テイヤール・ド・シャルダン著作集5、『神のくに・宇宙讃歌』、宇佐美英治・山崎庸一郎訳、みすず書房、1968年、171頁以下
世界のうえで捧げるミサ
主よ、いまふたたび[…]、アジアの大草原のただなかで-パンも葡萄酒も祭壇もないままに、わたしはこれらの象徴を立ち超えて、実在そのものの浄らかな荘厳さへと高まりゆきたいと思います。私ほあなたの司祭として、地球全体を祭壇となし、そのうえで世界の営みと苦しみとをあなたに捧げたいと思います。
かなた、明け初めた東の空のふちに陽の光りが輝きはじめました。ゆらめくその炎のたなびくしたで、地球の生ある表面はふたたびめざめ、おののき、怖ろしいほどのその労苦と取り組みはじめています。わが神よ、わたしの聖体皿(パテナ)のうえに、この新しい努力によって得られるはずの収穫をのせましよう。わたしの聖盃(カリス)のなかに、今日しばられるはずのすペての果物の汁を注ぎましょう。
わたしの聖盃と聖体皿とは、いままさに地球のあらゆる地点から立ちのぼり、霊のほうへ集中してゆこうとするいっさいのエネルギーを迎え入れるために大きくひらかれた、一つの魂の深みにほかなりません。- 新しい一日のために光りがめざめさせつつある人びとへの想いと彼らの神秘的な現存とを、わたしのうちに来たらしめたまえ。
ヽ
主よ、わたしはいま、わたしの生涯の支えとして、またその自然の歓びとしてお与えくださった者たちの姿を、ひとりひとり思い浮かべ、彼らへの愛に満たされています。さらにまた、このうえなく多種多様な環境から出て、しだいに心情と学問的探究と思惟とによる結びつきをわたしのまわりにつくりあげてくれたもう一つのきわめて親しい家族の成員を、ひとりひとり数えあげています。またもっと漠然とではあっても、無名の群れをなして生ある者たちの数知れぬ集団を形づくっている人びとを、洩れなくすべて想い起こしています。すなわち、わたしのほうは面識もないのに、わたしを取り囲み、わたしを支えてくれている人びと。歩みきたり、歩み去ってゆく人びとを。なかんずく、真理のうちに、あるいは誤謬を突き抜けて、事務所や研究所や工場のなかで、事物の進歩を信じ、今日もまた情熱を傾けて光りを求めるであろう人びとを。
混沌としていようと、あるいは判然としていようと、その厖大さがわたしたちに怖れをいだかせるざわめくこの多数 - 緩慢で単調なたゆたいがこのうえなく信仰の固い心情にも不安を投げ与えずにはおかないこの人間の大洋、わたしはいまの瞬間、わたしの存在がその深い潮騒に響きあうことをのぞみます。この一日を通じて、世界のなかで増大しようとしているいっさいのもの、また減退しようとしているいっさいのもの ー さらに死んでゆこうとしているいっさいのもの - 主よ、これこそあなたに捧げるために、わたしのうちに蒐(あつ)めようと努めているものなのです。
これこそわが犠牲(いけにえ)の供物、あなたがおのぞみになるただひとつの供物にほかなりません。かつて人びとは、あなたの神殿に、収穫(とりいれ)の初穂と家畜たちの最良のものを運び入れました。でも
あなたがほんとうに待っておいでになる奉献、あなたの飢えをしずめ、あなたの渇きを癒やすために、あなたが毎日ひそかに必要となさっている奉献はl宇宙の成長の流れに運ばれてゆく世界の成長にほかなりません。
主よ、あなたのカによって引き寄せられる被造物が新しい夜明けに差し出すこのいっさいの生贄を受け入れたまえ。わたしたちの努力であるこのパンも、それ自体としては巨大な分解にすぎないことはわたしも知っております。わたしたちの労苦であるこの葡萄酒もまた、残念なことに、腐敗してゆく飲み物にほかなりません。しかしあなたは、この形をなさぬ集団の内奥に、信仰なき者から信仰あるものまで、こぞって、「主よ、われらを一つになしたまえ」と叫ばしめる、抗(あらがい)いがたい聖なるのぞみを宿してくださったのです。わたしはこのことを感じているがゆえに、はっきりと確信しております。 聖人たちの霊的熱心と至高の純粋さを欠くこのわたしに、おお神よ、あなたは幽暗な物質のなかに動くいっさいのものへの抗いがたい共感をお与えくださいましたために-またわたしは、癒やしがたく、おのれのうちに、天の子であるよりはるか他の子であることを認めておりますためにこの朝、わが母の希望と苦難とを担いつつ、思念のうちに高き場所のうえにのばりましょう。そして、わたしが信じていますように、あなたのみがお与えくださった司祭職に身を固め、人間の肉のなかで、のぼりつつある太陽のもとに生まれいでようとしているいっさいのもの、死におもむこうとしているいっさいのもののうえに、わたしは火*を呼ぶでしょう。
* 火を投ずるためにこの世に来られたキリストの火と、いけにえを焼き尽くすための火
[…]
さていまや、かかる努力のうえに、わたしの口を通じて、かの二つの有効な言葉を発したまえ。それなくしては、いっさいは、わたしたちの知恵と経験のなかで、揺らぎ、解体してしまうのです。
また、それあってはじめて、いっさいは、わたしたちの宇宙にたいする黙想と接触とを通じて、見わたすかぎり相互に結ばれ、結合することになるのです。今日芽ばえ、成長し、花咲き、熟してゆくであろういっさいの生命のうえに、「これはわたしの体である」と繰り返したまえ。
そして、蝕(むしば)まれ、なえしぼみ、生命を断ってゆくであろういっさいの死のうえに、(おお、霊妙な言葉の奥義よ!)「これはわたしの血である」と命じたまえ。
No comments:
Post a Comment