。それについて言及したりしているが、我々にとってその意味は疎くなってしまった。

我々の信仰生活は、新しい生命、新しい世界、神の王国の概念によって決定付けられている。これらのすべては、この世のそれらに対応する概念と結びつき、自明なものとして偽装する傾向がある。しかし、脱皮の時は必ず来る。そのとき、キリスト教思想の見た目の自然性が落ち、キリスト教的存在が単なる自然の続きではなく、キリスト教の秩序は自然と人間世界の上に単純にとって付けたものではなく、神の自由から「下降する」ものであり、人間の自由によって捉えられ保持されるべきものである、とぎくっと実感するようになる。

神は人を彼の前に召喚する。神の戒めと呼びかけを聞くと、人は自分自身を浮き世のものに過ぎないものから自由になり、この世へのしがらみを解いて、神への忠誠を示すことになっている。

そのとき起こるのは、自然と歴史の過程に基づいたことではなく、意識と精神の発達ではなく、恵み、呼びかけ、自由、決意である。そのすべてが契約の考え方に含まれているものである。我々はクリスチャンとなっているのは、契約の所以(ゆえん)である。この考え方は、他のより親しみのある再生と新しい創造の概念を補完しなければならない。契約と再生、個々人の尊厳と責任、そして新しい命の豊かさ、この二つの偉大な概念は互いに属し、相互に支え合っているのである。

ーーーーー

訳注: 「自然と歴史の過程に基づいたことではなく、意識と精神の発達ではなく」という文言はヘーゲル哲学、とりわけ『精神現象学』を思わせるものである。人間の精神は「絶対精神」(=神)の精神を分有したものであり、これを歴史を通して実現していく、というのがヘーゲル哲学体系における骨格である。その「実現」は必然的なものであり、神と人間の自由のためにほとんど場がない。ヘーゲルの神に祈りをささげる必要はない。

ーーーーーー

  聖なるミサは人間との神の新しい契約を記念するものである。これを認識することで、ミサのお祝いに最も有益な意味が与えられる。この考えを念頭に置くことは、キリストの犠牲の死によって新しい天と新しい地に我々のために開かれたことを思い起こさせることである。すなわち、自然と才能や宗教的能力に基づいているのではなく、恵みと自由に基づいた契約が、キリストと我々の間に存在すること。それは人から人への結びつき、忠誠心へ忠誠心で答えることを意味する。すべてのミサで、我々はその契約を再確認し、その中に意識的に我々の態度を決めるべきである。

Sunday, November 20, 2016

31 付録

31 付録

神に選ばれるということ

橋爪
一神教は、たった一人しかいない神(God)を規準(ものさし)にして、その神の視点から、この世界を視るということなんです。たった一人しかいない神を、人間の視点で見上げるだけじゃダメ。それだと一神教の半分にしかならない。残りの半分は、神から視たらどう視えるかを考えて、それを自分の視点にすることなんです。 多神教は、神から視るなんてことはどうでもいい。あくまでも人間中心なんです。人間中心か、神中心か。これが、一神教かどうかの決定的な分かれ目になります。 神が規準だから、ふつうの発想と違った奇妙なことも起こる。たとえば、ものの長さを例にすれば、ある棒の長さを、「これは何メートル?」と聞くことは、意味があるでしょう。ものさしで測ればいいんだから。では、メートル原器という一メートルの長さの金属の棒にむかって、誰かが「メートル原器さん、あなたはなんで一メートル?」と聞いたとすると、メートル原器はなんと答えるか。ちょっと不機嫌に、「おれが一メートルだ。文句あるか」ですね。ほかに答えようはない、そう決めたんだから。これが規準というものなのです。いまの質問は、ほかの質問とは違っていて、答えられない。一神教も、唯一の規準を定めたという点では、メートル法と似ている。一神教の神は、自分が正しさの規準なので、「あなたはなぜ正しいのですか」と聞いても、理由を教えてくれない。端的に正しい。そういうものなんです。人間のつとめは、神の言うとおりにすること。なかなかうまくいかなくてもへこたれないで、「この瞬間も神ほ私のことを考えてくれているんだ」と信じて、神と対話しながら、神に従い続ける。こういうコミュニケーションを絶やさないことが、神の最も望むところである。人間にとっては、人生のすべてのプロセスが、試練(神の与えた偶然)の連続なのであって、その試練の意味を、自分なりに受け止め乗り越えていくことが、神の期待に応えるということなんです。ユダヤ民族も、外国と戦って連戦連敗といった状態ですが、戦争に勝つか負けるかは実はあまり問題じゃない。試練なんですから。
 試練とは、神が人間を「試す」という意味ですね。神は人間を試していいんです。人間が神を試してはいけない。
大澤 
なるほど、一神教の神とのコミュニケーションというのは、端的にコミュニケーションの不可能性ですよね。人間の規準では、コミュニケーションできなかったということが、むしろ、神とコミュニケーションしたことになる。人間同士であれば、成功したコミュニケーションというのは、互いに理解し合うことです。しかし、一神教の神に対する場合はまったく異なり、不可解であるということをそのまま受け入れることが、神との正しい関係になる。たとえば、神はユダヤ人を選んだけれども、その意図はさっばりわからない。そのわからないということをそのまま受け入れることが、神との正しい関係だというわけですね。
(橋爪大三郎・大澤真幸、『ふしぎなキリスト教』、講談社現代新書、2012年、55-57頁)

Monday, November 14, 2016

31 ミサ聖祭と契約思想

31 ミサ聖祭と契約思想


ご自分の記念を定めるためにイエスが使った言葉の中で、ミサについて勉強する時でも、ほとんど注目されない言葉、契約(Covenant)という言葉がある。聖マタイの福音書は次にように記している。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ262728)聖マルコは、次のようになっている。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコ 1424)聖ルカによる福音書は、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ2220)となっている。聖パウロのコリント教会への第一手紙(1コリ1125)にも、契約について、ルカの記事と似たような言葉がある。

  こうして、契約という考え方が、それに重点を置く教会にとって、どれほど重要であるか、我々は理解できるであろう。ミサの典文でのぶどう酒の聖別の時に、次の言葉がある。「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい契約の血である。」これは、正確に言って、どういう意味であろうか。

  過越祭は記念の祝宴であった。記念された出来事についてすでに考察してきた。エジプトの支配者たちは、モーセのおどしと神の比較的に軽い災害にもかかわらず全く動かされず、捕虜となっていたヘブライ人の解放を頑固に拒否した。主なる神が恐ろしい疫病を送り、人間であれ動物であれ、すべての初生(しょせい)の死を起こした。誰が処罰されているのかを完全に明らかにするために、各ユダヤ人家庭のメンバーは、子羊を屠殺(とさつ)し、その血で家の扉を塗るよう命じられた。こうして、死の天使たちは彼らを通り過ぎ、彼らの迫害者たちだけが狙われたということを疑う余地はなかった。

   その晩、家庭のメンバーが一致団結して喜びのうちにこう羊を摂取(せっしゅ)し、エジプトでの捕囚の終わりを記念する厳粛な祝宴として、それ以後毎年繰り返されるべく運びとなった。イエスご自身が毎年弟子たちと一緒に過ぎ越しを祝っていた。しかし、イエスは、祝宴に続く出来事として、すなわち解放というより、シナイ山での契約の締結を強調することによって、祭典に別の向きを与えた。出エジプト記は次にように語っている。


「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。 

モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。 

彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。 

モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、 

契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、 

モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」(出エジプト243-8)


ミサの式文はこの箇所と平行していることは明らかである。シナイ山での媒介者(モーセ)は言う。「これは主があなたたちと結ばれた契約の血である()」、と。イエスは言う。。「これはわたしの血の杯、あなたがた()のために流されて、()新しい契約の血である。」

   シナイの契約の背後には、神とアブラハムの間に以前に結ばれた契約がある。それも血で結ばれていた。太陽が沈んで暗い霧が上がった後、屠殺された犠牲動物の "半分"の間を、松明のような火が通り過ぎた。 「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」(創世記1518)。さらに古く、人類史の始まりという薄暗い時、神とノアの間に結ばれた原始的契約が大きく不気味に見えてくる。それは、大洪水の後に、ノアが主にいけにえを捧げたときに締結された。「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥(なだ)めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも  寒さも暑さも、夏も冬も  昼も夜も、やむことはない。』」(創820-22

   「見よ、わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。() 更に神は言われた。『あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。』」(創99-13)

以上のテキストすべてが、血への言及を含んでいる。しばしば強調されることもある。これは我々に奇妙で非人道的な印象を与えるかもしれないが、時代錯覚で慌てて判断することを控えるべきである。すべての人種の意識の深いところに、血の力に対する認識が横たわっている。血は、その根本的かつ単純な形態での生命である。いけにえの血が、緊張を和らげ、怒りを鎮め、落ちる運命を避け、生命の流れを再開させる。どのようにそういうことができるかは、容易に言葉にならない。我々はできるのは、これの真実を感知することである。どういうわけか、血の流れることによって、新たな始まりが生まれ、その始まりが血の生命力によって神秘的に強化される。明らかに、血の原始的な意義はそのまま単純に、啓示(聖書)に適用できることではない。なぜなら、贖いを必要としているものがあれば、それはまさに血の暗黒な原始的力であるからである。ところが、被造物が変容されるとき、すべてのものが新たな光を浴びて、それらと共に血の力も明らかにされるであろう。

   契約において血が特別な意義を持っているのは、生命の栄えと恐ろしさのシンボルとしてではなく、すべての生命の主である神に特別な意味で属するからである。旧約聖書における犠牲の流血は、神の主権を認めることにつながっている。他の宗教における犠牲が示すものとは正反対の意味をもっている。それは血の神秘主義のようなものではなく、自然界における神性の流出ではなく、幻想神域の力への呼びかけでもない。これらとは何の関係もなく、単に、神のみが主である!ということのありがたい認識に基づいている。

  従って、究極の従順の表明としての流血という概念の上に、神がご自分の契約を立てた。ここでも、必要な区別を念頭に置くべきである。契約という言葉が、他の諸宗教のように、すなわち特定の部族との神の同盟を意味するものではない。そこには部族の秘密の活力があり、それ自体が神の現実を非媒介的に表現している。従って、部族と神の存在自体が相互依存しているほどである。部族が固有の神の力と保護を享受し、一方で、その神も部族の肥沃さと強さから生きている。両方の一致が犠牲のもとで行われる。供物を通して、人は自分の神の活力を強める。そして、供物を摂取することによって、人間は自分自身の神の力を得る。

    旧約聖書には、そのような概念の痕跡はない。旧約の神は、この世の諸条件の故に、一定の民族や部族の神性ではない。活力と強さの神秘的な源ではなく、神的命令の自由によって力を起こす一者である。

ーーーーー

訳注: 天命(てんめい)とは、天から与えられた命令のことである。

天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令のこと。また、人がこの世に生を授けられる因となった、天からの命令のことである。命数。

なお『論語』には孔子の言葉として「五十而知天命」(五十にして天命を知る)という表現があるが、天命は使命と運命の両方の意味で用いられているので、論語のこの表現を巡って、《運命》や《宿命》(自分にはこれだけしかできない)ということを意味しているのか、それとも《使命》(自分は人生でこれだけはしなければならない)を意味しているのかで解釈が分かれているという。(日原利国 「天命」『世界大百科事典』 平凡社、1988年。)

ーーーーーー

ところが、一者がそうしたのは、自分の存在のために人間的表明やこの世の確固とした活力を必要としていたからではない、ということは確かである。一者がヘブライ人をも、いかなる民族をも必要としない。なぜなら、一者は森羅万象の主であるから。特定の集団を選んだのは、彼らは他の種族よりもよい人々、敬虔で忠実であったからではない。それどころか、何度も何度も不従順で、心が頑なで、意思の定まらない連中であった。

  神がヘブライ人と共に建てたものは、強力な神権国家でも、特定の人種を代表する宗教でもなかった。神は単に、彼らにご自分の言葉と法を託したのである。彼らは歴史を通じてそれらを担い、究極的には地球のすべての人に伝わるように託したのである。なぜこの仕事のためにヘブライ人を選んだのかは、神の命令の不可解なミステリーである。


Tuesday, November 8, 2016

30 付録

30 付録


ロゴス(logos)とは、古典ギリシア語の λόγος の音写で、概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味[広辞苑]がある。

キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。

言語、論理、真理の意味。転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。

ロゴスは、ミュトスと対比して用いられていた。ミュトスは、最近では“神話”とワンパターンに翻訳されることも多いが、原義としては、人が語る“ものがたり”や“お話”全般を指すのであり、ギリシャ悲劇や喜劇、アイソーポス(イソップ)の寓話の題材もミュトスである。このミュトスに対して、ロゴスはある。「空想」に対して「理性」があり、「物語る言葉」に対して「論証する言葉」があるのである。

Sunday, November 6, 2016

30 真理とエウカリスティア

30 真理とエウカリスティア


主の記念を行うことには、様々な不同不分の概念が含まれている。それらのうちの二つ、会食とキリストの到来またはキリストとの我々の出会いを、すでに取り上げてきた。おん父が信仰者にいのちをもたらすおん子の存在、「まことのパン」を差し出している。同じくおん父から出て、キリストが記念を行なっている会衆の中に入って行く。そして、愛をもって各自に近づいていく。これらが聖体拝領を規定する概念である。被造物としての我々は、「わたしはいのちである」とおっしゃった神・人の豊かな現実によって養われることを思いこがれている。人格としての我々は、来られる方を期待して待ち、急いで会いに行きたい。そして、彼と共にとどまりたい、愛と従順のうちに。以上両方の概念の背景に、それらに聖なる意義を与えるすさまじい事実、贖罪的いけにえがある。

    それにしても、我々はまだ底に触れていない。もう一つの考えが浮かんで来る、啓示と神的真理に対する敬虔な受けとめ方、という考えである。誰かと共同生活を営むには何が必要であろうか。中でも、本物の相互交流、相手に対する尊敬、信頼、忠誠心、友情か仲間意識か愛として知られる、あの同時に存在する一致と尊重であろう。このような連携は、単なる物理的側面と単なる精神面をはみ出ている。なぜなら、意志にかかっているからであり、そのために生き物が皆直面する逆境を乗り越えることができる。しかし、共同生活にはまだ別の要素がある。それは、お互いの能力、輝き、肝要な深さの共有である。言いかえれば、他者のいのちを、同情の即時性と愛でもって、共感する力量である。共同生活にはこれらの諸要素は不可欠であり、それらにとってかわるものはないが、それらだけでまだ十分ではない。それらだけに基づいた関わりは、盲点をもつことになると思われる。自分自身と相手の間に真実も存在しなけれならない。相手の本質が自分に伝わっていなければならない。自分が相手のユニークさ、生活態度、仕事と運命に感謝しなければならない。相手のために自分の生活の中で、あるがままに、場を譲らなければならない。そして、自分も相手によって承認され受け入れられている、ということを知る必要がある。その時点で関係は完成し得る。それ以前は、無理がある。

   主の記念の最も肝心なところは、以上描いてきたような交わりである。

   キリストとキリストを信じる人々との間に、キリスト自身が設けた交わりより完全な交わりはありえない。いうまでもなく、その交わりは一方的である。なぜなら、我々はエゴイズムに縛られているからである。

    信仰者とその主との関係は、純粋に我と汝の関係である。それは、贖われた者は神の子供たちの自由と関連しているのと同じである。

ーーーーーー

訳注: 我と汝の関係については、マルティン・ブーバー著、『我と汝・対話』(田口義弘訳)、みすず書房、1995年参照。人間は有意義な相手(例えば、親、先生、配偶者)に対面することによって自らの人格を形成するように、神を相手にすることによって神の子供の自由を得るのである。J・エステライヤーが指摘するように、ブーバーは神を人間の汝にしているが、聖書的に考える場合、神の方が最も根源的な存在であるから、神をすべての「我」の源であり、最も根源的な「我」と考えるべきである。John M. Oesterreicher, The Unfinished Dialogue: Martin Buber and the Christian Way, Citadel Press, US, 1986参照。

ーーーーーー

 贖い主は、人格と人格の出会いとその相互的満足のいかなる度合いをも抱擁する形で、「やって来る」のである。この考えは、肉と血という驚くべき概念ともつながる。自分は「いのちである」と思っていた方が、人々の栄養素としてささげられる、その肉と血。しかし、両方のこの概念は脅かされている。第一は、感傷性へと導く行き過ぎた擬人化によって、第二は、あまりにも人間味のない、あるいは非人道的でさえある魔法によって、脅かされている。教会史を見れば納得いくのだが、両方のこの危険はしばしば現実となってしまった。キリストは、ただ単に「いのち」ではなく、「真理」でもある。キリストは受肉した「ロゴス」(言)、つまり肉と血に書かれた神からのメッセージである。キリストの自己奉献は啓示であり、彼を受け入れるとは、真理を受け入れることである。

   もう一度、ご聖体の制定の「解説書」であるカファルナウムでのイエスの話を参照する必要がある。群衆がパンの奇跡を体験して、期待をもってイエスに押し寄せて来る。今や、間違いなく、メシアの王国の奇跡的恵みが注がれる時だ!しかし、イエスは彼らに答えて言われた「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(ヨハネ626-27)ところが、それで群衆は分からないので、もっとはっきり発言する。「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神にパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。そこで彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』というと、イエスは言われた「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ632-35)イエスは語っている「いのち」とは、自分自身のものである。そのいのちを養う「パン」とは、自分自身である。いったい、そのパンはどのように与えられ、どのように受け取られるのであろうか。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハネ637)言いかえれば、パンは与えられるのは、真理であるイエスとの生きたコンタクトを通してである。一方では、イエスの存在の輝き、彼の言動や苦しみの輝きを通して、他方では、イエスのもとに我々の来ること、イエスを信じ、イエスを見つめることを通してである。イエスを見つめたら何が見えるのだろうか?主の神的フィギュアであろう。それを通して見えざる世界が垣間見るのである。聖ヨハネが言うように、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ114)従って、期待されることは、神によって真理が示されることと、人間によって聖なる真理が受け入れられることである。そこから、考え方が切り変わる。再び次のように言われた、「わたしは命のパンである」。しかし、それに加えて言われた、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ651)これが、躓きとなるほど、誰も聞いたことがない突拍子もないことである。彼自身が、何回も何回も、「パン」とはご自分の生きた肉である、そしてそれはまことの食べ物である、と強調したではないか。ただ、食べ方と飲み方、「霊において」と言われるが、それだけは不可思議でヴェールに包まれたままである。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ663)キリストは聴衆にヒントを与えたが、彼らは拒否したのである。

   この話全体の一貫性は、計り知れないほど重要なものである。キリストの記念は、キリストの生きた存在の本物の共有の行為である。あまりにも精神面に還元されるべきものではない。揮発(きはつ)させるべきものでもない、なぜなら、本物の食べ物と飲み物であるから。

本物の食べ物と飲み物であるが、それは、くれぐれも真理の尊厳、幅、力と意義においてである。単刀直入言えば、栄養素としてご自分を提供するキリストは、一切れのパンのようにその本質を意識しないまま我々の体の一部分となるような食べ方で食べられるものではない、ということになる。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 」我々にご自分を提供する方が、げんじつのありきたりの一部分ではない。遍在するロゴスでおられる。彼の体の「栄養素」が永遠の、神聖な真理であり、従って、それへの参与は真理の承認を必要としている。そうでなければ、「何の役にも立たない」。

   ミサ聖祭に参加することは、キリストをロゴスとして、創造主、贖い主として承認することを意味している。「あなた方がこれを行うたびに、わたしの記念として行いなさい。」ここで言われる「記念」とは、「わたしを思い出しなさい」とばかりに意味するものではない。それに加えて、「これを行いながら、わたしについて、わたしの本性、メッセージ、運命について考えなさい。これら全てが真理である」ということを意味する。ミサの奉献の前に書簡と福音書の朗読があることには訳がある。聖書朗読すべてがキリストのアイデンティティーをつかむためのヒントであり、彼の人格または真理の一側面である。聖書に語られるイエスの生涯の出来事は我々に向かって、言わば聖書から出て来る。我々はそれらを理解し、受け入れるために。出来事の一つ一つが真理の光線であり、奉献の部となると、それらは言語ではなく、実際のものとして存在して来るにである。

  ミサと真理のこの関連を認めるのは、第一義的な重要性をもっている。信心業は真理を忘れるきらいがある。真理を避けるとか、遠慮するとか、ではないが、ファンタジーや感傷性、過言に滑り落ちる傾向は著しい。伝説や信心業的書物は、往往にしてこの傾向を圧倒的に示している。残念ながら、野放しの信心は、主観主義に陥り、カビ臭くなり、仰々しくも霊性の少ないものとなりがち。

ーーーーーーー

『レゲンダ・アウレア』または『黄金伝説』(羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230 – 98)によるキリスト教の聖人伝集。1267年頃に完成した。タイトルは著者自身によるものではなく、彼と同時代の読者たちによってつけられたものである。中世ヨーロッパにおいて聖書についで広く読まれ、文化・芸術に大きな影響を与えた。

日本においても芥川龍之介が同書所収の聖女マリナの物語(79章)をもとに『奉教人の死』を書いている。

イエス、マリア、天使ミカエルのほか、100名以上にものぼる聖人達の生涯が章ごとに紹介され、その分量は『旧約聖書』と『新約聖書』を足したのとほぼ同じである。最初の章ではキリストの降誕と再臨があてられており、本書は新約聖書の続編として読む人々もいたと思われる。

日本語訳書として、新泉社版(13人の聖人伝を訳した抄訳)と黄金伝説抄 ISBN 978-4787794246、及び人文書院版(全訳、ハードカバー)がある。また、平凡社ライブラリー版(内容は人文書院版と同じ)もある。

ーーーーーーー

神的現実は主観的でもなければ、カビ臭くなることもない。現実離れの霊性、事実を無視した霊性とつながらないはず。真理の別名である神的現実は、この地上を歩まれた血肉を持ったイエスのように、実質的なものでなければならない。ただ、霊によって、つまり聖霊によって照らされる必要があることは、いうまでもないことである。

  ミサの完全性には真理は欠かせない。ミサはクリスチャンの生活の中心と内容であるという事実をくどくど述べることは十分ではない。その中心に至る道、その内容を共有する方法も明確にしなければならない。これが、可能となるのは、真理とエウカリスティアとの本質的な関係が認められた時のみであり、真理がミサ聖祭全体に浸透した時である。

Thursday, November 3, 2016

29 付録

29 付録

「あの偉大な神秘は、このようなことを示します。神はわたしたちのために人間となり、貧しい者となることによって、このことを示してくださいます。神がそうなさったのは、倒れた人間を立ち上がらせ、人間のうちにある神の似姿を復興させ、人間を造り直すためです。このようにして、わたしたち皆がキリストにおいて一つになります。このキリストは、わたしたちすべてにおいてすべてとなられました(一コリ9・22参照)。しかも、ご自分のすべてをもってそうなられたのです。それは、わたしたちの肉体を特徴付ける「男と女」(ガラテヤ3・28)、「未開人とスキタイ人、奴隷と自由な身分の者の区別がない」(コロサイ3・11)ようにするためでした。そして、わたしたちの創造主であり目的である神の刻印(こくいん)だけを、わたしたちのうちにしるし、ただそれによってのみ知られるよう、完全に神の姿にわたしたちを形づくってくださるためでした。」
(ナジアンズの聖グレゴリオ司教の弟の死をしのぶ説教、PG 35, 785-788、毎日の読書、年間第31金曜日参照)