Wednesday, May 11, 2016

ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)⑨


16  祈願の言葉

賛美の祈りと比べて、祈願の祈り(羅 oratio[オラティオ])は特殊なコントラストをなしている。主に三箇所に見出される、栄光の讚歌の後の集会祈願、奉納の後の奉納祈願(訳注: トリエントのミサで、oratio secreta [密祷])、そして聖体拝領後の拝領祈願。祈願的な祈りはローマ典文、聖変化前後の様々なリクエスト及び主の祈りの後にも現れるが、本章で上記の三箇所をとりあげる。
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ラテン語のオラティオは、もともとは公衆の前での演説や講話を意味したが、典礼的祈願は神の前で神に向けて朗唱されるものである。ローマ典礼の祈願は、一般のオラティオの伝統を受け継ぎ、ラテン語詩文の規則や抑揚規則を採用しているので、荘重な文体と朗唱形式をもっている。
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   これらの三箇所は重要なところだとは、その前に出てくる言葉と身振りから、すぐわかる。まず、司祭が祭壇に接吻する。これは、神の臨在を象徴するところとの密接なコンタクトを表している。それから、司祭が人々に振り向き、厳粛で儀礼的な身振りをしながら言う、「主は皆さんとともに」。会衆、または侍者は答える、「また、あなたの霊とともに」。これは、前にとりあげた叙唱前句と同じで、集中させ、強化する言葉である。それから、司祭は「祈りましょう」と言う。続いて、集会祈願が唱えられる。奉納祈願の前置きはそれ以上に荘厳である。まず、司祭が「兄弟たちよ、祈れ」と言う。それから、「このささげものを、全能の神である父が受け入れてくださるように」と続く。これに侍者が、「神の栄光と賛美のため、また全教会とわたしたち自身のために、司祭の手を通しておささげするいけにえをお受けください」と答える。この準備の後に、司祭が祭壇の上にある奉納に向って[沈黙のうちに]祈りを唱える。
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訳注: トリエント典礼では、奉納祈願は奉納の歌と重なっていたので、沈黙のうちに、または小さい声で唱えられていた。
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  以上全ての祈りにおいて印象深い特徴がある、その厳密な儀礼性。古ければ古いほど、簡潔で厳格なものである。手の込んだ思想もなければ、感動するイメージも、感情のほとばしりもない。透明性のある、簡潔な、わずかの文章だけ。
  一例として四旬節第一月曜日の集会祈願をとってみよう。Convérte nos, Deus, salutáris noster : et, ut nobis jejúnium quadragesimále profíciat, mentes nostras cæléstibus ínstrue disciplínis. 「我々を改心させ給え、救いをもたらす我々の神よ。そして、四旬節の断食が我々に役立つように、天上のしつけによって我々の知性を教え給え。」そして、同じミサの奉納祈願は、Múnera tibi, Dómine, obláta sanctífica : nosque a peccatórum nostrórum máculis emúndet. 「主よ、あなたに捧げられた供えものを聖なるものとしてください。そして、我々を罪の染みから清めてください。」最後に拝領祈願は、Salutáris tui, Dómine, múnere satiáti, súpplices exorámus : ut, cujus lætámur gustu, renovémur efféctu. 「主よ、あなたの救いの賜物で満たされてへりくだって祈ります。我々は、その参加を喜びながらも、その効果によっても新たにされることができますように。
  以上の語調は、最初の印象として、我々とは縁遠く感じるかもしれない。我々の普段の祈りは言葉数がより多いだろう。もっと感情が込められ、遥かに私的なものであろう。勿論、ミサの全ての祈りはこのように厳格なものではない。以上の祈りは古くから伝えられて、大体同じような傾向をもっている。主観性の多いものほど、近代に近い時代に作られ、自制を失っている。
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訳注: 典礼における祈願は、その源流を、聖書(特に詩編)およびユダヤ教の礼拝(シュモネー・エスレーなど)にもっている。
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  初代の祈りは、個人の経験からではなく、共同体の意識から、もっと正確に言えば、教会共同体から湧き出た。しばしば、語源の意味での公式的(official)なものである。つまり、職務または公務から出たものである。古代ローマの明晰性と客観性が支配的な役割を果たしている。性格の違う時代に生きている我々に冷たいものと感じられ、人間的暖かみのないもの、信心深くないとさえ、捉えられてしまうことがある。けれども、この捉え方には問題がある。なぜなら、このような祈りには強力で深い信心性が詰まっている。形式だけは、我々は慣れているものとは異なる。実は、[ドイツ人にとって]中国の儀式のように異質的なものではない。もし、我々は中国の儀式を真剣に行おうとしても、心に響くことなく、精神的に一致することはないだろう。初代キリスト教の祈願は我々の文化の一部であり、深い根っことなっている。我々の生活の向こう側にあって、我々はまともな人格になるためには必要である。的外れのことやあまりにも自己中し的なことに没頭しがち我々にとって、祈願のきちんと整った、客観的な霊性はバランスを取り戻すために重要である。
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日本語で、「祈願」といっても、キリスト教的な祈願は、単に現世的な願い事をする祈りではなく、あくまで、神の救いへの賛美と感謝をもっている「記念」に基づき、未来に至る救いの広がりと完成に向けての神の働きを願い求めるものである。従って、祈願は、典礼の各行為を通して、教会が神の救いの営みに参画する姿を現すものと言える。
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  かなり努力しないと、我々はこのテキストの意義を把握できないだろう。深い集中の結果であるから。目の覚めた現実感覚でもって人生を見つめることと、くもりのない心が本質を認め把握したこと、および正確で強烈な表現力とがこのテキストの徹底したシンプルさを可能にした。初代教会の数世紀の歴史がこれらのテキストの基盤を形作った、熟練した現実感覚をなにより示している。年の浅い教会が、まず腐敗しつつあった古代の官能的な贅沢と、それから諸民族の大移動の混乱から生まれた諸勢力および中世時代の夜明けと、英雄的戦わなければならなかった。
  我々が思うかもしれない、これらのテキストは自明の文章ではない。それらが生まれ出た状況は、生まれ出される前に沈黙の祈りのうちに把握され尽くされた。我々は、導入をなす呼びかけ、「祈りましょう」を十分真剣に受け止めていないかもしれない。
  手順は次のようにすべきである。司祭は手を広げて、「祈りましょう」と言う。それからしばらく沈黙がある。その間、個々人がその日に祝われる神秘をテーマに、自らの意向と会衆の意向のために祈る。この静かで多様ないのりが、司式司祭によって集められ、集会祈願のわずかの文章でもって表現される。短い文章が、そのすぐ前に静かに神に上げられたものの活力すべてで満たされるように。今や、その簡潔さが物足りないものではなく、むしろ豊かな要約と感じられる。
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訳注: 例えば、自転車に乗るために必要な力(角加速度)は、古典力学では下記のように表される(運動の第二法則),
F=d2 θ/d t2
これは簡潔に、出勤することも、買い物に行くことも、レジャーで出かけることも、競輪場のことなどなども表している。自転車の具体的な乗り方の事例は様々であるが、抽象すればこのようになる。さて、抽象作業を行うと、豊かな感覚事実は失われるかのように感じる。けれども、よく考えてみると、上記の方程式に含まれる認識は感覚で捉えることはできない。この認識は、我々の普段の認識に上乗せされる。つまり、豊かにされる。抽象作業は、必ずしも現実を乏しくすると限らない。視点を変えれば、現実を豊かにすることもある。(B. Lonergan, Insight: A Study of Human Understanding, University of Toronto Press, 1997, pp. 111-112 参照)。
同じように、抽象的な集会祈願は、個々人の祈りを豊かにすることができる。
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前もって集会祈願を吟味すると、それを我々の祈りの乗り物にすることができる。これは、それらの本来の役割である。
  この祈りにおける祈りの方向づけが意義深いものである。カテキズムが述べているように、「祈りとは心を神に上げること」である。なぜなら、神は我々を超えていて、神への道は上の方へ導く。ところが、神は我々の内にもおられるので、神への道は内的神殿を通る、ということもある。神へ向かう歩みはどのように成り立つだろうか。何か導きの糸や方法があるだろうか。
    すべての集会祈願は、その内容はどうであれ、注目すべき文章でもって終わる。「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。」
   ここに、我々は求めていた方向づけがある。ここに、目標と道のりの適切な関係と、その道を歩むための原動力が示されている。目標とは父なる神であり、祈りはその御顔を慕い求めることである。道とは、キリストである。原動力は、聖霊。上記のワン・センテンスは典礼的祈りの法則全体を含んでいる。祈りの方法は、神的三位一体によって、我々の救済に使用された方法と同じである。森羅万象は父から出て、父へと戻る。父はロゴスにおいて天地を創造した。人間が父に逆らった後、キリストは世界に送られ、世界を救助し父へ復帰させる。
   永遠ある御子が人となり、その使命を果たした力は、聖霊であった。その同じ霊の力、父が御子の名において送ってくださった霊の力でもって、キリストの道を辿って御父という実家に我々は戻るのである。我々はキリスト信者であるのは、キリストにおいてである。我々の新しいいのちは、「エン・キリスト」、キリストにおける命である。従って、キリスト教的祈りは、キリストにおける祈りである。
  ここまで来たら、油断のない読者は気づいたであろう。典礼はほんとんど例外なく、御父に向かって進む、ということ。御父に、すべての言葉、すべての行為は向けられている。まれに、当然のことでもあるが、御子に向きかえることがある。例えば、栄光の参加において、三位一体の位格が次々呼びかけられるとき。あるいは、平和の賛歌のとき、そこで司祭の目があたかも、自分自身をいけにえとして献げている救い主の目と合うのである。
  時代が下るにつれて、祈願はキリストに向けられる傾向が見られるが、しかし、我々は何とかそれらは順不同であることを一度に感じる。典礼の言葉は向けられている顔は、御父の御顔である。けれども、あらゆる時点で、顔合わせがなされるのは、キリストの生きた場であり、辿っていくのはキリストの道である。どこに目を当てても、見えてくるのはキリストの啓示における真理である。キリストの生き方、死と復活が、すべてを新たな次元に引き上げる原動力である。キリストの生きた現実が、聖性の生き方のモデルであり、物腰である。我々はそれにゆだね、それにおいて生きるべき、ものの本質である。聖霊は、キリストとの一致と御父への動向、両方を遂げるための原動力であり、そのために我々に送られているのである。
  以上のことは極めて重要である。キリスト教的生き方の原理そのものである。それは特に意識時に自分自身を強制しないほど真であり、基本的なことである。我々はほとんどそれに気づくことない、誰かがいつかそれらを作成する必要性を感じた、後の時代の祈りに目を向けるまでは。だが、突然我々は窮屈に感じる、最も重要な事柄は人目につかない。最も重要な事柄が、空気や光、空間と時間の配置や我々が立っている地点、また我々の特定の出発点からゴールへの道(訳注:  方向感覚)が、生活の先験的な部分であり、それについて考えることなく、我々はそのうちに生活している。それらが、どれほど本質的であるか、それらを失うまで気がつかない。
  上記のキリスト教的生き方の原理はこれに似ている。ただ、桁違いに大きいものであり、より大きく聖性にかかわるものである。これが神ご自身が生きておられ、創造し、贖ってくださる原理であり、神の真理と愛が働く原理である。神が我々に勧めているのはこれである。我々の祈り方は、この聖なる法則を満たすようにならなければならないことになっている。
  

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