Monday, September 5, 2016

23 付録

23 付録

『金枝篇』(きんしへん、英: The Golden Bough)はイギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーによって著された未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書である。金枝とはヤドリギのことで、この書を書いた発端が、イタリアのネーミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られた。 完成までに40年以上かかり、フレイザーの半生を費やした全13巻から成る大著である。民俗学・神話学・宗教学の基本書として高く評価される。和訳としては、岩波文庫(簡約本)をはじめ、4種類が出ている。
この『金枝篇』の第43章に、ディオニュシオスが取り上げられている。ディオニュシオスが殺されて復活した神として古代地中海で広く崇められいた。さらに、ディオニュシオスの死と復活は、儀式的な食事で記念されていた。ニーチェもディオニュシオスとキリストを対立させている。
  これを受けて、新約聖書はこうしたディオニュシオス神話の焼き直しではないかという仮説を打ち出した研究者が現れた。おそらく、グアルディーニは、ここでこういうことを念頭において、ディオニュシオスに言及していると思われる。グアルディーニ自身は古代ギリシアに造詣が深い。
初代キリスト教の専門家であったG. Lazzati は、古代世界におけるキリストの「予感」について書いている。例えば、ウェルギリウスは『牧歌 (Bucolica)』第4巻の中で、メシアの到来を思わせる子供の誕生日を歌っている。(J. Ratzinger-Benedetto XVI, L'infanzia di Gesù, Rizzoli-LEV, Milano 2012, p. 73 参照)。ディオニュシオス神話もその一例と言える。ミサの制定は、旧約聖書全体だけではなく、異邦人の文化をも包括するものである。ダンテは、『神曲』の中でウェルギリウスの指導に従っていることに、このような理由がある。
東洋文化はどうであろうか。東洋文化にもキリストの「予感」がみられるだろうか。例えば、「和光同塵」(わこうどうじん)という言葉がある。光を和(やわ)らげ、塵に同ずと読む。自らの才知を隠して、世俗に交わることをいう。『老子』4に「和其光、同其塵是謂玄門」とあるに基づく。これは、パウロのフィリピの第2章で述べている、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」ということの予感と捉えることができる。
また、月の影の模様が兎に見えることから、「月には兎がいる」というのは昔から語られている伝承だが、これにまつわる話として、以下の伝説が語られている。 
猿、狐、兎の3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢った。3匹は老人を助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えた。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ。その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、兎の捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、兎を月へと昇らせた。月に見える兎の姿の周囲に煙状の影が見えるのは、兎が自らの身を焼いた際の煙だという。 
この伝説は、仏教説話『ジャータカ』を発端とし、『今昔物語集』などを始めとして多く語られている。これも、自分の体を倒れている人類のために捧げるキリストの「予感」と捉えられうる。

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