26 時と永遠
人間にまつわるすべての出来事は無常である。繰り返されることはないから、貴重なものである。過去となったことは何でも、いつまでも失われている。その代りに別のことが起こるだろうが、過去にあったことが戻ってくることはない。すべての瞬間は一度限りであり、いのちが、人生がいつも新鮮であるのはそのためである。我々の中で絶えず、やって来ることを歓迎し、失われつつあることを悲しむ何かがある。いのち、人生の美しさは苦悩と不可分である。いのち、人生の豊かさは、ぞっとさせるほどはかないものである。一時的なものは、いかに長く続くとしても、常にそっけない。永遠の正反対である。
持続と言われるものも、つまり根を張り、成長し、成熟するものも、流れを止めるものではない、一時的なポーズに過ぎない。自然科学は、世界のエネルギーは失われることはない、と教えている。エネルギーと物質の形は変わりうるが、トータルは変わらない。如何なる仕事に消耗されたエネルギーは、結果に現れる。
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Rien se perd, rien ne se crée, tout se transforme.
「何も失われず、何も創造されず、すべては変化する」。これは、「近代化学の父」と称されるアントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ(フランス語:Antoine-Laurent de Lavoisier、1743- 1794)の名言である。「 化学反応の前後て、それに関与する元素の種類と各々の物質量は変わらない 」 という質量保存の法則を発見した。
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なるほど、不滅の作品や不滅の業と言われることがある。けれども、それは、大事にし、次の世代に伝える人がいる限り、真である。本物の不滅がどこかにあるだろう、と我々は皆そういうふうに考える。けれども、それは曖昧な直感であり、存在する権利の主張、価値あるものはいつまでも保存される不思議な領域がある、というような希望に過ぎない。
この気持ちは、神と関連させられて初めて、より明確、より具体的になる。神は価値あるものすべてを、ご自分の永遠に受け入れる。しかし、不安な疑問は残る。人間にとって価値あるものは、実際にそうであるのか、そして神の前でもそうであるのか、という疑問である。
「人の子」の場合はどうだっただろうか。ある意味では、イエスの生涯はつかの間であったことが著しく、辛いほどにはっきりしている。彼の生命が、人間のすべての生命のよいに、最期を迎えただけではなく、言葉で表せないその神的高価性は、早まったかたちで、悪質で破壊的な意志によって破壊された。我々は、なぜそのような最期を迎える必要があったのか、いつまでも驚く。けれども、イエスの生涯はこれに尽きるものではない。イエスの生涯には、その各々のステップとともに、その彼方にある既に完全なもの、すでに不死の世界に、絶え間なく深く浸透していた、という事実もある。
我々の行動は、霊魂の意思決定によるものである。霊魂は不滅であるため、すでに永遠的な何かを持っている。ところが、意思決定は時間の中で始まり、時間の中で終わる。イエスの場合は違う状況があった。
これは完全な見通せない偉大な神秘である。地上の事柄ははかなさに埋もれている。我々にとって永遠とは、単なる希望に過ぎない。地上と永遠、我々はこの二つの間に橋渡しを作ることはできない。神のみができる、聖書の言う「新しい創造」を通して、「変容」させる。(ガラテヤ6・15; 2コリ5・17)時間的なものは消されるわけではない、永遠のうち引き受けられる。今は我々はそれについて何も概念を持っていない、ある性質を持つようになる。しかし、いつか、地上のはかなさにロックされている我々の考え全体は、自由をもたらすその性質を受けるであろう。そのとき我々は、「新しい天と新しい地」(黙示録21・1)とともに、永遠の現実を見る眼が与えられるだろう。そして、「主の思い」(1コリ2・16)が分かるだろう。
このようなものの見方が存在し始めたのは、イエスにおいてである。彼はすでに、その性質、その眼、その思いを持っていた。彼はそれらを我々にもたらした。我々がそれらに参与できる道を作った。彼は「新しい人」、「新しい始まり」であった。彼が地上にいた間、新しい始まりはベールに包まれていたが、すでに存在していた。彼は地上の束縛とはかなさを最後まで担う必要があった。なぜなら、彼は我々の罪を贖うために、「すべての点で兄弟たち[我々]と同じように」(ヘブライ2・17; 2コリ5・21参照)ならねばならなかったからである。新しいものは、復活までは突破できなかった。
自然法則を無視して、自由自在に姿を見せたり、また姿を消したりした不可思議な40日間の後、時間と永遠の間の、我々にとって不可解なこの躊躇の後、彼はおん父に戻り、今や完全に永遠な存在となった。かつて、神の子がその身体とそれにまつわるすべてのことを地上に残して、純粋な神性に戻ったと教える異端者がいて、それで神に子から世俗性の「汚点」を取り去ろうとしたのである。残念ながら、この教えはキリスト教的なものすべての本質を破壊してしまう。永遠の父のおん子は、神的な真剣さ、つまり取消不能の形で人間となった。人間となるということは、理想的な身体、あるいは一般的に並べ替え可能な身体ではなく、あくまで自らの特定の身体を持つことを意味している。聖ヨハネは、その第一の手紙で書いているには、まさにこういうことである。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネ1・1〜3)
我々の手が触れた「命」や(身体)が、無感受性の形でだけではなく、ジェスチャー、行為、苦しみ、そして運命でもある。主に起こった全てが、彼の復活した身体に明白に現れる。聖書は、特にヨハネ福音書の報告で、目の玉が飛び出るような証しを残している。疑うトマスの箇所でヨハネが描く傷はいかに写実的で、深いものであったかを伺うことができる。トマスが主の命令、「あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい」(ヨハネ20・27)に文字どおり従うことはできたというのは、それを物語っている。イエスの傷は永遠に彼の最も重要な存在に仕方に受け取られた、いわゆるイエスの生涯と運命のバナーである。
イエスの生涯からは何も失われはしない、なぜなら、その生涯で起こったことは、おん父の定めに従って歴史的、時間的行為においてそのみ旨を行う意志の不滅性以外のものはなかったからである。キリストの生涯全体は、永遠に属するものである。その不滅性を示す二つの場面がある。一つは、サンへドリン(最高議会)の前で行われた、助祭ステファノの偉大な証言にある。「彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。」(使徒言行録7・55〜56) このイメージはマルコ福音書(マルコ16・19)にも見られる。これは、後にクレド(使徒信条、およびニケア・コンスタンティノープル信条)に組み込まれた形である。「父の右の座に着いておられる」。もう一つの場面はヘブライ人への手紙にある。この力強い箇所で、真なる大祭司イエスは、新しい契約の血の生贄という捧げ物を携え、おん父の主権の前に歩み、その正義との和解を得るために、「もろもろの天をとおって行かれた」(ヘブ4・14)、つまり時間という中庭を横切り、死の敷居を通って、永遠という至聖所に辿り着いたのである。
時と永遠についての以上の考察をふまえて、イエスが弟子たちに託された記念はどのような意義を持つようになるだろうか。
我々はここで、神の永遠の命と時間における出来事の関連性を明らめるというような試みをしたくない。そのようなことをすれば、両方を混同してしまうだろう。いつか我々は分かるようになるだろう。恩恵の賜物である復活した生命の把握、その「新しい何か」を与えられる時。今、我々にできるのは、贖われた存在という神秘を感じることである、復活に向かって、目線を低くして道を手探りながら。この世では、神の定めは、過ぎ去る出来事の連続で満たされる。しかし、神ご自身は永遠であり、いつもそいであったし、いつまでもそのように在り続ける。神は普遍的な空間でも、特定の空間または地域の両方でも自分自身を実現する。神は存在するのは、純粋な今・ここでである。神は自分自身を表すのは、様々な形、関連、属性である。しかし、神ご自身は、分割できない一体性である。従って、毎時(まいじ)はその内容でもって、神の永遠性に触れている。各地はその内容でもって、神の偏在性に触れている。また、形あるもの、固有性あるものすべてが、神の総括的な単純さの中に見出される。そして、神について真に語られることは、おん父の右の座に座っておられるキリストについても語られる。キリストのこの世での生涯が永遠に吸収されたので、彼の運命によって贖われた全ての地上の時と、取消不能な形で、結ばれている。主のこの世での生涯が
彼が愛する一人一人に直接適用可能であり、従ってあらゆる場所、あらゆる状況に適用できる。キリストを信じる人はいつでも、直接にキリストに触れることができる。それは、神の子としてだけではなく、地上での彼の豊かな贖罪的存在をもった神人との接触である。聖パウロが言うように、すべての信仰者には計り知れない神秘が展開する。「神の右の座に着いて」(コロサイ3・1)おられる「上なる」キリストは、同時に「下なる」信仰者の「内」におられる。幼児期、成熟期、苦しみ、死と復活という、救いをもたらしたキリストの生涯と運命の豊かさ全体が、各自のクリスチャンにおいて新たな形で展開し、そうすることによって本当の不滅の存在を形作るのである。
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原注: 「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4・11-13)参照。
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「生きているのは、もはやわたしではありません、キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2・20)のである。
主を信じるとき、贖いをもたらすキリストのいのちが信じる人のいのちとなるとき、一般的な形で誰にでも起こることは、特殊的な形で、独特な形で、イエスご自身が制定した記念にも起こる。キリストの代表者が、キリストの言葉をパンとぶどう酒の上に話すとき、キリストが永遠から、一定の場と時に現れ、パンとぶどう酒という被造の形式において、彼の救済力全体と共に、生き生きとした存在となる。この世に経験できる事柄のうち、以上の聖なる手順に近づくものはない。可能であるか、不可能であるかは我々から言えるものではない。すべての始まりの始まりであるこの真理を、神の「信仰の神秘」として受け入れる以外は、何も残らない。人間は、真理の呼びかけを受け、それに従い、身を任せ、その思考はそこから新たな出発点を得る。この出発点が与えられ、それを受け入れると無限の可能性の鍵となる。
知性によってこの真理をコンセプトに突き止めてみたり、言葉で表現しようとしたりすると、非常に難儀となる。けれども、事柄自体は難解であろうか。言葉は的外れになりがち。実は、難解というより、神秘的である。この神秘へのアプローチの仕方によって、非常に難儀となり得る。それは、カファルナウムで、イエスの啓示を拒否した人々のような意味で、難しくなる。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6・60)。この難儀さは、新たな出発点に対する反感であり、狭い世界に閉じこもること、真の光から自分自身を遮断すること(ヨハネ1・5-11)を、意味している。正直に理解を求める人であれば、誰でも、表現できなくても真実を感知するであろう。今一度カファルナウムの場面に戻ってみよう。「こういうわけで、わたしはあながたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなかった。そこで、イエスは十二人に、あなたがたも離れて行きたいか、と言われた。シモン・ペトロが答えた。主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6・65〜69)
これは、救出のわざである、理解し尽くさなくても、信じるのである。「信仰の神秘」という文言は、二つの意味を持っている。まず、注意を促している。人間的な価値観を基準に判断すること無かれ。だが、招きでもある。救いをもたらす真理の有り余るほどの豊かさを感じる、あなたも贖われた心を信じなさい、と。
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