年間29主日 Α
【マタ22:15-22 皇帝への税金】
パリサイ人とへロデ党のものたちがいっしょになっています。パリサイ派とへロデ党はどちらもユダヤ教の宗派ですが、互いに激しく敵対し合っていました。というのは、パリサイ人は愛国主義者であり、ローマ帝国からのユダヤ人の独立を強く求めていました。ヘロデ党はその反対に、ローマ帝国こ忠誠を誓っていました。この相容れない2つのグループが、イエスを滅ぼす目的のために一つになっています。それほど、彼らのイエスヘの敵対心は激しくなっています。
これを見て思うのですが、私たち人間はお互いに身分が違うとか、主義が違うとか、性格が違うとか、ほんのちょっとで違いがあれば、「あの人とは私と違う」と言って、人を蔑んだり、自惚れたりしています。場合によっては、それが戦争になったりもします。だけど、本当は同じ穴の狢 ムジナ なのではないでしょうか。こういうジョークを聞いたことがあります。「人間が戦争をやめて一つの地球国家になるためにはどうしたらいいのか。それには宇宙人が地球に攻めてくればいいんだ」 なかなか的を射たブッラク・ジョークだと思うのです。要するに、人間というのはどんなにお互いに違いを主張し合っても、結局は、みんな同じ穴の中に住む運命共同体なのだということなのです
「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。」
これは言葉遣いとしてはていねいですが、実際には「いい加減な答はゆるさないぞ」という脅(おど)しです。
ユダヤ人は異邦人の国であるローマ帝国に税金を納めることをひどく嫌がっていました。もしイエスが、「律法にかなっている。」と答えれば、イエスはユダヤ人たちの反感を買います。今まで付いてきた群衆たちは、イエスから離れるでしよう。けれども、もし、「かなっていない。」と言ったら、今度はへロデ党の者たちがローマ帝国の役人のところに行き、イエスを帝国の反逆者として訴えることができるでしよう。この、税金を納めるという問題は、彼らの間でも論争していた点ですが、彼らはそのことを利用して、イエスを捕らえようとしているのです。
イエスは見事に言い返されて、彼らを驚かせました。言い返しただけでなく、納税についての神の真理を明らかにされています。カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返すということは、言い換えると、世に対する責任は世に対して果たすが、自分は神を礼拝しなければならないということです。パリサイ人にもヘロデ党にもそれぞれ間違いがありました。パリサイ人は、世は悪と汚れに満ちているから、世に関わることはみな離れなければならないと考えたのです。確かに、世は悪魔の支配下にありますから、抵抗しなければならないことが多くあります。
しかし、私たち一式それ以前に、世に対してキリストの愛を示すという責務があります。国の法律を守り、納税することによって、世に対してキリストの証しを立てているのです。しかし、へロデ党の者たちのように、国の命じるすべてのことにおいて従うこともまた問題です。私たちが従わなければならないのは神であり、国が神のみこころに反することを私たちに命じるのであれば、私たちはそれに抵抗しなければなりません。こうしたバランスのある信仰生活が、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい、というイエスのみことばに現われています。
社会的な義務と神様への義務というと言葉が重くなりますが、私たちは神様の恵みの中で、そのどちらも無視しないで生きていく必要があります。しかも、これは同列ではなく、まず神様への感謝が先立ちます。この世の社会は移り行くものだ。
しかしこれは本題ではない。イエスはむしろ「神のものを神に返す」ことを要求する。
これは実に難しい。なぜか。
神はご自分の所有物に銘を刻んだり、肖像を貼り付けたりはしないからだ。
人間は貪欲で愚かだ。だから自分の所有物には名前を書く。自分の作品だといって印をつけたり、サインをしたり、偉そうに「ブランド」などといってエゴを押し付けたあげく、人はそれに服従する。
おかげでそれが人間のものであれば、どれがだれのものか、我々にはよくわかる。
しかし神はさらに愚かだ。自分のものなのに名前も付けず、印もつけないからすぐに忘れ去られてしまう。
だれも気付かない。名前が書いてないのだから神がそれを自分のものだと主張することすら不可能だ。
神はただ、人がそれを見出して自ら申し出るのを待つだけだ。「これはあなたに属するものです、私自身あなたに属しているのです、あなたが密かに刻んだ刻印をわたしは見出しました、世界のいたるところに、そして私自身に」、と。
外交官であった、杉原ちうねさんの話を聞いたことがあるかたもいらっしゃると思いますが、杉原さんは、かつて第二次世界大戦のとき、リトアニアの領事をしておられたのですが、杉原さんは、ナチスがユダヤ人を迫害し、強制収容所に送って虐殺していることを、知っていたわけであります。そして多くのユダヤ人が日本を経由してアメリカに渡ろうとしていたわけですが、彼はそんなユダヤ人を救おうと、本国日本に問い合わせる。しかし、当時日本はドイツと同盟関係を結ぶ方向にあり、ユダヤ人に対するビザの発行は禁止されてしまったのであります。
しかし、杉原さんは独断でビザを発給して、6000人以上のユダヤ人を救ったのであります。そんな杉原さんは、戦後、謀反人として外務省を辞めされられたそうであります。
国の権力や支配者の意思が絶対なら、まさに、国が神でありますならば、杉田さんのしたことは、謀反であって弁解の余地はないかもしれません。しかし杉田さんはクリスチャンとして、まさに、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す生き方を選択したのではないでしょうか。国民として生きる現実から逃避するのでなく、その現実の中で苦悩しつつ、しかし、神のものは神に返す生き方。神に与えられた人間らしい生き方を貫こうとした。神を愛し、人を愛し、仕えていきる、そういう人間らしい生き方。神に与えられた人生。神のものは神に返す生き方を杉田さんは貫いたのではないでしょうか。
目の前の現実から逃げたり破壊しようとするのではなく、今与えられている秩序の中で生きていく大切さ。しかし、同時に、その現実の営みの中に埋没してしまい、流されて、知らず知らずのうちに人間性を失ってしまってはならない。現実の秩序の中にいきながら、しかし、ただ流されていくのではなく、その中で、神に造られた自分らしく、人間らしく、人間性を失わないように、神のものは神にお返しすることを忘れずに生きる。
Friday, June 27, 2014
28 per annum A. old version
年間第28主日 A 〈マタイによる福音書22・1-14〉
9日10月2005年 和泉教会
今日の主題は「ふさわしい礼服を着て祝宴に出席すること」です。それにしても「礼服を着る」とは何を意味するのか。
神父はミサの時に、アルバと呼ばれる真っ白な祭服を着て礼拝を司式します。それは清らかさを意味します。また、ヨハネ黙示録に繰り返される「救われる者はキリストの血潮によって洗われた真っ白な麻衣を着る」という言葉にも関連していましょう。 そして叙階された人だけにゆるされるストールと呼ばれるマフラーのようなものを首にかけることができる。ストールはキリストのくびきを意味します。
これが「祝宴にふさわしい礼服」として私たち礼拝の司式者が着るものです。しかしそれは外見的な事柄にすぎない。私たち司式者が司式にふさわしい礼服を外見だけでなく心にも着ているかどうかを今日の聖書は鋭く問いかけてきます。キリストの祝宴にふさわしいあり方をもって礼拝を司式しているかどうか神父は問われている。それは礼拝に出席する皆さんが、礼拝に出席するのにふさわしい心のあり方をしているかどうか問われているのと同様です。
しかしそのことは私たちを困惑させます。礼拝にふさわしいとは何を意味するのか。私たちは自分は礼拝にふさわしくない、神さまの恵みに値しないと考えている。人間の側にそれにふさわしい功績があるということは考えない。ふさわしくない者を恵みによって祝宴に招いてくださるのが、私たちの信じる神さまなのです。
「ふさわしい礼服」とは何か。そこに本日の主題詩編が登場します。詩編23編は歌います。「主は私の牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場にふさせ、憩いの水際に伴われる」。「ふさわしい礼服」とはこのような主イエスに対する信頼を意味しています。礼服とは信仰のことなのです。そして信仰とは「私たちのうちに働く神さまのみ業」ですから、礼服は自分で準備するのではなくて祝宴の主催者が準備してくださるということになります。実際、旧約聖書には祝宴の招待客には礼服も共に準備されるということが記されている箇所もあります(創世記45:22、士師記14:12以下など)。もしそうであるとすれば、「礼服を着ていなかった者」は、それが配られたにも関わらずその着用を拒絶したということになる。12節を見ると、王が『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言ったのに彼は沈黙していますが、この沈黙は彼の混乱というよりもむしろ不服従を表していましょう。
<「着る」> また、結婚式のときに読まれる聖書があります。コロサイ3章ですが。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。・・・あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(3:9b-14)。ここで「身につけなさい」と繰り返されている言葉は「礼服を着る」という言葉です。信仰を持つということは神からいただいた「愛を身につけること」なのです。
<「皮の毛衣」> 「着る」ということで私がハッと思い出すのはあの創世記のアダムとエバが楽園を追放される場面です。そこにはこうある。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。この文章は何気なく読み過ごしてしまいがちですが、とても大切なことを告げています。エデンの園を追放するにあたって、神ご自身が人間に皮の衣を造って着せてくださった。それは人間を寒さや外敵から守るためでもあったでしょうが、何よりも自らの裸を恥ずかしいと思った人間を覆うためでもありました。「恥」とは自分の弱さや惨めさがされた時に感じる強烈な痛みを伴う感情です。それを神ご自身が覆ってくださる!人間の罪と恥とをカバーしてくださる。人間に対する神の深い憐れみと愛とを感じる事柄でもあります。
それと同時に、「皮」の衣ですから、それは、人間の恥を覆うためにあの十字架の上に犠牲の子羊となってくださった神の独り子、イエス・キリストと重なってゆきます。そのように、私たちの恥を覆い、外敵から私たちを守るためにキリストが衣となってくださった。「キリストを着る」とは何よりもそのような神の守りを身につけることなのです。人生を旅する私たちを罪と恥と絶望とから守るために神が用意してくださった礼服を着る。これがキリストの祝宴にふさわしい礼服を着ることの意味なのです。
<祝宴への招待> そしてさらにそのことは、私たちが自分の力だけで生きるのではないのだという認識に導きます。神の守りが常に私たちと共にあって、私たちは自分で生きるというよりも、神によって生かされている。あるクリスチャン画家の言葉を聞いたことがあります。「受洗前は自分が生きるんだという思いで苦しかった。でも洗礼を受けてから、自分が生きるのではなく生かされているということを知って本当に楽になった」と。神の用意してくださった衣を身につけるということは、自分が生きるのではなく神に生かされているということを知るということでもある。祝宴に与る、子羊の婚礼に与るとは、そのような私たちを生かす天の喜びに与るということです。
さんの詩画集『鈴の鳴る道』の中に次のような詩があります。
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった
「礼服を着て祝宴に与る」とは、いのちよりも大きなものに自分が生かされているということを知ること、生かされていることの恵みと喜びに与るということではないか。私にはそう思えてなりません。皆さんはどう思われますか? ご一緒に、この礼服を着て、心の底から新たにされて祝宴に連なり、神の恵みに生きる者となりたいのです。
お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/29.htm
9日10月2005年 和泉教会
今日の主題は「ふさわしい礼服を着て祝宴に出席すること」です。それにしても「礼服を着る」とは何を意味するのか。
神父はミサの時に、アルバと呼ばれる真っ白な祭服を着て礼拝を司式します。それは清らかさを意味します。また、ヨハネ黙示録に繰り返される「救われる者はキリストの血潮によって洗われた真っ白な麻衣を着る」という言葉にも関連していましょう。 そして叙階された人だけにゆるされるストールと呼ばれるマフラーのようなものを首にかけることができる。ストールはキリストのくびきを意味します。
これが「祝宴にふさわしい礼服」として私たち礼拝の司式者が着るものです。しかしそれは外見的な事柄にすぎない。私たち司式者が司式にふさわしい礼服を外見だけでなく心にも着ているかどうかを今日の聖書は鋭く問いかけてきます。キリストの祝宴にふさわしいあり方をもって礼拝を司式しているかどうか神父は問われている。それは礼拝に出席する皆さんが、礼拝に出席するのにふさわしい心のあり方をしているかどうか問われているのと同様です。
しかしそのことは私たちを困惑させます。礼拝にふさわしいとは何を意味するのか。私たちは自分は礼拝にふさわしくない、神さまの恵みに値しないと考えている。人間の側にそれにふさわしい功績があるということは考えない。ふさわしくない者を恵みによって祝宴に招いてくださるのが、私たちの信じる神さまなのです。
「ふさわしい礼服」とは何か。そこに本日の主題詩編が登場します。詩編23編は歌います。「主は私の牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場にふさせ、憩いの水際に伴われる」。「ふさわしい礼服」とはこのような主イエスに対する信頼を意味しています。礼服とは信仰のことなのです。そして信仰とは「私たちのうちに働く神さまのみ業」ですから、礼服は自分で準備するのではなくて祝宴の主催者が準備してくださるということになります。実際、旧約聖書には祝宴の招待客には礼服も共に準備されるということが記されている箇所もあります(創世記45:22、士師記14:12以下など)。もしそうであるとすれば、「礼服を着ていなかった者」は、それが配られたにも関わらずその着用を拒絶したということになる。12節を見ると、王が『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言ったのに彼は沈黙していますが、この沈黙は彼の混乱というよりもむしろ不服従を表していましょう。
<「着る」> また、結婚式のときに読まれる聖書があります。コロサイ3章ですが。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。・・・あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(3:9b-14)。ここで「身につけなさい」と繰り返されている言葉は「礼服を着る」という言葉です。信仰を持つということは神からいただいた「愛を身につけること」なのです。
<「皮の毛衣」> 「着る」ということで私がハッと思い出すのはあの創世記のアダムとエバが楽園を追放される場面です。そこにはこうある。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。この文章は何気なく読み過ごしてしまいがちですが、とても大切なことを告げています。エデンの園を追放するにあたって、神ご自身が人間に皮の衣を造って着せてくださった。それは人間を寒さや外敵から守るためでもあったでしょうが、何よりも自らの裸を恥ずかしいと思った人間を覆うためでもありました。「恥」とは自分の弱さや惨めさがされた時に感じる強烈な痛みを伴う感情です。それを神ご自身が覆ってくださる!人間の罪と恥とをカバーしてくださる。人間に対する神の深い憐れみと愛とを感じる事柄でもあります。
それと同時に、「皮」の衣ですから、それは、人間の恥を覆うためにあの十字架の上に犠牲の子羊となってくださった神の独り子、イエス・キリストと重なってゆきます。そのように、私たちの恥を覆い、外敵から私たちを守るためにキリストが衣となってくださった。「キリストを着る」とは何よりもそのような神の守りを身につけることなのです。人生を旅する私たちを罪と恥と絶望とから守るために神が用意してくださった礼服を着る。これがキリストの祝宴にふさわしい礼服を着ることの意味なのです。
<祝宴への招待> そしてさらにそのことは、私たちが自分の力だけで生きるのではないのだという認識に導きます。神の守りが常に私たちと共にあって、私たちは自分で生きるというよりも、神によって生かされている。あるクリスチャン画家の言葉を聞いたことがあります。「受洗前は自分が生きるんだという思いで苦しかった。でも洗礼を受けてから、自分が生きるのではなく生かされているということを知って本当に楽になった」と。神の用意してくださった衣を身につけるということは、自分が生きるのではなく神に生かされているということを知るということでもある。祝宴に与る、子羊の婚礼に与るとは、そのような私たちを生かす天の喜びに与るということです。
さんの詩画集『鈴の鳴る道』の中に次のような詩があります。
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった
「礼服を着て祝宴に与る」とは、いのちよりも大きなものに自分が生かされているということを知ること、生かされていることの恵みと喜びに与るということではないか。私にはそう思えてなりません。皆さんはどう思われますか? ご一緒に、この礼服を着て、心の底から新たにされて祝宴に連なり、神の恵みに生きる者となりたいのです。
お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/29.htm
28 per annum A. new version
年間第28主日 A マタイ22・1-14
Weblog / 2005-10-09 10:43:50
年間第28主日 A 〈マタイによる福音書22・1-14〉
2008年10月11日 伊丹
あいさつ:
さわやかな秋晴れのなかで、今日私達は主の食卓に招かれました。さまざまな思いを抱(かか)えてここに集まった私達一人一人を顧み、豊かな恵みを注いでくださる神に信頼し、キリストの弟子としての使命に、まっすぐにこたえることができるように、今日のミサをささげることといたしましょう。
今日のテーマは「ふさわしい礼服を着て祝宴に出席すること」です。それにしても「礼服を着る」とは何を意味するのか。
神父はミサの時に、アルバと呼ばれる真っ白な祭服を着て礼拝を司式します。それは清らかさを意味します。また、ヨハネの黙示録に繰り返される「救われる者はキリストの血潮によって洗われた真っ白な麻衣(あさぎぬ)を着る」(黙示録7:14)「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 」という言葉にも関連していましょう。 そして叙階された人だけにゆるされるストラと呼ばれるマフラーのようなものを首にかけることができる。ストラはキリストのくびきを意味します。キリストに倣うとは、キリストのくびきを負い、キリストに従って、福音の道を歩むことです。キリストの弟子にとって何よりも不可欠な徳は、謙遜です。
これが「祝宴にふさわしい礼服」として私たちミサの司式者が着るものです。しかしそれは外見的な事柄にすぎない。私たち司式者が司式にふさわしい礼服を外見だけでなく心にも着ているかどうかを今日の聖書は鋭く問いかけてきます。キリストの祝宴にふさわしいあり方をもってミサを司式しているかどうか神父は問われている。それはミサに出席する皆さんが、ミサに出席するのにふさわしい心のあり方をしているかどうか問われているのと同様です。
しかしそのことは私たちを困惑させます。ミサにふさわしいとは何を意味するのか。私たちは自分はミサにふさわしくない、神さまの恵みに値しないと考えている。だって、いつもミサの前に私達は「主よ、あわれみたまえ」を3回唱えます。人間の側にそれにふさわしい功績(こうせき)があるということは考えない。ふさわしくない者を恵みによって祝宴に招いてくださるのが、私たちの信じる神さまなのです。
「ふさわしい礼服」とは何か。そこに本日の答唱詩編が登場します。詩編23を歌います。「主は私の牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場にふさせ、憩いの水辺に伴われる」。「ふさわしい礼服」とはこのような主キリストに対する信頼を意味しています。礼服とは信仰のことなのです。そして信仰とは「私たちのうちに働く神さまのみ業」ですから、礼服は自分で準備するのではなくて祝宴の主催者が準備してくださるということになります。実際、旧約聖書には祝宴の招待客には礼服も共に準備されるということが記されている箇所もあります(創世記45:22、士師記14:12以下など)。もしそうであるとすれば、「礼服を着ていなかった者」は、それが配られたにも関わらずその着用を拒絶したということになる。12節を見ると、王が『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言ったのにその人は黙っていますが、この沈黙は彼の混乱というよりもむしろ不服従を表していましょう。
<「着る」> また、結婚式のときにもよく読まれる聖書があります。コロサイ3章ですが。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。・・・あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(3:9b-14)。ここで「身につけなさい」と繰り返されている言葉は「礼服を着る」という言葉です。信仰を持つということは神からいただいた「愛を身につけること」なのです。
<「皮の毛衣」> 「着る」ということで私がハッと思い出すのはあの創世記のアダムとエバが楽園を追放される場面です。そこにはこうある。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。この文章は何気なく読み過ごしてしまいがちですが、とても大切なことを告げています。エデンの園から追放するにあたって、神ご自身が人間に皮の衣を造って着せてくださった。それは人間を寒さや外敵から守るためでもあったでしょうが、何よりも自らの裸を恥ずかしいと思った人間を覆うためでもありました。「恥」とは自分の弱さや惨めさが晒(さら)された時に感じる強烈な痛みを伴う感情です。それを神ご自身が覆ってくださる!人間の罪と恥とをカバーしてくださる。人間に対する神の深い憐れみと愛とを感じる事柄でもあります。
それと同時に、「皮」の衣ですから、それは、人間の恥を覆うためにあの十字架の上に生贄、犠牲の子羊となってくださった神の独り子、イエス・キリストと重なってゆきます。そのように、私たちの恥を覆い、外敵から私たちを守るためにキリストが衣となってくださった。「キリストを着る」とは何よりもそのような神の守りを身につけることなのです。人生を旅する私たちを罪と恥と絶望とから守るために神が用意してくださった礼服を着る。これがキリストの祝宴にふさわしい礼服を着ることの意味なのです。
<祝宴への招待> そしてさらにそのことは、私たちが自分の力だけで生きるのではないのだという認識に導きます。神の守りが常に私たちと共にあって、私たちは自分で生きるというよりも、神によって生かされている。あるクリスチャン画家の言葉を聞いたことがあります。「受洗前は自分が生きるんだという思いで苦しかった。でも洗礼を受けてから、自分が生きるのではなく生かされているということを知って本当に楽になった」と。神の用意してくださった衣を身につけるということは、自分が生きるのではなく神に生かされているということを知るということでもある。祝宴に与る、子羊の婚礼に与るとは、そのような私たちを生かす天の喜びに与るということです。
星野(ほしの)富弘(とみひろ)さんの詩画集(しがしゅう)『鈴の鳴る道』の中に次のような詩があります。
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった
「礼服を着て祝宴に与る」とは、いのちよりも大きなものに自分が生かされているということを知ること、生かされていることの恵みと喜びに与るということではないか。私にはそう思えてなりません。皆さんはどう思われますか? ご一緒に、この礼服を着て、心の底から新たにされて祝宴に連なり、神の恵みに生きる者となりたいのです。
お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/29.htm
Weblog / 2005-10-09 10:43:50
年間第28主日 A 〈マタイによる福音書22・1-14〉
2008年10月11日 伊丹
あいさつ:
さわやかな秋晴れのなかで、今日私達は主の食卓に招かれました。さまざまな思いを抱(かか)えてここに集まった私達一人一人を顧み、豊かな恵みを注いでくださる神に信頼し、キリストの弟子としての使命に、まっすぐにこたえることができるように、今日のミサをささげることといたしましょう。
今日のテーマは「ふさわしい礼服を着て祝宴に出席すること」です。それにしても「礼服を着る」とは何を意味するのか。
神父はミサの時に、アルバと呼ばれる真っ白な祭服を着て礼拝を司式します。それは清らかさを意味します。また、ヨハネの黙示録に繰り返される「救われる者はキリストの血潮によって洗われた真っ白な麻衣(あさぎぬ)を着る」(黙示録7:14)「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 」という言葉にも関連していましょう。 そして叙階された人だけにゆるされるストラと呼ばれるマフラーのようなものを首にかけることができる。ストラはキリストのくびきを意味します。キリストに倣うとは、キリストのくびきを負い、キリストに従って、福音の道を歩むことです。キリストの弟子にとって何よりも不可欠な徳は、謙遜です。
これが「祝宴にふさわしい礼服」として私たちミサの司式者が着るものです。しかしそれは外見的な事柄にすぎない。私たち司式者が司式にふさわしい礼服を外見だけでなく心にも着ているかどうかを今日の聖書は鋭く問いかけてきます。キリストの祝宴にふさわしいあり方をもってミサを司式しているかどうか神父は問われている。それはミサに出席する皆さんが、ミサに出席するのにふさわしい心のあり方をしているかどうか問われているのと同様です。
しかしそのことは私たちを困惑させます。ミサにふさわしいとは何を意味するのか。私たちは自分はミサにふさわしくない、神さまの恵みに値しないと考えている。だって、いつもミサの前に私達は「主よ、あわれみたまえ」を3回唱えます。人間の側にそれにふさわしい功績(こうせき)があるということは考えない。ふさわしくない者を恵みによって祝宴に招いてくださるのが、私たちの信じる神さまなのです。
「ふさわしい礼服」とは何か。そこに本日の答唱詩編が登場します。詩編23を歌います。「主は私の牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場にふさせ、憩いの水辺に伴われる」。「ふさわしい礼服」とはこのような主キリストに対する信頼を意味しています。礼服とは信仰のことなのです。そして信仰とは「私たちのうちに働く神さまのみ業」ですから、礼服は自分で準備するのではなくて祝宴の主催者が準備してくださるということになります。実際、旧約聖書には祝宴の招待客には礼服も共に準備されるということが記されている箇所もあります(創世記45:22、士師記14:12以下など)。もしそうであるとすれば、「礼服を着ていなかった者」は、それが配られたにも関わらずその着用を拒絶したということになる。12節を見ると、王が『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言ったのにその人は黙っていますが、この沈黙は彼の混乱というよりもむしろ不服従を表していましょう。
<「着る」> また、結婚式のときにもよく読まれる聖書があります。コロサイ3章ですが。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。・・・あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(3:9b-14)。ここで「身につけなさい」と繰り返されている言葉は「礼服を着る」という言葉です。信仰を持つということは神からいただいた「愛を身につけること」なのです。
<「皮の毛衣」> 「着る」ということで私がハッと思い出すのはあの創世記のアダムとエバが楽園を追放される場面です。そこにはこうある。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。この文章は何気なく読み過ごしてしまいがちですが、とても大切なことを告げています。エデンの園から追放するにあたって、神ご自身が人間に皮の衣を造って着せてくださった。それは人間を寒さや外敵から守るためでもあったでしょうが、何よりも自らの裸を恥ずかしいと思った人間を覆うためでもありました。「恥」とは自分の弱さや惨めさが晒(さら)された時に感じる強烈な痛みを伴う感情です。それを神ご自身が覆ってくださる!人間の罪と恥とをカバーしてくださる。人間に対する神の深い憐れみと愛とを感じる事柄でもあります。
それと同時に、「皮」の衣ですから、それは、人間の恥を覆うためにあの十字架の上に生贄、犠牲の子羊となってくださった神の独り子、イエス・キリストと重なってゆきます。そのように、私たちの恥を覆い、外敵から私たちを守るためにキリストが衣となってくださった。「キリストを着る」とは何よりもそのような神の守りを身につけることなのです。人生を旅する私たちを罪と恥と絶望とから守るために神が用意してくださった礼服を着る。これがキリストの祝宴にふさわしい礼服を着ることの意味なのです。
<祝宴への招待> そしてさらにそのことは、私たちが自分の力だけで生きるのではないのだという認識に導きます。神の守りが常に私たちと共にあって、私たちは自分で生きるというよりも、神によって生かされている。あるクリスチャン画家の言葉を聞いたことがあります。「受洗前は自分が生きるんだという思いで苦しかった。でも洗礼を受けてから、自分が生きるのではなく生かされているということを知って本当に楽になった」と。神の用意してくださった衣を身につけるということは、自分が生きるのではなく神に生かされているということを知るということでもある。祝宴に与る、子羊の婚礼に与るとは、そのような私たちを生かす天の喜びに与るということです。
星野(ほしの)富弘(とみひろ)さんの詩画集(しがしゅう)『鈴の鳴る道』の中に次のような詩があります。
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった
「礼服を着て祝宴に与る」とは、いのちよりも大きなものに自分が生かされているということを知ること、生かされていることの恵みと喜びに与るということではないか。私にはそう思えてなりません。皆さんはどう思われますか? ご一緒に、この礼服を着て、心の底から新たにされて祝宴に連なり、神の恵みに生きる者となりたいのです。
お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。
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27 per annum A
年間27主日 Α
【マタ21:33-43「ぶどう園と農夫」のたとえ】
【マタ21:33-43「ぶどう園と農夫」のたとえ】
| 『「ぶどう園と悪い農夫」のたとえの意味』 | |
|
ここで主イエスが話された「ぶどう園と悪い農夫」の譬えを読むと、創世記に記されている「アダムとエバ」の物語が思い浮かぶ。神は、彼らをエデンの園に住
まわせ、すべての良いもので満たしてくださった。しかし彼らはただ1つ与えられた戒めを破ってエデンの園を追い出された。次に思い出すのは、神がモーセを
通して奴隷の状態からイスラエルを救出された出来事である。彼らは救出してくださった神の言葉に従わず、たびたび反抗した。 この譬えは、その 後のイスラエルの歴史が網羅的に示されている。この譬えで、主人はぶどう園を農夫に貸して旅に出た、と言われている。主人は神を指しているが、神は世界 (ぶどう園)を人間に託しておられるので、この世界におられない。それをよいことにイスラエルは神から遣わされた僕(預言者など)の言うことを聞かず自分 勝手にふるまった。そして最後に神は独り子(イエス)を遣わすが、ついに殺してしまう。 私たちが生きているこの世界では、誰の目にも明らかなよ うに、神を見い出すことはできない。しかし聖書は、神が万物を創造し、この世界を人間の手に委ねられた、と記す。人間は神が見えないこと、また神が干渉さ れないことをよいことにして我が物顔にふるまっている。それが人類の歴史である。そしてこの譬えが語られた時点で、当時の指導者は、イエスを十字架に掛け てしまう。 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』という聖書の言葉を引用して、主 イエスはそのことを明らかにされた。当時の指導者(権力も知識も持ち合わせていた)にとって、イエスは、大工が不必要と判断して捨てる石に見えた。しかし イエスが『この石がだれかの上に落ちるれば、その人は押しつぶされてしまう。』と言われたように彼らは滅んでしまった。捨てられたはずのイエスは、2千年 経った今なお人々の救い主として崇められている。真に不思議なことである。 |
26 per annum A
年間26主日 Α
【マタ21:28-32「二人の息子」のたとえ】
父から兄弟は命じられます。ぶどう園に行って働きなさい。
兄は、いやだと言う気持ちを正直に表し、初め断ります。しかし父の言うことと思い直し
、働くことにしました。
一方弟は口では簡単に「はい」と引き受けました。しかし誘惑が襲って怠けの気持ちが勝
ったのでしょうか。結局は働きに行きませんでした。父に喜ばれるのはどちらか--思い直
して働いた兄のほう。
「不言(げん)実行」と言う言葉があります。黙って実行すること。兄に当てはまります。
それに対し弟は、有言不実行の人。言うだけ言って、実際には何もしない人。「口先だけで
なく、実際に行うことが大事」。あるいは信仰をしっかり持つなら、それに伴って行いもな
ければいけない。これが理解の一つです。しかしもう一歩深めましょう。
ここで主人はもちろん神様です。ぶどう園はイスラエルに代表される神の民が作る国。
兄は徴税人や娼婦。初め神様に従っていなかったのですが、思い直し、最後に神に従った
人。
では弟は……。「あなたたち」つまり聞き手。聖書の流れでは「大祭司や民の長老(マタ
21:23)」です。神様に「はい」と従って歩んでいるつもりでした。ところがいつの間にか
、神様から離れていた。
なぜ兄である徴税人や娼婦の方が、弟である大祭司や長老より先に神の国に入ることを約
束されたのでしょう。「洗者ヨハネを信じて、悔い改めた」からです。時が満ち、救い主が
この世に来た、神の国が近づいたその大切なときに、回心できた。自分の罪を認め、心を神
に向け、神様に従うことを選んだからです。
しかし大祭司や長老は、洗礼者ヨハネが指し示したメシア・イエス様を信じませんでした
。肝心なキリスト到来のとき、神様の方に心を向け、歩むことができませんでした。
なぜ。今の地位や名声、プライドのためです。宗教の権威者で身分の高い自分たちを認め
ず、かえって偽善者と批判し、律法に対してもより自由に振舞う。そのイエス様への激しい
恨みのためです。自分たちこそが正しいという思いのため、自分の罪を認めませんでした。
メシアを待ち望んでいるはずなのに、実は、メシアは要らなかったのです。必要だったのは
自分たちの地位と名誉でした。こうして神の国の到来のしるしであるイエス様の奇跡も、エ
ルサレム近くでの徹底的な奇跡であるラザロの死からのよみがえりも、ただの悪魔のわざと
批判しました。そして救い主イエスを、国への反逆者(内心は自分たちへの反逆者)として
、殺してしまったのです。
愚かな大祭司や長老。しかしここで言われる「あなたがた」はもちろん、祭司・長老のこ
とだけではありません。この私も含めたここに集う「私たち一人ひとり」に語られた言葉で
す。
自分は兄だろうか、弟だろうか。今神の子として、神の国にふさわしい生活ができている
だろうか。神様に従うものか、それとも離れ去ってしまうものか。誰もこの神様からの問い
かけから逃げることができません。
◇人間はなかなか自分の罪や弱さ、快楽に負けそうな自分を認めることができません。本当
に罪を認めたなら、改めるしかないからです。今もっているものを手放し、失う恐れがあり
ます。今までの仲間を失い、人間関係も変わっていく。
今までの慣れ親しんできた罪の生き方。楽な生き方を捨てて、新しく生きることは、知ら
ない恐ろしさもあります。昔を思い出し、懐かしむ気持ちがあり、あるいはそれを思い返し
たとき、失ったものの多さに、たまらない気持ちになることもあるでしょう。
それで「これは罪ではない。これにはこういう正しさがある」「社会が悪い」「他にも同
じような人がたくさんいる」。そう言い訳し、ごまかし、回心の時を遅らせようとします。
しかし徴税人の頭であったザアカイ、この福音を記した徴税人のマタイ、罪の女と言われ
たマグダラのマリアは回心しました。罪の中から起き上がり、イエスの立派な弟子に変わり
ました。
もちろん回心は一生涯の話でもあります。最初従ったイエス様の弟子たちの多く。十字架
を前に最初「はい」と言ったのに「いいえ」と断わってしまいました。しかしその裏切りの
後でも、ペトロはまた回心し「はい」と答えました。しかし最期まで「いいえ」と言い続け
、イエスの救いのもとに入ることを自分から拒んで、自殺し、永遠の滅びにいたったユダも
います。
私たちの回心に完成はありません。この世の命を終える最期の時まで、生き方が問われ続
けられます。一度失敗し、新たに歩み直しても、昔はこうだったと後ろ指さされることもあ
るかもしれません。しかしペトロもパウロも、そんな失敗だらけの自分が神様に用いられた
ことを、かえって誇ったのでした。
恐れることはありません。傍観者でいるのでなく、兄のようにすぐに回心し、行動を始め
ましょう。回心の機会を逃さないよう。もしかしたら今こそ、最後の審判の時、イエス様の
再臨の時かもしれないから。
2) 28節から31節の「『兄の方です』と言うと」までの部分(この箇所の前半部分)だけを取
り出してみると、このたとえ話は「言葉でどう応えるかではなく、行動で神に従うことが大
切である」ということを教えるたとえ話だ、と感じられるのではないでしょうか。しかし、
たとえ話から導き出される教えの部分(31節の「イエスは言われた」以下)によれば、このた
とえ話は洗礼者ヨハネのメッセージを受け入れた「徴税人や娼婦」と、受け入れなかった「
祭司長や民の長老」たちのことを表していて、行動の問題というよりも、「回心の呼びかけ
を受け入れるかどうか」ということがポイントになっています。このように、たとえ話自体
とその後の教えが完全に一致しないと感じられるため、前半と後半は本来、別々の話だった
のではないかと考える人もいます。
徴税人と娼婦は当時のユダヤ人社会の中で、罪びとの代表とされていました。周囲の人々か
ら神の救いに程遠い人間と考えられ、自分自身でも救われる可能性はないと思っていたよう
な人々でした。洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に希望を与えました。「すべ
ての人は今回心しなければならない」ということは「どんな人でも今回心すれば救いにあず
かることができる」ということでもあるからです。洗礼者ヨハネが示した「義の道」(32節)
とは回心して、洗礼を受ける道でした。正しい行いをするという以前に、何よりも自分の罪
深さを認め、神に立ち返る道です。イエスもこれこそが神との正しい関係のあり方だと言う
のです。
(5) 一方、当時の社会や宗教の指導者たちはヨハネのメッセージに心を動かされませんで
した。彼らは洗礼者ヨハネの回心のメッセージを悪いものだとは思わなかったでしょう。し
かし「自分たちはちゃんとやっている」と考えた人々は、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを
自分たちに向けられたものとして真剣には受け取らなかったのです。「回心すべきなのは自
分たちではなく、他の連中だ」と考えたとき、彼らは自己満足と優越感の世界に陥り、生け
る神との関係も、人と人とのつながりも見失ってしまったと言わざるをえません。このたと
え話の中で、弟は「承知しました」と言いながら、なぜ出かけなかったのでしょう。理由は
どこにも書いてありませんが、やはり、父親の呼びかけをまともに受け取らず、本気で父親
とともに生きようとはしていなかったからだと言えるのかもしれません。
わたしたちにとっても神からの呼びかけはいろいろな形で来ると言えるのではないでしょう
か。聖書の神のことばを通して神はわたしたちに呼びかけています。と同時に、今この世界
に起こるさまざまな出来事も神からの呼びかけなのではないでしょうか。
絵と福音の対応を考えてみたい。二人の息子が前に、父親は後ろにいる。父親を見て何が感
じられるだろう。他の絵で描かれるキリストの姿に似ていないだろうか。もちろん、父親で
あるから、父なる神のイメージを見てもよい。福音書では、ここで洗礼者ヨハネと、彼に対
する人々の相反する対応を思い出させているが(ルカ7・29-30参照)、洗礼者ヨハネも結局
は、神のみ旨を伝える預言者だったという点では、この絵の中の父親には、父なる神、ひい
ては父と一体である御子キリストを見るのが適切だろう。神の望みがこの「父親」にたとえ
られているのである。
その神の望みに対する人々の異なる対応が、二人の息子の姿の対比によって示される。(
向かって)右側の息子は、何かほくそ笑んでいるようで、自分の右手を左手の上に置いてい
るところに、自分の力へを自信が示されている。「ぶどう園に行って働きなさい」という父
親の言葉に対して「いやです」と拒否した瞬間の兄の態度を意味していよう。左側の息子は
、父親をうやうやしく仰ぎ、右手を開いて、父親の意向を真正面から受けとめている。「お
父さん、承知しました」と答えた瞬間の弟の態度にあたるだろう。言葉による答えだけを見
るなら、兄は非難すべきもの、弟は称賛すべきものであった。しかし、問題はその後の展開
である。兄は「いやです」と答えながら、後で思い直して出かけた。弟は「承知しました」
と言いながら、実際には出かけなかった。実際の行為のほうを見ると、右側の息子が弟、す
なわち、表面では愛想のいい答えをしながら、心の中では思い上がっている態度、左側の息
子が兄の態度、すなわち「いやです」と一時は答えながらも深く考え、後で思い直して神の
望みに従うようになるという態度を示しているように見えてくる。どの時点での態度を見る
かで、兄と弟がすっかり入れ替わる。絵画表現のおもしろいところである。
このように、「絵の中の、二人の息子はどちらがどちらを表していると思う?」と問いか
けながら福音を読んでいくと味わいも広がり、我々信仰者の心理に鋭く迫るイエスのメッセ
ージの深さに、しだいに気づかされるのではなかろうか。
【マタ21:28-32「二人の息子」のたとえ】
父から兄弟は命じられます。ぶどう園に行って働きなさい。
兄は、いやだと言う気持ちを正直に表し、初め断ります。しかし父の言うことと思い直し
、働くことにしました。
一方弟は口では簡単に「はい」と引き受けました。しかし誘惑が襲って怠けの気持ちが勝
ったのでしょうか。結局は働きに行きませんでした。父に喜ばれるのはどちらか--思い直
して働いた兄のほう。
「不言(げん)実行」と言う言葉があります。黙って実行すること。兄に当てはまります。
それに対し弟は、有言不実行の人。言うだけ言って、実際には何もしない人。「口先だけで
なく、実際に行うことが大事」。あるいは信仰をしっかり持つなら、それに伴って行いもな
ければいけない。これが理解の一つです。しかしもう一歩深めましょう。
ここで主人はもちろん神様です。ぶどう園はイスラエルに代表される神の民が作る国。
兄は徴税人や娼婦。初め神様に従っていなかったのですが、思い直し、最後に神に従った
人。
では弟は……。「あなたたち」つまり聞き手。聖書の流れでは「大祭司や民の長老(マタ
21:23)」です。神様に「はい」と従って歩んでいるつもりでした。ところがいつの間にか
、神様から離れていた。
なぜ兄である徴税人や娼婦の方が、弟である大祭司や長老より先に神の国に入ることを約
束されたのでしょう。「洗者ヨハネを信じて、悔い改めた」からです。時が満ち、救い主が
この世に来た、神の国が近づいたその大切なときに、回心できた。自分の罪を認め、心を神
に向け、神様に従うことを選んだからです。
しかし大祭司や長老は、洗礼者ヨハネが指し示したメシア・イエス様を信じませんでした
。肝心なキリスト到来のとき、神様の方に心を向け、歩むことができませんでした。
なぜ。今の地位や名声、プライドのためです。宗教の権威者で身分の高い自分たちを認め
ず、かえって偽善者と批判し、律法に対してもより自由に振舞う。そのイエス様への激しい
恨みのためです。自分たちこそが正しいという思いのため、自分の罪を認めませんでした。
メシアを待ち望んでいるはずなのに、実は、メシアは要らなかったのです。必要だったのは
自分たちの地位と名誉でした。こうして神の国の到来のしるしであるイエス様の奇跡も、エ
ルサレム近くでの徹底的な奇跡であるラザロの死からのよみがえりも、ただの悪魔のわざと
批判しました。そして救い主イエスを、国への反逆者(内心は自分たちへの反逆者)として
、殺してしまったのです。
愚かな大祭司や長老。しかしここで言われる「あなたがた」はもちろん、祭司・長老のこ
とだけではありません。この私も含めたここに集う「私たち一人ひとり」に語られた言葉で
す。
自分は兄だろうか、弟だろうか。今神の子として、神の国にふさわしい生活ができている
だろうか。神様に従うものか、それとも離れ去ってしまうものか。誰もこの神様からの問い
かけから逃げることができません。
◇人間はなかなか自分の罪や弱さ、快楽に負けそうな自分を認めることができません。本当
に罪を認めたなら、改めるしかないからです。今もっているものを手放し、失う恐れがあり
ます。今までの仲間を失い、人間関係も変わっていく。
今までの慣れ親しんできた罪の生き方。楽な生き方を捨てて、新しく生きることは、知ら
ない恐ろしさもあります。昔を思い出し、懐かしむ気持ちがあり、あるいはそれを思い返し
たとき、失ったものの多さに、たまらない気持ちになることもあるでしょう。
それで「これは罪ではない。これにはこういう正しさがある」「社会が悪い」「他にも同
じような人がたくさんいる」。そう言い訳し、ごまかし、回心の時を遅らせようとします。
しかし徴税人の頭であったザアカイ、この福音を記した徴税人のマタイ、罪の女と言われ
たマグダラのマリアは回心しました。罪の中から起き上がり、イエスの立派な弟子に変わり
ました。
もちろん回心は一生涯の話でもあります。最初従ったイエス様の弟子たちの多く。十字架
を前に最初「はい」と言ったのに「いいえ」と断わってしまいました。しかしその裏切りの
後でも、ペトロはまた回心し「はい」と答えました。しかし最期まで「いいえ」と言い続け
、イエスの救いのもとに入ることを自分から拒んで、自殺し、永遠の滅びにいたったユダも
います。
私たちの回心に完成はありません。この世の命を終える最期の時まで、生き方が問われ続
けられます。一度失敗し、新たに歩み直しても、昔はこうだったと後ろ指さされることもあ
るかもしれません。しかしペトロもパウロも、そんな失敗だらけの自分が神様に用いられた
ことを、かえって誇ったのでした。
恐れることはありません。傍観者でいるのでなく、兄のようにすぐに回心し、行動を始め
ましょう。回心の機会を逃さないよう。もしかしたら今こそ、最後の審判の時、イエス様の
再臨の時かもしれないから。
2) 28節から31節の「『兄の方です』と言うと」までの部分(この箇所の前半部分)だけを取
り出してみると、このたとえ話は「言葉でどう応えるかではなく、行動で神に従うことが大
切である」ということを教えるたとえ話だ、と感じられるのではないでしょうか。しかし、
たとえ話から導き出される教えの部分(31節の「イエスは言われた」以下)によれば、このた
とえ話は洗礼者ヨハネのメッセージを受け入れた「徴税人や娼婦」と、受け入れなかった「
祭司長や民の長老」たちのことを表していて、行動の問題というよりも、「回心の呼びかけ
を受け入れるかどうか」ということがポイントになっています。このように、たとえ話自体
とその後の教えが完全に一致しないと感じられるため、前半と後半は本来、別々の話だった
のではないかと考える人もいます。
徴税人と娼婦は当時のユダヤ人社会の中で、罪びとの代表とされていました。周囲の人々か
ら神の救いに程遠い人間と考えられ、自分自身でも救われる可能性はないと思っていたよう
な人々でした。洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に希望を与えました。「すべ
ての人は今回心しなければならない」ということは「どんな人でも今回心すれば救いにあず
かることができる」ということでもあるからです。洗礼者ヨハネが示した「義の道」(32節)
とは回心して、洗礼を受ける道でした。正しい行いをするという以前に、何よりも自分の罪
深さを認め、神に立ち返る道です。イエスもこれこそが神との正しい関係のあり方だと言う
のです。
(5) 一方、当時の社会や宗教の指導者たちはヨハネのメッセージに心を動かされませんで
した。彼らは洗礼者ヨハネの回心のメッセージを悪いものだとは思わなかったでしょう。し
かし「自分たちはちゃんとやっている」と考えた人々は、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを
自分たちに向けられたものとして真剣には受け取らなかったのです。「回心すべきなのは自
分たちではなく、他の連中だ」と考えたとき、彼らは自己満足と優越感の世界に陥り、生け
る神との関係も、人と人とのつながりも見失ってしまったと言わざるをえません。このたと
え話の中で、弟は「承知しました」と言いながら、なぜ出かけなかったのでしょう。理由は
どこにも書いてありませんが、やはり、父親の呼びかけをまともに受け取らず、本気で父親
とともに生きようとはしていなかったからだと言えるのかもしれません。
わたしたちにとっても神からの呼びかけはいろいろな形で来ると言えるのではないでしょう
か。聖書の神のことばを通して神はわたしたちに呼びかけています。と同時に、今この世界
に起こるさまざまな出来事も神からの呼びかけなのではないでしょうか。
絵と福音の対応を考えてみたい。二人の息子が前に、父親は後ろにいる。父親を見て何が感
じられるだろう。他の絵で描かれるキリストの姿に似ていないだろうか。もちろん、父親で
あるから、父なる神のイメージを見てもよい。福音書では、ここで洗礼者ヨハネと、彼に対
する人々の相反する対応を思い出させているが(ルカ7・29-30参照)、洗礼者ヨハネも結局
は、神のみ旨を伝える預言者だったという点では、この絵の中の父親には、父なる神、ひい
ては父と一体である御子キリストを見るのが適切だろう。神の望みがこの「父親」にたとえ
られているのである。
その神の望みに対する人々の異なる対応が、二人の息子の姿の対比によって示される。(
向かって)右側の息子は、何かほくそ笑んでいるようで、自分の右手を左手の上に置いてい
るところに、自分の力へを自信が示されている。「ぶどう園に行って働きなさい」という父
親の言葉に対して「いやです」と拒否した瞬間の兄の態度を意味していよう。左側の息子は
、父親をうやうやしく仰ぎ、右手を開いて、父親の意向を真正面から受けとめている。「お
父さん、承知しました」と答えた瞬間の弟の態度にあたるだろう。言葉による答えだけを見
るなら、兄は非難すべきもの、弟は称賛すべきものであった。しかし、問題はその後の展開
である。兄は「いやです」と答えながら、後で思い直して出かけた。弟は「承知しました」
と言いながら、実際には出かけなかった。実際の行為のほうを見ると、右側の息子が弟、す
なわち、表面では愛想のいい答えをしながら、心の中では思い上がっている態度、左側の息
子が兄の態度、すなわち「いやです」と一時は答えながらも深く考え、後で思い直して神の
望みに従うようになるという態度を示しているように見えてくる。どの時点での態度を見る
かで、兄と弟がすっかり入れ替わる。絵画表現のおもしろいところである。
このように、「絵の中の、二人の息子はどちらがどちらを表していると思う?」と問いか
けながら福音を読んでいくと味わいも広がり、我々信仰者の心理に鋭く迫るイエスのメッセ
ージの深さに、しだいに気づかされるのではなかろうか。
Thursday, June 26, 2014
11 per annum A
年間11主日 A
【マタ9:36-10:8
弟子を呼び寄せ派遣した】
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
----------------------------------------------------------------------------------
アメリカでの話です。ニューヨークのダウンタウンを、移民の人とネーティブアメリカンと二人で歩いていたそうです。人と車が込み合う都会の雑踏、騒音しか聞こえません。ところが突然、ネーティブ・アメリカンが「あれこおろぎが鳴いている」と言い出したそうです。
もう一人は答えます。「こんなうるさいところでこおろぎなんて聞こえるわけないだろう」。しかしネーティブが「確かに声がきこえる」と言うのです。もう一人は「ばかげている」と一笑に付します。
ところがネーティブ・アメリカンがはずれの歩道近くの、コンクリ・ブロックの隅からこおろぎを見つけ出したのです。一人はあきれて言います。「すごいね。超人的な耳!よくこんな小さな声が聞こえたね」。するとネーティブが答えたそうです。「僕の耳が君のと違うわけじゃない。ただ耳は何を聞こうとしているかで違うんだ」。
一人は言います。「馬鹿なこと言ってんだよ。こんなところでこおろぎなんて聞こえるわけない」。ネーティブは言います。「本当のことだよ。何がその人にとって大事か。何を聞きたいのか。それによって聞こえてくるものが違うんだ」。
そういうとネーティブはポケットから小銭を取り出し、歩道に投げました。するとコインが落ちた音がした瞬間、人ごみの人がほとんどコインのほうを振り向いたのです。ネーティブは言います。「分かったろう。君にとって何が大事か。それが何がきこえるかということなんだ」と。
リストラの時代で、失業者があふれる時代でありながら、どの国を見ても、いまだ「収穫は多いが、働き手が少ない」状況が、このイエスの時代以来、相変わらず続いています。教会では、司祭、修道士、シスターなどたくさんの働き手が必要なのです。教会やさまざまな施設での働きを求めています。
働き手が必要と神様は絶えず呼んでくださっているのに、多くの人は呼びかけを聞き取ることができません。耳が何を聞こうとしているかで、同じ耳でも聞けるものが違ってくるのです。金、名誉、清潔さ、自由、親の希望、セックス、家庭や子どもへの憧れ……。もちろんこれらがすべて騒音であるわけではありません。大切なものであることは確かです。しかしそれ以外にも、小さな声があるのです。永遠のいのち、犠牲、真の喜び、神さまの呼びかけ。そしてこの小さな大切な声を聞こえなくしている家庭の騒音と言うのもあるのではないでしょうか。
もしも家庭からテレビやビデオの騒音を少しでも消し、成績や能力ばかりにとらわれたせわしさを少しでも抑えることができたなら。この世の価値観の囚われから解放されるなら。もしかしたらそのときに、小さな神様の呼びかけの声が聞こえてくるのかもしれません。最も大切な神の声を聞こえなくしない、そういう環境を整えることも大事です。
マザーテレサは、汽車の中「貧しきものたちと共にあれ。貧しきもののために働け」という神の声を聞き、貧しい者への奉仕を決意しました。そして修道会を出て、本当に貧しい人のための修道会を作っていきました。このような小さな声を本当に神様の声として受け取ることのできる感受性。そして神様から与えられた自分の使命に進み出していく勇気。それをぜひ養っていきたいと思います。収穫は多いが,働き手は本当に少ないのですから。
マタイによる福音書・連続説教 68
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「 収 穫 の 主 」
●聖書 マタイによる福音書9章35~38
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
「収穫は多い」のか?
「収穫は多いが、働き手が少ない。」(37)と主イエスは言われました。この「収穫」というのは、このほかのイエスさまのいろいろな話から考えると、これは神の国に入る者が多い、という意味です。つまりイエス・キリストを信じて、神の国に入る者が多い、と主イエスはおっしゃるのです。これが主イエスの言葉です。そうすると、この言葉を聞いて、私たちは「果たしてそうだろうか???」と思うのではないでしょうか。「収穫は多いが、働き人が少ない。」‥‥主イエスキリストを信じる者が多い、神の国に入る者は多い‥‥本当にそうだろうか?
むしろ私たちが思うのは、「収穫は少ない」ということのではないでしょうか。‥‥イエスさまを信じる者はそんなに多くない。むしろこの日本にあっては少ない。日本のキリスト教人口は、長い間たった1%未満にとどまっている。これは、戦国時代の16世紀にフランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に伝えて以来、あんまり変わっていない数字だと言われています。たしかに町ではどこでもクリスマスが祝われ、教会で結婚式を挙げてくれと、相談に来る人はたくさんいます。ミッション・スクールは多く建てられていますし、キリスト教に対する親近感は多くの人が持っています。しかし、それにもかかわらず、主イエス・キリストを信じる人は少ない。教会に来る人は少ない。それが現実です。するとなぜイエスさまは、「収穫は多い」とおっしゃったのか?私たちは不思議に思いっても無理のないことです。
また、イエスさまの時だって、人々はなるほどイエスさまのまわりに集まってきたが、イエスさまがとらえられて十字架につけられた時にはみんないなくなってしまったではありませんか?と言いたくなります。
けれども、主イエスは、私たちのそのようないろいろな疑問を越えて言われるのです。「収穫は多い」と。神の国に入る者、イエス・キリストを信じる者は多い、と。
「収穫は多い」と宣言される主イエス
そうすると、私たちはこのイエスさまのお言葉が、神さまの宣言のような言葉として聞こえてきます。つまり「収穫は多い」という言葉が、ぞろぞろと人々が神の国に入っていくのを端から見て、「ああ、収穫は多いのだなあ」というような感想をおっしゃったものではないのです。そうではなく、主イエス・キリストが「収穫は多い」とおっしゃった、その言葉によって収穫は多いのです。イエス・キリストを信じ、神の国に入る者が多いのです。それは例えば、天地創造のはじめに、神が「光あれ」とおっしゃった、その言葉によって光ができたのと同じです。福音書に出てくる、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」、というイエスさまの言葉によって、12年間も流血をわずらっている女性の病がいやされたのと同じです。またそのあと、ふたりの盲人が「ダビデの子よ、私たちをあわれんで下さい。」と叫びながらイエスさまについてきた時、イエスさまが「あなた方の信じているとおりになるように」とおっしゃり、その言葉の通りその盲人の目が開かれたようにです。
イエスさまがこのとき、「収穫は多い」と言われた。それは真実の言葉であったに違いありません。イエスさまがうそを言うはずがないのです。‥‥イエスさまは、一握りの人が救われるためにこの世に来られたのではないのです。例えば、日本の国家試験で最も難しいと言われる司法試験に受かるためには、一部の優秀だといわれる人が必死になって何年間も勉強しなければなりません。そういうものではないということです。
またあるいは、今の社会の現状は、そのような神の国に入りたいと思う人が多いが入れてもらえない、というようなことかもしません。教会はサークルの一つのように思われているのかもしれません。‥‥書道の好きな人が「書道サークル」に入る。俳句の好きな人が「俳句のサークル」に入る。‥‥そういうものであると。だから教会も好きな人が行っているのだと。今の日本の問題は、むしろ誤解、無関心ということになるのです。
しかし主イエスは、そういう現実でもやはり同じことをおっしゃるでしょう。「収穫は多い」と。イエスさまは、関心と興味のある人だけを天国に入れるためにこの世に来られたのではないからです。イエスさまが「収穫は多い」とおしゃったとき、イエスさまの生涯の働きが、多くの収穫のためのお働きであったと考えるべきです。‥‥イエスさまがこの地上で働かれ、そしてやがて十字架に向かわれたとき、それはただ一握りの人の救いのために十字架へ向かわれたのではなく、多くの人々のために向かわれたのです。‥‥イエスさまが十字架にかかり、血を流されて死なれたとき、それはただ一握りの人のためのものであったのではなく、多くのもののためであったのです。
それゆえ、イエスさまはおっしゃるのです。「収穫は多い」と。だれがなんと言おうと、断固としておっしゃるのです。「収穫は多い」と!!
多くの人がイエス・キリストを信じ、神の国に入るのです。少なくとも、神の国はそのように準備されているのです。そして父なる神と主イエス・キリストは、多くの収穫のために働いておられるのであるということを覚えたいのです。
わたしがする、のではなく
収穫が少ないから働き手も少ない」のではないか? と私たち考えるかもしれない。
きょうのみことばを続けて読んで下さい。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 なんと書いてありましたか?‥‥「収穫の主に願いなさい」と書いてあります。収穫の主人公は私たちではありません。収穫の主は、天の父なる神さまだ、というのです。その神さまに、祈りなさい、願いなさい、と主イエスはおっしゃるのです。「人にはできないことも、神にはできる」のです。その神さまに目を向けなくてはなりません。すなわち私たちが第一にするべきことは、収穫の主に願う、祈るということです。
「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」‥‥新たな収穫のために人を起こして下さるのは主です。その主に願い、祈りを熱くするようにと主イエスはおっしゃったのです。
祈る人となりましょう。私たちは現状を見て、あわてる必要もなく、将来を悲観する必要もありません。私たちは、責任を持ってくださる主イエスと共に言うことができます。「収穫は多い」と。あなたはそれを信じることができますか?まずわたしたちがこのイエスさまの御言葉を信じないで、世の中のだれが信じるのですか?
主イエスと共にいるとき、そこには未来があるのです。
私たちは覚えておきましょう。収穫は多いのだと。豊かに実るものが、収穫の主と共に歩むとき、あるのだと。私ではなく、主イエス・キリストが未来を開いて下さるのです。
20 per annum A
年間20主日 Α
【マタ15:21-28カナンの女の信仰】
イエスは、ガリラヤ地方から離れておられます。そして、今のレバノンの南部にあるツロとシドンの地方に行かれました。ガリラヤには、ユダヤ人が多くいましたが、ツロとシドンは異邦人が多くいる場所です。
すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
この女はカナン人でした。私たちがこの前、創世記でカナンが最初に出てきた部分を読みました。ノアの息子ハムは、父ノアの裸を見たので、父は彼の息子であるカナンを呪いました。「のろわれよカナン、兄弟たちのしもべとなれ(11:25)」 このカナンの子孫がカナン人ですが、彼らは不品行と不法の行いで非常に汚れている人々でした。神はイスラエルの民に対して彼らを全滅するように命じられたほどです。したがって、カナン人は神にのろわれた、神から離れた代名詞のような人々だったのです。だから、彼女が神から何かを願う事は、非常に不利な立場にいたのです。ところが彼女は、「ダビデの子よ。」と叫びました。これはメシヤの称号です。彼女は、自分は神の祝福を受けるのに値しない者であることを認識しながらも、必死になってイエスにすがりついています。
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。
イエスは、彼女を完全に無視されました。ものすごくひどいと思われるかもしれませんが、この後を読み進めますと、イエスが彼女を試されていたことがわかります。
そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。 弟子たちは本当に彼女が嫌だったのでしょう。自分中心になっています。 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
イエスは、ご自分の使命を告げられました。イエスは、イスラエルの民を罪から救うメシアとして来られました。だから異邦人はその救いには入りませんよ、と言われています。ここで、彼女はあきらめませんでした。次を見て下さい。
しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
先ほど、彼女は、イエスを「ダビデの子」と呼びましたが、今度は、「主よ。」と個人的な呼び名で呼んでいます。つまり彼女の心は、さらにイエスに接近しているのです。イエスが彼女に一言も言われなかったのはこのためでした。彼女の心がイエスに近づくためだったのです。ここで、物質的には彼女もパリサイ人も同じようにイエスのみもとに来ていることに注目してください。同じようにイエスのところに来たのです。が、彼女の心はイエスに限りなく近づき、パリサイ人の心はイエスに限りなく離れたのです。
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
イエスは再び、ご自分がイスラエルのために来られたことを話されています。子供たちとは、イスラエルの民の事です。子どもは、父からの資産を受け継ぐ権利がありますが、イスラエルの民は、神の資産を受け継ぐ特権を持っていました。そして子犬とは、ペットのことです。子供たちのパンを父親が取り上げてペットに与えないように、キリストにある祝福を異邦人に与えるのはよくない、とイエスは言われています。
ところが、彼女の答えを読んでください。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
これはものすごい答えです。イエスは、次に、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。」
と言われましたが、この発言から私たちは、多くのことを学ぶ事ができます。まず、彼女はイエスのたとえを理解していました。先ほどペテロが、イエスのたとえの意味を聞いて、イエスは、「あなたがたも、まだわからないのですか。」と言われましたが、彼女は的確にイエスのたとえを理解しています。次に女は、「主よそのとおりです。」と言って、自分が置かれている立場を理解していました。自分はカナン人であり、キリストにある祝福にあずかるような資格はない、ということです。ここで普通ならあきらめてしまいます。しかし、彼女はイエスについてさらに深いことを理解していました。それは主のあわれみと恵みです。自分は神から離れている身分であるが、神はそのような者にもあわれみを施して下さり、恵んでくださるのだ、という事です。イエス・キリストの奥義をここまで理解することは、私たち人間には難しい事です。
私たちは自分自身を見てしまい、主が与えようとされている祝福をどうしても受け取りません。「私はだめだから。」と言って、頑固に神の祝福を受け取らないのです。それか反対に、自分の立場や行いを神の前に持っていって、「私は、これだけのことをしているのだから、あなたの祝福を受ける資格があります。」と訴えます。「私はこれだけ、人に親切にしてきたし、特に悪い事もしてこなかった。でもなぜ主よ、私を祝福してくださらないのですか。」という感じですね。しかしこれもまた、主から祝福を受ける方法ではないのです。なぜなら、心が高ぶっているからです。私たちにとって難しい事は、自分が神の祝福を受ける立場にいないこと、神にのろわれて、さばきを受けるのが当然の存在であることを認めると同時に、それでも主の祝福を願う事です。
けれども、私たちは、キリストの十字架を見るときに、それをはっきりと知ります。キリストが受けたあのむごい死は、私たちの罪のむごさを現しています。私たちは麻原彰光のような悪人を見て、死刑に値すると思う人はたくさんいますが、神の御前には、私たちも死刑に値するむごたらしい悪人なのです。しかし十字架は同時に、神のとめどない祝福の入口であります。十字架のキリストにあって、あなたの罪はすべて赦された。あなたは雪のように白くされ、あなたは正しい者だ、汚れも傷もない、と神が宣言してくださいます。私たちが受けるのに値しないものを受けるのが「恵み」の定義ですが、この女は、イエス・キリストのあわれみと恵みを、的確に把握していました。その理解にもとづいて、彼女は大胆に恵みの御座に近づいたのです。
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
彼女の娘はその時から治りました。パリサイ人、律法学者は、伝統と外側の行いをイエスに持っていったため、心が遠く離れましたが、カナン人の女は、自分の信仰をイエスに持っていったため、心がイエスにぴったりとくっつきました。このように、私たちとイエスとの関係は、私たちが主の恵みを大胆に受け取ることによって確立されるのです。
ーーーーーー
きょうの表紙絵は、ローマのカタコンベの壁画「オランス」の作品例である(部分)。オランスは、初期の教会の人々の魂の象徴として描かれているものといわれ、カタコンベ(地下墓所)という場に描かれたことから、来世の幸福を願う死にゆく人々の魂を形象化したものともいわれるが、絵自体は、もっと普遍的な祈る人の姿としても鑑賞することができる。ローマ時代の比較的高貴な家柄の女性の姿を表現する作品であり、いわば「祈る異邦人の女」の姿として、きょうの福音朗読箇所と関連づけて鑑賞することができる。ローマは、まさに異邦人世界の象徴であり、新約聖書の範囲における使徒たちの宣教の一つの目標地点であった。そのような中でキリストの福音を信じていく諸国の人々の増加していく様子とその心をローマ芸術的な自然描写や女性の人物描写の雰囲気をそのまま残しながら描きとどめ、印象づけた作品ともいえる。
イエスに対して「主よ、憐れんでください」「主よ、どうかお助けください」という率直な祈りを差し向けていく異邦人世界の人々の姿をこの絵の背後に感じていたい。このことばが同時に、すべての人の主であるイエスに対する信仰告白でもあることはいうまでもない。願いが願いにとどまらずに何よりも信仰告白であり、しかも賛美をこめた信仰告白となっている。ミサの開祭で告げる「主よ、あわれみたまえ」とこのカナンの女の姿はまっすぐにつながっている。我々はカナンの女の後継者なのである。
もちろん神がお造りになられた一週間、六日働いて一日休み、主を礼拝することはとても良いことです。けれども、「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ14:6)」とパウロは勧めています。
【マタ15:21-28カナンの女の信仰】
イエスは、ガリラヤ地方から離れておられます。そして、今のレバノンの南部にあるツロとシドンの地方に行かれました。ガリラヤには、ユダヤ人が多くいましたが、ツロとシドンは異邦人が多くいる場所です。
すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
この女はカナン人でした。私たちがこの前、創世記でカナンが最初に出てきた部分を読みました。ノアの息子ハムは、父ノアの裸を見たので、父は彼の息子であるカナンを呪いました。「のろわれよカナン、兄弟たちのしもべとなれ(11:25)」 このカナンの子孫がカナン人ですが、彼らは不品行と不法の行いで非常に汚れている人々でした。神はイスラエルの民に対して彼らを全滅するように命じられたほどです。したがって、カナン人は神にのろわれた、神から離れた代名詞のような人々だったのです。だから、彼女が神から何かを願う事は、非常に不利な立場にいたのです。ところが彼女は、「ダビデの子よ。」と叫びました。これはメシヤの称号です。彼女は、自分は神の祝福を受けるのに値しない者であることを認識しながらも、必死になってイエスにすがりついています。
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。
イエスは、彼女を完全に無視されました。ものすごくひどいと思われるかもしれませんが、この後を読み進めますと、イエスが彼女を試されていたことがわかります。
そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。 弟子たちは本当に彼女が嫌だったのでしょう。自分中心になっています。 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
イエスは、ご自分の使命を告げられました。イエスは、イスラエルの民を罪から救うメシアとして来られました。だから異邦人はその救いには入りませんよ、と言われています。ここで、彼女はあきらめませんでした。次を見て下さい。
しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
先ほど、彼女は、イエスを「ダビデの子」と呼びましたが、今度は、「主よ。」と個人的な呼び名で呼んでいます。つまり彼女の心は、さらにイエスに接近しているのです。イエスが彼女に一言も言われなかったのはこのためでした。彼女の心がイエスに近づくためだったのです。ここで、物質的には彼女もパリサイ人も同じようにイエスのみもとに来ていることに注目してください。同じようにイエスのところに来たのです。が、彼女の心はイエスに限りなく近づき、パリサイ人の心はイエスに限りなく離れたのです。
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
イエスは再び、ご自分がイスラエルのために来られたことを話されています。子供たちとは、イスラエルの民の事です。子どもは、父からの資産を受け継ぐ権利がありますが、イスラエルの民は、神の資産を受け継ぐ特権を持っていました。そして子犬とは、ペットのことです。子供たちのパンを父親が取り上げてペットに与えないように、キリストにある祝福を異邦人に与えるのはよくない、とイエスは言われています。
ところが、彼女の答えを読んでください。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
これはものすごい答えです。イエスは、次に、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。」
と言われましたが、この発言から私たちは、多くのことを学ぶ事ができます。まず、彼女はイエスのたとえを理解していました。先ほどペテロが、イエスのたとえの意味を聞いて、イエスは、「あなたがたも、まだわからないのですか。」と言われましたが、彼女は的確にイエスのたとえを理解しています。次に女は、「主よそのとおりです。」と言って、自分が置かれている立場を理解していました。自分はカナン人であり、キリストにある祝福にあずかるような資格はない、ということです。ここで普通ならあきらめてしまいます。しかし、彼女はイエスについてさらに深いことを理解していました。それは主のあわれみと恵みです。自分は神から離れている身分であるが、神はそのような者にもあわれみを施して下さり、恵んでくださるのだ、という事です。イエス・キリストの奥義をここまで理解することは、私たち人間には難しい事です。
私たちは自分自身を見てしまい、主が与えようとされている祝福をどうしても受け取りません。「私はだめだから。」と言って、頑固に神の祝福を受け取らないのです。それか反対に、自分の立場や行いを神の前に持っていって、「私は、これだけのことをしているのだから、あなたの祝福を受ける資格があります。」と訴えます。「私はこれだけ、人に親切にしてきたし、特に悪い事もしてこなかった。でもなぜ主よ、私を祝福してくださらないのですか。」という感じですね。しかしこれもまた、主から祝福を受ける方法ではないのです。なぜなら、心が高ぶっているからです。私たちにとって難しい事は、自分が神の祝福を受ける立場にいないこと、神にのろわれて、さばきを受けるのが当然の存在であることを認めると同時に、それでも主の祝福を願う事です。
けれども、私たちは、キリストの十字架を見るときに、それをはっきりと知ります。キリストが受けたあのむごい死は、私たちの罪のむごさを現しています。私たちは麻原彰光のような悪人を見て、死刑に値すると思う人はたくさんいますが、神の御前には、私たちも死刑に値するむごたらしい悪人なのです。しかし十字架は同時に、神のとめどない祝福の入口であります。十字架のキリストにあって、あなたの罪はすべて赦された。あなたは雪のように白くされ、あなたは正しい者だ、汚れも傷もない、と神が宣言してくださいます。私たちが受けるのに値しないものを受けるのが「恵み」の定義ですが、この女は、イエス・キリストのあわれみと恵みを、的確に把握していました。その理解にもとづいて、彼女は大胆に恵みの御座に近づいたのです。
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
彼女の娘はその時から治りました。パリサイ人、律法学者は、伝統と外側の行いをイエスに持っていったため、心が遠く離れましたが、カナン人の女は、自分の信仰をイエスに持っていったため、心がイエスにぴったりとくっつきました。このように、私たちとイエスとの関係は、私たちが主の恵みを大胆に受け取ることによって確立されるのです。
ーーーーーー
きょうの表紙絵は、ローマのカタコンベの壁画「オランス」の作品例である(部分)。オランスは、初期の教会の人々の魂の象徴として描かれているものといわれ、カタコンベ(地下墓所)という場に描かれたことから、来世の幸福を願う死にゆく人々の魂を形象化したものともいわれるが、絵自体は、もっと普遍的な祈る人の姿としても鑑賞することができる。ローマ時代の比較的高貴な家柄の女性の姿を表現する作品であり、いわば「祈る異邦人の女」の姿として、きょうの福音朗読箇所と関連づけて鑑賞することができる。ローマは、まさに異邦人世界の象徴であり、新約聖書の範囲における使徒たちの宣教の一つの目標地点であった。そのような中でキリストの福音を信じていく諸国の人々の増加していく様子とその心をローマ芸術的な自然描写や女性の人物描写の雰囲気をそのまま残しながら描きとどめ、印象づけた作品ともいえる。
イエスに対して「主よ、憐れんでください」「主よ、どうかお助けください」という率直な祈りを差し向けていく異邦人世界の人々の姿をこの絵の背後に感じていたい。このことばが同時に、すべての人の主であるイエスに対する信仰告白でもあることはいうまでもない。願いが願いにとどまらずに何よりも信仰告白であり、しかも賛美をこめた信仰告白となっている。ミサの開祭で告げる「主よ、あわれみたまえ」とこのカナンの女の姿はまっすぐにつながっている。我々はカナンの女の後継者なのである。
もちろん神がお造りになられた一週間、六日働いて一日休み、主を礼拝することはとても良いことです。けれども、「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ14:6)」とパウロは勧めています。
19 per annum A
年間19主日 A
【マタ14:22ー33 湖の上を歩く】
年間第19主日 A年
マタイ14・22-33
D.R.A. ヘア著、塚本恵訳、『マタイによる福音書』、現代聖書注解、日本キリスト教団出版局、2006年(再販)。
先週の物語と同様に、水の上を歩くことに関するこの物語も、現代の私たちにとっては、つまづきになりやすいのです。手品みたいなものに聞こえる。おそらく、2000年前にもこうした物語を信じない人は結構いたと思いますが、けれども自然法則というものは、超自然的なものが介入することによって留保(りゅうほ)することができると広く信じられていたのです。ユダヤ人でしたら、あの出エジプトの神なら、イエスに水の上を歩く力を十分に与えることができるということは、自明のことだったでしょう。昔の人々にとっては、「そんなことは可能だろうか」というよりも、「この場合、実際にそんなことが起こったのだろうか」というのが問題なんです。
この奇跡について合理的に説明する試みがなされてきています。例えば、ここで起こったことは錯覚のようなものだったと言われるのです。すなわち、実際には湖の浅いところで、波打ち際(なみうちぎわ)を歩いておられたのだが、夜という薄暗い光の中では、そのイエスの姿が、あたかも水の上を歩いているかのように見えた。ちうのです。なるほどこれは合理的な説明としては分かります。
けれども、(24節)では「舟は既に陸から何スタディオンか離れており」と記されてあって、福音書のテキストには合わないのです。その他にもいろいろな説明がなされていますが、ここでこの出来事の歴史性の問題をわきに置いておいて、その代わりに、この物語がマタイにとってどういう意味を持っているのか、という点に焦点を合わせてみたいと思います。
マタイにとって大事なことは、イエスが湖に現れた時、船が岸から遠く離れていて波に悩まされていた、という事実です。こうした細部が示唆しているのは、マタイにとって、イエスが海の上を歩かれたのは、単に力を「見せびらかす」ためではなく、おびえている弟子を助けるためだということです。イエスはメシアとして、神の民を牧すると共にその配慮をするようにと、神によって委託を受けかつ力を賦与されているお方なのです。
マタイ8章(13-17)で嵐を沈める物語がありますが、そこと同様にここでも、船は、誘惑や試練、および迫害に翻弄(ほんろう)されている教会(信じる人々の共同体)を表しているように思われます。両方の箇所でイエスは、信仰において彼を呼び求める人々を救うのに十分な力を持って、教会のために先頭に立つお方であるように思われます。従って、マタイが、「弟子たち」と書くことが予想されるような箇所(33節)、「船の中にいた人たち」と書いているのは、おそらくマタイは福音書の読者(私たち)をも含めたかったからでしょう。すなわち使徒たちだけというのではなくて、すべての信仰者たちが、危険にさらされた船の中にいるのであり、救い主に信頼をおいているのです。
ペトロのように、信仰者は信仰と不信仰(疑い)の中間に立ち往生しつつ、キリスト者であるということはどういう意味をを持つのか、ということを鮮やかに描き出しているのです。すなわちペトロは大単にイエスは救い主であると信じ、彼は自分たちを支えることができるという確信を持って第一歩を踏み出し、それから、彼らを飲み込もうと脅しをかけている、渦を巻く波に目を留めてしまって、その代わりにイエスに目を留めることを忘れてしまうような、すべての人々を代表しているのです。そしてすべて失われてしまったように思われる危機の深みの中にあって、彼らは、その力が弱さの中でこそ完全なものとされる(2コリ12・9)、救い主の名を呼び求めることを思い出し、彼らが必要とするに十分な恵を見出すのです。
それと同様に、ペトロは、信仰上の危険を冒す人々を代表しています。つまりキリスト者は、不確実な状態の中で、生きることを学ぶのです。たしかに信仰の知識は、科学の知識のように確実なものではないけれども、私たちが見たりさわったりすることができること以上に、究極的な重要性を持つ現実について、語っているのです。イエスの救済の力を信じるということは、危険を冒すということなのです。
31節で使われることば、「信仰の薄い者よ」oligopistosというのは、マタイでは、いつも信仰者に関連して用いられていて、決して不信仰者に関連して使われていない。すなわち、その意味することは、信仰はあるけれども、自分の信仰を頼りにすることのできないような人々を叱咤激励(しったげきれい)することなです。ヨハネ福音書では信仰ということばいつも動詞であって、決して名詞では出てこない。つまり、信仰とは、所有することではなくて行動なでです。それは、私たちが歌うのをやめてしまうと消えてしまう歌のようなものであると。したがって信仰の薄い人々は、その小さな信仰を働かせなければならないのであって、さもなければ、使われていない筋肉のように、枯れてしまうだろう、と警告を促すことなんです。
さて、「疑う」と訳されている言葉distazoは、新約聖書ではマタイだけに見出される。キリスト者の実生活では、疑いと信仰とが混在したものなのです。ただ恵によってのみ、疑いを二次的な状態に置くことができるのです。マルコ福音書のことばを借りていえば、「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9・14)というようなことはキリスト者の常です。
弟子たちもキリストのことを完全に理解するためには、十字架と復活を待たなければならなかったのです。面白いことに、マタイ福音書はそれを先取りの形でここで信仰告白を入れています。マタイには、後の時代の信仰がイエスの地上での宣教活動の中に予示されいるというのがひとつの特徴となっています。例えば、異邦人の占星術の学者たちが、異邦人に対する宣教が開始されるはるか以前に、イエスの誕生の時に彼を「拝む」のとちょうど同じように、「船の中にいた人たち」もまたイエスを礼拝するのです。「本当に、あなたは神の子です」というペトロの信仰告白もそういう形になっていると思います。マタイによる福音書全体もそうですが、ここでも「神の子」というのは、職務上の称号であって、イエスが、超自然的な力を賦与された、終わりの日の王であることを証し示すものです。
【マタ14:22ー33 湖の上を歩く】
年間第19主日 A年
マタイ14・22-33
D.R.A. ヘア著、塚本恵訳、『マタイによる福音書』、現代聖書注解、日本キリスト教団出版局、2006年(再販)。
先週の物語と同様に、水の上を歩くことに関するこの物語も、現代の私たちにとっては、つまづきになりやすいのです。手品みたいなものに聞こえる。おそらく、2000年前にもこうした物語を信じない人は結構いたと思いますが、けれども自然法則というものは、超自然的なものが介入することによって留保(りゅうほ)することができると広く信じられていたのです。ユダヤ人でしたら、あの出エジプトの神なら、イエスに水の上を歩く力を十分に与えることができるということは、自明のことだったでしょう。昔の人々にとっては、「そんなことは可能だろうか」というよりも、「この場合、実際にそんなことが起こったのだろうか」というのが問題なんです。
この奇跡について合理的に説明する試みがなされてきています。例えば、ここで起こったことは錯覚のようなものだったと言われるのです。すなわち、実際には湖の浅いところで、波打ち際(なみうちぎわ)を歩いておられたのだが、夜という薄暗い光の中では、そのイエスの姿が、あたかも水の上を歩いているかのように見えた。ちうのです。なるほどこれは合理的な説明としては分かります。
けれども、(24節)では「舟は既に陸から何スタディオンか離れており」と記されてあって、福音書のテキストには合わないのです。その他にもいろいろな説明がなされていますが、ここでこの出来事の歴史性の問題をわきに置いておいて、その代わりに、この物語がマタイにとってどういう意味を持っているのか、という点に焦点を合わせてみたいと思います。
マタイにとって大事なことは、イエスが湖に現れた時、船が岸から遠く離れていて波に悩まされていた、という事実です。こうした細部が示唆しているのは、マタイにとって、イエスが海の上を歩かれたのは、単に力を「見せびらかす」ためではなく、おびえている弟子を助けるためだということです。イエスはメシアとして、神の民を牧すると共にその配慮をするようにと、神によって委託を受けかつ力を賦与されているお方なのです。
マタイ8章(13-17)で嵐を沈める物語がありますが、そこと同様にここでも、船は、誘惑や試練、および迫害に翻弄(ほんろう)されている教会(信じる人々の共同体)を表しているように思われます。両方の箇所でイエスは、信仰において彼を呼び求める人々を救うのに十分な力を持って、教会のために先頭に立つお方であるように思われます。従って、マタイが、「弟子たち」と書くことが予想されるような箇所(33節)、「船の中にいた人たち」と書いているのは、おそらくマタイは福音書の読者(私たち)をも含めたかったからでしょう。すなわち使徒たちだけというのではなくて、すべての信仰者たちが、危険にさらされた船の中にいるのであり、救い主に信頼をおいているのです。
ペトロのように、信仰者は信仰と不信仰(疑い)の中間に立ち往生しつつ、キリスト者であるということはどういう意味をを持つのか、ということを鮮やかに描き出しているのです。すなわちペトロは大単にイエスは救い主であると信じ、彼は自分たちを支えることができるという確信を持って第一歩を踏み出し、それから、彼らを飲み込もうと脅しをかけている、渦を巻く波に目を留めてしまって、その代わりにイエスに目を留めることを忘れてしまうような、すべての人々を代表しているのです。そしてすべて失われてしまったように思われる危機の深みの中にあって、彼らは、その力が弱さの中でこそ完全なものとされる(2コリ12・9)、救い主の名を呼び求めることを思い出し、彼らが必要とするに十分な恵を見出すのです。
それと同様に、ペトロは、信仰上の危険を冒す人々を代表しています。つまりキリスト者は、不確実な状態の中で、生きることを学ぶのです。たしかに信仰の知識は、科学の知識のように確実なものではないけれども、私たちが見たりさわったりすることができること以上に、究極的な重要性を持つ現実について、語っているのです。イエスの救済の力を信じるということは、危険を冒すということなのです。
31節で使われることば、「信仰の薄い者よ」oligopistosというのは、マタイでは、いつも信仰者に関連して用いられていて、決して不信仰者に関連して使われていない。すなわち、その意味することは、信仰はあるけれども、自分の信仰を頼りにすることのできないような人々を叱咤激励(しったげきれい)することなです。ヨハネ福音書では信仰ということばいつも動詞であって、決して名詞では出てこない。つまり、信仰とは、所有することではなくて行動なでです。それは、私たちが歌うのをやめてしまうと消えてしまう歌のようなものであると。したがって信仰の薄い人々は、その小さな信仰を働かせなければならないのであって、さもなければ、使われていない筋肉のように、枯れてしまうだろう、と警告を促すことなんです。
さて、「疑う」と訳されている言葉distazoは、新約聖書ではマタイだけに見出される。キリスト者の実生活では、疑いと信仰とが混在したものなのです。ただ恵によってのみ、疑いを二次的な状態に置くことができるのです。マルコ福音書のことばを借りていえば、「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9・14)というようなことはキリスト者の常です。
弟子たちもキリストのことを完全に理解するためには、十字架と復活を待たなければならなかったのです。面白いことに、マタイ福音書はそれを先取りの形でここで信仰告白を入れています。マタイには、後の時代の信仰がイエスの地上での宣教活動の中に予示されいるというのがひとつの特徴となっています。例えば、異邦人の占星術の学者たちが、異邦人に対する宣教が開始されるはるか以前に、イエスの誕生の時に彼を「拝む」のとちょうど同じように、「船の中にいた人たち」もまたイエスを礼拝するのです。「本当に、あなたは神の子です」というペトロの信仰告白もそういう形になっていると思います。マタイによる福音書全体もそうですが、ここでも「神の子」というのは、職務上の称号であって、イエスが、超自然的な力を賦与された、終わりの日の王であることを証し示すものです。
Saturday, June 21, 2014
Monday, June 2, 2014
聖霊降臨の主日 A 野の百合会-gooブログ
http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/e/4a6fdb13d7d2e01ec30611030cd2bdde#close
iPadから送信
聖霊降臨の主日 A 野の百合会
ヨハネによる福音(20:19-23)
あいさつ・招き
皆さん、聖霊降臨の祝日にあたり、私たち一人一人の歩みの上に、また野の百合会の歩みの
上にも、神の霊が注がれますように、特に賢明と知恵の霊(賜物)が送られますように、今
日のミサを捧げることといたしましょう。
インドのタイガーという動物は、絶滅に瀕していることはご存知ですか。そのために保護区域を作ってタイガーの住み易い環境、繁殖し易い環境を整えています。そして、管理人は危ないジャングルに住んでいるタイガーをこの保護区域の中に写すわけです。どうやってそうするかというと、ドキュメンタリー映画で見たことがあります。管理人は睡眠薬の入った弾(たま)をライフル(銃)に入れてタイガーを撃つわけです。映画を見ている私たちからすれば、それは明らかにタイガーのためになされている、タイガーという動物類を救うためになさられているとわかります。けれども、考えて見ましょう。タイガーの立場に立って見ま
しょう。タイガーの観点からみたらどうでしょうか。銃を持った人間は自分のためにやっていると思えるでしょうか。銃で撃つ弾に睡眠薬が入ってるというようなことはわかるでしょうか。前もってタイガーに分かるように説明してあげるということはできないですね。タイガーにとっては人間というのは餌食か敵か、それ以外はなにもない。タイガーにしてみれば、自分を救おうとする人間と、自分を撃って殺そうとする人間は何の変わりもない。タイガーの世界と人間の世界の間にそれだけ超えがたい開きがある。人間と神様もそうです。神様は人間を救おうとしているが、人間がそれがわからない。人間の世界と神様の世界は、タイガーと人間の世界のように全く通じないこととなっています。猫と犬は5・6千年前から人間の生活に慣れて、そのよさが分かったというか、人間と一緒に住む方が楽だし、安全ですね。いわゆる人間のペットになったわけです。2千年前から、神様の世界、神様の生活、生き方に親しむ道が開かれました。それが、イエス・キリストという方です。その道は聖書に書かれています。聖書をよむと、私たちはいわゆる神様のペットになれるようになりました。
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聖霊降臨の主日 A 野の百合会
ヨハネによる福音(20:19-23)
あいさつ・招き
皆さん、聖霊降臨の祝日にあたり、私たち一人一人の歩みの上に、また野の百合会の歩みの
上にも、神の霊が注がれますように、特に賢明と知恵の霊(賜物)が送られますように、今
日のミサを捧げることといたしましょう。
インドのタイガーという動物は、絶滅に瀕していることはご存知ですか。そのために保護区域を作ってタイガーの住み易い環境、繁殖し易い環境を整えています。そして、管理人は危ないジャングルに住んでいるタイガーをこの保護区域の中に写すわけです。どうやってそうするかというと、ドキュメンタリー映画で見たことがあります。管理人は睡眠薬の入った弾(たま)をライフル(銃)に入れてタイガーを撃つわけです。映画を見ている私たちからすれば、それは明らかにタイガーのためになされている、タイガーという動物類を救うためになさられているとわかります。けれども、考えて見ましょう。タイガーの立場に立って見ま
しょう。タイガーの観点からみたらどうでしょうか。銃を持った人間は自分のためにやっていると思えるでしょうか。銃で撃つ弾に睡眠薬が入ってるというようなことはわかるでしょうか。前もってタイガーに分かるように説明してあげるということはできないですね。タイガーにとっては人間というのは餌食か敵か、それ以外はなにもない。タイガーにしてみれば、自分を救おうとする人間と、自分を撃って殺そうとする人間は何の変わりもない。タイガーの世界と人間の世界の間にそれだけ超えがたい開きがある。人間と神様もそうです。神様は人間を救おうとしているが、人間がそれがわからない。人間の世界と神様の世界は、タイガーと人間の世界のように全く通じないこととなっています。猫と犬は5・6千年前から人間の生活に慣れて、そのよさが分かったというか、人間と一緒に住む方が楽だし、安全ですね。いわゆる人間のペットになったわけです。2千年前から、神様の世界、神様の生活、生き方に親しむ道が開かれました。それが、イエス・キリストという方です。その道は聖書に書かれています。聖書をよむと、私たちはいわゆる神様のペットになれるようになりました。
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~ 神を餌食にして、権力を得るために使う instrumentum imperii
~ 神を敵に回して殺す、神の子イエスのように
~ 神との正しい関係。仲良く付き合う関係
我々はほとんどそれに気づくことない、最も重要な事柄は人目につかない。最も重要な事柄が、空気や光、空間と時間の配置や我々が立っている地点、また我々の特定の出発点からゴールへの道(訳注: 方向感覚)が、生活の先験的な部分であり、それについて考えることなく、我々はそのうちに生活している。それらが、どれほど本質的であるか、それらを失うまで気がつかない。
上記のキリスト教的生き方の原理はこれに似ている。ただ、桁違いに大きいものであり、より大きく聖性にかかわるものである。これが神ご自身が生きておられ、創造し、贖ってくださる原理であり、神の真理と愛が働く原理である。神が我々に勧めているのはこれである。
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人間が犬に「お座り」を教えますね。皆さん、小さいときに、何もしゃべれないときにお母さんから、お父さんからいろいろ、食べ方、トイレなど、教えてもらいましたね。親の「霊」をもらって大きくなりましたね。神様も私たちに「お座り」を教えようとしています。それだけではなく、投げたボールを追いかけて持ってくるように教えています。神様は私たちといろいろな遊びをしたい。
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聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に
、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。やはり、私たちはまだタイガーの部分が
結構残っているからね。 現代社会は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。聖書という書物は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし私は、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれる書物、それがみことば、聖書であります。私たちは、そうした思いで、この聖書に取り組んでいただきたい、そのようにしてご自分の信仰を深めていただきたいという思いが生じれば、それは聖霊の賜物であると言えると思います。聖書をもっていて、宝の持ち腐れをしているクリスチャンも結構多いと思います。
教会に行きますと、そこで私たちは罪の赦し(の秘跡)、ご聖体の秘跡を受けて、聖霊・神様がいつも共にいるようになる。それは不都合だとか、窮屈だとか、自由が奪われる。そんなふうに感じる人がいるかもしれません。しかし神様は、決して拘束し、見張り、罰したりしません。私のことをすべて知り尽くした上で、それでも愛してくださろうとして下さる神です。 幼い子供は親が自分を知り尽くしているからと言って、やりづらい、堅苦しいと思うでしょうか。かえって遠慮なく甘えて安心するのではないでしょうか。知られていることは安心でもあります。 人間は、本当は自分のことすべて知ってほしいと願っているのです。外見・表面上の自分だけでなく、隠れた自分、他人に出せない自分、自分の弱さも、寂しさも、むなしさも、罪もすべてひっくるめて分かってくれる方を待ち望んでいるのです。しかもそれらすべてを分
かった上で、すべてそのまま、ありのままに受け止め、それでも良いと言って次の一歩、成長につなげてくださる方を求めているのです。神様こそ、そのような方です。 だからこそ、いつも私を大切に、時にハラハラしながらも見守り、たえず回心の助けの手を差し伸べようとしてくださる神様・聖霊の働き。それに答えて、私たちは自分自身を、また同じように聖霊の宿っている他人を大切にする必要があるのです。こうしてイエス様の生き方を、生活の中でいつも表していくのがキリスト者の使命です。
参考ブリージ・マッケナ「祈り 恵みの泉」(聖母の騎士社1995)
人間が犬に「お座り」を教えますね。皆さん、小さいときに、何もしゃべれないときにお母さんから、お父さんからいろいろ、食べ方、トイレなど、教えてもらいましたね。親の「霊」をもらって大きくなりましたね。神様も私たちに「お座り」を教えようとしています。それだけではなく、投げたボールを追いかけて持ってくるように教えています。神様は私たちといろいろな遊びをしたい。
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聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に
、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。やはり、私たちはまだタイガーの部分が
結構残っているからね。 現代社会は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。聖書という書物は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし私は、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれる書物、それがみことば、聖書であります。私たちは、そうした思いで、この聖書に取り組んでいただきたい、そのようにしてご自分の信仰を深めていただきたいという思いが生じれば、それは聖霊の賜物であると言えると思います。聖書をもっていて、宝の持ち腐れをしているクリスチャンも結構多いと思います。
教会に行きますと、そこで私たちは罪の赦し(の秘跡)、ご聖体の秘跡を受けて、聖霊・神様がいつも共にいるようになる。それは不都合だとか、窮屈だとか、自由が奪われる。そんなふうに感じる人がいるかもしれません。しかし神様は、決して拘束し、見張り、罰したりしません。私のことをすべて知り尽くした上で、それでも愛してくださろうとして下さる神です。 幼い子供は親が自分を知り尽くしているからと言って、やりづらい、堅苦しいと思うでしょうか。かえって遠慮なく甘えて安心するのではないでしょうか。知られていることは安心でもあります。 人間は、本当は自分のことすべて知ってほしいと願っているのです。外見・表面上の自分だけでなく、隠れた自分、他人に出せない自分、自分の弱さも、寂しさも、むなしさも、罪もすべてひっくるめて分かってくれる方を待ち望んでいるのです。しかもそれらすべてを分
かった上で、すべてそのまま、ありのままに受け止め、それでも良いと言って次の一歩、成長につなげてくださる方を求めているのです。神様こそ、そのような方です。 だからこそ、いつも私を大切に、時にハラハラしながらも見守り、たえず回心の助けの手を差し伸べようとしてくださる神様・聖霊の働き。それに答えて、私たちは自分自身を、また同じように聖霊の宿っている他人を大切にする必要があるのです。こうしてイエス様の生き方を、生活の中でいつも表していくのがキリスト者の使命です。
参考ブリージ・マッケナ「祈り 恵みの泉」(聖母の騎士社1995)
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