Monday, December 12, 2011

30 per annum A

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30 per annum A

 

年間30主日 Α

 

【マタ22:34-40 最も重要な掟】

 

最も大切な二つの掟が示されました。「神と人を愛する」。このことです。

 

一つは神を愛せということです。神様とは宇宙万物の造り主で、今もこの世を最終的に治

 

めている存在です。そして時を越えて存在してる方。神のゆるしなしに起こることは何一つ

 

ないわけです。

 

ところで人間は自分で獲得したものは自分の手柄にする。一方で何か不都合なことがあれ

 

ば神様のせいにする。そういうところがあるのではないでしょうか。

 

たとえばある青年が受験でいい大学に入れたとします。すると自分で努力したからと思っ

 

ている。実際はいろいろな神様の守りがあってできたことです。まずは日本という恵まれた

 

国に生まれており、戦争がなく、病気で死ぬ確率も低く、義務教育も完全に行われている。

 

その中である程度恵まれた頭脳と環境があり、勉強をすることができたからこそ、受験で入

 

れたわけです。けっして自分だけの努力によるのではありません。そしてそれらの恵みに感

 

謝することはあまりなく、自分の努力、自分の力によると思ってしまうのです。自分のもっ

 

ているものはすべて神のもの。神からあずかっているに過ぎないのに。

 

ところでこの同じ人が受験に失敗するととたんにこうです。神様はどうしてこんなに努力

 

している自分を認めずに、意地悪ばかりするのか。私は神から見放されている。こんな神な

 

ど必要ない。神などいない。

 

まるで神様を自分の召使と思っているようです。実際こういう面が人間にはたくさんあり

 

ます。災害、事故。人間のせいであることが実は多いのに、守られていればそれは当たり前

 

、別に感謝するわけでもない。ところがそうでないととたんに神を恨み、神などいないと言

 

い出す。(受験する前に神社などで、絵馬などで神様にお祈りする学生はいますね。受かっ

 

たときに感謝しに行く学生はどのぐらいいるのでしょうか。)

 

こういう身勝手な人間に対し、イエス様はおっしゃるわけです。「神を愛しなさい。神の

 

計らいを信じなさい。神様がどんなにあなたを思っているか、そのためにイエス様を十字架

 

に遣わしてあなたの重荷や罪を身代わりに負った、そこまであなたを愛している神の愛を信

 

じなさい。そして神を愛しなさい」。

 

与えられたすべてのもの。それを神様からのものとして受け止め、できるだけ、そのとき

 

は望ましくないと思えても感謝していく。それができたときにいつも神様を愛することがで

 

きるようになります。そのことを忘れずにいつも神様に感謝し神様を愛することを忘れない

 

ようにしましょう。これが第一の掟です。

 

◇第二の掟は自分を愛するように隣人を愛せと言うことです。

 

裁判所で働く心理学者によりますと、家庭の中で暴力を振るう男性は、自分は最低の男だと思っている

 

そうです。そういいながら家族に暴力を振るい続けるわけです。自分を愛せない、自分は欠

 

点ばかりだからと言う人は多いです。しかし実際やっていることは、自分のことばかり考え

 

、自分のことばかり優先している。自分さえ大事にできないから、ましてや人も大事にしな

 

くていいかのようです。しかしこれは自分本位です。

◇子どもが聞きました。「ねえ、神様はなんでもできるんでしょ?」「そう。なんでもでき

 

るよ」。

 

「じゃあ、どうして戦争をやめさせたり、食べ物がない子に 食べ物をあげてくれないの?

 

 

「そうねぇ。神様にお願いしてみたら?」

 

その後しばらくして。「お祈りしたら同じことを神様から聞かれたの。どうして君は同じ

 

ことをしないのか」って。

 

ここに神を愛し、人を愛する姿が現れています。

 

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何より神を愛しなさい。これひとつだけでもむずかしいことです。実際に私たちは、多く

 

の神以外の像を大切にしています。金とかこの世での評価とか、そういったものにとらわれ

 

続けます。しかし何より神を愛さなければならないと指摘されるのです。

 

しかし神を愛するという縦の関係だけでは、不十分です。「隣人を愛さなければならない

 

。それも自分を愛するように」。

 

ここもなかなか分からないのです。多くの人は言います。私は自分なんかとても愛せない

 

。欠点ばかりだから。そんな私が、自分を愛するように人を愛せと言われても、そう言いま

 

す。

 

日本人の場合は特に、この「自分を愛する」ことが難しいようです。いつも他人と比較さ

 

れる。そういうことに慣れてきたからではないでしょうか。しかし自分を愛し、大切にする

 

ことはとても大切なのです。これはただの利己主義、自分中心主義とは違います。

 

こんなことを言った人がいます。

 

「もし私の隣人が私より強いなら、私はその人を恐れ、もしその人が私より弱ければ、私は

 

その人を軽蔑する。

 

もし私とその人が同じであれば、私ははかりごとに訴える。

 

私がどのような動機を持っていたら、その人に服従することができ、

 

私にどのような理由があったら、その人を愛することができるのだろう」

 

◇私を愛せないから、私を正しく自分で評価できないために、そのために人を愛せない状態

 

がよく示されているのではないでしょうか。

 

自分より強ければその人を恐れ、自分より弱ければ軽蔑する。こんなことばかりしていて

 

は、いつまでも人を愛せません。

 

神を愛しなさい。なぜでしょうか。それは神様が私をかけがえのないものとして、大切に

 

して、愛してくださったからです。このつまらない私を、生まれる前から愛し、価値を認め

 

、私に命と言う恵みを下さった。そして私が罪を犯して、神様から離れてしまっていたとき

 

、私が神など何も意識できないとき、すでにそのときから、この私の罪を担って、身代わり

 

になって帳消しにしようと、イエス様が十字架にかかってくださった。この神様の深い愛が

 

あるからです。

 

その神様の絶対的な愛に答えて、私たちは神様を愛するのです。そしてそのような普通に

 

考えたらありえないほどの神の愛を受けている、ありがたきものとして命を与えられている

 

、このことに深く感謝すべきです。

 

そしてそれほどまでに神様からの深い愛に包まれた私だから、もう人を恐れることはない

 

。人と比較する必要も、人と競争する必要も、力争いする必要もないのです。何であれ、こ

 

の私は神様から愛されているのですから。どうして人と比べ、競う必要があるでしょう。

 

その深い自己愛、自分を肯定する感情をもとにして、今度は人を肯定することもできるよ

 

うになります。この神様の深い愛は、自分だけのもののはずはない。同じように、この人も

 

愛されているはずだ。私から見たら、性格が合わずに、やりにくくて、いつも競ってしまお

 

うとする相手だけれど、いやこの人も、同じように神様から愛され、この人のためにもイエ

 

ス様は十字架にかかったのだ。そのことを深く感じ取るときに、信じようとするときに、ど

 

んな相手であれ、その人を受け入れ、受け止め、ついには愛していく。その心が与えられる

 

のです。

 

神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する。実はこれはまだ旧約聖書に限った愛の姿です。イ

 

エス様の示した新約聖書の愛はどういうものかと言えば、隣人だけでなく敵をも愛すると言

 

うことが含まれてきます。こうして新約聖書ではさらに愛が徹底されていきます。しかしと

 

もかく今日は、自分を愛してくださった神を認め、神を愛しましょう。そして神が愛してく

 

ださった自分を認め、また同じように神が愛した人を認めるところから、人を愛することの

 

きっかけを、見つけ出していくようにしましょう。

 

 

あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい(マタイ22・37-39より

 

最も重要な掟

 

手彩色紙版画

アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)

 

パリ聖書博物館

 

最も重要な掟として神への愛、隣人への愛を説く、イエスの教えの中でも頂点と言える内

 

容を伝える場面を、どのように絵画化できるだろうか。これは、絵を描く側にしてみればか

 

なりの難問だったのではないだろうか。

 

カルペンティール師は、ファリサイ派の一人である「律法の専門家がイエスを試そうとし

 

て尋ねた」(マタイ22・35)、そして「イエスは言われた」(同22・37)という福音書の叙

 

述に従って、イエスと律法の専門家の問答の瞬間を描き出している。右手に書物を持った律

 

法の専門家は、下から見上げるようにして、イエスを一応立てる出方をしながら、目つきは

 

明らかに邪悪である。人差し指を突き出した彼の左手は、いかにも「どうだ?」と言うよう

 

にイエスに向かっている。

 

それに応ずるイエスの表情はなぜか明るい。律法の中心は二つの愛の掟に尽きるのだとい

 

う究極の明快さを意味しているかのようである。イエスの手の様子がおもしろい。左手は人

 

指し指一本をまっすぐ伸ばし、右手は、人指し指と中指の2本を伸ばしている。左手が第一

 

の掟(神への愛)、右手が第二の掟(隣人愛)を表していることになる。

 

背後にいる三人の男の人たちの表情は、それぞれ描き分けられている。右端の人は、何か

 

目を伏して考えこんでおり、真ん中の人は律法の専門家の試みに加勢しているようである。

 

左端の人は不安げに光景を見つめているか、もしくはイエスの答えに気負けしてしまってい

 

るように見える。

 

福音書の構成の中では、この問答は、エルサレムでのファリサイ派や律法学者との対立が

 

激化していくなかで、大きな波紋を巻き起こしたものの一つである。イエスは確実に受難へ

 

の道をたどっている。それだけに、ここでのイエスの明るさが印象深い。迷いのない信仰と

 

生き方のための明らかな道しるべとして、イエスは描かれているように思われる。

7 opere di misericordia

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7 opere di misericordia

Le sette opere di misericordia corporale [modifica]

Dar da mangiare agli affamati.
Dar da bere agli assetati.
Vestire gli ignudi.
Alloggiare i pellegrini.
Visitare gli infermi.
Visitare i carcerati.
Seppellire i morti.

Le sette opere di misericordia spirituale [modifica]

Consigliare i dubbiosi.
Insegnare agli ignoranti.
Ammonire i peccatori.
Consolare gli afflitti.
Perdonare le offese.
Sopportare pazientemente le persone moleste.
Pregare Dio per i vivi e per i morti.


七つの慈善のわざ

「慈善のわざとは、身体的・精神的に困っている人々を助ける愛の行為です。教え、助言
し、慰め、励ますことなどは、ゆるし、耐え忍ぶことなどと同じように、精神的な慈悲のわ
ざです。とくに飢えている人に食べさせ、宿のない人に宿を提供し、着る物を持たない人に
衣服を与え、病人や受刑者を訪問し、死者を埋葬することなどは、身体的な慈善のわざです。」Catechismo 2447

「高山右近史話」によると、高山右近は、当時キリシタンが暗唱していた教理箇条にある「慈悲の所作」を実践し、その領地は福祉国家だったとされています。
この「慈悲の所作」は、当時の教理書「どちりいな・きりしたん」によると以下の七つの肉体的慈善業と七つの精神的慈善業に分かれていたようです。

色身にあたる七のこと
一には、飢えたる者に食を与ゆること、
二には、渇したる者に物を飲ますること、
三には、膚をかくしかぬる者に衣類を与ゆること、
四には、病人をいたはり見舞うこと、
五には、行脚の者に宿を貸すこと、
六には、とらはれ人の身を請くること、
七には、死骸を納むること、これなり。

スピリッツ(精神)にあたる七のこと
一には、人には異見を加ゆること、
二には、無知なる者に道を教ゆること、
三には、悲みある者をなだむること
四には、折檻すべきものを折檻すること
五には、恥辱を堪忍すること
六には、ポロシモ(隣人)の不足を赦すこと
七には、生死の人と、また我に仇をなす者のために、デウス(神)を頼み奉ること、これなり。

26 per annum A

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26 per annum A

年間26主日 Α
【マタ21:28-32「二人の息子」のたとえ】

父から兄弟は命じられます。ぶどう園に行って働きなさい。
 兄は、いやだと言う気持ちを正直に表し、初め断ります。しかし父の言うことと思い直し
、働くことにしました。
 一方弟は口では簡単に「はい」と引き受けました。しかし誘惑が襲って怠けの気持ちが勝
ったのでしょうか。結局は働きに行きませんでした。父に喜ばれるのはどちらか--思い直
して働いた兄のほう。
 「不言(げん)実行」と言う言葉があります。黙って実行すること。兄に当てはまります。
それに対し弟は、有言不実行の人。言うだけ言って、実際には何もしない人。「口先だけで
なく、実際に行うことが大事」。あるいは信仰をしっかり持つなら、それに伴って行いもな
ければいけない。これが理解の一つです。しかしもう一歩深めましょう。
 ここで主人はもちろん神様です。ぶどう園はイスラエルに代表される神の民が作る国。
 兄は徴税人や娼婦。初め神様に従っていなかったのですが、思い直し、最後に神に従った
人。
 では弟は……。「あなたたち」つまり聞き手。聖書の流れでは「大祭司や民の長老(マタ
21:23)」です。神様に「はい」と従って歩んでいるつもりでした。ところがいつの間にか
、神様から離れていた。
 なぜ兄である徴税人や娼婦の方が、弟である大祭司や長老より先に神の国に入ることを約
束されたのでしょう。「洗者ヨハネを信じて、悔い改めた」からです。時が満ち、救い主が
この世に来た、神の国が近づいたその大切なときに、回心できた。自分の罪を認め、心を神
に向け、神様に従うことを選んだからです。
 しかし大祭司や長老は、洗礼者ヨハネが指し示したメシア・イエス様を信じませんでした
。肝心なキリスト到来のとき、神様の方に心を向け、歩むことができませんでした。
 なぜ。今の地位や名声、プライドのためです。宗教の権威者で身分の高い自分たちを認め
ず、かえって偽善者と批判し、律法に対してもより自由に振舞う。そのイエス様への激しい
恨みのためです。自分たちこそが正しいという思いのため、自分の罪を認めませんでした。
メシアを待ち望んでいるはずなのに、実は、メシアは要らなかったのです。必要だったのは
自分たちの地位と名誉でした。こうして神の国の到来のしるしであるイエス様の奇跡も、エ
ルサレム近くでの徹底的な奇跡であるラザロの死からのよみがえりも、ただの悪魔のわざと
批判しました。そして救い主イエスを、国への反逆者(内心は自分たちへの反逆者)として
、殺してしまったのです。
 愚かな大祭司や長老。しかしここで言われる「あなたがた」はもちろん、祭司・長老のこ
とだけではありません。この私も含めたここに集う「私たち一人ひとり」に語られた言葉で
す。
 自分は兄だろうか、弟だろうか。今神の子として、神の国にふさわしい生活ができている
だろうか。神様に従うものか、それとも離れ去ってしまうものか。誰もこの神様からの問い
かけから逃げることができません。
◇人間はなかなか自分の罪や弱さ、快楽に負けそうな自分を認めることができません。本当
に罪を認めたなら、改めるしかないからです。今もっているものを手放し、失う恐れがあり
ます。今までの仲間を失い、人間関係も変わっていく。
 今までの慣れ親しんできた罪の生き方。楽な生き方を捨てて、新しく生きることは、知ら
ない恐ろしさもあります。昔を思い出し、懐かしむ気持ちがあり、あるいはそれを思い返し
たとき、失ったものの多さに、たまらない気持ちになることもあるでしょう。
 それで「これは罪ではない。これにはこういう正しさがある」「社会が悪い」「他にも同
じような人がたくさんいる」。そう言い訳し、ごまかし、回心の時を遅らせようとします。
 しかし徴税人の頭であったザアカイ、この福音を記した徴税人のマタイ、罪の女と言われ
たマグダラのマリアは回心しました。罪の中から起き上がり、イエスの立派な弟子に変わり
ました。
 もちろん回心は一生涯の話でもあります。最初従ったイエス様の弟子たちの多く。十字架
を前に最初「はい」と言ったのに「いいえ」と断わってしまいました。しかしその裏切りの
後でも、ペトロはまた回心し「はい」と答えました。しかし最期まで「いいえ」と言い続け
、イエスの救いのもとに入ることを自分から拒んで、自殺し、永遠の滅びにいたったユダも
います。
 私たちの回心に完成はありません。この世の命を終える最期の時まで、生き方が問われ続
けられます。一度失敗し、新たに歩み直しても、昔はこうだったと後ろ指さされることもあ
るかもしれません。しかしペトロもパウロも、そんな失敗だらけの自分が神様に用いられた
ことを、かえって誇ったのでした。
 恐れることはありません。傍観者でいるのでなく、兄のようにすぐに回心し、行動を始め
ましょう。回心の機会を逃さないよう。もしかしたら今こそ、最後の審判の時、イエス様の
再臨の時かもしれないから。

2) 28節から31節の「『兄の方です』と言うと」までの部分(この箇所の前半部分)だけを取
り出してみると、このたとえ話は「言葉でどう応えるかではなく、行動で神に従うことが大
切である」ということを教えるたとえ話だ、と感じられるのではないでしょうか。しかし、
たとえ話から導き出される教えの部分(31節の「イエスは言われた」以下)によれば、このた
とえ話は洗礼者ヨハネのメッセージを受け入れた「徴税人や娼婦」と、受け入れなかった「
祭司長や民の長老」たちのことを表していて、行動の問題というよりも、「回心の呼びかけ
を受け入れるかどうか」ということがポイントになっています。このように、たとえ話自体
とその後の教えが完全に一致しないと感じられるため、前半と後半は本来、別々の話だった
のではないかと考える人もいます。

徴税人と娼婦は当時のユダヤ人社会の中で、罪びとの代表とされていました。周囲の人々か
ら神の救いに程遠い人間と考えられ、自分自身でも救われる可能性はないと思っていたよう
な人々でした。洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に希望を与えました。「すべ
ての人は今回心しなければならない」ということは「どんな人でも今回心すれば救いにあず
かることができる」ということでもあるからです。洗礼者ヨハネが示した「義の道」(32節)
とは回心して、洗礼を受ける道でした。正しい行いをするという以前に、何よりも自分の罪
深さを認め、神に立ち返る道です。イエスもこれこそが神との正しい関係のあり方だと言う
のです。

(5) 一方、当時の社会や宗教の指導者たちはヨハネのメッセージに心を動かされませんで
した。彼らは洗礼者ヨハネの回心のメッセージを悪いものだとは思わなかったでしょう。し
かし「自分たちはちゃんとやっている」と考えた人々は、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを
自分たちに向けられたものとして真剣には受け取らなかったのです。「回心すべきなのは自
分たちではなく、他の連中だ」と考えたとき、彼らは自己満足と優越感の世界に陥り、生け
る神との関係も、人と人とのつながりも見失ってしまったと言わざるをえません。このたと
え話の中で、弟は「承知しました」と言いながら、なぜ出かけなかったのでしょう。理由は
どこにも書いてありませんが、やはり、父親の呼びかけをまともに受け取らず、本気で父親
とともに生きようとはしていなかったからだと言えるのかもしれません。

わたしたちにとっても神からの呼びかけはいろいろな形で来ると言えるのではないでしょう
か。聖書の神のことばを通して神はわたしたちに呼びかけています。と同時に、今この世界
に起こるさまざまな出来事も神からの呼びかけなのではないでしょうか。


絵と福音の対応を考えてみたい。二人の息子が前に、父親は後ろにいる。父親を見て何が感
じられるだろう。他の絵で描かれるキリストの姿に似ていないだろうか。もちろん、父親で
あるから、父なる神のイメージを見てもよい。福音書では、ここで洗礼者ヨハネと、彼に対
する人々の相反する対応を思い出させているが(ルカ7・29-30参照)、洗礼者ヨハネも結局
は、神のみ旨を伝える預言者だったという点では、この絵の中の父親には、父なる神、ひい
ては父と一体である御子キリストを見るのが適切だろう。神の望みがこの「父親」にたとえ
られているのである。
 その神の望みに対する人々の異なる対応が、二人の息子の姿の対比によって示される。(
向かって)右側の息子は、何かほくそ笑んでいるようで、自分の右手を左手の上に置いてい
るところに、自分の力へを自信が示されている。「ぶどう園に行って働きなさい」という父
親の言葉に対して「いやです」と拒否した瞬間の兄の態度を意味していよう。左側の息子は
、父親をうやうやしく仰ぎ、右手を開いて、父親の意向を真正面から受けとめている。「お
父さん、承知しました」と答えた瞬間の弟の態度にあたるだろう。言葉による答えだけを見
るなら、兄は非難すべきもの、弟は称賛すべきものであった。しかし、問題はその後の展開
である。兄は「いやです」と答えながら、後で思い直して出かけた。弟は「承知しました」
と言いながら、実際には出かけなかった。実際の行為のほうを見ると、右側の息子が弟、す
なわち、表面では愛想のいい答えをしながら、心の中では思い上がっている態度、左側の息
子が兄の態度、すなわち「いやです」と一時は答えながらも深く考え、後で思い直して神の
望みに従うようになるという態度を示しているように見えてくる。どの時点での態度を見る
かで、兄と弟がすっかり入れ替わる。絵画表現のおもしろいところである。
 このように、「絵の中の、二人の息子はどちらがどちらを表していると思う?」と問いか
けながら福音を読んでいくと味わいも広がり、我々信仰者の心理に鋭く迫るイエスのメッセ
ージの深さに、しだいに気づかされるのではなかろうか。

18 per annum A

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18 per annum A

 

福音のヒント  年間第18主日 (2008/8/3 マタイ1413-21)

 

教会暦と聖書の流れ

 このパンの出来事は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ、4つの福音書すべてに共通して伝えられている話です。マタイ福音書では洗礼者ヨハネの殉教の話に続いています。きょうの箇所の冒頭に、イエスはこれ(洗礼者ヨハネの死)を聞くと、…ひとり人里離れた所に退かれた」(13)とありますから、ここでイエスは、自分にも危険が及びそうな状況を知って身を隠そうとしていると考えることができるかもしれません。しかし、人々の飢え渇きに応えるイエスの活動は変わらずに続いていきます。

 

福音のヒント

  (1) 「大勢の群衆を見て深く憐(あわ)れみ」(14)は、この箇所全体をマタイ福音書がどう見ているかを示しているようです。「深く憐れむ」からこそ、イエスは病人をいやし、「深く憐れむ」からこそ、彼らにパンを与えようとされるのです。

 「深く憐れむ」と訳された言葉は、ギリシア語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という動詞です。この言葉は、目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたがゆさぶられる、自分のはらわたが痛む、ということを意味する言葉で、「はらわたする」と訳した人もいます(C年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。沖縄の言葉に「肝苦さ(チムグリサ)」という言葉がありますが、それにも似ています。「スプランクニゾマイ」は、人の苦しみや悲しみに対する深い共感(compassion)を表す言葉なのです。イエスが病人をいやし、食べ物を与えるのは、この「苦しむ人への共感」から出た行動でした。

 人の行動にはいろいろな動機があります。わたしたちも「はらわたすること」「共感」から行動に駆り立てられるときがあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。

 

  (2) パンを与えるときのイエスの動作は印象的です。「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」(19)。イエスの食事の際の動作はこの箇所でも最後の晩さんの席でも、ほとんどいつも「(パンを)取る」「賛美する」「(パンを)裂く」「与える」という4つの動詞で表されますが、「取る」のは「賛美する」ためですし、「裂く」のは「与える」ためですから、実は2つのことをしていることになります。「パンを取り、賛美する」はこのパンがたまたま目の前にある、というのではなく、神から与えられたものであることを表しています。人を生かしてくださる神とのつながりが強く意識されるのです。「パンを裂いて与える」。当時の中東のパンは円盤型をしていましたが、このパンを裂くのは、一人で食べるのではなく、皆と分かち合って食べるためです。ここには共に生きる人々との連帯がはっきりと示されます。

 なお、「賛美する(賛美の祈りを唱える)」の元のギリシア語は「エウロゲオーeulogeo」ですが、同じ話を伝えるヨハネ福音書611節では「エウカリステオーeucharisteo」という言葉が使われています。こちらは普通「感謝する、感謝の祈りを唱える」と訳される言葉です。この2つの言葉はヘブライ語やアラム語ではもともと同じ言葉でした。たぶんわたしたちにとっても、感謝と賛美は切り離せないことでしょう。

 

  (3) 上で述べた2つのこと、「神とのつながり・人と人とのつながり」は、まさにイエスの食事の特徴だったと言えます。もしパンが増えて大群衆が満腹したというだけのことであれば、それは2000年前の不思議な出来事でしかありません。大切なのは、この神とのつながり、人と人とのつながりの中にこそ、人のいのちがあるということではないでしょうか。神が人に多くの食べ物を与えてくださるから満腹できる、というだけでもなく、人と人とが分け合えば豊かになれるというだけでもありません。すべてのものは神から与えられたものであり、だからこそ人と人とが分かち合って食べる、これがイエスの食事の豊かさなのです。

 なお、20節の「パンの屑」という日本語訳は不正確で、直訳は「裂かれたもの」です。それが12カゴになったというところにも、満ち溢れるいのちの恵みが示されています。

 

(4) わたしたちの食事はどうでしょうか? 「自分の力で得た食べ物を自分だけで食べて何が悪い? だれに感謝する必要がある? だれと分け合う必要がある?」そんなところに陥ってしまう危険があるのではないでしょうか。わたしたちは幼いときから、自分のものは自分が努力して手に入れなければならない、人のものに手を出してはいけないということを学んできました。自分のものと他人のものをきちんと区別すること、もちろんそれは大切なことです。しかし人生はそれだけではありません。もともとわたしたちはすべてのものを自分の力で得たわけではなく、赤ん坊のときのことを考えれば、誰でもまず最初に一方的に多くのものを与えられてきたのです。そこに感謝と分かち合い(sharing)の原点があります。そんなことを考えると、日本語で食事のたびに言う「いただきます」という言葉は、実に深い祈りだと言えるかもしれません。

 地域社会であれ教会であれ、コミュニティー(共同体)とは単なる個人の集合体ではありません。皆に共通の宝があり、その宝の恩恵に共にあずかるのがコミュニティーなのです。

 

  (5) 「群集を解散させてください」(15)という弟子たちの考えは常識的な判断です。自分たちの力でこの人々を養うのは絶対に無理だと知っているのでこう言うのです。しかしイエスは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」(16)と言われます。イエスは弟子たちにその力があると考えているからこう言うのではなく、神とのつながりの力に、人と人とのつながりの力に信頼するからこう言うのです。弟子たちは結局、イエスを手伝って群集にパンを配ることになりました。

これはわたしたち自身の姿でもあるのでしょう。わたしたちが自分の力でできることも限られています。しかし、人と人とのつながりから力を得、さらにその中に神の力が働いていると感じるとき、今の自分ができること・すべきことが見えてくる、そんな体験がわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。

Pentecost A

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Pentecost A

聖霊降臨の主日 A  野の百合会
ヨハネによる福音(20:19-23)
あいさつ・招き
皆さん、聖霊降臨の祝日にあたり、私たち一人一人の歩みの上に、また野の百合会の歩みの
上にも、神の霊が注がれますように、特に賢明と知恵の霊(賜物)が送られますように、今
日のミサを捧げることといたしましょう。

インドのタイガーという動物は、絶滅に瀕していることはご存知ですか。そのために保護区域を作ってタイガーの住み易い環境、繁殖し易い環境を整えています。そして、管理人は危ないジャングルに住んでいるタイガーをこの保護区域の中に写すわけです。どうやってそうするかというと、ドキュメンタリー映画で見たことがあります。管理人は睡眠薬の入った弾(たま)をライフル(銃)に入れてタイガーを撃つわけです。映画を見ている私たちからすれば、それは明らかにタイガーのためになされている、タイガーという動物類を救うためになさられているとわかります。けれども、考えて見ましょう。タイガーの立場に立って見ま
しょう。タイガーの観点からみたらどうでしょうか。銃を持った人間は自分のためにやっていると思えるでしょうか。銃で撃つ弾に睡眠薬が入ってるというようなことはわかるでしょうか。前もってタイガーに分かるように説明してあげるということはできないですね。タイガーにとっては人間というのは餌食か敵か、それ以外はなにもない。タイガーにしてみれば、自分を救おうとする人間と、自分を撃って殺そうとする人間は何の変わりもない。タイガーの世界と人間の世界の間にそれだけ超えがたい開きがある。人間と神様もそうです。神様は人間を救おうとしているが、人間がそれがわからない。人間の世界と神様の世界は、タイガーと人間の世界のように全く通じないこととなっています。猫と犬は5・6千年前から人間の生活に慣れて、そのよさが分かったというか、人間と一緒に住む方が楽だし、安全ですね。いわゆる人間のペットになったわけです。2千年前から、神様の世界、神様の生活、生き方に親しむ道が開かれました。それが、イエス・キリストという方です。その道は聖書に書かれています。聖書をよむと、私たちはいわゆる神様のペットになれるようになりました。
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人間が犬に「お座り」を教えますね。皆さん、小さいときに、何もしゃべれないときにお母さんから、お父さんからいろいろ、食べ方、トイレなど、教えてもらいましたね。親の「霊」をもらって大きくなりましたね。神様も私たちに「お座り」を教えようとしています。それだけではなく、投げたボールを追いかけて持ってくるように教えています。神様は私たちといろいろな遊びをしたい。
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聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に
、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。やはり、私たちはまだタイガーの部分が
結構残っているからね。 現代社会は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。聖書という書物は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし私は、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれる書物、それがみことば、聖書であります。私たちは、そうした思いで、この聖書に取り組んでいただきたい、そのようにしてご自分の信仰を深めていただきたいという思いが生じれば、それは聖霊の賜物であると言えると思います。聖書をもっていて、宝の持ち腐れをしているクリスチャンも結構多いと思います。
教会に行きますと、そこで私たちは罪の赦し(の秘跡)、ご聖体の秘跡を受けて、聖霊・神様がいつも共にいるようになる。それは不都合だとか、窮屈だとか、自由が奪われる。そんなふうに感じる人がいるかもしれません。しかし神様は、決して拘束し、見張り、罰したりしません。私のことをすべて知り尽くした上で、それでも愛してくださろうとして下さる神です。 幼い子供は親が自分を知り尽くしているからと言って、やりづらい、堅苦しいと思うでしょうか。かえって遠慮なく甘えて安心するのではないでしょうか。知られていることは安心でもあります。 人間は、本当は自分のことすべて知ってほしいと願っているのです。外見・表面上の自分だけでなく、隠れた自分、他人に出せない自分、自分の弱さも、寂しさも、むなしさも、罪もすべてひっくるめて分かってくれる方を待ち望んでいるのです。しかもそれらすべてを分
かった上で、すべてそのまま、ありのままに受け止め、それでも良いと言って次の一歩、成長につなげてくださる方を求めているのです。神様こそ、そのような方です。 だからこそ、いつも私を大切に、時にハラハラしながらも見守り、たえず回心の助けの手を差し伸べようとしてくださる神様・聖霊の働き。それに答えて、私たちは自分自身を、また同じように聖霊の宿っている他人を大切にする必要があるのです。こうしてイエス様の生き方を、生活の中でいつも表していくのがキリスト者の使命です。

参考ブリージ・マッケナ「祈り 恵みの泉」(聖母の騎士社1995)

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2011年6月12日 聖霊降臨の主日 A年   (赤)

一同は聖霊に満たされ……
(使徒言行録2・4より)

聖霊降臨
挿絵
ケルンで作られた朗読福音書 1250年頃


ケルンにあるベネディクト会修道院教会であるザンクト・マルティン教会で作られた朗読福音書である。時代はすでにゴシック美術の時代に入っており、この時期の写本画にも、10-11世紀の写本芸術の伝統をくみながら、人物の描き方に「より人間的な」関心が反映されてくる。この絵においても、弟子たちの表情が豊かになってきているように感じられよう。
12世紀頃までの写本画に比較的多く見られる聖霊降臨の図には、使徒たちの共同体を描く上で大きく分けて、二つのタイプがある。①マリアが弟子たちの中心にいる図(参照図:イギリス、聖オールバン修道院の詩編書挿絵)と、②使徒たちだけの集団を描くもの、その際、②-aペトロが弟子たちの中心にいるものと、②-bペトロとパウロの二人を中心に描くものがある。使徒言行録によれば、十二使徒のうち、イスカリオテのユダが死に、かわりにマティアが選ばれたことで再び十二人になったので、多くの図はきっちりと十二人を描いている。ただ、そこにパウロを描くというのは聖書の記述には合わず、むしろ、後の教会のペトロとパウロに対する崇敬が反映されたものと考えなくてはならない。
表紙絵の写本画も聖霊を受ける十二人の使徒を描いている。顔が重なっていて、後ろのほうには頭髪が部分的にしか見えない者もいるが、このような奥行きを感じさせる描き方も近代的感覚と言えようか。
ともかく、中央にはペトロが描かれている。短く白い頭髪と短めの髭は彼の特徴である。ペトロは使徒の頭としての威厳をもち、祝福のしぐさをしている。すでに教皇としての姿が写し出されていると言える。興味深いのは向かって左にいる髭のない若々しい青年の使徒である。これは、ヨハネ福音書に基づく最後の晩餐の図で、イエスに寄り掛かっていた「イエスの愛しておられた者」 (13・23) と呼ばれた弟子であろう(一般にヨハネとされる)。彼は十字架のイエスの脇にマリアとともに立っていた弟子(ヨハネ19・25-27 参照) としてよく描かれる。もう一人、ペトロの向かって右側にいるのは、禿げ上がった頭が特徴のパウロと思われる。彼も前列に全身像で描かれている点は、ペトロとパウロを使徒団の中心に描く聖霊降臨図の一つの系譜に連なっているのだろう。ただ、ペトロを中心にパウロとヨハネを両側に配する点は、この絵の一つの独自な特徴である。使徒言行録2章1-11節の叙述を超えて、その後の宣教の中で目ざましい活躍をした使徒として、ペトロ(聖霊降臨後の最初の宣教を参照。2・14以下)、パウロ(使徒言行録9章以下、パウロの手紙を参照)、ヨハネ(伝統的に第四福音書とヨハネの手紙の著者とされる)が強調されたのではないだろうか。ちなみに、この三人が抱えている白い書き文字の部分には、「聖霊が炎のような舌となって現れた」という意味のラテン語のことばが記されている。
我々としては、この使徒たちの居並ぶ光景の両脇に、21世紀に至るまでの無数の宣教者たちの姿を想像していくべきであろう。背景に描かれている建物が象徴するのは人の住む世界全体である。聖霊降臨の主日の典礼色にもなっているが、この図を金色(神の栄光)とともに満たす赤の色にも注目したい。炎にたとえられた聖霊の赤ではあるが、同時に、キリストの血、殉教の血にもつながる宣教の精神をも感じさせるのである。


詩編書挿絵(イギリス、聖オールバン修道院)

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四旬節4主日A

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四旬節4主日A

四旬節4主日A
【ヨハ9:1,6-9,13-17,34-38生まれつきの盲人をいやす】

生まれながら目の不自由な人とイエスとの出会いは、ドラマチックな展開で紹介されいます。
まず、物語は生まれながら目の不自由な人がイエスの力によっていやされることからはじまり、イエスの力を正しく評価できないユダヤ人が、イエスを陥れようとする試みに発展します。
いやされた男は、ユダヤ人と真っ向こうから対立し、確信にみちて一歩も退かず、軽蔑されてもゆるがないで、イエスをメシアとして信仰宣言します。この物語の結びとして最後にイエスはこのように言われました。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
この結びの言葉にあるように、このエピソードには、まことの光がなんであるかというテーマが隠されています。見えていると思う人はたしかに光に恵まれていますが、それがまことの光であるかどうかという問題が、提起されています。福音書には、このエピソード以外にも、イエスと目の不自由な人とのいくつかの出会いが報告されています。どれをとっても、こうした人々とイエスとの出会いには、健康な人々との出会いにはみられない、はりつめた火花を散らすような真剣さがあります。必死になってイエスさまに訴えかけていく迫力がみられます。
なぜでしょうか。なぜ、目の不自由な人、病んだ人、社会に取り残された人々の方が、健康で、すべてに恵まれた人々よりも、真剣にイエスを求めていったのでしょうか。
そのなぞを、イエスは今日の福音書のエピソードを通して示そうとされたのです。つまり目の不自由な人たちには、健康な目に恵まれた人々にはなかなか見えない世界が見えていたということなのです。
確かに、目が不自由であるということは重い苦しみです。人生に大変大きな負担を背負うことになります。
こうした人びとは、自分が今おかれている世界のようすがわかりませんから、その心はたえず不安におびやかされています。また、どこに向けば安全であるか定かではありませんから、確かな歩みを運ぶことはできません。一歩踏みまちがえれば、自分の身を危険にさらすことにつながりますから、つねに神経をはりつめて、緊張し、不安をもったままやみのなかにおかれていることになります。従ってまた、健康な人のようにのびのびと自由に生活を楽しみ、目標めがけてしっかりとすすんでいくことができません。生命のはつらつとした躍進への道はとざされています。
これは、健康な目に恵まれなかったということからくるどうしようもない現実であるとしても、この現実を通して、こうした人びとは、人間の存在のもろさ、限界をしっかりとみえているのです。健康な人が容易に気づかない人間の弱さ悲しさ、救いに渇いている現実に、直接にふれてしまっているのです。
従ってこうした人びとには、光があるのです。自分の有限性(限界)をみつめる光があるのです。それこそ、まことの光がであるとイエスさまはいうのです。まことの光のなかで自分の弱さ、限界を見、真の生命に飢えているのです。「恵みの力は弱さの中に全うされる」(2コリ12,9)からです。
ところが逆に、見えていると思うひとは、つい、自分の力を過信して、自分の真の姿をみつめることができにくいので、自分の真実の弱さ、限界に直面しないまま、日々の生活をおくっている場合のうほうが多いのです。
「見える」と思っていても、もっとも大切な現実に気づいていませんから、真理の上に土台をおいた人生にとはいえません。それこそもっとも深いやみの中にいることになります。

それはまさに、「自分は健康だ」と思っている人が医者に行かないのと同じです。どんなに自分の体の中で病気が進んでいても、気がつかないで、「自分は健康だ」と思っている限り、医者の所に行きません。同じように、「自分は見える」と思っている人は、イエスさまの所に行かないのです。
すなわち、「自分は罪人ではない」と思う人は、主イエス・キリストを必要と思わないのです。だから「罪が残る」のです。しかし自分が見えない、そして罪人であるということに気がついた時、イエスのもとに向かうのです。イエスさまの十字架のもとに向かうのです。そして赦しをいただくのです。

私たちは、物事を客観的・公平に判断しているつもりでも、実は「先入観」や「思いこみ」によって、大きく左右されているということがよくあります。
ある新聞によれば、過去三〇年間で、米国の一流オーケストラの女性団員の数は、五倍にもなったそうです。その理由は、オーディションの時に、演奏者と審査員の間にスクリーンを置いて、演奏者が誰であるのかを分からないようにしたことにあるそうです。目から入ってくる情報が遮断された結果、純粋に演奏だけで音楽家の実力を判定するようになったのです。つまりそれまでは演奏者が見えるので、同じ演奏の技量があっても、審査員は無意識のうちに男性を選んでいたことになります。

イエスに出会うために、真実の自分の姿をみつめる目を養うべきなのです。自分の無と弱さに近づくこと、自分のやみに目覚めることこそ、真の光、真の生命に近づくことことになるのです。

主イエスは、私たちが本当に見えるべき事を見えるようにして下さる方です。安息日の祝福を与えて下さる方です。元盲人の人が、「彼(イエス)が私の目の上に泥を塗った。そして私が洗った。そして私は見えた」と単純に証ししているような、そういう御業を、私たちにも同じようになさって下さったし、これからもなさって下さるのです。どうか見えるべき事が見えるように、主が導いてくださいますように。

神は肉眼の目で見ることはできません。イエスさまも、天国に行くまでは目でみることはできません。しかし神さまは、信仰によって見ることができます。
聖霊なる神さま。それは目で見ることはできません。しかし、風は目で見ることができなくても、風が吹いた結果を見ることはできます。風が吹いてカーテンが揺れるのを見て、風があることが分かるように、神さまもそのように見ることができるのです。そのように、神の恵みを見る喜び。‥‥神さまの世界が見えてきた、というのはそういうことです。
もちろん、今だって見えなくなることがあります。「自分は見える」「自分だけは見える」と、傲慢になった時に、何もかも見えなくなります。それゆえ、「罪人の私をあわれんでください」とへりくだりながら、主を礼拝する毎日を送りたいと思います。神の恵みを見て歩むためです。


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四旬節3主日A 【ヨハ4:5-42サマリアの女】

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四旬節3主日A 【ヨハ4:5-42サマリアの女】

四旬節3主日A
【ヨハ4:5-42サマリアの女】


サマリアの女

きょうの聖書で、私たちはキリストによって全く新しく変えられた人を発見します。
サマリアの女の所を続けて読んできました。この人は名前も記されていない、全く無名の人です。この人は「ワケあり」の女性でした。真昼に町の外の遠い井戸まで水を汲みに来ている。人目を避けているのです。町の人となるべく会いたくない様子でした。それは、イエスさまがあらかじめご存知であったように、この人には人々の噂のネタにされるような過去と現実があったのです。‥‥過去に5人の夫と結婚し、別れている。普通ではありません。そして今は、夫ではない男性と連れ添っている。このような過去と現実の中にいるこの女性。
ここまで聞いただけで、聖書を読んでいる私たちでさえも、「一体どうして今までに5回も違う男の人と結婚し、そして離縁されているのだろう? 何かこの女性に問題があったのだろうか?」と興味を持ちます。ましてや二千年前のことです。人々は陰口をたたき、中傷し、ゴシップのネタとして噂していたことでしょう。
この女性が朝晩の井戸の水汲みの時間に、町の中にある井戸に行くことを想像してみましょう。この女性が水瓶(みずがめ)をもって井戸に向かう。井戸では他の女たちが賑やかに井戸端会議をしながら水を汲んでいる。ところがこの女性が近づくと、その会話がピタッと止む。そして今度はヒソヒソと、この女性を横目で見ながらささやき始める。‥‥そんなところへ毎日毎日水を汲みに行くというのは、大変なストレスを感じることでしょう。
例えばそういう事情であったかも知れない。だからこの人は、町の女たちが水を汲みに来ない町の外の井戸に、水を汲みに来たのです。人目を避けて生きているのです。

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変えられた人

28節~29節をご覧下さい。水瓶をその場に置いたままにして町に戻り、町の人々に叫んで回っているのです。人目を避けていた人が、町の中で皆に叫んで回っているのです。‥‥「さあ、見に来て下さい。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この人がメシアかも知れません」と。
すると人々は、その女の言葉を聞いて、続々と町から出てきたのです。
まず驚くのは、この女性が「私が行ったことをすべて言い当てた人がいます」と言った時、町の人々は、その言葉だけでそれが何を意味するのかが分かったということです。‥‥つまり町の人は皆、この女性がどんな女性で、5人の男性と結婚しては離縁され、そして今また本当の夫ではない人と連れ添っている。それが愛人なのか、内縁の夫であるかは知りませんが、とにかくそういうことを町の人が皆知っていたのです。この女性が「私が行ったことをすべて言い当てた」と言っただけで、すべて分かったんです。それぐらい、この女性が有名だったのです。悪い方で。
第2に驚くのは、この女性がその自分の忌まわしい過去と現実をイエスさまが「言い当てた」と、触れて回っていることです。‥‥今までは、その忌まわしい過去と現実のために、堂々と表通りを歩けなかったのです。ゴシップのネタにされていて、恥ずかしいし、皆が避けるので、コソコソと生きていなければならなかったのです。
それがどうでしょう! さっきまでコソコソと真昼に町の外の井戸まで水を汲みにやって来た女性が、今や堂々と町の中で、多くの人々と顔を合わせて、「さあ、見に来て下さい」と、喜んで言って回っているのです!

キリストとの出会いが

そして驚きの第3は、今まで誰もまともに相手にしなかったようなこの女性の言うことを聞いて、人々が町から出てきて女性の言うとおりイエスさまの所にやって来たという事実です。町の人は今まで、この女性のことを下世話な噂の対象にしていました。見下していました。まともに相手にしませんでした。ところが、この女性の言葉を聞いて、皆町から出てきたのです。39節を見ると、その町の人々は、この女性が「イエスさまが私の行ったことをすべて言い当てました」と証言した言葉によってイエスさまを信じた、と書かれています。知らないはずの女の過去と現在をイエスさまがすべて知っておられ言い当てた、ということに驚いたから信じた、とも言えるでしょう。しかしそれだけでは信じないでしょう。なぜなら、この女性のことを町の皆は見下していたからです。
それでは一体何故、町の人々は女の言うことを聞いて、イエスさまを信じ、町から出てきたのでしょうか?‥‥それは、この女性の変わりように驚いたのです。町の人がこの女性の言うことに耳を傾けて、町から出てイエスさまの所にやって来たのは、この女性のあまりの変わりように驚いたに違いないのです。
今まで、暗く、下を向いて誰にも顔を合わせないようにしていた女性が、恐らくは、明るく輝く表情で、みんなの所に来て嬉しそうに叫んで回っている‥‥。この女性のそのような大きな変化に、町の人々は驚かされ、興味を持ち、この女性の言葉に耳を傾けたのではなかったかと思います。
ものすごい変わりようです。一体何がそんなに彼女を変えたのか?
その理由はただ一つ、イエス・キリストに出会った、ということです。キリストとの出会いが、このように人を変えたのです。

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人はどうやって変わることができるか          新年の抱負

人間はどうしたら変わることができるのでしょうか?今日の聖書は、それはキリストとの出会いによるのであることを語っています。
人は誰でも、大なり小なり「変わりたい」と思うところがあるのではないでしょうか。中学生高校生の頃は「あんなほがらかな、カッコいい、快活な先輩のような人になりたい」と思ったりするものです。大人になっても、前向きな人になりたい、いつも明るく積極的な人になりたい‥‥などと思ったりします。
あるいはこの女性のようにもっと深刻で、「もう、人目を気にしてこんな時刻にこんな遠い井戸まで水を汲みに来なくてもよい生き方をしたい」という人もいることでしょう。しかしいくら自分が変わろうと思っても、このサマリアの女のように、世間が冷たい目で見ていて、世間の人々が自分に対する見方を変えてくれないのでどうすることもできない、という人もいることでしょう。そうすると、「できることなら、生まれ変わりたい。生まれ変わって人生をやり直したい」と思うようになる。しかしそれも叶わぬことです。それで仕方なく、あきらめて、下を向いて歩くしかない。
いろいろな有名な人の講演会に行ってみたりもします。そして聞いた時は「良いお話だった」と思ったりする。そして今度は自分が変わることができると思う。しかし、間もなくすると、何も変わらない自分があるのを発見する。そういうことの繰り返しが多く、やがてあきらめてしまう。‥‥変われない自分があるのです。
先週、体の自由がきかなくなる方と初めてお会いし、お話を聞く機会がありました。彼が言うには、何が嫌かというと、「頑張れ」と言われることが嫌だということでした。「頑張れ、と言われても、もう頑張っているんや!」と。「頑張ってるのに、どうしようもないんや」と。

キリストによって変えられる

人間、頑張ってもどうしようもないことはあるものです。このサマリアの女もそうでした。しかしそれが、イエス様と出会うことによって、変えられたのです。サマリアの女が出会ったイエスさまは、自分の失敗と挫折の過去をご存知の上で、そして今の厳しい立場もご存知の上で受け入れてくださる。しかもその方が、神から来られた救い主キリストであるという。そのキリストと出会うことによって、人は変わることができるのです


御言葉の中で出会うキリスト

26節で、女性の問いに答える形で、イエスさまは自らご自分がキリストであることを言っておられます。イエスさまが自らキリストであることをはっきり言われている個所というのは、珍しいことです。
女性は、最初、自分が会話をしている方がキリストであるとは知りませんでした。
私たちは礼拝し、祈り、聖書を読みます。そのような中でキリストと出会っているのです。「あなたと話しをしているこの私である」と、イエスさまがそこにおられるということに、目を開いてくださいます。
すでにキリスト者であるという方も、「昔イエスさまに出会った」というだけでは昔話になってしまいます。またもとの、力のない、不平不満で一杯の自分に戻ってしまいます。いつも「私である」と言って近づき、語りかけて下さるキリストに出会うことが大切です。そのキリストによって、また新しく変えられるのです。日々聖書を読み、日曜日には礼拝して主と出会うことを期待するのです。



このサマリアの女の心の奥には、おそらくあきらめとさびしさがただよっていたことでしょう。男たちとの出会いによって、何度も何度も傷つけられ、捨てられ、捨てられては男との出会いを求めていくどうしようもなさに、おそらく彼女自身が苦しんでいたでしょう。
イエスは彼女をおいつめ、彼女の心の奥の不毛なあきらめきった心をゆさぶり、その心からいのちの炎を掘りおこします。彼女はイエスの言葉によって、裸にされます。不毛で冷えきった心をあばかれてしまいます。
しかし、それは、彼女にとって、恵みでした。イエスは、彼女の傷ついて冷えきった心の奥底に、生命への渇きがあることを見抜きます。はげしい生命の燃焼(ねんしょう)に飢えている心がうずいていることを知っていました。
イエスは、コチコチになった心から、つきることのない生ける水をふきださせるのです。
女はイエスに向かって叫びます。「主よ、わたしが渇くことがないように、ここに水くみに来なくてもいいように、永遠の水をください」と。
彼女は、心の奥底を、イエスの前にひらきます。イエスは、固く冷えていながらも生命に飢え渇く心にふれます。
こうして、イエスとの出会いは、彼女に真の生命の燃焼を与えます。それは、うそと偽りのまじった、生命を疲れさせていく出会いとは違います。それは、真理と愛にみちた出会い、生命、輝きを与える永遠の愛の出会いです。
私たちも、自分の人生が、ぼろぼろになった生命の枯れたものとならないよう、サマリアの女と同じように、自分の心の奥底をイエスの前にひらいて、燃え上がるような出会いを求めてみたいものです。





2 per annum A

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2 per annum A

年間第2主日 Α
【ヨハ1:29-34 洗者ヨハネのあかし】

何かの集まりで、「自分を動物にたとえたら、あなたはどんな動物か。」という課題が出たことがありました。ある人は「私は何事もゆっくりだから、私はウシかな。」と言い、ある人は「私はよく気が変わるから、ネコだ。」と言っていました。私は、以前住んでいた家では自分で芝を刈っていました。上手にできませんでしたし、要領が悪いので、ガラージと庭とを行き来しながらやっていました。それで、それを見ていた隣の人から「あなたはネズミみたいだね。」と言われたことがあります。私はいろんなものを貯め込む癖がありますので、動物にたとえれば、ネズミかもしれないと、そのとき思いました。
ウォルト・デズニーがミッキー・マウスを生み出してくれたおかげでネズミに対するイメージは少しはよくなりましたが、聖書では、人間を動物にたとえる時には、あまり良いイメージはありません。
では、イエスご自身は聖書ではどんな動物にたとえられているのでしょうか。
洗礼者ヨハネとイエスの出会いを伝えるきょうの箇所も、「イエスとはどういう方か」ということをわたしたちに教え、そのイエスとの出会いにわたしたちを招いていると受け取ったらよいでしょう。
「世の罪を取り除く神の小羊」はミサの中でお馴染みの言葉ですが、分かりやすい言葉とは言えないでしょう。


見よ!
洗礼者ヨハネは、イエスさまを指して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と。  私たちは、何を見て歩んでいるでしょうか。  山登りをする人は、目の前の足もとを見て、足をかけても大丈夫な場所かどうかをしっかりと見て確認して、一歩一歩登っていきます。その時、確かに目の前の足もとを見ているのですが、心の中では頂上を見て登っています。  今、受験シーズンを迎えようとしていますが、受験生は毎日机に向かって問題集を解いたり、参考書を読んだりしています。確かに顔についている二つの目は、そのような問題集や参考書を見ているのですが、心の中では目前に迫ってきている入学試験を見ているのです。
目指しているのです。そのために、「今」、勉強をしているのです。  同じように、洗礼者ヨハネが「見よ」とイエスさまを指して言ったとき、それは単にその時、地上を歩いているイエスさまを指さして「見てご覧、あれがイエスさまだよ」と言い、見た人が「ああそうですか」と答えるような意味で「見よ」と言ったのではありません。洗礼者ヨハネが、「見よ」と言った時、それは山登りをする人が、心の中ですでに山頂を見ようとしているように、そして受験生が入学試験を目標にしているように、まさにイエスさまを見て歩め、イエスさまを見ながら歩め、イエスさまに向かって歩めと、私たちの進むべき道を示しているのです。  すなわち、私たち人間がイエスさまを見つつ歩むものであることを明らかにしているのです。

世の罪を取り除く神の小羊

続けてヨハネは言いました。「世の罪を取り除く神の小羊」と。「世の罪」とは、この世の人間の罪ということです。つまり私たちの罪ということです。それをそのイエスさまが「取り除く」という。  この「取り除く」というギリシャ語(ハイロー)には、「取り除く」の他に、「かつぐ」とか「負う」という意味があります。つまりまとめて言えば、このイエスさまが、この世の私たち人間の罪を負って下さり、私たちから取り除いて下さる方だ、ということです。  そして「小羊」です。なぜヨハネは、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言ったのか?  このことは旧約聖書を読まないと分かりません。旧約聖書では、つまり当時のユダヤ人も、神さまを礼拝する時は、エルサレムの神殿に動物のいけにえをささげて神さまを礼拝しました。その理由はおもに、そのいけにえにする動物に、自分たちの罪を代わりに負ってもらうということです。  特に「小羊」と言う場合は、出エジプトの時の過越の時の小羊の血を連想させます。また、私たちの信仰の父であるアブラハムが、我が子イサクをささげるように、神さまから命じられたときのことを思い出します。創世記22章です。 ‥‥ある日アブラハムは、神さまから、自分の愛する独り子イサクをささげるように命じられました。イサクはアブラハム夫妻が年を取ってからようやく与えられた大切な子供です。
それを祭壇で焼いて、いけにえとして献げよと言う。ずいぶんむごいことを神さまもおっしゃるものです。しかしアブラハムは、イサクを連れて、神さまの示す山に向かいました。山を登っていく途中に、イサクがお父さんであるアブラハムに尋ねました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか?」  この問いを聞いたとき、父親であるアブラハムは胸が張り裂けそうに痛んだことでしょう。アブラハムは答えました。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」  そして山を登り、神が命じられた場所に着きましたが、何事も起こらない。そこでアブラハムは、石で祭壇を造り、薪を並べ、いよいよ息子のイサクを縛って祭壇の薪の上に乗せました。そして刀を持ってイサクを斬り殺そうとした時に、天から神の御使いがアブラハムを呼びました。「その子に手を下すな」と。そして、その時、近くの木の茂みに、一匹の小羊を用意してくださったのです。そしてアブラハムは、イサクをひもとき、代わりに神の用意してくださった小羊を祭壇にささげました。‥‥イサクの代わりに、小羊がいけにえとして献げられました。  イエスさまはそのようであるということです。本当は、私たちが罪のために死ななければならない。しかしその私たちに代わって、神の御子イエスさまがいけにえとなって下さるという。神自らが備えてくださった小羊。それが十字架のイエスさまです。  洗礼者ヨハネは、イエスさまを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。すなわちそれは、「この方が、イエスさまが、私たちの罪を取り除いて負って下さる。この方によって私たちは救われる。この方を見よ、この方を見て歩め!」‥‥と語っているのです。

イエスの洗礼

父なる神と共にこの世を造られた「言」なる方イエスさま。そのイエスさまが、人となられて、あのベツレヘムの馬小屋の中にお生まれになったということを、クリスマスの時に学びました。それは神の御子が、わたしたちと全く同じ人間となられたということでした。この罪の渦巻く世の中で生き、生きるために、食べるために働き、苦労をし、そしてやがて死んでいく私たち人間と全く同じになられたということでした。  そのイエスさまが、ヨハネから洗礼を受けられた。洗礼というのは、罪を洗い清めるしるしです。だからそれは、罪汚れがあるからそれを取り除くために洗礼を受けるのであって、
罪や汚れのない方は、洗礼を受ける必要がないはずです。罪や汚れが自分の体にくっついたままでは、清い神さまの前に出て、祈り願いをすることはできない。  だとしたら、神さまご自身は、洗礼を受ける必要はないはずです。イエスさまが三位一体の神であり、神の御子であるならば、洗礼を受ける必要はない。しかしにもかかわらず、イエスさまは洗礼を受けられました。  それはまさに、私たち罪人である人間と全く同じになられたということです。父なる神と共に天にとどまっていて良い方が、この世に来られた。しかも人となって。貧しい庶民のマリアとヨセフを両親として、人間としてお生まれになった。居場所が無くて、ベツレヘムの家畜小屋の中にお生まれになった。いと高き神の御子であり、世界の創造者なる方がです。
そうする必要がなかったにもかかわらず。理由はただ一つ、私たちを愛しておられたからです。滅びるのを見るに忍びなかったのです。  そして、今、洗礼を受ける必要もないのに、洗礼を受けられた。  私たちはなぜ洗礼を受ける必要があるのでしょうか?‥‥いろいろな理由を挙げることが
できます。しかし、突き詰めて言えば、神の御子イエスさまが洗礼を受けられたからだと言うことができます。  洗礼を受けられる必要のない方が、へりくだって洗礼を受けられたのです。そして人々の罪を実際に負うために、十字架への道を歩み出されたのです。私たちもへりくだって洗礼を受けたのです。

聖霊による洗礼

イエスさまの十字架の苦しみ。それは、罪人である私たちを受け入れ、その罪を負われる苦しみです。私たちの最も深いところで、私たちとつながってくださっている苦しみです。  そして、ただ苦しみを共有してくださるというのではない。それだけなら、私たちの気持ちを分かってくださると言うだけで、有り難いことではありますが、解決にはなりません。
私たちの苦しみが、私たちの不幸が、「罪」に原因があるとしたら、その罪を共にしてくださるだけではなく、それを解決してくださる。取り去ってくださる。  それが「聖霊によって洗礼を授ける」ということです。  ヨハネの施す洗礼は、罪を洗い清めるしるしに過ぎません。それは人間の外部から体にくっついた汚れを洗い流すことはできても、人間の心の中に住みついている罪を洗い流すこと
はできません。自分でもどうすることもできないのです。  しかし聖霊なる神さまだけは、そこに手を届かせることのできる方です。このイエスさまが授ける洗礼は、私たちの中の罪を清めてくださる。そして神さまのもとに連れて行ってくださる。  ヨハネはイエスさまを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。そしてそのイエスさまを証しするために、自分は洗礼を授けていると言いました。  「見よ」!  この2008年。私たちは何を見て歩むべきでしょうか。何が待ち受けているかも分かりません。多くの課題や問題が待ち受けているかも知れません。あるいは、今なんの希望も持てないという方がおられるかも知れません。  しかしヨハネは、こちらに来られるイエスさまを指して、「見よ」と言いました。わたしたちと全く同じ人間となられ、罪人の一人となられたイエスさまは、私たちの毎日の生活の中に来てくださいます。仕事の中にもおられます。歩いている時もおられます。家事労働をしている時にもおられます。眠っている時もおられます。このイエスさまを見て、見出して歩むように聖書は私たちを招いています。  イエスを見つめて歩む。つらいことがあっても、悲しいことがあってもイエスを見つめて歩む。そして、暗闇の世界に光が差し込み、神の恵みを体験する。そのことを証しする年であるように願います。
(2008年1月6日礼拝)
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年間第二主日 A
(ヨハネ1・29-34)
「神の小羊-人類を救う偉大な方」

表面的に見れば、私たち人間は、砂粒のような小さな小さな存在です。満員電車の中で、
もみくちゃにされ、職場では組織の一員となって働く姿からは、一人ひとりのかけがえのな
い価値は伝わってまいりません。会社などでは、だれかがいなくなれば、別のだれかがその
役割を引き継いでしまっています。人間の尊厳と神秘を無視してしまっています。それが現
代社会の恐ろしさです。 しかし、信仰の光で見れば、どんな 〈生まれ〉の人間であれ、
すべての人間は、かけがえのない存在として神から生命を与えられ、その人にしかできない
固有の役割を与えられて生かされています。一人ひとりの人生の絶対的な意義を理解するた
めには、人間の常識とは異なる、神の光に照らされた量りが必要です。 きょうの福音書の洗礼者ヨハネの言葉も、そのような視点からとらえるべきことのように思えます。 ヨハネは、自分の方に近づいてこられるイエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊を」と叫びます。しかし、この言葉を聞いた周りの者はびっくりしたに違いありません。イエスは、まだ、そのとき、説教や奇跡など、公の活動は何一つしておりません。全く無名の人です。人々の目にはナザレの村の平凡な男としてしか映っていなかったはずです。
しかし、ヨハネは、何の変哲もない人間としての生活の奥に、神からゆだねられた神秘が現存していることを指摘したのです。 「神の小羊」という言葉は、イザヤ書五十三章の、人々の救いのために屠所に引きずられていく小羊を思い起こさせるものです。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。…屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。事実、イエスは、いけにえの小羊として、十字架の上で流された血によって、全世界の人々を救っていくのです(ヨハネ19・36)。 家柄、学歴、職歴、家族や職場での目に見える貢献度という常識的な評価基準にとどまる限り、十字架の死で終わるイエスの人生は、嫌悪すべきことであり、否定的にしか受け取れないでしょう。しかし、神の光の中で見るならば、人類を救うという偉大な力に包まれています。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」が新しい評価基準です。 
「見よ、神の小羊を」という洗礼者ヨハネの呼び掛けは、人となられたイエスの神秘だけではなく、神の手の中にある私たち一人ひとりの人生にも、深い神秘と限りない意味があることを示す、呼び掛けでもあったのです。(みことばの調べ)


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昆虫学者として有名なファーブルが、お弟子さんたちと一緒に、馬車の行き交う目抜き通りを歩いていました。するとファーブルは「今、コオロギが鳴いた」と言って、立ち止まり、コオロギを探し始めたそうです。しかし、お弟子さんたちにコオロギの鳴き声は聞こえませんでした。そもそもこんな賑やかなところで、コオロギが鳴いたとして、それが耳にとまるかどうか不思議だったのです。「先生、私たちには何も聞こえませんでした」とお弟子さんたちが言うと、ファーブルはやおらポケットからコインを取り出し、それを道端に落としました。チャリンと小さな音を立ててコインが道端に転がると、道行く人々が皆、音のする方を振り向きました。ファーブルはコインを拾い上げながら、「心に関心のあることは、どんな小さな音でも聞き逃さないのだ」と、弟子たちに語ったというのです。
これが実話なのか、それとも後代の人によって作り上げられたファーブル伝説なのか、その辺は定かではありません。けれども、コオロギの音は聞き逃しても、コインの音は聞き逃さないという人間の心理はよく分かる気がするのです。

神様は、日々、私たちにいろいろな形で、いろいろな方法で語りかけてくださっています。特に、神様はイエス・キリストを通して、《大いなる救い》(3節)を語りかけてくださった。その神様の語りかけをしっかりと聞き、心に受け止めつつ生きること、それが信仰生活だというお話しをしたのです。そうしますと、私たちに大切なことは、神様からの音ずれを、どんな小さなことでも聞き逃さない良い耳をもつということだと思うのです。良い耳というのは、ファーブルの話でも分かりますように、私たちの心の関心がどこに向かっているかということによって作られます。私たちの心が、いつも神様のことを考え、求めているならば、どんな小さな神様の語りかけをも聞き逃さない良い耳を持つことができるでありましょう。しかし、私たちの心が世の富、誉れ、力に関心を持ち、常にそれを追い求めているならば、いくら神様が語りかけてくださっても、それは自分の思いやこの世の喧噪にかき消されてしまって、何一つ聞くことができない耳になってしまうのです。神様からの音ずれを聞くことができる良い耳を持つこと、それが大事なのです。




4 advent A

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4 advent A


待降節第4主日A年  野の百合会 (説教時間:約20分)
マタイによる福音書1章18~25節
恐れず迎え入れなさい

I あきらめと仕方なさ

今年一年変革を求めて日本社会は動いたのかもしれません。しかし、現在のところ格段に
良くなったという成果は現れてはいないようです。 そして、わたしたち個人のことを考えてみても、心のどこかで不安や恐れをみんなが抱いているのではないかと考えることがあります。 失業率の上昇にははどめがかからず、円高や株価の安値も伝えられている通りです。わたしが子どもの頃思い描いていた未来は、もっともっと暮らしやすい世の中でした。言い方を変えれば「バラ色の21世紀」が訪れるはずだと思っていました。でも、そうはなっていない現実があります。 何が悪くてそうなっているのか、単純な理由ではないでしょう。が、大人も子どももどこか変化してきているような気がしています。 普段子どもたちに接している方々の話を聞くと、無気力な子どもたちが増えてきたと感じています。 やるべきことをやろうとしない。例えば、いついつまでに宿題をしなければならないのに、提出期限を過ぎても出さない。教師から請求されても、言い訳をしてまだ出さない。やらないで逃れようとするのです。その中には勉強する習慣がない子どももいるようです。「めんどくさい」「だるい」「やりたくない」「何とかなる」。そういう言葉の中に深いあきらめや虚無があるような気がします。子どもたちにとって人生はこれからなのに、素晴らしい
可能性を秘めているはずなのにと思うとすごくもったいないと思います。 先日、何気なくテレビを見ておりました。マイケル・ムーアというアメリカ人のドキュメンタリーの映画監督のインタビュー番組だったのです。その中に「政治家やマスコミが恐怖や不安をあおることで人々をコントロールしやすくなる」という言葉があったのです。 「なるほど」と思わされました。不安や恐れを何度となく伝えられることで、みんながど
こかであきらめムードになってしまっているのかもしれないと思えたのです。大人は悪くならない程度にこのままの生活が何とか続いていけば良い。子どもたちはどうせ努力したって自分の能力はたかが知れている。そんなふうに考えるように操作されて、みんなあきらめとか仕方なさの中に生きざるを得なくなっているのではないかと思わせられました。

II 不安と恐れ

けれども、イエス・キリストが生まれた2000年前のユダヤというところもまた人々が不安や恐れを感じながら生きていたのではなかったかと想像するのです。 第一朗読に「もどかしさ」ということばがありました。これも大変興味深いことばですが、今日は朗読されたマタイによる福音書の物語はイエスの父であるヨセフという人に焦点をあてたものです。マリアという婚約者と間もなく結婚するというある日、まだ結婚前に、マリアの妊娠が発覚するのです。
マリアと婚約中であったヨセフにとって、いいなずけのマリアが子を宿したと知った時、ど
のように思ったことでしょうか。たいへんなショックだったに違いないのです。「聖霊によ
って身ごもっていることが明らかになった」と聖書には書かれていますが、ヨセフからして
みれば、いったいそれが聖霊によって宿ったものだということがどうして分かるはずがあり
ましょうか。「マリアは私という婚約者がいながら、他の男性と関係を持って子を宿したの
だ」と考えるのが当たり前です。  婚約者マリアの妊娠を知ったヨセフはマリアと別れることを決心しました。 しかし離縁したらしたで、今度はほかの問題が起こってきます。それは、ヨセフと別れた
マリアが妊娠していたことが分かると、今度は婚約者を妊娠させたにもかかわらず離縁した
ということで、ヨセフが世間の非難をあびることになるのです。
ヨセフの心の中には不安があったでしょうし、恐れがあったことでしょう。幸せな結婚を
しようとしているのに、どうしてこんなことが起こったのだという怒りもあったことでしょう。

III 恐れを超える希望

ところが、ヨセフが眠っていると、その夢の中に天使が現れたというのです。《ダビデの
子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい》と天使は語ります。 「恐れず」というのです。不安の中にある。恐れを感じている。そんなヨセフに「恐れず」と天使は語るのです。 わたしも含めて人間は不安や恐れを感じているときには、積極的に行動することができません。動けなくなるのです。硬直するとでも言うのでしょうか。そして、恐れているときには、幸せや喜びを感じなくなるのです。 不安や恐怖とは、人間の中で自分を守るために一番敏感にしておかなければならない感覚です。この感覚がないと人間は自分の身に危険が及ぶのを察知し回避することができなくなります。でも、この感覚が働きすぎると、逆に何もしないとか何もできなくなるとかいうことが起こるのです。 犯罪にまきこまれ、被害を受けた人に心ない人が言うことがあります。「どうして抵抗しなかったの?」と。人間の心理を全くわかっていない発言だと憤りを感じることすらあります。人間は本当に恐怖を感じたら、動けなくなるのです。何もできなくなるのです。 ヨセフはとりあえずマリアを石打の刑にするのは嫌だった。だから表ざたにせず《ひそか
に縁を切ろうと決心した》わけです。自分の恐怖を取り除き、マリアから離れることで自分
の生活を取り戻そうとしたわけです。 それに対して、神は天使の言葉を通し《恐れず妻マリアを迎え入れなさい》と語るのです。恐れを超えなさい、動きなさいと語っているのです。恐れを超えたその先にイエスの誕生という喜びがあることを示そうとするのです。 そしてさらに、この出来事は「インマヌエル(神は我々と共におられる)」ということなのだと説明しているのです。 さらに、ヨセフの不安のただ中に、ヨセフが恐れを感じるそのそばに、神は共にいるのだということを示しているのです。
「夢」ならば私たちも見ます。もちろん「正夢」(正夢(まさゆめ)は、夢に見た通りのこ
とが現実になる夢のこと)というのもあるが、全く荒唐無稽(こうとうむけい、でたらめ)
な夢もある。いちいちそういう夢の通りにしていたら、きりがありません。    それこそ夢
物語になってしまいます。子どもが「テレビのタレントになる夢を見た」からと言って、そ
うなるわけでもないのです。 けれども、フロイトを待つまでもなく、人類は昔から夢にイ
ンスピレーションを得てきました。
神はわたしたちにも同じことを語りかけているのではないでしょうか。クリスマスとは喜
びの訪れです。希望の象徴です。一人のいたいけない赤ちゃんがこの世の救い主としてわたし
たちに遣わされる。この世を愛の力によって変えようとする神の意志の表れだと思います。 この世界はあきらめや虚無によって支配されるものではないのです。不安や恐怖が渦巻いて何をやっても無駄だという仕方なさの中にあるのでもないのです。 確かに、わたしたちの中にはあきらめや虚無があります。不安や恐れがあります。それでもなお、わたしたちには希望が与えられるのです。 イエス・キリストはこの世界に希望をもたらすために、一人の赤ちゃんとしてやって来たのです。 クリスマスという出来事はわたしたちを信じ、わたしたちを愛する神が、これまでも今もこれからもわたしたちと共におられるという確かなしるしなのです。



御降誕祭 日中のミサ

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御降誕祭 日中のミサ

御降誕祭 日中のミサ
ヨハネ1・1-18

ことばにはいろいろあります。あたたかい言葉、冷たい言葉、人を傷つける言葉、人を励ます言葉、内容のあることは、うわっつらな言葉。わたしたちの心は、この言葉によってそうとう左右されています。とげ(毒)のある言葉で心は傷つき、冷たい言葉によって、ときには失望したり、はては絶望してしまうこともあります。逆にあたたかい言葉によって、心の安らぎをおぽえ、内容(知恵)のある言葉によって、ひらめきを得たり、大きく飛躍し、羽ばたいていったりすることもできるのです。さて、言葉がわたしたちの希望となり、言葉がわたしたちの人生を照らし、言葉がわたしたちをほんとうにあたためるとはどういうことでしょうか。そうなる言葉の条件はいったいなんでしょうか。たとえば、ある青年が悩んでいるとしましょう。彼は、恩師(信頼できる人)のところにいき、その悩みを打ち明けます。恩師は彼の苦しみを感じ、彼の痛ましい姿を心に受けとり、その痛ましい姿を見て見ぬふりをすることができなくなります。恩師の心はやさしさにみち、この痛ましい姿に共感します。そこからこの青年をなんとかしてあげたい、という思いがわいてきて、そしてそれが助言の言葉となっていきます。当然言葉をかけるまえに、どういうことをどういってあげたらいいのか、この青年の将来のためにどうしたらいいか、考えると思います。そして、自分のいままでの人生経験に照らして、真剣に考え、自分の思いをまとめ、そしてそれを言葉にしていきます。こうしたことばは、この青年の希望となり、励ましとなるわけです。つまり、言葉が、希望になり励ましになり、その人生を照らすものとなるための条件とは、一つは愛であり、そしてもう一つはその人格の深さ、経験の深さ、これだと思います。言葉になるまえに、相手の存在を自分の中で感じとる。そして痛ましく思う。それをほんとうに深いところで、自分の全体で感じとってしまう。そういう相手に対する思いやりがまず第一です。この思いやりのない、相手に対するやさしさのない、相手を痛ましく思うことのない心からでる言葉、それは冷たい言葉になります。相手を傷つける言葉になります。実際に役に立つことのできない言葉になってしまいます。
それでは、こういった面でキリストはどうだったでしょう。キリストは神の愛からでてきたかたです。天のおん父はおんひとり子を与えてくださるほどこの世を愛されたとあります。天のおん父は、わたしたちの痛ましい姿をごらんになり、その痛ましい姿をしっかりと受けとって、見て見ぬふりをすることがおできにならない。そういうところからでてきたキリストの誕生です。キリストにはまず愛があります。キリストの姿の背後にはまずわたしたちに対する限りのない愛があります。思いやりからでる言葉、わたしたちをほんとうに痛ましいと感じることからでてくる言葉、これは、やはりわたしたちの希望になるはずです。キリストは、まさにそういうかただったということです。しかもそれは、たんなる思いつきからでてくる言葉でもありません。人間をほんとうに育てるためになにが必要なのか。人間をほんとうに導くためには、どんな光が必要なのか。人間を罪の病からほんとうに解き放すためには、どのような恵みが必要なのか。じっくりと考え、しっかりと人間をみつめながら、わたしたちのために父なる神様が心をひらいてくださった、それがキリストだというわけです。キリストの中には、わたしたちへの神の愛がこめられています。そしてキリストの中にわたしたちの人生をいやし、照らし、導き、完成しようとする神の思いがすべてこめられているのです。キリストはまさに神の最高の言葉といっていいのです。そしてもう一つ、忘れてはならないことは、言葉はいのちであるということです。言葉にはその人の内面のいのちがすべてこもっているということです。恩師の言葉、その中には恩師のいのち、その人生がすべてあるということなのです。言葉には、恩師の生きてきたいのちそのものがこめられているはずです。そこで、恩師の言葉をすなおに心から受けとれば受けとるほど、恩師の人格が伝わってきます。恩師のいのちが伝わってきます。いのちを伝承することができるわけです。ですから、神の言葉には、神のいのちそのもの、神の内面の生命そのものがこめられていると考えてもまちがいではありません。つまり、キリストはわたしたちに向かって神のいのちを伝えてくれるかたでもあるのです。たんに、わたしたちのための神の愛というだけではない。わたしたちの人生を照らす光というだけではない。神のいのちそのものをわたしたちに伝えてくださる、そういった言葉であるということです。このようなキリスト、神の言葉としてのキリスト、それをわたしたちはしっかりとみつめなおす必要があると思います。キリストの中に神のわたしたちに対する光がある。わたしたちに与えようとする神のいのちそのものが、生きているということです。

JUAN, 1, 14No sera menos un enigma esta hojaque las de Mis libros sagradosni aquellas otras que repitenlas bocas ignorantes,creyendolas de un hombre, no espejososcuros del Espiritu.Yo que soy el Es, el Fue y el Seravuelvo a condescender al lenguaje,que es tiempo sucesivo y emblema.Quien juega con un nino juega con algocercano y misterioso;yo quise jugar con Mis hijos.Estuve entre ellos con asombro y ternura.Por obra de una magianaci curiosamente de un vientre.Vivi hechizado, encarcelado en un cuerpoy en la humildad de un alma.Conoci la memoria,esa moneda que no es nunca la misma.Conoci esperanza y el temor,esos dos rostros del incierto futuro.Conoci la vigilia, el sueno, los suenos,la ignorancia, la carne,los torpes laberintos de la razon,la amistad de los hombres,la misteriosa decocion de los perros.Fui amado, compredido, alabado y pendi de una cruz.Bebi la copa hasta las heces.Vi por Mis ojos lo que nunca habia visto:la noche y sus estrellas.Cono ci lo pullido, lo arenoso, lo desparejo, lo aspero,el sabor de la miel y de la manzana,el agua en la garganta de la sed,el peso de un metal en la palma,la voz humana, el rumor de unos pasos sobre la hierba,el olor de la lluvia en Galilea,el alto grito de los pajaros.Concoc i tambien la amargura.He encomendado esta escritura a un hombre cualquiera;no sera nunca lo que quiero decir,no dejara de ser su reflejo.Desde Mi eternidad caen estos signos.Que otro, no el que es ahora su amanuense, escriba el poema.Manana sere un tigre entre los tigresy predicare Mi ley a su selva,o un gran arbol en Asia.A veces pienso con nostalgiaen el olor de esa carpinteria.
Jorge Luis Borges, Elogio de la Sombra, 1969


JOHN 1:14This page will be no less a riddlethan those of My holy booksor those others repeatedby ignorant mouthsbelieving them the handiwork of a man,not the Spirit's dark mirrors.I who am the Was, the Is, and the Is To Comeagain condescend to the written word,which is time in succession and no more than an emblem.Who plays with a child plays with somethingnear and mysterious; wanting once to play with My children,I stood among them with awe and tenderness.I was born of a wombby an act of magic.I lived under a spell, imprisoned in a body,in the humbleness of a soul.I knew memory,that coin that's never twice the same.I knew hope and fear,those twin faces of the uncertain future.I knew wakefulness, sleep, dreams,ignoran ce, the flesh,reason's roundabout labyrinths,the friendship of men,the blind devotion of dogs.I was loved, understood, praised, and hung from a cross.I drank My cup to the dregs.my eyes saw what they had never seen-night and its many stars.I knew things smooth and gritty, uneven and rough,the taste of honey and apple,water in the throat of thirst,the weight of metal in the hand,the human voice, the sound of footsteps on the grass,the smell of rain in Galilee,the cry of birds on high.I knew bitterness as well.I have entrusted the writing of these words to a common man;they will never be what I want to saybut only their shadow.These signs are dropped from My eternity.let someone else write the poem, not he who is now its scribe.Tomorro w I shall be a great tree in Asia,or a tiger among tigerspreachin g My law to the tiger's woods.Sometime s homesick, I think backon the smell of that carpenter's shop.

主の降誕(夜半のミサ)

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主の降誕(夜半のミサ)

主の降誕(夜半のミサ)C
【ルカ2:1ー14】 
宿屋には彼らのために泊まる場所がなかったからである。ルカ2・7参照

母マリアは、生まれたばかりの赤ちゃんを飼い葉おけに寝かせたと書いてあります。なぜなら、宿屋には彼らのいる場所がなかったからです。ということは、人々の心に場所がなかったということでしょう。私たちの心は自分のことで一杯で、人のことを考える余裕はありません。とくに自分の苦しみの時はそうです。二千年まえのこの時も、皆それぞれ自分のことに忙しくて、この貧しいヨセフとマリアに、かまっているひまはなかったのです。私たちはまず、自分のことを最優先します。それから、自分に関係の深い物事に関心がいき、もし時間があれば神のことも考えるのです。つまり、神の場所はいちばん後回しになりやすいのです。神は、文句を言いませんから。ところで、私たちが生きるために、物理的な場所と同時に心理的、精神的な心の場所も必要です。赤ちゃんでさえ、母親のおなかに物理的に存在したにもかかわらず、母の心に自分の場所がない時に、大きなショツクを受けるといいます。私たちも周りの人々の心の中に場所がないと感じる時、大変つらくなります。いじめというのは、その人の心の場所を奪うことでしょう。イエス様が人間としてこの世に入られる時、受胎することをマリアが承知しました。つまり神の子のために、物理的な胎内という場所のまえに、マリアの心に場所があったということでしょう。次にイエス様はヨセフの心に場所を見いだし、馬小屋の中でこの世に物理的な場所を持たれ、次いで羊飼いたちの心、三人の博士たちの心にも場所を広げられました。私たちの心が自分のことで一杯で、他人の場所がない時、他の人の心にも自分の場所がないことを表します。他の人だって、自分のことで一杯なのですから。自分の心に他の人の場所をつくらないで、人にだけ私の場所をつくれとは無理な相談です。私がまず、私の心に人の場所をつくる時、人も私の場所をつくってくれる可能性が生まれます。心に人の場所をつくれるということは、その人の心の広さを表し、その人の人格のすばらしさを示すのです。逆に自分で一杯ということは、その人の心の狭さを示します。いちばんかんたんでよい方法は、人を愛することでしょう。自分のために人を愛するのではなく、その人のために愛する時、いつの問にか私の心をその人が占領します。しかも私は少しも損だとは思いません。愛していない時に自分の時間、場所を少しでも犯されると腹が立ち、損をしたと思ってしまいます。では神の場所は、どうでしょう。ついつい神の場所は後回しになって、困った時や苦しい時ぐらいしか、神を思い出さないこともあります。私たちが神を忘れても、神は私たちを忘れませんけれど。私たちが神の場所を設けなくても、神の中の私たちの場所がなくなることはないでしょう。しかし私たちが物理的、時間的に私たちの心に神の場所を設けないなら、神の中の私たちの場所を、自分で閉ざしているのです。
親の心には子どもの場所がいつもあります。しかし子どもが親のことを無視していれば、そこにある自分の場所をも無視していることになりますし、場所があることに気づかなくなるのです。子どもが心から親を敬う時、親の心の中にある自分の場所を、いちばん大切にしていることになります。ですから神のために、一日のうち五分でも十分でも、場所をあける必要があります。しかしそれはこの五分間に、神を閉じこめることではありません。私の狭い場所に神をおしこめて、私の願いを聞いてもらおうとすることではありません。神は私の召し使いではないのです。神は私の一部分をほしいのではなく、私全部をほしいのです。つまり私の場をご自分の場にしたいのです。神を私の場に閉じこめることではなく、私の場が、神の場の中に開かれることを望むのです。私の心を神にあけ渡す時、神が私の場となられるのです。そのことを表現する手段として、物理的に時間的に一日のうちの五分を神にあけ渡すのです。神こそ私の全部の場なのだ、ということを忘れないために、五分をささげるのです。神の国は物理的でも心理的精神的な場(スペース)でもありません。まったく霊的な場を持つ国なのです。ただ私たち人間は、それを物理的時間的に表現する必要があるのです。神の国は武器の力によって獲得する国とは違い、愛の力によってのみ成立する国です。私たちが神を愛する時、その国の愛の支配の中に入るのです。心に神の場所を設けるということは、その人の心がとてつもなく広いということを表します。他人のこと考えられる人は、すばらしい人です。だったら神のことを考えられる人は、何とすばらしい人てしょう。このクリスマスにあたって、私たちの心に幼子イエス様の場所を作りたいと思います。それはイエス様の場の中で私たちが生きるためです。私たちが狭苦しい場から、イエス様の広い場へ移るとき、私たちは本当に自由になるでしょう。狭い自分の広場から飛び出て、広大な神様広場、イエス様広場、愛の広場に開かれるとき、私は私から自由になって、お互いにこころから兄弟姉妹を愛せるでしょう。神様広場、イエス様広場では、すべての人間がまったく平等なのですから。今晩、世界中の人々と心をあわせて、幼子キリストの誕生をともに心から祝いたいと思います。クリスマスおめでとうございます。(静)世界中の国では、クリスマスとなると、(ちょうど日本のお盆の時のように)、なにをおいても、このときばかりはと、それぞれ家族のもとに帰り、一家団欒(いっかだんらん)の大切なひとときを、ともにするのが慣わしです。家族や肉親が久しぶりに再会し、ともども主の降誕を祝い、感謝し、親子・兄弟の絆を強めるとともに、そのような善意と平和が、くまなく全世界に広まっていくことをキリスト教徒たちは祈り願っています。日本では、年の瀬、大晦日に除夜の鐘とともに、しんみりと、この一年を、あるいは、これまでの自分の人生を回想し追憶します。そこに、至らぬ自分、あるいは逆に、満ち足りた自分の姿を見るのかもしれません。いずれにせよ、このシーズン、感謝と希望のうちに一人でも多くの人々が、古い自己を脱却し、遠大な思想にたち帰り、「いと高き天においては神に栄光、地においてはみ心にかなう人々に平安」という聖書のこの言葉が一人一人の心に響きわたりますように。

「あなたは夜に来ます
私たちの心のうちはいつも夜です。
ですから、主よ、いつも来てください。

あなたは静かに来ます
私たちはお互いに何を言えばいいのか分からなくなった。
ですから、主よ、いつも来てください。

あなたは寂しいところに来ます。
私たち一人一人はますます寂しく感じます。
ですから、主よ、いつも来てください。

来てください、平和の子よ。
私たちは平和とは何か知らないのです。
ですから、主よ、いつも来てください。

私たちに自由を与えに来てください。
私たちはますます奴隷になっています。
ですから、主よ、いつも来てください。

私たちを慰めに来てください。
私たちはますます悲しくなっています。
ですから、主よ、いつも来てください。

私たちを探しに来てください。
私たちはますます迷子になっています。
ですから、主よ、いつも来てください。

私たちを愛するあなた、来てください。
まずあなたと一緒でなければ、誰も兄弟姉妹と交わることはできない。
私たちは遠くに行ってしまって、迷い込んでいます。何をしたいのか、
私たちは誰であるのか分からなくなった。
主よ、来てください!主よ、いつも来てください。
(D・M・トゥロルド)

神様とは全能の、宇宙の作り主、時と場所を越えて存在する方です。それに対し人間とは、有限の、時と場所に縛られる小さな存在に過ぎないものです。このクリスマスとは、その全能の神様が有限な人間になったことをお祝いする日です。それにしても「神が人間になった」、これはいったい何を意味するのでしょう。
こう考えると「水戸黄門」を思い出します。  水戸黄門は、ご承知のように徳川の「先の副将軍」であるのですが、その身分のままでは気ままな旅ができないので、「越後のちりめん問屋の隠居・三右衛門」と名を変え姿を変えてお忍びで、格さん助さんを従えて旅をします。そして肝心な時には、いよいよその本来の身分をあらわして、葵の紋をかざして「頭が高い!」とやるわけです。「ザ・権力」です。  この場合は、あくまでも「町人の振り」をしているまでです。本当に町人になったのではない。見せかけです。 
ダミアン神父(1840-1889年、1995年列福)。彼は33歳の時、ベルギーからハワイ諸島のハンセン病患者が追いやられていたモロカイ島に志願して渡り、600人もの患者と共に生活した宣教師です。彼は自分も病気に感染しますが、そのとき、こう喜んで言いました。「私自身がハンセン病になった。これまで以上に人々に近づき、絆をもっと深めることができる」。彼はやっとこれで本当に自分は患者と兄弟になれたと思ったのです。「あなたたち」が「私たち」に代わったからです。こうして49歳で亡くなるまで、彼はハンセン病患者の司祭として働きました。 実は神様も同じでした。神様は人間のことをとても心に掛けていました。自分に似せて作った人間、でも神から背いてしまった人間をなんとかして救いたいと思っていました。そこでイスラエルの歴史の中で、繰り返し夢に現れたり、預言者という人間の口を借りながら、それとなく介入しては、自分の考えを伝え、なんとか人間との関わりを持とうとしてきました。しかし人間の不満はいつも同じでした。 「私たちには食べ物が必要だ。すぐに疲れれば、痛みも感じる。寝るところが必要だし、お金のために働かなければならない。雲の上の、霊的な話ばかりしてもらっても困る」 かくしてイスラエルの歴史は、人間の神への拒絶と、また神への立ち戻りの繰り返しでした。 それでも神様は御自分が大切に作った人間を、単なる奴隷でも慰めでもなく、本当に大切に造った人間、だからこそ自分に逆らうことも許した人間を救いたいと思ったし、どんなに人間を大切に思い、愛しているか示したかったのです。 そこで神様は決断しました。神様自身が人間となって、人間の肉体の弱さもそっくり抱えたままで、それでも神様に従うことができる、その見本を、本当に示そうと。そこでこの世に現れたのが、神様の独り子イエス様でした。 私たちは同じ者には心を開き、その声を聴くことがたやすくできます。そこでさまざまな自助組織ができています。アルコール依存になったものが同じ苦しむ人を救う会、犯罪被害者になったものが犯罪被害者を助ける会などの活動を見れば、分かります。彼らの援助には、同じ苦しみを負ったものとして、すぐれたカウンセラー以上のものを期待できるのです。 ところで、神様が人間になること。このことは神の独り子にとっても、大変な犠牲だったのです。すべて見通せていたものが肉体に閉じ込められるものになり、死なないものが死に縛られるようになる。カフカは短編「変身」(1915)の中で、ある朝、目をさますと、自分が巨大な虫に変身したセールスマンの孤独を描きました。神が人間になるとは、このように人間が、自分の頭脳をそのまま持ちながら動物になる、そんなことよりも、もっと大きな犠牲と勇気が必要でした。神の子はさらにまったく無力な赤ちゃんになりました。人間に任せきりになって、人間に自分の命をそっくり任せたのです。そしてそんな大きな犠牲を払って生まれてきた神の子イエス様だからこそ、人間の間違った裁きにさえ従って、十字架の死を最期に身に受けることができたのです。 神様が人間という目に見える姿をとって、人間の歴史に直接入り込んで下さった。神様の考えをはっきりと知ることができるようになった。かつて人間の祖先が背いて以来、溝ができた神様との関係をすっかりもとに戻すこと。それらが神様の子・イエス様の誕生によってできるようになったのです。そこまでして神様は人間を救おうとしてくださった。だからこそ教会はこのことを感謝し、最大のクリスマスのお祝いをするのです。 しかしこのような人間になった神という考えは、ユダヤ教の伝統やイスラム教などから見れば、とんでもない過ちということになるでしょう。全能無限の神が、限られた人間になることはありえない。神は絶対的、超越的なものであるとユダヤ教などは考えるからです。しかしキリスト教は、そこまで人間の間に入り込んでくださり、私たちと同じになってくださっても、深い人間への愛を示してくださった神様の業を何より大切にするのです。 そしてまた私たちはイエス様の生き方によって、希望を持ちます。なぜなら人間となった神の独り子イエス様は、誘惑にあい、痛み、泣き、苦しみ、神の子が神に見捨てられた感覚をも持ちながらも、それでも神様に従って、神の御心にかなう生活をすることができた。そのことで私たち人間も、神様のように生活していくことができる、その希望が与えられているからです。 人間になったイエス様が、神の子としての使命を立派に果たしていった、その希望に支えられながら、その神様の愛に応えるために、私たち一人ひとりも、自分中心の立場から、人の立場に立って、同じ身になって思いやりながら生きていく、そういうものに変わっていくのです。Moseos

31 per annum C

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31 per annum C

年間31主日 C
「今日、救いがこの家を訪れた」
【ルカ19:1-10 】

  ザアカイは徴税人の頭でした。当時のユダヤでは国内の神殿のために使われる神殿税と、そしてユダヤを支配するローマに納める人頭税・関税がありました。徴税人はこのローマに納める関税を担当していました。徴税人はならローマの役人かといえばそうでもありません。たとえばこんなふうにして徴税人の役職を手に入れたのです。
ローマに集まり、たとえば長崎地区から集める税金を競争入札します。「私は長崎地区から1億集める」「私は2億集められる」。こうして一番高い金を提示した人が徴税人の頭の地位を得ます。2億を提示した人は、あらかじめローマに2億円を差し出します。こうして税金を取り立てる権利を得ますが、その後は、いくら税を取り立ててもかわまない。2億円で徴税人の頭の地位を得たのですから、4億円を集めれば2億円もの儲け。その代わり1億5千万しか集めることができなければ、5千万の損失です。当然一所懸命税を取り立てることになります。 祖国を裏切りローマに仕える者、さらに金に執着し、自分の民からだまし取って私服を肥やそうとする。そのために罪人と扱われていたわけです。
「年貢の納め時」、「年貢米(ねんぐまい)」、「百姓一揆」。

(2) ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いも感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の人々の目を気にしていたのかもしれません。それ以上に、自分のような罪びとがイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのかもしれません。 それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が「罪びとを招いて、一緒に食事までしている」(ルカ15章2節)といううわさを聞いていたのかもしれません。そして、この人だったら、自分のどうにもならない思いを受け止め、理解してくれて、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。

(3) 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊まる」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。 なお、この「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)は、「今日、わたしはどうしてもあなたの家に泊まらなければならない」とか「今日、わたしはあなたの家に泊まることになっている」とも訳せる箇所です。これは、そのことが神の救いの計画の中にあることだから必ず実現するはずだということを示す表現です。

(4) ヨハネ福音書4章7節で、イエスはサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。ここでもイエスはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。どんなに罪びとのレッテルを貼られた人であっても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。イエスのいう「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)という言葉は、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」ということです。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪びとではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪びとのレッテルを貼られたまま生きていかなくてはならないでしょう。でも彼はもはや「神に見捨てられた罪びと」ではなく、「神に愛された罪びと」なのです。
(5) 別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2章14節にはこういう話がありました。「(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」 イエスは、ザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。ザアカイは徴税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意するのです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。 きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5,9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのあることばです(ルカ2章11節、4章21節、23章43節など参照)。「今日」とは、今まさに人が神の愛とゆるしに出会うその時であり、今まさに神の救いが実現しているその時なのです! わたしたちも、神の救いが実現している「今日」を感じることがあるでしょうか?



33 per annum C

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33 per annum C

年間第33主日 C
ルカ21・5-19

人々は、神殿の外装の美しさに心を奪われ、神殿の主である神を忘れてしまっている。移り変わる世の中、あらゆる物事が崩壊していく中で、見つめるべきことは「神のはからい」なのでしょう。大切なことは、神殿が美しく飾られている栄光のとき、神殿が破壊されるとき、物事がどのように激動のうちに変化したとしても、神は常に変わることのない愛情を私たちに注いでおられます。その愛情にこそ、目をむけるようにとイエスは人々に語りかけます。パウロも「落ち着いて仕事をしなさい」と述べています。つまり、目先のことで必要以上に歓び舞い上がったり、逆に、どうにもならないと落ち込んだりするのではなく、日々の生活を心こめて、神の変わらぬいつくしみに信頼し、毎日を淡々と真心こめて生きることがキリスト者の生き方なのだと云いたいのでしょう。マラキの預言で言われているように、滅びゆく悪と罪の状態の真っ只中にあって、「義の太陽が昇ります。」神のいつくしみと公平な恵みだけが確かなものとしてこの世を照らすのです。神のいつくしみは、いつも変わることなく、あまねくあらゆる人々を照らし暖めているのです。sese07人生には苦労も多い場合があります。国、公務員にとっては、大したことでなくても庶民には響きます。世の中には一見不都合なことが多すぎます。戦争とテロ、民族間の対立、疫病と飢餓、地球上のあるところでは日常茶飯的に起こっています。これでも神さまはいるの?といいたくなります。姫路で小さな女の子が殺された。命に関わる事件ともなりますと、精神状態までもがおかしくなります。このような状況にある人に向かって、今日のイエスさまのメッセージは意義深いと思います。 現実的にこうした苦しい状況からわたしたちは逃れることはできないのです。信仰者にとっても、神の深い愛の手の中に包まれている人にとっても、幸せの崩壊、苦しみを味わう体験はいつか来るのです。どうしてでしょうか?イエスさまがそのような中での生き方をわたしたちに見せてくださったのです。真の人間の崇高さ、幸せはどこにあるのか?こうした現実の苦しみの中にあっても、神に信頼を置いて生き抜くところに、人の価値があり、それが永遠の幸せにつながるのです、と言われます。ここに、生きていることの真の意味があります、ということでしょうか。 けれども失敗したり、挑戦もしないでいてあきらめてしまうのが、また、人間です。努力しても結果はすぐに出てきませんし、話しかけても返事は返ってこないし、・・・・・。それでも行き続けることに真の幸せを見出します。実感が湧いてきません。それでも生き続けるのです。これは人間にしかできないことだから。いつも挑戦する心と姿勢をわが身に携えましょうということでしょう。 http://mr826.net/yz/seisyo_message/archives/message/2004/0404/041114/

何か災害が起こる前に、その災害から少しでも逃れたい、それに対処する用意をしたい、あるいは、せめて心の準備をしたいと思うのは当然です。大地震が日本にいつか来るということは、避けられないことです。ですから、そのために被害をできるだけ少なくするために、その大地震がくる前の前兆を知りたい、地震予知というのが、地震学の重要なテーマだろうと思います。
弟子達がこの時、聞いたというのは、やはり自分たちがいち早くその前兆を知って自分たちは逃れたいという思いがあったから、聞くことになったのではないかと思われます。  イエスはそれに対してなんと答えたでしょうか。この21章の全体は、イエスがこの世の終わりについて述べた箇所ですが、ここはどう読んでも、はっきりしないのです。終末の前兆があるのかないのか、はっきりしないのです。
人々は「先生、では、いつそんなことが起こるのでしょうか。またそんなことが起こるような場合には、どんな前兆がありますか」と問うたのです。そこからイエスの終末についての教えが始まったのです。人々がその前兆を知りたいというとき、その前兆を知って、その災害が起こる前になんとか逃れる道をみつけておきたい、その心がまえをしておきたいというところから、「先生、ではいつそんなことが起こりますか」と尋ねたのです。つまり人々がこの世の終わり、終末ということで考えていたことは、大地震が起こるとか、戦争が起こるとか、そういう人間の歴史そのものが混乱すること、あるいは、ただ人間の世界だけでなく、この宇宙全体が破壊すること、それが終末だと思っていたのです。流れ星、隕石(いんせき)が地球に落ちるとか。
終末の前兆はあるのか、というのが人々の問いでした。人々がそのように前兆を知りたがるのは、終末というものがただなにか悲惨なことが起こる日と考えているから、その悲惨さから逃れようとして、その前兆をしりたがるのです。しかし主イエスは、終末というのは、この世の滅亡のあとに本当に救いが始まる時なのだというのです。それならば、ずるがしこく、その前兆を知ろうとするのではなく、絶えず目を覚まして神の救いの日を待ち望みたいと思うのです。そのために祈りたいと思うのです。
「神殿は、当時のユダヤ人にとては、私たちが考える以上に大事なものであり、神殿が立派であれば神の栄光が輝いている、本当に神の宮であり、神の家だというふうに考えられていた。しかし、見える面に一生懸命になれば、見えない面において貧しくなるものです。物質というものと、精神というものは特別な関係にあるものです。なにか共存しにくい面があると思う。そこに古来から宗教家が簡素な生活をして来た理由があると思います。キリスト教には修道院があり、仏教には出家ということがあるように、人間生活を厳しくすることに努めることによって、精神的な面で豊かにされていくという関係があるように思います。
イエスは、神殿がどんなに立派であっても(私たちが住んでいる社会はどんな立派であっても)、つぶれる時があると言われた。預言者エレミヤもまた同じことを言った。すなわちエルサレムの滅亡を、またその神殿の壊滅を叫んだ。そのために彼は捕らえられ、殺されそうになった。それほどまで神殿は神聖視していた環境の中で、イエスの言動は勇気の要ることであった。事実イエスが十字架に付けられたとき、この人は「神殿を打ち壊して三日のうちに建てる」(マタイ27・40)と言ったことが訴える理由になっていた。それでは、神殿がくずされるのはいつですかと、人々は聞いた。私たちが死ぬことはわかっている。しかし私たちにその日がいつであるかは知らされていない。それは神の憐れみだと思います。(あわてる。絶望するだろうから)。それと同様に、世の終わりがあることは分かっていても、それはいつであるかはイエスは言われなかった。そこに私たちが仕方がなくしいられる信仰生活でなく、自分が信じていく、言うならば私たちが責任を持って、神の前に生きていく生活があります。いつ来るかわからない終末を、きょう終末がある、そしてきょう神の前に立つかのように生きていくところに、キリスト者の終末信仰がある。」(榎)
歴史(あるいは、人生)の中で、歴史を、なんとなく、流れに乗って生きていくのではなくて、この歴史を見据えて、神の働きの中に、恵みの働きの中に、生きる信仰者として歴史を見据え、その中に神の時の徴を見る目を与えられたいと願いながら、しかしその時の徴、具体的には地震や、戦争などが起こってくるかも知れないけれども、その先に、神がイエス・キリストにおいて約束しておられることが、神の恵みの下における世界の完成だ。破壊や、破滅ではなくて、世の終りが来て破滅するぞということではなくて、それは、まだ前の徴、前触れの徴に過ぎない。終りは、耐え忍ぶ者には、命が与えられる、命を得るということです。

30 per annum C

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30 per annum C

年間30主日 C   全国修道女一般研修会(聖トマス大にて)【ルカ18:9-14】

私たちが今日の福音書を聞いて感動し、また慰められるのは、おそらく、自分を徴税人のひとりになぞらえるからではないかと思います。自分もまた神の前に出たら、徴税人と同じだ、ただ神の前に頭を垂れる以外にないと思う、しかしこういう徴税人を神は喜んでくださる、義としてくださるのだ、そう思って私たちは慰められるのです。
しかし私たちはこの徴税人の祈りを本当に祈ることができるだろうか。私たちはもうこの徴税人の祈りは祈れなくなってしまっているのではないか。
というのは、この聖書の箇所について、キルケゴールという思想家の有名な言葉があります。それは、われわれはこの徴税人の祈りをするときに心のどこかに、「神よ、わたしはこのファリサイ派の人のような人物でないことをあなたに感謝します」と祈っているのだというわけです。ファリサイ派の人が「わたしがこの徴税人のような人間でないことを感謝します」と祈っているように、私たちは「わたしはこのファリサイ派の人のように傲慢でないことを感謝します」と祈っているのではないかというのです。そして私たちがイエスのいわれた通りに末席(まっせき)につこうとするのは、本当の謙遜からではなく、傲慢からでたことなのだというのです。
私はもうファリサイ派の人のような祈りをする人はおそらくいないと思います。この主イエスの話は、もともとはファリサイ派の人が主題で、徴税人はこのファリサイ派の人を批判するために持ち出された話です。主イエスの言いたいことは、もともとは「自分を義人だと自任して、他人を見下げている人たちに対して」語ろうとしているのですが、今の私たちは、この徴税人の祈りを真似しながら、自分はファリサイ派の人でないことを感謝しますと祈ることによって、もっとファリサイ派的な傲慢さに陥ってしまっている者に向けられたみことばとしてここを読まなくてはならないと思うのです。  ですから、もうこの徴税人の祈りを私たちはできなくなっているのではないか。 そして本当は今の私たちができなくなっているだけでなく、イエスの時代の時からこういう祈りをした人はいないのではないか。なぜなら、この徴税人は実際に存在した徴税人ではなく、主イエスが話された中に登場してくる人物ではないかと。そう考えますと、聖書の中で私たちが感銘を受ける人物、この徴税人にせよ、あの強盗に襲われた者を親切に介抱したよきサマリヤ人にせよ、それらの人は実際に存在した人物ではなく、みなイエスが話された人物、イエスがこういう人がいたらいいなと想像した人物なのだということは、かんがえられないでしょうか。
パウロは、「わたしたちはどう祈ったらいいかわからないが、聖霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしをしてくださる」と言っております。そのようにして聖霊は弱いわたしたちを助けてくださるというのです。 「どう祈ったらよいかわからない」ということは、もう祈ることがができなくなったということです。その時に聖霊がいっしょになって言葉にならないうめきをもってとりなしてくださって、そしてはじめて祈れるようになるというのです。   ある人の話に、自分がなにか大変悪いことをして、人を傷つけて、電車に乗った。すし詰め電車だった。途中で誰かに思い切り足を踏まれた。その時に、ひとつも怒る気にはなれなかったというのです。自分はこのようにして足を踏まれても何にも文句が言えない罪人だと思いながら、その電車に乗っていたというのです。
この時の徴税人はまさにそのような心境だったのではないか。だから、彼は祈るために神殿に上りながら、神の前に立たされた時に、もう祈れなくなった。ただ、遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸をうちながら、それでも神に向かって、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と言ったのです。聖書はファリサイ派の人のほうは「こう祈った」と記しておりますが、徴税人については、祈ったという言葉はなく、「胸を打ちながら言った」と記すのです。もう自分は祈れないと思った、だからただ「言った」だけなのです。
わたしは祈りについ書かれた文章で印象に残っているのが二つあります。一つは小塩節(おしお たかし)という人が書いている文章です。自分の子が重い病気になった。必死に祈ったというのです。しかしそのうちに祈れなくなった。祈っても祈っても子どもの病はよくなってこなかったからです。だから、夫婦で食事の前に祈る時には、「主の祈り」をふたりして唱えた。そのうちにその主の祈りも祈れなくてなったというのです。なぜなら、「主の祈り」のなかには、「みこころの天になるごとく、地になさせたまえ」とあるからです。なんとしてでも子どもの病気をいやしてもらいたい、そういう時に神のみこころのままになさってくださいなどとはとても祈れなくなってしまったというのです。だから、もう「主の祈り」も祈れなくなって、食事の前に夫婦で黙祷しようと言って、しばらく黙祷して食事をしたというのです。  もう一つの文章は、これも主の祈りと関係してくる文章ですが、竹森満佐一(たけもりまさいち)の書いた「主の祈り」の文章で、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」という祈りをめぐってのところですが、第一次世界大戦の時、ドイツ軍がベルギーに攻め入って、多くの町を破壊した。その次の日曜日にある町で、こわれた会堂の中で礼拝が行われた。
しかしいつものように、「主の祈り」を祈る時になって、この句のところにきた時に、みんな黙ってしまった。その時に、みんながドイツ人が自分達に対してしたことを思い出して、それを考えるととてもゆるす気にはなれなかった。だからだれも「われらがゆるすごとく」とは祈れなかった。そして少し時がたって、だれからともなく、「われらの罪をゆりしたまえ」と祈りつづけたというのです。 自分の罪を考えたら、とても祈れなくなってしまった徴税人。  祈りというものは、そのようにして一度祈れなくなってしまって、どう祈ったらよいかわからなくなってしまって、言葉にならないうめきのようになってしまって、それでも神にしか助けを求めざるをえなくなって、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と小さな声でうめく、それが祈りなのではないか。 それが、というよりは、それも、祈りなのではないか。 しかしあのファリサイ派の人の祈りは、決して祈りなんかではないのです。ど自分の義を神に主張しているだけです。
しかしあの徴税人も、本当は祈っているとはいえないのです。なぜなら、彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしていないからです。つぶやくように、「神様」と呼びかけているだけです。彼のこのつぶやきを祈りに導いてくれたのは、主イエスです。「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この徴税人であった」という主イエスの言葉です。  私たちは神に義とされようとして、この徴税人の祈りを真似ることはもうゆるされないのです。この時徴税人は、神に義とされるなんてことは、夢にも思わなかったのです。ただ「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と、つぶやくように言っただけでなのです。イエスがその徴税人を神に義とされた者として私たちに紹介してくださった。だから私たちは、このような祈りしかできない者を神が義としてくださる、神がゆるしてくださる、だから私たちはこのような祈りをすることができるようになるのです。 義とされようとして、このような祈りをするのではなく、義とされた者として、もう赦された者としてこのような祈りをすることができるということなのです。そして、今度はしっかりと目を天に向けて祈れるようにならなければならないのです。  主イエスはこのたとえ話をする前に、「人の子が来るとき、地上に信仰がみられるであろうか」と、嘆いているのです。あのファリサイ派の人の祈りはもちろん信仰ではないのです。そしてこのように祈る徴税人もまたまだ信仰をもっているとはいえないのです。彼が信仰をもてるようになるのは、「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この徴税人であって」というイエスの言葉を聞いてから、彼の信仰が始まるのです。目を天に向けられないで、うなだれたままでは決して信仰とはいえないのです。
私たちが義とされるために教えていただいた祈りといえば、それは「私たちに負い目のある人をゆるします(ように)から、私たちの負い目をもおゆるしください」(マタイ6・12)なのです。アウグスティヌスが言うように(「神の国」XIX・27)この世においては、正しさは完全な徳よりもむしろ罪のゆるしにあるのです。「この祈りは、その信仰が業(行い)をともなわないで死んでいる人にとっては効果が無く、その信仰が愛によって働いている人にとってに効果がある。」「このような祈りは正しい人にとって必要なのである。」なぜなら、「神は高ぶる者を(敵とし)退け、へりくだる(謙遜な)者に恵みを与える」(ヤコブ4・6;1ペトロ5・5;箴言3・24)。「福音的勧告に従って完全な愛徳(perfectae caritatis)を追求することは、神なる師の教えと模範にその起源を持ち、天の王国の輝かしいしるしである」(第二ヴァティカン公会議、「修道生活に関する教令」冒頭)
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke66.htm

29 per annum C

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29 per annum C

年間29主日C【やもめと裁判官の譬え】ルカ18:1ー8

「失望しないで祈るように」と、今日の福音書でイエスは希望について語っています。人生
は、希望によって支えられています。

希望の学びやとしての祈り

(教皇ベネディクト16世 回勅 『希望による救い』、カトリック中央協議会訳)

32 希望を学ぶための第一の根本的な場は祈りです。だれもわたしに耳を貸さないときにも
、神はわたしに耳を傾けてくださいます。だれと話すこともできず、だれに呼びかけること
もできないときにも、わたしはいつも神に語りかけることができます。人間が希望できるこ
とを超えた必要や望みに関して、だれもわたしを助けてくれないときも、神はわたしを助け
てくださいます。わたしが徹底的な孤独のうちに追いやられても:::、もし祈るならば、わ
たしは完全に独りではありません。故グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿(一九二八-二〇〇
二年)は、十三年間投獄され、そのうち九年問は独房で過ごしました。ヴァン.トゥアン枢
機卿は『希望の祈り』という、小さいながら貴重な本を残してくださいました。獄中での十
三年間、まったく絶望的に思われる状況の中で、神に耳を傾け、神と語ることができること
が、ヴァン・トゥアン枢機卿の希望の力を強めました。この希望の力によって、ヴァン.ト
ゥアン枢機卿は、釈放後、世界中の人々に対して希望の証人となることができました。この
偉大な希望は、孤独の夜の中でも消えることがないからです。33 聖アウグスチヌスは、ヨハネの手紙一についての説教の中で、祈りと希望の密接な関係
をみごとな形で明らかにしています。聖アウグスチヌスは、祈りとは望みの実践だといいま
す。人問は偉大な存在である神ご白身のために創造されました。それは、神に満たされるた
めです。しかし、人問の心はあまりに狭く、人間が目指している偉大なものを受け入れるこ
とができません。ですから、心を広げなければなりません。「神は(ご自分のたまものを)
遅らせることによって、一わたしたちの一望みを強めます。神は望みによって魂を広げ、魂
を広げることによって一神を受け入れる一力を与えます」。アウグスチヌスは聖パウロを例
に挙げます。聖パウロは来るべきものに全身を向けるといっているからです(フィリピ3.13参照)。次い
でアウグスチヌスはたいへん美しいたとえを用いて、人問の心が広げられ、整えられる、この       過程について述べます。「神があなたを蜜[みつ](蜜は神の優しさといつくしみの象徴です
)で満たそうと望んでいると考えてください。しかし、もしあなたが酢で満たされていたら
、どこに蜜を入れることができるでしょうか」。あなたの心という器をまず大きくし、次に
清めなければなりません。すなわち、酢とその味がなくなるようにしなければなりません。
これは辛い労苦を必要とします。けれども、このようにして初めて、わたしたちは自分たち
が目指すものにふさわしいものとなることができるのです{26}。アウグスチヌスは直接には
、神を受け入れる能力についてのみ述べています。とはいえ、このことは明らかです。すな
わち、わたしたちは、酢とその味をなくす努力を通じて、神に対して開かれた者となるだけ
でなく、他の人に対しても開かれた者となります。実際わたしたちは、神の子となることに
よって初めて、共通の父をもつことができます。祈るとは、歴史を離れ、私的な空間に引き
こもり、自分の幸せを求めることではありません。祈りの正しい方法は、内的な清めを行う
ことです。内的な清めを行うことによって、わたしたちは神を受け入れることができ、そこ
から、人々をも受け入れることができるようになります。わたしたちは祈りの中で、何を本
当に神に求めることができるか、すなわち、何が神にふさわしいことかを学ばなければなり
ません。わたしたちは、他人に敵対しながら祈ることができないことを学ばなければなりま
せん。わたしたちは、今このときに欲しい、表面的な快適さを祈り求めることができないこ
とを学ばなければなりません。このような誤った小さな望みは、わたしたちを補から遠ざけ
るからです。わたしたちは自分の望みと希望を清めなければなりません。わたしたちは、自
分白身を偽るような隠れた嘘から自由にならなければなりません。神はこのような嘘を見通
されます。また、神の前に出れば、わたしたちもこの嘘を認めざるをえません。詩編作者は
祈ります。「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください」(詩編
19.13)。自分の罪を認めることができなかったり、自分が無実であると錯覚していたとし
ても、それで自分を正当化することはできませんし、それが自分を救うことはありません。
なぜなら、良心が麻痺したり、自分をありのままに認めることができないことは、わたしの
責任だからです。神が存在しなければ、わたしはこれらの嘘に逃れ場を求めなければなりま
せん。わたしをゆるすことができる者がだれもいないからです。だれも真の基準となってく
れないからです。しかし、神との出会いは、わたしの良心を呼び覚まします。こうして良心
は自分を正当化しようとしなくなります。また、良心は、自分や、自分の意見を左右する同
時代の人間の反映ではなくなります。良心は善であるかた白身に耳を傾けることのできる力
となるのです。
34 このような清めの力を深めるために、祈りはまず個人的なものとならな
ければなりません。わたしの内面と、神との、それも生きた神との出会いとならなければな
りません。同時に、教会と聖人の優れた祈り、また典礼の祈りがこの祈りをつねに導き、照
らさなければなりません。こうした祈りの中で、主は正しく祈ることを教え続けてくださる
からです。グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿は、黙想の書の中でいいます。その人生の中で
、枢機卿は長い問祈ることができませんでした。そして枢機卿は、教会の祈りのことばを唱
え続けました。すなわち、主の祈り、聖母マリアヘの祈り、典礼の祈りです(27)。祈りは
つねにこうして公的な祈りと個人的な祈りを組み合わせて行わなければなりません。このよ
うにしてわたしたちは神に語りかけることができます。また、このようにして神はわたした
ちに語りかけることができます。こうしてわたしたちは清めを行います。清めを通してわた
したちの心は神に開かれたものとなり、人々に奉仕するよう整えられます。こうしてわたし
たちは偉大な希望を受け入れることができるようになり、そこから、他の人のために希望に
奉仕する者となります。キリスト教的な意味での希望は必ず、他の人のための希望です。そ
れは生き生きとした希望です。わたしたちはこの希望によって、すべてが「誤った終わり」
に向かうことがないよう戦うからです。それは生き生きとした希望です。なぜなら、わたし
たちは世をいつまでも神に開かれたものとするからです。このようにして初めて、希望は真
の意味で人間らしいものとなることができるのです。

(26) 聖アウグスティヌス『ヨハネの手紙一講解』(S. Augustinus, In Ioannis epistulam ad Parthos tractatus 4, 6: PL 35, 2008s) 参照。
(27) グェン・ヴァン・トゥアン『希望のあかし』(Nguyen Van Thuan, Testimono della speranza, Citta' Nuova 2000, 156s)。

年間 第32土曜日    「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ルカ18・1-8   私たちの現実の中で、神の言葉は必ず成就するのだと信じて、生きていくために、どうしても必要なことは祈りであ
る。祈りとは、私たちが神に求めていくものだと考えがちである。もちろんその祈りも大事
であるが、祈りの根本は、願いや求めではなく、神の言葉に従って生きていこうとする者の
、直面する困憊(こんぱい)や、不安の中から生まれる叫びだと想う。これでよいのですか
、こんなことをしていてだいじょうぶですかという叫びだと思う。パウロも次のように証言
している。「十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまい
と、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく
不安であった」(コリントI.2.2ー3)。イエスの十字架だけで生きようとしたとき、彼もまた
非常に不安を感じたのである。そのように神に信頼をおけばおくほど、私たちは不安を感じ
、その中から叫びが出てくる。私たちが信仰生活をしていくとき、不安を感じてこないのは
、神の言葉をまともに聞いていないからである。イエスの祈りはどうであったろうか。「キ
リストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあ
るかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである
」(ヘブル・5・7)とあるが、それは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」-すなわち「わが神
、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ・27・46)に見られる。こ
のときだけ、ただ祈ったというのでなく叫んだと書かれてある。神に祈っているのか、人に
聞いてもらっているのか、神様感謝いたしますという最後の言葉がなければ、祈りかなにか
わからないあいさつのような祈りをする人がいます。祈りは、祈る言葉とか、祈る時が問題
ではなく、私たちが神に対してどのような生き方をしているかが問われるのである。神への
深い信頼と真実の生き方からだけ叫びの祈りは生まれてくる。(榎本)

年間 第27木曜日ルカ11・5-13
? このたとえ話は、祈りの福音書とも言われ、祈りについてもっとも多く語っているルカだ
けのものです。祈りについて大切な二点が述べられています。第一は、「根気よく」、第二
に、「心の触れ合いのもとに」、「親しさのもとに」、祈るということです。それによって
祈りは必ず聞き入れられます。ごく親しい友人同士でなければ、真夜中行ってパンを貸して
くれと言ったりはしないでしょう。神に向ける祈りの条件は、ただ長い時間をかけて願うということではなく、なによりも日頃から深い心の触れ合いのある友人同士なので、迷惑をかけても承知の上で、大胆にしつこいほど頼んでもいいということです。イエスの祈りはどうだったでしょうか。オリーブの山で
、「父よ、み旨なら、この杯を私から取り去って下さい。しかし、私の思いではなく、み心
が行われますように」といのりました。イエスの祈りは聞き入れられました。しかし、その
場ですぐに苦しみが取り除かれたのではなく、その苦しみを通して、イエスが本当に望んで
おられたことが実現したのです。私たちが人間の小さな頭で考えて望んだことよりも、もっとすばらしい方法で、私たちの望
みが実現すると保証されています。(ネメシュ)
--------------------
? 難しい現実に立ち向かおうとする時、私たちは、キリストの視点に立つことが大切です。どんなに時間がかかっても、無駄に思えてもキリストの生き方に従う力を、願い求める人々に聖霊を約束してくださった神から頂くよう祈りたい。
? -------------
「求めるものには」、「探すものには」、「門をたたく者には」ということばを、条件と受
け取ってはいないでしょうか。父である神は、無条件にわたしたちを大切にして下っていま
す。与えられないのは、見つからないのは、開かれないのはヒョッとしたら与えられている
のに気付かず、目の前にあるのに見ようとせず、開いているのに別のところをたたいている
のかもしれません。主よ、わたしの思いではなく、あなたの思いを悟らせてください。sese

28 per annum C

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28 per annum C

年間28主日 C【ルカ17:11-19 重い皮膚病を患っている十人の人をいやす】

復活節 第3月ヨハネ6・22-29
つまりどんなに大きな奇跡を経験していても、それがイエス・キリストが「神から遣わされた者」であることを読み取るしるしにはなるとは限らないのです。見ることと、見抜くことは違う、あるいは見ることと見分けることは違うということです。見てはいても見抜くことができない。あるいは見分けることができない。イエス・キリストは別のところでイザヤの言葉を引いて「あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」(マタイ13:14、イザヤ6:5)とも言われました。これは今日の私たちにもあてはまることではないでしょうか。私たちも、時々不思議な出来事に遭遇いたします。その時に、同じ経験をしていても、ある人はそれを単なる偶然と見ますし、ある人はそこに何らかの神様の働きを見ます。いい出来事があった時に、ある人はそれを単にラッキーと喜ぶだけですが、ある人はそこに神様の恵みを覚えて、感謝をします。逆に悪いことが起こった時にも、それをただ不運と見るのか、あるいはそこに神様の何かしらの警告を見るのか。「神も仏もあるものか」と思うか、あるいは「どうして神様はこのようなことをなさるのか」と深く考えるか。そこに違いが出てくるのではないでしょうか。http://www.km-church.or.jp/index.html

年間 第32水曜日・パウロ会  96/11/13????? ルカ17・ 11-19 ? 

「健康さえあれば恐いものなし」と思っている人々はたくさんいますが、しかし体の健康よりも心の健康の方が大切であることを改めて学ぶ必要があると思います。らい病を患っていた人々は病気のときにグループとして行動し、助け合っていたが、元気になったとたん、ばらばらになりました。自分たちの心の病気に目を止めていなかったからでしょう。(ステファニ)イエス様はこの人々のいのちを助けて上げたけれども、決して恩きせはしません。完全に彼らの自由にまかせます。困った時に、助けを求めますが、よくなりますと、(のどもとを過ぎれば熱さわすれる)恩を忘れて平気な顔をします。信仰生活の場合もそうですが、困っているとき神の助けを求めますが、一応問題が解決しますとイエスの言うことを聞かなくなります。恩着せがましい神様に従った方がいいなのでしょうか?自由にしてくださる神様に従うことにどのような意味があるのでしょうか?
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わたしが患っている重い皮膚病は何か。わたしを他者から隔ててしまう心の傷、エゴイズム、偏見、プライド・・・。その重さにわたしは気付いているだろうか。声を張り上げて、「イエスさま、憐れんでください」と叫ぶことができるだろうか。実際に私たちは既に、イエスの血と水によって清くされた。その事実を見ようとしているだろうか。主よ、敏感な心をお与えください。日々あなたに癒して頂いていることに気付き、感謝のうちに生きていけますように。
聖書では救われるということは、ただ自分の問題が解決されることではなく、その自分の問題を解決してくださったかたが誰であるかを知って、そのかたを信じるようになること、そのかたと交わるようになることだというのです。
自分が本当に救われるためには、ただ自分が幸福になることではなく、自分を幸せにしてくれるかたと交わること、自分以外の人に目を向けることなのではないか。自分だけに向けられていた目を、他の人にも向けるということです。
ナアマンは預言者エリシャのところに彼のほうから出かけていって、「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。これからはただイスラエルの神、ヤハウェだけにひれ伏します」と言って、預言者エリシャに感謝をするのであります。
この記事は、われわれが本当に救われるためには、あまりきれいでもないヨルダン川に七度自分の身を清める、そういうへりくだるという行為をしないとわれわれは救われないのだということをよく示している記事であります。彼は将軍ですから、英雄的なかっこうのいいことなら、喜んですることができるのです。
しかし神を信じるというこは、そういうことではなく、神の前に身を低くすることであります。神の前にひれ伏して、砕けた魂を捧げることなのであります。そういう信仰をわれわれがもてないならば、われわれの病は一時的にはいやされても、われわれの体の根源にあるわれわれの罪は清められることはない、救われることはないのであります。

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年間第6主日B
マルコ1・40-45
「重い皮膚病」は聖書の中で以前は「らい病」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止を契機に新約聖書・新共同訳で「重い皮膚病」と訳されることになりました。差別的なニュアンスのある「らい病」という言葉を避けるためであり、また、聖書の中のこの病気が現代医学の「ハンセン病」と同じだとは言い切れないからです。しかし、「重い皮膚病」と言ってしまうとあまりに漠然としていて、古代から続くハンセン病の患者たちの大きな苦しみを感じることができなくなってしまうかもしれません。
最近のハンセン病の国家賠償請求訴訟の報道で、元患者さんたちがマスコミの前に堂々とお出になるようになりました。比較的後遺症の軽い方々がテレビに登場されたのですが、それでも、顔の表情が変わってしまわれたり、手の指が失われていたり、関節が曲がったままになっていらしたり、歩けなくなる方もいる。症状が進むと、失明もするのです。そうするとここを「重い皮膚病」と訳すのは、やはりこれもまた十分ではない。だいたい現代では、「重い皮膚病」と言えば、ハンセン病のことを連想する人はまずいないでしょう。むしろほとんどの人は、「アトピー性皮膚炎」を連想することでしょう。  しかしいずれにしても、十分な訳語が見つからないこともまた事実でありまして、それがまたこの問題の歴史を表しているようなものなのです。
さて「らい病」と判定された者は一般社会から隔離された所に住み、普通の人と交わることはもちろん、近づくことさえ許されていなかった。人が近くに来ると、「汚れた者、汚れた者」と叫んで、その存在を知らせなければならなかった。ただ神だけがらい病を清めることができるとされ、らい病人の清めはメシヤがもたらす終末的な祝福の一つとされたいた。
洗礼者ヨハネが弟子を遣わして、「『来るべきかた』はあなたですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と訊ねた時、イエスはこう答えておられる。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」また、イエスは十二弟子を宣教に派遣するにあたって、こう言っておられる。「 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」(マタイ一〇・七~八)。これらの箇所で「らい病人の清め」が他の病気の癒しとは別の種類の業として扱われていることが注目される。それは「清める」という動詞が示唆しているように、単なる身体の病気の治癒ではなく、「汚れた者」として神の民の交わりから断たれていた者が「清い者」として再び神の民の交わりに迎え入れられることを意味している。「らい病人を清める」ことは、「死人を生き返らせる」ことと並んで、終末時の神の業として特別の意義を持っているので、マルコは一人のらい病人の癒しを他の多くの癒しの業の中に埋没させることなく、詳しく伝えるのである。
やはり、ここでらい病は罪を背負っている人間の状態を描くシンボルだと思われます。神も隣人も愛せない人間がらい病患者のようなものだ、そのような恐ろしい難病にかかっているようだ、というわけです。
さて、イエスがガリラヤのある町におられた時、「ひとりのらい病人がイエスのもとに来て、ひざまずいて願って言った」。らい病人は人に近づくことも許されていなかった。彼がその律法の枠の中に止まっていたならば、救われることはなかったであろう。彼が癒されたいという切なる願いと、イエスに対する信頼とによって、律法という隔ての垣根をあえて踏み超えて、イエスのもとに来てひれ伏した時、救いが始まったのである。イエスも律法を超えてらい病人を受け入れておられる。イエスのもとにひざまずくらい病人、そこはすでに律法を超えた場である。
「あなたはわたしを清めることもできるかたです」と彼は言っている。らい病人を清めることが神の終末的な業であることを考えると、本人は自覚していたかどうかはわからないが、この告白はイエスを終末的メシヤと告白する重大な意味を持つものになる。とにかく彼は人間の力が絶する所でただイエスの中に働く神の力だけに頼り、「それがあなたの意志であれば」と言って、自分の死生をイエスの意志に委ねて、その足元にひれ伏したのであった。
この一言にこの人の、すべての思いが語られているように思えるのです。なんというすばらしい信仰告白の言葉でしょうか。誰にも解決できない、治すこともできない、そして言われなき差別と偏見、そして自ら「汚れた者」と言わなくてはならない屈辱の中に生きてきた。しかしこの人は言葉を発しました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」‥‥イエスさまならいっさいを解決することがおできになりますと。
すると、イエスさまは手を差し伸べて、その人に触れました。イエスさまは病気をおいやしになるとき、いつも手を触れたわけではありません。言葉だけで命じて、病気をいやされたことも多いのです。しかしこの時は、手を差し伸べて、この人に触れました。これを見ていた人はどんなに驚いたことでしょうか。誰も触れない、いや触れてはならない病気にかかった人、その人に主イエスは手を伸ばして触れられたのです。群衆の目が、そのイエスさまの手に釘付けにされたことでしょう。  そして主は言われました。「よろしい。清くなれ。」そしてその人のらい病はいやされてしまいました。  これがキリストの奇跡です。イエスさまの奇跡は、愛の奇跡です。ただ人を驚かすだけの奇跡ではありません。そんなものは奇跡ではないのです。誰も触れることのなかったところに手を伸ばして触れられ、いやして下さる方です。これが私たちの主です。この方が、私たちのためにも十字架にかかってくださったのです。この方が、私たちの生涯の主です。私たちと共に歩まれる方です。感謝ですね。
常識の世界に住んでいる人間が、信仰の青空を見上げると、そこに奇跡という雲がかかっていて、理解を妨げているように見えます。信仰のある人にとっては、奇跡は当り前かもしれません。しかし又、信仰を求めていながらまだ得られない人にとって、奇跡は実にやっかいなもので、天国の門前にいるお鬼のようなものです。奇跡が信仰を生むのか、信仰が奇跡を生むのか。どちらが先か分からない問題の例として「たまごが先か、にわとりが先か」というのがあります。しかし、信仰は人間の産物ではなくて、神の賜物だとすると、奇跡が分からないと言って思い悩むのではなく、信仰を与えて下さいと願い求めることが大切です。そしてその信仰は、復活のキリストに出会うという経験によるのです。生けるキリストに出会って倒される。そして彼に起こされる。すると倒される前の自分と、起こされてからの自分とでは本質的に全く異なっている自分を発見するのです。復活のキリストとの出会いという最大の奇跡を経験すると、他のもろもろの奇跡は、いかにもイエスにふさわしいものに見えてくるから不思議です。
このらい病人は神の力を体験した喜びのあまり、自分の身に起こった事を語らないではおれなかったのであろう。彼がこの事を言い広めたので、ユダヤ教当局からイエスはメシヤを自称して民衆を扇動する者ではないかと疑われるようになり、町に入り会堂で公に宣教することができなくなり、町の外の寂しい所で教えるようになった。これまでは「諸会堂に入り、福音を宣べ伝え」ておられたのに、これ以後は会堂での宣教はごく僅かになり、おもに海辺や家の中、山辺や旅路で語られることになる。それでも、イエスが行かれる所にはいつも律法学者たちがいて、イエスの言動を監視し、批判し、論争するようになる。
福音書のテーマの一つは、イエスに対する人間の無理解があります。親しい少数の弟子たちですら、聖霊降臨の経験を得るまで、十字架のイエスを理解していません。まして一般の民衆たちは、奇跡を行ない、病気を治してくれるイエスを崇め敬いますが、世の罪を負って十字架に向かうイエスには無関心です。イエスは病気の治療を使命の一つとして引き受けながらも、神を愛して十字架の道を歩むことを教えるという、真の救済に至る福音には程遠いことを感じて、口止めしたのではないでしょうか?
主よ、自分の利益だけを求めようとする心の病を癒してください。あなたの愛をもっと深く知り、あなたのように愛する恵みをお与えください。

年間第5主日B
【マコ1:29-39
「手を取ると、熱が去り、その結果、起き上がった」と言うかわりに、「そばに行き、手を取って起こすと、熱が去った」と述べています。「起き上がる」(ギリシア語で、エゲイロー)ということばに注目させ、死から立ち上がる復活を示そうとしています。(荒)奉仕できない状態は、死の状態に等しい。健康な人間は奉仕できる人だと言わんとしている。ちなみに、この箇所は「(専業)主婦の福音」と言われています。なぜかと言いますと主婦の役割を引き立たせています。イエスが手を取って起こされると、しゅうとめの熱は去り、彼女は一同をもてなしました。イエスの癒しは、私たちが自分に与えられた使命を生きることへと向かわせます。神の力はイエスを通してこの世にもたらされ、イエスに出会った者は神の国の実現に協力するようになります。それこそ、人間が渇望する、救いではないでしょうか。主よ、神から離れて倒れている私を癒してください。あなたからいただく使命を生きる喜びに立ち返らせてください。sese05 今わたしが罹っている熱病は何だろうか。イエスの差し出される手は、どこにあるだろうか。深く心を沈めてゆくと、イエスの手がわたしの痛むところに置かれ、わたしの手を取って引き起こして下さるのが分かる。あなたに起していただいたこの喜びを周りの人々と共に味わうことができますように。sese07

常識の世界に住んでいる者が、信仰の青空を見上げようとすると、そこに奇跡という雲がかかっていて、その望みを妨げているように見えます。信仰のある人にとっては、奇跡は当り前で、奇跡を行なう能力(ちから)のないイエスに祈る気持は起きません。しかし又、信仰を求めていながらまだ得られない人にとって、奇跡は実にやっかいなもので、天国の門前にいる赤鬼(あかおに)、青鬼(あおおに)のようなものです。奇跡が信仰を生むのか、信仰が奇跡を生むのか。どちらが先か分からない問題の例として「たまごが先か、にわとりが先か」というのがあります。しかしこれは創造の秩序から考えれば、親が子を生むのであって、子が親を生むのではないのだから、にわとりが先なのです。神様がにわとりを造り、にわとりがたまごを生むのです。信仰者の人生観には秩序があります。 「初めに神が天と地とを創造した」(創世記1・1)。これが聖書の世界観の大前提です。すべてのことはそこから始まります。新約聖書の信仰は、旧約の創造論を受け継いで、「初めに言(ロゴス)(神の子イエス)があった」(ヨハネ1・1)という前提から福音書のイエスの生涯が始まるのです。信仰は人間的思考の所産ではなくて、神の賜物なのですから、奇跡が分からないと言って思い悩むのではなく、信仰を与えて下さいと願い求めることが大切です。そしてその信仰は、復活のキリストに出会うという経験によるのです。生けるキリストに出会って倒される。そして彼に起こされる。すると倒される前の自分と、起こされてからの自分とでは本質的に全く異なっている自分を発見するのです。復活のキリストとの出会いという最大の奇跡を経験すると、他のもろもろの奇跡は、いかにもイエスにふさわしいものに見えてくるから不思議です。
自分には信仰があるかないのか、よく分からないという人がいます。けれども、アウグスティヌスがいうように、(信仰がないかもしれないが)信仰を望んでいる、神様のことをもっと知るようになりたい、、という状態はすでに信仰の一種です。あとは神様が存在しているかのように生活してみる、そこから信仰の成長がはじまるわけです。

「悪霊共に物言うことを許さなかった」。イエス様には一つの矛盾がありました。隠れて治療してさえも評判は立ってしまうのに、こんなに大勢の人をオープンに治してしまったら、当然うわさはうわさを呼んで、すべての人に知られてしまうでしょう。しかも尚、「人に語るな」と厳しく戒められるのです。これは「メシアの秘密」と神学者は呼んでいます。イエスはその全生涯を通して「キリスト」という称号を避けました。公生涯の終わり頃、民衆から隔絶した場所で、弟子たちに「わたしは誰か?」と尋ねました。弟子たちを代表してペテロが、「あなたはキリストです」(マルコ8・29)と答えるとイエスは「そのことを誰にも話してはいけない」と戒めました。 霊的存在である悪霊は弟子たちよりもはるかに敏感にイエスの正体を見破っていました。イエスと共に天の勢力が地上に突入してきた。さあ大変だ、と悪霊たちはその対策に懸命になっているのです。そして局地戦で、一つ一つの拠点が打ち破られていきます。イエスに負かされた悪霊は、弟子たちよりもはるかに勝った称号をイエスに捧げます。「あなたこそ神の御子です」(マルコ3・11、5・7、ルカ4・41)。 イエスはキリストであり、神の子であると告白することは正しいことです。しかも尚、それは間違っているのです。イエスは弟子達にも悪霊共にもそれを言わないようにと厳しく命じました。病人を癒し、悪霊を追放し、すぐれた説教をするイエスを人々は、「メシアが出現した」と言い、「神の子が来臨した」と言って彼を崇めるようになることは明らかです。ところが、この世で名声を博し、名誉を得ることはイエスの道ではありません。イエスがなし遂げようとしているキリストの御業は、この世の権力者達から棄てられ、殺されることによって成就されるのです。人々が願い求める栄光のキリストではなく、人々が顔を背ける苦難のキリストです。「あなたこそキリストです」と告白したペトロが考えていたキリストは、栄光のキリストでした。そこでイエスは、十字架と復活のキリストについて語りました(マルコ8・31)。するとペトロはそのようなキリストに反対し、イエスを諫めました。イエスは怒り、「サタンよ、引き下がれ!」と一喝(いっかつ)しました。ペトロのキリスト告白は、サタンのそれと同じだったのです。そこにサタンの遠謀深慮(えんぼうしりょ)が見られます。サタンの手下の悪霊共が、イエスをキリスト、神の子と言いふらすことによって、人々を誤ったキリストへと導き、真のキリストへの道を閉ざそうとする魂胆(こんたん=たくらみ、策略)です。「伝承された称号を鵜呑みにし、イエスにそのレッテルを貼るようなことをするやいなや、人はもはや先入観なしに彼に出会うことができなくなる」(D・シュヴァイツァー)。 イエスはペトロを厳しく叱責した後、「わたしの後に従って来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい」(マルコ8・34)と命じました。これは他人事(ひとごと)ではありません。私たちはいかなるイエスを信じ、どのようなキリストを宣べ伝えているのでしょうか。「私は君たちの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと決心した」(コリント第一書2・2)。パウロの戦いも又、この点にありました。
http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0103_mark_.html