Sunday, May 6, 2012

Ascension B

主の昇天 B
【マコ16:15-20】

   
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2006-05-28 14:23:13 | 宝塚教会 
http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/s/%BE%BA%C5%B7
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皆様もご存知のように宝塚教会の主任司祭である岸神父様が安らかに主のもとに召されました。皆様もいろいろな思い出がおありかと思います。。私も大学ではいろいろとご指導を頂いた者の一人です。岸神父様は教会司牧、研究・教育、現在でも英知大学の名誉教授、客員教授としていろいろと幅広く活躍されていましたが、とても悲しく残念に思います。主の昇天もキリスト様の姿がこの世からきえ、現世とのお別れであり、また、新しい希望に満ちた世界の始まりでもあります。こうしたさまざまな思いを込めて今日のミサをささげることといたしましょう。
「使徒言行録に述べられているように、イエスは復活の後、40日にわたって弟子たちに現れました。その後、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」(使徒言行録1・9)。(...)このイエスの最後のわざは、二つの意味をもっています。まず何よりも「天」に上ることによって、イエスははっきりとしたしかたでご自分の神性を現しました。イエスは地上での使命を果たした後、自分がそこから来たところ、すなわち神のもとに帰りました。さらに、キリストは、人間性をもって天に上りました。この人間性をキリストはとり、また、この人間性が死者から復活したからです。
この人間性は、わたしたちの人間性であるとともに、変容され、神化し、永遠のものとされた人間性です。それゆえ昇天は、すべての人間の人格に具わる「究極的召命」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』22)を現します。すべての人は、愛と光と平和の国である、神の国の永遠のいのちへと招かれています。(教皇ベネディクト十六世の2006年5月21日の「アレルヤの祈り」のことば(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳)(2006.5.22)
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今日の福音は復活したイエス様が天に昇る前、弟子や私たち信者に授けることになる力、恵みについて記します。たとえば悪魔を追い出す力、蛇の毒でも死なないこと、病人に手をおけば治せる力などについてです。

このような「しるし」が列挙されていることは、初期の宣教活動の実際を伝える資料として貴重である。
福音の言葉が聖霊の力によって語られるところでは、「主も共に働き」、さまざまな力あるわざをもって福音の言葉が空しくないことを確証してくださることは、この福音書が書かれたときも現在も同じである。今も聖霊が働いてくださる場では、人の思いを超える不思議な出来事が起こる。
イエスの名によって行われるわざには、神の力が働きます。そのとき、このわざは神のわざになります。主は信じるものと共にはたらいてくださるからです。
常識の世界に住んでいる人間が、信仰の青空を見上げると、そこに奇跡という雲がかかっていて、理解を妨げているように見えます。信仰のある人にとっては、奇跡は当り前かもしれません。しかし又、信仰を求めていながらまだ得られない人にとって、奇跡は実にやっかいなもので、天国の門前にいるお鬼のようなものです。奇跡が信仰を生むのか、信仰が奇跡を生むのか。どちらが先か分からない
という問題があります。しかし、信仰は人間の産物ではなくて、神の賜物だとすると、奇跡が分からないと言って思い悩むのではなく、信仰を与えて下さいと願い求めることが大切です。そしてその信仰は、復活のキリストに出会うという経験によるのです。生けるキリストに出会って倒される。そして彼に起こされる。すると倒される前の自分と、起こされてからの自分とでは本質的に全く異なっている自分を発見するのです。復活のキリストとの出会いという最大の奇跡を経験すると、他のもろもろの奇跡は、いかにもイエスにふさわしいものに見えてくるから不思議です。
しかし今日の箇所は、正直言ってとまどいを感じます。 たとえば私は司祭として、聖霊の賜物をいただいているわけですが、残念ながら病気を癒すことはできません。蛇の毒をためしに飲んでみようなどとても思えません。
それは私の信仰が足りないからでしょうか?あるいは聖霊の働きが、今日もはや止まってしまったのでしょうか?
この当時の使徒たちの奇跡的な活躍ぶりに比べたら、今の司祭、信者は、何もできないと言っていいと思います。そればかりか、どこでも修道者の数が減り、今まで築き上げてきた多くの事業を手放すのを目の当たりに見るとき、またヨーロッパで教会や修道院が閉鎖されているのを思うとき、「どうして神はもっと聖霊を送って、初代の教会のような目を見張るような働きを今の教会でしてくれないのか」と言いたくなります。イエス様は天に昇ったまま、今の教会を見放してしまったのでしょうか?
確かに初期の小さな教会は、そのような奇跡によって強められ、大きくなる必要があり、力強い聖霊の働きが必要だった。でも今はその必要がなくなり、本来の姿に戻ったと言えるのではないでしょうか。
イエス様を見れば明らかです。イエス様は、神の子として与えられた力を、最期には使わずに、空の手になって、人間の力で退けられて、処刑される道を選んでいます。第二朗読にあったように、降りていく道を選んだのがイエス様の生き方です(エフェ4:10)。これに対し人間は、「神(メシア)なら自分を救えるはずだ」と言ってしまいがちです。しかしイエス様は、そうしなかったし、復讐とも一切無縁でした。 「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。父にお願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタ26:52-54)。それがイエス様の言葉です。
それに神の独り子はたとえ殺されたとしても復活して、自分の力・奇跡をまざまざと見せつけることもできた。自分を殺した祭司長たちには復活した自分を見せつけて、おどかしたりしなかった。そうして復讐や恐怖とは無縁の、回心するまでじっと待つ忍耐と愛の神の姿を示したのです。復活したイエス様が現れるのも裏切った弟子をゆるすためだけでした。
ペトロや弟子たちに目を転じたとき、彼らはイエス様の復活前は、イエス様について行くことでこの世の名誉が得られると考え、「あなたの右と左に座らせて下さい」と頼んだりしていたのです(マタ20:21)。だからこそ十字架を目の前にして逃げるしかなかったのです。しかしイエス様の十字架と復活を体験した後、確かに弟子たちは変わります。それは十字架にかかってまで、「私」を救いたいイエス様の愛を心から悟り、そのゆるしを知ったからです。
もちろん弟子たちが変わったのは、イエス様が単に無力なまま終わったのでなく、いったん人間の裁きに神の力を明け渡したが、それにもかかわらずどの権力者も手に入れることのできなかった、死んでも滅びない「永遠の生命」を復活で示し、イエス様がまことに「いのちの与え主」であること、また神の限りない赦しを知ったからに他なりません。

さて、私たちは、カトリック信者になったとはいえ、まったく普通の人間のままです。聖霊の助けによって何の勉強をしなくても外国の言葉を喋れることはない。病気を治すには、キリスト信者も地道に薬を開発し、またそれを飲み、危険な手術も受けなければなりません。

でもそのことを誇りにしたいと思います。 今は、イエス様やペトロやパウロが自分の力を見せつけなくなったように、教会も自分の力を見せつける時ではなくなった。
では私たち無力な信者は、今の時代にあって何をなすべきなのでしょうか。

それはたとえば、それぞれが自分の賜物に従ってできることを地道に行い、力を合わせキリストの体を全体として作り上げていくこと。
また「永遠の命があり、復活する者である」という御言葉を宣べ伝える者。
仮に力を持っていたとしても、いざというときには、それを投げ出せる者として生きること(ヨハ21:18)。
一方的に世話をする強者、上から与える者、恵まれたもの、教え込む者として、善意を押しつけるのでなく、「私も同じ弱さと問題を持っている。どうしたらいいのか分からない。でもそんな私を受け止めてくれる神様を知っている。だから一緒に祈ろう」と共に祈るものになること。
「マザーテレサのように自分の宗教を押しつけることなく、共に貧しく生きながら誰もしたがらないことを、着実にやり続けること」。それらのイメージではないでしょうか。
参考文献 ヘンリ・ナーウェン「イエスの御名で」(あめんどう)

[2012年追加、園田教会]
今週の木曜日の新聞にシスター渡辺和子の書籍は、5万部を突破したということで、広告が載っていました。タイトルは面白い、『置かれた場所で咲きなさい』。なるほど、セメントの隙間、アスファルトの穴からきれいな花が咲いたりします。私たちは必ずしも好ましい状況に置かれていると限らない。けれども、どこでも咲くことができる、と。
私たち一人一人が、様々な難しさの中で、キリストの弟子として花を咲かせることができたら、それこそ福音宣教伴われる、不思議な「しるし」となるでしょう。

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