25 現実
最後の晩餐で、主キリストが様々のことを定めたということを見てきた。救いとなる彼の愛の記念、今や完結された旧約のもとで行われたエジプトからの解放の記念に基づいた新しい聖なる民との神の新約。「すべての権能」と権威が授けられた方が旧約の終わりを宣言した。その契約が準備したことが今や実現したからである。新しい祝宴が妥当な記念として定められた。それは、「主が再び来られる」日まで、つまり歴史の終わりまで残る。
主キリストを信じる人々は、「これを行う」ように集まり、最後の晩餐のときに行われたのと同じことをする。この命令は、キリストとの関わりを含んでいる。なぜなら、弟子が命令に従ってこれを行うときに、キリスト自身が行った最後の晩餐で起こったことは再び起こるからである。弟子はパンを取り、感謝を捧げ、祝福し、パンの上にキリストが述べた言葉を述べるようになっている。また、カリスを取り、感謝を捧げ、祝福し、主と同じように言葉を述べる。
誰でもこれを行うというわけにいかない。その夜主が言葉を向けた人たちだけできる。最後の過越祭での食卓仲間、使徒たち、主がすでに自らの権限を授けていた人たちだけ(マタイ10章参照)。そして、彼らの後を継ぐ人たち、つまり司教たちとその典礼奉仕のアシスタント、つまり司祭たちが使徒たちの権限を受け継ぐ。
この職務を担う人たちはそれを私用するものではない。職務という言葉自体が示唆するように、個人のイニシアチブや自発的な活動ではなく、むしろ法則に従う託された権威である。職務が存在するには、その担い手のためではなく、全体のために、すべての人のためである。
司祭が主の命令に従ってこれを行う時、他のすべての人も司祭とともに行動し、主が亡くなった後、「彼ら [つまり、信仰者]は、使徒たちの教え、相互のまじわり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒2・42)と真に言えるようになるべきである。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」(使徒2・46-47)
以上の事から分かるように、キリスト教徒たちは、他の人たちと同じように神殿の奉仕を守り、未だに古い秩序のもとに暮らしていた。彼らは、神殿とその礼拝、実に旧約の秩序全体が終わりにきていた、そして新しいライフ・パターンが徐々に形作れつつあった、ということをまだ悟っていなかった。小さな共同体がすでにまったく固有のもの、「家ごとに」パンを裂く儀式をもっていた。おそらく、初代キリスト教徒のグループが適当な住宅で集まる習慣があった。
最初のうち、単に普通の食事をしていたと思われる。それは、兄弟の一致を築くもので、彼らのうちの貧しい人々を助ける手段であった。ところで、時どき、おそらく日曜日は、会食が特別にお祝い気分を持つようになった(使徒20・7)。本当の食事であったが、聖パウロの第一コリントの手紙によれば、必ずしも全く霊的な営みではなかった。手紙は主に当時あった誤用を狙いとしているが、これらの会食はどのようにあるべきかを示唆し、少なくとも最初は普段はどうであったかを示している。
信仰者たちは、神の眼の前で「アガペ」、つまり愛と親睦の食事を分かち合っていた。全員が材料の持ち寄りで貢献していたと思われる。日曜日や特別な祝い日に、より長く、より印象的で、主の記念で深く満ちていた。そのとき、使徒の一人かその代表者かは会食の司式を取り、イエスの生涯とその教え、救いをもたらすその死について語ったであろう。
例えば、コリント教会への第一手紙において、聖パウロは信仰者たちに、食事に集まる時に「主の死を告げ知らせる」ことを忘れないように促している。告げ知らせるとは、食事の間に行われたことであり、聖なる神秘の荘厳な宣言と賛美であった。ここもまた、過越祭の古い伝統にあったように、家の主人がエジプトの奴隷状態からの脱出についての敬虔な報告の名残りが伺われるが、それに取って代わるのは、イエス・キリストを通しての解放の新しいメッセージである。
会食のある時点で、主の代表者がパンと杯をを取り、主が命じたことを行っただろう。それ以前は、誰かが語り、皆が聞くというような精神面の記憶に限られていた。語る、聞く、よく考える、受け入れる、これらも記念の一種だが、不十分である。ミサの前半できねんされることが、信仰者の心の内以外はまだ存在しない。信仰者の心と魂を揺り動かす、絶えず力のある愛と恵みとしてしか存在しない。そこから続く出来事は異なった意義を持っている。司祭が、つまり主に代表者が、「これはわたしのからだである」言葉を述べるとき、記念されるものは、今や実際に、真に、現実に存在するようにもなる。
「これはわたしのからだである」、「これはわたしの血である」、この最も聖なるセンテンスのこの「である」は、私のからだを「意味する」とか、「象徴する」とか、いかなる状況であってもそのようにとらえるべきではない。主の戒め、「あなたがたは、『然り、然り』『否』『否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイ5・37) が最も急務であるのは、この場合である。
これらの言葉をいじくるのは、悪いことだけではなく、冒涜に等しいことである。これらの言葉が表現するのは最も単純な真理、出来上がるのは純粋な現実である。この言葉を語ったのは、数千年この方の偉大な宗教家ではない、最も偉大な宗教でさえない、神の子である。彼の言葉は、神秘的奥深さの表現ではない、命令であり、それも天と地におけるすべての権能を持った方からの命令である。全能の言葉であるので、人間の話し方には同等のものはない。主の言葉としか比べることはできない。例えば、主が「起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。 」(マタイ8・26)また、重い皮膚病の人に、「よろしい。清くなれ」(マタイ8・3)と言われた。ヤイロの死んだ娘に、「子どもよ。起きなさい」(ルカ8・54)。けれども、本当の同等の言葉は、父なる神の「あれ」(光あれ)にある。それで、天と地が存在し始めた(創世記第一章参照)。キリストがミサの聖なる言葉を、その記念を守り行うために任命された人々に与えた。その起源は、それらを話す司祭や司教にではなく、キリストにある。ところが、これらの言葉が恩恵として神から与えらえた(完全に与えられた)ために、キリストに従順であるためにそれらを話す司祭自身の言葉にもなる。従って、ミサは記念祭であるが、非常に特殊的な記念である。聖木曜日に起こったことは、実体変化の言葉を通して、永遠の命のための糧としてのキリストご自身の賜物は、再び成立する。それは、聖なる夜における救い主の行為に、外面てにも似たような形で、である。
ミサの記念はユニークなものである。人間の文化レベルにおいては全く見出さないので、人間の産物と比較することはできない。他宗教の一見して似たような象徴的行為とも比べることはできない。我々はその可能性の限界を定義できる立場にあると思ってはならない。我々はできるのは、「聴く」ことである。ミサで何が起こるのかは、啓示から聴くしかない。
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訳注 : Visus, tactus, gustus in te fallitur, sed auditu solo tuto creditur; credo quidquid dixit Dei Filius: nil hoc verbo Veritatis verius.
聖トマス・アクィナスはその著名な賛歌アドロ・テ・デヴォテの中で Visus, tactus, gustus in te fallitur, sed auditu solo tuto creditur(視覚、触覚、味覚では理解できないが、耳だけ残る、耳で聞いたから安心して信じることができる)と歌い上げている。
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これより簡単に、これより直接に明らかにすることができないほど、示されている。シンボルの問題にすべきではない。使徒たちは、現代の心理学者や象徴研究家のようなタイプではなかった。古代文明の人たちであり、彼らの考え方の特徴は客観性、現実性にある。彼らはカファルナウムでのイエスの話を忘れていなかった。その話の中で、多くの人たちにとって我慢できないぐらい、イエスは本当の食べ物、本当の飲みもととしてご自分をささげるという事実を強調していた。こうして、イエスは弟子たちに、妥協のない信仰の二者択一を直面させた。
使徒言行録やコリント教会への第一手紙、またこの神秘についての初代キリスト教の諸文書には、シンボリズムの名残りは全くない。例外なしに、啓示として受け止められている。どうして可能であるか、という疑いにかけることは一切ない。全てが可能である神からのコミュニケーションであり、命令である。
我々がとれる態度は、テストするのでも、批判するのでもない、信じるのみである。信じるというと、その中に従順であることも含まれている。神秘的な事柄であるので、神の言葉に基づいてのみ認めることができる。神による神秘という事実を見過ごせば、全部消えてしまう。ミサの核心である聖変化の直前[現在は、直後]に、注意と合図を呼びかける言葉、「信仰の神秘」、が置かれているのはこのためである。忘れるなかれ!我々は今神秘に直面している。
この叫び、この呼びかけがカファルナウムを思い起こさせる。そこでも、救いを拒否する危険性が露わにされていた。
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6・60〜69)