15 賛美の言葉
我々はまず、書簡と福音書および説教に見られる啓示の言葉を検討し、それから聖変化における主の命令を満たす、遂行する言葉を取り上げた。残るは、祈りの言葉である。その本質の大部分は知られているが、論じるべきいくつかの点がある。
ミサにおいて祈りは現れるのは第一義的に、賛美や讚歌という印象的に形態である。開祭の少し後にある「栄光の讚歌」と呼ばれる大頌栄(しょうえい),または名誉の讚歌もその一つである。ベツレヘムの生誕に対する天使たちの賛美で始まり(ルカ2・14)、神の栄光を誉める言葉で続き、それから連禱のようなものに切り替え、神的三位一体の至聖の位格、特にキリスト、が嘆願される。そして、三一の神のみ名の荘厳な賛美で終わる。
「叙唱」と呼ばれるミサの部分も賛美である。これは、ミサの最も重要な祈り、聖変化を含む典文への導入である。叙唱の荘厳さを思わせるのは、その前句である。そこで、司祭と会衆が交互して、相互の霊的高揚を刺激し、強めるのである。叙唱そのものが、天の父への敬意で始まる。その敬意は、いつも独特のもので、それぞれの祝日で祝われる神秘によって異なる。また、神の威光をたたえる天使の聖歌隊に加わった後に、「聖なるかな」の礼拝で終わる。「聖なるかな」という祈りの前半は、ケルビムの唇から聞いた、イザヤ預言者の幻からとられている(イザヤ6・3)。後半は、エルサレム入城するイエスを描く福音書からとられている。そこで、子供達は歓喜して道でイエスにその言葉を大声で叫んだ(マタイ21・9)。
ある祝日においては、セクエンツィア(「続唱」)と呼ばれる、さらなる賛美が使われる。これらは書簡と福音書の間にはさみ込まれる。これは、祝日の中心的出来事の讚歌的宣言である。主な続唱は、復活祭、聖霊降臨の主日、ご聖体の主日に見られる。
賛美は昇階誦にもよく見られ、時折、入祭唱、奉納唱、集祷文(短いアレルヤの点在する祈り)のある形式にも現れる。これらの祈りは書簡と福音書のテーマと絡み合っている。
これらの賛美は、詩篇書や旧約新約における賛美の歌の延長線上にある。霊気のある人間が、神の偉大さ、栄光、すごさ、愛と熱情の経験であふれ、神に憧れ、神を誉め、礼拝しながら、その全能性を宣言する。賛美する人は栄光のうちに行き、その特別な雰囲気において喜んでいる。賛美の動機は様々であるが、すべての共通点は霊的高揚と神的栄光の輝きにある。賛美において人間の祈りは日常生活の世界から最も遠いところにある。
この高みの感覚は、叙唱の前句に特に現れる。そこで、司祭と会衆はいかなる低いもの、卑しいものから離れ、高く昇るように助け合っている。まず、お互いに神の力を望む。「主は皆さんとともに」と司祭は祈る。会衆は、「また、司祭とともに」と答える。
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訳注: Et cum spiritu tuo. 直訳すれば、「また、あなたの霊と共に」となる。この短い対話形式(「主は皆さんとともに。またあなたの霊とともに」)はルツ記の2章4節とテモテへの第二の手紙4章22節から取られ、おそらくキリスト教徒はこの形式を直接シナゴーグから取ったのであろう。例えば、聖ヒッポリトス(100~165)の中に、キリスト教徒は非常に早い段階からこの受け答えをしていたという明確な証拠がある。
英語圏では会衆の挨拶が「またあなたとともに(And also with you)」から「またあなたの霊とともに(And with your spirit)」に変わらなければならなくなった。 英語圏では2010年11月の待降節から、よりラテン語規範版に忠実な翻訳となったミサ典礼書を使用している。ちなみに、ラテン語の「Et cum spiritu tuo」は世界の主要言語では以下のように翻訳されている。いずれも「spirit」を汲み取った訳になっている。
フランス語 "Et avec votre esprit."
イタリア語 "E con il tuo spirito."
スペイン語 "Y con tu espiritu."
ドイツ語 "Und mit deinem Geiste."
ロシア語 "И со духом твоим"
中国語 「也與你的心靈同在」
日本語のミサ典礼書では該当箇所は「また司祭とともに」になっている。たしかに日本語として聞いた時に違和感を感じるものではないが、この日本語訳にはラテン語原文の面影は薄く、それ故に他の外国語の祈りとも共通点が見出しにくい。ミサの重要な会衆の応答句であるから、早く世界の流れに歩調を合わせた翻訳を日本のカトリック教会関係者に期待するという意見がある。
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神がその民を力づけ、司祭の霊とともにいて下さるよう求められる。霊とは、この場合は知性ではない。同時に親密性と高揚であり、そこから愛と礼拝と熱意の動きが始まる。それから、司祭が呼びかける、「Sursum corda. V. 心を高めよう。心を挙げよ。」会衆は答える、「Habemus ad Dominum. R. 主を仰いでいます。」その上に新たな呼びかけが来る。「V. Gratias agamus Domino Deo nostro. V. 神に感謝を捧げましょう。我らの神なる主に感謝しよう。」答えは、「R. Dignum et justum est. R.それは、ふさわしく正しいことである。」叙唱の出だし自体はこの最後の言葉とつながる。
「まことにふさわしく、正しく、私たちの義務であります、聖なる主、全能の父、永遠の神よ、何時いかなる場所においても私たちの主キリストによってあなたに感謝をささげることは」。
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訳注: 現在の典礼では、「まことにとうといたいせつな務め」となっている。
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以上の数句においては、賛美の祈りの独特な味が特に明白である。感謝である。感謝される理由は、美しいもの、何か有用なギフトではなく、存在全体という祝福である。啓示によって正体を現した、神の栄光、神の公現に対する人間の応答である。
人間が森羅万象のゆえに創造主に感謝する、すべてが創造主からの賜物であるから。天地創造の贈り物である自然の命、贖いの贈り物である超自然的いのち。これらに対して感謝をささげるという態度ほど、狭さと自己中心性から最も離れたものはない。心の花を咲かせることであり、存在の幅全体、有り余るほどの真理を抱擁する愛である。
「栄光の讚歌」において最も美しい表現がある、「主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る」。ラテン語の原文は "gratias agere"となっている。原意は「感謝する、尊敬する、好意を寄せる」ということである。ギリシア人とローマ人たちは、特に誉めたのはmagnanimitas (雅量、大度、広量)、自由な気高い生き方であった。その態度は、ここで神との関連で現れている。直訳すれば、「私たちは貴方の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る」となる。人間関係にでさえこういう感じ方が見られる。「あなたに感謝している、何かしてくれたからではなく、私のことを思っているからでもなく、あなたがいるだけでありがたいから」。このような愛は、不可思議な偉大さに至っている。実は、愛する者の存在に対する感謝は、別の方向に、その人の両親か神かに、向けるべきである。美しいナンセンスであるが、神に感謝を向けるというナンセンスは、実は最も意味深いことである。なぜなら、神は、存在そのものであり、「在りて在る者」(出エジプト3・14)であるからである。すべての存在者の中で、神の存在にのみ価値があり、愛の完全な表現だからである。人間は、神の栄光に揺さぶられて、その愛のゆえ感謝する。
賛美の歌を通じて深い気持ちが流れている。個人的な経験から生じる気持ちとは違う。その気持ちの持参人は個人ではなく、全体であり、教会共同体である。教会とは、個々人の信者の総和以上のものであり、全員を包む巨大な制度以上ののものである。聖パウロと聖ヨハンは教えているように、教会とは強大な有機体であり、キリストの神秘体に生まれ変わった人類である。そこに個々人の信者は鼓動する細胞である。従って、讚歌においては語っているのは教会である。
思い切って言うならば、賛美の歌は表している喜びが教会共同体だけのものではなく、神ご自身のものでもある、と言えるかもしれない。だって、聖パウロは聖霊ご自身が「言葉に表せないうめきをもって」(ローマ8・26)執りなしてくださる、と言うではないか。これは、すべての祈りに当てはまるのであれば、賛美の祈りに当てはまるのは間違いないであろう。旧約の詩編書は預言者的情熱から流れ出た。新約における詩編は聖霊降臨の火から流れ出た。使徒たちの言行録と第一コリントは、聖霊の嵐にような吹き方の力強さを証ししている。従来の思想と言語を乱すほどの力強さであった。こうして、どもりと叫びしか聞こえなくなった。ところが、パウロは別の箇所で、このような噴出的な表現を控えるように教えている。嵐とどもりよりも、真理と内的鍛錬によってコントロールされた透明な言葉の方が高く歌うのである。信仰者がみずからの情熱を「霊的な歌」(一コリ12、エフェソ5・19)に注ぐべきである,と。教会の賛美の歌はその様な霊的な歌から流れ出た。父なる神がキリストの名においておくってくださる喜びと霊的高揚感は躍進し、父に戻る。この聖なる高登りという感覚は、復活徹夜祭のロウソクを聖別するときに歌われる復活讚歌(Exultet[エクスルテット])を通じて、翼のように羽ばたいている。また、栄光の讚歌やその他の賛美の歌にも感じられる。
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訳注: エクスルテットは、ラテン語では、高く飛び上がる、沸き上がる、にえたつ、はしゃぎ回る、歓声を上げる、という意味である。「天の天使たちの群れよ、すでに喜び踊らんことを、天主の神秘らよ、喜び踊らんことを、かくも偉大な王の勝利のために救いのラッパを響かせんことを!」天における天使たちのこの上ない喜びを、地上で真似するような設定となっている。『典礼聖歌』の復活賛歌は、大きく分けて4つの部分からなっている。
あいさつの前まで。復活の喜びを世界にのべ伝える部分。助祭と会衆の応答。
あいさつの後。神とキリストによる過越しの叙述。叙唱と同じ構造。助祭の独唱。
「この夜」で始まる4つの部分。過越しの夜の叙述。会衆の賛美。
以後、最後まで、過越しの叙述。神の愛による罪の清めと、ろうそくによる、キリストの光の賛美。助祭の独唱。最後は、栄唱と同じ構造による。
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啓示する言葉が、我々に平静的に聴く態度と敬虔的な専心を求めている。聖変化の遂行する言葉が、恭(うやうや)しい態度と参与を求めている。賛美する言葉が、我々に求めているのは、我々自身のものとなることである。それに我々のベストを尽くすこと、あるいは我々自身を与えること。賛美に押し流されること。己の狭さとケチさを卒業出来るように真の祈りを学ぶことである。
繰り返しになるが、前日に、またはミサが始まる前に、栄光の讚歌、昇階唱、叙唱などに目を通すことが、ミサ聖祭のための良い準備となる。これらの賛美の祈りは生きたものとなり、そこに含まれる高揚感を理解し、練習することができるようになるためである。
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付録
栄光という言葉は、旧約聖書の出エジプト記や詩編、イザヤ書、エゼキエル書などにとくに多く現れる。聖書全体では、367回現れる。この栄光という言葉の原語(ヘブライ語)は、カーボードという。原意は、「重い」という意味を持つ。聖書の内容は力あり、重みがある。
澄み切った大空、夜空のきらめく星を見つめ、宇宙へと心を向けるとき、はるか古代から人々はそこに神の重みを実感してきた。人間においても子供や、大人であっても精神的に浅い人間は、軽く感じる。他方、人生の中で幾多の苦しみや困難を乗り越えてきた人には独特の重みを感じさせるものがある。その人には存在感がある、その存在感が認められる。
愛とは、正義とは、生きる目的とは、罪とは何か、また命とは何か、死とは、歴史とは創造とは、そして世界の終わりにはどうなるのか…等々の古代から最も深遠な思想家や宗教が問題にしてきたことがぎっしり聖書に詰まっているのである。
そのような重みの背後にある、究極的な存在こそは、あらゆる深い経験や苦しみの彼方にある神ご自身であり、この世界や宇宙全体を創造された神はまことに何よりも重い存在である。命は地球より重いと言われることがあるが、地球どころか全宇宙そのものより重い存在、すべての人間の命を集めたものよりはるかに重い存在が、それらを創造された神にほかならない。
このゆえに、つぎのように旧約聖書の詩集(詩編)で最も有名な詩の一つが、神の重み(栄光)を歌っているのである
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編一九編より)
私たちの現代の言葉では、栄光と重みのあることとは全くといってよいほど関係していない。パウロのつぎの言葉も栄光と重みとが関連して述べられている。
わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる。(Ⅱコリント四・17)
人間はいとも簡単に命を失う存在である。小さな鉄の球(弾丸)一発でも死ぬ。交通事故においても一瞬にして帰らぬ姿となってしまう。そのようなはかない、軽い存在であっても、神はここでパウロが述べているような、不滅のもの、永遠なる神の重み(栄光)を与えて下さるというのは、驚くべきかとである。私たちが苦しみを神への信仰によって乗り越え、導かれていくとき、そこに神の栄光の世界がどこまでも広がっていることであろう。
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