Monday, October 3, 2016

28 自己をささげるキリスト

28 自己をささげるキリスト


本物の理解のために必要なことは二つある。第一は、比較し、区別し、因果関係と相互依存の関連を見分ける能力である。第一は重要であるが、それより重要なのは、教えることのできない、物事の本質に対するある感受性である。この感受性は、危険や好都合に素早く気づく用心深さとは何の関係もない。動物も用心深さを持っている。好奇心とも、未知のものや並外れたことをそれ自体として体験して見たい気持ちとも、同じくらい異なる。

   新しいことを体験したいという渇望は、最も高く見積もっても、本質を求める態度の前身に過ぎない。けれども、多くの場合、それのカリカチュアになってしまい、無関心と同じくらい、本物の悟りを妨げるのである。

    悟りの本当の前提条件は、物事の啓示衝撃に打たれ揺れ動かされる知的(知的次元以上のものもあるが)準備である。それは、しかし、個人的な恐れや欲望の影響のもとであってはならない、なぜなら、その場合志向と目的の範囲を入ってしまうからである。娯楽狙いでもいけない、なぜならこの次元では面白さばかり求められるからである。

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訳注本質を求める態度は、具体的な目的や面白さを超えるものであり、物事それ自体に注意を向けることである。例えば、水は美味しいから、あるいは噴水は面白いからではなくて、なぜ水はH2Oと言われるのかを問うこと。

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いくつかのイメージまたはイメージのパターンの背後に隠された意味に直面して、人間はそれを発見したくなる。そのために、真実が外に出てきてくれるように、出口への道を準備する。

   信仰の世界でも、物事の本質に対する感受性がある。けれども、当然ながら、異なった働きを持っている。信仰の世界では、真実の「誕生」は、つまり承認という光、広がりへの本質の出現は可能となるのは、知性と意味のコンタクトによってではなく、神光の力、すなわち恵みによってである。信仰の真理は、まわりの世界から出現し、それを発見することのできるマインドに直面することはない。地上の対象のように、把握され、測られ、徹底的調べられうるものとして、一切存在しない。信仰の真理は神においてのみ存在し、「与えられる」、神の言葉によって啓示される必要がある。そして、信仰によって受け入れる必要がある。いつも、被造されたマインドを超越する神秘として留まる。

啓示によって表された真理は、この世の延長上にあるのでもなければ、この世の新たな次元でもない。完全にこの世の真実を覆すものである。覆すだけではなく、この世の真実の虚しさを暴くのである。人は信仰の従順において神的真理を受け入れる時、人間的真理を見直すことを余儀なくされる。その際行われる回心は、宇宙観全体を巻き込み、それを完全に新たなものにしなければならない。そうする快諾の程度は、その人の啓発の尺度となる。

   しかし、この激変を通じても自然的理性は有効のまましっかり留まる。なぜならば、啓示において語るロゴスは、天地を創造したロゴスでもあるから。

  従って、人間の真の知識の深さは、彼が受けた神的知識の影響にかかっている。この重大な点は、真理に対する単なる知的承諾よりも、もっと深いところにある。それは、生まれ変わること、または新しく創造されることの辺りにある。

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「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り新しいものが生じた.」(2コリ517; ガラテヤ615参照)

パウロは使っている言葉は、kaine ktisis カイネ・クティシスである。「カイネ」は時間的新しさ、新鮮さではなく、性質の新しさ、質的によりすぐれたことをさす。

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   啓示に直面する20世紀の信仰者は特別な難しさを感じる。我々は遅参者である我々の

世代は、神聖な便りを何回も聞かされている。しかも我々は、読み書きと話を聞くことはありふれたものである時代に住んでいる。言葉や情報の取り引きは止まることを知らない。言って見れば、我々の鋳貨(ちゅうか)が擦り切れ、使い古されて、鋳造力はほとんどなくなった。我々は真実の代わりに、真実のカリカチュアを、認識の代わりに、知ったかぶりを売られている。かなり努力しないと、錯覚から解放されない。解放されないと、立ち止まってゆっくり考えることはできない。情熱を注いで物事の明確な真の真実を探求する必要がある。

  そうすると、我々は神的真実を手に入れることのできないように運命付けられているのだろうか。いえ、決してそうではない。なぜなら真実はすべての時代に通用するはずだから。ところが、我々は本世紀における真実の特定の障害をクリアするために、それらを知り、それらと戦う必要がある。

   とりわけ、我々は平静、瞑想、集中力を学び直す必要がある。これらは本書の別の章で説明し描いてきた。また、習癖の捕らわれから自由になり、致命的な見せかけの認識を捨てなければならない。我々は、はっきりと真実を語ることができるように、我々の言葉を再造幣(ぞうへい)しなければならない。

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