Tuesday, October 21, 2014

30 per annum A

年間30主日 Α

【マタ22:34-40 最も重要な掟】

最も大切な二つの掟が示されました。「神と人を愛する」。このことです。

一つは神を愛せということです。神様とは宇宙万物の造り主で、今もこの世を最終的に治
めている存在です。そして時を越えて存在してる方。神のゆるしなしに起こることは何一つ
ないわけです。

ところで人間は自分で獲得したものは自分の手柄にする。一方で何か不都合なことがあれ
ば神様のせいにする。そういうところがあるのではないでしょうか。
たとえばある青年が受験でいい大学に入れたとします。すると自分で努力したからと思っ
ている。実際はいろいろな神様の守りがあってできたことです。まずは日本という恵まれた
国に生まれており、戦争がなく、病気で死ぬ確率も低く、義務教育も完全に行われている。
その中である程度恵まれた頭脳と環境があり、勉強をすることができたからこそ、受験で入
れたわけです。けっして自分だけの努力によるのではありません。そしてそれらの恵みに感
謝することはあまりなく、自分の努力、自分の力によると思ってしまうのです。自分のもっ
ているものはすべて神のもの。神からあずかっているに過ぎないのに。

ところでこの同じ人が受験に失敗するととたんにこうです。神様はどうしてこんなに努力
している自分を認めずに、意地悪ばかりするのか。私は神から見放されている。こんな神な
ど必要ない。神などいない。

まるで神様を自分の召使と思っているようです。実際こういう面が人間にはたくさんあり
ます。災害、事故。人間のせいであることが実は多いのに、守られていればそれは当たり前
、別に感謝するわけでもない。ところがそうでないととたんに神を恨み、神などいないと言
い出す。(受験する前に神社などで、絵馬などで神様にお祈りする学生はいますね。受かっ
たときに感謝しに行く学生はどのぐらいいるのでしょうか。)

こういう身勝手な人間に対し、イエス様はおっしゃるわけです。「神を愛しなさい。神の
計らいを信じなさい。神様がどんなにあなたを思っているか、そのためにイエス様を十字架
に遣わしてあなたの重荷や罪を身代わりに負った、そこまであなたを愛している神の愛を信
じなさい。そして神を愛しなさい」。

与えられたすべてのもの。それを神様からのものとして受け止め、できるだけ、そのとき
は望ましくないと思えても感謝していく。それができたときにいつも神様を愛することがで
きるようになります。そのことを忘れずにいつも神様に感謝し神様を愛することを忘れない
ようにしましょう。これが第一の掟です。

◇第二の掟は自分を愛するように隣人を愛せと言うことです。
裁判所で働く心理学者によりますと、家庭の中で暴力を振るう男性は、自分は最低の男だと思っている
そうです。そういいながら家族に暴力を振るい続けるわけです。自分を愛せない、自分は欠
点ばかりだからと言う人は多いです。しかし実際やっていることは、自分のことばかり考え
、自分のことばかり優先している。自分さえ大事にできないから、ましてや人も大事にしな
くていいかのようです。しかしこれは自分本位です。
◇子どもが聞きました。「ねえ、神様はなんでもできるんでしょ?」「そう。なんでもでき
るよ」。

「じゃあ、どうして戦争をやめさせたり、食べ物がない子に 食べ物をあげてくれないの?」

「そうねぇ。神様にお願いしてみたら?」

その後しばらくして。「お祈りしたら同じことを神様から聞かれたの。どうして君は同じ

ことをしないのか」って。ここに神を愛し、人を愛する姿が現れています。

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何より神を愛しなさい。これひとつだけでもむずかしいことです。実際に私たちは、多く
の神以外の像を大切にしています。金とかこの世での評価とか、そういったものにとらわれ
続けます。しかし何より神を愛さなければならないと指摘されるのです。

しかし神を愛するという縦の関係だけでは、不十分です。「隣人を愛さなければならない
。それも自分を愛するように」。

ここもなかなか分からないのです。多くの人は言います。私は自分なんかとても愛せない
。欠点ばかりだから。そんな私が、自分を愛するように人を愛せと言われても、そう言います。

日本人の場合は特に、この「自分を愛する」ことが難しいようです。いつも他人と比較さ
れる。そういうことに慣れてきたからではないでしょうか。しかし自分を愛し、大切にする
ことはとても大切なのです。これはただの利己主義、自分中心主義とは違います。
こんなことを言った人がいます。
「もし私の隣人が私より強いなら、私はその人を恐れ、もしその人が私より弱ければ、私は
その人を軽蔑する。
もし私とその人が同じであれば、私ははかりごとに訴える。
私がどのような動機を持っていたら、その人に服従することができ、
私にどのような理由があったら、その人を愛することができるのだろう」

◇私を愛せないから、私を正しく自分で評価できないために、そのために人を愛せない状態
がよく示されているのではないでしょうか。

自分より強ければその人を恐れ、自分より弱ければ軽蔑する。こんなことばかりしていて
は、いつまでも人を愛せません。

神を愛しなさい。なぜでしょうか。それは神様が私をかけがえのないものとして、大切に
して、愛してくださったからです。このつまらない私を、生まれる前から愛し、価値を認め
、私に命と言う恵みを下さった。そして私が罪を犯して、神様から離れてしまっていたとき
、私が神など何も意識できないとき、すでにそのときから、この私の罪を担って、身代わり
になって帳消しにしようと、イエス様が十字架にかかってくださった。この神様の深い愛が
あるからです。

その神様の絶対的な愛に答えて、私たちは神様を愛するのです。そしてそのような普通に
考えたらありえないほどの神の愛を受けている、ありがたきものとして命を与えられている
、このことに深く感謝すべきです。

そしてそれほどまでに神様からの深い愛に包まれた私だから、もう人を恐れることはない
。人と比較する必要も、人と競争する必要も、力争いする必要もないのです。何であれ、こ
の私は神様から愛されているのですから。どうして人と比べ、競う必要があるでしょう。

その深い自己愛、自分を肯定する感情をもとにして、今度は人を肯定することもできるよ
うになります。この神様の深い愛は、自分だけのもののはずはない。同じように、この人も
愛されているはずだ。私から見たら、性格が合わずに、やりにくくて、いつも競ってしまお
うとする相手だけれど、いやこの人も、同じように神様から愛され、この人のためにもイエ
ス様は十字架にかかったのだ。そのことを深く感じ取るときに、信じようとするときに、ど
んな相手であれ、その人を受け入れ、受け止め、ついには愛していく。その心が与えられる
のです。

神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する。実はこれはまだ旧約聖書に限った愛の姿です。イ
エス様の示した新約聖書の愛はどういうものかと言えば、隣人だけでなく敵をも愛すると言
うことが含まれてきます。こうして新約聖書ではさらに愛が徹底されていきます。しかしと
もかく今日は、自分を愛してくださった神を認め、神を愛しましょう。そして神が愛してく
ださった自分を認め、また同じように神が愛した人を認めるところから、人を愛することの
きっかけを、見つけ出していくようにしましょう。


あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい(マタイ22・37-39より)

Friday, June 27, 2014

29 per annum A

年間29主日 Α

【マタ22:15-22 皇帝への税金】


パリサイ人とへロデ党のものたちがいっしょになっています。パリサイ派とへロデ党はどちらもユダヤ教の宗派ですが、互いに激しく敵対し合っていました。というのは、パリサイ人は愛国主義者であり、ローマ帝国からのユダヤ人の独立を強く求めていました。ヘロデ党はその反対に、ローマ帝国こ忠誠を誓っていました。この相容れない2つのグループが、イエスを滅ぼす目的のために一つになっています。それほど、彼らのイエスヘの敵対心は激しくなっています。

 これを見て思うのですが、私たち人間はお互いに身分が違うとか、主義が違うとか、性格が違うとか、ほんのちょっとで違いがあれば、「あの人とは私と違う」と言って、人を蔑んだり、自惚れたりしています。場合によっては、それが戦争になったりもします。だけど、本当は同じ穴の狢 ムジナ なのではないでしょうか。こういうジョークを聞いたことがあります。「人間が戦争をやめて一つの地球国家になるためにはどうしたらいいのか。それには宇宙人が地球に攻めてくればいいんだ」 なかなか的を射たブッラク・ジョークだと思うのです。要するに、人間というのはどんなにお互いに違いを主張し合っても、結局は、みんな同じ穴の中に住む運命共同体なのだということなのです
「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。」
これは言葉遣いとしてはていねいですが、実際には「いい加減な答はゆるさないぞ」という脅(おど)しです。
ユダヤ人は異邦人の国であるローマ帝国に税金を納めることをひどく嫌がっていました。もしイエスが、「律法にかなっている。」と答えれば、イエスはユダヤ人たちの反感を買います。今まで付いてきた群衆たちは、イエスから離れるでしよう。けれども、もし、「かなっていない。」と言ったら、今度はへロデ党の者たちがローマ帝国の役人のところに行き、イエスを帝国の反逆者として訴えることができるでしよう。この、税金を納めるという問題は、彼らの間でも論争していた点ですが、彼らはそのことを利用して、イエスを捕らえようとしているのです。
 イエスは見事に言い返されて、彼らを驚かせました。言い返しただけでなく、納税についての神の真理を明らかにされています。カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返すということは、言い換えると、世に対する責任は世に対して果たすが、自分は神を礼拝しなければならないということです。パリサイ人にもヘロデ党にもそれぞれ間違いがありました。パリサイ人は、世は悪と汚れに満ちているから、世に関わることはみな離れなければならないと考えたのです。確かに、世は悪魔の支配下にありますから、抵抗しなければならないことが多くあります。
 しかし、私たち一式それ以前に、世に対してキリストの愛を示すという責務があります。国の法律を守り、納税することによって、世に対してキリストの証しを立てているのです。しかし、へロデ党の者たちのように、国の命じるすべてのことにおいて従うこともまた問題です。私たちが従わなければならないのは神であり、国が神のみこころに反することを私たちに命じるのであれば、私たちはそれに抵抗しなければなりません。こうしたバランスのある信仰生活が、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい、というイエスのみことばに現われています。
社会的な義務と神様への義務というと言葉が重くなりますが、私たちは神様の恵みの中で、そのどちらも無視しないで生きていく必要があります。しかも、これは同列ではなく、まず神様への感謝が先立ちます。この世の社会は移り行くものだ。
しかしこれは本題ではない。イエスはむしろ「神のものを神に返す」ことを要求する。
これは実に難しい。なぜか。
神はご自分の所有物に銘を刻んだり、肖像を貼り付けたりはしないからだ。
人間は貪欲で愚かだ。だから自分の所有物には名前を書く。自分の作品だといって印をつけたり、サインをしたり、偉そうに「ブランド」などといってエゴを押し付けたあげく、人はそれに服従する。
おかげでそれが人間のものであれば、どれがだれのものか、我々にはよくわかる。
しかし神はさらに愚かだ。自分のものなのに名前も付けず、印もつけないからすぐに忘れ去られてしまう。
だれも気付かない。名前が書いてないのだから神がそれを自分のものだと主張することすら不可能だ。
神はただ、人がそれを見出して自ら申し出るのを待つだけだ。「これはあなたに属するものです、私自身あなたに属しているのです、あなたが密かに刻んだ刻印をわたしは見出しました、世界のいたるところに、そして私自身に」、と。
外交官であった、杉原ちうねさんの話を聞いたことがあるかたもいらっしゃると思いますが、杉原さんは、かつて第二次世界大戦のとき、リトアニアの領事をしておられたのですが、杉原さんは、ナチスがユダヤ人を迫害し、強制収容所に送って虐殺していることを、知っていたわけであります。そして多くのユダヤ人が日本を経由してアメリカに渡ろうとしていたわけですが、彼はそんなユダヤ人を救おうと、本国日本に問い合わせる。しかし、当時日本はドイツと同盟関係を結ぶ方向にあり、ユダヤ人に対するビザの発行は禁止されてしまったのであります。
 しかし、杉原さんは独断でビザを発給して、6000人以上のユダヤ人を救ったのであります。そんな杉原さんは、戦後、謀反人として外務省を辞めされられたそうであります。
 国の権力や支配者の意思が絶対なら、まさに、国が神でありますならば、杉田さんのしたことは、謀反であって弁解の余地はないかもしれません。しかし杉田さんはクリスチャンとして、まさに、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す生き方を選択したのではないでしょうか。国民として生きる現実から逃避するのでなく、その現実の中で苦悩しつつ、しかし、神のものは神に返す生き方。神に与えられた人間らしい生き方を貫こうとした。神を愛し、人を愛し、仕えていきる、そういう人間らしい生き方。神に与えられた人生。神のものは神に返す生き方を杉田さんは貫いたのではないでしょうか。
 目の前の現実から逃げたり破壊しようとするのではなく、今与えられている秩序の中で生きていく大切さ。しかし、同時に、その現実の営みの中に埋没してしまい、流されて、知らず知らずのうちに人間性を失ってしまってはならない。現実の秩序の中にいきながら、しかし、ただ流されていくのではなく、その中で、神に造られた自分らしく、人間らしく、人間性を失わないように、神のものは神にお返しすることを忘れずに生きる。

28 per annum A. old version

年間第28主日 A 〈マタイによる福音書22・1-14〉 
9日10月2005年 和泉教会
今日の主題は「ふさわしい礼服を着て祝宴に出席すること」です。それにしても「礼服を着る」とは何を意味するのか。
 神父はミサの時に、アルバと呼ばれる真っ白な祭服を着て礼拝を司式します。それは清らかさを意味します。また、ヨハネ黙示録に繰り返される「救われる者はキリストの血潮によって洗われた真っ白な麻衣を着る」という言葉にも関連していましょう。 そして叙階された人だけにゆるされるストールと呼ばれるマフラーのようなものを首にかけることができる。ストールはキリストのくびきを意味します。
 これが「祝宴にふさわしい礼服」として私たち礼拝の司式者が着るものです。しかしそれは外見的な事柄にすぎない。私たち司式者が司式にふさわしい礼服を外見だけでなく心にも着ているかどうかを今日の聖書は鋭く問いかけてきます。キリストの祝宴にふさわしいあり方をもって礼拝を司式しているかどうか神父は問われている。それは礼拝に出席する皆さんが、礼拝に出席するのにふさわしい心のあり方をしているかどうか問われているのと同様です。
 しかしそのことは私たちを困惑させます。礼拝にふさわしいとは何を意味するのか。私たちは自分は礼拝にふさわしくない、神さまの恵みに値しないと考えている。人間の側にそれにふさわしい功績があるということは考えない。ふさわしくない者を恵みによって祝宴に招いてくださるのが、私たちの信じる神さまなのです。
 「ふさわしい礼服」とは何か。そこに本日の主題詩編が登場します。詩編23編は歌います。「主は私の牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場にふさせ、憩いの水際に伴われる」。「ふさわしい礼服」とはこのような主イエスに対する信頼を意味しています。礼服とは信仰のことなのです。そして信仰とは「私たちのうちに働く神さまのみ業」ですから、礼服は自分で準備するのではなくて祝宴の主催者が準備してくださるということになります。実際、旧約聖書には祝宴の招待客には礼服も共に準備されるということが記されている箇所もあります(創世記45:22、士師記14:12以下など)。もしそうであるとすれば、「礼服を着ていなかった者」は、それが配られたにも関わらずその着用を拒絶したということになる。12節を見ると、王が『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言ったのに彼は沈黙していますが、この沈黙は彼の混乱というよりもむしろ不服従を表していましょう。
<「着る」>  また、結婚式のときに読まれる聖書があります。コロサイ3章ですが。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。・・・あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(3:9b-14)。ここで「身につけなさい」と繰り返されている言葉は「礼服を着る」という言葉です。信仰を持つということは神からいただいた「愛を身につけること」なのです。

<「皮の毛衣」>  「着る」ということで私がハッと思い出すのはあの創世記のアダムとエバが楽園を追放される場面です。そこにはこうある。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。この文章は何気なく読み過ごしてしまいがちですが、とても大切なことを告げています。エデンの園を追放するにあたって、神ご自身が人間に皮の衣を造って着せてくださった。それは人間を寒さや外敵から守るためでもあったでしょうが、何よりも自らの裸を恥ずかしいと思った人間を覆うためでもありました。「恥」とは自分の弱さや惨めさがされた時に感じる強烈な痛みを伴う感情です。それを神ご自身が覆ってくださる!人間の罪と恥とをカバーしてくださる。人間に対する神の深い憐れみと愛とを感じる事柄でもあります。
 それと同時に、「皮」の衣ですから、それは、人間の恥を覆うためにあの十字架の上に犠牲の子羊となってくださった神の独り子、イエス・キリストと重なってゆきます。そのように、私たちの恥を覆い、外敵から私たちを守るためにキリストが衣となってくださった。「キリストを着る」とは何よりもそのような神の守りを身につけることなのです。人生を旅する私たちを罪と恥と絶望とから守るために神が用意してくださった礼服を着る。これがキリストの祝宴にふさわしい礼服を着ることの意味なのです。
<祝宴への招待>  そしてさらにそのことは、私たちが自分の力だけで生きるのではないのだという認識に導きます。神の守りが常に私たちと共にあって、私たちは自分で生きるというよりも、神によって生かされている。あるクリスチャン画家の言葉を聞いたことがあります。「受洗前は自分が生きるんだという思いで苦しかった。でも洗礼を受けてから、自分が生きるのではなく生かされているということを知って本当に楽になった」と。神の用意してくださった衣を身につけるということは、自分が生きるのではなく神に生かされているということを知るということでもある。祝宴に与る、子羊の婚礼に与るとは、そのような私たちを生かす天の喜びに与るということです。
 さんの詩画集『鈴の鳴る道』の中に次のような詩があります。

   いのちが一番大切だと
   思っていたころ
   生きるのが苦しかった
   いのちより大切なものが
   あると知った日
   生きているのが
   嬉しかった

 「礼服を着て祝宴に与る」とは、いのちよりも大きなものに自分が生かされているということを知ること、生かされていることの恵みと喜びに与るということではないか。私にはそう思えてなりません。皆さんはどう思われますか? ご一緒に、この礼服を着て、心の底から新たにされて祝宴に連なり、神の恵みに生きる者となりたいのです。
 お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/29.htm

28 per annum A. new version

年間第28主日 A マタイ22・1-14

Weblog / 2005-10-09 10:43:50

年間第28主日 A 〈マタイによる福音書22・1-14〉
 2008年10月11日 伊丹

あいさつ:
さわやかな秋晴れのなかで、今日私達は主の食卓に招かれました。さまざまな思いを抱(かか)えてここに集まった私達一人一人を顧み、豊かな恵みを注いでくださる神に信頼し、キリストの弟子としての使命に、まっすぐにこたえることができるように、今日のミサをささげることといたしましょう。 


今日のテーマは「ふさわしい礼服を着て祝宴に出席すること」です。それにしても「礼服を着る」とは何を意味するのか。
 神父はミサの時に、アルバと呼ばれる真っ白な祭服を着て礼拝を司式します。それは清らかさを意味します。また、ヨハネの黙示録に繰り返される「救われる者はキリストの血潮によって洗われた真っ白な麻衣(あさぎぬ)を着る」(黙示録7:14)「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 」という言葉にも関連していましょう。 そして叙階された人だけにゆるされるストラと呼ばれるマフラーのようなものを首にかけることができる。ストラはキリストのくびきを意味します。キリストに倣うとは、キリストのくびきを負い、キリストに従って、福音の道を歩むことです。キリストの弟子にとって何よりも不可欠な徳は、謙遜です。
 これが「祝宴にふさわしい礼服」として私たちミサの司式者が着るものです。しかしそれは外見的な事柄にすぎない。私たち司式者が司式にふさわしい礼服を外見だけでなく心にも着ているかどうかを今日の聖書は鋭く問いかけてきます。キリストの祝宴にふさわしいあり方をもってミサを司式しているかどうか神父は問われている。それはミサに出席する皆さんが、ミサに出席するのにふさわしい心のあり方をしているかどうか問われているのと同様です。
 しかしそのことは私たちを困惑させます。ミサにふさわしいとは何を意味するのか。私たちは自分はミサにふさわしくない、神さまの恵みに値しないと考えている。だって、いつもミサの前に私達は「主よ、あわれみたまえ」を3回唱えます。人間の側にそれにふさわしい功績(こうせき)があるということは考えない。ふさわしくない者を恵みによって祝宴に招いてくださるのが、私たちの信じる神さまなのです。
 「ふさわしい礼服」とは何か。そこに本日の答唱詩編が登場します。詩編23を歌います。「主は私の牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場にふさせ、憩いの水辺に伴われる」。「ふさわしい礼服」とはこのような主キリストに対する信頼を意味しています。礼服とは信仰のことなのです。そして信仰とは「私たちのうちに働く神さまのみ業」ですから、礼服は自分で準備するのではなくて祝宴の主催者が準備してくださるということになります。実際、旧約聖書には祝宴の招待客には礼服も共に準備されるということが記されている箇所もあります(創世記45:22、士師記14:12以下など)。もしそうであるとすれば、「礼服を着ていなかった者」は、それが配られたにも関わらずその着用を拒絶したということになる。12節を見ると、王が『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言ったのにその人は黙っていますが、この沈黙は彼の混乱というよりもむしろ不服従を表していましょう。
<「着る」>  また、結婚式のときにもよく読まれる聖書があります。コロサイ3章ですが。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。・・・あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(3:9b-14)。ここで「身につけなさい」と繰り返されている言葉は「礼服を着る」という言葉です。信仰を持つということは神からいただいた「愛を身につけること」なのです。

<「皮の毛衣」>  「着る」ということで私がハッと思い出すのはあの創世記のアダムとエバが楽園を追放される場面です。そこにはこうある。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。この文章は何気なく読み過ごしてしまいがちですが、とても大切なことを告げています。エデンの園から追放するにあたって、神ご自身が人間に皮の衣を造って着せてくださった。それは人間を寒さや外敵から守るためでもあったでしょうが、何よりも自らの裸を恥ずかしいと思った人間を覆うためでもありました。「恥」とは自分の弱さや惨めさが晒(さら)された時に感じる強烈な痛みを伴う感情です。それを神ご自身が覆ってくださる!人間の罪と恥とをカバーしてくださる。人間に対する神の深い憐れみと愛とを感じる事柄でもあります。
 それと同時に、「皮」の衣ですから、それは、人間の恥を覆うためにあの十字架の上に生贄、犠牲の子羊となってくださった神の独り子、イエス・キリストと重なってゆきます。そのように、私たちの恥を覆い、外敵から私たちを守るためにキリストが衣となってくださった。「キリストを着る」とは何よりもそのような神の守りを身につけることなのです。人生を旅する私たちを罪と恥と絶望とから守るために神が用意してくださった礼服を着る。これがキリストの祝宴にふさわしい礼服を着ることの意味なのです。
<祝宴への招待>  そしてさらにそのことは、私たちが自分の力だけで生きるのではないのだという認識に導きます。神の守りが常に私たちと共にあって、私たちは自分で生きるというよりも、神によって生かされている。あるクリスチャン画家の言葉を聞いたことがあります。「受洗前は自分が生きるんだという思いで苦しかった。でも洗礼を受けてから、自分が生きるのではなく生かされているということを知って本当に楽になった」と。神の用意してくださった衣を身につけるということは、自分が生きるのではなく神に生かされているということを知るということでもある。祝宴に与る、子羊の婚礼に与るとは、そのような私たちを生かす天の喜びに与るということです。
 星野(ほしの)富弘(とみひろ)さんの詩画集(しがしゅう)『鈴の鳴る道』の中に次のような詩があります。

   いのちが一番大切だと
   思っていたころ
   生きるのが苦しかった
   いのちより大切なものが
   あると知った日
   生きているのが
   嬉しかった

 「礼服を着て祝宴に与る」とは、いのちよりも大きなものに自分が生かされているということを知ること、生かされていることの恵みと喜びに与るということではないか。私にはそう思えてなりません。皆さんはどう思われますか? ご一緒に、この礼服を着て、心の底から新たにされて祝宴に連なり、神の恵みに生きる者となりたいのです。
 お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/29.htm

27 per annum A

年間27主日 Α

【マタ21:33-43「ぶどう園と農夫」のたとえ】

 『「ぶどう園と悪い農夫」のたとえの意味』    
  ここで主イエスが話された「ぶどう園と悪い農夫」の譬えを読むと、創世記に記されている「アダムとエバ」の物語が思い浮かぶ。神は、彼らをエデンの園に住 まわせ、すべての良いもので満たしてくださった。しかし彼らはただ1つ与えられた戒めを破ってエデンの園を追い出された。次に思い出すのは、神がモーセを 通して奴隷の状態からイスラエルを救出された出来事である。彼らは救出してくださった神の言葉に従わず、たびたび反抗した。
 この譬えは、その 後のイスラエルの歴史が網羅的に示されている。この譬えで、主人はぶどう園を農夫に貸して旅に出た、と言われている。主人は神を指しているが、神は世界 (ぶどう園)を人間に託しておられるので、この世界におられない。それをよいことにイスラエルは神から遣わされた僕(預言者など)の言うことを聞かず自分 勝手にふるまった。そして最後に神は独り子(イエス)を遣わすが、ついに殺してしまう。
 私たちが生きているこの世界では、誰の目にも明らかなよ うに、神を見い出すことはできない。しかし聖書は、神が万物を創造し、この世界を人間の手に委ねられた、と記す。人間は神が見えないこと、また神が干渉さ れないことをよいことにして我が物顔にふるまっている。それが人類の歴史である。そしてこの譬えが語られた時点で、当時の指導者は、イエスを十字架に掛け てしまう。 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』という聖書の言葉を引用して、主 イエスはそのことを明らかにされた。当時の指導者(権力も知識も持ち合わせていた)にとって、イエスは、大工が不必要と判断して捨てる石に見えた。しかし イエスが『この石がだれかの上に落ちるれば、その人は押しつぶされてしまう。』と言われたように彼らは滅んでしまった。捨てられたはずのイエスは、2千年 経った今なお人々の救い主として崇められている。真に不思議なことである。

26 per annum A

年間26主日 Α
【マタ21:28-32「二人の息子」のたとえ】

父から兄弟は命じられます。ぶどう園に行って働きなさい。
 兄は、いやだと言う気持ちを正直に表し、初め断ります。しかし父の言うことと思い直し
、働くことにしました。
 一方弟は口では簡単に「はい」と引き受けました。しかし誘惑が襲って怠けの気持ちが勝
ったのでしょうか。結局は働きに行きませんでした。父に喜ばれるのはどちらか--思い直
して働いた兄のほう。
 「不言(げん)実行」と言う言葉があります。黙って実行すること。兄に当てはまります。
それに対し弟は、有言不実行の人。言うだけ言って、実際には何もしない人。「口先だけで
なく、実際に行うことが大事」。あるいは信仰をしっかり持つなら、それに伴って行いもな
ければいけない。これが理解の一つです。しかしもう一歩深めましょう。
 ここで主人はもちろん神様です。ぶどう園はイスラエルに代表される神の民が作る国。
 兄は徴税人や娼婦。初め神様に従っていなかったのですが、思い直し、最後に神に従った
人。
 では弟は……。「あなたたち」つまり聞き手。聖書の流れでは「大祭司や民の長老(マタ
21:23)」です。神様に「はい」と従って歩んでいるつもりでした。ところがいつの間にか
、神様から離れていた。
 なぜ兄である徴税人や娼婦の方が、弟である大祭司や長老より先に神の国に入ることを約
束されたのでしょう。「洗者ヨハネを信じて、悔い改めた」からです。時が満ち、救い主が
この世に来た、神の国が近づいたその大切なときに、回心できた。自分の罪を認め、心を神
に向け、神様に従うことを選んだからです。
 しかし大祭司や長老は、洗礼者ヨハネが指し示したメシア・イエス様を信じませんでした
。肝心なキリスト到来のとき、神様の方に心を向け、歩むことができませんでした。
 なぜ。今の地位や名声、プライドのためです。宗教の権威者で身分の高い自分たちを認め
ず、かえって偽善者と批判し、律法に対してもより自由に振舞う。そのイエス様への激しい
恨みのためです。自分たちこそが正しいという思いのため、自分の罪を認めませんでした。
メシアを待ち望んでいるはずなのに、実は、メシアは要らなかったのです。必要だったのは
自分たちの地位と名誉でした。こうして神の国の到来のしるしであるイエス様の奇跡も、エ
ルサレム近くでの徹底的な奇跡であるラザロの死からのよみがえりも、ただの悪魔のわざと
批判しました。そして救い主イエスを、国への反逆者(内心は自分たちへの反逆者)として
、殺してしまったのです。
 愚かな大祭司や長老。しかしここで言われる「あなたがた」はもちろん、祭司・長老のこ
とだけではありません。この私も含めたここに集う「私たち一人ひとり」に語られた言葉で
す。
 自分は兄だろうか、弟だろうか。今神の子として、神の国にふさわしい生活ができている
だろうか。神様に従うものか、それとも離れ去ってしまうものか。誰もこの神様からの問い
かけから逃げることができません。
◇人間はなかなか自分の罪や弱さ、快楽に負けそうな自分を認めることができません。本当
に罪を認めたなら、改めるしかないからです。今もっているものを手放し、失う恐れがあり
ます。今までの仲間を失い、人間関係も変わっていく。
 今までの慣れ親しんできた罪の生き方。楽な生き方を捨てて、新しく生きることは、知ら
ない恐ろしさもあります。昔を思い出し、懐かしむ気持ちがあり、あるいはそれを思い返し
たとき、失ったものの多さに、たまらない気持ちになることもあるでしょう。
 それで「これは罪ではない。これにはこういう正しさがある」「社会が悪い」「他にも同
じような人がたくさんいる」。そう言い訳し、ごまかし、回心の時を遅らせようとします。
 しかし徴税人の頭であったザアカイ、この福音を記した徴税人のマタイ、罪の女と言われ
たマグダラのマリアは回心しました。罪の中から起き上がり、イエスの立派な弟子に変わり
ました。
 もちろん回心は一生涯の話でもあります。最初従ったイエス様の弟子たちの多く。十字架
を前に最初「はい」と言ったのに「いいえ」と断わってしまいました。しかしその裏切りの
後でも、ペトロはまた回心し「はい」と答えました。しかし最期まで「いいえ」と言い続け
、イエスの救いのもとに入ることを自分から拒んで、自殺し、永遠の滅びにいたったユダも
います。
 私たちの回心に完成はありません。この世の命を終える最期の時まで、生き方が問われ続
けられます。一度失敗し、新たに歩み直しても、昔はこうだったと後ろ指さされることもあ
るかもしれません。しかしペトロもパウロも、そんな失敗だらけの自分が神様に用いられた
ことを、かえって誇ったのでした。
 恐れることはありません。傍観者でいるのでなく、兄のようにすぐに回心し、行動を始め
ましょう。回心の機会を逃さないよう。もしかしたら今こそ、最後の審判の時、イエス様の
再臨の時かもしれないから。

2) 28節から31節の「『兄の方です』と言うと」までの部分(この箇所の前半部分)だけを取
り出してみると、このたとえ話は「言葉でどう応えるかではなく、行動で神に従うことが大
切である」ということを教えるたとえ話だ、と感じられるのではないでしょうか。しかし、
たとえ話から導き出される教えの部分(31節の「イエスは言われた」以下)によれば、このた
とえ話は洗礼者ヨハネのメッセージを受け入れた「徴税人や娼婦」と、受け入れなかった「
祭司長や民の長老」たちのことを表していて、行動の問題というよりも、「回心の呼びかけ
を受け入れるかどうか」ということがポイントになっています。このように、たとえ話自体
とその後の教えが完全に一致しないと感じられるため、前半と後半は本来、別々の話だった
のではないかと考える人もいます。

徴税人と娼婦は当時のユダヤ人社会の中で、罪びとの代表とされていました。周囲の人々か
ら神の救いに程遠い人間と考えられ、自分自身でも救われる可能性はないと思っていたよう
な人々でした。洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に希望を与えました。「すべ
ての人は今回心しなければならない」ということは「どんな人でも今回心すれば救いにあず
かることができる」ということでもあるからです。洗礼者ヨハネが示した「義の道」(32節)
とは回心して、洗礼を受ける道でした。正しい行いをするという以前に、何よりも自分の罪
深さを認め、神に立ち返る道です。イエスもこれこそが神との正しい関係のあり方だと言う
のです。

(5) 一方、当時の社会や宗教の指導者たちはヨハネのメッセージに心を動かされませんで
した。彼らは洗礼者ヨハネの回心のメッセージを悪いものだとは思わなかったでしょう。し
かし「自分たちはちゃんとやっている」と考えた人々は、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを
自分たちに向けられたものとして真剣には受け取らなかったのです。「回心すべきなのは自
分たちではなく、他の連中だ」と考えたとき、彼らは自己満足と優越感の世界に陥り、生け
る神との関係も、人と人とのつながりも見失ってしまったと言わざるをえません。このたと
え話の中で、弟は「承知しました」と言いながら、なぜ出かけなかったのでしょう。理由は
どこにも書いてありませんが、やはり、父親の呼びかけをまともに受け取らず、本気で父親
とともに生きようとはしていなかったからだと言えるのかもしれません。

わたしたちにとっても神からの呼びかけはいろいろな形で来ると言えるのではないでしょう
か。聖書の神のことばを通して神はわたしたちに呼びかけています。と同時に、今この世界
に起こるさまざまな出来事も神からの呼びかけなのではないでしょうか。


絵と福音の対応を考えてみたい。二人の息子が前に、父親は後ろにいる。父親を見て何が感
じられるだろう。他の絵で描かれるキリストの姿に似ていないだろうか。もちろん、父親で
あるから、父なる神のイメージを見てもよい。福音書では、ここで洗礼者ヨハネと、彼に対
する人々の相反する対応を思い出させているが(ルカ7・29-30参照)、洗礼者ヨハネも結局
は、神のみ旨を伝える預言者だったという点では、この絵の中の父親には、父なる神、ひい
ては父と一体である御子キリストを見るのが適切だろう。神の望みがこの「父親」にたとえ
られているのである。
 その神の望みに対する人々の異なる対応が、二人の息子の姿の対比によって示される。(
向かって)右側の息子は、何かほくそ笑んでいるようで、自分の右手を左手の上に置いてい
るところに、自分の力へを自信が示されている。「ぶどう園に行って働きなさい」という父
親の言葉に対して「いやです」と拒否した瞬間の兄の態度を意味していよう。左側の息子は
、父親をうやうやしく仰ぎ、右手を開いて、父親の意向を真正面から受けとめている。「お
父さん、承知しました」と答えた瞬間の弟の態度にあたるだろう。言葉による答えだけを見
るなら、兄は非難すべきもの、弟は称賛すべきものであった。しかし、問題はその後の展開
である。兄は「いやです」と答えながら、後で思い直して出かけた。弟は「承知しました」
と言いながら、実際には出かけなかった。実際の行為のほうを見ると、右側の息子が弟、す
なわち、表面では愛想のいい答えをしながら、心の中では思い上がっている態度、左側の息
子が兄の態度、すなわち「いやです」と一時は答えながらも深く考え、後で思い直して神の
望みに従うようになるという態度を示しているように見えてくる。どの時点での態度を見る
かで、兄と弟がすっかり入れ替わる。絵画表現のおもしろいところである。
 このように、「絵の中の、二人の息子はどちらがどちらを表していると思う?」と問いか
けながら福音を読んでいくと味わいも広がり、我々信仰者の心理に鋭く迫るイエスのメッセ
ージの深さに、しだいに気づかされるのではなかろうか。

Thursday, June 26, 2014

11 per annum A


  年間11主日 A
【マタ9:36-10:8
弟子を呼び寄せ派遣した】
 

 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

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 アメリカでの話です。ニューヨークのダウンタウンを、移民の人とネーティブアメリカンと二人で歩いていたそうです。人と車が込み合う都会の雑踏、騒音しか聞こえません。ところが突然、ネーティブ・アメリカンが「あれこおろぎが鳴いている」と言い出したそうです。

 もう一人は答えます。「こんなうるさいところでこおろぎなんて聞こえるわけないだろう」。しかしネーティブが「確かに声がきこえる」と言うのです。もう一人は「ばかげている」と一笑に付します。

 ところがネーティブ・アメリカンがはずれの歩道近くの、コンクリ・ブロックの隅からこおろぎを見つけ出したのです。一人はあきれて言います。「すごいね。超人的な耳!よくこんな小さな声が聞こえたね」。するとネーティブが答えたそうです。「僕の耳が君のと違うわけじゃない。ただ耳は何を聞こうとしているかで違うんだ」。

 一人は言います。「馬鹿なこと言ってんだよ。こんなところでこおろぎなんて聞こえるわけない」。ネーティブは言います。「本当のことだよ。何がその人にとって大事か。何を聞きたいのか。それによって聞こえてくるものが違うんだ」。

 そういうとネーティブはポケットから小銭を取り出し、歩道に投げました。するとコインが落ちた音がした瞬間、人ごみの人がほとんどコインのほうを振り向いたのです。ネーティブは言います。「分かったろう。君にとって何が大事か。それが何がきこえるかということなんだ」と。

 リストラの時代で、失業者があふれる時代でありながら、どの国を見ても、いまだ「収穫は多いが、働き手が少ない」状況が、このイエスの時代以来、相変わらず続いています。教会では、司祭、修道士、シスターなどたくさんの働き手が必要なのです。教会やさまざまな施設での働きを求めています。

 働き手が必要と神様は絶えず呼んでくださっているのに、多くの人は呼びかけを聞き取ることができません。耳が何を聞こうとしているかで、同じ耳でも聞けるものが違ってくるのです。金、名誉、清潔さ、自由、親の希望、セックス、家庭や子どもへの憧れ……。もちろんこれらがすべて騒音であるわけではありません。大切なものであることは確かです。しかしそれ以外にも、小さな声があるのです。永遠のいのち、犠牲、真の喜び、神さまの呼びかけ。そしてこの小さな大切な声を聞こえなくしている家庭の騒音と言うのもあるのではないでしょうか。

 もしも家庭からテレビやビデオの騒音を少しでも消し、成績や能力ばかりにとらわれたせわしさを少しでも抑えることができたなら。この世の価値観の囚われから解放されるなら。もしかしたらそのときに、小さな神様の呼びかけの声が聞こえてくるのかもしれません。最も大切な神の声を聞こえなくしない、そういう環境を整えることも大事です。

 マザーテレサは、汽車の中「貧しきものたちと共にあれ。貧しきもののために働け」という神の声を聞き、貧しい者への奉仕を決意しました。そして修道会を出て、本当に貧しい人のための修道会を作っていきました。このような小さな声を本当に神様の声として受け取ることのできる感受性。そして神様から与えられた自分の使命に進み出していく勇気。それをぜひ養っていきたいと思います。収穫は多いが,働き手は本当に少ないのですから。

 

マタイによる福音書・連続説教 68  

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「 収 穫 の 主 」 


 

  ●聖書 マタイによる福音書9章35~38

 

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」  

     「収穫は多い」のか?  

「収穫は多いが、働き手が少ない。」(37)と主イエスは言われました。この「収穫」というのは、このほかのイエスさまのいろいろな話から考えると、これは神の国に入る者が多い、という意味です。つまりイエス・キリストを信じて、神の国に入る者が多い、と主イエスはおっしゃるのです。これが主イエスの言葉です。そうすると、この言葉を聞いて、私たちは「果たしてそうだろうか???」と思うのではないでしょうか。「収穫は多いが、働き人が少ない。」‥‥主イエスキリストを信じる者が多い、神の国に入る者は多い‥‥本当にそうだろうか?

 むしろ私たちが思うのは、「収穫は少ない」ということのではないでしょうか。‥‥イエスさまを信じる者はそんなに多くない。むしろこの日本にあっては少ない。日本のキリスト教人口は、長い間たった1%未満にとどまっている。これは、戦国時代の16世紀にフランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に伝えて以来、あんまり変わっていない数字だと言われています。たしかに町ではどこでもクリスマスが祝われ、教会で結婚式を挙げてくれと、相談に来る人はたくさんいます。ミッション・スクールは多く建てられていますし、キリスト教に対する親近感は多くの人が持っています。しかし、それにもかかわらず、主イエス・キリストを信じる人は少ない。教会に来る人は少ない。それが現実です。するとなぜイエスさまは、「収穫は多い」とおっしゃったのか?私たちは不思議に思いっても無理のないことです。

 また、イエスさまの時だって、人々はなるほどイエスさまのまわりに集まってきたが、イエスさまがとらえられて十字架につけられた時にはみんないなくなってしまったではありませんか?と言いたくなります。

 けれども、主イエスは、私たちのそのようないろいろな疑問を越えて言われるのです。「収穫は多い」と。神の国に入る者、イエス・キリストを信じる者は多い、と。

 

     「収穫は多い」と宣言される主イエス

 

 そうすると、私たちはこのイエスさまのお言葉が、神さまの宣言のような言葉として聞こえてきます。つまり「収穫は多い」という言葉が、ぞろぞろと人々が神の国に入っていくのを端から見て、「ああ、収穫は多いのだなあ」というような感想をおっしゃったものではないのです。そうではなく、主イエス・キリストが「収穫は多い」とおっしゃった、その言葉によって収穫は多いのです。イエス・キリストを信じ、神の国に入る者が多いのです。それは例えば、天地創造のはじめに、神が「光あれ」とおっしゃった、その言葉によって光ができたのと同じです。福音書に出てくる、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」、というイエスさまの言葉によって、12年間も流血をわずらっている女性の病がいやされたのと同じです。またそのあと、ふたりの盲人が「ダビデの子よ、私たちをあわれんで下さい。」と叫びながらイエスさまについてきた時、イエスさまが「あなた方の信じているとおりになるように」とおっしゃり、その言葉の通りその盲人の目が開かれたようにです。

 イエスさまがこのとき、「収穫は多い」と言われた。それは真実の言葉であったに違いありません。イエスさまがうそを言うはずがないのです。‥‥イエスさまは、一握りの人が救われるためにこの世に来られたのではないのです。例えば、日本の国家試験で最も難しいと言われる司法試験に受かるためには、一部の優秀だといわれる人が必死になって何年間も勉強しなければなりません。そういうものではないということです。

 またあるいは、今の社会の現状は、そのような神の国に入りたいと思う人が多いが入れてもらえない、というようなことかもしません。教会はサークルの一つのように思われているのかもしれません。‥‥書道の好きな人が「書道サークル」に入る。俳句の好きな人が「俳句のサークル」に入る。‥‥そういうものであると。だから教会も好きな人が行っているのだと。今の日本の問題は、むしろ誤解、無関心ということになるのです。

 しかし主イエスは、そういう現実でもやはり同じことをおっしゃるでしょう。「収穫は多い」と。イエスさまは、関心と興味のある人だけを天国に入れるためにこの世に来られたのではないからです。イエスさまが「収穫は多い」とおしゃったとき、イエスさまの生涯の働きが、多くの収穫のためのお働きであったと考えるべきです。‥‥イエスさまがこの地上で働かれ、そしてやがて十字架に向かわれたとき、それはただ一握りの人の救いのために十字架へ向かわれたのではなく、多くの人々のために向かわれたのです。‥‥イエスさまが十字架にかかり、血を流されて死なれたとき、それはただ一握りの人のためのものであったのではなく、多くのもののためであったのです。

 それゆえ、イエスさまはおっしゃるのです。「収穫は多い」と。だれがなんと言おうと、断固としておっしゃるのです。「収穫は多い」と!!

 多くの人がイエス・キリストを信じ、神の国に入るのです。少なくとも、神の国はそのように準備されているのです。そして父なる神と主イエス・キリストは、多くの収穫のために働いておられるのであるということを覚えたいのです。

 

     わたしがする、のではなく

 

 収穫が少ないから働き手も少ない」のではないか? と私たち考えるかもしれない。

 きょうのみことばを続けて読んで下さい。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 なんと書いてありましたか?‥‥「収穫の主に願いなさい」と書いてあります。収穫の主人公は私たちではありません。収穫の主は、天の父なる神さまだ、というのです。その神さまに、祈りなさい、願いなさい、と主イエスはおっしゃるのです。「人にはできないことも、神にはできる」のです。その神さまに目を向けなくてはなりません。すなわち私たちが第一にするべきことは、収穫の主に願う、祈るということです。

 

「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」‥‥新たな収穫のために人を起こして下さるのは主です。その主に願い、祈りを熱くするようにと主イエスはおっしゃったのです。

 祈る人となりましょう。私たちは現状を見て、あわてる必要もなく、将来を悲観する必要もありません。私たちは、責任を持ってくださる主イエスと共に言うことができます。「収穫は多い」と。あなたはそれを信じることができますか?まずわたしたちがこのイエスさまの御言葉を信じないで、世の中のだれが信じるのですか?

 主イエスと共にいるとき、そこには未来があるのです。
    

 私たちは覚えておきましょう。収穫は多いのだと。豊かに実るものが、収穫の主と共に歩むとき、あるのだと。私ではなく、主イエス・キリストが未来を開いて下さるのです。

 

25 per annum A

年間25主日 Α【マタ20:1-16 「ぶどう園の労働者」のたとえ】

24 per annum A

年間24主日 Α

【マタ18:21-35「仲間を赦さない家来」のたとえ】

23 per annum A

年間23主日 Α

【マタ18:15-20 兄弟の忠告】

22 per annum A

年間22主日 Α

【マタ16:21-27 自分の十字架】

21 per annum A

年間21主日 Α

【マタ16:13-20ペトロの告白】

20 per annum A

年間20主日 Α

【マタ15:21-28カナンの女の信仰】

イエスは、ガリラヤ地方から離れておられます。そして、今のレバノンの南部にあるツロとシドンの地方に行かれました。ガリラヤには、ユダヤ人が多くいましたが、ツロとシドンは異邦人が多くいる場所です。

 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
  この女はカナン人でした。私たちがこの前、創世記でカナンが最初に出てきた部分を読みました。ノアの息子ハムは、父ノアの裸を見たので、父は彼の息子であるカナンを呪いました。「のろわれよカナン、兄弟たちのしもべとなれ(11:25)」 このカナンの子孫がカナン人ですが、彼らは不品行と不法の行いで非常に汚れている人々でした。神はイスラエルの民に対して彼らを全滅するように命じられたほどです。したがって、カナン人は神にのろわれた、神から離れた代名詞のような人々だったのです。だから、彼女が神から何かを願う事は、非常に不利な立場にいたのです。ところが彼女は、「ダビデの子よ。」と叫びました。これはメシヤの称号です。彼女は、自分は神の祝福を受けるのに値しない者であることを認識しながらも、必死になってイエスにすがりついています。
 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。
  イエスは、彼女を完全に無視されました。ものすごくひどいと思われるかもしれませんが、この後を読み進めますと、イエスが彼女を試されていたことがわかります。
  そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。 弟子たちは本当に彼女が嫌だったのでしょう。自分中心になっています。 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
  イエスは、ご自分の使命を告げられました。イエスは、イスラエルの民を罪から救うメシアとして来られました。だから異邦人はその救いには入りませんよ、と言われています。ここで、彼女はあきらめませんでした。次を見て下さい。
  しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
  先ほど、彼女は、イエスを「ダビデの子」と呼びましたが、今度は、「主よ。」と個人的な呼び名で呼んでいます。つまり彼女の心は、さらにイエスに接近しているのです。イエスが彼女に一言も言われなかったのはこのためでした。彼女の心がイエスに近づくためだったのです。ここで、物質的には彼女もパリサイ人も同じようにイエスのみもとに来ていることに注目してください。同じようにイエスのところに来たのです。が、彼女の心はイエスに限りなく近づき、パリサイ人の心はイエスに限りなく離れたのです。
 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
 イエスは再び、ご自分がイスラエルのために来られたことを話されています。子供たちとは、イスラエルの民の事です。子どもは、父からの資産を受け継ぐ権利がありますが、イスラエルの民は、神の資産を受け継ぐ特権を持っていました。そして子犬とは、ペットのことです。子供たちのパンを父親が取り上げてペットに与えないように、キリストにある祝福を異邦人に与えるのはよくない、とイエスは言われています。
 ところが、彼女の答えを読んでください。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 これはものすごい答えです。イエスは、次に、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。」
 と言われましたが、この発言から私たちは、多くのことを学ぶ事ができます。まず、彼女はイエスのたとえを理解していました。先ほどペテロが、イエスのたとえの意味を聞いて、イエスは、「あなたがたも、まだわからないのですか。」と言われましたが、彼女は的確にイエスのたとえを理解しています。次に女は、「主よそのとおりです。」と言って、自分が置かれている立場を理解していました。自分はカナン人であり、キリストにある祝福にあずかるような資格はない、ということです。ここで普通ならあきらめてしまいます。しかし、彼女はイエスについてさらに深いことを理解していました。それは主のあわれみと恵みです。自分は神から離れている身分であるが、神はそのような者にもあわれみを施して下さり、恵んでくださるのだ、という事です。イエス・キリストの奥義をここまで理解することは、私たち人間には難しい事です。
 私たちは自分自身を見てしまい、主が与えようとされている祝福をどうしても受け取りません。「私はだめだから。」と言って、頑固に神の祝福を受け取らないのです。それか反対に、自分の立場や行いを神の前に持っていって、「私は、これだけのことをしているのだから、あなたの祝福を受ける資格があります。」と訴えます。「私はこれだけ、人に親切にしてきたし、特に悪い事もしてこなかった。でもなぜ主よ、私を祝福してくださらないのですか。」という感じですね。しかしこれもまた、主から祝福を受ける方法ではないのです。なぜなら、心が高ぶっているからです。私たちにとって難しい事は、自分が神の祝福を受ける立場にいないこと、神にのろわれて、さばきを受けるのが当然の存在であることを認めると同時に、それでも主の祝福を願う事です。
 けれども、私たちは、キリストの十字架を見るときに、それをはっきりと知ります。キリストが受けたあのむごい死は、私たちの罪のむごさを現しています。私たちは麻原彰光のような悪人を見て、死刑に値すると思う人はたくさんいますが、神の御前には、私たちも死刑に値するむごたらしい悪人なのです。しかし十字架は同時に、神のとめどない祝福の入口であります。十字架のキリストにあって、あなたの罪はすべて赦された。あなたは雪のように白くされ、あなたは正しい者だ、汚れも傷もない、と神が宣言してくださいます。私たちが受けるのに値しないものを受けるのが「恵み」の定義ですが、この女は、イエス・キリストのあわれみと恵みを、的確に把握していました。その理解にもとづいて、彼女は大胆に恵みの御座に近づいたのです。
  そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
  彼女の娘はその時から治りました。パリサイ人、律法学者は、伝統と外側の行いをイエスに持っていったため、心が遠く離れましたが、カナン人の女は、自分の信仰をイエスに持っていったため、心がイエスにぴったりとくっつきました。このように、私たちとイエスとの関係は、私たちが主の恵みを大胆に受け取ることによって確立されるのです。
ーーーーーー
きょうの表紙絵は、ローマのカタコンベの壁画「オランス」の作品例である(部分)。オランスは、初期の教会の人々の魂の象徴として描かれているものといわれ、カタコンベ(地下墓所)という場に描かれたことから、来世の幸福を願う死にゆく人々の魂を形象化したものともいわれるが、絵自体は、もっと普遍的な祈る人の姿としても鑑賞することができる。ローマ時代の比較的高貴な家柄の女性の姿を表現する作品であり、いわば「祈る異邦人の女」の姿として、きょうの福音朗読箇所と関連づけて鑑賞することができる。ローマは、まさに異邦人世界の象徴であり、新約聖書の範囲における使徒たちの宣教の一つの目標地点であった。そのような中でキリストの福音を信じていく諸国の人々の増加していく様子とその心をローマ芸術的な自然描写や女性の人物描写の雰囲気をそのまま残しながら描きとどめ、印象づけた作品ともいえる。
  イエスに対して「主よ、憐れんでください」「主よ、どうかお助けください」という率直な祈りを差し向けていく異邦人世界の人々の姿をこの絵の背後に感じていたい。このことばが同時に、すべての人の主であるイエスに対する信仰告白でもあることはいうまでもない。願いが願いにとどまらずに何よりも信仰告白であり、しかも賛美をこめた信仰告白となっている。ミサの開祭で告げる「主よ、あわれみたまえ」とこのカナンの女の姿はまっすぐにつながっている。我々はカナンの女の後継者なのである。
もちろん神がお造りになられた一週間、六日働いて一日休み、主を礼拝することはとても良いことです。けれども、「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ14:6)」とパウロは勧めています。

19 per annum A

年間19主日 A

【マタ14:22ー33 湖の上を歩く】

年間第19主日 A年
マタイ14・22-33

D.R.A. ヘア著、塚本恵訳、『マタイによる福音書』、現代聖書注解、日本キリスト教団出版局、2006年(再販)。

先週の物語と同様に、水の上を歩くことに関するこの物語も、現代の私たちにとっては、つまづきになりやすいのです。手品みたいなものに聞こえる。おそらく、2000年前にもこうした物語を信じない人は結構いたと思いますが、けれども自然法則というものは、超自然的なものが介入することによって留保(りゅうほ)することができると広く信じられていたのです。ユダヤ人でしたら、あの出エジプトの神なら、イエスに水の上を歩く力を十分に与えることができるということは、自明のことだったでしょう。昔の人々にとっては、「そんなことは可能だろうか」というよりも、「この場合、実際にそんなことが起こったのだろうか」というのが問題なんです。
この奇跡について合理的に説明する試みがなされてきています。例えば、ここで起こったことは錯覚のようなものだったと言われるのです。すなわち、実際には湖の浅いところで、波打ち際(なみうちぎわ)を歩いておられたのだが、夜という薄暗い光の中では、そのイエスの姿が、あたかも水の上を歩いているかのように見えた。ちうのです。なるほどこれは合理的な説明としては分かります。
けれども、(24節)では「舟は既に陸から何スタディオンか離れており」と記されてあって、福音書のテキストには合わないのです。その他にもいろいろな説明がなされていますが、ここでこの出来事の歴史性の問題をわきに置いておいて、その代わりに、この物語がマタイにとってどういう意味を持っているのか、という点に焦点を合わせてみたいと思います。
マタイにとって大事なことは、イエスが湖に現れた時、船が岸から遠く離れていて波に悩まされていた、という事実です。こうした細部が示唆しているのは、マタイにとって、イエスが海の上を歩かれたのは、単に力を「見せびらかす」ためではなく、おびえている弟子を助けるためだということです。イエスはメシアとして、神の民を牧すると共にその配慮をするようにと、神によって委託を受けかつ力を賦与されているお方なのです。
マタイ8章(13-17)で嵐を沈める物語がありますが、そこと同様にここでも、船は、誘惑や試練、および迫害に翻弄(ほんろう)されている教会(信じる人々の共同体)を表しているように思われます。両方の箇所でイエスは、信仰において彼を呼び求める人々を救うのに十分な力を持って、教会のために先頭に立つお方であるように思われます。従って、マタイが、「弟子たち」と書くことが予想されるような箇所(33節)、「船の中にいた人たち」と書いているのは、おそらくマタイは福音書の読者(私たち)をも含めたかったからでしょう。すなわち使徒たちだけというのではなくて、すべての信仰者たちが、危険にさらされた船の中にいるのであり、救い主に信頼をおいているのです。
ペトロのように、信仰者は信仰と不信仰(疑い)の中間に立ち往生しつつ、キリスト者であるということはどういう意味をを持つのか、ということを鮮やかに描き出しているのです。すなわちペトロは大単にイエスは救い主であると信じ、彼は自分たちを支えることができるという確信を持って第一歩を踏み出し、それから、彼らを飲み込もうと脅しをかけている、渦を巻く波に目を留めてしまって、その代わりにイエスに目を留めることを忘れてしまうような、すべての人々を代表しているのです。そしてすべて失われてしまったように思われる危機の深みの中にあって、彼らは、その力が弱さの中でこそ完全なものとされる(2コリ12・9)、救い主の名を呼び求めることを思い出し、彼らが必要とするに十分な恵を見出すのです。
それと同様に、ペトロは、信仰上の危険を冒す人々を代表しています。つまりキリスト者は、不確実な状態の中で、生きることを学ぶのです。たしかに信仰の知識は、科学の知識のように確実なものではないけれども、私たちが見たりさわったりすることができること以上に、究極的な重要性を持つ現実について、語っているのです。イエスの救済の力を信じるということは、危険を冒すということなのです。
31節で使われることば、「信仰の薄い者よ」oligopistosというのは、マタイでは、いつも信仰者に関連して用いられていて、決して不信仰者に関連して使われていない。すなわち、その意味することは、信仰はあるけれども、自分の信仰を頼りにすることのできないような人々を叱咤激励(しったげきれい)することなです。ヨハネ福音書では信仰ということばいつも動詞であって、決して名詞では出てこない。つまり、信仰とは、所有することではなくて行動なでです。それは、私たちが歌うのをやめてしまうと消えてしまう歌のようなものであると。したがって信仰の薄い人々は、その小さな信仰を働かせなければならないのであって、さもなければ、使われていない筋肉のように、枯れてしまうだろう、と警告を促すことなんです。

さて、「疑う」と訳されている言葉distazoは、新約聖書ではマタイだけに見出される。キリスト者の実生活では、疑いと信仰とが混在したものなのです。ただ恵によってのみ、疑いを二次的な状態に置くことができるのです。マルコ福音書のことばを借りていえば、「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9・14)というようなことはキリスト者の常です。
弟子たちもキリストのことを完全に理解するためには、十字架と復活を待たなければならなかったのです。面白いことに、マタイ福音書はそれを先取りの形でここで信仰告白を入れています。マタイには、後の時代の信仰がイエスの地上での宣教活動の中に予示されいるというのがひとつの特徴となっています。例えば、異邦人の占星術の学者たちが、異邦人に対する宣教が開始されるはるか以前に、イエスの誕生の時に彼を「拝む」のとちょうど同じように、「船の中にいた人たち」もまたイエスを礼拝するのです。「本当に、あなたは神の子です」というペトロの信仰告白もそういう形になっていると思います。マタイによる福音書全体もそうですが、ここでも「神の子」というのは、職務上の称号であって、イエスが、超自然的な力を賦与された、終わりの日の王であることを証し示すものです。

Monday, June 2, 2014

聖霊降臨の主日 A 野の百合会-gooブログ

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聖霊降臨の主日 A 野の百合会
ヨハネによる福音(20:19-23)

あいさつ・招き

皆さん、聖霊降臨の祝日にあたり、私たち一人一人の歩みの上に、また野の百合会の歩みの
上にも、神の霊が注がれますように、特に賢明と知恵の霊(賜物)が送られますように、今
 日のミサを捧げることといたしましょう。

インドのタイガーという動物は、絶滅に瀕していることはご存知ですか。そのために保護区域を作ってタイガーの住み易い環境、繁殖し易い環境を整えています。そして、管理人は危ないジャングルに住んでいるタイガーをこの保護区域の中に写すわけです。どうやってそうするかというと、ドキュメンタリー映画で見たことがあります。管理人は睡眠薬の入った弾(たま)をライフル(銃)に入れてタイガーを撃つわけです。映画を見ている私たちからすれば、それは明らかにタイガーのためになされている、タイガーという動物類を救うためになさられているとわかります。けれども、考えて見ましょう。タイガーの立場に立って見ま
 しょう。タイガーの観点からみたらどうでしょうか。銃を持った人間は自分のためにやっていると思えるでしょうか。銃で撃つ弾に睡眠薬が入ってるというようなことはわかるでしょうか。前もってタイガーに分かるように説明してあげるということはできないですね。タイガーにとっては人間というのは餌食か敵か、それ以外はなにもない。タイガーにしてみれば、自分を救おうとする人間と、自分を撃って殺そうとする人間は何の変わりもない。タイガーの世界と人間の世界の間にそれだけ超えがたい開きがある。人間と神様もそうです。神様は人間を救おうとしているが、人間がそれがわからない。人間の世界と神様の世界は、タイガーと人間の世界のように全く通じないこととなっています。猫と犬は5・6千年前から人間の生活に慣れて、そのよさが分かったというか、人間と一緒に住む方が楽だし、安全ですね。いわゆる人間のペットになったわけです。2千年前から、神様の世界、神様の生活、生き方に親しむ道が開かれました。それが、イエス・キリストという方です。その道は聖書に書かれています。聖書をよむと、私たちはいわゆる神様のペットになれるようになりました。
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~ 神を餌食にして、権力を得るために使う instrumentum imperii 
~ 神を敵に回して殺す、神の子イエスのように
~ 神との正しい関係。仲良く付き合う関係
我々はほとんどそれに気づくことない、最も重要な事柄は人目につかない。最も重要な事柄が、空気や光、空間と時間の配置や我々が立っている地点、また我々の特定の出発点からゴールへの道(訳注:  方向感覚)が、生活の先験的な部分であり、それについて考えることなく、我々はそのうちに生活している。それらが、どれほど本質的であるか、それらを失うまで気がつかない。
  上記のキリスト教的生き方の原理はこれに似ている。ただ、桁違いに大きいものであり、より大きく聖性にかかわるものである。これが神ご自身が生きておられ、創造し、贖ってくださる原理であり、神の真理と愛が働く原理である。神が我々に勧めているのはこれである。
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人間が犬に「お座り」を教えますね。皆さん、小さいときに、何もしゃべれないときにお母さんから、お父さんからいろいろ、食べ方、トイレなど、教えてもらいましたね。親の「霊」をもらって大きくなりましたね。神様も私たちに「お座り」を教えようとしています。それだけではなく、投げたボールを追いかけて持ってくるように教えています。神様は私たちといろいろな遊びをしたい。
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聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に
、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。やはり、私たちはまだタイガーの部分が
結構残っているからね。 現代社会は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。聖書という書物は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし私は、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれる書物、それがみことば、聖書であります。私たちは、そうした思いで、この聖書に取り組んでいただきたい、そのようにしてご自分の信仰を深めていただきたいという思いが生じれば、それは聖霊の賜物であると言えると思います。聖書をもっていて、宝の持ち腐れをしているクリスチャンも結構多いと思います。
 教会に行きますと、そこで私たちは罪の赦し(の秘跡)、ご聖体の秘跡を受けて、聖霊・神様がいつも共にいるようになる。それは不都合だとか、窮屈だとか、自由が奪われる。そんなふうに感じる人がいるかもしれません。しかし神様は、決して拘束し、見張り、罰したりしません。私のことをすべて知り尽くした上で、それでも愛してくださろうとして下さる神です。 幼い子供は親が自分を知り尽くしているからと言って、やりづらい、堅苦しいと思うでしょうか。かえって遠慮なく甘えて安心するのではないでしょうか。知られていることは安心でもあります。 人間は、本当は自分のことすべて知ってほしいと願っているのです。外見・表面上の自分だけでなく、隠れた自分、他人に出せない自分、自分の弱さも、寂しさも、むなしさも、罪もすべてひっくるめて分かってくれる方を待ち望んでいるのです。しかもそれらすべてを分
かった上で、すべてそのまま、ありのままに受け止め、それでも良いと言って次の一歩、成長につなげてくださる方を求めているのです。神様こそ、そのような方です。 だからこそ、いつも私を大切に、時にハラハラしながらも見守り、たえず回心の助けの手を差し伸べようとしてくださる神様・聖霊の働き。それに答えて、私たちは自分自身を、また同じように聖霊の宿っている他人を大切にする必要があるのです。こうしてイエス様の生き方を、生活の中でいつも表していくのがキリスト者の使命です。

 参考ブリージ・マッケナ「祈り 恵みの泉」(聖母の騎士社1995)
 

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Tuesday, May 20, 2014

Sunday, May 18, 2014

HOMILY FOR THE SIXTH SUNDAY OF EASTER YEAR A

HOMILY FOR THE SIXTH SUNDAY OF EASTER YEAR A
GIFTED TO MAKE A DIFFERENCE

In the gospel passage, filled with concern for the disciples that he was going to leave behind, Jesus promised "I will not leave you orphan. I will give you another Advocate" (John 14:16-18). In the first reading Philip goes to Samaria, where the word of God had not been preached before, and he begins to proclaim the good news about Jesus in the power of this Spirit. The people responded, were baptized and confirmed, and they received the Holy Spirit. Luke tells us that the town was bursting with joy and that a fever of joy came over everyone. They were filled with the Spirit reflecting the promise Jesus made to them: "I will give you another Paraclet".
Paraclet is a Greek legal term meaning a defense attorney, and it can also mean a spokesman, advocate, mediator, intercessor, comforter, or consoler. It means someone who stands alongside to protect and sustain the one assisted. Jesus is saying "I will send you the Spirit, the advocate, the Paraclet, the one who will be with you always at your side. With this he assures the Apostles that they will not remain alone: the Holy Spirit will be with them and sustain them in their great mission of bearing the announcement of the Gospel into the whole world.
Today we are already indwelt with the Spirit. Does this passage have any relevance for us? As a reminder of the mission of the Paraclet in the life of believers, the church is telling us the kind of assistance we can have with the Spirit. When Jesus promised an Advocate to his disciples, who dreaded his imminent departure from them, he was telling them that he would be with them in this Spirit just like he had been with them in Palestine. As we struggle to maintain our identity as believers in Jesus Christ, we must know that Jesus is ever at our side through the Spirit living within us.
The most important consequence of this presence of Jesus in our lives is the profound conviction, given to us by the Spirit, that we are embraced by the heavenly Father's love, just as Jesus was embraced by that love. This is what St. Paul tells us when he writes, "God has sent the Spirit of his Son into our hearts, crying, 'Abba! Father!" (Gal 4:6). If we listen to this Spirit, we will become ever more confident, in spite of the adversities that we may find in our lives. That is to say, gifted with the Spirit, we can make a difference in the world.
In the second reading, Peter gives us another direction in the second reading today when he tells us we can make a difference if we are able to give the reason for the hope that is within us. In a world where so many people are perhaps despairing because of all the violence and suffering and the tragedies that go on all the time, those who follow Jesus are filled with hope and must be able to show the reason for that hope. We do this through the witness of good life and confidence in God's providence.
When the gospel says that the Advocate will "teach us everything," it gives us the wonderful assurance that we need not guess at what Jesus would do if he were in our situation. We know that the world we live in is far different from the world that Jesus knew. This can make it difficult to apply the wisdom of Jesus to the twenty-first century. At the same time, if we can ask the question," What Would Jesus do if he were here?" This will go a long way to show an awareness of the believer in the presence of an advocate. When we listen with earnest prayer and patience to the Spirit of God within us, the answer will always tell us, in one way or the other, what is the will of God for us in a given situation.
In all these ways, we have a powerful divine Spirit, who will stand with us to advise and protect us. Thus, we are never alone, even at the darkest moments.

In a special way we encounter Christ in the celebration of the Eucharist. There is fulfilled in a special manner Jesus' words of comfort: "You will know that I am in my Father, and you in me, and I in you." (Joh 14, 20). In this celebration we anticipate the future, actually unimaginable meeting that "God has prepared for those who love him." (1 Cor 2:9). In this life we will never wholly reach the peace and happiness that we really desire, but when we receive Jesus lovingly in the Eucharist, we already participate in a mysterious fashion in this infinite happiness. We can have an inkling what it means to be embraced by an infinite love that never abandons us and that also unites us most closely to one another. Let us pray for the grace to ever more realize and appreciate this gift of the Eucharist, this veiled encounter with Jesus Christ, and thereby to grow in friendship with him.




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Sunday, May 11, 2014

05º Domingo da Páscoa - Ano A

05º Domingo da Páscoa - Ano A


ACTUALIZAÇÃO

Desde o início, a Igreja aparece como uma comunidade de serviço: os membros da comunidade cristã são convidados a seguir Jesus, que fez da sua vida uma entrega total ao serviço de Deus, ao serviço do Reino e ao serviço dos homens. Quando Deus concede determinados dons e confia determinadas missões, não se trata de privilégios que conferem à pessoa mais dignidade ou mais importância: trata-se de dons que devem ser postos ao serviço da comunidade, em ordem à construção da comunidade. As missões que nos são confiadas no âmbito comunitário não podem ser utilizados para promoção pessoal ou para concretizar sonhos egoístas; mas devem ser missões que desempenhamos com verdadeiro espírito de serviço, em benefício dos irmãos.

• Neste texto há ainda um convite a não ter medo da incompreensão do mundo. O próprio Cristo foi rejeitado pelos homens; mas a sua fidelidade aos projectos do Pai fizeram d'Ele a "pedra angular" da construção de Deus. É esse exemplo que devemos ter diante dos olhos, quando doer mais a incompreensão do mundo.


Homilia do Diácono José da Cruz – 5º DOMINGO DE PÁSCOA – ANO A

"Senhor, mostra-nos o Pai..."

No evangelho de João estamos diante de um Jesus que fala muito, os discursos ocupam a maior parte, é sempre bom lembrar que os escritos Joaninos situam-se mais ou menos nos anos 90, quase final do primeiro século, marcado por intensa perseguição aos cristãos.

O quadro que se apresenta é de insegurança e perturbação, certamente o grupo dos discípulos também viveu essa mesma experiência nos dias que antecederam a paixão e morte do Senhor, no coração dos pobres e simples, os ensinamentos de Jesus eram bem acolhidos, mas nas Lideranças Religiosas, ao contrário, a rejeição e a incredulidade eram evidentes.

As comunidades do final do primeiro século também estão inseguras, todos se perguntam que destino terá o Cristianismo iniciado pelos discípulos de Jesus, como sobreviver em um ambiente tão hostil ao evangelho, onde os cristãos são considerados membros de uma seita perigosa ao sistema.

Os cristãos têm consciência da missão que fora confiada á igreja, pelo próprio Senhor, mas por outro lado sentem-se impotentes e nada podem fazer para reverter o quadro.

Nossas comunidades cristãs neste terceiro milênio, embora em outro contexto vivem o mesmo drama, o que fazer diante de um mundo cada vez mais hostil ás coisas de Deus Pai ? Como agir em uma sociedade que ainda não conhece de fato a Jesus Cristo, seu Reino e seu evangelho. Filipe não conhecia o Pai, e hoje em nossas comunidades, muitos também não conhecem a Deus, fazendo dele uma imagem distorcida.

Muitos vivem em comunidade, recebem um Batismo, tem contato com Deus nos Sacramentos, ouvem a Deus na Palavra, comungam Deus na Eucaristia, mas não sabem ao certo quem é Deus, e essa fé em Jesus nem sempre os faz ser, pensar e agir diferente. Crêem em Jesus mas não o aceitam como Senhor de suas Vidas, aliás, nem admitem que ele interfira em suas vidas, é a chamada Religião onde as pessoas se "sentem bem", sem qualquer compromisso com a moral ou ética, Filipe não conseguia ligar Fé e Vida, sua relação com Deus se fundamentava em revelações e manifestações grandiosas, por isso irá dizer a Jesus "Senhor, mostra-nos o Pai e isso basta!" A queixa de Jesus procede, no caso de Filipe e para nossas comunidades também "Há tanto tempo estou convosco e não me conhecestes!" Por isso que as vezes há cristãos que nos surpreendem negativamente, leigos, religiosos, membros do clero, quando se envolvem em escândalos que são um contra testemunho, e dizemos cheios de espanto "Nossa ! Mas ele não saia da igreja..." O que fez todo esse tempo ? O mesmo que Filipe, sonhando com um Messias poderoso e celestial, que de vez em quando vem interferir em nossas misérias....

Nós cristãos corremos dois grandes riscos nos dias de hoje, podemos, a exemplo de Filipe, querer viver uma religião das manifestações milagrosas, vivendo então só na Mística, Deus nos revela seu mistério, que contemplamos e adoramos, e fica nisso. É Deus quem faz, é Deus quem age, é Deus que soluciona, Ele tudo pode e tudo quer, quanto a nós, em nossa pequenez nada temos a contribuir, e assim, fugimos do mundo que não aceita Deus, e nos acercamos dele, até o dia em que formos arrebatados para o céu.

Esse é um primeiro perigo, deixar tudo por conta de Deus, mas há outro perigo, e hoje esse é muito maior: o de buscarmos soluções no homem, no racionalismo que tem resposta para tudo, e nesse caso, a salvação vem do homem, Deus é apenas uma entre muitas outras opções do modo de se viver.

Há obras que precisam ser feitas, e Jesus garante que estas serão maiores do que aquelas que ele realizou, mas é preciso saber ocupar o nosso lugar, que não é em uma esfera celestial, flutuando ao encontro do céu, mas o lugar do Cristão é na terra, com os pés firmes caminhando em Comunidade, semeando a Boa Nova e cultivando sempre a esperança que não é vã, porque Jesus está com o Pai, mas também caminha á nossa frente mostrando-nos o caminho a tomar, para que não nos percamos nos atalhos que não nos levam a lugar nenhum.

O caminho é bem conhecido, não podemos dar a mesma desculpa de Filipe "Senhor, não sabemos para onde vais"! Não sabemos o que fazer, ou que estilo de vida adotar enquanto cristãos. Essa é uma desculpa esfarrapada demais, o nosso caminho é o mesmo de Jesus, é o caminho do serviço, percorrido sempre com amor e entusiasmo, ainda que diante de nós, tenhamos muitas vezes as cruzes dos fracassos, o tormento das nossas limitações. A Fé no Pai que se revelou em Jesus, aquele a quem seguimos, sempre nos reanima as forças, nos faz olhar á frente e seguirmos adiante, para uma Vida além de tudo o que hoje vemos, sentimos e somos. Esse lugar que já está reservado ao homem de Fé, é ao lado de Deus, para isso Ele nos fez e nisso consiste a Salvação... Ele já está a disposição, ainda nesta vida, para quem se dispuser a Ser Discípulo Fiel de Jesus.

José da Cruz é Diácono da
Paróquia Nossa Senhora Consolata – Votorantim – SP
E-mail cruzsm@uol.com.br



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Sunday, April 20, 2014

Corpus Christi A

キリストの聖体A

【ヨハ6:51-58】

Trinity A

三位一体Α【

ヨハ3:16-18 イエスとニコデモ


三位一体の主日 A   伊丹  2008年5月18日

 
「父と子と聖翌のみ名に入れる洗礼を授け……」(マタイ28・19)

「三位一体論」などというと、人間の頭で神の神秘の内面を解き明かそうとする大(だい)それた企てであって、実際の信仰生活とはかかわりの薄いことだと思われるかもしれません。けれども古代の神学者のなかには、これを「ダンス」という具体的イメージでとらえた人もいました。三位一体とは、いわば「シャル・ウイ・ダンス?.」-
'96年に大ヒットを記録した周防正行監督作「Shall We ダンス?」。しがない会社員が社交ダンスに目覚め、ダンスを通して人生の意味を再発見していくさまを感動的に描いた本作が、ハリウッド・リメイク版で日本上陸! 日本版で役所広司が演じた冴えない会社員をリチャード・ギア、草刈民代が演じた美しきダンサーをジェニファー・ロペスがそれぞれ演じ、オリジナル版に忠実なストーリー展開の中にハリウッド版ならではのゴージャス感がただよう。まさに“本領発揮”といえるジェニロペの情熱的なラテン・ダンスは見ごたえ十分!
  
STORY● 妻と子ども二人と暮らす弁護士のクラーク(R・ギア)。家族に囲まれた平穏な暮らしを送りながらも、どこか人生に空しさを感じていた。そんなある日、クラークは通勤電車の中からダンス教室の窓辺にたたずむ美しい女性(J・ロペス)に目を留める。衝動的にダンス教室を訪れたクラークは、そのまま社交ダンスのレッスンに参加することに。

日本中に「社交ダンス」ブームを巻き起こしたあの名作。
父と子は、聖霊において互いに一つになりながら踊っておられる。神は、一人きりで働かれるのではなく、互いに歩調を合わせ、片方が行うことを他方がうけとり、舞うようにご自分のいのちを喜びつつ、それをまわりにもふりまいておられるというわけです。現代は、グローバル化が進み、宗教をはじめとする価値観も多様となり、ますます柔軟な考え方と態度が求められる時代です。物事を結局「我」中心に見てきた、これまでの私たちの硬直した生き方にも反省がうながされています。それが地球に生きる人間同士を切り離し、内向きさせ、恐れや冷たさとなって生命の流れを滞(とどこお)らせてきたことが明らかだからです。ですから、今私たちが求めていくべきは、人々が和解し、手をとり合って共に豊かになっていくための「交わり」でしょう。神が三位一体であるというのは、その神が愛の神、交わりの神だということだと思います。私たちの神は孤独で不動な機械のようなものではなく、いのちの結びつきを開花させる生きた方なのです。祝福のうちに万物を産み出し、私たちの身体と歴史の中に受肉し、そこに脈打ち、潤わせ、人間が互いのための者へと変わるよう、ご自分自身の愛の交わりの「縁(えにし・めぐり合わせ・因縁・ゆかり・よしみ・絆・つながり・よすが)」のうちへと私たちを巻き込む方であるわけです。
映画『シャル・ウイ・ダンス?』で描かれたのは、マンネリ化した日常生活の中に主人公がダンスの楽しみを見出し、自分の世界を拡げていく喜びでした。神もそのように、救いの世界の広さへと私たちを誘い出そうとしておられるのでしょう。さあ、私たちも神のダンスの輪の中へ、ご一緒に!
(光延(みつのぷ)一郎・イエズス会司祭)
三位一体の神とは、いったいどういう神なのでしょう。まず、人間の頭で理解することはできないことは確かです。しかしまた、まったく理解できないと考える必要もないと思います。神が人間に与えてくださった知恵を最大限に使って、あるいはこうも説明できる、という面も必ずあるはずです。もちろん一つの説明は一つの限定であり、説明してしまえば、もう本当の神の姿とかけ離れてしまうのではあってもです。ただおぼろげながら、ある一面からの黙想を試みてみたいと思います。まず創世記-章26-27節の「我々に似るように、我々のかたちに人を造ろう。……神はこのようにご自身のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」という文を手がかりに黙想してみたいと思います。神は愛だと言います。(一ヨハネ4・8)神がもし孤独なひとりぽっちの絶対者であるなら、どうして愛と言えるでしょう。完全者は自分だけですから、神は自分自身しか完全に愛せません。だとしたら、永遠におのれだけを愛し続けて、他の一切を必要としないナルシストでしかありません。もし愛であるなら、愛する相手を必要とします。しかも完全な愛をすべて受け止めることのできる、つまり全能の相手が必要になってしまいます。これでは完全者が二人必要になって、矛盾が生じます。しかし今は、哲学的矛盾を一応かっこに入れて考えてみましょう。第一の方を父、第二の方を子と呼ぶならぱ、父と子は違った存在でありながら(同じ存在なら自己愛になってしまいますので)、同じ大きさ、同じ全能の力を持つはずです。そして子は、父の全身全霊をこめた愛を、すべてガッシリ受け止められる方であり、その愛をすべてまた父にお返しできる方であるはずです。このお二方は完全に、相手のために自分のすべてを与え合っていらっしゃるのでしょう。しかし困ったことにそうであれぱ、やはり他者をまったく必要としなくなるのです。永遠からお互いに愛を交換し合っていて、他者はじゃま者になるのです。男女の愛も、まったく違った性を持ち、人として同じ大きさを持っているからこそ、愛の交換が可能なのです。人間と犬とであれば、違っていても同じ大きさではないので、人格をかけた愛とはなり得ないのです。ただ男女が愛し合う時、排他的なものになりがちです。第三者は、それが男であれ女であれ、二人の愛を壊す者として登場します。愛の博愛性と排他性の矛盾です。しかし人間の愛の場合、肉体を通しての排他性は正しいと思いますが、精神的には広く愛すべきでしょう。つまり二人が互いを見つめ合うだけでなく、二人が神の愛に目を向ける必要があります。神への愛、神からの愛の中で、二人の愛は正しいものであり、もっと確かなものとなるからです。ですから神の愛の中での霊的な博愛性は、やはりあるべきなのです。男女の愛の場合にも、愛は一体化を目指します。しかしそこには、知らず知らずのうちに、子どもの存在が前提とされています。つまり、二人の愛の具体的な形としての子どもです。この子どもは第三者として現れるのですが、二人の愛を壊すどころか、さらに強く結びつける存在として登場します。二人と違った存在、しかし人として同じ大きさを持ち(赤子といえども)、父母の愛を受け取って返せる存在なのです。お父さんの部分もお母さんの部分も持ち、またまったく違った人格なのです。お父さんが赤ちゃんを愛することは、お母さんを愛すかことと同じですし、お母さんが赤ちゃんを愛するのは、お父さんを愛することと同じなのです。しかしまた、自分の赤子だけが他の赤子と違ってかわいいのも事実です。つまり肉体的に考えたら、家族愛というものも排他的なのですが、その愛が神に向かう時のみ、広い愛、社会的な愛、博愛に広がるのです。家族愛でも自分の家族のことしか考えない愛は、閉じた愛であって、本当の愛ではないと思います(家族エゴ)。しかし三位一体は、肉体を持っていません。純粋に霊的な存在です。ですから父と子の排他的愛というのはあり得ません。父と子の愛は、霊的具体としての第三者、つまり聖霊に向かいます。聖霊は父の霊でもあり、子の霊でもあります。^ヨハネー5・26、父からでる真理の御霊〔私は真理である〕)父と子とは違った存在で、父の愛も子の愛もすべてを受け取ることのできる、父と子と同じ大きさを持った方であるはずです。「聖霊は私のものを受けて、あなた方に知らせるからです。父が持っておられるものは皆私のものです。ですから私は、御霊が私のものを受けて、あなた方に知らせると言ったのです」という言葉は、これを示しているようです。「マリアは聖霊によってイエスを宿す」ということも、聖霊を通して父と子の愛が人間に、そして人間を通して全被造物にあふれ出ることを示しているようです。聖霊は愛の拡散の原理のような気がします。もちろん神がみ言葉によって全世界を創造なさったことも確かですが。つまり三位の愛は、お三方がそれぞれ違ったペルソナでありながら、互いにおのれを完全に与え合う自己放棄、自己否定によって完全に一つであり、その愛はつねに外に向かってあふれ出ている、と言っていいのでしょうか。もちろん外というのも変な表現ですが、人間の言葉では表現できませんので…。しかしこのような想像を絶する三位の愛と、人間は対等に愛し合うことは不可能だと思います。なにせ大きさが全然違うのですから。神が本気で人間を愛しても、人はまったく受け取れないでしょうし、受け取ろうとすれば、人は一瞬にして焼け焦げてしまうでしよう。そこでその三位の愛が、神の子であり人の子であるイエスの内に、聖霊を通して輝き出るのではないでしょうか。つまり三位の燃える愛を、人の子イエスに翻訳してくださったような気がします。私たち人間は、人間イエスを愛することを通して、ある意味で三位と対等に愛し合えるのだと。
三位の愛は太陽のように、ダイナミックな愛の交換によって、その愛の熱をすべて被造物に放射しているのでしょう。三位一体は、私たち人間が目指すべき、あるべき家族の姿であり、やがて全被造物が大きな家族として結ばれるべき源泉であり、原動力なのだと思います。(静)

Pentecost A

聖霊降臨A

【ヨハ20:19-23】

6. 日本人の「道」の思想
内田樹氏の『日本辺境論』(新潮新書)を読んでいて、日本人の「道」についての面白い論述があった。日本人はどんな技術も「道」にしてしまう。柔道、剣道、茶道、華道、香道。この何でも道にしてしまう思想の本質は何か。要するに、道の思想とは、この道の果てに「完全」があるという思想で、今はわたしは「道の途中」にあるという現状認識である。「日暮れて道遠し」とか、「学ならぬままで死んでも、悔いなし」という価値意識である。この場合重要なことは「道上にいる」ということ、「途上」とか「途中」ということで、これからのことはよく分からないし、先の方は見通しがついていないが、とにかく一歩づつ進めば、完成にに至るという信念である。その信念さえあれば、現在の自分がいかに未完でも、未熟でも、あるいは先のことが理解できなくても正当化できる。この道の思想は師弟関係において具体化される。弟子は師に勝らない。弟子が不出来でも師は完全である。わたしにはわからないことがたくさんあるが、先生はすべてを理解している。
ここで論じられている道の思想は聖霊論と重なる。師はもちろんイエス・キリストである。わたしたちはイエス・キリストを目標として生きているが、キリストのことを理解している訳ではない。そこに到達する道が「霊の導き」である。霊に導かれて一歩一歩進めが、たとえ牛歩のような歩みでも、必ずいつかはイエス・キリストに到達できる。たとえ、到達できないで死んでも、悔いはない。重要なことはその道の上にいるかどうかということである。

Ascension A

主の昇天 A


【マタ28:16-20 弟子たちを派遣する】

7 easter A

復活節7主日A

ヨハネ17、1-11a

6 easter A

復活節6主日A
【ヨハ14:15-21 聖霊を与える約束】
今日の箇所、要するに、神様はいつもこの私と共にいてくださるということです。
最後の晩餐の席で、イエスは、聖霊を弟子たちには約束しますが、世に対しては、はっきりと否定的な表現をします。「この世は、そのかたを見ようとも知ろうともしないので、受けることができない」。聖霊を約束された弟子たちと拒絶されるこの世。弟子たちとこの世、どこがちがうのでしょうか。弟子たちに何があったから彼らは聖霊を受けることができたのでしょうか。あるいは逆に、この世には何が欠けていたから、聖霊を受けることができなかったのでしょうか。
それをみきわめることは、とても重要なことです。なぜかといいますと。弟子たちは、この聖霊を受けることによって、新しい活動を始め、教会をつくり、育てていくことができたからです。もし、この聖霊が与えられなければ、教会は誕生することができなかったともいえるのです。聖霊は、教会の原動力であり、魂ともいえるのですから、聖霊を受けられる、受けられないということは、教会の死活問題ともいえるのです。
したがって、聖霊を受けるための心がまえを確かめ、それを学び取ることは、教会を育てていかなければならない私たちにとっても、重大な課題です。
さて、それではこの世と比べて、弟子たちが聖霊を受けられたのは、彼らが聖人であり、完全な人だったからでしょうか。
そうではなかったはずです。最後の晩餐の時点では、弟子たちはじつに弱い弱い、ごく平凡な人々でありました。
誰が一番偉いかと議論しあうほど、俗っぽい人であり、イエスの神秘をほとんど理解していません。また、ユダの手引きによってイエスは捕らえられたときは、イエスを捨てて、逃げ去ってしまう人々です。「あんたもあの人の仲間だろう」と問われれば、誓ってまで自分の師との関係を否定します。弟子たちは、互いに競争心が強く、俗っぽく、卑怯で、自分勝手な人でした。おせじにもりっぱな人とはいえません。(現代、教会に通っている平均な人に似ているのでしょうか)。
彼らの隠れていた弱さや醜さを徹底的にあばきだしたのが、十字架の出来事でした。十字架は弟子たちに、そのやみと弱さをつきつけたのです。弱さとやみがあるということに関するかぎり、弟子たちとこの世の間には大した違いがありません。
イエスご自身も弟子たちの弱さ、醜さには驚かれなかったはずです。弟子たちが気がつく以上に、イエスは弟子たちのやみを知り、その悲しい姿を知っていたはずです。それを知るがゆえに、イエスは、人間を救おうと手をさしのべ、自ら十字架につけられた方です。そのためにこの世に来たと言います。
イエスにふれ、イエスと一つになるためには、人間の弱さは妨げにならないのです。罪があるということも、イエスと私たちとの間の壁にはならないのです。やみがあるところに、明るさを伝えていくのが光の特質だからです。
イエスと私たちとの間に壁をつくるものがあるとすれば、それは、ごうまんな心でしょう。ごうまんとは、弱さがあるのにそれに気がつかず、やみの中にいるのに光の中にあると思う錯覚の心です。罪をおかしているのにそれを正当化し、ゆるしと救いを求めなければならないのに、その自覚のない心です。この世と弟子たちを区別する心とは、まさに、ここにあるのではないでしょうか。
弟子たちは、自分の弱さと罪の現実を、十字架を通してみつめてしまったのです。そして自分の底なしのやみのなかで、ゆるしを求め、救いを求めて涙を流すのです。救いに飢え渇き祈る心を学んだのです。やみの中で光に向かってひらかれた、謙虚な心があったのです。
光に向かってひらかれた謙虚な心に、聖霊が惜しみなくそそがれていくのです。謙虚に、飢え渇き祈る心のすみずみにまで聖霊は浸透し、あたため、照らし、強め、導いていくのです。謙虚な祈りのあるところには聖霊による生命があふれ、おごりのあるところには生命が枯渇(こかつ)していくのです。(森)

 私たちはいつも今という時間の中で生きています。だから、いつも今の問題がとてつもなく大きな問題として振りかかってきます。そしていつも、とてもこんな大きな問題、立ち向かっていけないと弱音(よわね)を吐きます。そして神さまに不満を言います。どうしてこんな目にあわせるんですか。私はとてもこんな中やっていけない……。
 しかし私たちはまた知っています。10年前、あれほどまでに悩んだことが、今はもう何ともない。何とでもなっている。あの時、あれほどまで悩んだことはなんだったのだろうか。
 そうなのです。いろいろ降りかかってくる今のとてつもない大きな問題。しかししょせんすべては小さなことなのです。とりわけ永遠という時間、永遠の命、神様のもとでは、です。私たちには、いつも共にいてくださる神様がいます。思い悩みはすべて神様のもとに放り投げてみましょう(Iペト5:7思い悩みは神に委ねよ)。そして幸せ探しをしてみましょう。不幸の中から幸福を探すことをしてみましょう。
 まだたった4歳の子どもがいました。彼は手話を使ってじょうずに話すことができます。身障者でした。手術をしました。しかし失敗して、一層手足が動けなくなってしまいました。しかし手話で「神様ありがとう、僕には目、口、耳があるから」と示したのです。ないものでなく、あるものを考える心がこんな小さな子どもにもあるのです。
 またある方の一人息子が、白血病で亡くなったとき、お母さんに、「僕、感謝することがこんなにたくさんあるよ」。「お父さんお母さんとブランコ遊びしたね。お誕生会をしてお友だちがたくさん来たよ。ディズニーランドにも行ったね……」。こうして感謝することがなんと60にもなり、「疲れたから僕寝るよ」。そう言って亡くなっていきました。この子どもの残した言葉は、残された両親にとって、最大の報いとなり、今もこころに残り続けているのです。
 ある信者の奥さんが不知の病のためいよいよ死を迎えるとき、そのだんなさんが言いました。自分も洗礼を受ける。それは奥さんが本当に望んでいたことでした。それを聞いたとき奥さんは、「私が死ぬのにも意味があった。永遠、永遠」と繰り返し言いながら、天に帰っていきました。
  まったく逆にあるご婦人は、46歳で乳がんで亡くなりました。口癖のように二人の娘たちに、何度も何度も「私が死んでパパが再婚したら、継母(けいぼ)にうんと意地悪するのよ」と言ったそうです。愛の表現ではあったとしても、いったいこの娘たちは、どんな印象をもって、母を見送ったのか心配になります。

 自分の側ばかり見ているときには、不幸しか見つかりません。しかし神様を信頼し、神様の目から見たときに、自分に与えられているものを見ることが出来るようになります。心を上に向けましょう。たとえ八方ふさがりにみえても、上には、神には、道が開けているのです。神様は決して見捨てられません。神様は今私に、人が価値を認めず、自分自身が意気消沈(しょうじん)しているまさにそのような時にこそ、この私に価値を認め、引き上げようとしてくださっているのです。私たちがその神様の声を、拒みさえしなければ。
 私たちには確かにたくさんの不幸があります。そして神様は、その苦しみを理解されない方ではありません。イエス自身が、どうして私を見捨てられるのかと叫ぶほどの苦しみを負ったのです。親友ラザロの死を前に、蘇らせると分かっていながらも、はらわたが煮えくり返る苦しみを味わい、思わず涙したイエス様が、共にいます。それほどの苦しみを知っているイエス様・神様が、どうしてこの私の、人間の、悲しみを理解しないでしょうか。
 「どうせ私の気持ちなど分かるわけない。誰も分かってくれない」。時々そう人間はぼやきます。でも、そうやって人の助けを拒んでいるから、人は助けられないのです。あなたが心を開けば、小さな助けの声を聞きだすことができます。不幸探しはやめ、幸福探しの旅を始めてみましょう。たとえ今がどんなに苦しくても、神様がいつも必ずついていてくださるのですから。

 信じる者たちよ。なぜあなたは喜ぶ代わりに、悲しむのか。 なぜ暗い予想に従うのか。
 誰があなたに、あなたの不満の冬が、雪とひょう、さらに深い雪、さらに重い失望の嵐に進展すると教えたか。
 あなたは知らないか。夜は昼に、冬は春と夏に変わることを。
 だからいつも希望を持ちなさい。神は決してあなたを捨てない。Moseos

  

5 easter A

復活節5主日A

【ヨハ14:1-12 道・真理・命】

4 easter A

 復活節第4主日 A  伊丹教会  2008
ヨハネ10:1-10
イエス様は自分を羊飼いに、そして人間を羊にたとえます。
昔英語を習ったとき、羊はsheepと言って、単数でも複数も同じだということを学んだことがあると思います。群れという漢字も羊という字から成り立っています。羊はそれほど群れを成したがる、個性のないと思われる動物です。実際、羊の群れの中から一匹一匹を見分けるのは難しいことでしょう。ところがイエス様のたとえ方では、その一匹一匹を区別し、個性を大事にし、名をつけて、これは「メー子ちゃん」、これは「メリーさん」と、特別に大切なものとして扱うというのです。
私たちにはもっと分かりやすい例え方をすると、例えば入園したばかりの幼稚園児の集合写真をとるというのがあります。これは大変なことだそうです。ある子が落ち着けば、あの子が泣き出す。また別の子が走り回る。というわけでなかなかうまくいきません。長い時間をかければ、いっそう子供は飽きてしまいます。大変です。それでもそんな中、短い時間の中で全員がいい一枚の写真に収まるように、プロの写真家はおもちゃで気を引かせるなどして、一人ひとりすべてをベストショットを収め、集合写真を撮りあげます。イエス様はこのように集団の中でもしっかり一人ひとりを大切にする、そんなプロの写真家であるという例えです。
ザアカイのことを思い出します。ザアカイは、背が低く、徴税人として、人に軽蔑されるばかりでした。そのザアカイがイエス様を見ようと思って、木に登っていたとき、イエス様から突然、声をかけられました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まります」と。ザアカイは、このイエス様の呼びかけに答え、さっそく、イエス様に聞き従って行きました。せちがらい(世知辛い=打算的)この世の中で、自分のことを気にかけてくれる人がいる。驚きだったでしょう。そして喜びだったでしょう。その喜びは、その人が孤独であればあるだけ、強いでしょう。人間の孤独につけこんで、だまそうとする人がいると言うのも、現実です。話し相手のいない家に入り込んで、いろいろ話をしてくれる。それですっかり信じきって、自分の財産までまかせるケースがあります。しかしそれでもその孤独だった人は、たとえだますためであれ、話してくれる人が自分のために、費やしてくれた時間の方を大切に思うことがあります。それほど群れの中に埋没すること、自分を発見してもらえない、大事にしてもらえないというのは、人間にとって悲しいことなのでしょう。
イエス様は言います。「私は同じ顔に見える羊一匹一匹を見分ける羊飼いだ。私は集合写真の中でも一人ひとりをしっかり写す写真家だ。盗人は、盗み、屠(ほふ)り、滅ぼすために来るが、私は、魂の牧者、飼い主として、命を与えるため、それも豊かに与えるために来たのだ」と。
実際、イエス様のそのような一人ひとりを大切にする思いが、イエス様自身の利己的な利益のためではなく、本当に命を、すべての人に命を与えるためだというのは、イエス様に本当に聞き従い、行動した人たちの実りから分かるのです。
こういうふにイエス様がおっしゃっていることがすべて事実だと分かっている私たちは、それでも別の声を聴きたくなる弱さを持っています。イエス様の跡をついていくのに飽きて、わざとイエス様の見ていない隙間を狙って、別の道に行こうとするときがあります。しかしまた私たちは知っています。イエス様は、そんな道に迷いだした私を一所懸命、自ら探し回ってくれる羊飼いなのだ、決して迷ったままにしておかないという約束をして下さっています。こんな大変ありがたい、嬉しいことはほかにあるでしょうか。 Moseos

羊飼いと羊が声によって結び合わされているのです。羊飼いの声を信頼する羊。羊は目は近眼(きんがん、近くの物ははっきり見えない)であり、その反面音には大変敏感なのだそうです。羊飼いも自分のヒツジたちには一匹一匹名前を付けて呼びながら羊をまとめてゆくのだそうです。
復活したイエスは、目に見えないが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださる。このイエスとわたしたちの絆(きずな)は決して絶たれることがない。

私たちは、今ここに生きています。自分から望んで生まれてきた者はいないでしょう。それは、今この時代に、この私がここに生きる事を神がお望みになったからです。私は、神の永遠のご計画のうちに生きています。羊飼いは羊の名を知り、それぞれの個性を把握し、その羊にとっての最良の道を理解しています。
さらに神は私たち一人ひとりの想い、わずらい、強さも弱さも、通るべき道も全てご存知です。み手の中で平安のうちに憩い、たとえ暗闇の中にあっても、主への光を見失わないように希望と勇気を与えてくださいます。神の大きな愛に包まれている私は、主の呼びかけを聴きたいと願います。
しかし多くの物質に囲まれ、豊富な情報が、多様な価値観が渦を巻いています。目先の利益に流されそうです。本当に大切なもの、本当に守るべきもの、伝えていかなければならないものを見分けたいものです。毎日の出来事の中に込められた温かい神の配慮、それは必ずしも私にとって都合の良いことばかりではないでしょう。むしろ悲しみや苦しみ、多くの困難を伴うものかもしれません。神のご計画は計り知れません。喜びのときも悲しみのときも、神の愛を信じましょう。羊飼いの声を聞き分け、永遠の命をいただきたいと思います。
主よ、あなたの声を聞き分けられる良い耳をください。出来事にこめられた深い配慮に気づき、あなたと喜びを共にすることができますよう御導きください。sese07
私たちは人生の中で羊飼いの声を聴いた体験を持っています。だからこそ、私たちはここにまで導かれてきているのだと思います。それは直接イエスさまの声を聴くという体験かもしれませんし、聖書を通して聴くということかもしれませんし、間接的に神父や宣教師や先輩の信仰者を通してイエスさまの声が届けられるということかもしれません。いずれにせよ、私たちは羊飼いの声によって導かれてきたのですし、これからも導かれてゆくのです。神父となるためにも召命感というものが問われてゆきますが、それは主の召し出しの声をどこに聞くかということなのです。
イエス様の言葉はこの世を作られた神様の言葉と同一だからです。裏切った弟子たちが、またイエスの群れに戻り、イエス様の言葉を伝えていった。そのように、わたしたちもこの絶対的な言葉に戻り、賭けていきたいと思います。神の子が確約した言葉だからこそ、私たちはこの言葉に戻るしかないのです。

私たちに向こう側から「おおい、きみ」と呼びかけてくださるお方がいる。耳を澄ませば、そのお方の声が聞えてきます。私たちは本日、ミサ聖祭に与ります。「すべて重荷を負うて苦労しているものはわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。私たちに呼びかけてくださるこの羊飼いの声に信頼し、このお方にすべてを委ねて、今日もご一緒にこの恵みの食卓に与りましょう。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/123.htm

  
 

3 easter A

復活節第3主日 A  百合学院オラトリオにて 2008・4・6
ルカ24:13-35

二人の弟子たちは、現実の厳しさにつまずいて希望を失ってしまいました。私たちも時々、同じような体験をすることはないでしょうか。二人の弟子たちは、確かにイエスという方に大きな希望をかけていました。けれどもイエスは殺されて、十字架は、彼らにとって希望の終わりになったのです。だからこそ、普通の旅人として自分たちの横に現れた人を、イエスだと認めることができなかったのです。
この二人の弟子たちは、希望を失った人が歩む逃避(幻滅)の道を歩いていました。それは、同時に、私たちの道でもあるかもしれません。責任を逃れようとしたり、人生への疑いに悩んだり、弱い希望しか持たず、神のたてられた計画に納得できず、傷ついた、そしてある意味で高慢な私たちが通る道です。しかし、人生は、私たちがどうしても歩まなければならない命への道なのです。
「彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」とあります。つまり復活ということは、われわれが人間の力で、人間的な知性とか理性とかをどんなに積み重ねても見ることはできないことで、復活ということは、自分の力で信じることができることではなく、神から信じさせてもらって始めて、われわれは主イエスの復活を受け入れ、信じることができるようになるということです。
 
 不思議なことに、この時イエスはなぜご自分が復活したのだということを彼らにただちに分からせようしなかったのか、イエスのほうから積極的に示そうとしなかったのか。ここをみますと、イエスは彼らが宿に入ろうとすると、イエスは彼らと離れて先に進もうとしているのですから、イエスは最後までご自分のことを明らかにしようとはしなかったということです。
 更に不思議なことは、彼らがそれがイエスだとわかったとたんに、イエスの姿は見えなくなったというのです。なぜイエスはこの時もっと親しく彼らと交わり、ご自分が復活の主イエスなのだと彼らに示そうとなさらなかったのか。
 
 どうして復活の主イエスは、この時、もっと単純にというか、端的にこのふたりの弟子達に「わたしはよみがえったのだ」と告げようししなかったのかということなのです。これはわれわれがイエスの復活という事実を受け入れ、それを信じるようになるためには、大事なことをわれわれに示そうとされていることなのではないかと思うのです。
つまりイエスはご自分がよみがえったということを、単なる一大奇跡のように弟子達に示そうとはしなかったということです。
 よく新興宗教の教祖が人々を驚かすようにして、空中に漂うというようなことをしてみせるとか、手品のような奇跡をしてみせるとかをいたしますが、イエスは、そんなことをして、自分が救い主であることを示そうとはしなかった。復活という奇跡はそんなふうにして人を驚かすような奇跡として受け取られたくなかったということです。

 イエスの復活を信じるということは、それだけを突出して、お前はイエスの復活を信じるか、と問うても何の意味もなさいないということなのです。そのようにして死人のよみがえりという奇跡を信じるかどうか、それを信じられないならば、お前の信仰はだめだ、偽物だというようなことではないということなのです。イエスの復活を信じるためには、それを正しく信じるためには、それがわれわれ人間が必要としている復活として信じるためには、聖書からずっと預言されていることを学び、特にキリストについて預言されていることを通して学び、そうしたうえで、神の子の十字架の死とその復活と言うことを理解し、信じるのでなければ、復活という奇跡を信じたことにはならないということなのです。
 聖書全体と切り離して、ただ死人のよみがえりがあったとかなかったとかいっても、どこかの教祖様が空中遊泳したということと同じことになってしまうということです。
 イエスはあのふたりの弟子に、ご自分が復活の主イエスだとは明らかにしようとはしなかったのです。聖書の話をなさった。特に聖書のなかでご自身について記している所を心をこめて説き明かされた。そのようにして、もう彼らから離れてもきっとあとで自分が復活の主イエスだったと思いつくに違いにないと確信していたと思います。だから、主イエスはいわば安心して彼らを宿に残し、自分は離れて先に進もうとしたのではないかと思います。
 しかし彼らは強いてイエスを引き留めた。彼らはもうその時には、この人はただの人ではないと思い始めていたのだろうと思います。それで無理に引き留めたのだろうと思います。
 そして一緒に食事をした。イエスがパンをさいて彼らに与えた。その時に彼らの目が開いたので、それがイエスだとわかったのです。 
 
 イエスの十字架の話は受け入れる(分かる)ことはできても、復活ということは信じられないとよくいいます。あるいは、一度は信じたつもりでも、またわからなくなるということもあると思います。 それは復活ということだけを切り離して信じようとしたりするからで、信じられないと思うからではないか。復活を信じるということは、聖書全体から信じようとしない限り信じられないということです。
 
イエスから直説に説き明かされている時には、自分たちの心が燃えていたとは気がつかなかつたようなのです。あとから思いだしてみると、心が燃えていたというのです。この感激の仕方というのも面白いと思います。
 信仰というものは、あとでじわじわとわかってくるというわかりかたではないか。もちろん、熱狂的に感激することもあるかもしれませんが、このふたりのように、あとになってそういえば、あの時、心が熱くなったね、と思いだすというわかりかた、感激の仕方というのも、なかなかいいものだと思います。
 イエスの語りかたというのは、人々にただ熱狂的に分からせようとするのではなく、人々が自分たちの心のなかで納得するまでじっと待ってくださる、そういう語りかたをするということではないかと思うのです。
 ある人が「人に話をする時に『説得』と『納得』という方法があると言っております。説得は相手に反論を許さない、説得されたからといって、納得したとは限らないということがある。納得していないのに、説得されたというのは、非常に不愉快なものだ。相手を説得するのではなく、相手に納得してもらうほうを自分は選びたい」といっております。
 イエスの語りかた、特に復活の主イエスがこのエマオ途上のふたりに語りかけるとき、復活という事実を彼らに分からせようとしたときに、主イエスは説得ではなく、納得してもらうまでじっと待っておられる、そういう納得という語りかけをなさったのだということではないかと思うのです。
 
 

2 Easter A

復活節2主日

【ヨハ20:19-31 弟子たちに現れるイエスとトマス】

Easter Sunday A

復活の主日


【ヨハ20:1-9】


イエス・キリストの復活を信じることは人間の力ではできない。すなわち、人間がどのように頑張っても、イエス・キリストの復活を信じることは出来ません。それは、死んだ人間が生き返るなんて今まで一度も無かったからです。人間は死ねば、それで終わりでした。一巻の終わりです。その後はないのです。もう二度と会えないのです。いくら立派な仕事をしても、いくら立派な人格者であっても、いくら善行を積んだとしても、死んでしまったら、二度と生き返ることはないのです。これは変えることの出来ない事実でした。ですから人間であるイエス・キリストが生き返る話は信じることが出来ないのです。

 

それでは、なぜキリストの復活がしんじられないのかを考えてみましょう。それは、人間の罪に原因があります。「罪の支払う報酬は死」とローマの信徒への手紙(6:23)に書いてあるように、罪の結果 は死であって、けして命ではありません。永遠の死は私たちの内にありますが、永遠の命は私たちの内にありません。したがって、私たちには死を考えることが出来ても、永遠の命を考えることが出来ないのです。私たちのうちに永遠の命に至る正しさがないからです。

 

復活が信じられない第二の理由は、どちらかといえば、心理的な反発からです。信じられないというよりも、信じたくないといった方がよいかもしれません。つまり、死によってこの世の苦しみから解放されたいと願う人たちにとっては、無意味な延命はごめんこうむりたいと願うことでしょう。復活してまで苦しい人生を続けたくはないという気持ち、この気持ちも人間として理解できないわけではありません。

 

弟子たちは素直に復活を信じたのかといえば、決してそうではありませんでした。イエスの墓が空っぽであったことを最初に発見した婦人たちの報告を聞いたとき弟子たちは「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)とはっきり聖書は記しています。

 

それでは、最初に空の墓を発見した婦人たちはどうだったのでしょう。マルコによる福音書の記事はとても印象的な終わり方をしています。

 

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8)

 

 恐ろしさのあまり、正気を失うほどの衝撃的な体験だったというのは、喜ばしい復活の出来事を書き表すにはあまりにも薄気味悪い表現です。報告を聞いた弟子たちが、婦人たちの言ってることが「たわ言のようの思われた」というのももっともだと感じられます。

 

 しかし、誰もが信じられないと思っていたところに、かえって「何かが起こったに違いない」という印象を強くされます。 さて、キリストの復活は事実であったのかという疑問もさることながら、もっと興味のあることは、聖書がそこでどんな意義を説き明かそうとしているのかということです。もし、その意義付けがなければ、キリストの復活を信じる意味が失われてしまいます。

 

復活は事実だと信じても、それが、もし、私たちにとって意味のないことであれば、いくら事実であっても、私たちの人生に何のインパクトもあたえません。

 

ところが、キリストが復活されたということは、死が終わりでないことを、私たちに教えてくれます。キリストの復活を信じる者たちも、やがて、復活にあずかることができるのです。もし、私たちの人生がこの世のものだけなら、生きているうちに好きなことをして、楽しめるだけ楽しんでおけば良いということになります。パウロの時代も、そうした生活をしている人が多くいたようで、パウロは、この手紙の32節で、その人たちのモットーを引用しています。「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」しかし、私たちは、死のかなたにも輝かしい将来があることを知っているので、正しい生活に励むことができるのです。キリストの復活によって、私たちは生活の方向を定めることが出来るのです。

 

パウロも、きょうのコロサイの手紙のなかで、天を見つめるように呼びかけます。「上にあるものを求めなさい、そこにはキリストが神のの右の座についておられます。地上のもではなく、上のものに心を向けなさい。

 

(祈り)

 

 父なる神さま、キリストの復活が無ければ、私たちの人生はどんなにか、無意味なものになっていたでしょうか。しかし、事実、キリストはよみがえられました。キリストは生きておられます。このキリストの復活の事実が、私たちの生活の中に働くように、私たちの信仰を、もういちど新しくしてください。人々が「キリストは生きておられる」ことを私たちの中に見いだすことができるまでに、私たちを導いてください。主イエスの御名で祈ります。