Sunday, December 20, 2020

降誕節の叙唱



降誕節の叙唱
(主の降誕と降護節中)

聖なる父、全能永遠の神、いつどこでも主・キリストによって賛美と感謝をささげることは、まことにとうといたいせつな務めです。
人となられたみことばの神秘によって、わたしたちの心の目にあなたの栄光の光が注がれ、見えるものとなられた神を認めることによって、見えないものへの愛に強く引かれます
神の威光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなく
ほめ歌います。


iPhoneから送信

Sunday, November 15, 2020

待降節第一主日 B

待降節第一主日 B



皆さま、あけましておめでとうございます。(笑)
 ・・・っていう日なんですよ、今日(1)。キリスト教の暦
こよみ
では、今日から「新年」。まあ、お正月がもうすぐ来るから、カトリック信者は一年に二度、新年を祝える。お得じゃないですか。まあ、何度お祝いしたっていいでしょう。心を新たにするときですから。
 お正月は、初心に帰るっていうか、原点に返る恵みのときですけど、われわれ教会の新年も、そうあるべき。・・・原点に返る。一番の基本に戻る。この一年の間に、いろいろとブレたり、余計なものがくっついたり、いつの間にか背負い込んだりしている、そういうものを、ちょうど年末の大掃除みたいにぜんぶきれいにして、原点に返る。
 そんなときに、今日のこの個所が読まれるんですね。(3) 「目を覚ましていなさい」 (マルコ13:33,35,37)  何に目を覚ますかっていうと、本来のなすべきことに、目を覚ます。本来の自分、本来の私たち、本来の人類、そういう本来のあり方に、立ち返る。それが、この「目を覚ましていなさい」ってことです。
 イエスさまのたとえの、「家を後あとに旅に出る人」 (マルコ13:34) って、これ、神さまのことでしょうし、「僕しもべ
たち」 (マルコ13:34) って、私たちのことでしょう。つまり、神さまは、私たちに、なすべき役割、仕事、使命を与えて、「あとは任せたぞ」って旅に出た。われわれ人類は、そのような存在だって言ってるんですね。神さまが一人ひとりに、また、人類全体に、「こうするんだよ。これが一番大事だよ」って、役割を与えて、あとは、「おまえたちを信じてるぞ」「任せたぞ」って。
 この地球っていう恵みの場とか、人類の歴史とか、われわれの今ある世界、そういうものはみんな、神さまのそのような、「こう生きるんだよ」という「神のみ心」「使命」を果たす場なんですね。私たちは与えられたその使命から離れるわけにいかないのに、一年中忘れちゃっているから、せめて「お正月」には目を覚まして、その原点に返ろうっていうことなんです。
 じゃあ、その「原点」である使命とは何かといえば、

第1朗読に、私の大好きな言い回しが出てきました。
「わたしたちは粘土、あなたは陶工」(イザヤ64:7)これ、いいですねえ。分かりやすいですね、「わたしたちは粘土、あなたは陶工」。神がこねて、神が形作って、神が焼いて、そして、神がお使いになる。
 「わたしたちは粘土」
 粘土なんてね、自分では何にもできない。未来永劫ただの「粘土」です。誰かが何かにしてくれなかったら、ただもう、「粘土」でしかないんですよ。でも、そのただの粘土を、神さまが素晴らしい器に作り上げてくださる。美しく飾ってくださる。役に立つものとして用いてくださる。
 ・・・感謝しましょうよ。皆さん、自分をご覧ください、素晴らしい器にしていただいたんですよ。「神さま作」の器です。この世の人間国宝の作だとか、有名な文化財だとか以上の話。最高の器として、神さまはお作りになり、そして用いておられる。
 感謝いたします。神さまがぜんぶお世話してくださってることに全面的に信頼し、必要ならば、こんな器も用いていただく。・・・これが、私たちの「目覚め」方。

去年、枚方のプロテスタントの教会で、招かれて、お話をしたことがあります。大学の教え子がそこの牧師となっています。
 講演っていうのを頼まれてお話したんですけど、講師紹介っていうところで、牧師先生が、「ボナツィ神父は、神の愛を語り、福音を宣言する神父ですけれど、なぜ今日、この方をお呼びしたかというと、私、本気じゃないから。いや、もちろん本気でありたいとは思いますよ。本気な部分もあります。でも、いつも、ちょっと足りない。だから、「せめて本気のまねはしよう」とか、「本気でやろうって思いだけは、忘れないようにしよう」って、そういう気持ちだけは持ってる。
 私は自分が本気でないことが、よく分かってます。でもやっぱり、神父やってんだから、せめて形だけでも本気な感じにしないとねえ。「ああ、あいつはやる気ないよ、さぼってばっかりだ」なんて言われるの、悔しいですからねえ。ホントはさぼってるんですよ、非常に巧妙に、上手にさぼってるんですけど、だけど、それを恥じるだけの本気さは残ってます。「もっと本気で生きたいな」っていう憧れも持ってます。本気の信者さんたちと一緒に燃えたいっていう夢もあります。結局のところ、「本気でなかったら、教会なんて何の意味もないよね」とさえ思う。
 ・・・なぜなら、神さまが本気だからです。
 神さまの本気度はすごい。「そこまでやるか」ということを、真剣に、誠実に、どこまでも一人ひとりのわが子を愛して、本気で働いておられる。守っておられる。それをちょっとでも知ると、「ああ、これは私も本気でやらなきゃならないな」っていう気持ちになるわけですよ。誰だって、そうなりますでしょ? 「ここまでやってくれたんだから、私もちょっと、本気でやってみよう」って。そうやって結局は、たいして本気でない者さえも、神さまは上手に、ちょっと本気にさせて、使っちゃうんです。






iPadから送信

Saturday, October 31, 2020

聖者と死者のコラボレーション

聖者と死者のコラボレーション


「諸聖人の日」の翌日が「死者の日」。このことを不思議に感じたことはないでしょうか。「聖なるもの」と「死するもの」が自然に結びつくことなど通常ではありえないことです。そのコラボレーションを可能にするところがキリスト教「信仰」の妙なのです。
古代ローマ時代、一般的な「死」は恐れの対象であり、墓場は絶望に満ちた場所でした。ゆえに古代ローマ人は生活空間である城壁の中に墳墓を決してつくらず、城壁の外で葬りの場を設け、死と日常を切り離していました。
そんな通念をキリストの死と復活の福音がすっかり変えてしまいました。「永遠の命」の希望をもって生きた人の墓は、その人の追憶の場になると同時に、その人が生前用いた遺物をも「追憶」のしるしへと変化させました。
 特に信仰のゆえに命を賭ました殉教者への特別な思いが、
「死者」を「聖者」へと昇華させました(古代の聖者はほぼ例外なく殉教者)。「聖遺物」はやがて、その人のペルソナの宿るものとして大切にされ、そこから超自然的な力がもたらされると信じたキリスト者たちが、社を設け、その中心の祭壇の上に「聖遺物」を埋め込むようになりました。すなわち、聖堂は、「墓所」であると同時に、「聖者」のエネルギーの満ち満ちた場となったのです。聖者の葬られた場所は、この地上と神の国をむすぶ結節点でもありす。こうして、キリストの信仰をもって亡くなった「死者」は、「神」と人をむすぶ大切な役割を担うことになりました。
日本人にとって墓場は、葬られた方への生前の感謝を表し保護を願う場という意味が大きいようで、つまりは現実志向かもしれません。一方、キリスト教の墓地は、いずれ帰っていくべき「故郷」、大切な人々と再会できる未来への希望を強く感じさせます。この違いは、キリスト者の「信仰」というファクターから説明できます。
亡くなったあの人は、かならず「天国」にいて神の近くにある。だからこそ、その墓所は神の国と結びつく。永遠の命、そして復活の希望という信仰なしにはこの感覚は決して生まれないでしょう。もちろん、私たちの信仰は「死者の蘇生」を期待するものではありません。その復活がどのようなかたちで実現するか誰も知りません。ただ、二千年前、数百人に示された、「キリストの復活」の証言が私たちに、あのキリストと同じように復活すると確信させているのです。「死は終わりではない」イエス・キリストがみずからお示しになったその出来事のうちに、私たちは「死者」を尊び、「聖者」を追慕し、「またお会いしましょう」という希望のうちに、今、この瞬間を生きることができているのです。

(川村信三・イエズス会司祭)
「聖書と典礼」より


iPadから送信

Saturday, October 24, 2020

ねく、伸によって定められた道を全うしています。



ねく、伸によって定められた道を全うしています。
大陽と月、もろもろの星の群れは、神の命令のま
まに、調和のうちに、少しもはずれることなく、
定められた軌道を走っています。艶館な大地は神
の意志のままに、季飾ごとに人間と動物、また、
地の面に生きているすべてのもののために、豊か
な食物を確します。大地は逆らうこともなく、神
の定めを一つも変えはしません。
きわめがたい深激と地下の世界の名状しがたい
規定も、神の同じ命令によって保たれています。
果てしない大海のくぽみも、神のはからいによっ
て水の集まる所として構築されています。その大
海は、周りにめぐらされた境界線を越えることな
く、命じられたとおりのことを行っています。神
が「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。
お前の波はお前の中で打ち砕かれるのだ」と言わ
れたからです。人間の渡ることのできない大洋と
その向こうにある世界も、主の同じ命令によって
治められています。
春、夏、秋、冬の四季も、平和のうちに移り変
わってゆきます。四方の風の倉も、それぞれの季
節に応じてその奉仕を混乱なく果たしています。
こんこんとわき出る泉は、人々の楽しみと健康の
ために造られており、人の命のためになる滋養を
一致して平和のうちに集会を催しています。
絶え間なく与えています。最も小さな生き物も、
これらすべてのものが平和と一致のうちにある
ようにと、偉大な創造主、万物の主はお命じにな
りました。神はその恵みある業をすべてのものに
及ぽされますが、特にわたしたちの主イエス・キ
リストを通して、そのあわれみにより頼んでいる
わたしたちに対しては、いっそう豊かにそれを施
してくださるのです。この主イエス・キリストに、
栄光と威厳が世々にありますように。アーメン。
1創世記1·9参照 1738#1


iPhoneから送信