Monday, October 24, 2016

29 出会いと祝宴

29 出会いと祝宴


ミサ聖祭の参列者は食卓を囲む共同体のメンバーとなる。ミサの前半では、神のみ言葉を受け取り、それに答えて神の栄光を讃える祈りをささげ、また自分の心配事や関心事を摂理なる御父の御許におく。それから、席から見守りながら、自分自身の捧げ物を携えて聖なる会食の準備に参与する。献金に使われるお金はいかに人間的暖かみが少なくても、より重要である生活での自己贈与の認められた代替である。それから、参列者は司祭とともに御父に向かい、「私は、天から降って来た生きたパンである」(ヨハネ651)とおっしゃった方の臨在を信仰でもって受け入れる。聖体拝領となると、霊において、聖なる糧を差し出す御父の手を見るのである。「いのちを得る」ことができるために、その糧を敬虔に受け取る。しかし、主の晩餐、または祝宴という概念は一人立ちしない。もう一つの概念、キリストの「来臨」とペアになっている。

  霊性を語るために使われる言語には、後者の側面に関しては慣用語句がある。それは、大変シンプルな表現となっている。いたる所に次のような言い方に出くわすことがある。「キリストはミサに存在している」、「聖体拝領においてキリストは自己自身を信者に与える」、「キリストは信者の心に残る」など。このような霊的言語には問題があると主張する人々は、穏健に反省すべきであり、今一度カファルナウムでのキリストの話を読むべきである。約束されるエウカリスティアに関しては主ご自身が、「来る」と「会う」というイメージを使っておられる。実際の食糧、実際の食べ物と飲み物の強調と共に、次のような文言がある。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 (ヨハネ633)。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 わたしは命のパンである。(ヨハネ646-47) 」「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(ヨハネ651)」 「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ657)

   御父の手が差し出す「まことの肉」、「まことの飲み物」はものではなく、一人の方であり、「それ」ではなくて、「彼」である。この方が永遠に誉めたたえられる至上の人格である。したがって、敬虔な信仰者は、食べるとか飲むとか言う言い方は、キリストという聖なる方を少し卑しくするのではないかと、ごく自然に感じる傾向がある。

   聖ヨハネ福音記者は、彼が生きた時代でさえ出始めたたくさんの異端と果てしなく戦わなければならなかった。そのために、基本的な箇所で真理を語る言葉づかいは極めて鋭いものとなっている。福音書のプロローグとなる第1章では、ヨハネは神のひとり子が人となったと言わない。「言が肉となった」(ヨハネ114)という、より強い表現を使っている。エウカリスティアに関しては、共観福音書の表現、「取って食べなさい、これは私のからだ」ではなく、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 」(ヨハネ65456)という言葉を使っている。これは究極の解明であり、それに対して人々ははっきりと決定的な「イエス」か「ノー」を言わなければならない。

カファルナウムでの「ユダヤ人」、「多くの弟子」、またユダの頑固な強情とは全く異なる本物の難しさ、前に言及した難しさが明らかになるのはこの辺りである。ここでは、主の自己奉献は、我々に対する人格同士の関係という純粋さから、物や対象物のレベルに成り下がるという真摯な心配がある。というのは、人格を持った人、とりわけイエス、聖なる一者、主である方が物のように与えたりもらったり、いわゆる持つことができない。人は取り交わされ、交換できるものではない。人格は取り交わされるのではなく、我・汝という関係に入り、自由に人格として自らを与える。

   これが、ミサの固有の第二の概念である。第一は「会食」であり、第二は「出会い」である。両方は、キリスト自身によって幾度となく述べられ、またキリストの言葉からインスピレーションを受けた一般的な霊的表現にも見られる。前者は、「まことのパン」、「食べ物と飲み物」、「世にいのちを与える肉」、後者は、「天から降って来た」、「私のもとへ来る者」というイメージで支えられている。他にも、無数の表現があり、主は我々の間におり、我々とともに、我々の方へ愛をこめてかがめ、我々のうちに住まい、我々と一致するということが述べられている。

   ミサは主キリストの記念である。我々は、このことをできるだけ豊かに、深く理解しようとしてきた。今や、さらに一歩先に進む必要がある。

    「記念(メモリアル)」は、地震とか特に豊か収穫とかではなく、人格を持った人にだけ当てはまる。地震とか収穫は、記憶(remember)することはできよう。記念する場合は、災害の犠牲者とか、秋の豊かな実りを祝福し、それを喜ぶ愛する人たちとかは記念されるだろう。記念はいつも人と関連し、その人との生きた関係を前提としている。本来、記念はすでに存在している我・汝の関係の延長線にある。

  これは、まさにミサ聖祭に現れる。主が我々に残された記念は、あるイベントの単なる記憶でもなければ、偉人の肖像画でもない。キリストとの人格同士の関係、贖い主と信仰者の関係の遂行である。ミサにおいてキリストが自らの全人格の現実を携えて、その救済的運命を帯びてやって来る。彼がやって来るのは、誰であっても構わないと言うわけではなく、自分自身に属する人たちである。この辺りもまた聖ヨハネが、この神秘を特に鋭く捉えている。神のひとり子が天から、おん子のみが知っておられるおん父からやって来る。おん子がおん父のいのちをいきておられる。おん子が持っておられるものすべて、その存在の全てがおん父から、おん父を通してである。しかし、この親密な関係がそこでとどまる事はない。おん父がそのひとり子を人類に派遣し、受けた神的いのちを人々に伝えるために。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ657)

  イエスは人となったときに、天と地の間にある隔たり、おん父と我々の間にある隔たりの上に、一度限り永遠に、橋をかけた。従ってイエスは、我々の仲間であるという意味で、我々と共に「おられる」。隔たりの「こちら側」に「おられる」。「インマヌエル」、つまり来タリシ神である。

  ところが、神秘という特別なやり方で、主の記念が祝われるたびに、主が新たに隔たりを埋めるのである。まず、その日の朗読において、我々は主の言葉を受け取る。それから、奉納が準備され、一区切りとなる。聖変化を通して、理解しきれないほどダイナミックな「記念」の主体として、主が我々のところに来られ、我々のために恵みに満ちた世話をやく。聖体拝領においては、主は我々一人ひとりに近づき、次のようにおっしゃる。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」(黙示録320)「戸口」が、本物の信仰と愛において開けられる限りでは、主が入り、その個人の信仰者のために自らをお与えになる。

   ここまで来て、主が典礼において来られるということの一般的な意味に言及すべきかもしれない。「祝日(feast)」という言葉のキリスト教的意味合いはなんであろうか。立ち止まってこのようなことについて考えようとする場合、我々の時代は一定の究極の神秘性との接触を失ったことを念頭に置く必要がある。我々には皆合理主義、また実証心理学に流される傾向があり、全てを知性や道徳的な面に、あるいは「体験」という主観的レベルに還元しがちである。もし、我々は祝日(例えば、復活の祝日)とは何かと問われたら、おそらく次のようなことを答えるだろう。復活の祝日とは、イエス・キリストの復活を記念する日であり、我々は喜びのうち神を賛美し、信仰と愛に満たされ、主の復活の恵みに与る望みを持ちながら、主を探し求め、主が与えてくださった新しいいのちを生きる決意を立てる時である。

これで、復活の祝日のエッセンスを言い当てたことになるだろうか。そうではない。なぜなら、その核心にある現実に触れていないからである。主の復活は、ただ単に繰り返し記憶されるのではなく、追体験されるそのユニークな祝い方が肝心である。主キリストが実際に、永遠という次元から、我々の時間、我々の間にやって来る。

ーーーー

原注26章で述べたことを参照。

ーーーーーー

キリストがその贖罪的いのち全体の充満をもって、それぞれの時、それぞれの祝い日にやって来る。典礼の暦の流れにそって、神の受肉、ご公現、ご受難、ご復活、ご昇天などのそれぞれの神秘の時にやって来る。彼は、おん父から、聖霊の力において、我々の間にやって来る。

  彼を待つ、彼を求める、彼を受け入れ、光栄を感じ、賛美すること、また彼と共にいること、拝領の親密さに魅(ひ)かれること、これがキリスト教的祝日の意味である。

  ここまで考えると、「祝日」と「出会い」という概念はどれほど結ばれているかをちょっと見え始めるであろう。両者は矛盾することはない、むしろ互いに支え合っている。お互いに誤った偏りや虚言にならないように助け合っている。やって来る人と出会うという概念は、人格の尊厳を守り、晩餐という概念をふさわしくない軽視から守る。聖体拝領は所有物ではなく、本物の我と汝の見つめ合いのように交流である、ということを思い起こさせる。他方、晩餐という概念は、出会いという概念を、把握しきれない聖なる神秘の究極の親密性へと投影させる。人間同士の出会いだと、それはいつも相対的であり、他者を完全に抱擁することはない。いつまでも橋渡しできないこの分離は、被造された愛の(緊急対策を必要とする)事態である。聖体拝領では、この分離の最後の痕跡が消除され、被造物のすべての能力を超える一致への「到達」が保証される。

我々はこの神秘から我々の方へ流れる生命についてもっと知りたいなら、使徒パウロの書簡に目を向ける必要がある。ガラテヤの信徒への手紙にこう書いている人:「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ220)この人は、キリストとの「完全な出会い」、つまり「我々のうちにおられる」キリストの福音記者である。

   前章においては、ミサ聖祭への参加のためには会食、祝宴の我々の概念を生きたものにする必要があると結論づけた。本章では、ミサへの参加には、我々のキリストとの出会いの自覚という構成要素もあるとつけ加えなければならない。キリストはやって来る、この部屋におられる、わたしの方へ目を向けておられる、ここにおられる、という自覚である。耳を傾けて、戸口へのたたきを聞き取る必要がある。我々は、彼の到着、彼の訪問を深く体験する必要がある。それは、感傷的な気分、あるいは感情の高揚なしに、むしろ平易な、落ち着いた信仰において。その信仰は全き真理でもある。

No comments:

Post a Comment