四旬節4主日A
【ヨハ9:1,6-9,13-17,34-38
生まれつきの盲人をいやす】
生まれながら目の不自由な人とイエスとの出会いは、ドラマチックな展開で紹介されいます。
まず、物語は生まれながら目の不自由な人がイエスの力によっていやされることからはじまり、イエスの力を正しく評価できないユダヤ人が、イエスを陥れようとする試みに発展します。
いやされた男は、ユダヤ人と真っ向こうから対立し、確信にみちて一歩も退かず、軽蔑されてもゆるがないで、イエスをメシアとして信仰宣言します。この物語の結びとして最後にイエスはこのように言われました。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
この結びの言葉にあるように、このエピソードには、まことの光がなんであるかというテーマが隠されています。見えていると思う人はたしかに光に恵まれていますが、それがまことの光であるかどうかという問題が、提起されています。福音書には、このエピソード以外にも、イエスと目の不自由な人とのいくつかの出会いが報告されています。どれをとっても、こうした人々とイエスとの出会いには、健康な人々との出会いにはみられない、はりつめた火花を散らすような真剣さがあります。必死になってイエスさまに訴えかけていく迫力がみられます。
なぜでしょうか。なぜ、目の不自由な人、病んだ人、社会に取り残された人々の方が、健康で、すべてに恵まれた人々よりも、真剣にイエスを求めていったのでしょうか。
そのなぞを、イエスは今日の福音書のエピソードを通して示そうとされたのです。つまり目の不自由な人たちには、健康な目に恵まれた人々にはなかなか見えない世界が見えていたということなのです。
確かに、目が不自由であるということは重い苦しみです。人生に大変大きな負担を背負うことになります。
こうした人びとは、自分が今おかれている世界のようすがわかりませんから、その心はたえず不安におびやかされています。また、どこに向けば安全であるか定かではありませんから、確かな歩みを運ぶことはできません。一歩踏みまちがえれば、自分の身を危険にさらすことにつながりますから、つねに神経をはりつめて、緊張し、不安をもったままやみのなかにおかれていることになります。従ってまた、健康な人のようにのびのびと自由に生活を楽しみ、目標めがけてしっかりとすすんでいくことができません。生命のはつらつとした躍進への道はとざされています。
これは、健康な目に恵まれなかったということからくるどうしようもない現実であるとしても、この現実を通して、こうした人びとは、人間の存在のもろさ、限界をしっかりとみえているのです。健康な人が容易に気づかない人間の弱さ悲しさ、救いに渇いている現実に、直接にふれてしまっているのです。
従ってこうした人びとには、光があるのです。自分の有限性(限界)をみつめる光があるのです。それこそ、まことの光がであるとイエスさまはいうのです。まことの光のなかで自分の弱さ、限界を見、真の生命に飢えているのです。「恵みの力は弱さの中に全うされる」(2コリ12,9)からです。
ところが逆に、見えていると思うひとは、つい、自分の力を過信して、自分の真の姿をみつめることができにくいので、自分の真実の弱さ、限界に直面しないまま、日々の生活をおくっている場合のうほうが多いのです。
「見える」と思っていても、もっとも大切な現実に気づいていませんから、真理の上に土台をおいた人生にとはいえません。それこそもっとも深いやみの中にいることになります。
それはまさに、「自分は健康だ」と思っている人が医者に行かないのと同じです。どんなに自分の体の中で病気が進んでいても、気がつかないで、「自分は健康だ」と思っている限り、医者の所に行きません。同じように、「自分は見える」と思っている人は、イエスさまの所に行かないのです。
すなわち、「自分は罪人ではない」と思う人は、主イエス・キリストを必要と思わないのです。だから「罪が残る」のです。しかし自分が見えない、そして罪人であるということに気がついた時、イエスのもとに向かうのです。イエスさまの十字架のもとに向かうのです。そして赦しをいただくのです。
私たちは、物事を客観的・公平に判断しているつもりでも、実は「先入観」や「思いこみ」によって、大きく左右されているということがよくあります。
ある新聞によれば、過去三〇年間で、米国の一流オーケストラの女性団員の数は、五倍にもなったそうです。その理由は、オーディションの時に、演奏者と審査員の間にスクリーンを置いて、演奏者が誰であるのかを分からないようにしたことにあるそうです。目から入ってくる情報が遮断された結果、純粋に演奏だけで音楽家の実力を判定するようになったのです。つまりそれまでは演奏者が見えるので、同じ演奏の技量があっても、審査員は無意識のうちに男性を選んでいたことになります。
イエスに出会うために、真実の自分の姿をみつめる目を養うべきなのです。自分の無と弱さに近づくこと、自分のやみに目覚めることこそ、真の光、真の生命に近づくことことになるのです。
主イエスは、私たちが本当に見えるべき事を見えるようにして下さる方です。安息日の祝福を与えて下さる方です。元盲人の人が、「彼(イエス)が私の目の上に泥を塗った。そして私が洗った。そして私は見えた」と単純に証ししているような、そういう御業を、私たちにも同じようになさって下さったし、これからもなさって下さるのです。どうか見えるべき事が見えるように、主が導いてくださいますように。
神は肉眼の目で見ることはできません。イエスさまも、天国に行くまでは目でみることはできません。しかし神さまは、信仰によって見ることができます。
聖霊なる神さま。それは目で見ることはできません。しかし、風は目で見ることができなくても、風が吹いた結果を見ることはできます。風が吹いてカーテンが揺れるのを見て、風があることが分かるように、神さまもそのように見ることができるのです。そのように、神の恵みを見る喜び。‥‥神さまの世界が見えてきた、というのはそういうことです。
もちろん、今だって見えなくなることがあります。「自分は見える」「自分だけは見える」と、傲慢になった時に、何もかも見えなくなります。それゆえ、「罪人の私をあわれんでください」とへりくだりながら、主を礼拝する毎日を送りたいと思います。神の恵みを見て歩むためです。
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