クリスマス あいさつ
今年もクリスマスがやって来ました。神の子が、自分たちに生活の場の中に来てくださいます。
私たちはいろいろと不平不満があるかもしてません。でも今夜は神を賛美することができます。平和な心で神をたたえ、神様の平和をいただきたいと思います。
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Monday, December 23, 2013
クリスマス 2013
羊飼いに現れた天使は、天の軍勢、つまり他の沢山の天使と共に神を賛美しました。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」
この賛美の言葉に注目したいと思います。「栄光」という言葉があります。オリンピックの選手が競技で優勝して金メダルをもらいます。山中博士がノーベル賞を受賞し、金メダルをもらいました。金メダル、それは、それを受け取る人が素晴らしい成績、業績を上げたことを示しています。受賞した人の成績、業績に素晴らしさを輝かせるのが金メダルです。金メダルは、それを受賞した人にとって、栄光なのです。その人の業績の素晴らしさが輝いているのです。栄光、神にあれ、ということは、神さまに栄光があるようにとの願いです。神さまの素晴らしさが輝くようにとの願いであり、神さまは、素晴らしさで輝くお方であるということです。金メダルを受賞した人には、拍手を送り、人々はたたえます。神に栄光があるようにとは、神さまがたたえられるようにとの意味です。天使たちは、神さまはたたえられるにふさわしいと賛美して神をたたえました。
天使の賛美は、大切なことを教えています。天におられる神さまがほめたたえられ、地にいる人間に平和がある、これがこの世界の本来の姿であるということです。しかし現実の世界では、神さまは人間によって崇められず、それどころか、神がいるならなぜ、このようなことが起きるのか、神などいるはずがないと神を侮っているのです。そしてこの地上には争いが多く、人々が平和を楽しむことができません。この混乱した世界に救い主は救いをもたらし、神が崇められ、人が平和に暮らすことのできる世界をもたらすのです。神さまが栄光をうけられるとき、地には平和が満ちる、と天使は歌いました。
私たちの直面している事態は、一見それと反対のように見えます。確かに今日の世界の対立は、深く宗教に関係しています。それぞれが自分の信じる神に栄光を帰するために戦争をする。イスラム教世界と、キリスト教およびユダヤ教世界が対立している。こちらでは「アラーの名を汚す者に対しては、とことん戦う」と叫び、あちらでは「ゴッド・ブレス・アメリカ」と歌う。それぞれが自分の神、自分の信仰、自分の宗教にこだわっているから、戦争なんかするのだ。「聖戦(ジハード)だ」「十字軍だ」と言い合う。宗教戦争。みんなが宗教にこだわらなければ、こんなに戦争などしないのに。そのように思うのではないでしょうか。特に多くの日本人のように宗教に無頓着な人はそう考えるのではないかと思います。しかし私は、本当はそうではないだろうと思っています。本当は、何かしらこの世の利害が絡んでいて、それで戦争をするのです。必ずそうです。それを言わないために、神様を勝手に持ち出して、戦争を正当化するのです。人は、本当は、信仰のためには戦争をしないものだと思います。最前線に送り出される者の中には、純粋に神様のために思いこんでいる人もあるかも知れません。しかしそれは洗脳です。マインドコントロールされているのです。そういう誰かのこの世的打算と洗脳によって戦争が遂行されていく。
このようなことは、一見、神を神として立てているように見えて、実はそうではありません。むしろ反対です。自分の都合で神を持ち出し、神の名をみだりに語り、神に対して自分の都合のいいように祝福を願っているのです。神の正義ではなく、自分の正義のために、神にご登場願う。ある人が、皮肉っぽく、「人はしばしば神よりも宗教的になる」と言いました。
あるいは「人はしばしば神よりも正義をふりかざす」と言ってもいいかも知れません。私たちの方が、神さまを追い越してしまうのです。そうした時、神を神として立てているように見えながら、実は、この世界に正義の神がおられるということを、もはや信じていないのではないでしょうか。信じていないから、神が正義を貫いて下さることを待っていられなくて、自分でそれをもたらそうとするのです。そしてそこには、実に巧妙に自分の打算、思惑が入り込んでくる。自分の国の打算と思惑が忍び込んでくる。それは、時には自分でも気づかないほどです。もしかすると、悪魔が私たちに知らないうちに麻酔の注射を打っているのかも知れません。だからこそ、私たちは地上に平和を祈りつつ、同時に、いやそれに先だって、「いと高きところには栄光、神にあれ」(グロリア・イン・エクセルシス・デオ)と歌わなければならないのです。
次に、この「平和の王」として来られたイエス・キリストの姿に心を留めたいと思います。その方は、馬小屋の飼い葉桶の中に、布にくるまって寝かされている乳飲み子の赤ちゃんでした。王様の宮殿の豪華なベッドの上に、ふかふかの羽布団にくるまっていたわけではありません。あるいは、護衛の番兵がついていたわけでもありません。みすぼらしい羊飼いたちが、ノーガードで近寄ることができました。セコムがあったわけでもありません。力強い姿で、頼りがいのある姿で登場されたわけでもありません。よろいかぶとで身をおおっていたのでもありません。彼をおおっていたのは、ただの布きれ、しかも恐らくぼろ布であります。無力で、無防備なキリスト、救い主。この姿は、彼のその後の歩みを象徴するものでありましたし、彼がどのようにして平和をもたらされるのかということを象徴するものでもありました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」「これがあなたがたに与えられるしるしである」(ルカ2:12)。この姿こそが、救い主のしるしであったのです。こんな姿であったにもかかわらず、というのではありませんでした。この姿でなければならなかったのです。
そのお方は、力で敵を封じ込めて平和をもたらそうとするのとは正反対のやり方をなされました。その究極の場所が十字架であったわけです。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、このように述べています。「イエス・キリストは二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、……双方を御自分において一人の新しい人に造り上げられて平和を実現されました」(エフェソ2:14~15)。私たちは今こそ、イエス・キリストが一体どのようにして平和を実現されたのかをしっかりと見据えなければならないと思います。
希望、信仰、愛を奪われるそういう世界を地獄と言います。
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「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」
この賛美の言葉に注目したいと思います。「栄光」という言葉があります。オリンピックの選手が競技で優勝して金メダルをもらいます。山中博士がノーベル賞を受賞し、金メダルをもらいました。金メダル、それは、それを受け取る人が素晴らしい成績、業績を上げたことを示しています。受賞した人の成績、業績に素晴らしさを輝かせるのが金メダルです。金メダルは、それを受賞した人にとって、栄光なのです。その人の業績の素晴らしさが輝いているのです。栄光、神にあれ、ということは、神さまに栄光があるようにとの願いです。神さまの素晴らしさが輝くようにとの願いであり、神さまは、素晴らしさで輝くお方であるということです。金メダルを受賞した人には、拍手を送り、人々はたたえます。神に栄光があるようにとは、神さまがたたえられるようにとの意味です。天使たちは、神さまはたたえられるにふさわしいと賛美して神をたたえました。
天使の賛美は、大切なことを教えています。天におられる神さまがほめたたえられ、地にいる人間に平和がある、これがこの世界の本来の姿であるということです。しかし現実の世界では、神さまは人間によって崇められず、それどころか、神がいるならなぜ、このようなことが起きるのか、神などいるはずがないと神を侮っているのです。そしてこの地上には争いが多く、人々が平和を楽しむことができません。この混乱した世界に救い主は救いをもたらし、神が崇められ、人が平和に暮らすことのできる世界をもたらすのです。神さまが栄光をうけられるとき、地には平和が満ちる、と天使は歌いました。
私たちの直面している事態は、一見それと反対のように見えます。確かに今日の世界の対立は、深く宗教に関係しています。それぞれが自分の信じる神に栄光を帰するために戦争をする。イスラム教世界と、キリスト教およびユダヤ教世界が対立している。こちらでは「アラーの名を汚す者に対しては、とことん戦う」と叫び、あちらでは「ゴッド・ブレス・アメリカ」と歌う。それぞれが自分の神、自分の信仰、自分の宗教にこだわっているから、戦争なんかするのだ。「聖戦(ジハード)だ」「十字軍だ」と言い合う。宗教戦争。みんなが宗教にこだわらなければ、こんなに戦争などしないのに。そのように思うのではないでしょうか。特に多くの日本人のように宗教に無頓着な人はそう考えるのではないかと思います。しかし私は、本当はそうではないだろうと思っています。本当は、何かしらこの世の利害が絡んでいて、それで戦争をするのです。必ずそうです。それを言わないために、神様を勝手に持ち出して、戦争を正当化するのです。人は、本当は、信仰のためには戦争をしないものだと思います。最前線に送り出される者の中には、純粋に神様のために思いこんでいる人もあるかも知れません。しかしそれは洗脳です。マインドコントロールされているのです。そういう誰かのこの世的打算と洗脳によって戦争が遂行されていく。
このようなことは、一見、神を神として立てているように見えて、実はそうではありません。むしろ反対です。自分の都合で神を持ち出し、神の名をみだりに語り、神に対して自分の都合のいいように祝福を願っているのです。神の正義ではなく、自分の正義のために、神にご登場願う。ある人が、皮肉っぽく、「人はしばしば神よりも宗教的になる」と言いました。
あるいは「人はしばしば神よりも正義をふりかざす」と言ってもいいかも知れません。私たちの方が、神さまを追い越してしまうのです。そうした時、神を神として立てているように見えながら、実は、この世界に正義の神がおられるということを、もはや信じていないのではないでしょうか。信じていないから、神が正義を貫いて下さることを待っていられなくて、自分でそれをもたらそうとするのです。そしてそこには、実に巧妙に自分の打算、思惑が入り込んでくる。自分の国の打算と思惑が忍び込んでくる。それは、時には自分でも気づかないほどです。もしかすると、悪魔が私たちに知らないうちに麻酔の注射を打っているのかも知れません。だからこそ、私たちは地上に平和を祈りつつ、同時に、いやそれに先だって、「いと高きところには栄光、神にあれ」(グロリア・イン・エクセルシス・デオ)と歌わなければならないのです。
次に、この「平和の王」として来られたイエス・キリストの姿に心を留めたいと思います。その方は、馬小屋の飼い葉桶の中に、布にくるまって寝かされている乳飲み子の赤ちゃんでした。王様の宮殿の豪華なベッドの上に、ふかふかの羽布団にくるまっていたわけではありません。あるいは、護衛の番兵がついていたわけでもありません。みすぼらしい羊飼いたちが、ノーガードで近寄ることができました。セコムがあったわけでもありません。力強い姿で、頼りがいのある姿で登場されたわけでもありません。よろいかぶとで身をおおっていたのでもありません。彼をおおっていたのは、ただの布きれ、しかも恐らくぼろ布であります。無力で、無防備なキリスト、救い主。この姿は、彼のその後の歩みを象徴するものでありましたし、彼がどのようにして平和をもたらされるのかということを象徴するものでもありました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」「これがあなたがたに与えられるしるしである」(ルカ2:12)。この姿こそが、救い主のしるしであったのです。こんな姿であったにもかかわらず、というのではありませんでした。この姿でなければならなかったのです。
そのお方は、力で敵を封じ込めて平和をもたらそうとするのとは正反対のやり方をなされました。その究極の場所が十字架であったわけです。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、このように述べています。「イエス・キリストは二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、……双方を御自分において一人の新しい人に造り上げられて平和を実現されました」(エフェソ2:14~15)。私たちは今こそ、イエス・キリストが一体どのようにして平和を実現されたのかをしっかりと見据えなければならないと思います。
希望、信仰、愛を奪われるそういう世界を地獄と言います。
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