Sunday, October 14, 2012
29 per annum B
年間29主日B
【マコ10:35ー45】
今日の福音には、ヤコブとヨハネの情けなさが描かれています。私がまず感じるのは、聖書にはかなり弟子たちの情けない姿が描かれていること。ここにまず感銘を受けます。
ヨハネはヨハネ福音と黙示録を書いた使徒です。ヤコブと共にイエス様の変容や、最後の晩餐の後、ゲツセマネでのイエス様の最後の晩餐の後の祈りにも呼ばれた、イエス様が最も愛し、最もそばにいて欲しかった弟子たちです。そのヤコブとヨハネが他の弟子たちを差し置いて、こっそりと高い身分をイエス様にあらかじめ求めたというのですから、本当に意外な話に思えます。
イエス様はこのすぐ前に、三度も自ら十字架にかかって死ぬことを告白していました。ところがその後、ヤコブとヨハネはこの世で天下を取ったときに、特別の地位につけてくださいと願うのです。本当に何も分かっていないし、タイミングも悪い。
しかしまた、そのヤコブとヨハネが、最も信頼されるキリストの使徒として活躍していた、まさにそのときにこそ聖書が形作られていった。その際、このような恥ずかしい逸話を消し去ることを求めなかった二人の態度にも敬服(けいふく)します。
考えてみれば聖書に書かれていることすべてが、情けない使徒たちの記録でもあります。しかしその弟子たちが、情けないまま終わらず、最後にはなぜか殉教の死を選ぶほどに変わったこと。これも事実です。それこそが、逆に、イエス様の復活を初めとする聖書の記載の真実性を否応なく高めています。このヤコブは43年頃ヘロデ・アグリッパ王により殺され、ヨハネも迫害と流刑を体験します。
ヤコブとヨハネの情けなさ。しかしそれにもかかわらず、聖書に自らの醜態(しゅうたい、ぶざま)を書くのを許し、そしてついに殉教するまでになっていった生き方。聖書の真実性。これがまず第一に感銘を受けた点です。
◇さらに感じたこと。私たちは、ヤコブとヨハネのように重要な地位を求めるほど野心家でもなければ力もないかもしれない。でも他の使徒と同じように、イエス様が十字架を予告しているその最中にあっても、そんな中でも、同じように、出し抜こうとしたヤコブとヨハネを見たなら、きっと同じように嫉妬心にかられ、腹を立て、仲間割れしてしまったろう。自分もそのようなつまらない人間でしかないということ。仕える心、自分をすべて捧げ尽くす心、そういう心に欠けた、自分の心の狭さに気づくはずです。それに第二に気づいていきます。
◇しかしさらにまた深く読んでいると、気づきます。自分は野心家のヤコブやヨハネのようではないと思っていたけれど、しかし同じようにやはり自分も、やはり報いを求めて生活している、それは絶対否定できないだろうということです。ただ惨めなまま、誰からも理解されないまま終わることなど望んでいない。自分も結局はヤコブとヨハネと同じで、同じように、大きな報いをもらいたいと野心を持っている。しかしそんな自分にさえ気づかない、そのような人間でしかないと言うことに第三に気づきます。
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使徒たちは12人だったが、その中で一人が裏切り者ユダがいました。単純な計算をすると、弟子の中で8.3%が裏切り者でした。ペトロも肝心な時にイエスを裏切ったと言えるでしょう。合わせると16.6%になります。ヨハネとヤコブが野心家で出世思考で、16.6%で、合わせて、弟子の33,2%は裏切り者や野心家だったと言えるでしょう。残りの60何%は、少なくとも、ヤキモチをやく、嫉妬をする連中でした。
現在はどうでしょう。使徒たちの後継者である司教はどうでしょう。教皇ベネディクト16世は、司教を叙階するたびに、出世のために司教になるのはよくないとか、支配するために、権力をふるうためになるのではない、というふうにしょっちゅう警告しておられることから判断すると、やはり現在でも同じような問題があるといえるでしょう。つまり、現在の司教の中(全世界で5000人ほどいますが)で、16.6%は裏切り者で、16,6%は野心家、ほかに嫉妬する人間がいる、ということになります。(最近、カトリック新聞などマスコミでも取沙汰されたが、パパ様の執事[しつじ]が、内部の秘密文書を盗んで外部に流したという事件がありました。おそらく、パパ様を困らせたい人々がいると専門家は分析しています)。神父はというと、まぁおそらく大して変わらない比率でしょう。信徒はどうでしょうか。その中で良い子ぶっている人いるでしょうし、涼しい顔をしているひとも多いでしょうが、ヴェールをはがしてしまえば、結局同じ現実があるでしょう。ただ、認めたくないだけ。信者でない方が教会に近づくと、ほとんどの場合は、そこにややこしい人間関係を感じるとよく言います。つまり、ベネディクト16世は繰り返しおっしゃっているように、教会は一般の人々に、信仰へのアクセスを提供する使命もったものですが、現実には、教会自体は信仰へ近づきたい人々への最大の邪魔になっている。
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そういう私たちという人間に、イエス様は言うわけです。「あなたは何を願っているのか。私の杯を飲むことができるのか」。
「報い、それを私・イエスは約束しない」。これはきわめて突き放した言い方に聞こえます。しかしそこにこそキリスト者の生き方があるのです。報いを求め、天国に入るため生きるというのではない。ただ神の子イエス様がそのようにしたから、自分もそれに倣って生きていく。仕えるものとして、自らを献げ物として生きていく。その生き方を生涯をかけて全うしたとき、神様からの恵みとして、結果として何かいただけることもある。そういうことです。そうでなければ簡単には「従います」とは言えなくなります。失望します。いやになります。
しかしまさにそのことを十分理解し、失望した上で、「それでも従う」と本当に言えるとき。そこにこそキリスト者としての生き方、イエス様の十字架の道に従う道が開けてくる。そこからキリスト者としての本当の生き方が始まるのです。
私自身、まだスタート地点に立ったばかりのような気もします。しかし確かにイエス様がそういう方であったことを確信するとき、あの憶病で弱虫のまったく頼りない使徒たちが結局はやり遂げたことを思うときに、「きっとできる」とも思います。
聖書というのは、立派なイエス様のことばかり書いてあるのではなく、確かにそういう弱点ばかり持った使徒たちが私たちを励ますための書、と言えるからです。
その励ましは第二朗読に示されているとおりです。
「大祭司・イエスは、弱さに同情できない方ではなく、あらゆる点において、同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくため、大胆に恵みの座に近づこう」(ヘブ4:15f)。
(5) マルコは生き方全体から死だけを切り離して、そこに意味があるというのではなく、イエスの死を「仕える」というイエスの生き方の頂点として示しています。このことは大切です。だからこそ、マルコはイエスのなさったこと一つ一つをていねいに伝え、わたしたちがその生き方をしっかり見つめるように促しているのだ、と言えるでしょう。
「仕える」「僕になる」という生き方は、現代では流行(はや)らない生き方でしょうか。わたしたちの社会は、「人は皆、平等であり、皆、上昇志向があり、だから競争に勝つことが大切で、結局勝った者が得をする」という社会だと言えるかもしれないからです。イエスはそのような考え方、生き方に挑戦してきます。「仕える者になる」「僕になる」という生き方の中にこそ、もっと豊かな神とのつながり、人とのつながりがあるのだ・・・。わたしたちはこのイエスの言葉をどのように生きることができるのでしょうか?
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