クリスマス あいさつ
今年もクリスマスがやって来ました。神の子が、自分たちに生活の場の中に来てくださいます。
私たちはいろいろと不平不満があるかもしてません。でも今夜は神を賛美することができます。平和な心で神をたたえ、神様の平和をいただきたいと思います。
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Monday, December 23, 2013
クリスマス 2013
羊飼いに現れた天使は、天の軍勢、つまり他の沢山の天使と共に神を賛美しました。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」
この賛美の言葉に注目したいと思います。「栄光」という言葉があります。オリンピックの選手が競技で優勝して金メダルをもらいます。山中博士がノーベル賞を受賞し、金メダルをもらいました。金メダル、それは、それを受け取る人が素晴らしい成績、業績を上げたことを示しています。受賞した人の成績、業績に素晴らしさを輝かせるのが金メダルです。金メダルは、それを受賞した人にとって、栄光なのです。その人の業績の素晴らしさが輝いているのです。栄光、神にあれ、ということは、神さまに栄光があるようにとの願いです。神さまの素晴らしさが輝くようにとの願いであり、神さまは、素晴らしさで輝くお方であるということです。金メダルを受賞した人には、拍手を送り、人々はたたえます。神に栄光があるようにとは、神さまがたたえられるようにとの意味です。天使たちは、神さまはたたえられるにふさわしいと賛美して神をたたえました。
天使の賛美は、大切なことを教えています。天におられる神さまがほめたたえられ、地にいる人間に平和がある、これがこの世界の本来の姿であるということです。しかし現実の世界では、神さまは人間によって崇められず、それどころか、神がいるならなぜ、このようなことが起きるのか、神などいるはずがないと神を侮っているのです。そしてこの地上には争いが多く、人々が平和を楽しむことができません。この混乱した世界に救い主は救いをもたらし、神が崇められ、人が平和に暮らすことのできる世界をもたらすのです。神さまが栄光をうけられるとき、地には平和が満ちる、と天使は歌いました。
私たちの直面している事態は、一見それと反対のように見えます。確かに今日の世界の対立は、深く宗教に関係しています。それぞれが自分の信じる神に栄光を帰するために戦争をする。イスラム教世界と、キリスト教およびユダヤ教世界が対立している。こちらでは「アラーの名を汚す者に対しては、とことん戦う」と叫び、あちらでは「ゴッド・ブレス・アメリカ」と歌う。それぞれが自分の神、自分の信仰、自分の宗教にこだわっているから、戦争なんかするのだ。「聖戦(ジハード)だ」「十字軍だ」と言い合う。宗教戦争。みんなが宗教にこだわらなければ、こんなに戦争などしないのに。そのように思うのではないでしょうか。特に多くの日本人のように宗教に無頓着な人はそう考えるのではないかと思います。しかし私は、本当はそうではないだろうと思っています。本当は、何かしらこの世の利害が絡んでいて、それで戦争をするのです。必ずそうです。それを言わないために、神様を勝手に持ち出して、戦争を正当化するのです。人は、本当は、信仰のためには戦争をしないものだと思います。最前線に送り出される者の中には、純粋に神様のために思いこんでいる人もあるかも知れません。しかしそれは洗脳です。マインドコントロールされているのです。そういう誰かのこの世的打算と洗脳によって戦争が遂行されていく。
このようなことは、一見、神を神として立てているように見えて、実はそうではありません。むしろ反対です。自分の都合で神を持ち出し、神の名をみだりに語り、神に対して自分の都合のいいように祝福を願っているのです。神の正義ではなく、自分の正義のために、神にご登場願う。ある人が、皮肉っぽく、「人はしばしば神よりも宗教的になる」と言いました。
あるいは「人はしばしば神よりも正義をふりかざす」と言ってもいいかも知れません。私たちの方が、神さまを追い越してしまうのです。そうした時、神を神として立てているように見えながら、実は、この世界に正義の神がおられるということを、もはや信じていないのではないでしょうか。信じていないから、神が正義を貫いて下さることを待っていられなくて、自分でそれをもたらそうとするのです。そしてそこには、実に巧妙に自分の打算、思惑が入り込んでくる。自分の国の打算と思惑が忍び込んでくる。それは、時には自分でも気づかないほどです。もしかすると、悪魔が私たちに知らないうちに麻酔の注射を打っているのかも知れません。だからこそ、私たちは地上に平和を祈りつつ、同時に、いやそれに先だって、「いと高きところには栄光、神にあれ」(グロリア・イン・エクセルシス・デオ)と歌わなければならないのです。
次に、この「平和の王」として来られたイエス・キリストの姿に心を留めたいと思います。その方は、馬小屋の飼い葉桶の中に、布にくるまって寝かされている乳飲み子の赤ちゃんでした。王様の宮殿の豪華なベッドの上に、ふかふかの羽布団にくるまっていたわけではありません。あるいは、護衛の番兵がついていたわけでもありません。みすぼらしい羊飼いたちが、ノーガードで近寄ることができました。セコムがあったわけでもありません。力強い姿で、頼りがいのある姿で登場されたわけでもありません。よろいかぶとで身をおおっていたのでもありません。彼をおおっていたのは、ただの布きれ、しかも恐らくぼろ布であります。無力で、無防備なキリスト、救い主。この姿は、彼のその後の歩みを象徴するものでありましたし、彼がどのようにして平和をもたらされるのかということを象徴するものでもありました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」「これがあなたがたに与えられるしるしである」(ルカ2:12)。この姿こそが、救い主のしるしであったのです。こんな姿であったにもかかわらず、というのではありませんでした。この姿でなければならなかったのです。
そのお方は、力で敵を封じ込めて平和をもたらそうとするのとは正反対のやり方をなされました。その究極の場所が十字架であったわけです。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、このように述べています。「イエス・キリストは二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、……双方を御自分において一人の新しい人に造り上げられて平和を実現されました」(エフェソ2:14~15)。私たちは今こそ、イエス・キリストが一体どのようにして平和を実現されたのかをしっかりと見据えなければならないと思います。
希望、信仰、愛を奪われるそういう世界を地獄と言います。
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「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」
この賛美の言葉に注目したいと思います。「栄光」という言葉があります。オリンピックの選手が競技で優勝して金メダルをもらいます。山中博士がノーベル賞を受賞し、金メダルをもらいました。金メダル、それは、それを受け取る人が素晴らしい成績、業績を上げたことを示しています。受賞した人の成績、業績に素晴らしさを輝かせるのが金メダルです。金メダルは、それを受賞した人にとって、栄光なのです。その人の業績の素晴らしさが輝いているのです。栄光、神にあれ、ということは、神さまに栄光があるようにとの願いです。神さまの素晴らしさが輝くようにとの願いであり、神さまは、素晴らしさで輝くお方であるということです。金メダルを受賞した人には、拍手を送り、人々はたたえます。神に栄光があるようにとは、神さまがたたえられるようにとの意味です。天使たちは、神さまはたたえられるにふさわしいと賛美して神をたたえました。
天使の賛美は、大切なことを教えています。天におられる神さまがほめたたえられ、地にいる人間に平和がある、これがこの世界の本来の姿であるということです。しかし現実の世界では、神さまは人間によって崇められず、それどころか、神がいるならなぜ、このようなことが起きるのか、神などいるはずがないと神を侮っているのです。そしてこの地上には争いが多く、人々が平和を楽しむことができません。この混乱した世界に救い主は救いをもたらし、神が崇められ、人が平和に暮らすことのできる世界をもたらすのです。神さまが栄光をうけられるとき、地には平和が満ちる、と天使は歌いました。
私たちの直面している事態は、一見それと反対のように見えます。確かに今日の世界の対立は、深く宗教に関係しています。それぞれが自分の信じる神に栄光を帰するために戦争をする。イスラム教世界と、キリスト教およびユダヤ教世界が対立している。こちらでは「アラーの名を汚す者に対しては、とことん戦う」と叫び、あちらでは「ゴッド・ブレス・アメリカ」と歌う。それぞれが自分の神、自分の信仰、自分の宗教にこだわっているから、戦争なんかするのだ。「聖戦(ジハード)だ」「十字軍だ」と言い合う。宗教戦争。みんなが宗教にこだわらなければ、こんなに戦争などしないのに。そのように思うのではないでしょうか。特に多くの日本人のように宗教に無頓着な人はそう考えるのではないかと思います。しかし私は、本当はそうではないだろうと思っています。本当は、何かしらこの世の利害が絡んでいて、それで戦争をするのです。必ずそうです。それを言わないために、神様を勝手に持ち出して、戦争を正当化するのです。人は、本当は、信仰のためには戦争をしないものだと思います。最前線に送り出される者の中には、純粋に神様のために思いこんでいる人もあるかも知れません。しかしそれは洗脳です。マインドコントロールされているのです。そういう誰かのこの世的打算と洗脳によって戦争が遂行されていく。
このようなことは、一見、神を神として立てているように見えて、実はそうではありません。むしろ反対です。自分の都合で神を持ち出し、神の名をみだりに語り、神に対して自分の都合のいいように祝福を願っているのです。神の正義ではなく、自分の正義のために、神にご登場願う。ある人が、皮肉っぽく、「人はしばしば神よりも宗教的になる」と言いました。
あるいは「人はしばしば神よりも正義をふりかざす」と言ってもいいかも知れません。私たちの方が、神さまを追い越してしまうのです。そうした時、神を神として立てているように見えながら、実は、この世界に正義の神がおられるということを、もはや信じていないのではないでしょうか。信じていないから、神が正義を貫いて下さることを待っていられなくて、自分でそれをもたらそうとするのです。そしてそこには、実に巧妙に自分の打算、思惑が入り込んでくる。自分の国の打算と思惑が忍び込んでくる。それは、時には自分でも気づかないほどです。もしかすると、悪魔が私たちに知らないうちに麻酔の注射を打っているのかも知れません。だからこそ、私たちは地上に平和を祈りつつ、同時に、いやそれに先だって、「いと高きところには栄光、神にあれ」(グロリア・イン・エクセルシス・デオ)と歌わなければならないのです。
次に、この「平和の王」として来られたイエス・キリストの姿に心を留めたいと思います。その方は、馬小屋の飼い葉桶の中に、布にくるまって寝かされている乳飲み子の赤ちゃんでした。王様の宮殿の豪華なベッドの上に、ふかふかの羽布団にくるまっていたわけではありません。あるいは、護衛の番兵がついていたわけでもありません。みすぼらしい羊飼いたちが、ノーガードで近寄ることができました。セコムがあったわけでもありません。力強い姿で、頼りがいのある姿で登場されたわけでもありません。よろいかぶとで身をおおっていたのでもありません。彼をおおっていたのは、ただの布きれ、しかも恐らくぼろ布であります。無力で、無防備なキリスト、救い主。この姿は、彼のその後の歩みを象徴するものでありましたし、彼がどのようにして平和をもたらされるのかということを象徴するものでもありました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」「これがあなたがたに与えられるしるしである」(ルカ2:12)。この姿こそが、救い主のしるしであったのです。こんな姿であったにもかかわらず、というのではありませんでした。この姿でなければならなかったのです。
そのお方は、力で敵を封じ込めて平和をもたらそうとするのとは正反対のやり方をなされました。その究極の場所が十字架であったわけです。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、このように述べています。「イエス・キリストは二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、……双方を御自分において一人の新しい人に造り上げられて平和を実現されました」(エフェソ2:14~15)。私たちは今こそ、イエス・キリストが一体どのようにして平和を実現されたのかをしっかりと見据えなければならないと思います。
希望、信仰、愛を奪われるそういう世界を地獄と言います。
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Sunday, November 24, 2013
王であるキリスト B
王であるキリスト B
十字架上のゆるしー罪びとをとりもどされる-
◎サムエル5・1-3
コロサイ1・12~20
ルカ23・35-43
俗にいう「天国どろぼう」のエピソードで、ルカは、イエズスの受難物語に終始符を打ちます。
イエズスの息をひきとる瞬間のエピソードであるだけに、イエズスが生涯をかけて伝えようとされたメッセージのすべてがここにほあ
るといえます。すべてほここに凝縮されているといえるでしょう。
イユズスが生涯をかけて実現しようとされたこと、それは、罪びととの出会いであり、罪びとをとりもどすことでした。じつに、きょ
うの福音書の場面ほ、イエズスの生涯の終わりを飾るのに、もっともふさわしいものです。罪の中に生きつづけてきた二人の人間と、罪
を一度もおかすことのなかったイエズス。
「われわれはおこなったことの報いを受けたのだから当然だが、この人はなんの悪事もしなかったL
同じように十字架につけられながら、イエズスと二人の男たちほど、それぞれの生きてきた世界が異なるものほないと思います。二人
は、まわりの人びとの幸福を破壊し、平和を乱し、悲しみの原因になってきた男たちです。それに対して、イエズスはよろこびの使者で
あり、生命の創造者です。彼らがエゴイズムと欲望のかたまり(代表選手)だとするなら、イユズスは愛そのものです。二人の人生がや
みに向かい、滅びにつっぱしるものであるのに対して、イユズスの人生は光と希望に向かったものです。
まったくの別の歩み、まったく正反対の生き方をしてきた着たちが、十字架の上で出会うのです。(「善人なおもて往生をとぐ、いわ
んや悪人をや」、歎異抄、親鸞さん、参照)
同じ十字架でありながら、その歩んできた道がちがうように、それを受けとめる心も、まったぐ異なります。二人の男たちにとって、十
字架は絶望であり、死です。イユズスにとってほ、希望であり、生命です。イユズスの十字架ほ、やみを照らす輝きであり、罪のゆるし
を与える愛があふれています。
いま、二人の男たちがたどりついたやみのきわみ、滅びの淵と、やみを照らし生命を与えようとひたすらつとめてきた愛のきわみとが、
隣りあわせに置かれています。
やみと光が、そのきわみにおいてふれようとしているのです。じつにやみと出会うこと、死と出会うことを求めつづけてこられたイエズ
スの生涯は、その最後も、そうした出会いの中でとじられていきます。
福音書をみれば明らかなように、イエズスを、拒む人びとと、受けいれる人びとがいたように、この最後の瞬間にも、拒む者と受けい
れる者とがいます。
「あなたはメシアではないか。それならじぶんと我々を救ってみろ」。
イエスをあざ笑っている男のこころは ファリサイ派、律法学者、司祭長の系列に属するものです。おごる思いをもつ人びとと同じです
。自分の人生に対する 反省がありません。自分の欲望、自分の世界しか見えないエゴイストです。せっかく 光と隣りあわせになりな
がら、光に心をひらくことができないまま、その人生を終えることになります。
もう一人の男は、こう叫びます。
「まだ、神を恐れないのか。われわれはおこなった報いを受けたのだから当然だ」
彼は、罪びと、酒飲み、取税人、遊女と呼ばれ、貧しくへりくだりながらイユズス の愛につつまれることのできた人びとの系列に属
します。神殿にのぼって、「罪びとのわたしをあわれんでくださいLと胸を打った卸税人と同じように、彼は、自分の人生の罪を認めま
す。自分の無の自覚。それが、後に光への道をひらきます。やみから光へ、絶望から希望への転換のために、なにもとくべつなことは必
要ではないのです。善行も功徳もいりません。
自分の罪とその醜さに目覚めるというだけでよいのです。
あとはイユズスがひき受けてくださるのです。
ルカ福音書に記されているこのエビリーrのすばらしさは、じつに、ここにあります。人生をやみの中に生きつづけてきた人間が、十
字架の上で苦しみを耐える以外なにもできなくなってしまった男が、ただただ、心を転換し、へりくだる土とによって、
救いを得るということです。ここに、汚れた人生しか生きられないわたしたちに向けられた希望があります。
イユズスは、ここで、男の過去の人生のつぐないを求めていません。過去を責めることもしません。彼の一生が、罪と汚れにおおわれ
たものであるということを、彼以上に深く知りながら、それを責めず、逆に・それをおおい、新しいよろこびを与えてく
ださるのです。それがゆるしなのです。過去を塗りかえることのできない人間にとって救いの道は、ゆるしだけです。
王であるキリストの十字架は、わたしたちの過去をゆるし、しかも、わたしたちの罪の責任をかわりに背負うものです。ですから、十字
架の上で楽園を保証されたこめ男の救いは、イエズスのあがないの初穂、最初の実りといえます。そして、その後、イエズス
l
と出会い、救いを求める人びとに、救いのあり方を示すものとなります。
十字架上のゆるしー罪びとをとりもどされる-
◎サムエル5・1-3
コロサイ1・12~20
ルカ23・35-43
俗にいう「天国どろぼう」のエピソードで、ルカは、イエズスの受難物語に終始符を打ちます。
イエズスの息をひきとる瞬間のエピソードであるだけに、イエズスが生涯をかけて伝えようとされたメッセージのすべてがここにほあ
るといえます。すべてほここに凝縮されているといえるでしょう。
イユズスが生涯をかけて実現しようとされたこと、それは、罪びととの出会いであり、罪びとをとりもどすことでした。じつに、きょ
うの福音書の場面ほ、イエズスの生涯の終わりを飾るのに、もっともふさわしいものです。罪の中に生きつづけてきた二人の人間と、罪
を一度もおかすことのなかったイエズス。
「われわれはおこなったことの報いを受けたのだから当然だが、この人はなんの悪事もしなかったL
同じように十字架につけられながら、イエズスと二人の男たちほど、それぞれの生きてきた世界が異なるものほないと思います。二人
は、まわりの人びとの幸福を破壊し、平和を乱し、悲しみの原因になってきた男たちです。それに対して、イエズスはよろこびの使者で
あり、生命の創造者です。彼らがエゴイズムと欲望のかたまり(代表選手)だとするなら、イユズスは愛そのものです。二人の人生がや
みに向かい、滅びにつっぱしるものであるのに対して、イユズスの人生は光と希望に向かったものです。
まったくの別の歩み、まったく正反対の生き方をしてきた着たちが、十字架の上で出会うのです。(「善人なおもて往生をとぐ、いわ
んや悪人をや」、歎異抄、親鸞さん、参照)
同じ十字架でありながら、その歩んできた道がちがうように、それを受けとめる心も、まったぐ異なります。二人の男たちにとって、十
字架は絶望であり、死です。イユズスにとってほ、希望であり、生命です。イユズスの十字架ほ、やみを照らす輝きであり、罪のゆるし
を与える愛があふれています。
いま、二人の男たちがたどりついたやみのきわみ、滅びの淵と、やみを照らし生命を与えようとひたすらつとめてきた愛のきわみとが、
隣りあわせに置かれています。
やみと光が、そのきわみにおいてふれようとしているのです。じつにやみと出会うこと、死と出会うことを求めつづけてこられたイエズ
スの生涯は、その最後も、そうした出会いの中でとじられていきます。
福音書をみれば明らかなように、イエズスを、拒む人びとと、受けいれる人びとがいたように、この最後の瞬間にも、拒む者と受けい
れる者とがいます。
「あなたはメシアではないか。それならじぶんと我々を救ってみろ」。
イエスをあざ笑っている男のこころは ファリサイ派、律法学者、司祭長の系列に属するものです。おごる思いをもつ人びとと同じです
。自分の人生に対する 反省がありません。自分の欲望、自分の世界しか見えないエゴイストです。せっかく 光と隣りあわせになりな
がら、光に心をひらくことができないまま、その人生を終えることになります。
もう一人の男は、こう叫びます。
「まだ、神を恐れないのか。われわれはおこなった報いを受けたのだから当然だ」
彼は、罪びと、酒飲み、取税人、遊女と呼ばれ、貧しくへりくだりながらイユズス の愛につつまれることのできた人びとの系列に属
します。神殿にのぼって、「罪びとのわたしをあわれんでくださいLと胸を打った卸税人と同じように、彼は、自分の人生の罪を認めま
す。自分の無の自覚。それが、後に光への道をひらきます。やみから光へ、絶望から希望への転換のために、なにもとくべつなことは必
要ではないのです。善行も功徳もいりません。
自分の罪とその醜さに目覚めるというだけでよいのです。
あとはイユズスがひき受けてくださるのです。
ルカ福音書に記されているこのエビリーrのすばらしさは、じつに、ここにあります。人生をやみの中に生きつづけてきた人間が、十
字架の上で苦しみを耐える以外なにもできなくなってしまった男が、ただただ、心を転換し、へりくだる土とによって、
救いを得るということです。ここに、汚れた人生しか生きられないわたしたちに向けられた希望があります。
イユズスは、ここで、男の過去の人生のつぐないを求めていません。過去を責めることもしません。彼の一生が、罪と汚れにおおわれ
たものであるということを、彼以上に深く知りながら、それを責めず、逆に・それをおおい、新しいよろこびを与えてく
ださるのです。それがゆるしなのです。過去を塗りかえることのできない人間にとって救いの道は、ゆるしだけです。
王であるキリストの十字架は、わたしたちの過去をゆるし、しかも、わたしたちの罪の責任をかわりに背負うものです。ですから、十字
架の上で楽園を保証されたこめ男の救いは、イエズスのあがないの初穂、最初の実りといえます。そして、その後、イエズス
l
と出会い、救いを求める人びとに、救いのあり方を示すものとなります。
Sunday, November 17, 2013
地獄の明るい(ありがたい)側面
地獄の明るい(ありがたい)側面
地獄はあまりポピュラー(人気のない)教えである。最近、といってもここ十年間の間、日曜日のミサ説教で地獄について話されたとの覚えのある人はどのぐらいいるであろうか。地獄は暗い時代の名残というイメージはかなり強いではないだろうか。「最後の審判」や死後の賞罰など、恐れによる信者の引きとめは、現代の感覚からして、もはやありえないとしている学者もすくない。[1]もしも、地獄に言及する説教があったとしても、それはおそらく、実は恐れる必要はないものであるというような内容であろう。もしも地獄はあったとしても、実はそこにだれもいないだろう。空っぽな場所だろう。[2]
また、このごろのお葬式では、皆天国行きというのは大前提となっている。神さまがすべてをゆるして下さる方だと。死んだら皆聖人となる(成仏というべきかもしれないが)。もしも人生には罪があったとしても、それは弱さのせいであるとか、環境の悪さであるとか、社会学的にないし心理学的に説明されて、言い訳みたいなものがいっぱい浮かんでくる。
さらに、地獄という考えは「人権」に反するものであるかのように思われている。慈しみ深い神は、まさか誰か人を地獄に落とすという、とんでもない気味悪いまねをするものではないでしょう。地獄はあるとすれば、神は残酷な方となるだろうか。神の仕事は人を救うものであって、地獄行きの人がいれば、それは神の失敗にもなるではないかと。神の愛は地獄と矛盾するではないか。善良な人であれば、誰でもそのような、取り返しのつかない、逃げ道のない恐ろしい罰をうける場所などは、決して作る必要はないと思うであろう。
ところが、こうした考えは、もしも地獄を造るような神があれば、私たちはそんな神よりもっと寛大な考えができるという思い込みに基づいている。地獄を恐れながら生きるということは人権に反するのだと。神はもっと住みやすい世界を作るべきではないか。地獄というそんな狭い発想より、神にはもっといい考えはできないのか。やはり、私たちは神より偉い、神が創った世界よりも、もっと善い世界を造れるのだと、そんな思い上がりにつながるであろう。
天国はいいけれど、地獄はいらないとい考えは成り立つであろうか。地獄なしに天国はあり得るのか。おそらくそうではないであろう。天国も地獄もロボットのために作られたものではない。天国と地獄はワンセットであり、自由を持った被造物としての人間が神を拒むことのできるものであるということの、必然的で直接的な帰結である。逆から言えば、地獄は、我々人間の個人としての人格的尊厳の保証なのである。実は、地獄がなければ人間の価値は大変減ってしまうというのが本当なのである。
カトリック教会のカテキズム
1033 わたしたちは自由意志をもって神を愛することを選ばない限り、神に結ばれることはできません。しかし、神に対し、隣人に対し、あるいは自分自身に対して大罪を犯すならば、神を愛することはできません。「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠のいのちがとどまっていません」(一ヨハネ3∙14-15)。キリストが戒めておられるように、もし貧しい人や小さい人の大きな困窮を顧みないならば、わたしたちはキリストから離れることになります。彼らは主の兄弟だからです629。痛悔もせず、神の慈愛を受け入れもせずに、大罪を犯したまま死ぬことは、わたしたち自身の自由な選択によって永遠に神から離れることを意味します。自ら神と至福者たちとの交わりから決定的に離れ去ったこの状態を、「地獄」ということばで表現するのです。
1034 イエスはしばしば、消えることのない火630の「ゲヘナ」について話されました。それは、生涯の終わりまで信じることも回心することも拒み続ける人々のために残されたもので、そこでは霊魂も肉体もともに滅ぼされうるのです631。イエスは深刻なことばで、「人の子は天使たちを遣わし、……不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」(マタイ13∙41-42)と述べ、また、「のろわれた者ども、わたしから離れ、永遠の火に入れ」(マタィ25∙41)という宣告を下すことを予告しておられます。
1035 教会は、地獄の存在とその永遠性とを教えています。大罪を犯したまま死ぬ人々の霊魂は、死後直ちに地獄に落ち、そこで、地獄の苦しみ、「永遠の火」632に耐えなければなりません。そもそも、人間はただ神のうちにおいて、自分が造られた目的であり願望の的であるいのちと幸せとを得ることができるのですが、地獄の苦しみの中心となるのは、この神との決別の状態が永遠に続くということなのです。
1036 地獄に関する聖書の主張と教会の教えとは、人間が自分の永遠の行く末のことを考えながら自由を用いなければならないという責任遂行への呼びかけであると同時に、回心を促す招きでもあります。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、いのちに通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7∙13-14)とキリストはいわれました。 「主も忠告されたように、わたしたちはその日も時も知らないのですから、たえず警戒を怠ってはならないのです。わたしたちの地上生活一回限りの行程を終えた後、主とともに婚宴に入り、祝された人々のうちに数えられることがゆるされるよう心掛け、また、怠惰な悪いしもべのように、『嘆きと歯がみのある』外のやみの中へ、永遠の火の中へ離れ去るように命じられることのないよう警戒しなければなりません」633。
1037 神は、だれ一人地獄に予定してはおられません634自分の意志で、神から離れる態度(大罪)を持ち続け、死ぬまでその態度を変えない人だけが地獄に落ちるのです。教会はエウカリスチアの典礼と信者の日々の祈りとの中で、「一人も滅びないで皆が悔い改める」(二ペトロ3∙9)ことを望まれる神のあわれみを祈願します。 「わたしたち――奉仕者と全家族――のこの奉献を快く受け入れ、あなたの平和を日日わたしたちに恵み、永遠の滅びから救い、選ばれた者の群れに加えてください」635。
地獄は自由と愛ということがらと結びついていることが語られている。地獄を正しく理解するために、やはり愛と自由を深く理解する必要がある。神自身は、こうした事柄にいわば「縛られている」というわけであろうか。神でさえ人間の自由を侵すことはできない。否、侵すことをしないと決めたと言った方が正しいかもしれない。神の自由だからである。神の自由と人間の自由、両方損ねることがないように地獄というものがある。
逆説的であるが、我々の日常生活におけるもっとも重要な事柄、愛と自由の重みを(強調)引き立たせるものとしては、地獄をおいてほかにないわけである。地獄を否定することは、皮肉なことに、人間を自由にするのではなくて、逆に突き詰めたところで人間という存在者を無意味な存在にしてしまうのである。操り人形(ロボット)にしてしまう。人生はすべてハッピーエンド!
この点をもっと詳しくみてみよう。既に、プラトンが『国家』[3]という対話編で指摘したように、この世においては、最も善い人間でさえ殺されることがある(例えば、ガンジー、M・ルーサ・キング牧師、死民権運動)。国家でさえ、よい人間を殺してしまうことがある(例えば、MyammarやSyriaで自由や民主主義のために戦う人たち)。あるいは罰を受けることがある(マンデラが長年、30年間、牢獄に入れられた)。逆に、悪い人間は金持ちになり、名声や名誉が高くなる場合がある。こうした状態は、この世には正義がないということを意味する。この世には我々の正義感は満たされることがないので、プラトンは、哲学的な推論として、地獄と天国というものを想定するのである。この世の不正を補う何かがなければ、フェアーではないと、悪人は罰を受けない、善人は報われないということほど、我々の理性に反するもの、納得いきにくいものはないのだと。この世には、すべての犯罪が罰せられると限らない(もしかしたら、罰せられない犯罪の方が多いかもしれない)、またこの世では、すべての善い行いは報いを受けると限らない(むしろ、人に知られない善行の方が多いかもしれない)。こうしてみると、この世は本質的に不正である。この世を越えたところで、きちんと賞罰を与えるものがなければ、この世の矛盾は大きすぎて耐えられないのである。善い行いは報われない、悪い行いは罰せられないということになれば、人間の行いは善くても悪くても結果的には大した違いはない。犯罪者の行いと聖人の行いは同等のものとなってしまう。善い人と悪い人、善い人生と悪い人生という区別は成り立たなくなる。行き着くところは、善と悪の区別さえ成り立たなくなる。人に見られない(従って何らかの見返りを受ける可能性は一切ない)ところで、なぜ悪を避けなければならないのか。公務員は見つからないのは確実だと思ったら、なぜお金をごまかさないのか。
あまり楽しみのない人生を送りながら、大変な苦労をしてまじめに子供を育てた人がいる。戦後豊かになった日本社会も、こうした人々のおかげだと思われる。地道に隠れたところでよい行いをし続ける人々がいなくなったら、社会はどうなるであろうか。
逆に、不正を行い続ける人々がいる、独裁者とか、暴君とか、テロリスト、貧しい人を搾取するひととか。こうした人々が罰せられることがないだろうと思っている間は不正をやめるだろうか。そうではないであろう。不正な行いを止めさせるものとしては、唯一地獄の恐れではないだろうか。地獄はないという考えは、やはり悪人には大変都合のよい考えである。正義と平和を本当に促進させたいなら、やはり地獄の恐ろしさという考えを普及させるべきであろう。
文化人類学によると、「古代人のほとんどは地獄を知らなかった」、「21世紀の今に至っても地獄を知らない民族はいる」という。たとえば、古代メキシコでは戦士や貴族は死ぬと鳥になり、卑怯者や民衆は昆虫に生まれ変わると信じられていたという。つまり、天国も地獄も知らなかったのだ。古代ケルト人は、死後は誰でも遠い海の彼方の幸福の島に行くと考えていたという。つまり、天国は知っていたが、地獄は知らなかったわけである。ナイル川流域に住むヌエル族は「死者の魂は川を渡って動物界に帰る」と考えているとある。日本人に人気のバリ島でも、村の人口を数えるときは死者もその数に入れる村があるという。つまり、「あの世」の存在自体を認めていない民族もいる。「人類の歴史」というスパーンでみると地獄が比較的新しいものである。また、地獄のあるところには必ず高度な文明があること。このことは、地獄が「文明を作る」ことを示唆している。
● 昔の日本に地獄はなかった
国立歴史民俗博物館の新谷尚紀[しんたに・たかのり]教授はその著作『なぜ日本人は賽銭(さいせん)を投げるのか』(文春新書)の中で「『古事記』や『日本書紀』の伝える黄泉(よみの)国の神話には死の世界は恐ろしい暗闇の世界として描かれてはいるが、地獄の思想はない。」としている。
『古事記』には、イザナミノミコトの後を追ってイザナギノミコトが黄泉の国に下る有名な話が載っているが、「黄泉」という「死者の国」があるだけで、そこには「天国」も「地獄」もない。
では、日本人はいつ地獄を知ったのか。新谷尚紀教授は「日本に地獄思想が伝わったのは仏教と共にであろう。」としている。「日本思想史」という観点から見れば「日本に地獄を伝えたのは仏教。日本人が地獄を知っているのは日本が仏教国だから」ということができるが、日本には仏教徒でない人もたくさんいる。もちろん、「仏典を読んで地獄を知った」という人もいるとは思うが、けっして多くはないはずだ。では、なぜ、仏教徒でない日本人も地獄を知っているのか。「きみは仏教徒でもないのに、どうして地獄を知っているの?」とある人にきくと、次のような答えが返ってきた。「学校で教わったからよ。みんな、そうよ。地獄はお寺で教わるんじゃなくて、学校で教わるのよ。学校で芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んで、みんな地獄を知るのよ」。『蜘蛛の糸』は誰でも知っていると思うが、忘れている人もいるかもしれないのでおさらいをしておこう。
この話の主人公はかん陀多(カンダタ)という名の「人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊」で、話の舞台は地獄の底にある血の池。かん陀多は生前、さんざん悪事を働いたので、地獄に落ちたというわけだ。
しかし、大悪党のかん陀多も、生前、一つだけ「善い事」をしたことがあった。道ばたを這っている蜘蛛を見つけたとき、その蜘蛛を踏み殺すのを思いとどまり逃がしてやったのだ。お釈迦さまはそのことを思い出し、血の池でアップアップしているかん陀多の頭上に蜘蛛の糸を垂らす。これにつかまって出てきなさい、というわけだ。かん陀多は糸につかまって地獄からの脱出をはかる。ところが、他の罪人たちも糸につかまってよじ登ってきたため、糸はその重さに耐えかねてプツンと切れてしまう。わかるように、これは出ることの出来る地獄なのである。キリスト教の言う地獄とは違うわけである。ちなみに、芥川龍之介(1892-1927)といえば「人生は地獄よりも地獄的である」という言葉を残した作家である。
日本人の「地獄の原風景」
源信は天台宗の僧。生年は942年、没年は1017というから平安時代中期の人だ。『往生要集』(おうじょうようしゅう)は源信の代表作で、「その後の日本人の『地獄観』を決定づけた」といわれているほどの古典中の古典。芥川の地獄文学も『往生要集』なくしてはありえない。『往生要集』の中に描かれている地獄の光景こそ、「日本人の地獄の原風景」といえるだろう。[5]
地獄は地下8階建てのビルディング。地獄の一丁目、等活地獄を源信はこう描いている。
「ここに落ちた罪人は敵愾心(てきがいしん)に凝り固まっていて、他の罪人を見つけると襲いかかる。その様子は『猟者の鹿に逢へるが如し』。また、ここの罪人は鉄の爪でお互いの体を切り裂き合う。そのため血肉は尽き、骨が残るばかり。」いきなり何ともすさまじい描写だが、地獄の光景はまだまだ続く。
仏教では、世界を「欲界」「色界」「無色界」の三つに分ける。欲界は、食欲、性欲、金銭欲、出世欲などの「欲望」がある世界。色界は、欲望からは解き放たれているが、物質的条件に規定されている世界。無色界は、あらゆる欲望、あらゆる物質的条件から解放された精神的な世界。
人類の大半は「欲界」にいるわけだが、ここにも六つの世界がある。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道の「六道」だ。
それに対して、キリスト教では「この世」と「あの世」はまったくの別世界。地獄はあくまでも「あの世の一部」。 地獄が「この世の一部」なら、「この世のもの」と思えるように具体的に描かなければならない[6]。が、「あの世の一部」ということになると事情が変わってくる。例えば、ダンテの『神曲』だとか、ミケランジェロの「最後の審判」だとかがある。実際、ダンテもこの作品は「笑える話」と考えていたようだ。日本語では『神曲』と厳かに呼ばれているが、この作品のもともとのタイトルは『喜劇』(La Commedia)。ダンテの死後、この偉大な詩人への敬意を表す意味で『神聖な喜劇』(La Divina Commedia)と改められたが、ダンテは「喜劇」として発表したのである。西洋人にとっては、地獄は楽しむべきところなのだ。西洋人が頭の中で描いている地獄のイメージは、日本人のそれと比べると非常に明るい。「最後にわらう者こそ、よく笑う」。
ザビエルの直面した困難
(1)
地獄の霊魂(坊さんの反応) 坊さんは呪われたる霊魂を地獄から解放する力をもっているというのがひろく一般に行き渡った信念である。ザビエルが地獄に落ちたひとはもう絶対に助からないというと、彼らは食い扶持がなくなり、衝突になった。
(2)
地獄の霊魂(民衆の反応): ザビエルは言う、「日本の信者には一つの悲しみがある。それは私たちが教えること、すなわち地獄に落ちた人はもはや全然救われないことを非常に悲しむのである。なくなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に彼らの悲しんでいる様子は非常に哀れである。
死んだ人のために大勢のものが泣く、そして私に、あるいは布施、あるいは祈りをもって死んだ人を助ける方法はないだろうかとたづねる。私は助ける方法はないと応えるばかりである。この悲しみはすこぶる大きい。・・・私がこんなにも愛している友人たちが、手の施しようのないことについて泣いているのを見て、私も[7]悲しくなってくる。」[8]
「かれらの教義によれば、地獄におちたひとでもその宗派の創始者を呼ぶと[9]救われると書いてあるから、神が地獄に居る人々の救霊をしないのはすこぶる不愉快であり、自分たちの宗派の方は神の掟よりもはるかに慈悲の教えだと主張する。
このような大切な質問に対して私たちは我らの主なる神の恩恵の助けによって、罪の償いが出きる[10]と説明し、こうして彼らの満足するほどに応えた[11]。神の御あわれみの大いなることを示すにあたって、日本人は私の見た他のいかなる異教の国民よりも理性の声に従う民族だと思った。非常に好奇心が強く議論に長じ、質問は際限がないくらいに知識欲に富んでいて、私たちの答えに満足するとそれを他の人々に熱心に伝えてやまない。」[12]
(3)神の義: 「山口の信者はその洗礼を受ける前に神の全善について重大な疑問におそわれた。それはわたしたちのくるまで、けっして日本人に神は啓示をお与えにならなかったからである。また私たちの教えているように、神を礼拝しないものは地獄へ落ちるとすれば、神は祖先に対して無慈悲である。なんとなれば、神は教えについて何もしらない祖先が地獄へ堕ちることを許したからである。
この難問にたいして、いろいろの証明法で了解させることができた」という。日本人といえども中国からその宗旨が渡来しないとっくの昔から人を殺したり、盗んだり、詐欺を働いたり、あるいはその他の神の十戒に背くようなことはすべて罪悪であることを知っていたはずだ。
悪のしるしとして、彼らは良心の呵責を感じていたはずだ。なぜかといえば、善をおこない、悪をさけることは、人間の心に書き記された掟だからである。故に人間はただ全世界の創造主のことのほかは、誰に教えられなくてもおのずから神の掟をしっているのである。と彼らに説明したのである。それは納得させることができたようである。[13]一つは神の恩寵、二つ目はある山口の学者の例をだす。この人一番の学者といわれていた人で、旧来の日本の教えに満足できずに信者になった。彼はとうの昔から一人で天地の創造主に対して礼拝していたという。」
4)悪の存在: 「彼らは悪であり人類の敵である悪魔の存在を信じるが故に創造主のことを認められないと言った。もし神が善ならそんな悪いものを造るはずがないというのである。
それに対して私たちは、神はそれらをみな善いものとして造ったが、彼らが自分勝手に悪くなったので神は彼らを罰した。その罰は永劫に続くと応えた。
すると彼らは神はそれほどまでに残酷に罰するものならば、哀れみのないものだ、しかももし、神が私たちの教えのごとく人間を造ったことが本当なら、なぜこんなに悪い悪魔がいて、それが人間を誘惑することを許しておくのか。私たちの教えによると人間が造られたのは神に奉仕したてまつるためであるにもかかわらずである。また神が慈愛のものならば、人間をこんなに弱く、かつ罪の傾きをもったものとして造らないで、悪い傾きのないものとして造ったはずだ。またなぜ神が善ならば、こんなに守りにくい十戒などを与えなかったはずだ。というのである。」
「日本はキリスト教の公布にすこぶる適した国であるから、困難はすべて喜んで忍ぶべきである。・・今まで発見された国々の中で、日本だけがキリストの教えを永久に伝えることが適当な国である。けれどもそれは非常な困難のうちに実現するであろう。」[14]
一コリ9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
マルコ16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じて洗礼を受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
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・人間というのは、自分の行いによって自分の運命を決める存在である (humanism)。
・「日本では「地獄の沙汰も金次第」という言葉のように来世の見方はそれほど厳格ではない。
・La vocazione
dell’uomo non e’ doppia: 人間の使命は二通りではない
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Terrena per tutti 全員はこの世での使命をもっている
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Trascendente per chi vuole 信じる人だけは地上的な使命もある
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それではなぜ世界はこの新しい来世観を受け入れたのだろうか? この答えとなるのが冒頭の「コーラン」の言葉である。最後の審判が人々に保証するのは何よりも公平と正義との実現であるといえる。「日本人の発想では「地獄の沙汰も金次第」という言葉のように来世の清算はそれほど厳格ではない。一説によると、人は地獄で閻魔大王の前で裁きを受けるが、その際、地蔵菩薩が弁護者としてその人を弁護するという。これはいかにも日本的だが、イスラムではあり得ない。
イスラムの教えとはこのような混乱の時代にあって部族や民族を越えた正義とそれによる救いがあることを明らかにした教えである。人はその個人個人の行いによって審かれる。これは極めて単純明解な教えであるが、現実には実現しがたい理想である。
マタイ16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。
天の国は目の前にあるが、鍵がないと入ることができない
主イエスは、ペトロにおっしゃいました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」。
天の国の鍵。神の国の鍵です。「鍵」というものは、それがないと中にはいることができないものです。皆さんの中には、自動車のキーをエンジンキーのところに差し込んだまま、車のドアをロックしてしまった経験がおありの方がいると思います。わたしにはその経験はないのですが、いっしょに釣りに行った友人が自分の車をロックしてしまったことがありました。あれは歯がゆいものですね。目の前に自分の車がある。しかも窓からのぞくと、鍵がハンドルの横にぶら下がっているのが見える。しかしドアは鍵をかけてしまっていて、中にはいることができないのです。第3者から見ると、滑稽この上ない光景です。
「天の国の鍵」‥‥このことは、天の国に入るということをたいへんよくあらわしていると思います。まず分かることは、天の国(天国)にはそのまま入ることができないということです。もちろんイエスさまがおっしゃる「天の国」とは、いわゆる「あの世」のことではありません。死んでから後行く場所ということではありません。もちろんこの肉体が死んだ後もその天の国に生きるわけですが、「天国」というと一般の人にはどうしても「死んでから後行く場所、あの世のことだ」と思われるのです。しかし主イエスがおっしゃる天の国というのは、死んでから後に限定されるものではない。今この世にこの私たちの肉体が生きているうちに、天の国に生きることができるものです。
ルカ福音書17章の20節からのところで主イエスが次のようにおっしゃっています。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」‥‥ここでは、神の国(天の国)とは、あなたがたの間にある、つまりあなたがたのすぐ隣にあるとおっしゃっています。私たちのすぐそばにあるというのです。またルカ11:20では、イエスさまが悪霊を追い出すことについて、「しかし、わたしは神の指で追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」とおっしゃっています。そうすると、天の国(神の国)は、イエスさまとともに、わたしたちの所まで来ているということになります。天の国がわたしたちの所に来ている、神が支配しておられ神が住んでおられるすばらしい天の国が、わたしたちのすぐ隣まで来ているというのです。しかしそれは主イエスがおっしゃっているように、目で見える形で来ているのではない。しかし確かに来ている。わたしたちのすぐそばに来ているというのです。
そうすると先ほどの、車のキーをしたままドアを閉めてしまったケースを思い出します。自分の目の前に車があり、窓越しにはキーがハンドルの横についているのが見えるのだけれども、鍵がかかっていてどうしようもない。‥‥ただ天の国のほうは、目の前にあると主はおっしゃるが、この肉の目には見えない。しかし確かにそれはあり、そして確かにすぐにでもそこに入ることができるのだ、ということです。
天国の鍵はだれが持っているのか
ではそのわたしたちの肉の目には見えない天の国の、その鍵はどこにあるのか? ‥‥するとそれは、主イエスご自身がペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃっているように、イエスさまが持っていらっしゃることが分かります。授けたのがイエスさまですから。
天国の鍵はだれに与えられるのか
ではどうしたらその天の国の鍵はいただけるのか? ‥‥イエスさまはなぜペトロに天の国の鍵を授けるとおっしゃったのでしょうか? ペトロが立派な人だったからでしょうか。ペトロが優秀な人だったからでしょうか? ペトロがイエスさまのために良いことをたくさんしたからでしょうか?‥‥いずれも違うのです。イエスさまがペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃったのは、イエスさまの問いに対するペトロの答えにありました。
イエスさまはその場にいる弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」(15節)と問いました。世間ではイエスさまのことを、ヘロデ王によって投獄され、首をはねられた洗礼者ヨハネの生まれ変わりだという人がいる。あるいは、イエスさまのことを、昔旧約の時代に活躍した預言者エリヤであるとか、エレミヤだとか言う人もいる。そのようにいろいろとイエスさまのことを評価している。しかし、「あなたがたは、わたしのことをいったい何者だと言うのか?」と。
それに対して弟子の一人のペトロが、「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と答えた。それに対してイエスさまが、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とおっしゃったのです。
すなわち、イエスさまのことを、キリスト、救い主、神の子であると言い表したことに対して、イエスさまが天の国の鍵を授けられたのです。これが天の国の鍵です。これも肉の目には見えない鍵です。しかし確かにそれが鍵であるということです。
実は、この個所は、キリスト教会にとって、解釈が大きく分かれる個所なのです。カトリックとプロテスタントが、この個所の理解の仕方で分かれると言っても過言ではありません。 カトリック教会では、このときイエス様は、ペトロという人に天国の鍵を授けた、と解釈します。すなわち、使徒ペトロに天国の扉を開けることのできる権能を授けた、ということです。鍵は何本もありません。ペトロが持っている。 イタリアはローマのカトリック教会の総本山であるバチカンに行きますと(私は行ったことはありませんが)、そのサン・ピエトロ寺院の広場には、天国の鍵を持ったペトロの立像が置かれているそうです。そしてペトロというのは、最初のローマ司教なのですね。ローマの司教がすなわち、ローマ教皇(法王)です。そして天国の鍵の権能を授かったペトロの後継者が歴代のローマ教皇だと主張します。ですから、天国の鍵の権能は、ペトロ以来、歴代のローマ教皇に受け継がれていると解釈します。今日でも、法王が教会に入場してくる時、聖歌隊は「おまえはペテロ、この岩の上にわたしの教会を......」と歌うそうです。
それに対して、私たちプロテスタント教会は、天国の鍵は、16節のペトロの答え、「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉に対して与えられたものであると解釈します。イエス様が弟子たちに向かって、「それではあなたがたはわたしを何ものだと言うのか」と問われた。それに対してペトロが、「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と答えた。これはイエス様がキリストであると言う、信仰告白の言葉です。その信仰告白に対して、主イエスは天国の鍵を授けた、と理解しています。ですから、天国の鍵はローマ教皇が持っているのではありません。イエス様を生ける神の子キリストである、と信じ、告白する者に対して与えられるのだ、と信じているのです。もちろん目には見えない鍵です。信仰告白に対して鍵が与えられる。ですから、私たちにも天国の鍵が与えられているのです。
「教会」に与えられている
ただここで注意しなければならないことは、なにか「天国の鍵」というものが、試験をパスした個人に与えられるということとはちょっと違うことです。イエスさまが、「うん、あなたは正しく信じた。だからあなたには天国の鍵を授けましょう」、そして他の人には、「あなたはまだダメだ。鍵は与えられない」というように、ひとりひとりに鍵を授けたり授けなかったりするということではありません。それでは、天国の鍵のコピーが全人類分用意されていて、無事信仰の試験に合格した者に、順番に授けていくということになってしまいます。
実は、イエス・キリストの信仰というものは、そんな個人主義ではないのです。かつてイスラエルの民が神の民としてまるごと約束の地へと導かれて行かれたように、イエスさまは、教会という新しい神の民を、丸ごと救おうとされるのです。その教会の代表として、イエスをキリストと信じ告白した、ペトロに与えられたのです。
18節に、「教会を建てる」という言葉が出てくるのは、そのためです。わたしたちが、バラバラに信仰生活を送るのではなく、教会につながって信仰生活をするのであることは、そのためです。
教会を建てる
主イエスは、天国の鍵を授けるとおっしゃる前に、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」とおっしゃいました。
「ペトロ」と「岩」、これはちょっと語呂合わせのようになっているのですね。イエス様というお方は、実に上手に言葉を用いられた方です。「ペトロ」という言葉は、ギリシャ語では「石」という意味です。「岩」だと書いている本もあるかと思いますが、正確には、「石」という意味なのです。つまり、ここでイエス様は、「石」と「岩」を並べておられる。言うまでもなく、「石」よりは「岩」の方が大きいのです。「石」の上には建物は建たないが、「岩」の上には建ちます。
今回新会堂建築で、最初に地中深く建物を支える杭を打ちました。そして、さらに地面を数メートル掘り下げて、コンクリートを流し込みました。その一画に、聖書を入れた壺を埋設したのです。建物の目に見えない部分、建物を地面の下で支える部分に、時間をかけ、手間をかけ、お金をかけている。このことを見て、ある姉妹が感慨深い思いをしました。
建物はそのように、基礎がしっかりしていないと、弱いものとなってしまいます。大きな地震が来れば倒れてしまいます。しかし逆に基礎がしっかりしていれば、大丈夫です。地震が来ても、嵐が来ても、ビクともしません。
きょうの聖書の言葉で言えば、「岩」の上に建てれば大丈夫です。しかしペトロという人間自体は、その名の通り「石」に過ぎません。石は小さくて、その上に建物を建てることができません。ペトロという人間自体は石に過ぎない。しかし、その小さな石に過ぎない人が、「イエス様はキリストであり、生ける神の子である」と信仰を告白したときに、岩となるのです。揺るぎないものとされるのです。地震が来ても、嵐が来ても大丈夫。
そのように、わたしという人間はまことに弱いものです。しかしその弱い私たちが、イエス様をキリストであり、主であり、生ける神の子である、と信じ告白したときに、主によって岩のように強くされるのです。
あるいはこうも考えられます。ペトロという石は、最初の一個。それに続いて、他の人々が同じように「イエスは主、生ける神の子」と告白する。そういう多くの石が集まって、岩のようになる。そこにイエス様が教会を建てるということです。
教会とは、キリストの体であると、新約聖書は述べています。キリストは教会をご自分の体とされる。教会と共にキリストは歩まれるのです。
「教会」という言葉は、実は福音書には2個所しかでてきません。そのうちの大切な1個所がきょうの所です。「教会」と翻訳される言葉は、原語のギリシャ語では、「集会」という言葉に、定冠詞がついたものです。英語で言えば、「The」です。「ザ・集会」というのが教会です。一人では「集会」になりません。集会といえば、二人または3人以上の人が集まらなければなりません。つまり、キリスト信仰というのは、最初から、一人では成り立たないのです。一人では、「岩」ではなくて、「石」にすぎません。しかしその石が、集まって岩のごとくになる。そこに主イエス・キリストが、教会を建ててくださると約束しておられるのです。
私たちは、16節でペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と、「生ける神の子」と告白したことを覚えなくてはなりません。生きておられるのです。私たちが神の子と信じるイエス様は、生きておられる神です。なにか聖書という本の中だけの存在ではありません。昔話ではありません。また、遠い遠い天国から、下界を見おろしているだけの方でもありません。この世の中に生きている私たちと共に生きてくださる方です。現に今、生きておられる方です。この方と共に歩むのです。
私たちひとりひとりは、小さな石に過ぎない。嵐が来れば揺らぐし、困難なことにぶつかれば倒れてしまう。しかしその私たちが、イエスを主と信じ、生ける神の子キリストです、と告白したときに、主イエスは「あなたは幸いだ」と祝福してくださるのです。「わたしはこの岩の上に教会を建てる」とおっしゃってくださるのです。嵐が来ても、地震が来ても、ビクともしない。教会の岩の中に加えてくださるのです。そして天国の鍵をゆだねられているのです。世の人々を天国に案内する力を与えられているのです。
この小さな弟子の集団が、ペンテコステで教会となりました。この一握りの小さな集団が、イエスを主と告白し続け、成長していきました。そして世界へ広がりました。わたしたちの教会も、「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白し続けるのです。この日本において、この富山において。生ける神の子キリストの働きを見続けるのです。そこに未来があります。
http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat109.html
人は神の前では自分の髪の毛一本も黒くも白くもできない無力な存在である。しかし、神は現に生きる人間一人ひとりに生きるすべを与え、信じる者には必ず救いの手を差しのべる。この神と人との関係は帆船に乗る人と風との関係にたとえられるだろう。いかに優秀な航海士でも風なしに船を進めることはできない。人は神の送る風に従い、自らの船を操ることによって航海できるのである。思うに、この発想が今の日本人とイスラムの考え方との決定的な違いだろう。日本では成功した人の努力や苦労が賞賛され、またその人はそれまで自分を助けてきた人々に感謝する。しかし、自分の心臓を動かし水や空気を与えてくれる自然や神にまで敢えてその意識を及ぼすことはない。
[2] The Brighter Side of Hell | Fr. James V.
Schall, S.J. | November 11, 2005 (www.ignatiusinsight.com).
[4] http://www.josephandleon.co.jp/hellsbirth/chapter00/01.html
[5]二十世紀に入ってからも『往生要集』の影響は衰えていない。太宰治は最初の小説集『思い出』の中で、幼い頃に見た地獄絵の強烈な印象を語っているし、高橋和己も小説『悲の器』(ヒノウツワ)の冒頭に『往生要集』の一節を引用している。
[6] 仏教というのは、輪廻転生が基本である。死んだら何かに生まれ変わるわけである。にもかかわらず、どうして仏典には地獄が出てくるのか。それと、そもそも地獄というのは誰が言い出したのか。世界で最初に地獄を押し出した宗教はゾロアスター教だったといわれている。仏教の地獄のルーツは古代ペルシアにある。源信の地獄は、戦争の体験から生まれたと言われている。「この世の地獄」とは、たとえばキリストの十字架というような体験である。けれども、その後に復活がある。源信の地獄は十字架に留まる、復活がない。ちなみに、仏教では、悟りを開き煩悩がなくなると、輪廻から脱出し、涅槃に入り、もはや生まれ変わる事はない。これでは、キリスト教の煉獄と同じではと?
Wednesday, November 13, 2013
1 Advent A
待降節第1主日 A 武庫之荘教会
イザヤ2・1-5
ローマ13・11-14a
マタイ24・37-44
待降節は救い主の到来を待つ季節ですが、今の私たちにとっては、ふたつの「時」を味わう季節であると言えるのではないでしょうか。ひとつは、救い主の誕生を待つ“今という時”であり、もうひとつは、救い主の再来を待つ“今という時”、ということになります。待降節のはじめに、主の再臨について述べる福音が朗読されるのは、私たちが“今という時”を
理解するためのものです。今日の福音では、主の再臨が突然であることが語られるので、
私たちの眼差しは、“近い(近視眼)”けれども、漠然とした“将来の時”に向かいがちです。sese04
「目を覚ましていなさい」とは?
イエスさまは、「だから目を覚ましていなさい」とおっしゃいました。では「目を覚ましている」とは、いったいどういうことなのでしょうか?イエスさまがたとえておられるのは、まず、「家の主人」が泥棒がいつ来るのか知っていたら、みすみす家に入らせないだろう、ということです。
そうすると、「目を覚ましている」ということは、「いつも立派な行いをしている」ということになるのでしょうか?
あるいは、37~38節では、「ノアの大洪水」の時にたとえられています。ノアの箱船の時です。この世に悪がはびこり、みんな神さまのいうことを信じなくなり、堕落して不法に満ちてしまいました。神さまは、地上に人間を造ったことを後悔なさり、この地球上の人間を滅ぼすということになさいました。ただノアという人は、神を信じ神と共に歩んだ人でした。ノアは神さまの言葉に従って、巨大な箱船を造り始めました。まわりの人々はそれをどのような気持ちで見ていたことでしょうか。人々は、あざ笑って、「そんなばかばかしいことが起こるはずがない」と言って相手にしませんでした。誰も神さまを信じようとはせず、あいかわらず、好き勝手なことをしていたのです。そしてノア以外はみな滅びました。
そうすると、イエスさまがおっしゃるキリストの再臨とは、それと同じようなことがもう一度起こる、ということでしょうか?「だから目を覚ましていなさい」とおっしゃるのでしょうか?
それゆえ、「目を覚ましている」というのは、終わりがいつ来るのかは分からないから、いつも緊張して立派な行いをし、熱心に神を信じてなければならない、ということでしょうか?‥‥
しかしもしそうだとすると、「イエスさま。今来られては困ります」ということになるのではないかと思います。私たちにはおそらく誰でも、神さまを信じられなくなったりしたことがあるし、あるいは神さまを信じていないときもあっただろうと思うのです。
わたし自身、中学生までは教会に行っていましたが、その後しばらく教会をサボったことがあります。そうすると、仮にそんな時世の終わりが来たとしたら、どうでしょうか。もし旧約のノアの時と同じならば、わたしなど救われずに滅びてしまったことでしょう。また、つらいことがあると、「本当に神さまは助けてくださるのだろうか?」と疑ったこともあります。もしそんなとき、泥棒が突然やってくるように、キリストの再臨があったとしたら、どうなるのでしょうか?
つまり、もし「目を覚ましていなさい」ということが、一瞬たりとも神を忘れずに、信仰と良い業を行うことに励んでいることである、としたら、まさに運が良かった人と、運がなくて救われずに滅んでいく人と分かれてしまうことになります。ですから、いつも熱心に聖書を読んで祈り、断食をし、良い業に励み、立派な行いをし続けていなければならない、ということになります。
「目を覚ましている」というのはそういうことでしょうか? もしそうだとしたら、旧約聖書のノアの大洪水がふたたび来るということになってしまいます。今度は大洪水か、あるいは地球の温暖化で地球が滅びるか、という違いだけであって、やっぱり同じように、その時信じているものは天国で、信じていない者は地獄行き、という、まさにどこかのあやしい団体が宣伝カーで言って走り回っているのと同じことになってしまいます。そうすると、それこそいつも緊張して、いつ来るかとビクビクして過ごすことになってしまいます。それがイエスさまのおっしゃった信仰生活なのでしょうか? でないとしたら、「目を覚ましている」というのはどういうことなのか?
今日読んでいる福音書のもう少し後のところに、実は目を覚ましていないで眠りこけてしまった弟子の姿が登場します。
それは、イエスさまが十字架にかけられる前の晩のことです。イエスさまは、夜に最後の晩餐を弟子たちと共にとられたあと、弟子たちと共にゲッセマネに行って、父なる神様にお祈りに行かれました。そうして弟子たちのところに戻ってみると、弟子たちはみな眠っていました。それでイエスさまはおっしゃいました。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても肉体は弱い」。つまり「目を覚ましていなさい。祈っていなさい。」とおっしゃったのです。そうしてまた少し離れたところに行って、ふたたび父なる神様に祈られました。そして又弟子たちのところに戻ってみると、なんとまた弟子たちは眠っていたのです。そしてまた主イエスは少し離れて3度目の祈りを祈られました。そしてまた戻ってこられたとき、弟子たちにこうおっしゃいました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」そうして、イエスさまは、弟子であったユダの手引きによって、イエスさまをとらえに来た人々によって、逮捕されたのです。
いかがでしょうか。この場面は、今日の聖書の言葉に完全に重なっていないでしょうか。今日の聖書の言葉を聞いた弟子たちは、それから数日後にイエスさまの逮捕の時を迎えるのです。その時、弟子たちは、主イエスが「目を覚まして祈っていなさい」とおっしゃったのに、一時も起きていることが出来ませんでした。まさに時が来たのです。そして弟子たちは神の裁きを受けて滅んだでしょうか?
いいえ。弟子たちは裁きを受けませんでした。では誰が裁きを受けたのでしょうか?それは他ならぬ、主イエス御自身でした。イエスさまがとらえられ、はずかしめを受け、そして十字架につけられて死なれたのです。目を覚ましておれず、眠りこけていた弟子たちの代わりに、もっと言えば私たちの代わりに、神の裁きを受けられたのです。それが十字架です。
そして主イエスが三日目によみがえられたとき、今度こそ弟子たちは主の怒りを受けたでしょうか? それも違いました。主イエスは主を見捨てた弟子たちを責めるどころか、ゆるし、ふたたびご自分に従ってくるように招かれたのです。
ここが旧約のノアの大洪水による神の裁きと違うところです。今度は、神の御子イエスさまが、私たちの代わりに裁きを受けたのです。それが十字架です。「目を覚ましていなさい」と主がおっしゃったのに、一時も目を覚ましていることが出来なかった。その結果、主イエスが十字架にかけられた。ゆるし、愛して、ふたたび弟子として招くために復活なさったのです。これが神の愛です。そして弟子たちは、その愛を知って、そのすばらしい主イエスに従っていったのです。
主イエスは何度でもおっしゃいます。「目を覚ましていなさい」と。しかしそれは、わたしたちがおそれおののいて、ビクビクして緊張した信仰生活を送るためにそうおっしゃるのではない。むしろ、そんな弱い私たちさえも見捨てないで、むしろご自分が代わりに十字架へ行ってくださる、その愛をもっておっしゃるのです。私たちではなく、主イエスが裁きを受けられたのです。ですから私たちは、感謝を持って、喜びをもって、自発的に主イエスに従っていくのです。自らの力では、目を覚ましていることすらできない自分であることを知り、イエスさまにおすがりするのです。イエスさまにおすがりし続けるのです。
http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat145.html
神はノアに箱舟を造りなさいと言われた。雨の降りそうも無いときに、洪水になるから船を造れと言われたら、私たちだったらどうするであろうか。他人に言われたことなら面白い話ですが、自分に言われたのなら大変なことです。長さ150メートルもある船を片手間(かたてま)に造ることはできない。しかもノアは農夫であって大工ではなかった。他の人は、食い、飲みして、この世のことに一生懸命なのに、ノアは箱舟を造った。自分の全財産を使い込んで船を造って、家族たちとその中に入った。カンカン照りのとき、洪水になるという神の言葉を聞いてそうしたのであるから、世間の人は笑ったと思います。ノアが箱舟に入って戸を閉めたら、ポツンと雨が降ってきてそれから降り続いた。
ノアが箱舟に入ったのは、洪水が来るという神様を信じて、その時のために備えたのです。私たちは自分で箱舟を造る必要はない。今はイエス・キリストが箱舟を造ってくださったのだから、その中に入りさえすればいいわけです。その船に乗るということ、それにのってこの世を(渡る)出るということが、私たちの信仰です。洪水になることは、すべての人に言われたのだと思います。他の人々は自分の経験や常識で神の言葉をまともに受けとめないが、ノアだけがその言葉に従ったのです。今日においても、聖書は世の終わりがある、あるいは自分の人生に終わりがることを告げている。それをまともに受けとめて未来(終末)への備えをするところに、信仰者の姿があると思います。(榎)
「目を覚ましていなさい」。それは、現代の私たちに対して、日常性に重なり合う非日常性を決して忘れないようにしなさい、というメッセージであるかもしれません。そのことは、
自分を見失わないためにも、極めて大切な姿勢ではないでしょうか。私たちは、日常性と非日常性、というふたつの世界に生きていることを、折りに触れて感じることがありますが、
それでも、目の前の出来事だけを見て判断し、その奥にある世界を深く確信する間もなく、
日常性に埋没しがちではないでしょうか。
目の前に起こっていることがすべてだと心のどこかで思っていて、見える結果に一喜一憂したり、ちょっとしたことで揺れ動く感情に振り回されたりしてはいないでしょうか。
たとえば苦しみのように、できることなら避けて通りたい事柄を、ただただ嫌なこと、忌まわしいこと、という姿勢に留まるのではなく、正直に向き合い、正面から取り組む勇気と力は、どこから汲むことができるでしょうか。私たちの体験のすべて、喜びも悲しみも、そして苦しみも、その意味を本当に知り、それをありのままに受けとめるためには、その事柄だけを見るのではなく、長い時間の流れの中で見つめることが必要です。ある哲学者のモットーを使えば、“永遠の相のもと”に見るときに、初めて分かり、そのとき初めて、力がもたらされるのです。
「目を覚ましていなさい」というイエスの教えは、イエスの教えに忠実であるようにという
メッセージであると同時に、私たちが、どのような“命”に招かれているかを思い起こすようにと促されているのです。sese04
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きょうの主日から待降節が始まります。
待降節とは、文字どおり、ご降誕を待つ季節、救い主の誕生に向かって心を備え、高めていく準備の時期です。
きょうの典礼の三つの聖書は、それぞれ、やがて訪れる救いの時を語っています。イザヤは「終わりの日」といい、パウロは「救いが近づいた」といい、イエズスは「人の子のあらわれの日Lといっています。表現は異なっていても、救いの時が訪れてくるという〝たしかさ″ においては一致Lています。
しかし、それがいつのことなのか、どのような形をとるのかは告げていません。むしろ、イエズスは「思いがけない時にくると語っています。「思いがけない時」、つまり、その時について、わたしたちはわかることもできないし、予想をたてることもできないのです。(計画やプランを立てることで対応できるようなものではない)まして、その時をわたしたちの力でつごうのよいように、早めたり、遅らせたりできないのです。
それは、完全に、神の思いの中にあること、神の一方的な業なのです。しかし、それは、わたしたちの五感で確かめられなくとも、〝刻々と″時間の流れにしたがって、確実に熟し高まっていくのです。したがってわたしたちは、その時が熟し、わたしたちの前にあらわれてくるのを、注意深く、待たなければならないのです。
決定的な時(たとえば、結婚、就職、入学試験)との出会いをふさわしく待つ姿勢を学ぶこと、これが待降節の課題といえるのです。この待降節をきっかけに、待つことの重さを学んでみたいものです。
ふだん、わたしたちは待つことの重大さに気がついていませんが、人生は待つことによって織りなされています。日常を観察してみますと、待つことが、ひじょうに大きな意味をもっているのに気がつきます。わたしたち人間を「待つ存在」とか、「人生とは待つことである」とか規定することができるほどです。
若いカップルは愛が熟していくのを待ち、妊婦は小さないのちが胎内で日をおって成長し、やがてぶじに出産するのを待ち、母親は、生まれた子がことばをいいはじめるのを待ち、はいはいしだす時を待ち、成長し、やがて幼稚園にはいる時を待ち、卒業する時を待ちます。
このように、生命の成熟に閑してほ、わたしたちは待たなければなりません。いのちの成熟に関するかぎり、わたしたちは無力です。あせったり、むりしたりすれば、その生命はゆがみ、へたをすれば、破壊にもつながります。待たずに、せかせかと、自分の思いどおりにしようと功をいそいでも、ろくなものは生まれてきません。お金の力や才能を過信して、むりを通しても、時を得ていなければ〝ほんもの″は生まれてきません。(無理を通せば、道理がひっこむ))ごうまんな人、自分の限界を知らない人からは、落ち着いた待つという姿勢は生まれてこないでしょう。
生命の神秘とその成長に関するかぎりは、じつくりと謙虚に待たなければなりません。待つということは、自分の限界をしっかりとみつめたところから生まれてきます。
しかし、それは同時に信頼の心をも前提とします。大きなカによって、いのちが、ゆっくりと時間をかけて成長していくのだということに対する信頼です。わたしたちのカをはるかにこえた力が、むりをせずに、やさしく生命全体をつつみながら、働きつづけているのです。すぐには、わたしたちの思いどおりにならない現実を大きなカに信頼をかけて、忍耐深く待つことが必要なのです。したがって、わたしたちがこの待降節に、救いの訪れを、真実の意味で待つことができるために、謙虚さと信頼を養うことが必要です。謙虚さを養う、つまり、自分の力では自分を救うことができないという自覚を深めることです。
わたしたちの中には罪に汚され、輝きを失ったやみがあり、エゴイズムや乱れた欲望にひきずりまわされて愛せなくなった現実があるということ、そして、世界全体が愛を失って深く傷つき病んでいるということを、しつかりと感じとる心を育てることです。
しかし、そうした自覚が絶望につながるのでなく、希望の中でのやみの自覚となるために、信らいに向けて心を高めなければなりません。つまり、神の大きなカが、わたしたち人類をやさしくつつむ愛としてあらわれてくるという〝たしかさ〟に心を高めていくのです。これが待降節なのです。
深いやみの自覚を深めながら、神の無限のあわれみの確かさにひとみを添えて、その訪れを待つこと、これが待降節の課題です。
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イザヤ2・1-5
ローマ13・11-14a
マタイ24・37-44
待降節は救い主の到来を待つ季節ですが、今の私たちにとっては、ふたつの「時」を味わう季節であると言えるのではないでしょうか。ひとつは、救い主の誕生を待つ“今という時”であり、もうひとつは、救い主の再来を待つ“今という時”、ということになります。待降節のはじめに、主の再臨について述べる福音が朗読されるのは、私たちが“今という時”を
理解するためのものです。今日の福音では、主の再臨が突然であることが語られるので、
私たちの眼差しは、“近い(近視眼)”けれども、漠然とした“将来の時”に向かいがちです。sese04
「目を覚ましていなさい」とは?
イエスさまは、「だから目を覚ましていなさい」とおっしゃいました。では「目を覚ましている」とは、いったいどういうことなのでしょうか?イエスさまがたとえておられるのは、まず、「家の主人」が泥棒がいつ来るのか知っていたら、みすみす家に入らせないだろう、ということです。
そうすると、「目を覚ましている」ということは、「いつも立派な行いをしている」ということになるのでしょうか?
あるいは、37~38節では、「ノアの大洪水」の時にたとえられています。ノアの箱船の時です。この世に悪がはびこり、みんな神さまのいうことを信じなくなり、堕落して不法に満ちてしまいました。神さまは、地上に人間を造ったことを後悔なさり、この地球上の人間を滅ぼすということになさいました。ただノアという人は、神を信じ神と共に歩んだ人でした。ノアは神さまの言葉に従って、巨大な箱船を造り始めました。まわりの人々はそれをどのような気持ちで見ていたことでしょうか。人々は、あざ笑って、「そんなばかばかしいことが起こるはずがない」と言って相手にしませんでした。誰も神さまを信じようとはせず、あいかわらず、好き勝手なことをしていたのです。そしてノア以外はみな滅びました。
そうすると、イエスさまがおっしゃるキリストの再臨とは、それと同じようなことがもう一度起こる、ということでしょうか?「だから目を覚ましていなさい」とおっしゃるのでしょうか?
それゆえ、「目を覚ましている」というのは、終わりがいつ来るのかは分からないから、いつも緊張して立派な行いをし、熱心に神を信じてなければならない、ということでしょうか?‥‥
しかしもしそうだとすると、「イエスさま。今来られては困ります」ということになるのではないかと思います。私たちにはおそらく誰でも、神さまを信じられなくなったりしたことがあるし、あるいは神さまを信じていないときもあっただろうと思うのです。
わたし自身、中学生までは教会に行っていましたが、その後しばらく教会をサボったことがあります。そうすると、仮にそんな時世の終わりが来たとしたら、どうでしょうか。もし旧約のノアの時と同じならば、わたしなど救われずに滅びてしまったことでしょう。また、つらいことがあると、「本当に神さまは助けてくださるのだろうか?」と疑ったこともあります。もしそんなとき、泥棒が突然やってくるように、キリストの再臨があったとしたら、どうなるのでしょうか?
つまり、もし「目を覚ましていなさい」ということが、一瞬たりとも神を忘れずに、信仰と良い業を行うことに励んでいることである、としたら、まさに運が良かった人と、運がなくて救われずに滅んでいく人と分かれてしまうことになります。ですから、いつも熱心に聖書を読んで祈り、断食をし、良い業に励み、立派な行いをし続けていなければならない、ということになります。
「目を覚ましている」というのはそういうことでしょうか? もしそうだとしたら、旧約聖書のノアの大洪水がふたたび来るということになってしまいます。今度は大洪水か、あるいは地球の温暖化で地球が滅びるか、という違いだけであって、やっぱり同じように、その時信じているものは天国で、信じていない者は地獄行き、という、まさにどこかのあやしい団体が宣伝カーで言って走り回っているのと同じことになってしまいます。そうすると、それこそいつも緊張して、いつ来るかとビクビクして過ごすことになってしまいます。それがイエスさまのおっしゃった信仰生活なのでしょうか? でないとしたら、「目を覚ましている」というのはどういうことなのか?
今日読んでいる福音書のもう少し後のところに、実は目を覚ましていないで眠りこけてしまった弟子の姿が登場します。
それは、イエスさまが十字架にかけられる前の晩のことです。イエスさまは、夜に最後の晩餐を弟子たちと共にとられたあと、弟子たちと共にゲッセマネに行って、父なる神様にお祈りに行かれました。そうして弟子たちのところに戻ってみると、弟子たちはみな眠っていました。それでイエスさまはおっしゃいました。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても肉体は弱い」。つまり「目を覚ましていなさい。祈っていなさい。」とおっしゃったのです。そうしてまた少し離れたところに行って、ふたたび父なる神様に祈られました。そして又弟子たちのところに戻ってみると、なんとまた弟子たちは眠っていたのです。そしてまた主イエスは少し離れて3度目の祈りを祈られました。そしてまた戻ってこられたとき、弟子たちにこうおっしゃいました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」そうして、イエスさまは、弟子であったユダの手引きによって、イエスさまをとらえに来た人々によって、逮捕されたのです。
いかがでしょうか。この場面は、今日の聖書の言葉に完全に重なっていないでしょうか。今日の聖書の言葉を聞いた弟子たちは、それから数日後にイエスさまの逮捕の時を迎えるのです。その時、弟子たちは、主イエスが「目を覚まして祈っていなさい」とおっしゃったのに、一時も起きていることが出来ませんでした。まさに時が来たのです。そして弟子たちは神の裁きを受けて滅んだでしょうか?
いいえ。弟子たちは裁きを受けませんでした。では誰が裁きを受けたのでしょうか?それは他ならぬ、主イエス御自身でした。イエスさまがとらえられ、はずかしめを受け、そして十字架につけられて死なれたのです。目を覚ましておれず、眠りこけていた弟子たちの代わりに、もっと言えば私たちの代わりに、神の裁きを受けられたのです。それが十字架です。
そして主イエスが三日目によみがえられたとき、今度こそ弟子たちは主の怒りを受けたでしょうか? それも違いました。主イエスは主を見捨てた弟子たちを責めるどころか、ゆるし、ふたたびご自分に従ってくるように招かれたのです。
ここが旧約のノアの大洪水による神の裁きと違うところです。今度は、神の御子イエスさまが、私たちの代わりに裁きを受けたのです。それが十字架です。「目を覚ましていなさい」と主がおっしゃったのに、一時も目を覚ましていることが出来なかった。その結果、主イエスが十字架にかけられた。ゆるし、愛して、ふたたび弟子として招くために復活なさったのです。これが神の愛です。そして弟子たちは、その愛を知って、そのすばらしい主イエスに従っていったのです。
主イエスは何度でもおっしゃいます。「目を覚ましていなさい」と。しかしそれは、わたしたちがおそれおののいて、ビクビクして緊張した信仰生活を送るためにそうおっしゃるのではない。むしろ、そんな弱い私たちさえも見捨てないで、むしろご自分が代わりに十字架へ行ってくださる、その愛をもっておっしゃるのです。私たちではなく、主イエスが裁きを受けられたのです。ですから私たちは、感謝を持って、喜びをもって、自発的に主イエスに従っていくのです。自らの力では、目を覚ましていることすらできない自分であることを知り、イエスさまにおすがりするのです。イエスさまにおすがりし続けるのです。
http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat145.html
神はノアに箱舟を造りなさいと言われた。雨の降りそうも無いときに、洪水になるから船を造れと言われたら、私たちだったらどうするであろうか。他人に言われたことなら面白い話ですが、自分に言われたのなら大変なことです。長さ150メートルもある船を片手間(かたてま)に造ることはできない。しかもノアは農夫であって大工ではなかった。他の人は、食い、飲みして、この世のことに一生懸命なのに、ノアは箱舟を造った。自分の全財産を使い込んで船を造って、家族たちとその中に入った。カンカン照りのとき、洪水になるという神の言葉を聞いてそうしたのであるから、世間の人は笑ったと思います。ノアが箱舟に入って戸を閉めたら、ポツンと雨が降ってきてそれから降り続いた。
ノアが箱舟に入ったのは、洪水が来るという神様を信じて、その時のために備えたのです。私たちは自分で箱舟を造る必要はない。今はイエス・キリストが箱舟を造ってくださったのだから、その中に入りさえすればいいわけです。その船に乗るということ、それにのってこの世を(渡る)出るということが、私たちの信仰です。洪水になることは、すべての人に言われたのだと思います。他の人々は自分の経験や常識で神の言葉をまともに受けとめないが、ノアだけがその言葉に従ったのです。今日においても、聖書は世の終わりがある、あるいは自分の人生に終わりがることを告げている。それをまともに受けとめて未来(終末)への備えをするところに、信仰者の姿があると思います。(榎)
「目を覚ましていなさい」。それは、現代の私たちに対して、日常性に重なり合う非日常性を決して忘れないようにしなさい、というメッセージであるかもしれません。そのことは、
自分を見失わないためにも、極めて大切な姿勢ではないでしょうか。私たちは、日常性と非日常性、というふたつの世界に生きていることを、折りに触れて感じることがありますが、
それでも、目の前の出来事だけを見て判断し、その奥にある世界を深く確信する間もなく、
日常性に埋没しがちではないでしょうか。
目の前に起こっていることがすべてだと心のどこかで思っていて、見える結果に一喜一憂したり、ちょっとしたことで揺れ動く感情に振り回されたりしてはいないでしょうか。
たとえば苦しみのように、できることなら避けて通りたい事柄を、ただただ嫌なこと、忌まわしいこと、という姿勢に留まるのではなく、正直に向き合い、正面から取り組む勇気と力は、どこから汲むことができるでしょうか。私たちの体験のすべて、喜びも悲しみも、そして苦しみも、その意味を本当に知り、それをありのままに受けとめるためには、その事柄だけを見るのではなく、長い時間の流れの中で見つめることが必要です。ある哲学者のモットーを使えば、“永遠の相のもと”に見るときに、初めて分かり、そのとき初めて、力がもたらされるのです。
「目を覚ましていなさい」というイエスの教えは、イエスの教えに忠実であるようにという
メッセージであると同時に、私たちが、どのような“命”に招かれているかを思い起こすようにと促されているのです。sese04
-----------------------
きょうの主日から待降節が始まります。
待降節とは、文字どおり、ご降誕を待つ季節、救い主の誕生に向かって心を備え、高めていく準備の時期です。
きょうの典礼の三つの聖書は、それぞれ、やがて訪れる救いの時を語っています。イザヤは「終わりの日」といい、パウロは「救いが近づいた」といい、イエズスは「人の子のあらわれの日Lといっています。表現は異なっていても、救いの時が訪れてくるという〝たしかさ″ においては一致Lています。
しかし、それがいつのことなのか、どのような形をとるのかは告げていません。むしろ、イエズスは「思いがけない時にくると語っています。「思いがけない時」、つまり、その時について、わたしたちはわかることもできないし、予想をたてることもできないのです。(計画やプランを立てることで対応できるようなものではない)まして、その時をわたしたちの力でつごうのよいように、早めたり、遅らせたりできないのです。
それは、完全に、神の思いの中にあること、神の一方的な業なのです。しかし、それは、わたしたちの五感で確かめられなくとも、〝刻々と″時間の流れにしたがって、確実に熟し高まっていくのです。したがってわたしたちは、その時が熟し、わたしたちの前にあらわれてくるのを、注意深く、待たなければならないのです。
決定的な時(たとえば、結婚、就職、入学試験)との出会いをふさわしく待つ姿勢を学ぶこと、これが待降節の課題といえるのです。この待降節をきっかけに、待つことの重さを学んでみたいものです。
ふだん、わたしたちは待つことの重大さに気がついていませんが、人生は待つことによって織りなされています。日常を観察してみますと、待つことが、ひじょうに大きな意味をもっているのに気がつきます。わたしたち人間を「待つ存在」とか、「人生とは待つことである」とか規定することができるほどです。
若いカップルは愛が熟していくのを待ち、妊婦は小さないのちが胎内で日をおって成長し、やがてぶじに出産するのを待ち、母親は、生まれた子がことばをいいはじめるのを待ち、はいはいしだす時を待ち、成長し、やがて幼稚園にはいる時を待ち、卒業する時を待ちます。
このように、生命の成熟に閑してほ、わたしたちは待たなければなりません。いのちの成熟に関するかぎり、わたしたちは無力です。あせったり、むりしたりすれば、その生命はゆがみ、へたをすれば、破壊にもつながります。待たずに、せかせかと、自分の思いどおりにしようと功をいそいでも、ろくなものは生まれてきません。お金の力や才能を過信して、むりを通しても、時を得ていなければ〝ほんもの″は生まれてきません。(無理を通せば、道理がひっこむ))ごうまんな人、自分の限界を知らない人からは、落ち着いた待つという姿勢は生まれてこないでしょう。
生命の神秘とその成長に関するかぎりは、じつくりと謙虚に待たなければなりません。待つということは、自分の限界をしっかりとみつめたところから生まれてきます。
しかし、それは同時に信頼の心をも前提とします。大きなカによって、いのちが、ゆっくりと時間をかけて成長していくのだということに対する信頼です。わたしたちのカをはるかにこえた力が、むりをせずに、やさしく生命全体をつつみながら、働きつづけているのです。すぐには、わたしたちの思いどおりにならない現実を大きなカに信頼をかけて、忍耐深く待つことが必要なのです。したがって、わたしたちがこの待降節に、救いの訪れを、真実の意味で待つことができるために、謙虚さと信頼を養うことが必要です。謙虚さを養う、つまり、自分の力では自分を救うことができないという自覚を深めることです。
わたしたちの中には罪に汚され、輝きを失ったやみがあり、エゴイズムや乱れた欲望にひきずりまわされて愛せなくなった現実があるということ、そして、世界全体が愛を失って深く傷つき病んでいるということを、しつかりと感じとる心を育てることです。
しかし、そうした自覚が絶望につながるのでなく、希望の中でのやみの自覚となるために、信らいに向けて心を高めなければなりません。つまり、神の大きなカが、わたしたち人類をやさしくつつむ愛としてあらわれてくるという〝たしかさ〟に心を高めていくのです。これが待降節なのです。
深いやみの自覚を深めながら、神の無限のあわれみの確かさにひとみを添えて、その訪れを待つこと、これが待降節の課題です。
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2 advent A
待降節第2主日 A
マタイ3・1-12
http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat07.htm
イエスさまはガリラヤ地方のナザレという村で育ちました。きょうの聖書の箇所では、イエスさまがお生まれになってから、およそ30年の歳月が経っています。2章と3章の間には、約30年が経過しているのです。
イエスさまの露払いをした人
福音書を続けて読むと、いよいよイエスさまの登場かと思いきや、そうではありません。登場するのは「洗礼者ヨハネ」という人です。
イエスさまが世に出る前に、まず洗礼者ヨハネが現れて教えを宣べ伝えたのです。何を宣べ伝えたかというと、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えたというのです。そして聖書が解説していることは‥‥(3)「これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」‥‥主が来られる準備をする、つまり、主イエス・キリストが来られるための道を備えるためであったと、マタイは書いているのです。
主イエス・キリストが来られるためには準備が必要でした。イエスさまはいきなり活動を開始されたのではない。まず洗礼者ヨハネが準備をしたのです。その準備が、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と世の人に向かって勧めることだったのです。
「悔い改めよ」だって?
「悔い改める」ということは、あらためるべきことがある、ということです。
「自分は間違っていない」とか「自分はなにも悪いことをしていない」と思っている人は、悔い改めようとしません。それどころか「何を悔い改める必要があるというのか?」と反発するのです。
「援助交際」という行為が、若い女子高生の間でも行われているということが報道されます。中年のおじさんからお小遣いをもらって「援助交際」をする。要するに売春です。彼女たちはお金がないのではない。きれいな服や化粧品ほしさに、あるいは遊ぶ金ほしさにそういうことをするのです。もちろん、彼女たちだけが悪いのではなく、彼女たちを求める大人も悪い。援助交際をしている高校生の一人にテレビがインタビューをしている時、その答えはこうでした。「相手も喜んでいるわけだし、なにも人に迷惑をかけていない。何が悪いの?」‥‥。
「何が悪いの?」と言われて、どう答えるでしょうか。テレビでは、「変な男に引っかかるよ」と言うのが関の山(せきのやま)でした。そういわれても彼女たちには、お金のほうが魅力であり、そういう忠告は無駄でした。
「なにも人様に迷惑をかけているわけではない」‥‥「自分たちはなにも悪くない」‥‥こう思っているならば、ヨハネの言葉は全くばかばかしく聞こえることでしょう。「悔い改めよ」などと言われても、全く別世界の言葉、宇宙人の言葉のように聞こえることでしょう。
もちろん今のは例であって、援助交際をしている若い子だけの問題ではないことは言うまでもありません。むしろ、多くの人が同じように自分のことを正当化しているのです。‥‥「何が悪い?なにも人様に迷惑をかけてはいない。なにも悔い改めることなどない。悔い改めるとしたら、自分ではなくて憎いあいつのほうだ!」と言うでしょう。
この私だって、そのように感じたものです。「悔い改める」なんて、まったく自分の興味や関心と、かけ離れた言葉にしか聞こえませんでした。もうそういう聖書の言葉は、遠い遠い世界の話であると感じました。いやむしろ感じると言うよりも、感じもしなかった。全く無縁でした。
見えなかったことが見えてくる
ヨハネは「荒れ野」で活動しました。(4)には、らくだの毛衣(けごろも)を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた、と書かれています。
現代はグルメブームで、何でも珍しいものを食べることが流行っています。しかしヨハネはなにも好きこのんでイナゴを食べていたわけではないでしょう。荒れ野にはレストランもコンビニもない。いやお金を得るための仕事もない。人が住まない荒れ野だからです。らくだの毛衣、革の帯‥‥いずれも荒涼とした荒れ野での生活がにじみ出ています。
ヨハネはなぜ荒れ野で暮らし、荒れ野で人々に教え、荒れ野で洗礼を授けていたのか?エルサレムのような人が大勢いる大都会で宣べ伝えた方が、効率的ではないのか?
荒れ野‥‥それは殺伐(さつばつ)とした大地です。レストランやコンビニどころか、人が住んでいない、雨が降らないから畑もない、どちらかというと砂漠に近いようなところです。木や草がまばらに生えているだけの、乾ききった大地。それは日本には存在しない場所です。そのままそこにいれば、どんどん体の水分が蒸発してしまって、脱水症状になって死んでしまう。そういう場所です。ここにヒントがあります。
人が大勢文化的な生活をし、商店街やコンビニがあり、豊かな水をたたえた川が流れていて山は木々の緑で覆われている。水道の蛇口をひねればすぐに水が出てくる。食べ物は豊富にあり、飢え死にするようなことはない。‥‥そういった生活をしているときには全く気がつかないものが、荒れ野にはあります。
例えば、もし自分が今、突然砂漠の真ん中に置かれたらどうだろうか。‥‥見渡す限りの砂と石ころで、誰もいない。太陽が容赦なく照りつけ、じりじりと身を焼いていく‥‥どうでしょうか。お金があっても役に立たない。助けを呼ぼうにも人がいない。‥‥おそらく、それまでと同じ気分でいる人は一人もいないでしょう。「このままでよいのだ」という人は一人もいないだろうと思うのです。
ではもっと極端に考えて、砂漠どころか、「かぐやひめ」という宇宙船に乗っていて、月に一人で置かれてしまったとしたら、どうでしょうか。それこそ、飲む水もないし、食べるものもあるはずがない。もちろん空気もないから生きてもいれないわけですが。助けを呼んでも全くの無駄。目を上げると、宇宙の真ん中に地球がぽつんと浮かんでいる。‥‥どうするでしょうか。おそらく、「このままでいいのだ」「人様に迷惑をかけていないからいいのだ」「神さまなんか信じない」というわけにはいかなくなるでしょう。そこにはなにも助けてくれる者はいないのです。「神さま!」と絶叫するのではないでしょうか。
そう考えると、なぜヨハネが荒れ野という場所を選んだのか、ということが分かってくるような気がします。
内村鑑三が書いています。‥‥「われ、我が国を去って他国に行かんか、神必ずそこにあり。われこの地球を去って木星または水星に至らんか、彼必ずそこにあり。彼はオライオン星にあり。プレアデス星にあり。しかして遠くこの宇宙をはなれ他の宇宙に至るも、わが父はまたそこにあり。神と和し神の子になりて、宇宙はうるわしき楽園となるなり。」
なんというすばらしいことでしょうか。神さまはどこにでもいる。人の手が届かないところにいても、神さまはいる。
荒れ野。とりあえず生きるために必要なものが満たされている所にいるときには、決して見えなかったものが見えてくる場所です。
洗礼者ヨハネは、自ら荒れ野に身を置きました。荒れ野にあるものを食べました。荒れ野で手に入れられるものを身につけました。そうして、自分を自ら神を求めざるを得ない場所に置いたのです。そして、そこで宣べ伝えました。人々を荒れ野に導きました。そこで語りました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」 と。荒れ野は、ユダヤでは人々が住む場所のすぐ近くにありました。
私たちのすぐそばにも荒れ野がある
実際の荒れ野に行かなくとも、荒れ野は私たちのすぐそばにあります。緑豊かな日本には、たしかにこのユダヤの荒れ野のような場所はないけれど、荒れ野のような状況は確かにあります。そして、私たちもまた荒れ野を経験します。
ある若者は、大学生までは、それなりに順調に進んでいました。かつては通った教会からも遠ざかりました。「神さまなんか必要ではない」と思いました。「何を今さら教会に行って学ぶことがあるのか」と思いました。しかしそれは、自分が両親や周りの人などの手を介して神さまが守っていてくれることを知らなかったのです。卒業して、企業に就職したまではそれでも良かった。しかし転勤して、東京の空気が悪かったのか、健康を害し、ついには死に損なった所で荒れ野に置かれたのです。‥‥苦しくて意識が遠くなる。病院で治療を受けている最中だが、医者もそれ以上は助けることはできない。遠のいていく意識の中で、神さまに叫んでいました。そのように荒れ野に置かれて、はじめて神さまに向かって叫んだのです。
その若者はこう書き残しています。「もしあのとき、あのような荒れ野に自分が置かれなかったとしたら、いまだに「自分はなにも悪いことをしていない。人様に迷惑をかけているわけではない。神さまなんか弱いやつの信じる者だ」と言っていたことでしょう。」
実は、荒れ野は私たちのすぐそばにあります。日本が繁栄し、物質文明が栄え、ビルが建ち多くの人が車を運転する世の中。テレビのお笑い番組を見、商店街をショッピングして歩いている時には見えないものが、実は私たちのすぐそばにある。2000年前と今とは、なにも変わっていないのです。ただ見えにくくなっているに過ぎません。麻痺させられているに過ぎないのです。気がつかないだけです。
自分の無力を知って、神にすがる
「悔い改めよ」
この言葉は、原点のギリシャ語を少し詳しく分析すると、一回限り悔い改めよ、という文法の言葉ではありません。言ってみれば、「悔い改め続けなさい」という言葉になっています。
そうすると、聖書を知らない人が聞いたらますますおかしな言葉に聞こえます。「悔い改め続ける」なんて、「ごめんなさい」と謝ってばかりして生きると言うことか?と思うからです。
聖書では「悔い改める」という言葉の意味は、「ごめんなさいと謝る」という意味もありますが、むしろそれよりも「自分の無力を知る」という意味に近いのです。
日本語の「悔い改める」は、「悔いる」と「あらためる」に分けられます。これは本当にすばらしいことです。
「悔いる」は、神さまの前に罪を犯したことを知ることです。しかしもっと日本人にわかりやすく言えば、自分の無力を知ることです。「自分には、なにも自分を救う力がない」ことが分かるのです。‥‥荒れ野にひとりぼっちで置かれたら、それが分かるのです。
「あらためる」は、神さまのほうに向きを変えることです。‥‥今までは神さまの言うことなど聞かずに、自分勝手な道を歩んできた。その方向を、神さまのほうに向きを変えるということです。これからは神さまにすがって歩んでいくということです。
→こうして、「悔い改める」ということは、自分の無力を知って、方向を変えて神さまの方を向き続ける。神さまにすがって歩んでいく、という意味になります。
荒れ野に置かれ、自分の無力を知り、神にすがる、主を求める。‥‥こうしたときに初めて、「自分がいかに間違っていたか」ということに気がつくのです。「人様に迷惑をかけなければそれで良い」それがいかに間違っていたか、に気がつくのです。人様はもちろん、神さまに対して間違ったことをしてきた、と気がつくのです。
それで初めて「罪を告白」できるようになるのです。
悔い改めて、キリストに出会うことができる
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」
荒れ野ではじめて、神さまが分かってくる。その神さまの方を向いて、神の助けを求める。自分の無力を知って、主イエスにすがる。‥‥そこに道が整えられると聖書は書いているのです。
主をお迎えするには、そのように悔い改めて罪を告白する。そこに主を迎え入れる準備があるのです。どうか、主が私たちの悔い改めの心を良しとしてくださるように。
「まむしの子」と呼ばれて、どんな気分?
「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」‥‥洗礼者ヨハネはまことに厳しい言葉を投げかけています。
「蝮の子らよ」‥‥蝮というのは毒蛇です。日本では蝮酒が珍重(ちんちょう)されますが、とにかく毒蛇です。毒蛇は嫌われ者です。その嫌われ者の、毒を持っている蛇の子だと言ったのです。これはずいぶんと激しい言葉です。
いかがでしょうか。「蝮の子らよ」と呼ばれて、どう感じますか?
こう言われては、どう反応するかは主に二つでしょう。1.「何を失礼なことを言うか!」と言って、反発し、腹を立てるのが一つです。‥‥この場合は、「わたしは蝮の子などと呼ばれる覚えはない」という気持ちです。
もう少し丁寧に見てみると、
・「わたしは本当に蝮の子などと呼ばれる覚えがない。そんなひどい悪者ではない。」と思う場合です。この場合は、自分が「蝮の子」と呼ばれるほどひどい罪人であるとは思っていない場合です。
・もう一つは、「なるほどわたしは蝮の子と呼ばれるほどひどい罪人であるが、このヨハネという男からそこまで言われる覚えはない」、と思う場合です。
神の言を受け入れることができないということだと思います。
2.次に、「本当にその通りです」「アーメンです」と、素直に認める人です。 この場合は、先に言ったヨハネの言葉の内容にも「その通りだ」と思うし、ヨハネという人が言ったということについても受け入れることができる場合です。
私たちはどうでしょうか。
ヨハネはこの言を誰に向かって言ったのか。それは、洗礼を受けに来たファリサイ派とサドカイ派の人々に向かってでした。
ファリサイ派もサドカイ派も、両方ともユダヤ教の中の宗派です。「ファリサイ派」のほうは、中産階級・庶民の出でした。この宗派の特徴は、宗教の規則を生活の隅々に至るまで作って、徹底して守ることにありました。そういう細かい規則を徹底して守ることが、神を信じることだと思っていたのが、このファリサイ派でした。ファリサイ派は、各地にある会堂や学校で人々に律法を教え、宗教上の規則を教えました。
一方サドカイ派は、神殿に奉仕する祭司を中心とした人々でした。この人たちがどういう教えを持っていたのか、詳しいことは実はよく分かっていません。しかしサドカイ派の人たちは、神殿に仕える祭司として、ユダヤ人の宗教を守ってきたのだ、という誇りがあったに違いありません。
このように、ファリサイ派といいサドカイ派といい、ユダヤ人の宗教では人々を教え導く役割を持った人たちでした。「先生」たちでした。「自分たちが宗教を守っている」という自負のある人たちでした。
その先生たちが、ヨルダン川近くの荒れ野に来て、洗礼者ヨハネから洗礼を授けてもらおうとしてきたのです。
なぜ洗礼を受けに来たのか。‥‥素直に考えれば、ファリサイ派やサドカイ派の人々も、自分の罪を知って悔い改めたということになるでしょう。しかしヨハネが「蝮の子らよ」という言葉に続いて言った言葉を読むと、何かありそうです。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。」‥‥形だけ悔い改めてもダメだ、と言うことです。
これもなかなか厳しい言葉です。ファリサイ派やサドカイ派の人々には、形だけ悔い改めるということが多かったのではないか。‥‥なぜなら、「悔い改める」ということは、ユダヤ人の宗教(旧約聖書)では、なすべき大切なことだったからです。旧約聖書の預言者たちは、イザヤにしてもエレミヤにしても、神さまの前に悔い改めることを勧めています。また旧約聖書を読むと、「衣を引き裂き、灰をかぶって、粗布をまとって悔い改める」というようなことがよく出てきます。
悔い改めが奨励され、神さまに対して罪を告白することが美徳とされる。‥‥そうすると、まかり間違うと、「わたしは立派に悔い改めをした。だから、わたしは立派だ」ということになりかねません。「わたしは罪を告白して、悔い改めた。だから自分は救われる価値のある人だ」と心の中で思う。‥‥そういうことになりかねないのです。
つまり、悔い改めというのは、心の底から、自分は神さまに救っていただく値打ちのない者だと思い、ただ神の憐れみを求めてすがるのが悔い改めであるのに、違ってしまうのです。「さあ、わたしはちゃんと立派に悔い改めもした。だから、自分は神さまに救っていただく値打ちがあるのだ」と、自分の行いを誇ることになってしまいます。そうするとこれは、本当の悔い改めとは言えなくなります。
悔い改めによって救われるのではなく、自分の善行や功徳によって救われるということになります。
このことをヨハネは厳しく言ったのです。=「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」
それが本当の悔い改めかどうかは、その結果結んだ実を見れば分かるというものです。イエスさまも、「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。」(ルカ6:43)とおっしゃいました。
では、その良い実を結ぶというのはどういうことでしょうか。きょうの聖書で言えば、それはヨハネが「わたしの後から来る方」(11)、すなわちイエス・キリストを信じることです。
高ぶりの罪
(9)「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」
ユダヤ人というのは、アブラハムの子孫です。神さまは昔、アブラハムを選びました。そしてその子孫を祝福することを約束なさいました(創世記17章)。こうしてユダヤ人(イスラエル人)は神の民となったのです。ユダヤ人というのは、このアブラハムの子孫であることを誇っていました。
ユダヤ人の間には、有名な伝説がありました。‥‥それは、地獄の入り口の扉の所にアブラハムが立っているというものです。そして、地獄に堕ちてきたイスラエル人を、アブラハムが地獄に入れさせずに天国に送ってくれる、というものでした。
このように、ユダヤ人には「自分たちはアブラハムの子孫、神の民である。だから結局救われる」という考えがあったのです。
ですから、悔い改めと言ってもそれは形式的な悔い改めとなります。心の底から神さまの憐れみを求める、ということではなくなります。‥‥「自分たちはアブラハムの子孫である。唯一の神を知らない異邦人のような連中とは違う。」「今まで神の律法はみんなちゃんと守ってきた。その上、今度は洗礼まで受けて悔い改めた。わたしは立派な善人だ。」
‥‥いかがでしょうか。なんと非の打ち所のない人たちでしょうか。しかしそこには、神さまが最も嫌われるものがあります。→それは、「高ぶり」「高慢」です。罪人を見下し、異邦人を見下す高ぶりです。「自分は天国に入る資格がある」という高慢です。
ところが、洗礼者ヨハネは「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と言ったのです。
なるほど、そのとおりです。宇宙を造った神さまです。何もない所から宇宙を造った神さま。チリから人を造った神さまです。その神さまからすれば、「アブラハムの子孫」だなどといくら自慢していても、そんなものは石ころからでも造り出すことができるのです。
こんなわたしでも愛されている
さらに考えてみると、神さまの恵みが見えてきます。
わたしのような者など、神さまはいくらでも取り替えることがおできになるはずです。石ころからでもアブラハムの子孫を作り出せる神さまにとって、世界中60億人のうちの一人に過ぎないわたしなど、まことにちっぽけな者ではないのか。
そうすると、神さまにつばをはき、神に背いた、神さまから見たらなんの役にも立たない自分を、神さまは投げ捨てるのではなく、生かして置いてくださっている。石ころと取り替えることなく現に今も生かしておいてくださっているのです。これは驚くべきことではないか、と思うのです。
しかもそれだけではない。ヨハネが言った「わたしの後から来る方」=イエスさまがなぜ来たのか。‥‥私たちが知っているように、それは十字架にかかるためでした。自らの命をなげうって十字架にかかって、私たちを救うためでした。
つまり神は、この石ころにも等しい私たちを救うために、御子イエス・キリストを送って、十字架にかけなさったのです。考えられないほどの神の愛です。
石ころに等しい者が愛されています。いくらでも代わりの者に取り替えることができる者、いや取り替えられて当然な私たち一人一人ではないでしょうか。しかし神は、その私たちを石ころのように扱わないで、かけがいのない大切な者として愛してくださいました。そして今も愛してくださっているのです。
イエス・キリストの十字架がそのしるしです。
私たちが神を疑ったときはあると思います。十字架を見上げましょう。私たちは、心の底から洗いざらい、罪を告白し、赦しを乞うことができるのです。そして赦されて、神の愛のうちにいることができるのです。
御子でありながら世に下り、罪人の間に住まわれ、罪人として十字架にかかるほどにへりくだって、私たちに仕えてくださっている方=イエスさまのおかげです。
第二講話
マタイ9・9-13
「キリスト教は普通の人間を罪びとに仕立てて、重い罪悪感を持たせて、行き着くは生きる喜びを奪い、奴隷根性を与える。自分は罪びとだと思う人は、死ぬまで教会(聖職者)に頼らなければならないからです(一生返せない仮を作ってしまう)」といったのは哲学者ニーチェです。彼は、罪のことなど考える必要はない、もっと自然に、自由に気の向くままに楽しく生きるべきです。キリスト教以前の価値観に戻る
べきだと訴えました。ここに現代社会の一つの大きな流れを認めることが出来ます。キリストは「来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」という言葉には深い哲学が潜んでいます。本当の自由、本当の喜びは実は自分が罪びとだと考えることから始まります。
自分を罪人と認めさせることで信仰心を植え付けようとする宗教のあくどい手法です。
・子供のしつけをしない親
・マナーがずいぶん悪くなっている。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q129075202
キリスト教にとって、人は皆罪人だといいます
それでいて自分たちだけ許されたともいいます
とすると自分たち以外は許されていない罪人だということです
キリスト教者が罪と言う場合
それは世間一般的には100%言いがかりですね
要は一般人に難癖(ナンくせ)つけてるんですな
罪の意味が違います。
一般に罪という場合、
盗み、殺人、詐欺他、法律に違反することを言います、言うまでもないことですが。
聖書が言う罪とは、
不完全であること、完全さの的に達していないことです。
現在の人間は肉体の機能においても、精神的機能においても、
神が最初に創造されたときの質を保っていないということです。
機能を果たさない機械はいずれスクラップになるように、
神は現在の不完全な人類が存続し続けることをいつまでも許すことはないのです。
最初の人間は実際に神の言葉に反しましたから、反逆の罪もあったと言えますが、
その子孫である私たちは故意に反逆してきた訳ではありません。
別の観点で言えば、
自分には罪があるとは思わないと言っても無駄なことです。
あなたが交通法規を定めたわけではないでしょう。
信号を無視してどこが悪いか、と息巻いて(いきまいて)も
法の執行者はあなたを裁くでしょう。
それで、自分は神に対して罪人であるつもりはないとか、
不完全であるつもりもないとか言っても、
神が神の法の執行者としておられる以上、全く無駄なのです。
もし、あなたが、そもそも神などいないと言うのであれば、
我々キリスト教徒の言うことは気に留めるほどのことではない、ということになります。
また、聖書的に、罪が許されているとは、現在のところ、
将来に、完全さへ回復させられる、そういう希望を持てるようになったということです。
大変難しい問題だが、幸い、この問題を簡略化することが、われわれ漢字を使う中華文化圏(!)の民草には「ゆるされて」いる。それは「ゆるし」には二つあって、「許し」と「赦し」である、ということだ。
「赦し」からいこう。たとえば、キリスト教では神が罪びとを「赦す」ことがある。恩赦とか大赦とかいって、刑務所の服役者を釈放することがあるが、これは、天皇家の慶事に便乗してその罪を「赦す」わけである。簡単に言うと、世俗を超越した宗教的、あるいは人間の内面にかかわるメタレベルのはたらきによって罪障をなくすことである。
つまりこれには、神様が必要なのだ。ローマ法王(ママ)に赦されたクリスチャンは幸せであろう。そして内面的な高揚も期待できるだろう。またある意味では、人間同士の力では解決できないことに対して使う「赦し」である。
一方、「許し」は世俗の出来事、人間界の出来事である。「神の赦し」とは言っても「王の赦し」とは言わないし、「天皇の赦し」と言っても「殿のお赦し」とはまあふつう言わない。やはり「殿の御許し」なのである。
これは、人間と人間、個と個の間の関係で発生したことを「許す」のだ。当然、神がいないから、双方大満足、心から納得することを期待することは難しい。しかし、個と個が出来事の発生以後も関係を取り結んでいかなければならない場合、この「許し」が必要になってくる。よく言えば大人の関係である。相手の謝罪を受け止めると同時に、自分の内面の不満も克服する努力が必要なのである。そして汚く言ってしまえば、妥協が含まれるのである。
キリスト者が赦されたと言うのは、罪人でなくなったということではありません。むしろ罪がよく見えるようになるので、ますます強く清くなりたいと思うようになります。
赦されたと言うのはイエス・キリストがそれを贖ってくださったことを信じることで、神の目には清いと見てもらえると言うだけのことで、罪びとでありことに何の代わりもありません。また赦してもらえたのは私の努力でもなんでもないので、ただ赦される者であったことを感謝するばかりで、救われていない人のことをどうこう言う資格はありませんし、言う積もりもありません。
ただこれだけが救われる道と知っているからそれを伝えようとしているだけです。
「私たちが義とされるために教えていただいた祈りといえば、それは「私たちに負い目のある人をゆるします(ように)から、私たちの負い目をもおゆるしください」(マタイ6・12)なのです。アウグスティヌスが言うように(「神の国」XIX・27)この世においては、正しさは完全な徳よりもむしろ罪のゆるしにあるのです。
「この祈りは、その信仰が業(行い)をともなわないで死んでいる人にとっては効果が無く、その信仰が愛によって働いている人にとってに効果がある。」「このような祈りは正しい人にとって必要なのである。」
なぜなら、「神は高ぶる者を(敵とし)退け、へりくだる(謙遜な)者に恵みを与える」(ヤコブ4・6;1ペトロ5・5;箴言3・24)。
La Roche Foucault diceva che l'ipocrisia e' il tributo che il vizio paga alla virtu'.
今日、人々は罪意識をもっていないとよく言われる。けれども、それは完全に正しい見解ではない。なぜなら、我々の時代の特徴の一つとしては、マスコミや裁判において絶えず罪が訴えられるからである。従って、罪意識はあると言える。ただし、それは他人が犯す罪に関してである。
ところが、救いに導く罪の悔い改めは、自分の罪に対するのそれである。自分の過ちから離れることは、神に近づくことに等しい。なぜなら、神は悪の正反対であるから。
ビッフィ枢機卿(BOLOGNA教区名誉大司教)、今週教皇ベネディクト16世の四旬節黙想会を指導している。
マタイ3・1-12
http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat07.htm
イエスさまはガリラヤ地方のナザレという村で育ちました。きょうの聖書の箇所では、イエスさまがお生まれになってから、およそ30年の歳月が経っています。2章と3章の間には、約30年が経過しているのです。
イエスさまの露払いをした人
福音書を続けて読むと、いよいよイエスさまの登場かと思いきや、そうではありません。登場するのは「洗礼者ヨハネ」という人です。
イエスさまが世に出る前に、まず洗礼者ヨハネが現れて教えを宣べ伝えたのです。何を宣べ伝えたかというと、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えたというのです。そして聖書が解説していることは‥‥(3)「これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」‥‥主が来られる準備をする、つまり、主イエス・キリストが来られるための道を備えるためであったと、マタイは書いているのです。
主イエス・キリストが来られるためには準備が必要でした。イエスさまはいきなり活動を開始されたのではない。まず洗礼者ヨハネが準備をしたのです。その準備が、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と世の人に向かって勧めることだったのです。
「悔い改めよ」だって?
「悔い改める」ということは、あらためるべきことがある、ということです。
「自分は間違っていない」とか「自分はなにも悪いことをしていない」と思っている人は、悔い改めようとしません。それどころか「何を悔い改める必要があるというのか?」と反発するのです。
「援助交際」という行為が、若い女子高生の間でも行われているということが報道されます。中年のおじさんからお小遣いをもらって「援助交際」をする。要するに売春です。彼女たちはお金がないのではない。きれいな服や化粧品ほしさに、あるいは遊ぶ金ほしさにそういうことをするのです。もちろん、彼女たちだけが悪いのではなく、彼女たちを求める大人も悪い。援助交際をしている高校生の一人にテレビがインタビューをしている時、その答えはこうでした。「相手も喜んでいるわけだし、なにも人に迷惑をかけていない。何が悪いの?」‥‥。
「何が悪いの?」と言われて、どう答えるでしょうか。テレビでは、「変な男に引っかかるよ」と言うのが関の山(せきのやま)でした。そういわれても彼女たちには、お金のほうが魅力であり、そういう忠告は無駄でした。
「なにも人様に迷惑をかけているわけではない」‥‥「自分たちはなにも悪くない」‥‥こう思っているならば、ヨハネの言葉は全くばかばかしく聞こえることでしょう。「悔い改めよ」などと言われても、全く別世界の言葉、宇宙人の言葉のように聞こえることでしょう。
もちろん今のは例であって、援助交際をしている若い子だけの問題ではないことは言うまでもありません。むしろ、多くの人が同じように自分のことを正当化しているのです。‥‥「何が悪い?なにも人様に迷惑をかけてはいない。なにも悔い改めることなどない。悔い改めるとしたら、自分ではなくて憎いあいつのほうだ!」と言うでしょう。
この私だって、そのように感じたものです。「悔い改める」なんて、まったく自分の興味や関心と、かけ離れた言葉にしか聞こえませんでした。もうそういう聖書の言葉は、遠い遠い世界の話であると感じました。いやむしろ感じると言うよりも、感じもしなかった。全く無縁でした。
見えなかったことが見えてくる
ヨハネは「荒れ野」で活動しました。(4)には、らくだの毛衣(けごろも)を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた、と書かれています。
現代はグルメブームで、何でも珍しいものを食べることが流行っています。しかしヨハネはなにも好きこのんでイナゴを食べていたわけではないでしょう。荒れ野にはレストランもコンビニもない。いやお金を得るための仕事もない。人が住まない荒れ野だからです。らくだの毛衣、革の帯‥‥いずれも荒涼とした荒れ野での生活がにじみ出ています。
ヨハネはなぜ荒れ野で暮らし、荒れ野で人々に教え、荒れ野で洗礼を授けていたのか?エルサレムのような人が大勢いる大都会で宣べ伝えた方が、効率的ではないのか?
荒れ野‥‥それは殺伐(さつばつ)とした大地です。レストランやコンビニどころか、人が住んでいない、雨が降らないから畑もない、どちらかというと砂漠に近いようなところです。木や草がまばらに生えているだけの、乾ききった大地。それは日本には存在しない場所です。そのままそこにいれば、どんどん体の水分が蒸発してしまって、脱水症状になって死んでしまう。そういう場所です。ここにヒントがあります。
人が大勢文化的な生活をし、商店街やコンビニがあり、豊かな水をたたえた川が流れていて山は木々の緑で覆われている。水道の蛇口をひねればすぐに水が出てくる。食べ物は豊富にあり、飢え死にするようなことはない。‥‥そういった生活をしているときには全く気がつかないものが、荒れ野にはあります。
例えば、もし自分が今、突然砂漠の真ん中に置かれたらどうだろうか。‥‥見渡す限りの砂と石ころで、誰もいない。太陽が容赦なく照りつけ、じりじりと身を焼いていく‥‥どうでしょうか。お金があっても役に立たない。助けを呼ぼうにも人がいない。‥‥おそらく、それまでと同じ気分でいる人は一人もいないでしょう。「このままでよいのだ」という人は一人もいないだろうと思うのです。
ではもっと極端に考えて、砂漠どころか、「かぐやひめ」という宇宙船に乗っていて、月に一人で置かれてしまったとしたら、どうでしょうか。それこそ、飲む水もないし、食べるものもあるはずがない。もちろん空気もないから生きてもいれないわけですが。助けを呼んでも全くの無駄。目を上げると、宇宙の真ん中に地球がぽつんと浮かんでいる。‥‥どうするでしょうか。おそらく、「このままでいいのだ」「人様に迷惑をかけていないからいいのだ」「神さまなんか信じない」というわけにはいかなくなるでしょう。そこにはなにも助けてくれる者はいないのです。「神さま!」と絶叫するのではないでしょうか。
そう考えると、なぜヨハネが荒れ野という場所を選んだのか、ということが分かってくるような気がします。
内村鑑三が書いています。‥‥「われ、我が国を去って他国に行かんか、神必ずそこにあり。われこの地球を去って木星または水星に至らんか、彼必ずそこにあり。彼はオライオン星にあり。プレアデス星にあり。しかして遠くこの宇宙をはなれ他の宇宙に至るも、わが父はまたそこにあり。神と和し神の子になりて、宇宙はうるわしき楽園となるなり。」
なんというすばらしいことでしょうか。神さまはどこにでもいる。人の手が届かないところにいても、神さまはいる。
荒れ野。とりあえず生きるために必要なものが満たされている所にいるときには、決して見えなかったものが見えてくる場所です。
洗礼者ヨハネは、自ら荒れ野に身を置きました。荒れ野にあるものを食べました。荒れ野で手に入れられるものを身につけました。そうして、自分を自ら神を求めざるを得ない場所に置いたのです。そして、そこで宣べ伝えました。人々を荒れ野に導きました。そこで語りました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」 と。荒れ野は、ユダヤでは人々が住む場所のすぐ近くにありました。
私たちのすぐそばにも荒れ野がある
実際の荒れ野に行かなくとも、荒れ野は私たちのすぐそばにあります。緑豊かな日本には、たしかにこのユダヤの荒れ野のような場所はないけれど、荒れ野のような状況は確かにあります。そして、私たちもまた荒れ野を経験します。
ある若者は、大学生までは、それなりに順調に進んでいました。かつては通った教会からも遠ざかりました。「神さまなんか必要ではない」と思いました。「何を今さら教会に行って学ぶことがあるのか」と思いました。しかしそれは、自分が両親や周りの人などの手を介して神さまが守っていてくれることを知らなかったのです。卒業して、企業に就職したまではそれでも良かった。しかし転勤して、東京の空気が悪かったのか、健康を害し、ついには死に損なった所で荒れ野に置かれたのです。‥‥苦しくて意識が遠くなる。病院で治療を受けている最中だが、医者もそれ以上は助けることはできない。遠のいていく意識の中で、神さまに叫んでいました。そのように荒れ野に置かれて、はじめて神さまに向かって叫んだのです。
その若者はこう書き残しています。「もしあのとき、あのような荒れ野に自分が置かれなかったとしたら、いまだに「自分はなにも悪いことをしていない。人様に迷惑をかけているわけではない。神さまなんか弱いやつの信じる者だ」と言っていたことでしょう。」
実は、荒れ野は私たちのすぐそばにあります。日本が繁栄し、物質文明が栄え、ビルが建ち多くの人が車を運転する世の中。テレビのお笑い番組を見、商店街をショッピングして歩いている時には見えないものが、実は私たちのすぐそばにある。2000年前と今とは、なにも変わっていないのです。ただ見えにくくなっているに過ぎません。麻痺させられているに過ぎないのです。気がつかないだけです。
自分の無力を知って、神にすがる
「悔い改めよ」
この言葉は、原点のギリシャ語を少し詳しく分析すると、一回限り悔い改めよ、という文法の言葉ではありません。言ってみれば、「悔い改め続けなさい」という言葉になっています。
そうすると、聖書を知らない人が聞いたらますますおかしな言葉に聞こえます。「悔い改め続ける」なんて、「ごめんなさい」と謝ってばかりして生きると言うことか?と思うからです。
聖書では「悔い改める」という言葉の意味は、「ごめんなさいと謝る」という意味もありますが、むしろそれよりも「自分の無力を知る」という意味に近いのです。
日本語の「悔い改める」は、「悔いる」と「あらためる」に分けられます。これは本当にすばらしいことです。
「悔いる」は、神さまの前に罪を犯したことを知ることです。しかしもっと日本人にわかりやすく言えば、自分の無力を知ることです。「自分には、なにも自分を救う力がない」ことが分かるのです。‥‥荒れ野にひとりぼっちで置かれたら、それが分かるのです。
「あらためる」は、神さまのほうに向きを変えることです。‥‥今までは神さまの言うことなど聞かずに、自分勝手な道を歩んできた。その方向を、神さまのほうに向きを変えるということです。これからは神さまにすがって歩んでいくということです。
→こうして、「悔い改める」ということは、自分の無力を知って、方向を変えて神さまの方を向き続ける。神さまにすがって歩んでいく、という意味になります。
荒れ野に置かれ、自分の無力を知り、神にすがる、主を求める。‥‥こうしたときに初めて、「自分がいかに間違っていたか」ということに気がつくのです。「人様に迷惑をかけなければそれで良い」それがいかに間違っていたか、に気がつくのです。人様はもちろん、神さまに対して間違ったことをしてきた、と気がつくのです。
それで初めて「罪を告白」できるようになるのです。
悔い改めて、キリストに出会うことができる
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」
荒れ野ではじめて、神さまが分かってくる。その神さまの方を向いて、神の助けを求める。自分の無力を知って、主イエスにすがる。‥‥そこに道が整えられると聖書は書いているのです。
主をお迎えするには、そのように悔い改めて罪を告白する。そこに主を迎え入れる準備があるのです。どうか、主が私たちの悔い改めの心を良しとしてくださるように。
「まむしの子」と呼ばれて、どんな気分?
「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」‥‥洗礼者ヨハネはまことに厳しい言葉を投げかけています。
「蝮の子らよ」‥‥蝮というのは毒蛇です。日本では蝮酒が珍重(ちんちょう)されますが、とにかく毒蛇です。毒蛇は嫌われ者です。その嫌われ者の、毒を持っている蛇の子だと言ったのです。これはずいぶんと激しい言葉です。
いかがでしょうか。「蝮の子らよ」と呼ばれて、どう感じますか?
こう言われては、どう反応するかは主に二つでしょう。1.「何を失礼なことを言うか!」と言って、反発し、腹を立てるのが一つです。‥‥この場合は、「わたしは蝮の子などと呼ばれる覚えはない」という気持ちです。
もう少し丁寧に見てみると、
・「わたしは本当に蝮の子などと呼ばれる覚えがない。そんなひどい悪者ではない。」と思う場合です。この場合は、自分が「蝮の子」と呼ばれるほどひどい罪人であるとは思っていない場合です。
・もう一つは、「なるほどわたしは蝮の子と呼ばれるほどひどい罪人であるが、このヨハネという男からそこまで言われる覚えはない」、と思う場合です。
神の言を受け入れることができないということだと思います。
2.次に、「本当にその通りです」「アーメンです」と、素直に認める人です。 この場合は、先に言ったヨハネの言葉の内容にも「その通りだ」と思うし、ヨハネという人が言ったということについても受け入れることができる場合です。
私たちはどうでしょうか。
ヨハネはこの言を誰に向かって言ったのか。それは、洗礼を受けに来たファリサイ派とサドカイ派の人々に向かってでした。
ファリサイ派もサドカイ派も、両方ともユダヤ教の中の宗派です。「ファリサイ派」のほうは、中産階級・庶民の出でした。この宗派の特徴は、宗教の規則を生活の隅々に至るまで作って、徹底して守ることにありました。そういう細かい規則を徹底して守ることが、神を信じることだと思っていたのが、このファリサイ派でした。ファリサイ派は、各地にある会堂や学校で人々に律法を教え、宗教上の規則を教えました。
一方サドカイ派は、神殿に奉仕する祭司を中心とした人々でした。この人たちがどういう教えを持っていたのか、詳しいことは実はよく分かっていません。しかしサドカイ派の人たちは、神殿に仕える祭司として、ユダヤ人の宗教を守ってきたのだ、という誇りがあったに違いありません。
このように、ファリサイ派といいサドカイ派といい、ユダヤ人の宗教では人々を教え導く役割を持った人たちでした。「先生」たちでした。「自分たちが宗教を守っている」という自負のある人たちでした。
その先生たちが、ヨルダン川近くの荒れ野に来て、洗礼者ヨハネから洗礼を授けてもらおうとしてきたのです。
なぜ洗礼を受けに来たのか。‥‥素直に考えれば、ファリサイ派やサドカイ派の人々も、自分の罪を知って悔い改めたということになるでしょう。しかしヨハネが「蝮の子らよ」という言葉に続いて言った言葉を読むと、何かありそうです。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。」‥‥形だけ悔い改めてもダメだ、と言うことです。
これもなかなか厳しい言葉です。ファリサイ派やサドカイ派の人々には、形だけ悔い改めるということが多かったのではないか。‥‥なぜなら、「悔い改める」ということは、ユダヤ人の宗教(旧約聖書)では、なすべき大切なことだったからです。旧約聖書の預言者たちは、イザヤにしてもエレミヤにしても、神さまの前に悔い改めることを勧めています。また旧約聖書を読むと、「衣を引き裂き、灰をかぶって、粗布をまとって悔い改める」というようなことがよく出てきます。
悔い改めが奨励され、神さまに対して罪を告白することが美徳とされる。‥‥そうすると、まかり間違うと、「わたしは立派に悔い改めをした。だから、わたしは立派だ」ということになりかねません。「わたしは罪を告白して、悔い改めた。だから自分は救われる価値のある人だ」と心の中で思う。‥‥そういうことになりかねないのです。
つまり、悔い改めというのは、心の底から、自分は神さまに救っていただく値打ちのない者だと思い、ただ神の憐れみを求めてすがるのが悔い改めであるのに、違ってしまうのです。「さあ、わたしはちゃんと立派に悔い改めもした。だから、自分は神さまに救っていただく値打ちがあるのだ」と、自分の行いを誇ることになってしまいます。そうするとこれは、本当の悔い改めとは言えなくなります。
悔い改めによって救われるのではなく、自分の善行や功徳によって救われるということになります。
このことをヨハネは厳しく言ったのです。=「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」
それが本当の悔い改めかどうかは、その結果結んだ実を見れば分かるというものです。イエスさまも、「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。」(ルカ6:43)とおっしゃいました。
では、その良い実を結ぶというのはどういうことでしょうか。きょうの聖書で言えば、それはヨハネが「わたしの後から来る方」(11)、すなわちイエス・キリストを信じることです。
高ぶりの罪
(9)「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」
ユダヤ人というのは、アブラハムの子孫です。神さまは昔、アブラハムを選びました。そしてその子孫を祝福することを約束なさいました(創世記17章)。こうしてユダヤ人(イスラエル人)は神の民となったのです。ユダヤ人というのは、このアブラハムの子孫であることを誇っていました。
ユダヤ人の間には、有名な伝説がありました。‥‥それは、地獄の入り口の扉の所にアブラハムが立っているというものです。そして、地獄に堕ちてきたイスラエル人を、アブラハムが地獄に入れさせずに天国に送ってくれる、というものでした。
このように、ユダヤ人には「自分たちはアブラハムの子孫、神の民である。だから結局救われる」という考えがあったのです。
ですから、悔い改めと言ってもそれは形式的な悔い改めとなります。心の底から神さまの憐れみを求める、ということではなくなります。‥‥「自分たちはアブラハムの子孫である。唯一の神を知らない異邦人のような連中とは違う。」「今まで神の律法はみんなちゃんと守ってきた。その上、今度は洗礼まで受けて悔い改めた。わたしは立派な善人だ。」
‥‥いかがでしょうか。なんと非の打ち所のない人たちでしょうか。しかしそこには、神さまが最も嫌われるものがあります。→それは、「高ぶり」「高慢」です。罪人を見下し、異邦人を見下す高ぶりです。「自分は天国に入る資格がある」という高慢です。
ところが、洗礼者ヨハネは「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と言ったのです。
なるほど、そのとおりです。宇宙を造った神さまです。何もない所から宇宙を造った神さま。チリから人を造った神さまです。その神さまからすれば、「アブラハムの子孫」だなどといくら自慢していても、そんなものは石ころからでも造り出すことができるのです。
こんなわたしでも愛されている
さらに考えてみると、神さまの恵みが見えてきます。
わたしのような者など、神さまはいくらでも取り替えることがおできになるはずです。石ころからでもアブラハムの子孫を作り出せる神さまにとって、世界中60億人のうちの一人に過ぎないわたしなど、まことにちっぽけな者ではないのか。
そうすると、神さまにつばをはき、神に背いた、神さまから見たらなんの役にも立たない自分を、神さまは投げ捨てるのではなく、生かして置いてくださっている。石ころと取り替えることなく現に今も生かしておいてくださっているのです。これは驚くべきことではないか、と思うのです。
しかもそれだけではない。ヨハネが言った「わたしの後から来る方」=イエスさまがなぜ来たのか。‥‥私たちが知っているように、それは十字架にかかるためでした。自らの命をなげうって十字架にかかって、私たちを救うためでした。
つまり神は、この石ころにも等しい私たちを救うために、御子イエス・キリストを送って、十字架にかけなさったのです。考えられないほどの神の愛です。
石ころに等しい者が愛されています。いくらでも代わりの者に取り替えることができる者、いや取り替えられて当然な私たち一人一人ではないでしょうか。しかし神は、その私たちを石ころのように扱わないで、かけがいのない大切な者として愛してくださいました。そして今も愛してくださっているのです。
イエス・キリストの十字架がそのしるしです。
私たちが神を疑ったときはあると思います。十字架を見上げましょう。私たちは、心の底から洗いざらい、罪を告白し、赦しを乞うことができるのです。そして赦されて、神の愛のうちにいることができるのです。
御子でありながら世に下り、罪人の間に住まわれ、罪人として十字架にかかるほどにへりくだって、私たちに仕えてくださっている方=イエスさまのおかげです。
第二講話
マタイ9・9-13
「キリスト教は普通の人間を罪びとに仕立てて、重い罪悪感を持たせて、行き着くは生きる喜びを奪い、奴隷根性を与える。自分は罪びとだと思う人は、死ぬまで教会(聖職者)に頼らなければならないからです(一生返せない仮を作ってしまう)」といったのは哲学者ニーチェです。彼は、罪のことなど考える必要はない、もっと自然に、自由に気の向くままに楽しく生きるべきです。キリスト教以前の価値観に戻る
べきだと訴えました。ここに現代社会の一つの大きな流れを認めることが出来ます。キリストは「来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」という言葉には深い哲学が潜んでいます。本当の自由、本当の喜びは実は自分が罪びとだと考えることから始まります。
自分を罪人と認めさせることで信仰心を植え付けようとする宗教のあくどい手法です。
・子供のしつけをしない親
・マナーがずいぶん悪くなっている。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q129075202
キリスト教にとって、人は皆罪人だといいます
それでいて自分たちだけ許されたともいいます
とすると自分たち以外は許されていない罪人だということです
キリスト教者が罪と言う場合
それは世間一般的には100%言いがかりですね
要は一般人に難癖(ナンくせ)つけてるんですな
罪の意味が違います。
一般に罪という場合、
盗み、殺人、詐欺他、法律に違反することを言います、言うまでもないことですが。
聖書が言う罪とは、
不完全であること、完全さの的に達していないことです。
現在の人間は肉体の機能においても、精神的機能においても、
神が最初に創造されたときの質を保っていないということです。
機能を果たさない機械はいずれスクラップになるように、
神は現在の不完全な人類が存続し続けることをいつまでも許すことはないのです。
最初の人間は実際に神の言葉に反しましたから、反逆の罪もあったと言えますが、
その子孫である私たちは故意に反逆してきた訳ではありません。
別の観点で言えば、
自分には罪があるとは思わないと言っても無駄なことです。
あなたが交通法規を定めたわけではないでしょう。
信号を無視してどこが悪いか、と息巻いて(いきまいて)も
法の執行者はあなたを裁くでしょう。
それで、自分は神に対して罪人であるつもりはないとか、
不完全であるつもりもないとか言っても、
神が神の法の執行者としておられる以上、全く無駄なのです。
もし、あなたが、そもそも神などいないと言うのであれば、
我々キリスト教徒の言うことは気に留めるほどのことではない、ということになります。
また、聖書的に、罪が許されているとは、現在のところ、
将来に、完全さへ回復させられる、そういう希望を持てるようになったということです。
大変難しい問題だが、幸い、この問題を簡略化することが、われわれ漢字を使う中華文化圏(!)の民草には「ゆるされて」いる。それは「ゆるし」には二つあって、「許し」と「赦し」である、ということだ。
「赦し」からいこう。たとえば、キリスト教では神が罪びとを「赦す」ことがある。恩赦とか大赦とかいって、刑務所の服役者を釈放することがあるが、これは、天皇家の慶事に便乗してその罪を「赦す」わけである。簡単に言うと、世俗を超越した宗教的、あるいは人間の内面にかかわるメタレベルのはたらきによって罪障をなくすことである。
つまりこれには、神様が必要なのだ。ローマ法王(ママ)に赦されたクリスチャンは幸せであろう。そして内面的な高揚も期待できるだろう。またある意味では、人間同士の力では解決できないことに対して使う「赦し」である。
一方、「許し」は世俗の出来事、人間界の出来事である。「神の赦し」とは言っても「王の赦し」とは言わないし、「天皇の赦し」と言っても「殿のお赦し」とはまあふつう言わない。やはり「殿の御許し」なのである。
これは、人間と人間、個と個の間の関係で発生したことを「許す」のだ。当然、神がいないから、双方大満足、心から納得することを期待することは難しい。しかし、個と個が出来事の発生以後も関係を取り結んでいかなければならない場合、この「許し」が必要になってくる。よく言えば大人の関係である。相手の謝罪を受け止めると同時に、自分の内面の不満も克服する努力が必要なのである。そして汚く言ってしまえば、妥協が含まれるのである。
キリスト者が赦されたと言うのは、罪人でなくなったということではありません。むしろ罪がよく見えるようになるので、ますます強く清くなりたいと思うようになります。
赦されたと言うのはイエス・キリストがそれを贖ってくださったことを信じることで、神の目には清いと見てもらえると言うだけのことで、罪びとでありことに何の代わりもありません。また赦してもらえたのは私の努力でもなんでもないので、ただ赦される者であったことを感謝するばかりで、救われていない人のことをどうこう言う資格はありませんし、言う積もりもありません。
ただこれだけが救われる道と知っているからそれを伝えようとしているだけです。
「私たちが義とされるために教えていただいた祈りといえば、それは「私たちに負い目のある人をゆるします(ように)から、私たちの負い目をもおゆるしください」(マタイ6・12)なのです。アウグスティヌスが言うように(「神の国」XIX・27)この世においては、正しさは完全な徳よりもむしろ罪のゆるしにあるのです。
「この祈りは、その信仰が業(行い)をともなわないで死んでいる人にとっては効果が無く、その信仰が愛によって働いている人にとってに効果がある。」「このような祈りは正しい人にとって必要なのである。」
なぜなら、「神は高ぶる者を(敵とし)退け、へりくだる(謙遜な)者に恵みを与える」(ヤコブ4・6;1ペトロ5・5;箴言3・24)。
La Roche Foucault diceva che l'ipocrisia e' il tributo che il vizio paga alla virtu'.
今日、人々は罪意識をもっていないとよく言われる。けれども、それは完全に正しい見解ではない。なぜなら、我々の時代の特徴の一つとしては、マスコミや裁判において絶えず罪が訴えられるからである。従って、罪意識はあると言える。ただし、それは他人が犯す罪に関してである。
ところが、救いに導く罪の悔い改めは、自分の罪に対するのそれである。自分の過ちから離れることは、神に近づくことに等しい。なぜなら、神は悪の正反対であるから。
ビッフィ枢機卿(BOLOGNA教区名誉大司教)、今週教皇ベネディクト16世の四旬節黙想会を指導している。
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