Wednesday, July 25, 2012

18 per annum B



年間18主日B【ヨハ6:24-35 イエスは命のパン】

主日のミサの聖書朗読は3年周期になっていて、今年(B年)の年間主日では、主にマルコ福音書が読まれます。しかしその途中、先週の年間第17主日から5週の間は、ヨハネ福音書6章が読まれることになっています。先週の福音は、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与えたという話でしたが、きょうはその翌日の話です。パンをめぐるイエスと群衆の対話の中で、何が「命のパン」か、すなわち、何がほんとうに人を生かすものであるかが問われ、そして、明らかにされていきます。

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私たちの関心は、今を生きること、現実の食べ物にあります。家族を養い、育てるために、どうしてもパンのために働くことが大切です。たとえ今やっている仕事が、自分に合っている仕事であっても、「楽しいから、自分の天職と思えるから」、そんなことだけでは通用しない現実があるからです。
 大体企業の論理は、利益をあげることにあります。今は、国際化されたグローバリゼーションの時代に入っていて、利益を得るためならば、地球上すべての地域がその対象になっています。前だったら日本の中で適当にやることもできました。しかし今は、簡単に外国の企業が入り込み、負け、下手すれば買収されてしまいます。だから会社の利益のため、仕事のため、いろいろな犠牲を外に強いざるをえない。それが現実です。
 しかしそのような私たちの現実の歩みに対し、イエス様は言います。
 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。この世の富や地位、一所懸命しがみついた会社なんて、簡単に朽ちるものだ。永遠の命にいたる食べ物のためにこそ働きなさいと。
 1923年にシカゴで世界で最も成功した金融家9人が会合をしました。その後、この9人はどうなったでしょう。ひどい結末です。自殺したもの3人、発狂したもの1人、逃亡中に死亡したもの2名、借金暮らしをしいられ後に死亡した者1名、老齢と病気のため刑務所から特赦されたもの1名、釈放された者1名。
 日本でもかつてはぶりのよかった人が今貧乏暮らしをしている。その体験を語るといったテレビ番組があります。かつてそう言えば有名だった金持ちが、その後、破産して、今はこんな暮らしをしているのか。それにびっくりすることがあります。朽ちる食べ物のために働くことのむなしさがよく表れていると思います。
 どうせ一生をかけて、自分をすり減らして働くなら、永遠の命のため、永遠の命を手に入れるために働きたい。そのような憧れも、一方で私たちにはあります。そのような神の業を行うために、ではいったい現実に何をすべきなのでしょう。
 その問いに対し、イエス様は答えます。
 「神がお遣わしになった者、つまり私を信じること、それが神の業である」と。
 これは不思議な答えです。神様のため、永遠の命のために働く道。それは今ある仕事をやめ、家族を捨て、神様だけに仕える。けっしてそのような行為を大切にしているのではないからです。むしろ信じることが、神の業なのだというのです。そして永遠の命にいたるためには、イエス様、のちにはっきりしてくるご聖体がもう与えられているのです。神の業を行う、永遠の命のために働く、それは別に、すべてを捨てて修道院に入るとか、そんなことを言っているのではない。そのためにはご聖体をいただけばいい。それに生かされて、神様の言葉をより確かに信じ、行動することが大事だ。そのようにイエス様はおっしゃるのです。

 しかし信じ続けるとき、行いを起こす必要に迫られることがあるのも、事実です。
 今与えられている仕事、今の職務を誠実に果たしていく。しかしどうしても、その仕事をしていく中で、イエス様の教えと反するものが出てきたらどうするのか。不正があり、ごまかしがあり、社会的な悪が潜んでいたことを知ったなら…。そのときに初めて私たちは、会社のためでなく、社会的な正義のため、神様の真理のために、むずかしい決断を迫られることもあるかもしれません。
 ある人は、自分の属する団体の不正を知ります。このことを社会に公表すれば、大変なことになると容易に分かります。当然自分も仕事を、そして今まで社会に貢献してきたという生活の誇りを失います。ある意味で、今までの人生を失います。家族がいれば、苦しみはいっそう募ります。たいていの場合、自分自身もその犯罪に手を染めている一員であることから、不正を見ない振りをします。不正をむしろ隠す側に回ります。しかし中には、勇気をもって、社会の正義のために、人をこれ以上不幸にさせてはいけないという善のために、告発する人もいます。そのような勇気ある行動によって、社会の不正は、悪は、少しずつ浄化されてきたのも確かです。そしてそのような浄化をされることがない結束した団体であっても、結局は、隠しとおされることはないのです。大手の会社であっても、だからこそ信用を失ったときの影響は大きく、あっという間に名門として誰にも知られていた会社がこの世から消える。そんなことも実際にあるのです。
 だから私たちはいつもイエス様の言葉を信頼し、信じて従わなければなりません。それこそがイエス様を信じ、朽ちない食べ物のために働くことになるのだ。そのことを信じ、忘れずに、歩んでいくようにしましょう。

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「衣食足りて、礼節を知る」「人は、物質的に不自由がなくなって、初めて礼儀に心を向ける余裕ができてくる。(大辞林)」という意味だ。生活が豊かになって初めて、道徳心が高まって礼儀を知るようになる(広辞苑)。

以前、ある人が次のように言っていました。「人間はまずパンのために働かなければならない。信仰は、働いて余裕ができてからでよい」
確かに現代を生き抜いていくためには、高学歴、高収入といった、人間が経済的に豊かになるための手段が必要であるといわれます。しかし、このような生き方は表面的であり、人間の外側を立派に見せることはできても、人間の内面で豊かにするとは限りません。
 そこで、今日の福音を読んでみると、現代の私たちの姿が、イエスの追(お)っかけをしていた群衆の姿に重なる部分が見えてきます。イエスの後を追っていた群衆が求めていたものは、人間を真に生かすパンではなく、おなかを満たすためのパンだったと、ヨハネは記しています。私たちは信仰生活の中で、命のパン、価値ある食べ物が南であるか知っています。神のみことば、そして聖体の秘跡、これらが信仰の糧であると分かっています。そして、主イエスが「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と教えていることも知識として知っています。
 さらに日本の社会で、物質的な豊かさだけで人間は満たされないということも多くの人が気づいていることです。このように言われてずいぶん年月がたちますが、いまだに私たちは、経済的豊かさの追求に人生の大部分の時間をかけているような気がします。中学、高校、大学の受験は、将来の就職を考えてのことですし、またそれは職業によって得られる収入や地位が、現実の人生の幸福を左右する決め手であると信じていることの現れといえます。
 しかし、人間の幸福は、生活の糧であるお金をいかに多く稼ぐかということだけで得られるのでしょうか。人間は神の望みに生きようとする過程において、それぞれ違った道に召されていきます。これを取り違えることによって、私たちは、時としてイエスが示された真理の道を見失ってしまうのです。それが現実の家庭や学校で子供たちの姿にさまざまな問題として現れてきます。
 私たちは本物の価値あるパンを見失い、満たすことのできないパンのために働くようになっていないでしょうか。エコノミック・アニマルとして、この世の命に終わるパンのために、ほとんどのエネルギーをつかっていないでしょうか。

「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」(論語、泰伯)。人民を為政者の方策に従わせることはできるが、その理由を理解させることは難しい。俗に(誤った解釈だが)、人民はただ従わせればよく、理由や意図を説明する必要はない(広辞苑)。
私たちは、なぜ経済的に豊かにならなければならないのか、その本当の理由は知らされているのでしょうか。それだったら、私たちは自由に生きているのではなく、飼いならされているのではないでしょうか。飴と鞭で働かされているのでないでしょうか。
物質的に豊かになるのは、人間らしくなるためでしょうか。それだったら、一番人間らしい生き方、価値観、生きがいを教えているのはキリストではないでしょうか。その点を考え直す必要があるかもしれません。もしかすると、私たちは、まことの食べ物、まことの飲み物である主キリストを生活とかけ離れた第三者にしているかもしゅれません。おなかを満たすパンを人生の生きがいの中心にするのではなく、人間を心底(しんてい)満たしうるまことの命のパンを得るために働くよう心がけたいものです。

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