四旬節B年 第5主日
ヨハネによる福音書 12:20-26
ある難民キャンプですっかり気力を失ってしまった子供がひとりいまして、手足もすっかり細くなってしまい、お腹だけがやけに膨れている子供がおりまして、おそらく親もどこかで死んだか途中で生き別れたか、とにかく一言も口をきかずにただジーッと空を見つめたままの子供がいたのです。流動食も受けつけないし、薬も飲まない。ただ死を待つばかりであったというのです。そこに一人のボランティアの青年でピーターと呼ばれる青年がやってまいりまして、その子の世話を自分がしようといって引き受けるわけです。ピーターはその子を抱いて地べたに座り込むんです。そして、二日二晩、自分のトイレに行く時間だけははずして、あとはズーッと抱き続けるんですね。三日目、この子に反応がでます。この子が笑うようになったというのですね。犬養道子さんはその時の様子をこういうふうに書いています。「自分を大切に思ってくれる人がいた。自分は誰にとってもどうでもいい存在ではなかった。この意識と認識とが無表情の石のように閉ざした子供の顔と心を開いたのだ」と書いておられるのです。 < 犬養道子『人間の大地』から >
この子供にとってボタンティアの青年は、おそらく数多く働いているボランティアの中のひとりにすぎないのです。そして、難民キャンプの中ではたえずボランティアたちは忙しく立ち働いているわけです。おそらくは、手が回るはずもない、どうせ何もかばってくれるはずはない、そういうひとりの青年でありました。そういうふうに見ても差しつかえのない立場にいるんです。ピーターにとっても同じことであります。この子は数多い同じような境遇の中にいる子供のひとりであります。いずれは、その辺りでばたばたと死んで行く子供のひとりででしかない。もし、このピーターが行ってその子供をかき抱かなければ、お互いに気づかずに、一方は忙しく立ち働きですね、一方は人知れず死んで行く。そしてそのことが少しも難民キャンプでは不自然ではない。そのままでも、ピーターはよいボランティアであり得るし、その子供はやむを得ず死んで行く。そのような状況の中でしか生きることができなかったひとりの子供です。そうした中で、青年がその子供をかき抱くことによって、その子に笑顔が戻って来るのですね。いったいそれは何だろうかということを思うのであります。
< 「一粒の麦」とは何か >
聖書の中でのイエスとの出会い、それも同じようなことが言えるかも知れないと思うのです。今日の福音書を読みますと、お祭りでギリシャ人が神殿に上ってきたと書いてあります。おそらくは、異邦人であって、このいわばユダヤ人たちと同じ信仰を持とうとして、改宗した人たちであったと思われます。おそらくは、そのままイエスに出会うことなく過ぎたとしてもよい信仰者でありうるそういう存在であります。けれども、聖書はイエスとの出会いが起こることによってそのままでは過ぎない何かが起こった、ということを教えている。その内容をイエスはここでギリシャ人に対して、「わたしは一粒の麦だ」ということをおっしゃるのですね。もちろん、このことばはイエスご自身のことを指しているということは確かなことです。しかも、イエスご自身は、自ら一粒の麦として死ぬということは十字架にかかって自分は死ぬ、やがて受け止めるべき自分の定めをここで、こうしてギリシャ人たちに指し示しすわけであります。けれども、この一粒の麦ということの中には、それをギリシャ人に向かってイエスがおっしゃったということを考えますともっと深い意味があるように思うのであります。
「一粒の麦」というのは、これは「どうでもいい存在」なんですね。イエスと出会うなどということは、もしイエスが一粒の麦であるといたしますと、これは、どうでもよいことかも知れない、ということを暗に示しています。
あの難民キャンプの中で大勢の子供とボランティアという関係があった。あるいは、病院では大勢の患者とスタッフの関係がある。学校でたくさんの生徒と先生の関係がある。教会で信者同士の関係がある。ある意味ではその中で起こる出会いはどうでもよいことかも知れないのです。それはそれで、それぞれ成立をするんです。ボランティアである青年は難民のためにミルクを配り、とうもろこしの粉を配るのです。そして忙しく立ち働くことで自分はボランティアの働きをしていると思うこともできる。はるばる遠くからやって来て、難民キャンプで苦労している自分を見れば、「ああ、自分はよいことをしている」ということで済むのです。あるいは、飢え死にをする子供は大勢いる子供の中のひとりですから、自分が死ぬということは、難民キャンプの中では、人から見る時には「やむを得ないこと」として受け止めることもできるのです。「かわいそうだけれども、こういう状況では仕方がない」そういうふうにしか思うことができないところに生きている子供であります。それはそれでそれぞれに成立するところを生きている。ある意味では、青年も子供も「一粒の麦」です。その他大勢の中のひとりなんです。
ギリシャ人だってそうです。自分たちは改宗者として敬虔な祈りを捧げている、それですむのです。イエスというお方を見て、通り過ぎることだってできる。ある意味ではどうでもよいところをギリシャ人たちは歩いているんです。イエスご自身はだからギリシャ人に向かって「わたしは一粒の麦だ」とこうおっしゃる。ギリシャ人から見てイエスは、まことに一粒の麦です。大勢の中のひとつなんです。見えないかも知れない、そこをイエスはあえて自分を「一粒の麦」として立ち向かっていらっしゃるんですね。その「一粒の麦が死んで」ということの中に、その「どうでもよいところを一歩踏み込むことによって全く違った世界が広がる」ということを、「死ぬ」という言葉の中にイエスは表現していらっしゃるんです。一歩踏み込むということは、どうでもよいところを突き抜けるということであります。
ギリシャ人たちはフィリポのところへ来て「イエスにお目にかかりたい」と言っています。フィリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとフィリポはイエスのところへ行くと、つまり大変に手間暇をかけているわけです。一粒の麦である、あるいはどうでもよいかも知れない、そのイエスのところに手間暇をかけてギリシャ人たちは行っている。それは一歩の踏み込みであります。それは自分の中にあるあの「どうでもよい」とする、「このままでもよい」とするあの部分を死なせることであります。いわば自分の中の一粒の麦を殺すことであります。その時、一粒の麦はなくてならぬ食べ物に変身をするのです。一粒の麦が死んで多くの実を結ぶとイエスはおっしゃるんです。イエスが一粒の麦として死んで下さったということと同時に、わたしの中にある一粒の麦を死なせるということがここではまたギリシャ人たちに求められているということを学び取ることができるように思うのであります。それは「どうでもよい」部分に一歩、わたくしどもがもう一歩踏み込むということであります。
< 出会いにおけるもう一歩の踏み込み >
わたくしどもの中にも、どうでもよい一粒の麦がたくさんあると思うんです。その一粒の麦は、一粒の麦ですから目にとまらないかも知れない。どうでもよいと思うことかも知れない。そこをほったらかしてもちゃんと自分は自分として生きていけるかも知れないのです。ギリシャ人たちが敬虔な信仰者であったように、そのことは残り続けるのです。けれども、一歩の踏み込みがあることによって、その一歩の踏み込みとはどうでもよい部分を自分の中で死なせることによって、じつはその部分はキリストご自身であることを知るのです。
わたくしどもの中にあります一粒の麦、どうでもよいと自分が思っている部分こそ、じつはキリストご自身に他ならない。そのキリストご自身がここでは、わたしのために死んでいてくださる、ということをまざまざと知るのです。そのことをじつは今日、ここでイエス様はわたくしどもに教えていてくださるように思うのです。
(1988年3月20日 四旬節第5主日礼拝説教 テープ起こし 、賀来周一牧師
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/102.htm
「私たちの中で最高の信仰生活をしていると思っている人は一人もいないと思う。これでは足りないのだと自分をむち打つような思いをみな持っていると思う。しかし、それができない。家族があるとか、仕事があるとか、立場上いろいろなことのために信仰生活が中途半端になっている。しかし、死ぬときには育児の最中だからとか、仕事が忙しいだから少し待ってくださいとは言えない。小さい子供をのこして「かわいそうに」と人が思うときでも、人は死んでいく。そして死んだら、そのあとのことは全然心配できない。死ぬとは、だめになってあとかたもなくなってしまうことです。死ぬとは、責任を神様が持ってくださると信じてゆだねていくことです。
No comments:
Post a Comment