Sunday, April 22, 2012

6 Easter B

復活節第6主日 B
  ヨハネによる福音(15:9-17)

「私が愛したように、あなたがたは互いに愛し合うこと」、これはキリストがもたらした新らしいおきてと言われるものです。新しさとはどこにあるのでしょうか。 旧約聖書にも隣人愛に関するおきてがありました。しかし、それは、キリストが与えられたおきてと比べてみると、だいぶちがいがあります。旧約のレビ記は、隣人愛についてこう記しています。「隣人を自分のように愛せよ」(レビ19・18)。ここでは隣人愛の基準が、「自分」になっているのに対して、ヨハネ福音書では、「キリスト」になっています。つまり、「キリストが愛したように」ということです。じつに、ここに新しさがあるわけです。キリストがわたしたち人間に対して示された心と行動が、・隣人愛の理想としておかれるわけです。
これは、最後の晩さんの時に、とつぜんキリストがいわれたことではなく、山上の説教ですでにふれていることです。
「天の父は、悪人の上にも、善人の上にも、太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれる者を愛したからといって、あなたがたになんの報いがあろうか。徴税人でさえもそうするではないか。また自分の兄弟だけに.あいさつしたからといってなにかとくべつのことをしたのだろうか。異邦人でさえもそうするではないか。だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・45~48)。「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とは、その脈絡から、隣人愛についていっているのは明らかです。天の父が人びとを愛し、つつみ、働きかけていくのと同じような、愛の完全さを、キリストは人びとに求めているわけです。「キリストが愛したように」「神が愛するように」人びとを愛する。

考えてみれば、これほど、たいへんなことはありません。わたしたち人間にはとうていできないことです。わたしたちは、神と異なって、エゴイストです。自分の心のどこかにかならず、自分を優先する心が生きているものです。他の人のことよりも、自分の望み、自分の生活を先に考えてしまいます。
これがわたしたちの真実な姿です。 たとえ、他人の幸せを考え、働きかけることがあるとしても、どれほどの真実な心をこめたものかわかりません。さまざまな打算や下心があり、たとえそれが愛ということばで表現できるものだとしても、多少ともきたなく、よごれたものです。真実で純粋な愛からは、はるかにかけ離れた、カのない弱々しいものです。
しかし、キリストは、わたしたちの汚れ、わたしたちの弱々しさを十分承知しながら、理想を高くかかげられたのです。そこに福音のすばらしさがあります。キリストはわたしたちの現実、わたしたちの罪ある婆を、わたしたち以上に知りながら、それに妥協せず、高い理想をわたしたちに与えていらっしゃるのです。

高い理想、それは、たしかにわたしたちの力では実現不可能なことです。しかし、「神にはおできにならないことはない」のです。神の恵みによってなら、可能なことなのです。ですから、まず、わたしたちは、高い理想をしっかりとみつめるべきです。自分には不可能だからといって、あきらめたらなにもなりません。それこそ、不信仰といわれるものかもしれません。理想を捨てたクリスチャンは本当に哀れなものです。不可能なことこそ、しっかりと自覚しながら、けれど、恵みによってかならず可能となるという確信が必要です。そうしてこそ、私たちは、自分の泥沼、自分の弱さからぬけだせるのです。そうでなければ、救いがないということになります。(森)

では、なぜキリストがこんなに高い理想を掲げたのでしょうか。理由は11節にあります。 「私がこのようなことを話したのは、私の喜びがあなた方の中にあり、あなた方の喜びが満たされるためなのです。」(ヨハネ15・11)
私たちはいつも、自分の喜びを求めています。しかしめったに、喜びに満たされることはありません。喜びがあっても、それは非常にはかないものです。それは私たちの求める喜びが、往々にして人から期待するもの、ないし奪ってくるものだからでしょう。自分が喜んでも、だれかが迷惑しているのなら、それは本当の喜びとは言えないでしょう。私たちはどうしても、他の人の喜びよりも自分の喜びを優先したいのです。しかしそれでは、満たされる喜びにはけっしてならないでしょう。イエス様は「私の喜びがあなた方の中にあり、あなた方の喜びが満たされるように」と言います。イエス様は私たちの喜びを奪うのではなく、ご自分の喜びを与えてくださるのです。私たちは自分の喜びより、イエス様の喜びを求めなければなりません。そうでなければ、私たちの喜びは満たされません。

本当の喜びは人から奪うものではなく、与えるものだからです。与えることによって、私の喜びは満たされるのです。私たちの求める喜びが、けっして満たされることがないのは、私が「私の」喜びを求めるからでしょう。しかしイエス様は、「私の」喜びがあなたたちの中にあり、「あなたたちの」喜びが満たされるように、と言います。つまり私が「私の」喜びを求めるのではなく、イエス様の「私の」喜びを受ける時、私の喜びが満たされるのです。

では、イエス様の言う「私の喜び」とは何でしょう。奪われることのない喜びとは、それは第一に、御父から愛されている喜びでしょう。これは、けっして失われることのない喜びです。御父から確実に愛され、その愛に包まれていることを信じ、知ることです。そして感謝することです。どんなに御父の愛が信じられない時も、御父から見捨てられたとつらく感じる時も、御父が私を捨てるはずがないと確信することなのです。イエス様も十字架の上で、神から完全に捨てられたと感じた時も、なお御父を信じ、愛し続けられたのです。

ですから第二は、御父を信じ、愛せる喜びでしょう。十字架上のイエス様の苦しみを支えていたのは、このゆるぎない喜びだったでしょう。たとえ神から捨てられたとしても、私は父を信じ、愛しきります、という喜ぴです。この喜びもまた、だれも奪い去ることができません。これこそ真に宗教(信仰)的な喜びです。

私たちには、人間的な喜びがあります。おいしいものを食べたり、親しい人と会ったり、願ったものが得られた時などです。また同時に、人間的な悲しみもあります。失敗したり、人間関係のトラブルで悩んだり、解決できないジレンマにはさまれたりした時です。しかしキリスト(信仰)的な喜びは、そのどちらにも浸透します。人間的な喜びの中にもキリストの喜びが満ちており、人間的な悲しみの中にも、キリストの喜びが満ちているのです。つまりどちらにも含まれ、その二つの矛盾したものを止揚する(結んでたかめる)絶対的な喜びなのです。御父に愛され、イエス様に愛され、イエス様を愛し、御父を愛し、隣人と互いに愛し合う喜びこそ、イエス様が与えてくださる喜びの源なのです。(静)

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