Wednesday, November 21, 2012
3 advent C
待降節第3主日 C
ルカ3:10ー18
待降節も第三週に入ります。今日は喜びの主日と呼ばれ、世の救い主がまもなく、この世に来て下さる、その喜びを表す日です。今日読まれるフィリピの教会への手紙に、「常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリ4:4)と喜ぶことを教えています。ふつう喜びとか賛美の心は自ずからわきあがるものです。そしてこういう気持ちでいられるとき、確かに人は幸せでいられます。でもいつもいつもそのような心でいられるとは限りません。いや、むしろそうでないことの方が多いでしょう。自分の思っていることがかなわない、仕事や人間関係はうまく行かないとき、突然の事故で親しい人が亡くなったとき、そのような中でも、喜びや賛美の心を持ち続けることは難しいです。
「喜び」は命令されて出てくるものではありません。喜びがあるときに自然にわき上がるものです。しかしパウロは命じられました。あなたは喜びなさい。重ねて言う。喜べと。この手紙も、パウロ自身が牢獄に閉じ込められている中で書いたものです。パウロは、喜び、感謝、賛美の心は決して自然にわき上がるものだけではない。与えられるものでもない。自らが作り出し、発見していくもの。
キリスト者の務めは喜ぶこと、そして感謝することに対し、感受性を高めることにあると、教えているようです。
イエス様はご自分に従おうとする者に、こうあらかじめ言っています。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタ5:12)。 またイエス様は十字架を前にした最後の夜、こう祈りました。「今、私はみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」(ヨハ17:13)。
死に渡される最後の夜、「私の喜び」と言ってのけたイエス様の喜びとは一体どのようなものだったのでしょう。その夜イエス様は血の汗が出るほど苦しんだはずでした。これから先に起こる弟子と群衆の裏切り、十字架の苦しみ、母マリアとの別れ。
できるならこんな苦しみは取り除いて下さいと願うほどの苦しみでした。でもこんな苦しみの中でも、絶望的な、迫害を前にしても、イエス様は喜びを感じ取ることができたのです。
それは父なる神様への感謝の心を思い起こすことができたからだと思います。どんな絶望的な中でも、それでもすべてのことを結局は、良いように導く神様。父のみ旨を果たす喜び。父なる神への感謝の気持ち。それらを思い起こすことができたのです。それができたとき、イエス様は自身の苦しみを、神様から与えられたものとして、喜びをもって受け入れることができたのだと思います。
いろんな苦しみを人間は体験するものです。しかしあの苦しみの時が、一番の恵みの時だった、自分のために確かになった。そう後で分かることがあったのではないでしょうか。 私たちはこのイエス様を模範にして、どんなとき、苦しいときにも、わずかでも喜びを感じ取り、すべてのことの背後におられる神様へ感謝することが大切です。
たとえば突然の地震や事故を体験すると、人は言うものです。神様がいるなら、どうしてそのような悪を止めなかったのか。しかし同じように言う人はほとんど、地震のない日常、事故のない電車に乗り合わせるとき、それは当たり前と思い、感謝する心を起こしません。
カール・バルトと言う人は強盗にあったときに、次のように感謝したそうです。 今まで強盗に会わなかったことに感謝します。取られたのが金であって命でなかった。命は大丈夫だったことに感謝します。すべてのものを奪われたがそれほどではなかったことに感謝します。私が盗む側でなかったことに感謝します、と。
間もなくイエス様がこの世にお生まれになります。洗礼者ヨハネも、自分はイエス様の先駆けでしかないこと、自分が衰えて行くしかないことを知っていました。しかしイエス様の栄光が高まる結果なら、それでよしとしました。名誉、地位にとらわれず、自分の命を惜しみなく捧げていく。洗礼者ヨハネもまた神様のみ旨に、従順に生き抜いて、自分の喜びと神様への感謝をしっかりと知っていた人でした。
「キリストに倣って」という本では、この世の喜びにとらわれることなく、神様をしっかり見つめて、こう祈っています。
「主よ、もしあなたが、私を暗黒(暗闇)の中に置こうとお思いなら、私はあなたを讃美します。
もし私を光の中に置こうとお思いなら、同様に、あなたを讃美します。
もしあなたが、私を慰めて下さろうとお思いならば、あなたを讃美します。
また、もし私を苦悩にあわせようとお思いならば、同様にあなたを讃美します」
私たちも、いろんな苦しみの中でも、賛美する、感謝する心を忘れないようにしたいと思います。moseos
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「馬小屋が人生の学びやである(…)。この馬小屋で、私たちはまことの喜びの秘訣を学ぶことができるからです。まことの喜びとは、多くのものを所有することではありません。むしろそれは、主が愛してくださっていることを感じ、他の人のために自分をささげ、愛し合うことのうちにあります。馬小屋に目を向けたいと思います。聖母と聖ヨセフはそれほど幸せな家族だったとは思われません。二人は最初の子をたいへんな困難のただ中で受けとめました。それでも二人は深い喜びに満たされました。なぜなら、二人は互いに愛し合い、助け合っていたからです。何よりも、自分たちの現実の中で神が働いておられることを確信していたからです。神は小さなイエスのうちにご自身を示してくださったのです。羊飼いたちはどうでしょうか。羊飼いたちはなぜ喜んだでしょうか。いうまでもなく、みどりごは彼らの貧しさや除(の)け者にされた境遇を変えてくれるわけではありません。けれども、彼らは信仰の助けによって、「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」のうちに、「しるし」を見いだすことができました。すなわち、神は、「み心にかなう」すべての人のために、また羊飼いたちのためにも、ご自分の約束を実現してくださったという「しるし」です(ルカ2・12,14)。
(…)ここにまことの喜びがあります。まことの喜びとは、私たちの個人また共同体としての生活が大いなる神秘の訪れを受け、この神秘で満たされていると感じることです。大いなる神秘とは、神の愛の神秘です。私たちは喜ぶために、ものだけではなく、愛と真理を必要とします。私たちは近くにおられる神を必要としています。(…)この神が、おとめマリアから生まれたイエスのうちに示されました。だから、私たちが馬小屋や降誕の洞窟の中に飾る「幼子」は、万物また世界の中心なのです。」(ベネディクト16世、『霊的講話 2009年』、380頁以下、一部変化)
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ヨハネが悔い改めを迫った時に、群衆が「それではわたしたちは何をすればよいのですか」と、尋ねた時に、ヨハネはきわめて具体的、現実的な答えをするのです。「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい。」といい、取税人に対しても「きまっている以上に取り立ててはいけない。」といい、兵士に対しても「人をおどしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足しなさい」と、きわめて当たり前、現実的なことを勧めるのです。悔い改めるということはこういうことです。
何か悔い改めるといいますと、今までの生活をがらりと変えることだ、全財産を投げ出して、出家することだとはいわないのです。そういう悔い改めをして、全国に講演旅行することが悔い改めではないのです。そんな悔い改めをしたら、自分はこんなに劇的な悔い改めをしたのだと悔い改めた自分を見つめてばかりいて、そうしてやがて悔い改めた自分を自慢話のネタにするのです。それは悔い改めさせてくれた神よりも、悔い改めた自分を宣伝するようになるのではないかと思います。http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke5.htm
洗礼者ヨハネの生き方は、「自分の立場をわきまえる」ことでした。洗礼者ヨハネは、それぞれの立場の人びとから、さまざまな質問を浴びせられています。それらの問いかけに対して、洗礼者ヨハネは無理のない分かち合いを進めています。決して大それたことではなく、毎日の生活のなかで身近に行うことのできる振る舞いを大切にするよう呼びかけています。民衆は、洗礼者ヨハネの生き方を眺めて、「救い主が来た」という感触を得て、よろこびつつ騒ぎ立てました。しかし、洗礼者ヨハネは、「自分の役割をわきまえていた」のです。自分を宣伝し、威張り散らしがちな世の中の人びととはまったく異なった謙虚な生き方が洗礼者ヨハネの魅力です。
しかし洗礼者ヨハネは、自分はメシアではない。偉くなんかない。イエス様こそメシアで神の子だから偉いと、率直に語りました。「自分はただの人。イエス様の履物をお脱がせする価値もない。イエス様こそメシアなのだ」と言ったのです。
有名な指揮者レオーナード・バーンシュタインは、管弦楽団で一番難しいパートを問われて、第2ヴァイオリンと答えました。けっして目立って音を奏でる第1バイオリンではなく、かと言え技量も同じものを持ちながら、それでも第一ヴァイオリンを引き立たせる第2ヴァイオリンの役こそ、一番難しいと言ったわけです。 考えてみれば私たちは誰も第二バイオリニストです。第一ヴァイオリンであるイエス様を引き立たせるための。そうでなく自分が何よりも目立とうとするときに、いろんな誤りが起こってきます。 また私たちはすぐ自分のすることの実りを求めます。しかし働かせてくださるのは神である主です。主が働いて実りをもたらしてくださることを信じ、実を結ばないように思えるときも、自分のすることを地道にしていく忍耐を持てます。Moseos
今日の三つの朗読は、イエス・キリストの特徴を見事に言い表しています。イエス御自身は直接に登場していませんが、その特徴がうきぼりにされているのです。イエスの特徴とは、確実に私たちを救ってくださること、まことのよろこびに迎え入れてくださること、謙虚に仕える者として私たちを支え励ましてくださることです。
私たち自身の生き方とイエスの生き方とを比べてみると、まったく逆の現実が見えてきます。私たちの場合は、相手を確実には救えない、にせのよろこびのなかで自分勝手に生きている、傲慢にも相手を従えて利用しようと、もくろんでいる。反省させられます。同時に、主イエスに助けを求めて回心していきたいと願います。主よ、あなたに従う真実の喜びに入ることができるよう、自分の小ささを謙虚に受け入れる恵みを与えてください。sese06
生活の中での愛の実践。生活の具体的な場でのやさしさ、おもいやり、いたわり。それを救い主イエスと出会う最高の準備として、もう一度真剣に考えなおしてみたいものです。
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