Sunday, May 6, 2012

Trinity A

三位一体の主日 A   
「父と子と聖霊のみ名によって」


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園田 2012年 野の百合会 2012年

塚口の近くに「ピッコロ・シアター」という劇場があります。そこに演劇学のセミナーが開かれています。皆さんの近くの映画館を考えてもらってもけっこうです。なぜ人は高いお金を出してでも劇や映画をみに行くでしょうか。たぶん、そこに日常生活と違う時間と空間があり、日常生活にないような楽しみがあるからでしょう。また、文学作品や映画には、自分と世の中の本当の姿、意味があるからでしょう。
劇場を営んでいく、あるいは映画を作るには必ず三つが必要です。まず、劇作家、脚本家です。例えば、シェイクスピア、近松門左衛門、世阿弥のようにドラマを書く人。作家は、あまり舞台に出て来ないが、すべての始まりです。第二に、俳優者、女優たちですね。作家が考えた主人公を演じる人たち。そして、三つ目に監督、あるいはプロデューサー、ディレクターです。監督は、作家の思いを受けて具体的に演劇に実現させます。スイスの有名な神学者バルタザールは、『演劇神学』(ドイツ語、全五巻)という有名な著作を発表しました(残念ながらまだ和訳されていません)。その中で、バルタザールは世界は劇場であると言っています。脚本家は父なる神様、舞台は天と地の間に設定されています。ドラマは昔から始まっています(今日の第一朗読はちょうどそのあらすじ、あらましを語っています)が、決定的な主人公は神の子イエス・キリストです。彼はドラマの途中で舞台に現れて、父の脚本に基づいて演じました。作家の本当の思いを伝えて演じました。そして、監督は、聖霊です。さて、私たちもこのドラマに参加するように呼ばれています。私たちも俳優、女優となっています。俳優の幸せは、やはり作家の思いどおりに、監督の指示に従って演じることでしょう。

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伊丹  2008年5月18日

「父と子と聖翌のみ名に入れる洗礼を授け……」(マタイ28・19)

「三位一体論」などというと、人間の頭で神の神秘の内面を解き明かそうとする大(だい)それた企てであって、実際の信仰生活とはかかわりの薄いことだと思われるかもしれません。けれども古代の神学者のなかには、これを「ダンス」という具体的イメージでとらえた人もいました。三位一体とは、いわば「シャル・ウイ・ダンス?.」-
'96年に大ヒットを記録した周防正行(すお まさゆき、1956年10月29日 - )監督作「Shall We ダンス?」。しがない会社員が社交ダンスに目覚め、ダンスを通して人生の意味を再発見していくさまを感動的に描いた本作が、ハリウッド・リメイク版(2004)年で日本上陸! 日本版で役所広司(やくしょ こうじ)が演じた冴(さ)えない会社員をリチャード・ギア、草刈民代(くさかり たみよ)が演じた美しきダンサーをジェニファー・ロペスがそれぞれ演じ、オリジナル版に忠実なストーリー展開の中にハリウッド版ならではのゴージャス感がただよう。まさに“本領発揮”といえるジェニロペの情熱的なラテン・ダンスは見ごたえ十分!

STORY● 妻と子ども二人と暮らす弁護士のクラーク(R・ギア)。家族に囲まれた平穏な暮らしを送りながらも、どこか人生に空しさを感じていた。そんなある日、クラークは通勤電車の中からダンス教室の窓辺にたたずむ美しい女性(J・ロペス)に目を留める。衝動的にダンス教室を訪れたクラークは、そのまま社交ダンスのレッスンに参加することに。
日本中に「社交ダンス」ブームを巻き起こしたあの名作。
JR尼崎の近くにキッズ・ダンス教室があります。「子供の才能は音楽・ダンスでどんどん伸びる、豊かな心は育まれる」と書いてあります。
父と子は、聖霊において互いに一つになりながら踊っておられる。神は、一人きりで働かれるのではなく、互いに歩調を合わせ、片方が行うことを他方がうけとり、舞うようにご自分のいのちを喜びつつ、それをまわりにもふりまいておられるというわけです。現代は、グローバル化が進み、宗教をはじめとする価値観も多様となり、ますます柔軟な考え方と態度が求められる時代です。物事を結局「我」中心に見てきた、これまでの私たちの硬直した生き方にも反省がうながされています。それが地球に生きる人間同士を切り離し、内向きさせ、恐れや冷たさとなって生命の流れを滞(とどこお)らせてきたことが明らかだからです。ですから、今私たちが求めていくべきは、人々が和解し、手をとり合って共に豊かになっていくための「交わり」でしょう。神が三位一体であるというのは、その神が愛の神、交わりの神だということだと思います。私たちの神は孤独で不動な機械のようなものではなく、いのちの結びつきを開花させる生きた方なのです。祝福のうちに万物を産み出し、私たちの身体と歴史の中に受肉し、そこに脈打ち、潤わせ、人間が互いのための者へと変わるよう、ご自分自身の愛の交わりの「縁(えにし・めぐり合わせ・因縁・ゆかり・よしみ・絆・つながり・よすが)」のうちへと私たちを巻き込む方であるわけです。
映画『シャル・ウイ・ダンス?』で描かれたのは、マンネリ化した日常生活の中に主人公がダンスの楽しみを見出し、自分の世界を拡げていく喜びでした。神もそのように、救いの世界の広さへと私たちを誘い出そうとしておられるのでしょう。さあ、私たちも神のダンスの輪の中へ、ご一緒に!
(光延(みつのぷ)一郎・イエズス会司祭)

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三位一体の神とは、いったいどういう神なのでしょう。まず、人間の頭で理解することはできないことは確かです。しかしまた、まったく理解できないと考える必要もないと思います。神が人間に与えてくださった知恵を最大限に使って、あるいはこうも説明できる、という面も必ずあるはずです。もちろん一つの説明は一つの限定であり、説明してしまえば、もう本当の神の姿とかけ離れてしまうのではあってもです。ただおぼろげながら、ある一面からの黙想を試みてみたいと思います。

まず創世記-章26-27節の「我々に似るように、我々のかたちに人を造ろう。……神はこのようにご自身のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」という文を手がかりに黙想してみたいと思います。神は愛だと言います。(一ヨハネ4・8)神がもし孤独なひとりぽっちの絶対者であるなら、どうして愛と言えるでしょう。完全者は自分だけですから、神は自分自身しか完全に愛せません。だとしたら、永遠におのれだけを愛し続けて、他の一切を必要としないナルシストでしかありません。もし愛であるなら、愛する相手を必要とします。しかも完全な愛をすべて受け止めることのできる、つまり全能の相手が必要になってしまいます。これでは完全者が二人必要になって、矛盾が生じます。
しかし今は、哲学的矛盾を一応かっこに入れて考えてみましょう。第一の方を父、第二の方を子と呼ぶならぱ、父と子は違った存在でありながら(同じ存在なら自己愛になってしまいますので)、同じ大きさ、同じ全能の力を持つはずです。そして子は、父の全身全霊をこめた愛を、すべてガッシリ受け止められる方であり、その愛をすべてまた父にお返しできる方であるはずです。このお二方は完全に、相手のために自分のすべてを与え合っていらっしゃるのでしょう。しかし困ったことにそうであれぱ、やはり他者をまったく必要としなくなるのです。永遠からお互いに愛を交換し合っていて、他者はじゃま者になるのです。男女の愛も、まったく違った性を持ち、人として同じ大きさを持っているからこそ、愛の交換が可能なのです。人間と犬とであれば、違っていても同じ大きさではないので、人格をかけた愛とはなり得ないのです。ただ男女が愛し合う時、排他的なものになりがちです。
第三者は、それが男であれ女であれ、二人の愛を壊す者として登場します。愛の博愛性と排他性の矛盾です。しかし人間の愛の場合、肉体を通しての排他性は正しいと思いますが、精神的には広く愛すべきでしょう。つまり二人が互いを見つめ合うだけでなく、二人が神の愛に目を向ける必要があります。神への愛、神からの愛の中で、二人の愛は正しいものであり、もっと確かなものとなるからです。ですから神の愛の中での霊的な博愛性は、やはりあるべきなのです。男女の愛の場合にも、愛は一体化を目指します。しかしそこには、知らず知らずのうちに、子どもの存在が前提とされています。つまり、二人の愛の具体的な形としての子どもです。この子どもは第三者として現れるのですが、二人の愛を壊すどころか、さらに強く結びつける存在として登場します。二人と違った存在、しかし人として同じ大きさを持ち(赤子といえども)、父母の愛を受け取って返せる存在なのです。
お父さんの部分もお母さんの部分も持ち、またまったく違った人格なのです。お父さんが赤ちゃんを愛することは、お母さんを愛すかことと同じですし、お母さんが赤ちゃんを愛するのは、お父さんを愛することと同じなのです。しかしまた、自分の赤子だけが他の赤子と違ってかわいいのも事実です。つまり肉体的に考えたら、家族愛というものも排他的なのですが、その愛が神に向かう時のみ、広い愛、社会的な愛、博愛に広がるのです。家族愛でも自分の家族のことしか考えない愛は、閉じた愛であって、本当の愛ではないと思います(家族エゴ)。しかし三位一体は、肉体を持っていません。純粋に霊的な存在です。ですから父と子の排他的愛というのはあり得ません。父と子の愛は、霊的具体としての第三者、つまり聖霊に向かいます。聖霊は父の霊でもあり、子の霊でもあります。^ヨハネー5・26、父からでる真理の御霊〔私は真理である〕)父と子とは違った存在で、父の愛も子の愛もすべてを受け取ることのできる、父と子と同じ大きさを持った方であるはずです。

「聖霊は私のものを受けて、あなた方に知らせるからです。父が持っておられるものは皆私のものです。ですから私は、御霊が私のものを受けて、あなた方に知らせると言ったのです」という言葉は、これを示しているようです。「マリアは聖霊によってイエスを宿す」ということも、聖霊を通して父と子の愛が人間に、そして人間を通して全被造物にあふれ出ることを示しているようです。聖霊は愛の拡散の原理のような気がします。もちろん神がみ言葉によって全世界を創造なさったことも確かですが。つまり三位の愛は、お三方がそれぞれ違ったペルソナでありながら、互いにおのれを完全に与え合う自己放棄、自己否定によって完全に一つであり、その愛はつねに外に向かってあふれ出ている、と言っていいのでしょうか。もちろん外というのも変な表現ですが、人間の言葉では表現できませんので…。
しかしこのような想像を絶する三位の愛と、人間は対等に愛し合うことは不可能だと思います。なにせ大きさが全然違うのですから。神が本気で人間を愛しても、人はまったく受け取れないでしょうし、受け取ろうとすれば、人は一瞬にして焼け焦げてしまうでしよう。そこでその三位の愛が、神の子であり人の子であるイエスの内に、聖霊を通して輝き出るのではないでしょうか。つまり三位の燃える愛を、人の子イエスに翻訳してくださったような気がします。私たち人間は、人間イエスを愛することを通して、ある意味で三位と対等に愛し合えるのだと。

三位の愛は太陽のように、ダイナミックな愛の交換によって、その愛の熱をすべて被造物に放射しているのでしょう。三位一体は、私たち人間が目指すべき、あるべき家族の姿であり、やがて全被造物が大きな家族として結ばれるべき源泉であり、原動力なのだと思います。(静)

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