Monday, October 15, 2012
31 per annum B
年間31主日 B
【マコ12:28ー34】
われわれが愛について学ぶのは、愛されて始めて、愛する事を学ぶ事ができるのであります。子供は親から愛を一杯受けて、人を愛する事を学んでいくのであります。親から自分が全面的に受け入れられ、肯定され、愛されている事が身体ごとでわかって、子供は始めて自分で自分を受け入れることができ、そして自分から解放され、他人をも愛せるようになるのではないでしょうか。ですから、親とかそれに代わる人から、愛されないで育った子供はどこか不安定で、ゆがんだ形で、愛を執拗に求めるようになるのではないでしょうか。あるがままの自分が誰かによって、赦され、しっかりと受け入れられていないと、われわれは自分で自分を受け入れることは難しいのであります。
それは「主なるわたしたちの神はただひとりの主である」という前置きであります。神は唯一の神である、神はひとりしか存在しないという事であります。それはわれわれが神を選べないという事であります。日本のように、やおろずの神、たくさんの神様がいるという信仰に立つならば、こちらで自分の都合で神を選べるわけです。商売繁盛の場合にはこの神、受験の時は、これといって自分の都合で選べるわけです。しかし神はただひとりしかいないという事は、こちらで神を選ぶ事はできない。むしろこの神様に自分が選んでもらわなくてはならないのであります。少なくともこちらが主体になって、どちらの神様がいいかと選べるわけにはいかないという事であります。ただひとりの人を愛するという事は何か品物をどれにしようかと、とっかえひっかえして選ぶという事はできないと いう事であります。
神をただひとりのかたとして愛するというのは、こちらが自分勝手に選ぶのではない、選べるのではないという事であります。最初はこちらが選んだつもりかも知れませんが、そのうちに神の愛がわかり、自分が愛するかたはこのかた以外にないという事が分かると、自分が神を選んだのではなく、神様の方で自分を選んでいただいたのだという事がわかってくるのであります。その時に自分の都合で、自分の好き勝手で神を愛するのてばなく、この神に仕えていく、相手が主人なのであって、その主人に奴隷が仕えるようにして、誠意をつくして、仕えていく、そういう愛を注ぐようになるという事であります。
年間第9木
マルコ12:28b-34
神を愛することなしに、本当に人を愛することはできるか
ヨハネ第一の手紙4:7にこのように書かれています。“愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。”
愛は神から出るものだ、と書かれています。「神様を信じなくても、キリストを知らなくても隣人を愛することができる」と思う人がいます。しかし人間の感情というものほどうつろいやすく、また勝手なものはありません。最近、マスコミでよく取り上げられている問題の一つとして、「家庭内暴力」、つまり夫婦同士、あるいは親子同士で起こる暴力、がある。それを見ると、今ものすごく愛した人を、次の瞬間には殺してやりたいほど憎む、という
ことがあるのです。神様を愛して、キリストさまを愛して、愛をいただかなければ、隣人を愛することができないのです。
私たちに対してイヤなことを言ったりしたりする人、さらに私たちのことを憎んだり、悪口を言ったりする人を愛することは難しいのです。私たちは、私たちの悪口を言う人がいれば、その10倍の悪口を言いふらしたくなるものです。ですから、私たちに対して悪口を言ったり、イヤなことを言う人を
愛することはほんとうに難しいのです。
だいたい、ふつうはそんな人を愛そうなどとは思いません。私たちの悪口を言ったりする人がいれば、逆に10倍の悪口を言いふらして、あとは関わらないようにするでしょう。だから、そんな人を愛そうなどとは決して思わないことでしょう。しかしなぜ、そんな人を愛そうとすることになるかと言えば、それはただ、神さまが、そしてイエスさまが、「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃっておられるからという他はありません。神さまが、イエスさまがそう命じておられるから、私たちは初めて、イヤな人でも愛する、ということを考えざるをえなくなるのです。そして、その難しさに頭を抱(かか)え、愛することのできない自分を発見するのです。
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「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
私たちが普通「愛」ということを考えるとき、それは心で愛するものだと考えます。つまり、ハートの問題であって、頭の問題だとはあまり考えないような気がします。むしろ頭だけで愛することは、心のこもらない愛のようにも思えます。
心(カルディア)をつくし、というのは心のときめき、心臓の鼓動(こどう)[脈拍(みゃくはく)]を通してといういみでしょう。精神(プシケー)をつくし、とは魂の底、人間の存在の根底からという意味でしょう。力(イスキュオス)をつくし、とは日常の具体的な行動で表現して、という意味でしょう。思い(ディアノイア、知性)をつくしとは、頭脳を傾けて、知性を総動員してという意味でしょう。心と知性は自転車の車輪、魂は車の原動力、力は行動で実際に車が走ることを表しています。
この四つの能力をつねに回転させておくことは、ボケないためにも大切なことです。愛することはイエス様が考えてくださった、私たちのボケ対策かもしれません。
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