マルコ 14:12-16, 22-26
教会の建物の伝統的な作りでは、ご聖体が安置してある聖櫃は、祭壇奥中央にあったのですが、最近は脇のほう、あるいは別のところに安置してある教会が増えてきたことに気づかれた方も多いでしょう。ご聖体に向かってひたすら祈る人々の姿も減っているのではないでしょうか。そう言えば、かつては大々的に行われていた聖体行列や聖体賛美式などもあまり行われなくなってきました。ちょっと淋しい気がします。なぜご聖体に対するさまざまな信心が後退していったのでしょう。公会議以降、聖体は本来晩餐の記念であるミサの枠組みの中において正しく意味を持つということが言われ、それに従って典礼のあり方が刷新されていったからでしょうか。それなら今日、ご聖体の本来の意義について反省してみたいと思います。最後の晩餐とその記念であるミサについて今一度学びたい。
今日の福音では、イエスが弟子たちと記念する「過越の食事」を準備するありさまがまず詳しく描かれています。過越の食事は、ユダヤ人にとって最も原点となる大切な記念です。イエスや弟子たちにとっても心をこめて準備すべきものだったのでしょう。なぜなら、あの出エジプト、とりわけ選びの民が生まれたシナイの契約の出来事は、すべてのユダヤ人にとって信仰の基盤となる出来事だったからです。
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ)
「これは、主が……あなたたちと結ばれた契約の血である」(出エジプト)
イエスの言葉とモーセの言葉が酷似していることに気づかれるでしょう。モーセは、雄牛を屠ってその血によって民と神を結ぶ契約を立てました。ところがイエスは、「わたしの血」による新しい契約で旧い契約を置き換えられたのです。その際、単に一般的に「血」ではなく「多くの人のために(ルカでは、あなたがたのために)流される血」です。これはパンの言葉においても同じです。ルカは「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体」としています。つまりイエスが晩餐において私たちに与えられたのは、ご受難において壊されたキリストの体であり、十字架上で流されたキリストの血であります。
つまり次のようなことです。イエスは、ご自分の暴力的な死を覚悟し、その上で最後の晩餐において、このような自分の苦しみと死は、ひたすらあなたがたへの愛のためであると宣言し、パンとブドウ酒の形でこの愛の受難と死をいつまでも記念するようにと命じられたということです。イエスのご受難と死は、彼の福音の究極的なあかしです。イエスは神さまの人間への無条件の愛を説き、身をもって示されました。それが最終的形で示されたわけです。パウロは、このことを顧みて次のように言っています。「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5:8)と。
パウロはここで「わたしたちがまだ罪人であったとき」と付け加えています。モーセの契約では、「もしわたしの声に従い、わたしの契約を守るならば」(出 19:5)と条件付けられています。だから選ばれた民は律法という契約条件を真剣に守ろうとしてきました。神さまの選びと慈しみが彼らから去らないように。イエスの契約は神さまからの一方的契約、つまり無条件の契約でした。事実、ユダの裏切りやペトロの否認に始まるご受難は、あらゆる人々の弱さや不純さ、不忠実がイエスに負わされていく過程でした。つまり契約相手である「あなたがた」不在の中で流された血による契約であり、そのために決してそれ以上踏みにじられる可能性を持たない「永遠の契約」となったということです。
このように見ると、最後の晩餐は新しい契約の締結であり、ご受難と死はその履行であり、ミサはその更新であるということになります。イエスは晩餐の場において弟子たちやその他の人々の重荷をすべて自分の苦難として受け入れるという愛の約束をすることによって、神の愛の約束を示されたのです。後代もパンとブドウ酒の中で現存するご自分の捨て身の愛を記念することによって、この神の愛を常に新たにいただきなさいと言われているのです。
ミサは、神さまの私たちに対する一方的な慈しみとゆるしの恵みへの参与です。そこに復活し今も生きておられるキリストが現存されます。私たちはそこにおいてキリストと交わり、互いの交わりを持ちます。このような「愛の形見」であるご聖体を、ミサ以外でも大切にし、これに向かって祈り、敬うのは大切なことですし、当たり前なことです。
ミサにおいてパンとブドウ酒がキリストの体と血に変わることを「実体変化」と呼んできました。これに対して、パンやブドウ酒の「目的変化」「意味変化」と表現する方がよいのではないかといった説が出てきたことがありました。パンにおけるキリストの現存を表すのに、ちょっとマテリアリスティックに響く実体変化と呼ぶより、パンの存在意義なり目的なりが変わるとした方がより適切だろうということです。これに対して、パウロ6世は『ミステリウム・フィデイ』(1965)という回勅で、それらの言葉は実体変化が示す内容を十分に表していないとされました。様々な意見にはどれにもそれなりの理由があると思いますが、実体変化という言葉には、他の物わかりのよい表現と違い、本当のキリストの体と血に変わるのだぞ、といった強い意向が感じられます。
聖書にも、これに劣らない「強さ」が感じられます。ヨハネ福音では「血を飲む、肉を食べる」となっています。ご聖体に示されるこうした「生々しさ」は、私たちの信仰の本質的な側面であるように思われます。ヨハネは、初めから、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)としています。この神の愛のお言葉は、「肉」となったナザレのイエスという姿を取り、最終的には十字架上で引き裂かれた肉体、流された血という表現を取りました。これが神の私たちに対する何をも顧みない愛のみ言葉となったのです。ですから、ご受難の前の晩餐において、イエスはパンとブドウ酒を取って、「これはあなた方のために渡される体である」「あなた方のために流される血である」と言っておられるのです。つまり、ご聖体の「御血・御体」は、ただ漠然とキリストの体と血なのではなく、私のために苦しみ死んでくださったキリストご自身の体であり、血なのです。
このように考えると、聖体においてキリストご自身が現存し、私たちの傍らに留まってくださること、拝領において私たちが身も心もキリストと一つに結ばれるということは当然のことなのです。
私たちは「クリスチャン」と呼ばれています。「信者はもう一人のキリスト」とも言われてきました。私たちは、あのガリラヤで教えを説かれ、人々を支え、最後にはご自分に何一つ保留することなくご自分のすべてを犠牲とされたキリストと今現在結ばれているからこそ、「キリスト者」なのです。
天の御父への信頼も、聖霊の恵みへの参与も、ひたすらキリストを信じ、キリストと共にあってのことです。そして、ご聖体は、こうしたキリストの愛の形見なのです。
前教皇ヨハネ・パウロ2世は、回勅『教会にいのちを与える聖体』(2003)を出されました。そこから、「聖体の年」がありました。去年10月にバチカンで開催されたシノドスは、「聖体」をテーマとしています。いずれも、ご聖体に対する信心を学びなおすように呼びかけています。ご聖体――聖櫃に安置してあるパンによって、これまでどれほど多くの人々が生かされてきたことでしょう。赤い聖体ランプが灯る場にひざまずき、ご聖体に向かって祈るとき、心がいのちと平安に満たされていきます。教会は折ある毎に聖体賛美式を行い、外にまで出て聖体行列を行ってきました。そしてなによりミサにおいてキリストの体との交わりを持つのです。今日、ご聖体を受け、新たな思いでキリストとしっかり結ばれましょう。
http://www.ignatius.gr.jp/fukuin/2003/03-06-22.html
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尼崎 2012年
今日の福音書はいわゆる聖木曜日の出来事を語っています。あくる日、聖金曜日、イエスは十字架でなくなり、33歳の人生を閉じます。土曜日があって、休憩でしょうか、そして日曜日蘇りました。さて、復活の日曜日にはイエス様は何歳だったでしょうか?34歳でしょうか?
それは違います。もうイエス様は年を取る次元を超えています。今やすべての時代の人々と同時代になりました。それは、どうやって可能でしょうか。
「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった」(創世記1:3)。神様は言葉で無から世界を作りましたように、イエスはパンを取って言われた。これは私の体である。神様は無から物事を作り出すことができるように、物事の本質を変えることができます。ミサにおいてパンとぶどう酒がキリストの体と血に変わることを「実体変化」と伝統的に呼んできました。たとえば犬という実体も、大きさ、色、形など犬それぞれに異なっているが、 この大きさ、色、形などを属性と言います。あるいは、自分という実体がある。5歳だった自分と30歳だった自分は外観は違うが、同じ自分である。若いとき痩せていたが、今太っている、子供のころ130センチだったが今もっと高くなったけれども、同じ自分に違いない。属性は変わっても実体は変わらない。
ご聖体の場合は逆なんです。パンの属性(外観)は変わらないが、実体が変わる。たとえば、皆さん今座っているベンチは、もともとは木だったのです。木を切って、丸太を作って、木材になる。大工さん、これをベンチにする思いがあって、今ベンチになった。木材の色とか形とか性質(属性)をとどめているが、だれもこれを樹木だと思わない。今はベンチなんです。実体は変わった。石が壁となって、この教会の建物になった。石は実体変化して、今は教会となった。設計士の思いで、石、セメント、鉄やパイプなどは、建物になった。
設計士、あるいは大工さんと同じように、キリスト様にも、もっと深いレベルですが、思いがあって、パンを取って、これをご自分の体に変えました。マジックではありません。実体変化です。新しい創造です。実体変化という用語は聖書にはないが、聖書に基づく信仰内容を説明しようとしたものです。けれども、こんな説明には(アリストテレスの)哲学が入るから。これに対して、パンやぶどう酒の「目的変化」(transfinalization)、「意味変化」(transignification)と表現する方がよいのではないかといった説が出てきました(50年前あたりから)。
例えば、朝食にバターをつけて食べる食パンの目的はおなかを満たすことであり、体を維持し、タンパク質などを取ることです。ミサのときにいただくパンの目的は違うから「目的変化」というわけです。あるいは、結婚式のときに新郎と新婦は交わす杯は、居酒屋で飲む酒とは意味は違う。「意味変化」というわけです。