Sunday, May 6, 2012

Corpus Domini B

キリストの聖体 B            園田2006
マルコ 14:12-16, 22-26

教会の建物の伝統的な作りでは、ご聖体が安置してある聖櫃は、祭壇奥中央にあったのですが、最近は脇のほう、あるいは別のところに安置してある教会が増えてきたことに気づかれた方も多いでしょう。ご聖体に向かってひたすら祈る人々の姿も減っているのではないでしょうか。そう言えば、かつては大々的に行われていた聖体行列や聖体賛美式などもあまり行われなくなってきました。ちょっと淋しい気がします。なぜご聖体に対するさまざまな信心が後退していったのでしょう。公会議以降、聖体は本来晩餐の記念であるミサの枠組みの中において正しく意味を持つということが言われ、それに従って典礼のあり方が刷新されていったからでしょうか。それなら今日、ご聖体の本来の意義について反省してみたいと思います。最後の晩餐とその記念であるミサについて今一度学びたい。
今日の福音では、イエスが弟子たちと記念する「過越の食事」を準備するありさまがまず詳しく描かれています。過越の食事は、ユダヤ人にとって最も原点となる大切な記念です。イエスや弟子たちにとっても心をこめて準備すべきものだったのでしょう。なぜなら、あの出エジプト、とりわけ選びの民が生まれたシナイの契約の出来事は、すべてのユダヤ人にとって信仰の基盤となる出来事だったからです。

「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ)
「これは、主が……あなたたちと結ばれた契約の血である」(出エジプト)

イエスの言葉とモーセの言葉が酷似していることに気づかれるでしょう。モーセは、雄牛を屠ってその血によって民と神を結ぶ契約を立てました。ところがイエスは、「わたしの血」による新しい契約で旧い契約を置き換えられたのです。その際、単に一般的に「血」ではなく「多くの人のために(ルカでは、あなたがたのために)流される血」です。これはパンの言葉においても同じです。ルカは「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体」としています。つまりイエスが晩餐において私たちに与えられたのは、ご受難において壊されたキリストの体であり、十字架上で流されたキリストの血であります。
つまり次のようなことです。イエスは、ご自分の暴力的な死を覚悟し、その上で最後の晩餐において、このような自分の苦しみと死は、ひたすらあなたがたへの愛のためであると宣言し、パンとブドウ酒の形でこの愛の受難と死をいつまでも記念するようにと命じられたということです。イエスのご受難と死は、彼の福音の究極的なあかしです。イエスは神さまの人間への無条件の愛を説き、身をもって示されました。それが最終的形で示されたわけです。パウロは、このことを顧みて次のように言っています。「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5:8)と。
パウロはここで「わたしたちがまだ罪人であったとき」と付け加えています。モーセの契約では、「もしわたしの声に従い、わたしの契約を守るならば」(出 19:5)と条件付けられています。だから選ばれた民は律法という契約条件を真剣に守ろうとしてきました。神さまの選びと慈しみが彼らから去らないように。イエスの契約は神さまからの一方的契約、つまり無条件の契約でした。事実、ユダの裏切りやペトロの否認に始まるご受難は、あらゆる人々の弱さや不純さ、不忠実がイエスに負わされていく過程でした。つまり契約相手である「あなたがた」不在の中で流された血による契約であり、そのために決してそれ以上踏みにじられる可能性を持たない「永遠の契約」となったということです。
このように見ると、最後の晩餐は新しい契約の締結であり、ご受難と死はその履行であり、ミサはその更新であるということになります。イエスは晩餐の場において弟子たちやその他の人々の重荷をすべて自分の苦難として受け入れるという愛の約束をすることによって、神の愛の約束を示されたのです。後代もパンとブドウ酒の中で現存するご自分の捨て身の愛を記念することによって、この神の愛を常に新たにいただきなさいと言われているのです。
ミサは、神さまの私たちに対する一方的な慈しみとゆるしの恵みへの参与です。そこに復活し今も生きておられるキリストが現存されます。私たちはそこにおいてキリストと交わり、互いの交わりを持ちます。このような「愛の形見」であるご聖体を、ミサ以外でも大切にし、これに向かって祈り、敬うのは大切なことですし、当たり前なことです。

ミサにおいてパンとブドウ酒がキリストの体と血に変わることを「実体変化」と呼んできました。これに対して、パンやブドウ酒の「目的変化」「意味変化」と表現する方がよいのではないかといった説が出てきたことがありました。パンにおけるキリストの現存を表すのに、ちょっとマテリアリスティックに響く実体変化と呼ぶより、パンの存在意義なり目的なりが変わるとした方がより適切だろうということです。これに対して、パウロ6世は『ミステリウム・フィデイ』(1965)という回勅で、それらの言葉は実体変化が示す内容を十分に表していないとされました。様々な意見にはどれにもそれなりの理由があると思いますが、実体変化という言葉には、他の物わかりのよい表現と違い、本当のキリストの体と血に変わるのだぞ、といった強い意向が感じられます。
聖書にも、これに劣らない「強さ」が感じられます。ヨハネ福音では「血を飲む、肉を食べる」となっています。ご聖体に示されるこうした「生々しさ」は、私たちの信仰の本質的な側面であるように思われます。ヨハネは、初めから、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)としています。この神の愛のお言葉は、「肉」となったナザレのイエスという姿を取り、最終的には十字架上で引き裂かれた肉体、流された血という表現を取りました。これが神の私たちに対する何をも顧みない愛のみ言葉となったのです。ですから、ご受難の前の晩餐において、イエスはパンとブドウ酒を取って、「これはあなた方のために渡される体である」「あなた方のために流される血である」と言っておられるのです。つまり、ご聖体の「御血・御体」は、ただ漠然とキリストの体と血なのではなく、私のために苦しみ死んでくださったキリストご自身の体であり、血なのです。
このように考えると、聖体においてキリストご自身が現存し、私たちの傍らに留まってくださること、拝領において私たちが身も心もキリストと一つに結ばれるということは当然のことなのです。
私たちは「クリスチャン」と呼ばれています。「信者はもう一人のキリスト」とも言われてきました。私たちは、あのガリラヤで教えを説かれ、人々を支え、最後にはご自分に何一つ保留することなくご自分のすべてを犠牲とされたキリストと今現在結ばれているからこそ、「キリスト者」なのです。
天の御父への信頼も、聖霊の恵みへの参与も、ひたすらキリストを信じ、キリストと共にあってのことです。そして、ご聖体は、こうしたキリストの愛の形見なのです。
前教皇ヨハネ・パウロ2世は、回勅『教会にいのちを与える聖体』(2003)を出されました。そこから、「聖体の年」がありました。去年10月にバチカンで開催されたシノドスは、「聖体」をテーマとしています。いずれも、ご聖体に対する信心を学びなおすように呼びかけています。ご聖体――聖櫃に安置してあるパンによって、これまでどれほど多くの人々が生かされてきたことでしょう。赤い聖体ランプが灯る場にひざまずき、ご聖体に向かって祈るとき、心がいのちと平安に満たされていきます。教会は折ある毎に聖体賛美式を行い、外にまで出て聖体行列を行ってきました。そしてなによりミサにおいてキリストの体との交わりを持つのです。今日、ご聖体を受け、新たな思いでキリストとしっかり結ばれましょう。

http://www.ignatius.gr.jp/fukuin/2003/03-06-22.html

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                             尼崎 2012年

今日の福音書はいわゆる聖木曜日の出来事を語っています。あくる日、聖金曜日、イエスは十字架でなくなり、33歳の人生を閉じます。土曜日があって、休憩でしょうか、そして日曜日蘇りました。さて、復活の日曜日にはイエス様は何歳だったでしょうか?34歳でしょうか?
それは違います。もうイエス様は年を取る次元を超えています。今やすべての時代の人々と同時代になりました。それは、どうやって可能でしょうか。

「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった」(創世記1:3)。神様は言葉で無から世界を作りましたように、イエスはパンを取って言われた。これは私の体である。神様は無から物事を作り出すことができるように、物事の本質を変えることができます。ミサにおいてパンとぶどう酒がキリストの体と血に変わることを「実体変化」と伝統的に呼んできました。たとえば犬という実体も、大きさ、色、形など犬それぞれに異なっているが、 この大きさ、色、形などを属性と言います。あるいは、自分という実体がある。5歳だった自分と30歳だった自分は外観は違うが、同じ自分である。若いとき痩せていたが、今太っている、子供のころ130センチだったが今もっと高くなったけれども、同じ自分に違いない。属性は変わっても実体は変わらない。

ご聖体の場合は逆なんです。パンの属性(外観)は変わらないが、実体が変わる。たとえば、皆さん今座っているベンチは、もともとは木だったのです。木を切って、丸太を作って、木材になる。大工さん、これをベンチにする思いがあって、今ベンチになった。木材の色とか形とか性質(属性)をとどめているが、だれもこれを樹木だと思わない。今はベンチなんです。実体は変わった。石が壁となって、この教会の建物になった。石は実体変化して、今は教会となった。設計士の思いで、石、セメント、鉄やパイプなどは、建物になった。
設計士、あるいは大工さんと同じように、キリスト様にも、もっと深いレベルですが、思いがあって、パンを取って、これをご自分の体に変えました。マジックではありません。実体変化です。新しい創造です。実体変化という用語は聖書にはないが、聖書に基づく信仰内容を説明しようとしたものです。けれども、こんな説明には(アリストテレスの)哲学が入るから。これに対して、パンやぶどう酒の「目的変化」(transfinalization)、「意味変化」(transignification)と表現する方がよいのではないかといった説が出てきました(50年前あたりから)。
例えば、朝食にバターをつけて食べる食パンの目的はおなかを満たすことであり、体を維持し、タンパク質などを取ることです。ミサのときにいただくパンの目的は違うから「目的変化」というわけです。あるいは、結婚式のときに新郎と新婦は交わす杯は、居酒屋で飲む酒とは意味は違う。「意味変化」というわけです。

Trinity A

三位一体の主日 A   
「父と子と聖霊のみ名によって」


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園田 2012年 野の百合会 2012年

塚口の近くに「ピッコロ・シアター」という劇場があります。そこに演劇学のセミナーが開かれています。皆さんの近くの映画館を考えてもらってもけっこうです。なぜ人は高いお金を出してでも劇や映画をみに行くでしょうか。たぶん、そこに日常生活と違う時間と空間があり、日常生活にないような楽しみがあるからでしょう。また、文学作品や映画には、自分と世の中の本当の姿、意味があるからでしょう。
劇場を営んでいく、あるいは映画を作るには必ず三つが必要です。まず、劇作家、脚本家です。例えば、シェイクスピア、近松門左衛門、世阿弥のようにドラマを書く人。作家は、あまり舞台に出て来ないが、すべての始まりです。第二に、俳優者、女優たちですね。作家が考えた主人公を演じる人たち。そして、三つ目に監督、あるいはプロデューサー、ディレクターです。監督は、作家の思いを受けて具体的に演劇に実現させます。スイスの有名な神学者バルタザールは、『演劇神学』(ドイツ語、全五巻)という有名な著作を発表しました(残念ながらまだ和訳されていません)。その中で、バルタザールは世界は劇場であると言っています。脚本家は父なる神様、舞台は天と地の間に設定されています。ドラマは昔から始まっています(今日の第一朗読はちょうどそのあらすじ、あらましを語っています)が、決定的な主人公は神の子イエス・キリストです。彼はドラマの途中で舞台に現れて、父の脚本に基づいて演じました。作家の本当の思いを伝えて演じました。そして、監督は、聖霊です。さて、私たちもこのドラマに参加するように呼ばれています。私たちも俳優、女優となっています。俳優の幸せは、やはり作家の思いどおりに、監督の指示に従って演じることでしょう。

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伊丹  2008年5月18日

「父と子と聖翌のみ名に入れる洗礼を授け……」(マタイ28・19)

「三位一体論」などというと、人間の頭で神の神秘の内面を解き明かそうとする大(だい)それた企てであって、実際の信仰生活とはかかわりの薄いことだと思われるかもしれません。けれども古代の神学者のなかには、これを「ダンス」という具体的イメージでとらえた人もいました。三位一体とは、いわば「シャル・ウイ・ダンス?.」-
'96年に大ヒットを記録した周防正行(すお まさゆき、1956年10月29日 - )監督作「Shall We ダンス?」。しがない会社員が社交ダンスに目覚め、ダンスを通して人生の意味を再発見していくさまを感動的に描いた本作が、ハリウッド・リメイク版(2004)年で日本上陸! 日本版で役所広司(やくしょ こうじ)が演じた冴(さ)えない会社員をリチャード・ギア、草刈民代(くさかり たみよ)が演じた美しきダンサーをジェニファー・ロペスがそれぞれ演じ、オリジナル版に忠実なストーリー展開の中にハリウッド版ならではのゴージャス感がただよう。まさに“本領発揮”といえるジェニロペの情熱的なラテン・ダンスは見ごたえ十分!

STORY● 妻と子ども二人と暮らす弁護士のクラーク(R・ギア)。家族に囲まれた平穏な暮らしを送りながらも、どこか人生に空しさを感じていた。そんなある日、クラークは通勤電車の中からダンス教室の窓辺にたたずむ美しい女性(J・ロペス)に目を留める。衝動的にダンス教室を訪れたクラークは、そのまま社交ダンスのレッスンに参加することに。
日本中に「社交ダンス」ブームを巻き起こしたあの名作。
JR尼崎の近くにキッズ・ダンス教室があります。「子供の才能は音楽・ダンスでどんどん伸びる、豊かな心は育まれる」と書いてあります。
父と子は、聖霊において互いに一つになりながら踊っておられる。神は、一人きりで働かれるのではなく、互いに歩調を合わせ、片方が行うことを他方がうけとり、舞うようにご自分のいのちを喜びつつ、それをまわりにもふりまいておられるというわけです。現代は、グローバル化が進み、宗教をはじめとする価値観も多様となり、ますます柔軟な考え方と態度が求められる時代です。物事を結局「我」中心に見てきた、これまでの私たちの硬直した生き方にも反省がうながされています。それが地球に生きる人間同士を切り離し、内向きさせ、恐れや冷たさとなって生命の流れを滞(とどこお)らせてきたことが明らかだからです。ですから、今私たちが求めていくべきは、人々が和解し、手をとり合って共に豊かになっていくための「交わり」でしょう。神が三位一体であるというのは、その神が愛の神、交わりの神だということだと思います。私たちの神は孤独で不動な機械のようなものではなく、いのちの結びつきを開花させる生きた方なのです。祝福のうちに万物を産み出し、私たちの身体と歴史の中に受肉し、そこに脈打ち、潤わせ、人間が互いのための者へと変わるよう、ご自分自身の愛の交わりの「縁(えにし・めぐり合わせ・因縁・ゆかり・よしみ・絆・つながり・よすが)」のうちへと私たちを巻き込む方であるわけです。
映画『シャル・ウイ・ダンス?』で描かれたのは、マンネリ化した日常生活の中に主人公がダンスの楽しみを見出し、自分の世界を拡げていく喜びでした。神もそのように、救いの世界の広さへと私たちを誘い出そうとしておられるのでしょう。さあ、私たちも神のダンスの輪の中へ、ご一緒に!
(光延(みつのぷ)一郎・イエズス会司祭)

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三位一体の神とは、いったいどういう神なのでしょう。まず、人間の頭で理解することはできないことは確かです。しかしまた、まったく理解できないと考える必要もないと思います。神が人間に与えてくださった知恵を最大限に使って、あるいはこうも説明できる、という面も必ずあるはずです。もちろん一つの説明は一つの限定であり、説明してしまえば、もう本当の神の姿とかけ離れてしまうのではあってもです。ただおぼろげながら、ある一面からの黙想を試みてみたいと思います。

まず創世記-章26-27節の「我々に似るように、我々のかたちに人を造ろう。……神はこのようにご自身のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」という文を手がかりに黙想してみたいと思います。神は愛だと言います。(一ヨハネ4・8)神がもし孤独なひとりぽっちの絶対者であるなら、どうして愛と言えるでしょう。完全者は自分だけですから、神は自分自身しか完全に愛せません。だとしたら、永遠におのれだけを愛し続けて、他の一切を必要としないナルシストでしかありません。もし愛であるなら、愛する相手を必要とします。しかも完全な愛をすべて受け止めることのできる、つまり全能の相手が必要になってしまいます。これでは完全者が二人必要になって、矛盾が生じます。
しかし今は、哲学的矛盾を一応かっこに入れて考えてみましょう。第一の方を父、第二の方を子と呼ぶならぱ、父と子は違った存在でありながら(同じ存在なら自己愛になってしまいますので)、同じ大きさ、同じ全能の力を持つはずです。そして子は、父の全身全霊をこめた愛を、すべてガッシリ受け止められる方であり、その愛をすべてまた父にお返しできる方であるはずです。このお二方は完全に、相手のために自分のすべてを与え合っていらっしゃるのでしょう。しかし困ったことにそうであれぱ、やはり他者をまったく必要としなくなるのです。永遠からお互いに愛を交換し合っていて、他者はじゃま者になるのです。男女の愛も、まったく違った性を持ち、人として同じ大きさを持っているからこそ、愛の交換が可能なのです。人間と犬とであれば、違っていても同じ大きさではないので、人格をかけた愛とはなり得ないのです。ただ男女が愛し合う時、排他的なものになりがちです。
第三者は、それが男であれ女であれ、二人の愛を壊す者として登場します。愛の博愛性と排他性の矛盾です。しかし人間の愛の場合、肉体を通しての排他性は正しいと思いますが、精神的には広く愛すべきでしょう。つまり二人が互いを見つめ合うだけでなく、二人が神の愛に目を向ける必要があります。神への愛、神からの愛の中で、二人の愛は正しいものであり、もっと確かなものとなるからです。ですから神の愛の中での霊的な博愛性は、やはりあるべきなのです。男女の愛の場合にも、愛は一体化を目指します。しかしそこには、知らず知らずのうちに、子どもの存在が前提とされています。つまり、二人の愛の具体的な形としての子どもです。この子どもは第三者として現れるのですが、二人の愛を壊すどころか、さらに強く結びつける存在として登場します。二人と違った存在、しかし人として同じ大きさを持ち(赤子といえども)、父母の愛を受け取って返せる存在なのです。
お父さんの部分もお母さんの部分も持ち、またまったく違った人格なのです。お父さんが赤ちゃんを愛することは、お母さんを愛すかことと同じですし、お母さんが赤ちゃんを愛するのは、お父さんを愛することと同じなのです。しかしまた、自分の赤子だけが他の赤子と違ってかわいいのも事実です。つまり肉体的に考えたら、家族愛というものも排他的なのですが、その愛が神に向かう時のみ、広い愛、社会的な愛、博愛に広がるのです。家族愛でも自分の家族のことしか考えない愛は、閉じた愛であって、本当の愛ではないと思います(家族エゴ)。しかし三位一体は、肉体を持っていません。純粋に霊的な存在です。ですから父と子の排他的愛というのはあり得ません。父と子の愛は、霊的具体としての第三者、つまり聖霊に向かいます。聖霊は父の霊でもあり、子の霊でもあります。^ヨハネー5・26、父からでる真理の御霊〔私は真理である〕)父と子とは違った存在で、父の愛も子の愛もすべてを受け取ることのできる、父と子と同じ大きさを持った方であるはずです。

「聖霊は私のものを受けて、あなた方に知らせるからです。父が持っておられるものは皆私のものです。ですから私は、御霊が私のものを受けて、あなた方に知らせると言ったのです」という言葉は、これを示しているようです。「マリアは聖霊によってイエスを宿す」ということも、聖霊を通して父と子の愛が人間に、そして人間を通して全被造物にあふれ出ることを示しているようです。聖霊は愛の拡散の原理のような気がします。もちろん神がみ言葉によって全世界を創造なさったことも確かですが。つまり三位の愛は、お三方がそれぞれ違ったペルソナでありながら、互いにおのれを完全に与え合う自己放棄、自己否定によって完全に一つであり、その愛はつねに外に向かってあふれ出ている、と言っていいのでしょうか。もちろん外というのも変な表現ですが、人間の言葉では表現できませんので…。
しかしこのような想像を絶する三位の愛と、人間は対等に愛し合うことは不可能だと思います。なにせ大きさが全然違うのですから。神が本気で人間を愛しても、人はまったく受け取れないでしょうし、受け取ろうとすれば、人は一瞬にして焼け焦げてしまうでしよう。そこでその三位の愛が、神の子であり人の子であるイエスの内に、聖霊を通して輝き出るのではないでしょうか。つまり三位の燃える愛を、人の子イエスに翻訳してくださったような気がします。私たち人間は、人間イエスを愛することを通して、ある意味で三位と対等に愛し合えるのだと。

三位の愛は太陽のように、ダイナミックな愛の交換によって、その愛の熱をすべて被造物に放射しているのでしょう。三位一体は、私たち人間が目指すべき、あるべき家族の姿であり、やがて全被造物が大きな家族として結ばれるべき源泉であり、原動力なのだと思います。(静)

Pentecost B

聖霊降臨の主日B
ヨハネ福音15:26-27,16:12-15        園田

2006-06-04 08:36:42 | Weblog
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あいさつ・招き
皆さん、聖霊降臨の祝日にあたり、私たち一人一人の歩みの上に、また教会共同体の歩みの上にも、神の霊が注がれますように、特に賢明と知恵の霊(賜物)が送られますように、今日のミサを捧げることといたしましょう。

「今日は聖霊降臨の祝い日です。」主が復活され50日が過ぎ、祈っていた弟子たちに聖霊が降りました。これを記念する日です。
聖霊は炎の舌の形で使徒たちの上に降ります。以前は恐れて家に閉じこもっていた彼らが皆の前で神の業を告げ知らせます。遠い所から集まって来た人々が自国の言葉であるかのように彼らの話を理解することができたというのです。使徒たちは聖霊の息吹を受け、平和とゆるしと命の福音を伝える言葉を見出したのです。「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
一人一人が自分の置かれている文化の中で、理解するのです。こうして皆が、お互いを理解しました。聖霊は言葉の違いを超えて、諸国の民に真の神を知らせ、一つの民にします。罪によって互いに理解できなくなっていた人々を、一つの信仰に集めます。聖霊の賜物は弟子たちの共同体をメシアであるイエスを証しする新しい神の民に変容させました。ですからこの日は教会の誕生日(集会祈願、叙唱参照)でもあります。
この交わりにおいて各メンバーは独特の役割を果たしています。自分に与えられた賜物に従う時、神の民として働いているのです。
ときどき自分に閉じこもってしまうことはないでしょうか。聖霊に動かされて、自分から出て、人のために生きると、それこそが充実した人生であるとわかります。与えられた賜物は天の父からの招きでしょう。苦しむ人、不正を受けている人、飢えている人、世の不条理を味わっている人に神からの愛を伝えましょう。おびやかされている命を守りましょう。今日、弟子たちと共に聖霊の恵みを祈り求め、天の父の御心を果たす喜びを生きていくことができますように。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(26節)。このように、聖霊について簡単に述べられています。この聖霊こそが、まことの弁護者であり、私たちがいかなる状態にあっても、励まし、力づけてくださいます。また間違いをおかしていたら、ただしてくださるでしょう。
パウロは、「"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)と言いました。
そういう風に「聖霊が私たちを導いてくださる。イエス・キリストと一つにしてくださる」という信仰を持って、自分を謙虚に見つめながら、苦しみにあう時には、イエス様の姿を思い起こしながら、苦難に打ち勝っていきたいと思います。
また、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」(12節)とおっしゃいました。私自身、「この復活説の間、修道院の平日ミサで、ヨハネ福音書を読んで解説してきたが、正直いって、「難しいなあ」と思っていたのを、何だか見透(みす)かされている思いがしました。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(13節)と付け加えられています。「弁護者」と呼ばれた聖霊が、ここでは「真理の霊」と呼ばれます。聖霊は、私たちに真理を悟らせてくれるからです。
「その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(13節)。ここで聖霊の二つの大事な働きについて述べられています。一つは、「自分から語るのではなく、(父なる神やイエス・キリストから)聞いたことを語る」ということ、もう一つは、「これから起こることを告げてくれる」ということです。 つまり、イエス・キリストのことを思い起こさせてくれるということ、キリストから離れて行ってしまわないように。しかしながら、それでいて同時に過去のものになってしまわないように、「いつも新しくイエス様の言葉がよみがえってくるという形で、私たちに何をすべきかを教えてくれる」。それが聖霊であろうと思います。
さてそういう風に弟子たちに慰めと励ましを与えつつ、「いくら言葉を尽くしても、あなたたちは今理解することはできないだろう」と言いながら、言葉を置いていかれました。この時弟子たちは、まだ不十分な理解のまま、これらの言葉をあたためていったのでしょう。そして十字架と復活の後に、「ああイエス様がおっしゃったのは、こういうことだったのか」と、新しく聖霊に教えられていったのではないかと思います。
そのことは今日の私たちにもあてはまることであります。聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。
現代社会は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。聖書という書物は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし私は、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれる書物、それがみことば、聖書であります。私たちは、そうした思いで、この聖書に近づきた、そのようにしてご自分の信仰を深めていただきたいという思いが生じれば、それは聖霊の賜物であると言えると思います。宝の持ち腐れをしているクリスチャンは結構多いと思います。
私たちは赦しの秘跡、ご聖体の秘跡を受けて、聖霊・神様がいつも共にいるようになる。それは不都合だとか、窮屈だとか、自由が奪われる。そんなふうに感じる人がいるかもしれません。しかし神様は、決して拘束し、見張り、罰したりしません。私のことをすべて知り尽くした上で、それでも愛してくださろうとしておられる神です。
幼い子供は親が自分を知り尽くしているからと言って、やりづらい、堅苦しいと思うでしょうか。かえって遠慮なく甘えて安心するのではないでしょうか。知られていることは安心でもあります。 人間は、本当は自分のことすべて知ってほしいと願っているのです。外見・表面上の自分だけでなく、隠れた自分、他人に出せない自分、自分の弱さも、寂しさも、むなしさも、罪もすべてひっくるめて分かってくれる方を待ち望んでいるのです。しかもそれらすべてを分かった上で、すべてそのまま、ありのままに受け止め、それでも良いと言って次の一歩、成長につなげてくださる方を求めているのです。神様こそ、そのような方です。
だからこそ、いつも私を大切に、時にハラハラしながらも見守り、たえず回心の助けの手を差し伸べようとしてくださる神様・聖霊の働き。それに答えて、私たちは自分自身を、また同じように聖霊の宿っている他人を大切にする必要があるのです。こうしてイエス様の生き方を、生活の中でいつも表していくのがキリスト者の使命です。

参考ブリージ・マッケナ「祈り 恵みの泉」(聖母の騎士社1995)

Ascension B

主の昇天 B
【マコ16:15-20】

   
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2006-05-28 14:23:13 | 宝塚教会 
http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/s/%BE%BA%C5%B7
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皆様もご存知のように宝塚教会の主任司祭である岸神父様が安らかに主のもとに召されました。皆様もいろいろな思い出がおありかと思います。。私も大学ではいろいろとご指導を頂いた者の一人です。岸神父様は教会司牧、研究・教育、現在でも英知大学の名誉教授、客員教授としていろいろと幅広く活躍されていましたが、とても悲しく残念に思います。主の昇天もキリスト様の姿がこの世からきえ、現世とのお別れであり、また、新しい希望に満ちた世界の始まりでもあります。こうしたさまざまな思いを込めて今日のミサをささげることといたしましょう。
「使徒言行録に述べられているように、イエスは復活の後、40日にわたって弟子たちに現れました。その後、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」(使徒言行録1・9)。(...)このイエスの最後のわざは、二つの意味をもっています。まず何よりも「天」に上ることによって、イエスははっきりとしたしかたでご自分の神性を現しました。イエスは地上での使命を果たした後、自分がそこから来たところ、すなわち神のもとに帰りました。さらに、キリストは、人間性をもって天に上りました。この人間性をキリストはとり、また、この人間性が死者から復活したからです。
この人間性は、わたしたちの人間性であるとともに、変容され、神化し、永遠のものとされた人間性です。それゆえ昇天は、すべての人間の人格に具わる「究極的召命」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』22)を現します。すべての人は、愛と光と平和の国である、神の国の永遠のいのちへと招かれています。(教皇ベネディクト十六世の2006年5月21日の「アレルヤの祈り」のことば(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳)(2006.5.22)
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今日の福音は復活したイエス様が天に昇る前、弟子や私たち信者に授けることになる力、恵みについて記します。たとえば悪魔を追い出す力、蛇の毒でも死なないこと、病人に手をおけば治せる力などについてです。

このような「しるし」が列挙されていることは、初期の宣教活動の実際を伝える資料として貴重である。
福音の言葉が聖霊の力によって語られるところでは、「主も共に働き」、さまざまな力あるわざをもって福音の言葉が空しくないことを確証してくださることは、この福音書が書かれたときも現在も同じである。今も聖霊が働いてくださる場では、人の思いを超える不思議な出来事が起こる。
イエスの名によって行われるわざには、神の力が働きます。そのとき、このわざは神のわざになります。主は信じるものと共にはたらいてくださるからです。
常識の世界に住んでいる人間が、信仰の青空を見上げると、そこに奇跡という雲がかかっていて、理解を妨げているように見えます。信仰のある人にとっては、奇跡は当り前かもしれません。しかし又、信仰を求めていながらまだ得られない人にとって、奇跡は実にやっかいなもので、天国の門前にいるお鬼のようなものです。奇跡が信仰を生むのか、信仰が奇跡を生むのか。どちらが先か分からない
という問題があります。しかし、信仰は人間の産物ではなくて、神の賜物だとすると、奇跡が分からないと言って思い悩むのではなく、信仰を与えて下さいと願い求めることが大切です。そしてその信仰は、復活のキリストに出会うという経験によるのです。生けるキリストに出会って倒される。そして彼に起こされる。すると倒される前の自分と、起こされてからの自分とでは本質的に全く異なっている自分を発見するのです。復活のキリストとの出会いという最大の奇跡を経験すると、他のもろもろの奇跡は、いかにもイエスにふさわしいものに見えてくるから不思議です。
しかし今日の箇所は、正直言ってとまどいを感じます。 たとえば私は司祭として、聖霊の賜物をいただいているわけですが、残念ながら病気を癒すことはできません。蛇の毒をためしに飲んでみようなどとても思えません。
それは私の信仰が足りないからでしょうか?あるいは聖霊の働きが、今日もはや止まってしまったのでしょうか?
この当時の使徒たちの奇跡的な活躍ぶりに比べたら、今の司祭、信者は、何もできないと言っていいと思います。そればかりか、どこでも修道者の数が減り、今まで築き上げてきた多くの事業を手放すのを目の当たりに見るとき、またヨーロッパで教会や修道院が閉鎖されているのを思うとき、「どうして神はもっと聖霊を送って、初代の教会のような目を見張るような働きを今の教会でしてくれないのか」と言いたくなります。イエス様は天に昇ったまま、今の教会を見放してしまったのでしょうか?
確かに初期の小さな教会は、そのような奇跡によって強められ、大きくなる必要があり、力強い聖霊の働きが必要だった。でも今はその必要がなくなり、本来の姿に戻ったと言えるのではないでしょうか。
イエス様を見れば明らかです。イエス様は、神の子として与えられた力を、最期には使わずに、空の手になって、人間の力で退けられて、処刑される道を選んでいます。第二朗読にあったように、降りていく道を選んだのがイエス様の生き方です(エフェ4:10)。これに対し人間は、「神(メシア)なら自分を救えるはずだ」と言ってしまいがちです。しかしイエス様は、そうしなかったし、復讐とも一切無縁でした。 「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。父にお願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタ26:52-54)。それがイエス様の言葉です。
それに神の独り子はたとえ殺されたとしても復活して、自分の力・奇跡をまざまざと見せつけることもできた。自分を殺した祭司長たちには復活した自分を見せつけて、おどかしたりしなかった。そうして復讐や恐怖とは無縁の、回心するまでじっと待つ忍耐と愛の神の姿を示したのです。復活したイエス様が現れるのも裏切った弟子をゆるすためだけでした。
ペトロや弟子たちに目を転じたとき、彼らはイエス様の復活前は、イエス様について行くことでこの世の名誉が得られると考え、「あなたの右と左に座らせて下さい」と頼んだりしていたのです(マタ20:21)。だからこそ十字架を目の前にして逃げるしかなかったのです。しかしイエス様の十字架と復活を体験した後、確かに弟子たちは変わります。それは十字架にかかってまで、「私」を救いたいイエス様の愛を心から悟り、そのゆるしを知ったからです。
もちろん弟子たちが変わったのは、イエス様が単に無力なまま終わったのでなく、いったん人間の裁きに神の力を明け渡したが、それにもかかわらずどの権力者も手に入れることのできなかった、死んでも滅びない「永遠の生命」を復活で示し、イエス様がまことに「いのちの与え主」であること、また神の限りない赦しを知ったからに他なりません。

さて、私たちは、カトリック信者になったとはいえ、まったく普通の人間のままです。聖霊の助けによって何の勉強をしなくても外国の言葉を喋れることはない。病気を治すには、キリスト信者も地道に薬を開発し、またそれを飲み、危険な手術も受けなければなりません。

でもそのことを誇りにしたいと思います。 今は、イエス様やペトロやパウロが自分の力を見せつけなくなったように、教会も自分の力を見せつける時ではなくなった。
では私たち無力な信者は、今の時代にあって何をなすべきなのでしょうか。

それはたとえば、それぞれが自分の賜物に従ってできることを地道に行い、力を合わせキリストの体を全体として作り上げていくこと。
また「永遠の命があり、復活する者である」という御言葉を宣べ伝える者。
仮に力を持っていたとしても、いざというときには、それを投げ出せる者として生きること(ヨハ21:18)。
一方的に世話をする強者、上から与える者、恵まれたもの、教え込む者として、善意を押しつけるのでなく、「私も同じ弱さと問題を持っている。どうしたらいいのか分からない。でもそんな私を受け止めてくれる神様を知っている。だから一緒に祈ろう」と共に祈るものになること。
「マザーテレサのように自分の宗教を押しつけることなく、共に貧しく生きながら誰もしたがらないことを、着実にやり続けること」。それらのイメージではないでしょうか。
参考文献 ヘンリ・ナーウェン「イエスの御名で」(あめんどう)

[2012年追加、園田教会]
今週の木曜日の新聞にシスター渡辺和子の書籍は、5万部を突破したということで、広告が載っていました。タイトルは面白い、『置かれた場所で咲きなさい』。なるほど、セメントの隙間、アスファルトの穴からきれいな花が咲いたりします。私たちは必ずしも好ましい状況に置かれていると限らない。けれども、どこでも咲くことができる、と。
私たち一人一人が、様々な難しさの中で、キリストの弟子として花を咲かせることができたら、それこそ福音宣教伴われる、不思議な「しるし」となるでしょう。