ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)⑤
12 聖なる行為
時空の聖なる次元の考察に続いて、その次元において行われることを、つまりミサという行為自体を、この時点で取り上げるのは理にかなったことであろう。しかし、ミサについて本書の第二部で詳しく考察する予定であるから、ここでその一側面だけ、つまり行為の本質を取り上げれば足りるだろう。
敬神的(religious)行為はさまざまな起源を持ちうる。現代人としては我々は最も望んでいるのは、直接的な体験であろう。一定のグループの人々は、死にそうな危険から、たった今救われたとしよう。彼らは内なる促しによって、じっとして動かない、脱帽をしたり、あるいはそれに似たような真剣なジェスチャー[お辞儀]をするだろう、神に尊敬または感謝を表すだろうということは想像に難くない。彼らの行為は、その時点でのみ、彼らに限って可能、彼らの体験に対する直接的な表現である。別の場で繰り返されるならば、直ちに不自然で恥ずかしいことになるだろう。
敬神的行為は、定期的に起こること、意義のある出来事の意識からも生じうる。例えば、放課後、さまざまな出逢い、一日の中の摂理的な出来事、死という長い夜の先触れである睡眠という暗闇に入る前に。これらの瞬間に、立ち止まって、我に帰って、自らの創造者の手に自分をゆだねるのは自然なことである。このような内的促しに気づくことを学んだ人であれば、誰でもそうするだろう。一日の始めにも似たような促しがある。朝起きる時も人は何か敬神的なことをする必要を感じる。しっかり立ち、来たる一日の中で神から期待されることを受けて立つような気持ち。年末年始にも同じような、やや強化された気持ちが起こる。このような行為は、状況が変わっても、さまざまな条件のもとで繰り返されうるのである。なぜなら、それらは、たった一回の体験からではなく、実生活の再起するリズムから湧き出るからである。
最後に、敬神的行為は制度化されうる。つまり、一定の行為は妥当な義務とされうる。権威を持つ者だけが、正真正銘な妥当性を制定することができる。神は、エジプトからの脱出の時に、奴隷制からの解放は年毎に過越祭に記念されるべきと命じた時に、そのようなことをなさったわけである。
キリストは、最後の晩餐で過越祭の記念の間に、第二の記念、ご自分の死の記念を制定した。キリストのおん父のみ旨との一致、その生き方と救いの定め、その生きたメシア的使命、これらすべてがパンとぶどう酒の上に語られたことば、そして食べ物の分かち合いに、ことごとく表現されている。それから、彼は弟子にこれをいつまでも繰り返すように指導した。「これらのことをするたびに、私の記念としてそれをしなさい」。これは、まさに制定である。キリスト教的礼拝の核心である。
神が過越を記念することを定めた時に、エジプトからの以前の解放を記念する祭りに定まった日にいけにえを捧げるように命じた。この行為は、人間に可能な事柄のうちであるが、その真の意義は神的指導から受けている。
キリストによって制定された行為の本質は異なる。キリストは、「毎年、決まった日に集まり、友情のうちに食事をしなさい。その際、長老たちはパンとぶどう酒を祝別し、私を思い出すだろう」とは言わなかった。そのような行為は、人間に可能な事柄のうちであり、神からのものが祝われる出来事だけであり、つまり過越祭に似たものとなる。
キリストは違うことを仰った。「これをしなさい」は、「つい先に私がやったこと」を意味する。けれども、キリストがやったことは、人間に可能な事柄のうちではない。それは、神の行為であり、創造の行為又は受肉の行為のように、不可思議に神の愛と全能性から湧き出た行為である。そのような行為をキリストが人に託すのである。「そういうことが出来るようになるために神に祈りなさい」と言わずに、単に「しなさい」と仰る。こうして、神だけ満たすことのできる行為を人間の手に任せるのである。この神秘は、すでに考察された聖なる時間と空間の神秘に似ている。人間が行為する。しかし、その人間的な行為の中に神の行為がある。それは、人間の営みすべてに神が現存し、我々の現実、生きるための知恵と力、志しは全てが神から来る、というような一般論的な意味だけではない。それは、特殊的な、特定の歴史の中の行為である。ここで、「制定」という言葉にはユニークな、特別な意義がある。神が決定し、宣言し、制定した。人間の方は実施する立場である。人間はそれを行うたびに、神がその行いをもって、神にしか出来ないものにする。
行為の神的本質に対して、人間側に欠かせない一定の姿勢、一定の態度がある。最初の体験の新鮮さが伝わるために、個々人が何が起こっているかを意識しなければならない、そしてそれを表現する活気を持たなければならない。その表現には信憑性、気力、正真正銘性がなければならない、言葉と身振りにおいて迫力がなければならない。行為は定期的にもどる時と季節と有意義的関連させられるために、参加者はその関連の本来性とその背景にある神秘を感じなけれなならない。時のあらゆる変化を通じて、妥当であり続ける表現を持たなければならない。
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訳注: 修道院などの平日のミサは、たいてい朝早く行われるが、主の晩餐の「晩餐性」という性格を持たせる必要がある。復活祭は春分に近い満月と関係があるが、南半球においては秋となる。
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行為が制定された行為となるために、もう一つが必要。創造的経験や繰り返され得る表現ではなく、日常生活においてその意義を絶えず実現化することでもなく、制定した方のみ旨に聞き従うことである。人間の役割は、主に聞き、その命令に従うことである。それは、奉仕である。個人の経験のいかんやその意義に対する理解のいかんに依存しない奉仕である。人間の自立した人間的行為ではなく、神的企ての引き受けである。その神的企て自体が、この世における場を準備し、この世における協力体制を組み立てる。言葉の最も深い意味で、
「無私」の行為である。が、それを通して人間が真の自己に到達する。それがために、ミサという行為は、何回でも、ありとあらゆる状況、一般的状況であれ個人的状況であれ、霊的豊かさの時も、霊的危機の時も、苦しい時や悲しい時、あるいは自由を味わう時、喜びの時、いつでも繰り返すことができるのである。
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