四旬節B年 第4主日
ヨハネ3・14-21
今日の福音はエジプト脱出の時に砂漠で起きた「炎の蛇」の出来事で始まります(民数記21・7-9参照)。神に逆らってエジプトへ戻ろうとしたヘブライ人は、エジプトのファラオの権力のシンボルである蛇にかまれると死にますが、モーセが旗竿に掲げた「青銅の蛇」を見ると命を得ます。そしてモーセは、人々を癒やす方は蛇ではなく、主なる契約の神であることを思い出させます。
モーセが荒れ野で蛇を上げた。これは、聖書をよく知っており、黙示思想に親しんでいるユダヤ人には意味をなしますが、ユダヤ教徒ではない異邦人には分かりにくいので、著者は、一四節の言葉が指している十字架・復活のキリストの出来事を、「神は世を愛して、そのひとり子を与えてくださった」出来事として、その意義を説明しています。
神は世を愛された ところで、「世」とは、ヨハネ福音書では神に背を向け、神に敵対する人間世界の総体です。「神が世を愛された」というのは、神が自分に敵対する者たちを愛されたということです。すでにパウロは、「わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死なれたことによって、神はわたしたちに対する御自身の愛を示しておられるのです」(ローマ五・八)と言っています。このことを、ヨハネは「世」という用語を用いて語っているのです。自分を愛する者を愛するのではなく、自分に敵対する者を愛するところに、神の愛の質が表されています。すなわち、イエスが取税人や遊女をそのまま受け入れた愛されたように、神はその愛を受ける資格のない者たちを、無条件で愛されるのです。神の愛が無条件・絶対であることが「神は世を愛して」の一句に込められています。
私たち人間は、この世の価値観ですべてを判断します。たいてい自分の立場から語るのであって、神の側に立つことはできません。しかしイエス様は、神の側から語られたみ言葉です。つねに神の側に立って発想し、それをこの世の言葉で語るのです。神の側と人の側の両方に立てる方なのです。ですから、この世の言葉であって、この世の言葉ではないのです。だからこそこの世を救う言葉なのです。私たちはこの世の価値観を、神におしつけてはならないのです。かえってこの世の価値観を、神の価値観で見直さなければならないのです。
モーセが荒れ野で上げた蛇は、青銅の蛇でした。人々をかんだ燃える蛇は、不平不満の蛇でしょう。エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民は、その自由のありがたさを感謝するどころか、奴隷時代の食事(たまねぎばかり食べていたといわれているのに)を思い出して不平を言ったのです。
人は、目先のことしか見えないのです。人があまりにも長いあいだ奴隷状態に置かれると、自由のありがた味を忘れ、奴隷の時をなつかしみ、あまつさえ(amasse その上にさらに)昔の状態にもどることを望むのです。自由にしてもらったことを、うらむことさえします。奴隷のほうが楽だからです。そして感謝すべき事柄を、不平不満に変えてしまうことによって、人の心は死んでしまうのです。感謝すれば生きる心が、ブツブツ言うことによって死ぬのです。物事を感謝して受け取るか、不平不満を言って受け取るかは人の自由です。でもその受け取り方によって、その人の生き方が決まるのです。つまりその人の責任なのです。イエスは暗闇と光を一度に歩むことはできないと知らせると同時に、光か闇かを選ぶように促されます。
しかし人を殺す燃える蛇が、燃える蛇でありながら燃えない青銅の蛇に変わり、人々がそれをあおぐ時、燃える蛇にかまれた人々は皆生きたというのです。それはイエス様を指し示すしるしでした。イエス様ほどひどい目にあった人はいません。何の落度も理由もなく・最大の悪人として抹殺されてしまいました。何の罪もなかったのにです。つまり人の価値観が神の価値観を否定し、十字架につけたのでしょう。この世の価値観を貫くため、神を消そうとしたのです。神を神とする時、人は人であるにもかかわらずです。
人の子は上げられなければならない、とイエス様は言います。神の価値観をおしつけず、むしろ人の価値観におしのけられる形で、神の価値観をうち立てようとなさったのです。イエス様は、人の価値観にのみこまれながら、なお神の価値観を説きました。いちばん粗末にあつかわれ、ボロぞうきんのように捨てられ、殺されながら、一言も不平不満を口にしませんでした。神への愛と人への愛を告白しながら殺されたのです。つまり極限の状況の中で証明されたのは、彼の愛だったのです。皆から認められている時、愛を語り、人々を愛することはやさしいでしょう。しかしイエス様はすべての人から拒まれ捨てられる時、なお愛を語り、神と人を愛し通したのです。つまり不平不満の機会を、すべて自分のエゴを神と人とにささげる機会にしたのです。明るい光の下で語られたのではなく、真っ暗闇の中で語られた愛の言葉だからこそ重みがあるのです。イエス様の価値観は、この世の価値観に敗れたのです。しかし、負けたように見えながら、その中でこそ神の愛の価値観が勝利したのです。この世の価値観の真ん中に、神の愛の価値観が十字架の形にうち立てられたのです。私たちは神の価値観を十字架につけるべきではなく、私たちの不平不満をこそ、十字架につけるべきなのです。この世の価値観で十字架を見るのではなく、十字架の価値観によって、この世と私の人生を見るべきなのです。(静)苦しんでいる人類の中心に立てられた十字架を見つめる私たちの目が、変容していくかどうか、愛と光を発見していくかどうかが、この世で生きる私たちに与えられている課題です。
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